裏路地をのぞいたのは、ほんとうに偶然だったのだ。
べつに、何か物音がしたというのじゃあなかった。猫が慌てて逃げていったとか、気配のようなものを感じただとか、そういうものでもない。ましてや、俺が教会に属する神僕だったから、なにがしか勘、だとかいうやつに触れたというのでもない。
ほんとうにたまたま、細い道と細い道の交差した辻のところで、おやこっちは突き当りだったかな、そのくらいの注意で、俺はのぞいたに過ぎなかったのだ。
このところ、大きな任務らしい任務もなく、またヴァチカンの公式行事とやらもまだ少し先だった。ぽっかり空いた、とまでは言わなくとも、四、五日ほど定時で帰れるという、奇跡のような日が続いた。事務局員がものすごくびっくりした顔で、大丈夫ですか、我々はほんとうに帰ってもいいのですかと俺に直にたしかめに来るぐらい、ちょっと珍しい週だった。
局員みな定時で帰して、俺はひとり機関室に残った。積んだまま後回しにしていたファイルがまだいくらかあったからだ。
けれど、常なら次々に追加され、増えていく一方のそれも、今回に限ってはお代わりの気配はなく、俺が片付ければ片づけた分だけ確実に減った。
ファイルの山が次第に減ってゆくと、おかしなことに俺は妙に尻座りが悪くなる。積まれて雪崩を起こしてくれた方が安心するのだと気づいて、自分でもだいぶ壊れているなと思った。
仕事にやりがいだの、生きがいを感じているわけでは決してない。どちらかと言えば俺は押しつけられる尻ぬぐいが嫌で嫌で仕方がないのに、それが減るのは不安なのだ。背反している。
用済みだと判断されるのが、俺はきっと一番に怖いのだった。
そうしたわけで、片付けた分だけ減ってゆく現象を一旦止めようと思った。だったら手を付けなければいい。俺は局室を出て外の空気を吸いに行くことにする。
最初は居住区の中庭あたりで一服して戻ろうと思っていたのだけれど、二日前の雨にまだ湿気るベンチに腰を下ろし、煙草をくわえたところで、上からひら、とひとひら葉が落ちてくることに気が付いた。黄色く色づいた葉だった。手のひらのかたちをしていた。
ああそうか、もうそんな季節かと俺は頭上に目をやり、枝いっぱいに黄色くなった銀杏の木を見上げた。中庭に一本植わっているのだった。そうして、俺が抛りこまれたフェルディナントルークス院の外周にも、何本か植わっていた木だった。銀杏の葉を見ると、あの孤児院を思いだす。
剪定され、背高のっぽににょきにょき上に伸びた木は、秋になると黄色く色づいた葉を、風もないのにばらばらと落とした。その葉はわりあいしっかりしていて、落ちるときに屋根に当たると、はたはたと音が聞こえるほどだ。
どこか荒く漉いた紙のようでもあったから、手紙、だとか言って、その平らな部分に文字を書くやつらもいた。
……あんたもなんか書けば。そのころ、やたらちょっかいを出してくる高学年の女生徒が、俺にそう言って銀杏の葉とペンを差し出したが、俺は黙って首を振ってことわった。
だって、手紙なんだろう? 差し出す相手がいないのに、なにを書けというんだ? そう思って笑えた。
あの女子は、きっと俺に手紙を勧めたかったのではなかったのだろうなと思う。俺の注意を引きたかったのだ。長じた今になって理解するが、当時はよく判らなくて、どうしていちいち図書室にまで押しかけて口出ししてくるのか、さっぱりだった。
あそこは俺の砦、最後の領地だった。
さっぱり判らないと余計にいらいらした。
いらいらすると、それだけがまるごと相手に伝わって、その女子の口調もますます攻めたてるものになる。だから俺はもともと女というものが好きではなかったけれど、いっそうつっけんどんな態度をとるようになり、最終的にはその女子を泣かせて、どういうわけか俺が懲罰室に入れられることになった。ボスだった女子の取り巻きどもが、あることないこと、大人に吹きこんだのだろうと思う。
――反省しなさい。
言われて入れられた懲罰室の窓から、銀杏の木が見えた。相変わらずばらばらと無節操に手のひら型の葉を落としていた。その節操のなさが、図書室に侵害したあの女子に思えてむかむかした。
今では名も出てこない。あの女子がどうなったかも知らない。ただどこかで俺とは全く別の人生を送っているのだろうなと思うと、ちょっと不思議な感覚になることもある。
そんなことを思い出す。
じゃあ今でも銀杏の木がきらいなのかというと、おかしなもので、たいして嫌いでもないのだ。なにしろそんなことがあった以降、その女子に限らず、俺にちょっかいをかけてくる奴なんて、それこそ両手の指全部使ったって足りないくらいに出てきたから、その女子との思い出はなんというか、俺の若いころの下手な立ち回り、みたいなもので名付けられて、記憶に収まっている。記憶に快も不快もない。そう言うことがあったな。それだけのことだ。
ただ、銀杏の木を見ると、そんなことを思い出し、そうして院の外周に植えられていた楓の木のことも連想した。
……楓と言えば、川沿いにいくらか植えてあったな。
まだ火のついていない煙草を咥えたまま俺は思う。
どうせ手隙なのだ。色づいた秋の楓鑑賞としゃれこむのも悪くないと思った。
その、川沿いに行く途中の、近道の路地を通ったときのできごとだった。
のぞいた。
のぞいた先に、何かがうずくまっていた。
うずくまっているそいつがひとほどの大きさで、手と足をちぢこめて丸くなっていると言うことを見止めたのは、ひょいとのぞきこみ、驚いて二度見したあとだ。
ひとほどの大きさ、と言うよりもはっきりそれはひとだった。
大きな体だった。男だ。
大きな男が、裏路地の突き当たりでひどく具合が悪そうにしていた。無造作に積まれた、可燃ごみのぱんぱんに入った袋に寄り添うようにして、しゃがみ込んでいた。
だが人間がひとり行き倒れている光景は、べつに珍しいものでもなかった。
南から移民を受け入れる無策なイタリア政府のおかげで、難民スラムは増える一方、観光街だって気が付けばあちらこちらに物乞いがいる。
物乞いと言ったって、右や左の旦那さま、そう呼びかけるような殊勝なやつらはどこにも見当たらない。彼らは油断している観光客らに無遠慮にずいと接近し、顔前で缶を振るのだ。
あんなものは物乞いと俺は認めない。
あれは立派に強請りたかりの部類だ。
物乞いなければ酔っ払いのたぐいだ。住民か、それとも頭がお祭の観光客かまではわからないが、度が過ぎた酒を浴び、ぐでんぐでんで歩けなくなり、同行者が面倒がってぽいとそのあたりに転がしていった可能性は十分ある。
あるいは移民ではなく昔からいる路上生活者かもしれない。
ここイタリアには、一定数そうした決まった住居を持たないものがいるのだった。ひどく冷え込む冬空や、うだるような暑さの外気温で、俺には信じられないが、へいざで生活しているやつらがいる。
そうした路上の者を見るたびに俺は人間のしぶとさというか、生命力のようなものを見て、ああよかったと安心したような気持ちになる。真似したいとは思わないけれど。
だったから、わりかし大男が、路地の裏でうずくまっていたとしても、昨今のローマではそこまでめずらしくもないし、俺がいちいち、え、と足を止め、再度眺め直すようなことにはありえないのだった。
俺が思わず二度見したのは、だから、そうした珍しくもないどこかの知らない男がうずくまっていて気の毒だったからとか、手を差し伸べてやろうだとかお優しい理由ではなくて、
「……アンデルセン、?」
信じられない思いで俺はその名前を口にしていた。どうして。貴様がなぜこんなところに。
俺が知っている、知っていたはずのそいつは、おとといに武装神父の他二名をつれて、ポルトガルはリスボンの、ベレン地区に出向いているはずだった。確信がある。たしかにある。なにしろつい先ほど、出向先のジェロニモス修道院にて、潜行させてある連絡員から規定の文書を受け取ったと、アンデルセン神父自身の口から、電話越しに報告を受けていたからだ。
――あいつが虚偽の報告をする? 他二名の目もあるのに?
