静かな夜だった。
 ちなみに夜、とわたしが認識できたのは、窓の外の空の暗さや、夜気のせいではなくて、単純に壁にかけられた無機質な事務時計が12時過ぎを指していたからだ。
 ちらちら時計を眺めるたびにうわあこんな時間になっちゃった、というのがわたしの正直な感想で、だから10時過ぎにはもうげんなりしていたし、11時を過ぎて12時を回ったときには、げんなりを通り越して涙目だった。

「局長ぉぉぉ……も、も、もうきょ、きょ、今日は勘弁してくだ、くださいぃぃぃぃ」
 机にへばってわたしが泣きごとを言うと、すこし離れたところに座っていたマクスウェルがものすごく呆れた顔でこっちを見る。片眉をあげて、いまにもはあ? って声が聞こえてきそうだった。
 彼はわたしが報告書を訂正する間、ずっと机に積み上げられているファイルを開いて書類に目を通していた。その量たるや、わたしがいまやっつけている何倍も、何十倍も積み上げられていて、これが限りのあるものなら、それでもいっとき頑張れば終わるのだから、よし、じゃあやってやろうかいっていう気にもなるとは思うけれど、なにしろ毎日毎日次から次へその山は追加されてゆく。いやになるっていうよりはもう断崖絶壁の絶望レヴェルだ。賽の河原の石積み、じゃないけど、それにそっくりだと思う。際限がない。本当にない。
 わたしだったら頭がおかしくなって、積んでいるファイル全部根こそぎなぎ倒して、床にころがって奇声をあげながら手足をばたばたするかもしれない。本当にそんなレヴェルで、それをこのひとは毎日平気な顔をして席につき、黙々こなしているっていうのが、わたしにはもう信じられない。頭大丈夫って思う。破裂しないのって。
 でももしかするとマクスウェルは、そうして仕事をしているのが一番落ち着くのかもしれない。


 前に一度、出張先の空港で、出発予定の飛行機にエンジンの不備があったとかで、延々と五、六時間待たされたことがあった。どこか、空港近くのホテルを取って休むには短く、でもじっと待ってるには結構長くて退屈な時間だった。
 空港なんだから、ラウンジで待てばいいのではという話なんだけれど、いつも経費かつかつしかおりてこない十三課に、有料のラウンジを人数分借りる経費はおりそうになくて、なにしろ移動の際の座席だって、司祭クラスじゃなきゃエコノミーで頑張るしかないのだ。
 エコノミーと言えば、平均サイズのわたしだって、三時間越えの飛行機移動はお尻ががちがちに固まってしまうのに、背が高くて幅のあるアンデルセン先生とか、本当に大変だと思う。でもお金がないのだからしようがない。
 あのエコノミーのひどく幅狭い座席に、一生懸命体を縮めるようにして、先生がちんまり座ってたりするものだから、同行任務のときにそんな姿を見ると、申し訳ないけどちょっと笑ってしまう。
 でも先生は、そうした不便で窮屈な空の旅でも、不満とか文句を言わない。すくなくてもわたしは聞いたことがない。ぜったい息苦しくてたまらないはずなのに、そういうところはすごいなって思う。苦痛に強いひとなのかな。

 話がすこし逸れてしまった。その空港に缶詰めになったとき、その場にいたのはわたしと、マクスウェルと、それからハインケルと、アンデルセン先生と、あと、ど忘れしちゃったけど、七課か八課の課長もいたと思う。現地視察とかで、うちの十三課のマクスウェルとそこの課長で、なんやらわたしたち三人の実働部の評価をするらしかった。実際評価するのはその七課だか八課の課長で、うちの上司は実質接待役だ。
 評価されることはもちろんマクスウェルは否としないけれど、値踏みをされるのはとても嫌いだと言うことをわたしは知っている。そのときその何某がうちの局長に向けていたのは、明らかに値踏みの方の視線だった。
 だからものすごく局長の機嫌は悪かった。
 もちろん、愛想というか外面作るのがめちゃくちゃ上手なひとだったから、あからさまにその何某課長に当てこするみたいなことはしないんだけど、ほんのちょっとした、たとえば足を組み替えるしぐさだとか、咳払いの音なんかが、いつもより二割増し取り繕ったおきれいなもので、これは後から揺り返しが怖いなと、わたしは思ったりしたのだった。

 待つあいだの五、六時間、先生は空港の安っぽいプラスティックの椅子に腰かけて、静かに外を眺めていた。ときどきは手を組んで、うつらうつらもしていたと思う。
 わたしとハインケルは、たまたま機内持ち込みのトランクに入ってたトランプをしていた。トランプひとつで、五、六時間つぶせるもんなのかって疑われるかもしれないけど、人間ってすごいもので、もうそれしかやることがなかったら、わりと熱中できるものだ。もうずっと賭けないポーカーと大富豪やってた。
 五時間以上やってたとか、今考えると結構狂気だなって思う。
 一応誘ったけれど、先生は遠慮しますって言うし、何某課長だけ、ラウンジに案内して、戻ってきたマクスウェルは椅子に座っていた。何某課長がいなくなって、愛想で取り繕わなくてよくなったので、明らかにマクスウェルは低気圧になっていて、売店で買ったうすいコーヒーを飲みながら、案内板を眺めたり、発着掲示板を見たり、新聞を広げたりして落ち着きがなかった。
 もうちっとも、じっとしていることができなくて、ひたすらいらいらしていて、そのときわたしは、このひとは自由に与えられた時間を消費するのが、とてもへたなひとなのだなと思ったのだ。
 決められたやることがあると安心するひと。それがたとえ一人の人間がとてもこなせないような膨大な量でも、それをやっているあいだは、他のことを考えなくてすむから、ただの大きな駆動機を回すねじの一本でしかなくていいから、無意識にそんなふうに思っているんじゃないかなって思っている。