脳内でその可能性を一瞬だけ考え、ありえない、と俺はかぶりを振った。
こと任務に関して言えば、アンデルセンは期待を裏切らない。
唯一考えられる可能性としては、俺との通話を切ったその直後に同伴の二名と別れ、ひとり聖別された聖書による座標移動をしたということだ。それなら理解できる。物理的な可否で言うなら可能だった。
だが、あくまでも座標移動は緊急脱出用のもので、おいそれと使用できるものではなかったし、また使用者には相当の負荷がかかる。戦闘中の臨時退避に使うならともかく、ただの文書を受け取るという任務中に、わざわざ、しかも連絡後に座標移動をする? そんなことをすれば、イスカリオテ機関の局長である俺から、しこまた小言を食らうことをわからないほど愚かなやつではない。
服の隠しを右手でさぐる。携帯電話を取りだして、俺はうずくまるアンデルセンを眺めながら、先の履歴をたしかめ、呼び出しした。
目の前の動かない男を眺めながら、しかし修道服にできたかぎざきの繕いあとまで同じ人間がこの世にふたりといるかなと思う。
ツ、ツ、と短く二度三度コォル音が響き、そうして、
「どうした、」
唐突にコォルは途切れて、低い声が応じた。まったく名乗る気がないあたりがアンデルセンらしいと思い、俺は思わず笑った。
「私だ。貴様、変わらずそこに……ジェロニモス修道院にいるのだな?」
「いる。いるが、どうした、」
「いや、いい。すこし確かめたいことがあってな。……なんでもない。そこにいるならいいんだ」
言ってすぐに通話を切る。それ以上とくに話すことがなかったからだ。
もともと通話が苦手だ。なんだか、耳元で相手が囁きかけているようで、だのにやけに声が遠くて、奇妙な気持ちになる。それでも俺の立場上、局員どもの報告を電話で受けることは多かったし、そこにたいして苦手意識もなかったのだが、とにかく雑談というものが気に入らない。受話器の向こうにいる相手とやらと、今日はいいお日和で、そちらはどういったお天気で? いったい何を話していいのやらさっぱり判らない。腹の探り合いをしようにも、探った相手の顔が見えないのだ。
まあいい。とりあえず、俺が知っている十三課の武装神父隊隊長さまは、今もなおリスボンにいるらしかった。少なくとも、電話の向こうの相手と、目の前のこいつは別の人間らしい。やりとりしているあいだ、目の前のこいつが携帯電話を取った動きはなかったからだ。
だったら目の前のこいつはなんだ。
一説によると、この世には自分と同じ顔の他人が自分を合わせて三人いるそうだ。俗にいうドッペルゲンガーというやつで、まあこれだけ人間が有象無象にひしめいているのだから、中には同じようなつくりの人間がいたとしてもおかしいことではないと思う。路地裏にうずくまっている目の前の男が、つい今しがた確認し直したあいつではなくて、ただのあいつによく似たとやつだったとしても、それはそれであり得ないことではないように思えた。
顔かたちが似たというだけだったなら。
問題は、そいつ、うずくまって具合が悪そうにしているそいつが着ている服が、明らかに修道服で、そうして、一般観光客や住民が修道服を着るか? そういう話になる。
さっきも言ったが、袖口のほつれまで似ているのだ。
ドッペルゲンガーと言ったって、世の中にあとふたりいるそのどちらかが、わざわざローマのヴァチカンくんだりまでやってきて、やつと同じに見える服を着て、そうして路地裏にうずくまるところを、偶然通りかかった俺が見かける? いったい確率はどれぐらいになるのやら知れない。
つまり、ざっくり言えば、「ない」のだ。
「アンデルセン?」
俺がもう一度呼びかけると、そいつの肩が僅かに揺れた。一応生きているらしい。
立ちっぱなしのままそいつを眺めていてもらちが明かない。かと言って見なかったことにしてここを立ち去るのも、この場合どうかと思う。
しかたなしに、俺はつかつかとそいつに近づき、その、アンデルセンのような形をしてアンデルセンではないらしいもの、を見下ろし、おい、と靴のつま先で小突いた。
「貴様は何だ?」
小突きながら俺は、仮にこいつがアンデルセンではないとしても、同じ顔をしている理由はあとふたつあり得るなと気が付いた。
生霊とクローンだ。
俺自身、この仕事に就いていなかったらクローンはともかく、生霊についてはこの科学の発達した現代でなにをばかなことを、と笑ったかもしれない。吸血鬼だのグールだのオーガだの人狼だの、およそ図書館のファンタジーコーナーか、映画のゴシックホラーものにしかでてこないような存在と、「実際に」日々やりあう環境でなかったのなら。
そうして、いまの技術力で完全な人間のクローンが作れるのかという話になれば、これを否定すると、先ごろ電話したアンデルセン自身の存在まで否定することになりかねない。
俺は再生力がどうのこうの、の科学的な小難しい話をすべて理解してはいないけれど、やつに施されている技術は明らかに現代医療の最先端を行くものだと思っている。技術だけではなく、祝福儀礼なる、明らかに科学的ではないものまで媒介していて、だがそれが神の力とやらなのかどうかまで、俺は判らない。俺自身が神の存在をたいして信じていないからだ。
俺は、神の罰や報いとやらは信じているけれど、神の愛だの奇跡は信じない。救いも信じない。腹の足しにもならないようなもの、すがるだけ手ひどいしっぺ返しを食らうもの、ツールとして利用はするけれど、信用はしない。信頼もない。
それはもしかするとヴァチカンに勤めるものとしての、そうしてイスカリオテとしての信条に反するのかもしれないけれど、それはそれでかまわないと思った。
どうせ、口に出さなければ誰にもわかりはしないのだ。
貴様は何だ、の声に、ぐんにゃりうずくまっていたそいつはびくびくと体を痙攣させ、それからゆっくりと頭をもたげて俺を見た。そこで俺はあっと声をあげる。そいつの瞳は、常に見ている緑灰色のそれではなく、赤色をしていたからだ。
「……貴様、」
これはアンデルセンじゃあない。
これはどうやら魔物のたぐいだ。
そこで俺は即座に銃把を握り、目の前のそれに装填されている銀弾全てを叩きこんでやるべきだった。たぶんそれが正解だったのだ。
目の前のそいつがいぎたなく命乞いをはじめたり、もしくはすこしでもこちらの隙を伺おうとする素振りがあったのなら、きっと俺はそうしたろう。
けれど目の前のそいつは、わずかに震え、より体を丸くしようと縮こめたきり、まったく敵意もこちらに媚びへつらう様子も見せなかったので、俺はわずかに逡巡し、即座にぶち殺す機会を失った。
「……貴様、」
言いながら俺は考える、誰か人を呼ぶべきか? 俺は俺自身を守るすべを持たない。自分の銃の腕前にも、まったく自信がない。さすがにど真ん前の、動かない相手に対してぶちこんで当たらないことはないと思うが、相手がいつまでもじっとしているとは限らない。
痛みに呻くかもしれない。逆上して飛び掛かってくるかもしれない。
いま、この瞬間にいきなり動き出し、俺を襲ったとしても、不思議じゃあなかったし、実際ありえる話だった。
だがそう思いながら、一方でそれはないだろうなとも俺は思っていた。
目に力がない。まったくない。こいつは生きようとか、逃げ延びようとか、そうした意思をすでに失っている。どころか、一応は身動きしたものの、俺に見つかったと認識しているかすら疑わしい。
言ってみれば、浜に打ち上げられたクラゲだ。もう自力で動けない。どれだけ苦しくても、干からびて死ぬのを待つよりない。砂まみれになり、細かく震え、そうしてじりじりと端から乾燥して死ぬのだ。
そうすると、危険というよりは憐みの方が俺はまさった。可哀そう、というほど肩入れしちゃあいないが、ひとを呼んで大騒ぎにするほどでもないじゃないかという感傷。俺が一、二発、銀弾をぶち込めばそれで終わる相手なのだ。
「……貴様は何だ?」
何度も問う。相手が答えられる状態かどうかなんて俺は知らない。答える気がないのなら、ここで終わらせるつもりだったし、実際俺はそうしただろうと思う。
俺の二度、三度の問いかけに、ようやくのろのろとそいつはまた頭をもたげる。もたげるだけでだいぶ重そうだった。
「――ェル、」
そいつが呼んだ。不意に俺の名を呼んだ。かすれ声で、言葉のほとんどは消え失せていたというのに、俺はそいつが俺の名を呼んだと言うことが判った。
俺はうん、とも、ああ、とも言わず、ただそいつを見下ろす。妖物と対峙するときの絶対条件だ。名を教えてはならない。呼びかけに決して応じてはならない。応じた瞬間に、四肢も魂も、自由を奪われる。
だから俺は薄く笑い、見下ろすにとどめた。
マクスウェル。もう一度そいつが俺の名を口にした。今度は先よりもう少しはっきりとした声だった。俺はやはり答える気はない。
「……貴様は、」
そのまま三度目の問いを言いかけたとき、俺の耳が、近づく足音をひろった。かつかつと石畳を叩く、ヒールの音だった。数名。そいつにもきっと聞こえたにちがいない。俺を見上げていた目に、諦めの色が広がる。そいつがはじめて見せた色のついた表情だった。
その顔に、ふと気が動いた。
本当だったら、なにも無かったことにして、この場を離れてしまうのが一番よかった。今さら懐から銃を取りだしたところで、近づく数名に発砲音を聞き取られ、通報されるだけだ。
目の前のこいつの弱りようは、俺が手を下すまでもなく、明暁、陽光とともに消滅すると思われた。よほど力のある、たとえばくそプロテスタントどもの抱える、ヘルシング機関に在籍の真祖の吸血鬼ならともかく、弱ったはぐれ妖魅なぞ、わざわざ聖別された銀でとどめを刺さなくたって、太陽光で浄化されるにちがいない。
だから俺はさっさとそいつに背を向けて、路地を後にしてしまうのがよかったのだ。
「貴様、」
だのに俺の足が向かったのは、四辻の川べりに向かう通りの方ではなくて、その衰弱し、立ち上がれそうもないアンデルセンによく似た別のなにかの傍だった。
「変えろ。」
急き立てる口調で俺は言った。
「貴様も妖魔の端くれなら、姿かたちを何かに変えるくらいできるだろ。早く変えろ」
「――、」
「早く!」
諦めから今度は困惑した顔になって、そいつは俺を仰いだ。仰がれながら、ああこいつはどうしたって俺の知っているアンデルセンじゃあないと思う。アンデルセンならこんな顔はしない。絶対にしない。
だのに俺は、その、絶対にしない表情を浮かべるあいつのまがいものを、どういうわけか見捨てることができなかったのだ。
きつめの小声で叱咤した俺の目の前で、そいつは体を小刻みに揺らし、ぐにゃりと崩れ、みるみるうちに子どもの拳ほどの小さな蝙蝠に変態した。
そいつが変態するのと、背後の辻を道を探しながら歩く観光客が通り過ぎてゆくのがほぼ同時、ぎりぎり鼻差で、そいつが早かった程度だと思う。
姿かたちが縮んだせいで、ごみ袋の隙間に落ちかけたその小さな蝙蝠の体を、伸ばした俺の手が拾う。拾い、俺は内ポケットのたばこの横に、そいつの体を押し込んだ。押し込みながら、俺は自分のしていることがよく判らなかった。
……魔に魅入られた? だが俺はそいつの呼びかけに応じてなどいなかったし、魅入られたわけでないことも自覚していた。
俺の足は、そのままヴァチカンの居住区の自室に戻ることはなかった。
なにしろ聖堂を中心としたあたりは、ヴァチカンの中でもいっとうに聖別された場所で、この弱り切った蝙蝠が、清浄な場所でどれだけ命を保てるか判らないと思ったからだ。
機関室に連れてゆくわけにもいかない。
十三課局員でなくたって、修道士の中にはやたら鼻の利くやつがいる。そいつらの誰かに、俺のポケットの中で丸まっている妖物のにおいを嗅ぎつけられたら、厄介なことになる。おそらくは俺の立場上、身体検査だなんてことにはならないとは思うが、それにしたって聞こえが悪い。――あの鼻つまみ者のイスカリオテの局長が、あらぬ疑いをかけられたらしいぜ。ひそひそ嘲笑されるさまが目に浮かぶようだった。笑えない。
実際問題として俺は懐にしのばせているわけだし、とするとあらぬ疑いではないわけで、余計に笑えない。
幸い、俺は上着を着て出ていて、外套の隠しに財布もあった。どこに行くか当ても決めていなかったので、目の前にあったバス停でふと立ち止まる。タクシーで移動してもよかったが、行く当ても決めていないのに乗るわけにもいかない。
四十番と記されたバス停には観光客らしきに三人、見た感じ近隣在住らしい人間が数名、並んで待っていた。そこにちょうどバスが来て、列のやつらは乗り込みはじめる、俺はどうしたものか眺めているうちに、俺の前の老人が、段差にふと歩をもつれさせた。足が上がらなかったのだろう。とっさに添えた手のまま、俺もはずみでバスに同乗してしまい、後ろで無情にドアが閉まった。
あ、しまった、という思いと、まあ仕方ないか、という思いが交錯する。どうせ行き先は決まっていなかったのだ。だったらほかの乗客にまぎれてこのまま、終点まで行ってしまうのが、流れとしては一番いいのかもしれない。
チケットを持っていなかったので、運転席まで進み片道のチケットを買い求め、空いている席に座る。そこではじめて嘆息が漏れた。俺はいったい何をやっているのだという、自問のため息だった。答えはない。
車窓の外に目をやる。秋のヴァチカンのライトアップされた楓並木が遠くにちらと見えた。そう言えば俺はあれを目指して行っていたのではなかったか。だいぶん予定が狂ってしまった。
またため息が漏れる。今度はもうどうにもならないなというものだった。どういうわけか俺は大きな通りをゆかず、細い路地を選んでしまったのだし、そこで見つけたこの胸ポケットに入っているものを見殺しにもできなかった。そうしてバスに乗り、行く当てもなく揺られている。
いったい自分でもどうしたつもりか判らなかった。こいつをどこかに放すのか、とどめを刺すのか、他の誰かに渡すのか、それともそれ以外の方法があるのか。
がたがたと横揺れと、そうしてブレーキを踏むたびの前後の揺れに身をまかせ、俺は目を閉じ、しばらくのあいだ、思案を意識の外へ追いやった。
「……着いたぞ」
懐から蝙蝠を取りだして、俺はセミダブルの寝台の上へそいつをほうり投げた。優しく扱う気はさらさらない。どうせしぶとい生き物なのだろうし、俺が雑に扱ったところで事切れる命ならそれまでだ。
それから上着を脱いで、それも椅子の背に適当に掛け、シャツの胸元をゆるめる。
安宿を取ったのは、苦肉の策だった。
前述したように、ヴァチカン内部には連れてゆけない。俺の部屋が、せめてローマ市内にあればそれでもよかったのだが、聖堂近くにあるものだからそこへは行けない。
思い当たるのは、いくらかの十三課局員のアッパルタメントだったが、それもほとんどは住所として覚えているだけか、せいぜい外観を見たに過ぎない。部屋まで訪れて上がった覚えのある部下はひとりもいない。誘われないのもあったし、押しかけるのもいやだった。彼らがいやがるのではなく、純粋に俺がいやなのだ。
私室というものにはにおいがある。そこに住んでいる人間のにおいだ。言ってみれば獣の穴倉と同じなのだ。だいたい、ヴァチカンに仕える人間に割り当てられる部屋だなんて、そうそう広いものでもない。ひとつの間取りに、衣食住すべてがおさまっている。玄関ドアを開けた瞬間から、枕カバーやシーツや上掛けや、無造作に畳んだ衣服からそいつのにおいが立ちのぼる。それから煙草や、昨日食った飯のにおいや、コーヒーのにおいも混じって怒涛となって襲い掛かる。その住居者のなわばりだ。食われてしまう。