 十三課機関室に残っているのは、わたしとマクスウェルのふたりだけだった。日付が変わってる時間帯だったし、とくだん喫緊の作戦任務もなかったから、他の局員はみんな定時であがっていた。
 ハインケルも最初、残業になるわたしに付き合うよ、って言ってくれていたのだけれど、二時間ほど待って、手持ちのたばこが切れたあたりで、いいから先に上がってとわたしが言ったのだ。
 もしこれが部屋にわたしひとりとかだったのなら、わたしもいてほしかったし、たぶん最後まで付き合ってくれたのだろうけど、局室にはマクスウェルがいたし、彼が、俺が最後まで面倒を見るぞとハインケルに言ったので、じゃあ、と言ってアッパルタメントに先に帰ったのだった。たぶん今ごろは遅い、とか言いながら、深夜の、どうでもいい昔のラブロマンス映画でも垂れ流しながら、銃の手入れをしているんじゃあないかしら。
 床の上に置いた重たいガラス鉢みたいな灰皿が、たぶんもうみっしりなっているにちがいないのだ。
 その様子が目に浮かぶようだった。

 泣きついたわたしを眼鏡のむこうから見たマクスウェルは、一瞬口をつぐんですこし首を傾げ、考えるふうになった。たぶん、わたしが甘えてゴネているだけか、それとも結構ぎりぎりになっているか、その見極めをしていたんだと思う。そうして片眉をあげ、肩をすくめて、
「――わかった。今日は終いだ、」
 そう言った。
 こういうマクスウェルの、なんかこっちのことを考えてるときの、首をかしげてちょっと困った顔の仕草って計算でやっているのかな。見るたびに気になるんだけれど、ものすごくずるいと思う。
 たとえば任務で不手際やらかして、帰ってきてがみがみ怒られている時だって、説教し終えたあとに一拍間をおいて、それから最後にしようがないな、みたいな顔をされると、なんだか今までの不満が全部ちゃらになるような気がする。ああもうこのひとほんっと厭味で嫌なやつ、もう言うことなんか聞いてやらないもんねーみたいに、怒られてるときは思っていたはずなのに、最後にそうして優しいような悲しいような顔をほんの少し見せられると、あ、うわ、って思って、そうしていつの間にか自分の中のさっきまであったほんっと嫌なやつ、がどこかに行ってしまっているのだ。
 たぶんこれはわたしだけじゃなくて、十三課のどの局員にも言えることなんじゃないかな。だからこのひとは、言い方に険はあるし、性格的にいろいろ難があったりしてるにもかかわらず、局員から嫌われていない。上司だからって言うだけじゃなくて、きちんと一目置かれているし、みんなサポートすることも厭わない。
 それって結構すごいことだと思う。


 残りはまた明日、マクスウェルが見られる時間に見てくれることになった。よろよろと立ち上がったわたしに待て、と彼が制止をかける。かけながら左手は机の上の据え置きの受話器を持っていた。
 どこに電話するのかな。ようやく解放されてほっとしたのもあって、わたしがぼんやり見ていると、彼は電話口のむこうに出た相手と、ああ私だ、とか言ったあと、二言、三言、なにかやりとりをして、すぐに受話器を元に戻した。そうして放心しかけているわたしの方を見て、
「送らせるからそれまで待て。」
 そう言った。
 送り、わたしが彼の言葉をくり返すと、そうだとマクスウェルは頷く。
「お、送らせるって、わ、わた、わたし、」
「――ひとりで帰れるから大丈夫だとか言うなよ。お前は女だろ。」
「え、え、で、でも、でも、」
 こういう時けっこう困る。普段は地雷が埋まっていたり、銃弾飛び交う紛争地帯にだって任務の二文字でぽんと抛りこんだりするくせに、こういう、なんでもないときだけ、女あつかいしたりするのって本当に困る。
 ありがとうって言ったらいいのか、そうされて当然って思ったらいいのかもよくわからない。
 いつだったか昔、どこかの枢機卿の姪御さんだとかが彼にエスコートされて、一発で落ちた。表立ってはどうと言うこともなかったけど、水面下でちょっとした騒ぎになった。
 たぶんマクスウェルは、この国の男性ならみんなするはずの、通り一遍な対応をしただけだとは思う。でも、なにしろ顔が顔だし、接待用の猫をかぶっているので、誤解されたらしい。
 最初はたしか熱烈なラブレターを何通も何通も受け取って、一応慇懃なお返事差し上げていたようなのだけれど、じきにうんざりした彼に当たり散らされた。一般の人ならそこで諦めないといけない状況だったけど、彼女は枢機卿の姪御さんなわけだから、ツテだのコネだの最大限利用したらしい。そうして手を回され、上部からじきじきのお達しがきたりして、マクスウェルも無視するわけにはいかなくなった。何度か食事も一緒にしただとか言っていたし、最終的には出待ちされたらしい。
 ――お前、考えられるか? 居住区の裏口出たらそこに彼女がいたんだぞ?
 わたしにまで愚痴ったくらいだから、たぶんものすごくびっくりしたんだと思う。これがローマ市内の借り上げ住宅に住んでいるとかだったら、そこに押しかけられていたのかもしれない。
 さいわい、と言っていいのかわからないけど、さいわい彼は情報秘匿の義務があったから、ローマ市内ではなく、ヴァチカンの居住区内の一室に寝起きしている。している、といっても、わたしも話に聞いただけだし、いったいどこの部屋なのかまでは知らない。知らないし、知ろうかなとはあまり思わない。呼ばれたこともない。彼は、そういう自分のテリトリーに踏み込まれることをものすごく嫌うからだ。
 踏み込まれるのがきらいなひとが、自室ではないと言え、ヴァチカンの居住区にまで他人が押しかけてきたらどうなるかだなんて、そんなの、火を見るより明らかだ。とりあえず彼は仕事を山に埋もれるようにして、その彼女があきらめるまで、自室に帰らなかった。どこで寝ていたのか、外回りが多いわたしはよく知らない。でも、部屋ではなくてどこか器具倉庫とか、文書室とか、そんなところで仮眠していたのだと思う。
 そもそもの原因は、生まれ持った彼の顔で、彼の女の人にする態度ではなかったのだから、それはすこしは気の毒だとも思ったけれど、でも誤解されるような隙を見せた彼も、ちょっとは悪いのかもしれない。
 とりあえず、もうすこし、自分の顔が周りに与える影響について自覚を持った方がいい。

 ところで、わたしのことを迎えにくるのは誰なのかなと気になった。彼がさっき電話してた相手。詰め所の警備員とかじゃないと思うけど、誰なんだろう。
 なにしろ真夜中のヴァチカンはもう静まりかえっていて、残っているのは、わたしたちを含めても僅かというところじゃないのかなって思った。たぶん、石の聖人たちの方が圧倒的に多い。
「きょ、局長、おく、送らせるって、」
「ぅん?」
「ハ、ハインケル?」
「いや。彼はもうアッパルタメントに戻ってるんだろ? 休んでいるのにわざわざ呼び戻すのも気の毒だ。時間もかかる。」
「じゃ、じゃあ、」
 いったい誰がとたずねるわたしへ、
「……アンデルセンだ」
 マクスウェルは眼鏡を外し、眉間を揉みながら言った。
「え、」
「ちょうど市内にいたのでな。大通りのあたりにいるらしい。本来なら、俺が送っていくのが筋なんだろうが、俺はまだ仕事が残ってる。」
 いやいやいや。
 マクスウェルに突っ込みを入れる怖いもの知らずな勇気があったのなら、わたしはそのとき入れてみたかった。万年寝不足のマクスウェルを、わざわざわたしの部屋まで送らせるなんて、上司と部下の関係除いたって、もうなんていうかとんでもないと思った。
 彼がわたしを女性あつかいしてくれて、気にかけてくれることは大変ありがたいと思うけれど、思うけれど、でも、やっぱりとんでもない。お気持ちだけありがたく頂いておきますが結構です。
 だってもうわたしを送るくらいなら、一分でも長く寝てほしい。
 このひとは十三課を束ねる大事な結束材だ。この結束材はもろくて細くてすぐ切れてしまいそうに見えるけど、それがなければ十三課の個性的な面々はばらばら散らばってしまうくらい大事なものだ。そう思った。
 それに、いまわたしはさらっと聞き流しそうになったけど、まだ仕事が残っているとか言ったよねって。え、日付変わってて、わたしはとうに音を上げたのに、このひとまだ仕事するのって思った。震えてしまいそうだ。どんだけ仕事に人生ささげてるの。
 でも、捧げてるわけじゃないのかな。


 とりあえず上まで送る、気晴らしにもなるとマクスウェルが言って、わたしたちは並んで部屋を出た。
 十三課の機関室はヴァチカンの地下にある。続いている廊下も地下だ。だからこのあたりの区画は、年中温度が一定していて、暑さ寒さがあまり感じられない。設備は相当古いもので、換気装置もガタガタ言うばかりで半分効いているのかいないのか、でもそこで仕事をしている彼が窒息死していないのだから、一応回っていると言うことになる。
 無機質な廊下だった。言ってみればただの筒なのだ。
 これが一般オフィスの廊下なら、たとえば窓なんかがついていて、見る見ない関係なしに外の景色が眺めれちゃったりするのだろうけれど、地下なのだからもちろん窓もない。かといって壁を飾る一枚の絵もない。
 なにも無いと言っても、これが宇宙船の通路みたいな、近未来的な筒だったら、またなにも無いのが情緒的と言えなくもないけど、ヴァチカンのここは、ところどころ地下水なのかなんなのか、黄色く変色した壁紙の染みがあるだけの、蛍光灯に照らされた、うら寂しい廊下だった。
 うら寂しいと言えば、この廊下の壁一枚向こう側には、ご遺体が埋まっている。ヴァチカンの地下に死者の町がある、というのは、たぶん観光ガイドにも載っているから、みんな知ってる有名な話だと思うけれど、つまりはたくさんのご遺体が埋まっている昔の墓地だ。
 その墓地を縫うようにして、この廊下や秘匿機関の部屋は設置されている。だからもしかすると、この何となしにひんやり冷えているような空気の何割かは、遺骸から発せられているものも混じっているのかもしれない。
 死者が、動いて生きている人間を食い散らかしている現場に赴くことも多いわたしは、だからべつに幽霊が怖いとか、祟りがどうのか信じていない。でも、ここを通るたびになんでか、うわーこんなところで年中仕事とか勘弁、みたいな思いが胸に湧く。わたしは湧くのだけれど、隣のマクスウェルはどうなんだろう。平気なんだろうか。
 三百六十五日のほとんどを、この穴倉で過ごして、遺骸から発せられる臭気を吸って、吐いてしている彼に、すこし聞いてみたい気もした。