住居者の穴倉に踏み込むことは、俺にとって恐怖でしかなかった。
それに、今度の場合、仮に俺に押し掛けるだけの厚かましさがあったとしても、説明に困ったろうと思う。……路地のところで妖物を拾ったから、すこしの間上がらせてくれないか? 完全に狂っている。言えるわけがない。
かと言って、人目のあるオステリアやトラットリアに入るわけにはいかなかった。席についておもむろに懐から蝙蝠なんぞ出しはじめたら、まず店の人間にいやな顔をされるに決まっている。そいつが変態してまた人間の姿になりでもしたら、大騒ぎだ。明日の朝刊の一面になってしまう。
広場や公園の陰も、結局は同じことだった。いつ誰が来るか判らない場所で、修道服を着た俺がごそごそやるには明らかに目立ちすぎたし、俺が目立たなくとも妖物の方が目立ったと思う。
人目に付かない場所で、悪目立ちせず、とりあえずひとりになれる場所、というと、俺は結局、宿しか思いつかなかったのだった。
べつに泊まるでもなし、俺はすぐに帰る気でいたから、とにかく四方に壁があって誰にも見られない場所であればどこでもよかった。だから、バスの終着のテルミニ駅で降りてから、周辺で安く済ませられそうな宿を探した。安く上がるのなら、なんなら素泊まりでもよかった。観光客なら、ここに安全性だの快適性がプラスされるのかもしれないが、あいにく俺は男だったし、そうしてヴァチカンに起居する人間だった。シャワーの出はどうか、暖房は壊れていないか、インターネットがつながるかどうか、この際どうでもいい。
背もたれに腕を乗せ、その腕の上に顎を乗せるかたちで、俺は寝台の上のそいつを眺めた。いつの間にか、蝙蝠は、またアンデルセンのまがいものに姿を変えていた。
「……しかし、貴様はどうして『そいつ』に化けるのだろうな?」
半分本気で不思議になって、俺は訊ねていた。俺の部下に化けるのなら、べつにアンデルセンでなくてもいいはずだった。こんなに図体のばかでかい、縦にも横にも幅るような体に化けるよりも、もっと細身の、諜報員の誰かだとか、そうでなくたって一般観光客でもよかったはずだった。
とにかくチョイスに無理がありすぎる。
「その姿に特別な理由でもあるのか?」
「――……ちがう」
唐突にそいつが口をきいた。先ごろは俺の名を呼ぶにとどまっていたから、そいつが名前以外の言葉を口にするのはそれがはじめてだった。
「お前が望んだ」
「はあ?」
俺が? 思い切り心外な声が漏れたが、訂正する気はなかった。俺の望み? 俺がいつ何を望んだって言うんだ。
一気に不愉快になり、俺は煙草を取りだし火を点ける。
ふざけるなとでも言ってやろうかと思った。こいつが俺の心を覗けるのかどうだか俺には知ったこっちゃあないが、仮に覗けたとして、勝手に俺の望みを決めつけるなと言いたかった。
――俺は、貴様なんざ望まない。
いらいらしながら煙を吐きだす俺の前に、そいつはいつの間にか音もなく移動し、俺を見下ろしている。その唐突な距離の詰め方に、ああこいつは本当にヒトではないのだなと俺はいまさらながら納得した。人間はこんな動きをしない。祝福強化されている貴様だってこんな動きはない。
考えてみれば、俺はヒトでないものと一対一で向かい合っているのだった。しかも俺に護身の心得はない。だから、妖物がよからぬ気を起こして、たとえば俺を頭からばりばり喰らってやろうと思っていたとして、俺はこの部屋の扉までたどり着けるかどうか怪しいものだった。
しかも笑えることに、俺は自分で、こんな状況を仕立て上げたのだ。
だのに俺に恐怖はなかった。
捨て鉢になっているというのではなく、単純に、そいつからいまだに生き延びてやろうという意思のようなものを感じることができなかったからだ。
こいつは死にたがっている。そう思った。
目の前のアンデルセンもどきは、つと身をかがめ、俺に手を伸ばす。手を伸ばされても俺にやはり恐れは湧かなかった。ただ、いったい何をするつもりなのかなと眺めていただけだ。
手を伸ばしたそいつは、俺が咥えていた煙草を指でつまみ上げ、そうしておのれの口に運ぶ。むしろその動作に俺は目を見張った。あいつは煙草を吸わない。もしかしたら吸っているのかもしれないが、俺はあいつが俺の前で吸っている姿を見たことがない。
吸い口に唇をつけ、肺の隅々にまで行き渡らせるように胸に吸い込むと、細く長く煙を吐きだす。うまそうに吸うのだなと思った。もし貴様が煙草を吸うのだとして、やはり同じようにうまそうに煙を吐きだすのだろうかとも思った。
吐き出された煙が天井へ上がるのを、俺はぼんやりと眺めていた。いまだに目の前のこいつと、まともに会話出来ちゃあいないなと思いながら。
「……妖魅でも、煙草は吸うんだな……、」
何となしに呟いたこちらへまた手を伸ばし、アンデルセンによく似たそいつが俺の顎を取る。煙草はもう持っていかれたし、次は何をするのかなとまじろいでいるあいだに、そいつの顔がみるみる近くなって、気が付くとそいつの唇が俺に重なっていた。え、と一瞬の判断が遅れる隙を突いて、ひんやりと湿った唇が俺をついばみ、離れ、また近づいて口づけた。
音もなく、無作法な侵入もなく、ただ挨拶をかわすだけの接触はひどく静かで、俺は角度を変えて訪れるそいつの唇を拒む理由もなく応じていた。
とくだん何か慌てるだとか、我に返るだとか言うこともなくて、ただ、赤い目をするこいつはアンデルセンに似ているけれども、やはり俺はあの緑のぎょろぎょろした目の方が気に入ってるな、だとか、煙草直後の唇というのは、苦みが残るというから、よく口づけを甘い、と表現したりするけれど、我々のこれは、決して甘くはなり得ないな、だとかという、ひどくどうでもいいことばかり考えていた。
そいつの唇は俺よりも少し冷たい。常のあいつなら腹立たしいほど無駄に体温が高かったから、そのギャップがすこし面白かった。
そんなことをとりとめなく考えていたものだから、口づけながら俺は笑っていたのだと思う。
目の前のそいつが怪訝な顔になり、一旦口づけを止めて、どうした、と言った。
「……いや、」
気づかれてしまうとなんだか余計におかしくて、くつくつと肩を揺らしながら俺は笑う。
「血を吸わないのだなと思ってな」
「血、」
俺の言葉をくり返してそいつが首をかしげた。血。言って不思議そうにしているので、俺もおやとなって片眉をあげる。
「――吸わんのか? 蝙蝠に化けていたから、貴様は吸血鬼なんだと思っていたんだが」
「吸ってほしいのか? 吸血鬼に血を吸われたら最後、お前はヒトではなくなるだろうに」
「吸わないのかと聞いただけで、吸ってほしいとは言ってない」
ああ、お互いにまるきり会話になっていない。先から互いになぜ、どうして、の応酬ばかりなのだ。
けれどそいつの言葉の端々に、路地にころがっていたときにはなかった余裕のようなものを感じて、俺は顔をしかめる。
「ずいぶん言ってくれるじゃあないか。さっきまで今にも死にそうな顔色だったくせに」
「今お前から精気を貰ったからな」
「は?」
「俺は夢魔だ」
言ってそいつは濡れた唇を指の腹で拭い、薄く笑った。
「……お前は、甘いな」
夢魔だ、と目の前の妖物が告げた瞬間、俺の中にさっとそいつに関するデータが現れる。パソコンのモニターへ、プログラムが上から下にものすごい速さで表示されてゆくように、昔読んだ文献、小耳に挟んだ話、実際に手を下した局員の報告書なんかが一気に流れ出してゆくのだ。
いわく、男ならインキュバス、女ならサキュバスと呼ばれていて、だとか、夢の中で性交をしてその人間の精気を、だとか、昔のヨーロッパ各地で未婚の娘が妊娠するとそれは夢魔のせいとされ、だとか、そうした一般的な情報から、現地に派遣した局員が目にした、まるで麻薬中毒患者になった妖魔に魅入られたものの詳細な報告、ひととして駄目になってしまったぞっとするもの、そうしたものまでが流れてゆくのだ。