「……さっむ、」
 通路を進んで、重たいばかみたいに大きな扉を押して外に出る。外と言っても厳密にいえば屋外ではなくて、サンピエトロ聖堂のすみっこのあたりに出る通路を今回は使った。十三課は秘匿機関と名付けられているだけあって、ヴァチカンのあちこちに通じる通路を持っているのだけれど、ここを選んだ理由としては、やってくるアンデルセン先生と待ち合わせがしやすかったからかなと思う。
 あたり前のことだけど、聖堂内は閑散として、人影はなかった。
 まあ、もし仮に今誰かがいるとしたら、不審者か見回りの警備員くらいしかいないんだけれど。そこに現れたってことは、わたしたちも不審者ってことになる。
 わたしがちら、と半歩後ろからやってくるマクスウェルを見ると、その視線の意味を正しく理解した彼がふんと鼻を鳴らして、俺がいるから大丈夫だと言った。
 ここに出たのがわたしひとりだったら、たぶんすぐに監視カメラを確認した警備員がすっ飛んできたに違いない。場合によったら、誰何さえされずに取り押さえられる可能性だってある。
 でも今は後ろをマクスウェルが歩いている。いうなれば顔パスだ。
 ああそうか、だから彼はここまで付いてきてくれたんだ。わたしは遅れてそのことに気が付いた。
 気晴らしをしたいからだとか、肩をほぐすだとか、そういう適当な理由を言って、だけど騒ぎにならないようにきちんと対処している。同時に色んなことに気が回るひとなんだなと思う。百遍生まれ直したって、わたしはそんなふうになれそうにない。
 感心してしまう。
 感心しながら、両手を体に押し付けるようにしてわたしは身震いした。まだわりと秋も初めで、本格的な冬の寒さは来ていないはずなのに、寒暖のない地下の空気になれてしまうと、外気が涼しいというよりはもう寒い。
 わたしは結構寒いのが苦手だった。暑いのならいくらでも平気で、もちろんだらだら汗はかくけれど着替えてしまえばどうと言うことはない。でも、寒さはなんだか体の表面を撫ぜるようにして空にあたたかさを持っていってしまうから、物理的に体が冷えるというのもあるけど、気持ちまでなんだかすっと冷たくなってしまうような気がするからだ。
 寒いと手のひらが痒くなる。手のひらを爪でぼりぼりやりながら、わたしはこのひとは寒くないのかなってマクスウェルを見た。
 言ったように、わたしは寒がりだったから、もう朝晩涼しくなってきた気温に合わせて、肌着を一枚重ねて着ていたり、綿じゃなくて毛ものの混じっているやつにしたりしていた。でも彼は、基本的に地下に一日缶詰でいるのだから、朝晩の涼しさなんてあまり関係がない。しかもわたしは、帰り遅くなることを見越して持ってきた外套があったけれど、送りがてら外に出た彼はシャツとベストだけだった。もう絶対寒いと思う。
 だのにマクスウェルはまったく震えていなくて、わたしは結構びっくりした。心頭滅却すれば、だとかいう言葉があるけど、意志の力で寒さをこらえるとかできるのかなって思った。
 蝋燭も消えて、今は非常灯しかないからあまりはっきり見えないけれど、よくよく見たら耳元の産毛のあたりとか細かな毛がぶわ、って立っているように思う。だのに身震いひとつしていない。

「……あ、み、見てくださいよ、きょく、局長。」

 そんなどうでもいいことを考えているうちに、視界の端になにか白いものが入って、わたしはそちらに目を移した。目を移し、それからすこし近づいてわあ、という声が出る。
 祭壇の上に軽くたたまれてあったのは、生成り色のレースだった。とても長いものだ。イタリアと言えばヴェネチアレースだけど、わたしはレースにまったく詳しくない。手編みだとか機械編みだとかそんな言葉を知ってるくらいだ。でもその置いてあったものは、一見しただけで、ものすごく手間とお金がかかっていそうなもの、というのだけはよくわかった。
 どうしてこんなところに置いてあるんだろう。
 わたしの声に、同じように視線を流したマクスウェルが、祭壇の上を見止め、ああ、と小さく声をあげ、今日、何組か結婚式があったらしいしなと言った。
「うちにも通達が来ていた。午前十時から午後三時までは、立ち入り禁止とかな。」
「け、結婚式、」
「そう。やってたらしいぞ。許可を得るのに数年かかっただとか言っていたが、そんなもん、近所の教会であげてりゃあいいんだ。祝福なんてどこで受けたって同じだろうに。」
 もう一度ふんと鼻を鳴らしてマクスウェルは言った。それが建前でなく、心底そう思っている口調だったので、わたしはすこし笑う。
 年のうち、そう多くはないのだけれどここでも結婚式が執り行われる。数組、多いときは十数組、いちどきに行われて、たしかにね、カトリック総本山で挙げたいという気持ちもわからなくはないけど、そうして挙げているひとたちにはちょっと申し訳ないのだけれど、こんな、せっかくの晴れの日を、団体さんで挙げなくても、と思わないでもない。
 でも地方の、マクスウェルの言うところの近所の教会とは違って、聖歌隊だって一団並んでいたりするのだから、舞台装置としての荘厳さというか、格調高さは、まあ、結構、見ものではある。
「じゃ、じゃあこれ、わ、忘れ物かな」
「そうなんだろうな。」
 言ってマクスウェルが、その置忘れのヴェールを手に取った。するする広げて、いったいどうするつもりなんだろうとわたしが見ていると、ほら、だとか言って、彼が急にこちらを向き、頭上にうすい透かし模様のオーガンジィを広げる。わたしは一瞬わっとなって目をつぶりそうになったけれど、上から降ってくるやわらかな雨は、まるで音もなくふんわり落ちて、
「似合う。」
 こっちをみて、悪戯そうな顔をした彼がくつくつと笑った。
 その彼の顔が、蜻蛉の翅のような薄い紗幕越しに見える。えーこのひとこんなことするんだっていうのが、そのときのわたしの素直な感想だった。小難しい顔をして机にかじりついているのが常態、みたいになっているけど、こうして見ると子供っぽい。
「持って帰って、ハインケルにも見せてみろよ。」
 あいつ絶対びっくりするぞ、そんなことを言っている。想像してわたしはすこし照れてしまった。ぽかんとしたあとに似合う、と言ってくれるだろうハインケルの顔が容易に想像できたからだ。でもそれは、あくまでも想像であって、
「そ、そ、そんなことできない。」
 わたしは慌てて首をふる。
「――どうしてだ? 持って行って、明日の朝いちばんに戻しておけば、バレやしない。何も問題はないだろ。」
 そんな悪魔のささやきをしれっと勧めてくる。体裁のいい機関じゃない自覚はあるけど、一応司教でしょう、司教としてそれってどうなの。そんなの口にしちゃっていいの。
 わたしはもう一度、慌てて首をふった。
「よ、汚したり、やぶ、破いたら困るし、ぜ、ぜった、絶対、煙草の煙つく。」
「……ああそうか、煙か、」
 においはちょっと困るなあと言って、またマクスウェルが肩を揺らして笑った。こんな時間まで、わたしの始末書に付き合わせたにしては機嫌がいい。
 わたしもしばらく一緒になって笑って、それから目の前の、その機嫌がいいらしい彼の横顔をじっと見た。彼はいま、わたしにヴェールをかぶせたあとは向こうの、非常口の緑の灯りを眺めていた。
 それでつい、わたしにも悪戯心がわいた。やったらたぶん怒られるだろうなっていうのはわかっていた。でも、やったら怒られるってわかっていて、そこで本当にとどまることができたなら、きっと歴史上の様々な出来事は、半分くらい起こってないんじゃないかって思う。エバだって知恵の実に手を出さなかったはずだ。
 だからわたしはえいって心の中で勢いをつけて、わたしに頭からかぶせられていたレースの長くて広い生地を、抱き込むような形でマクスウェルの頭上に広げてかぶせる。
「え、」
 きっとまったく予測してなかった頭上からの襲撃に、ぎょっとなった彼が身構えたそこへ、さっきわたしがされたように、やわらかに広がったヴェールが彼を包み込む。一瞬目をつぶったらしい彼が、おそるおそる目を開き、自分が何をされたかを理解して、由美江、お前なあ、と呆れた声を出した。
「俺に広げてどうするんだよ。」
 そう言った。
 そういえば、彼はわたしとハインケルに対してだけ、自分のことを俺って言う。どれだけ仕事で有用な局員にも、長年傍でサポートしているひとたちにも、決して言わない。懇親会とかで、酒をしこたま飲まされた時でもその口調は間違えない。
 つまりそれって、わたしたちに他のひとたちよりもほんの少しだけ、気を許してくれているのかなって思ったりする。

 そんなことを思って眺めていると、肩でひとつ息を吐き、彼はこちらを軽く睨む。けれどどういうわけか、本当に機嫌がいいようだった。睨んだ目に、ほとんど険が見当たらなかったからだ。
 そうしてにらまれたわたしと言えば、その目にほとんど険がなかったにもかかわらず、しばらく固まってぽかんとマクスウェルを見つめてしまった。ぽかんというより、ぽっかーんくらいだったかもしれない。それくらいわたしの頭は真っ白だった。いやちょっとこれシャレにならなかったわって、その言葉だけがぐるぐる、ぐるぐる頭の中を回る。


 生成り色の、オーガンジィの総レースのヴェールをかぶったマクスウェルは、なんというかとんでもなかった。わたしに語彙力がないのがちょっと悔やまれる。なんかもっと劇的な表現ができればよかったんだけど、でもとにかくとんでもない。聖堂のそっちに目をやるのはさすがに控えたけど、ピエタのマリアそっくりなのだ。
 たぶん、あ、マリア、だとかわたしが呟いたら、聡いマクスウェルはわたしが言いたい意図を正しく理解して、せっかく上機嫌なところをたちまち雷になるかもしれなかった。
 だからわたしは、うっかり失言しないようにただ口を閉じて――ぽかーんしてたわけだから、開いていたけど――マクスウェルをじろじろ眺めた。
 いやでも本当にこれは同じ人間という種なんでしょうか。盛りすぎでなく純粋に思う。