だがしかしちょっと待てと、その次から次へ溢れてゆくようなデータの合間で俺は俺自身と、そうして目の前の相手に異を唱えずにはいられなかった。待て。ちょっと待て。
まず、どうしてアンデルセンなのだ。
俺は男で、ということは女の肉体を持った夢魔が現れ、男の俺を誘惑するのが筋なんじゃあないか。どうして俺の前にあいつの顔やかたちをした妖物が出てくるのだ。女を出せ。俺が果たして女に誘惑されるかどうか、それは俺自身よく判らないが、とりあえず女を出せ。矜持の問題だ。そう思う。
それから、どうしてアンデルセンなのだ。
先ごろこいつは、おのれの姿を俺が望んだからだと言い切ったが、さっきも否定した通り、そもそも俺は望んじゃあいない。夢魔に関するデータの中には、本人の理想のかたちをとって具現化するとあった気がするが、俺の理想が貴様だというのか? ぞっとしない。勘弁してほしい。
嫌な顔をした俺を、そいつが見下ろしいぶかしげな顔になる。
どうした、と聞かれたので、男の俺に男の貴様が現れるのは納得ができないと答えた。
「では、強く願え」
そいつは言う。
「お前の理想とする女を強く願え。俺にはきまった形はない。お前が望むなら、その形に変わるだろうよ」
言われて俺は女、と呟く。女。
女を出せと俺は思ったが、じゃあ具体的にひとりの女を想像しろと言っても、俺にはそこまで強く思う女なんていないのだった。
そもそも、おのれの記憶の中に焼き付けられている女だとかいうものが、ほぼほぼ皆無なのだ。せいぜい母親の死んだ顔ぐらいのもので、だがいま目の前にあのときの母親の顔が現れたら、俺はそれこそ悲鳴を上げて逃げ出すと思った。
「怯えないのだな」
女、と言われ、思い当たる顔もなしに唸っていた俺に向かって、そいつは言った。
「怯えてほしいのか?」
俺も聞き返す。どうだろうな。言ってそいつが笑った。
「その懐の物騒なものを、俺に向けないのはなぜだ」
「腕がない」
答えると、そいつのアンデルセンに似た顔が、一瞬虚を突かれたさまになり、そうして次にげらげらと笑い出した。
……ああ、貴様はこんな表情もするんだな。
おかしそうに笑うそいつ、よく似ているからこそまるでちがうそいつを、俺はじっと観察する。俺の前であいつはこんなふうに笑ったことはないけれど、表情筋の動きとしては可能なのだ。だったら俺の知らないどこかで、心底おかしそうに笑うこともあるのだろうと思った。
俺の前で貴様は、難しい顔をしてばかりだ。
笑いすぎて目尻の涙をぬぐっている。ずらす眼鏡の形までそっくりそのままであるのだが、淫魔というものはこんな細やかな造形まで正確に再現するのだなと、俺は妙なところで感心した。
ようやく笑いがおさまったらしいそいつに向かって、なあ、と俺は言った。
「腹が減っているんだろう?」
こいつが夢魔だというのなら、あそこで死にかけていた理由はひとつだ。
「私を喰いたいか?」
「――どうかな、」
懐からこいつが言った「物騒なもの」を取りだし、手で玩びながら俺は訊ねた。アンデルセンによく似た顔が、俺を見計るようにすっと目をすがめ、首をひねる。
「喰われたいのか?」
「――どうかな」
喰わないのかと聞いただけで、喰ってほしいとは言っていない、そうこたえてもよかったのだけれど、それではさっきの応酬と同じになる。そいつに銃口を向けながら、俺は答え、そうして食いたいのならその気にさせろよとうそぶいた。
「私を喰いたいのなら、誘惑してみせろ」
「……困った子だ」
眼鏡の奥の目に笑いをにじませて、アンデルセンが俺の上へ屈んだ。
「悪い遊びを覚えたか」
「――さあ、」
言いながらぞくぞくする。アンデルセンならきっと、こんなことは言わない。
言わない、だからこそ同じ顔に言わせている背徳感は、やたらに高揚した。
突きつけられている銃をまるで怖がることなく、そいつが俺の耳朶に唇で触れる。……撃ちたいのなら、撃っていいぞ。重低い声で耳元から吹き込まれ、じんとうなじが痺れた。
あそこで俺は果てるつもりだったのだ。そいつが言った。他人の夢に忍び入る生をもう長い間続けてきたのでね。
もう飽きた。続けて言うところへ、じゃあなぜ貴様は俺の誘いに乗ったんだ? やわやわと耳朶を噛まれながら俺は訊ねる。
「……さあ」
そいつは嗤った。
「偶々だったんだろうな」
お前はどうだ? 暗に聞かれ、偶々なんだろうなと俺も頷いた。こうなることを予想して動いたわけじゃあない。川べりにまで歩いて行ったことも、バスに乗ったことも、宿を取ったことも、ほんとうに偶然の選択で、なにも最初から期待して選んだわけじゃあない。
最初から判っていたことと言えば、こいつが人間ではない別のなにかで、そうしてひどく弱っていると言うことぐらいのものだった。
「……安心しろ、これは夢だ」
椅子に座っていた俺の背後にいつの間にか立っていたアンデルセンが、俺の腹へ手を当てる。夢、と俺がくり返すと、そうだと囁きが返ってきた。
「夢だからな。お前はなにも汚れない」
言ってそいつの手が下腹を押す。やや強く、ぐ、と押された瞬間、下腹を中心にいきなり強烈な電流が走って、俺は思わず全身を強張らせ、椅子を蹴たぐり飛ばしていた。
「……な、……な、ん、ッ」
痙攣したようなおのれの体がまるで自由にならない。体が先に走っていってしまい、頭だけとり残されているようだ。思いあたるのは、尋問用のスタンガンを当てられたということなのだが、妖物がスタンガンを持っているものだろうか。だがまあ四五四カスールを使っている化け物を俺は知っているので、あながちない話でもないのかもしれない。
似ていた、と比較対象が思い当たるあたり、シャレにならない。普通は当てられる経験なんてないものだ。片手の指に収まらないほど経験があるのが、我ながら狂っていると思った。
こいつスタンガンなんて持っていたのか、ひっくり返りかけた俺の体を、後ろに立っていたアンデルセンは難なく受け止め、そうして膝裏からひょいと掬うと、部屋に家具と言えば椅子の他は唯一と言っていい寝台へ横たえた。やすやすと運んでくれるものだなと思う。
スタンガンじゃあないよ、仰向けになった俺の上から覆いかぶさるようにして、そいつが囁いた。
「下腹が熱いだろう?」
「はッ、……なにを、言っ……、」
「印を刻んだ」
「くそ……ッ、」
「まあ、淫紋だな」
まるで悪びれのない声で告げられたと同時にべろんと首筋を舐められ、再度体に走った電流に、ああこれは電気ではなくて快感なのかと言うことを、ようやく頭が理解した。
理解した、だがとてもじゃないが堪えきれるたぐいのものじゃあない。自分の口から細く高い悲鳴が漏れるのを自分の耳が拾う。
こんな感覚を俺は知らない。
たとえば、俺だって男なのだから、いわゆる男特有の性的衝動、いわゆる「ヤリたい」という状態がどういうものなのかは理解しているし、それが時として抑えきれないほど強いものになることも知っている。
なにしろ神学校の寮は相部屋だ。四人一部屋だった。……四人だぜ? 四人の思春期、それこそヤリたい盛りの男子が、狭苦しい六畳一間の部屋に二段ベッドで押し込められて、プライベェトなんて小指の先ほどもないと言っていい。
俺がテキストやら辞書を広げている隣で、低俗なタブロイド紙だの、風俗情報誌だのをこっそり持ち込んでは、金髪がいいだの、乳はでかい方がいいだの、毛が無い方が、ある方が、においがどうの、大繁盛、大盛り上がりなのだ。耳に蓋をするわけにはいかないから、どうしたって声は飛び込んでくる。うるさくて勉強なんてできやしない。俺が顔をあげると、……おい。そう声をかけられた。
お前も澄ました顔をしてないでちょっと見てみろよ。案外おきれいな顔をしている奴の方が好きものだったりするらしいじゃあないか。どれがいい?