 わたしは修道女という神にすべてをささげる道を選んでから、もちろん自分が誰かと結婚して家庭を持つだとかいう幻想はどこかへ抛り投げてしまったけれど、でもささげたと言うこととは別次元で、きれいなものも、かわいいものも好きだ。だから、結婚式で花嫁さんが被るヴェールにはいろんな形やら名前やらがあるのもちょっとは知っていて、たとえば顔の前に短めにかぶせて、花婿さんがめくる形のヴェールや、わた帽子みたいにふんわりやわらかに盛り上がるヴェールだとか、結婚情報誌を手に取る機会があると、そんなものを眺めて、わあ素敵だなあって思ったりもする。
 自分が被るか被らないかとかじゃなくて、かわいいものは純粋にかわいい。
 その、いろいろな形や長さがあるうちのひとつがマリアヴェールというものなんだけれど、つまりは聖母マリアさまがつけていらしたような、こう頭にすっとかぶせる形のヴェールってことになる。
 そうして、これを言ったら大変失礼な話になるかもしれないけど、これね、マリアヴェールに関しては、似合うひとと似合わないひとっていうのが明確に分かれるのだ。その分岐点ってなんなのって言うと、つまり美人かそうでないかって話になるんだけれど、その条件において、目の前の彼は完璧すぎた。
 えーもうこれモデルでしょ。モデルさんでしょ。
 普段からマクスウェルはきれいな顔をしている。それはハインケルみたいにちょっと中性的なものじゃなくて、もっと男性よりの、はっきりとしたきれいさだ。背丈もある。
 でも、じゃあ男らしいのかっていうと説明がむずかしい。男くささとはいちばん遠縁のような気がするから。
 その、男であることに変わりはないのに美しいひとが、頭からヴェールをかぶるとこんなにも凶器になるとは思わなかった。心臓に悪いです。
 さっき同じ人間という種なのって思ったけど、人間を組成している成分ってほとんど変わりはないと思う。ものすごく蛋白が偏っているとか、ものすごくアミノ酸が多いとか、そんなことはないはずで、だから例えると同じ小麦という素材を使って、麦粥ができるか、スポンジケーキができるかの違いってことになる。
 目の前のひとは、言うなら三ツ星レストランのオーナーシェフが作ったデコレーションケーキみたいなもので、ところでわたしは彼をケーキに喩えたけど、おいしそうって意味じゃあない。
 おいしそう、って言うとちょっと意味合い変わってくるでしょ。
 さっきも言ったように、マリアヴェールっていうのは、マリアさまがつけていらした形と似ているからマリアヴェールという名前がついているのだけれど、そういう点では、いま彼は、文字通りマリアヴェールなのだった。
 そうして今が深夜でよかったと思った。これが観光客のいる日中の聖堂だったり、好きものの信者が集まるミサだったりすると、ものすごく厄介なことになると思う。厄介というか、危険というか、言葉選びが難しいけれど。
 その、おそらく自分自身のそうした危うさ、みたいなものにまるで無自覚なひとが、どう見たってわたしよりよっぽど似合うヴェールかぶって、しかもあまりにわたしが唖然と見ていたものだから、最初はこっちを睨んでいた目がだんだんおや、といぶかしむものになり、それからこいついったいどうしたんだろう的な、きょとんとしたものに変わっていって、最後にはあの、首をかしげてこちらをうかがう顔になった。
 そうするとヴェール越しに見えるからなのか、普段よりものすごくあどけない顔に見えて、なんだかとてもどきどきする。あどけないとか、自分より年上の相手に対して使う言葉じゃあないけど、そう見えてしまったのだからしようがないのだ。
 なんか大丈夫? って。そんな無防備な顔、わたしに見せても何も出ないよって。


 なんとなく、わたしとマクスウェルの間に流れていた微妙な空気を、そのときかたん、と小さな物音が切り分けた。
とても小さな音だった。こんな深夜の、誰もいない聖堂の中でなければ聞き落としてしまうほど小さな音。
 ぱっと目をやると、緑色の非常灯に照らされた戸口のところに、静かに立つ大きな体が見えた。アンデルセン先生だ。
こちらを見ていることはわかったけれど、先生がどんな顔をしているかまではわからなかった。なにしろ暗い聖堂の中だったし、唯一と言っていい非常灯を背にしていたので、先生の顔は闇に沈んでいる。
 でもわたしは、誰か第三者が現れてくれたことにほっとしていた。あのままだとどうしたって、きれいですねって口走ってしまいそうだったから。口走ったら、不機嫌になるに決まってる。
 アンデルセン先生は、一瞬、ヴェールに隠れたマクスウェルとわたしを見比べるようにして、それからいったいどうしましたと言った。静かだったけど、ちょっと面白がっているような声にも聞こえてわたしはあれってなる。普段、あまりそんな声を出すようなひとではなかったからだ。

「由美江を部屋まで送れと呼ばれたと思っていたのですが、パーティの余興の間違いでしたか。」
「ばか言うな。」
 むっとしたようにマクスウェルが答える。そうして舌打ちをしながら、かぶせたヴェールをさっさと取ってしまった。わたしはあ、もったいない、だとか思ってちょっと残念な気持ちでそれを眺める。なんとなくもうすこし見ていたかったような気がした。

 一瞬、間が生まれる。
 そのとき、眺めていたアンデルセン先生が一体何を考えていたのか、わたしにはわからない。

 先生はつかつかと大またでマクスウェルに近づいた。長身の彼より、さらに先生は頭ひとつ分大きかったから、そんなふうに急にぐっと距離を詰められると、マクスウェルは先生を見上げる形になる。
 それは普段先生があまりしないような動きだった。先生は自分が十分大きいのを理解していて、だから動くときも予測的というか、ここにこう動くとこうなる、みたいな計算している動きをしているとわたしは思っていて、それがとてもきれいで好きだった。無駄にがさつな動きをしないのだった。だからそういうふうに、ずいと踏み込む先生はとても珍しいと思う。
 そうして、マクスウェルが無造作に脱ぎ去ったレースの生地を、これは花嫁さんの大事なものでしょう、大事に取り扱ってくださらないと、なんて言って、先生は腰をかがめて拾い上げ、

「――は、」

 マクスウェルの口から、そうして眺めていたわたしの口からも、同じような間抜けな音が漏れたと思う。声というより呼吸音だった。
 拾い上げたヴェールは畳むか、丸められるか、どちらかの動きになるとわたしも彼も思っていて、だからそれはそれは奇想天外な、予測不能な行動だったのだ。

 先生は拾ったヴェールを広げて、もう一度マクスウェルを覆った。

 わたしはさっき、ぽかんとしてマクスウェルを見たって言ったけど、ぽかんと言うなら、今の彼の表情がまさにそれなんじゃないかと思った。人間って、びっくりしすぎると咄嗟に何も反応できなくなるっていうけど、本当だ。
「――……似合う。」
 そうして、さっき彼が言ったのと同じ言葉を、今度は先生が口にした。相変わらずの暗がりだったし、先生はこちらに背を向ける位置にいたから、わたしからは先生の顔は見えない。でも、びっくりしたまま見上げるマクスウェルの表情はよく見えた。

 マクスウェルは怒らなかった。値踏みされるのと同じくらい、からかわれることが嫌いなひとだったから、即座に反応して烈火のごとく怒り狂うかと思ったのに、彼はまったく無反応だった。
 自分を見下ろした先生の顔を仰いだまま完全に固まって、しばらくのあいだ先生の顔をヴェール越しに穴が開くほど眺めていた。
「……蛹だな。」
 低い声で先生が言った。その声にほんの少し笑いが含まれているように聞こえて、だとしたら先生はいま、見えないけれど笑っているのだ。
 それから先生はおもむろに手を伸ばし、その自分が掛けたヴェールの上から、マクスウェルの顔をなぞる。相変わらず脳停止しているらしい彼は、されるがままだった。
 親指の腹で彼に触れ、それから先生はマクスウェルの耳元に屈みこみ、二言、三言、何か囁いた。とても短い言葉だったと思う。わたしにはよく聞こえなかったけれど、用件というよりは、単語とか、名前とか、聖句とか、そんなぐらいの短さのように思えた。
 わたしはそれを見た瞬間、どういうわけかあ、となって、なんだかとても気恥ずかしくなってしまった。暗くてよかった。明るい光源があったら、顔が赤いのがわかってしまう。
 屈みこんで彼に囁いたアンデルセン先生の親しさ、みたいなものを、わたしは知らない。
 そうして、囁かれた彼は、それまで以上に目を見開いて、次になにか言いたそうに口を数度開いたり閉じたりする。それは彼が遅ればせながら怒ろうかどうしようか、悩んでいる仕草に見えた。
 結局彼は怒らなかった。タイミングを逸したのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。わたしにはわからない。
 そうして最終的に、ヴェール越しのマクスウェルは、向かいに立つ先生に向かって片眉をあげ、しようがないなという顔をして、諦めたように笑う。その笑いはとても無防備だった。さっきわたしに向けたあどけない顔より、ずっとずっときれいだった。

 それからふとわたしの存在を思い出したように彼はこちらへ目を移し、
「由美江が待っている。送ってやれ。」
 そう言った。
 わたしは急に思い出してもらえてありがたいやら、なんだか場の空気を読めていないようで気まずいやらで、
「お、お、お願いします。」
 ぺこんと先生に頭を下げた。
 先生が頷き、振り向いて、そうしてこちらに向かってゆっくり歩いてくる。その大きな肩の向こうで、マクスウェルがヴェールを脱いでくるくるとまとめていた。
「行きましょうか、」
 近づいた先生がわたしに言う。はい、と返事をしてマクスウェルに合図し、わたしは先生と肩を並べて聖堂の非常口から外へ出る。