そう言われて眼前に女優が股をおっぴろげている写真を見せられても、迷惑なだけだった。規律違反だとか、部屋に持ち込むなだとかは言わないから、せめて俺を巻き込まないでほしい。眉をしかめると、お高くとまってるねぇ、とくるのだ。
貞節の徳、だとかを、神学を志す際、誓う中のひとつにあるのだけれど、なにが貞節なものかと思う。寄って集っちゃあ、突っ込みたい突っ込みたい、そればかりだ。
現に、そうしてばか騒ぎした夜は、不自然な無言があった。各自毛布をかぶり、荒い鼻息をひそめて、無心に擦りたてるのだ。聞きたくなくともごそごそ音がする。大変に迷惑だった。
ただ、そうした衝動はいわゆる生理現象でどうしようもない、というのも理解していたから、俺自身に害が被らないうちは、黙って無視するに徹した。置物になれればいいと何度願ったかしれない。
ただしやつらが、俺自身にちょっかいをかけてくる素振りを見せたときは、即座に対応した。先手必殺というやつだ。俺はただでさえ、飛び級だったから、周りのやつらは俺よりも二つ三つ上で、あの年の二、三歳差というのは、わりとばかにならない大きな差となる。腕力が桁違いだ。
どんな場所にも、こちらが大人しくしていれば勘違いするばかどもがいるものだった。――お前、女よりきれいな顔をしているな? 押さえ込まれかけた回数は、スタンガンの回数よりも多いかもしれない。ここまでくると笑える。
現在、俺を押さえこみにかかっているこいつは、俺よりも頭ひとつ大きい。デスクワークの俺と、現地派遣のこいつとでは、肉座布団二枚くらいの差がある。
重い。そうしてのしかかるアンデルセンは、不愉快に熱いのだ。先ごろ口づけた唇は冷えていたくせに、どうしてこう俺に押し付けてくる胸板だの、腹回りだの、みっしりと固くて熱いのだろう。面白くない。
いつの間にかシャツを緩められていて、無遠慮な手のひらが、俺を撫でまわしている。その手のひらは肉厚なくせに、えらく繊細であることを俺は孤児院の頃から知っていた。
「心配ない。朝には消える印だ」
……俺が消滅するからな。笑いと共に俺の耳もとでそいつがしゃべるので、俺の背筋をまた電気が走り抜ける。びくびくと体が勝手にわななき、俺は思わず止めるつもりでそいつの袖を握りしめた。握りしめ、それが止めるというよりはむしろすがっているような形になっていることに気づいて、かっと頭に血が上る。
「きさッ……ま、」
「憐れんではくれないのか」
「知るか……!おのれが、自分で消えると勝手に決めたんだろう」
「そうだ。俺はもう十分生きたからな。生き飽きた。朝日とともに消滅する。……だから、最後にもう一度だけ、『いい思い』をしても罰は当たらないと、そうは思わないか」
「他所をあたれ、」
「お前がいい」
お前がいい。アンデルセンの重低音で頭の中まで直に吹きこまれて、がくんと全身の力が抜けるのがわかる。ああそうか、なるほどな。これもきっと淫魔の力なんだろうな。
「……誘惑してみせろとは私が言ったんだったな」
俺は言った。どこもかしこもアンデルセンによく似た中で唯一、異色を放つその目玉を見ながら俺は言った。口角が知らず上がるのがわかった。
「しようのない……、……。いいぞ。喰えよ。ヴァチカンに従属する司教さまの、文字通り清廉潔白な体を喰わせてやるよ」
俺はきちんと笑えているだろうか。不敵に笑えているといいなと思った。
なにしろこいつに施された淫紋とやらが、えらくとんでもない疼きになって、下腹中心に全身に広がりを見せていたからだ。
みっともなく語尾が震えているのが判った。ただしこれは恐れだとか怯えだとかそうしたものではなくて、単純に言葉の端々に力を込めていないと、おかしな声が漏れてしまいそうだったからだ。
まるで発作のように、強弱をつけた疼きが、ずくん、ずくんと渦を巻いて俺自身を襲う。はた迷惑な話だ。その器官を俺は持ったことがないが、子宮が疼く、だとかいうのはこういうことを言うのかもしれない。男の俺が、どうして内部からの快感に悶える破目になるのか、つまりは幻肢痛のようなものだ。納得がいかない。
「これ、……ッ、消せないのか」
すっと目を細めたアンデルセンを見上げて俺が訴えると、消せることは消せるが、そのままの方がいいと返された。
「どうして、」
「俺が興奮するからだ」
含み笑ってそいつは不意に体を倒し、俺に口づけた。
噛みつく口づけだった。ほんのついさっきかわしていた、確かめるような交歓するような、静かなそれとはまったく違って、口中をなぶり歯列をたしかめて吸いしゃぶる。そうしてそれだけのことが、めちゃくちゃ気持ちいいのだ。口蓋裏を舌先でつつかれるたびに、俺の体は跳ね、ぐ、ぐ、と高みに持っていかれそうになる。
唇が離れてゆこうとすると、勝手においてゆかれた気持ちになって、癪に障る。俺の方から引き寄せ、噛みつきなおした。放したくない。
口づけているあいだにも、器用なそいつは俺のシャツをはだけ、袖を抜いて、丹念に俺の体の表面をなぞった。半ば勃ち上がった下半身を互いにこすりつけ、形を固さを確認する。手慣れているな、俺は思い、でも夢魔ならそういうものなのかもしれないなと思った。
「……マクスウェル、」
舌をからめる合間に、そいつは俺の名を呼ぶ。俺はその声に答えない。答えたらこのゲームは終わってしまうからだ。
「マクスウェル」
それを承知で貴様は何度も何度も、角度を変えるたびに俺の名を囁いた。
本当の貴様はいまもずっと遠くの場所にいて、俺がこんなところでこんなことをしているだなんて、きっと未来永劫知らないのだろうけれど、それでもいいと思った。
唇を吸いなぶられているうちに、飲みこみきれない涎が顎にしたたる。べたべたで不愉快で、俺は唸りながらアンデルセンの体に指を這わせた。上着を脱ぎ、シャツ一枚になった貴様の布地越しに感じる肉感は生々しい。その肉感をたしかめるたびに、俺の下腹から絞り上げるような快感がうねり、どうしようもなく身がくねった。
割りひらかれた股の間にそいつが体をぐいと押し込み、ズボンの前立てを緩められる。……ほら、もうこんなだ。含み笑いで言われなくたって、自分がどんな状態になっているか判っている。
正直、脳天を突き上げる快感だけでお手上げなのだ。
こんな感覚は知らない。
先端よりたらたら先走る粘度の高いそれを掬っては、そいつが俺の後ろへ塗りこめる。
「……だいぶほぐれているな」
「口に出して言うなッ……、ッ」
「『俺』に突っ込まれたくて、部屋でひとり慣らしていたのか?」
「ちが、」
「可愛いな、マクスウェル」
言った瞬間そいつの指がいきなり二本差し込まれ、俺は声もなくのけぞった。とんでもなかった。
こいつが今勝手に記憶を読んだ通り、俺はいろいろな拗れた事情から、アンデルセンに抱かれる寸前まで行きかけたこともあったのだけれど、結局俺がうまく拓かなくて、そうしてどうにも次の機会が訪れなかった。