「……おやすみ。」

 後ろから彼の声が聞こえてわたしはもう一度振り向く。見送ったあと、彼は局室にもどるのだろう。あの、饐えた死体のにおいの充満する地下にこもって仕事をするのだ。
 振り向き、軽く手をあげた彼に黙礼してまた前へ向き直りながら、そういえばどうしてアンデルセン先生はここに来たんだろうと、わたしははじめて気になった。
 ちょうど市内にいるから、そんなふうに彼は言った。大通りのあたりにいるらしい。
 ……ちょうど。ちょうどってなんだ。
 わたしは最初市内のことを、ローマ市内だと思って聞き流していて、でもよくよく考えたら、ローマ市内のフェルディナントルークス院からここは、わたしとハインケルが住むアッパルタメントよりも距離があるのだ。しかもこんな夜中に、ローマの大通りを任務もないのに先生が歩く? 明日の朝いちばんから子供たちの世話があるのに?
 そうして、先生がここにくるのにそう時間はかからなかったのだ。だから市内というのはローマ市内のことじゃなくて、ヴァチカン市内のことだ。
 でも、どうしてヴァチカン市内にいたんだろう。
 再生儀礼の定期点検のためにヴァチカンにいたのじゃないかとちょっと思ったけれど、でもすぐちがうと思った。点検はつい先週終わったはずだった。どうして知っているかというと、点検でヴァチカン内にいたとき、わたしは先生と食堂ですれ違ったからだ。
 それに、臨時で追加点検するのなら建物内、医務局に近いところだとか、すくなくても居住区内にいると思う。人気のない、深夜のヴァチカンの一般区域にいる理由なんてない。
 わたしたちイスカリオテの武装神父隊に所属する人間は、いつなんどき召集がかかるかしれない。だから普段は自宅だとか、教会だとか、自分の居所がわかる場所にいるか、もしくは別の場所に移動するときは一報入れるというのが、原則としてある。絶対義務じゃないけれど、そうして連絡のつかない場所に行って、連絡が取れなかったときのマクスウェルの怒気を考えたら、ひと手間かけていた方がずっと気が楽だ。
 つまりアンデルセン先生は、点検でないなにか別の用事があって、フェルディナントルークス院から個人的にヴァチカン市内へやってきていて、しかも十三課エリアやその他別課のどこも訪れることなく、一応上司に自分の居場所は伝えていたものの、真夜中の大通りをぶらついていたと言うことになる。
 なんとなしに続けてわたしは、マクスウェルが不思議に機嫌がよかったことを思い出した。わたしがあれだけやらかしても、腹を立てて怒鳴ることがなかった。それって普通じゃありえないことだった。いつもなら絶対雷が落ちてておかしくない状況だった。
 ……でも、それってどういうことなんだろう。
 わからない。けれど、アンデルセン先生がヴァチカン市内にいたことと、マクスウェルの機嫌がよかったことはなんとなく繋がっているような気がした。

 隣を歩く先生にちら、と目をやる。視線をやったわたしに敏く先生は気が付いて、こちらを見てどうしました、と言った。
「……な、なんでもな、ないです。」
 いつもハインケルからあんたは鈍いのが持ち味だよね、だとか言われているわたしだけど、面と向かって、先生なんの用事で近くにいたんですかとは聞けない。さすがに聞けない。
 聞いてはいけない気がした。
「……もうすぐナターレですねぇ、」
 あたふたしているわたしに気を使ってくれたのか、先生があたりさわりのない話を振ってくれた。そうですね、とわたしがぶんぶん縦に首を振って同意すると、その動きが面白かったのか、先生は低く忍び笑いを漏らす。
「院では今年も小さなパーティを開きますからね、もしよかったら、ハインケルも連れていらっしゃい。」
「わあ、い、いいんですか。」
「いいですとも。子供たちも喜びますよ。」
 すくわれた思いでわたしはほっとし、いつの間にかがちがちにこわばっていた肩の力を抜こうとした。なんだろう。あとひとつ、なにかのパズルのピースがぱちんと嵌まったら、今のこの、わたしの中の釈然としない思いが、きれいに整理整頓されそうな気もするんだけれど。
 肩を抜こうとして先生に笑い返し、そうしてふっといつもの先生に何かひとつ足りない気がしてわたしは内心首をひねり、

 ――……あ。

 あらためてぎくっとなる。それからその内心の動揺を、とにかく先生にだけは気付かれないようにしようと思って、急いで前を向いた。声を出したらあからさまにうろたえているのがわかると思って、口をぎゅっとつぐんで急ぎ足で歩く。寒いし遅いから早く帰りたいわたしに見えているといいなと思う。
 ちょうど街灯と街灯の間だったから、そんなにおかしい挙動ではなかったと思うけれど、できれば先生に伝わらなければいいなと思った。
 アンデルセン先生に足りないもの、いつもの先生に何かひとつ足りない違和感、それは先生が常なら首から胸に提げている十字架だった。
 先生の胸元に十字架がなかった。朝起きて夜寝るときだって先生は外していなかった。わたしは孤児院の時から知っている。
 今、先生は着けていなかった。たとえば結んでいた紐が切れたのかもしれない。くすみに気づいて磨こうとして外したまま忘れたとか、そうした理由なのかもしれない。でも、そう思おうとしながら、わたしはまったくその「かもしれない」を信じていないことに気が付いた。
 先生は十字架を今、身に着けていないことを自分で知っている。わかっている。忘れたわけじゃない。
 でも、それってどういうことなんだろう。十字架を外さないと駄目なことって何かあるのかな。余計に聞けないと思った。
 とにかく早く部屋へ帰ろうと思った、口をひらいたらいろいろボロを出しそうだ。
 隣を歩くアンデルセン先生が、わたしの様子を見て何を考えていたかは知らない。先生もわたしに倣えしたのか、とくにそれ以上口を利かなかった。
 石畳の意志のでこぼこした表だけを睨みながら、わたしは早く早く、と念じながら必死になって歩いた。

 寒さはいつの間にか忘れていた。

 

 

 

 

最終更新:2020年10月14日 00:22