何しろふたりとも悪目立ちすぎた。
俺は基本的にヴァチカンを離れることはなかったし、アンデルセンは外征以外はフェルディナントルークス院にいたから、まずもって接点がなかった。電話は盗聴されている。書簡は開封されている。俺がヴァチカンより外に出るには理由が必要で、あちらこちらに目があった。秘匿機関の局長と、武装神父隊の隊長が、用もないのに肩を並べて歩いてみろ、足をすくう噂好きの格好の的だ。
だから、たとえば俺がひとり、いじましく部屋で慣らしたとしても、おそらくそうした次の機会は訪れなかったし、訪れないほうがよかったのだ。
う、あ、あ、まるで可愛げのない声が俺の口から勝手に漏れる。そいつが揃えた指を、ゆっくり前後に抜き差ししはじめたからだ。
やはり自分で慰めていたんだろうもう三本入ったぞと、そいつが言う。
普通に考えたら、こんな短時間で未経験の俺の体がひらかれるはずはなかった。付け焼刃の知識だと、ああしたものは、何日も何日も時間をかけて開発するのだそうだ。だからきっと、俺がやけにあっさりとこいつを受け入れることができるのは、淫魔の力か、そうでなければ淫紋とやらの効力なのだと思った。
まったくもって茶番だ。ご都合主義もはなはだしい。
「ン、デルセ、ン」
はっはっととっくに息が上がった俺の喉が、何度か押し出し、ようやく声になる。
「なんだ、」
「はやく、……やく、よこせ、ッ」
「急くな。朝まで長いぞ」
「痩せ我慢、するなよインキュバス……ッ、腹が減っているんだろ」
噛みつくように強請った俺に、またそいつは口づけた。いいから黙れとでもいうふうに、俺は口をふさがれ、
「……そうだ。最後の晩餐だ」
うっとり囁かれる。
「わかるか? ……最後の晩餐に、上等の食材が手に入ったら、お前はどうする? すぐにがっつくか? 一番うまい方法に仕立て上げて、熟れて熟れてどうしようもなくなったところを喰らうと思わないか?」
「……ぃらなぃッ、……知らな、しらあィッ」
「……ああ、かわいそうに。だいぶ出来あがっているな……」
つらいか? 聞かれて、一も二もなくうなずいた。この際建前はどうでもよくなっていた。とにかく下腹部の疼きがどうしようもない。これは、表からの刺激でどうこうおさまるものではなさそうだった。内から丹念に、擦りたててもらわないと解消しないたぐいのものだ。
「よしよし」
腹の上から撫でられ、俺はまたばたついてのけ反る。いい加減ひどくつらかった。だのにそいつは腹の上に置いた手を、
「……ッ?! おッ……う”、あっあっ」
唐突にまた電流が爪の先までびりびり走った。なだめるように口づけしかけるそいつから頭を振って逃れ、俺は声を上げる。ここがホテルでよかったと思う。こんな声、他の誰にも聞かせられるものではないからだ。
信じられねぇ。こいつ、この期に及んで、腹にまた何かしかけやがった。そんな言葉がぐるぐるして、俺はもがき、毛布をぐしゃぐしゃにして床へ蹴りだす。
貴様何をした、そう怒鳴ってやりたいのに、涙が勝手にあふれ出して喉が詰まり、うまく言葉が継げなかった。
「ああ……、そんなに泣くな。印にもうすこし魔力を注いだだけなんだ。……普通はな、初めてのやつに印を刻むと痛がって暴れるんだが、お前は適性があるらしいな」
「ふ、ざ、け……ッな!」
「ふざけていない。気持ちいいのは好きだろう?」
言われて俺はそこではじめておのれの下腹部を見た。いつの間にか俺はすっかり脱がされきってた。立ち上がったおのれ自身と、そうして薄紫に光を発するおかしな文様が腹に刻まれているのを、ぼやけた視界で確認する。
ヤバい。なんだかよくわからないが、これはかなりヤバい。
肌に触れるシーツの感覚だけでめちゃくちゃに気持ちがいいだとか、そこいらの薬より相当ヤバい。
もう、どんな姿勢をとっても正直気持ちいいのだ。
「おい、腰が揺れているぞ」
「ッ、ッ、ひ、う”」
「……こんなにだらだら垂らしていちゃあ、マットレスに染みができちまうな?」
「あ”ッ、畜生、止まらな、」
「マクスウェル」
そいつはうつ伏せになった俺の大腿を撫でながら、肩甲骨より下に唇を落としはじめる。触れられるたびにおのれの体が跳ねて、視界がちかちかした。これでまだ触られているだけとか、挿れられたら俺は本気でイキ死ぬんじゃあないか。こわくなって寝台の上へ逃げようにも、後ろからがっちり押さえ込まれて逃げることもできなかった。
骨伝いに丹念に唇を落とされ、やわやわ噛まれて、頭が弾け飛ぶ。。
セミダブルのそれは、簡易ベッドというやつで、ヘッドボードもベッドサイドもないただ四角の枠にマットレスが乗っけられているだけのもので、つまり俺には縋れるところがどこにも無かった。
手のひらに爪が食い込む勢いで握りしめ、シーツを手繰り寄せる。何かにしがみついていないと、気が違ってしまいそうだと思った。
涎なのだか涙なのだか汗なのだか、もうよくわからない体液で顔のまわりのマットレスはぐしゃぐしゃになっていた。濡れて饐えたにおいがする。だのに俺は頬をこすりつけ、いやだいやだと首を振ることをやめられない。
ずっずっと洟をすするのが聞こえて、なんの音だと思ったら俺自身が発している音だった。
「気持ちいいだろう?」
「……ぁめ、や、め……もうッ、アン、デルセ、」
「気持ちいいのは好きだろう?」
そいつはアンデルセンの声で俺に吹き込む。背中から覆いかぶさり、ぐちぐちと俺の後ろを解しながら、耳もとへ荒い呼吸と声を吹き込んで俺を煽る。
「……俺がほしいか、マクスウェル」
そうしてえらく硬く張り詰めた屹立を俺の後孔に押し当てて、どうだ、いけるか。試す口調で呟いた。
最初から数えてどれだけ時が経ったのかもわからない。おそらくとっくに日付は変わっていると思われたけれど、計るすべはなかった。
対する俺は、もういけるとかいけないとか、そういう次元ではなくなっていて、とにかく早くハメてほしい、この数秒おきに発する強烈な渇きに似た掻痒感が静まるのなら、なにをされてもかまわない、正直そんな心持ちになっていた。
もういいか。この際どうでもいいか。どうせ俺の痴態を見るのは、俺と貴様だけなのだ。
覚悟を決め、肩を寝台へ落とし、尻を高く上げる。言ってみれば雌の獣の姿勢になる。それから尻を揉むアンデルセンの手を払いのけ、おのれの手で両に割りひらいてやった。やられっぱなしは性にあわない。
正常位とやらでやられてやるものかと思う。顔を見られるなんてまっぴらだ。
寄越せと呟く。壊れてもいい。早く挿れろ。
正直、命じた声は、みっともなく掠れていて、威厳も優位もなかったけれど、後ろの男がひゅっと息を呑む程度は役に立ったようだ。
低いうなり声が耳に聞こえたと思った瞬間、そいつはいきなりあてがっていた切っ先を押し入れる。解されたそこはぬ、と広がり難なく亀頭を受け入れて、
「あ”——う、」
ずぶずぶ、と音が聞こえてきそうなほどに、熱いそれが俺の内へ埋め込まれていく。快感よりもその異様さに、体が勝手に逃げを打った。
「……ッ、……ッ!」
口を開けばやめろ、とか、いやだ、だとかうわ言で口走ってしまいそうだった。生理的な嫌悪感から、涙がぼろぼろこぼれた。それぐらい異質なものだ。なにしろ出すべき場所に無理やり押し込むのだから、根本としてさかしまだ。それはしようのないことだった。しようのない、けれど堪えきれるかどうかはまた別の問題だ。
だから俺は拳を口に当て、言葉が漏れないよう噛みしめた。
ぐ、ぐ、と俺の体内でさらに頭をもたげる貴様の気配がある。このイチモツこれ以上でかくなるのか。いい加減にしろ。罵倒が頭をよぎったが、怒鳴り散らすだけの余裕は残念ながらなかった。
「マクスウェル、」
全身が細かく痙攣して、一気に汗が噴き出してくる。駄目だ。苦しい。弱音を吐きたいのに、刻まれた淫紋は突きこまれた痛みを緩和させ、快感へと転換させる。
「マクスウェル……、」
ふっ、と背中の上から満足げなため息が聞こえる。おのればかり気持ち良くなってずいぶん勝手してくれやがるなと思いはしたけれど、思ってすぐにそいつが腰を前後に動かしはじめたので、俺はたちまちいっぱいいっぱいになった。
「ァ……、っ、……!」
食いしばった口からそれでもこらえきれない悲鳴が漏れる。あれだけ解されたにもかかわらず、がちがちに勃起したそいつを受け入れている入り口あたりは軋み、引き攣れて、俺に痛みを訴えるのだけれど、そこを過ぎた奥のあたり、ちょうど臍の下の裏側とでもいったらいいのか、そこへそいつのえらの張った雁首があたると、意識がぶっ飛ぶほど気持ちがいい。
――苦しい、気持ちいい、苦しい、気持ちいい、苦痛と快楽を交互にくり返して、俺は訳がわからなくなる。
何かにすがりたい。けれど狭いセミダブルの寝台の上に、すがれるようなものは何もないのだ。
「マクスウェル、」
とにかく腰を高く掲げることだけに集中し、ただただこの責め苦が早く終わるように頼む、頼むといつの間にかくり返し懇願する俺に、
「……苦しいな、」
いたわる手つきでそいつが下腹を撫ぜる。
苦しいなじゃねぇ、貴様が突っ込んでるから苦しいんだ。
そう言ってやりたかったけれど、いまさら口を開いたところで、まともにそいつに悪態が吐けるかどうかは微妙なところだった。
「アン、ェる、……ッ」
「うん、なんだ」
「ぉく、……っ、も、むり、む、ぅ無理、ッ……ん”、ひっぅ、」
抉るアンデルセンの先端が、どうしたって入りこんじゃならない奥まったところに当たって俺は慄く。
「マクスウェル、」
そいつは俺へ何度も何度も呼びかけ、かたく握りしめた拳の上からおのが手を重ね、応えを懇願するように俺の名を呼ぶ。……貴様な、懇願したいのは俺の方だ。
「マクスウェル、」
「ッ……か、はっ……ッ!」
もう何度目になるか判らないてっぺんに無理矢理押し上げられて、全身を痙攣させて俺は達する。腹のあたりは何度出したか、どろどろでひどい状態だ。見たくもない。
達したらそのまましばらく放っておいてほしいのに、そいつは遠慮なくがつがつ俺の中を蹂躙して、降りかけたてっぺんへ、たちまち俺は再度引きずり上げられる。
「無理、もっ、む”、ぅり、ッい、い”、……ィア”ッ、」
「マクスウェル、」
終いはようやく訪れた。
俺の名を呼び、そいつは最奥へ肉棒を突き立て、そうして密着した腰を鷲掴みにした指へ力を入れながら、ぐっぐっと俺へ白濁を注ぎ込んだ。
「――ッ!……っ、ッっ!」
ごり、と自分の内壁が抉られた音がした。まったくとんでもない。俺はとうとう掲げた腰を保つことができなくなって寝台へ崩れ、注ぎ込まれた粘液に手足を突っ張ってぎこちなく悶えた。
こんな感覚は知らない。
「――……マクスウェル、」
荒い呼吸がゆるゆる静まりはじめた頃合いで、耳元で囁き声が聞こえてきた。
それは、今の今まで乱暴に俺を揺さぶっていた獣性の唸り声ではなくて、ただ穏やかに俺を呼ぶ声だった。
目を開くのすら億劫だった。うとうとこのまま前後不覚にのびていたいのに、髪を掻き上げる手は優しく俺を呼び戻す。
うん、なんだ。俺は夢うつつ、うわ言まじりに応じていた。どうした、アンデルセン。
俺が答えると、くく、と笑う声がする。
「マクスウェル、」
そいつは俺を呼んだ。
「――……うん、?」
「お前、とうとう呼びかけに答えたな」
「……ああ、そうか、……、」
そう言えば俺はこいつに呼ばれても答えてはいけないルールだった。答えれば乗っ取られる。決して答えてはならない。それが夜の生き物と対峙するときの鉄則だ。
だがそいつが俺を呼ぶそこに、何か悪意のようなものは今は一片も感じられなくて、どこか子供じみた、思い切りおもてで遊んだガキが満足し、糸が切れたようにばたんと倒れ込む前の、安らいだ含み笑いだった。
「私の魂を奪ってゆくか?」
「……いや、」
うつぶせたままの背中に、じんわりとした暖かみを感じ、ああもう朝かと、日が上ったことを知る。
「マクスウェル、」
俺はゆくよ。声は言った。うまかった。然様ならだ。
「……うん、」
俺も答える。
いったい何がどうしてこうなったのか、俺自身もよく判らなかったけれど、そいつの腹がくちくなり、そうして満足して逝くというのなら、それでもいいような気がした。
「……アンデルセン、」
俺はそいつの名を呼び、そうして貼りついたような瞼越しに気配をさぐる。まあ実際俺のだかそいつのだかわからない体液で貼りついていたのかもしれないけれど、
「アンデルセン?」
答えはなかった。
……ああ、行っちまったのか。ずいぶんあっさりしたやつだったなあ。
長く息を吐き、俺はあらためて湿りまくったマットレスに体を沈める。目を開けてたしかめる気はなかった。そうして事細かに考えるには俺はくたびれすぎていて、ひとまず眠らないとどうにも使いものになりそうもない。
寝よう。そう思う。
寝よう。
寝て、起きて、シャワーを浴びたら、ヴァチカンに戻ろう。
なんだかなし崩し的にいろいろあった気もするし、正直どうしてこうなった感がぬぐえなかったりするが、はずみというのはそういうものなのかもしれない。けれど、まあ、なんとかなるのじゃあないか。そうも思った。
仕事が手隙なときでよかった。午前中いっぱい、俺が使い物にならなくても何とかなりそうだ。
無遅刻無欠席を貫いたイスカリオテの局長が、連絡もつかぬまま無断半休だとか、それだけで暇な各課からつつかれるスキャンダルになりそうな気もしたが、まあいいか。もういいか。人間生きていればいろいろあるものだ。そう思う。
あいつも言っていた。これは全部夢だと。
夢の魔物と書くのだから、きっと全部夢だったのだ。
アンデルセンによく似たあいつは逝った。満ちて消えた。それでいいと思った。