ハナミズキの葉が赤く色づいて、表の通りにだいぶ落ち葉を散らせる、そんな西風が吹く午後だった。
俺はいつものように仕事の息抜きに居住区を出て、一般区域、いわゆる世界各国から訪れる観光客があふれる広場に足を踏み入れる。
息抜きというのは、普通は静かな場所に行くものだ、どうしてわざわざそんなうるさい人混みの中へ、と、知らないやつには不思議がられるかもしれないが、人混みというものは、たくさんの人間がごちゃごちゃと入り混じり、互いに押し合いへし合いしている中で、実際は自分と連れの人間以外にほとんど興味がいかない、という、一種異様な空間で、そこに連れもない俺がひとり身を投じても、誰も俺を俺とみとめないのだ。
時々は俺の着ているものを見て、あ、教会のひと、みたいに反応を示す、主に修道服に慣れていない東洋のやつがいたりもするけれどそれも一瞬で、通り過ぎればすぐに露店や彫像に目が行って、俺のことなど忘れてしまう。
俺を俺と認識しない空間は、俺にはひどく心地がいい。
それから、最近暇さえあれば通っているバールがあった。
バールと言っても、ほんとうに屋台に毛の生えた程度の通り沿いの店で、一応は通り沿いに、安っぽいプラスチックの椅子が並べられていたりはしたけれど、客のほとんどはそこへ座ることもない。
売っているのも、冷やしているのかいないのか、ぬるいコークと、そうしてこちらもぎりぎり湯気が立つ程度の薄いコーヒーぐらいのもので、要は商売っ気がない。常にガラガラの店なのだ。
そこの何が気に入っているのかというと、単純に客の入りが悪いから、それだけだった。俺がのんびり日に焼けた椅子に座り、表の通りを眺めていても、誰にも邪魔されない。それはとてもありがたい。
そういえばだいぶ前の冬、迷子のガキを押しつけられたこともあったなと思いだす。
あのときは結構寒かったな。
そんなことを思いながら、前方からやってくる大きな一団を避けようと体を横にしたとき、すこし向こうから、人並みに逆らって歩いてやってくる貴様の姿を見つけた。
見つけて、そうしてああなんて俺は愚かなのだろうと暗澹たる気持ちになる。
こんなところで目に止めることなく、ただの観光客の面々、群れとなったそれに個はなく、俺はひとりひとりの顔に目を止めることもそいつがどこの誰と気づくこともない、それだけでよかった。
だのに俺は相当に愚かだったものだから、目を止めてしまったのだ。
ずいぶん長いあいだ見ていなかった顔だった。……いつから見ていない? 五年? 六年?
だのに、雑然としたおおぜいの顔、顔、顔の中から、どういうわけかたったひとつのそれに目がいった自分自身がうらめしい。永久記憶と瞬間記憶という、記憶のとどめかたにはふたつの種類が存在するそうだけれど、俺はそいつの顔を永久記憶の戸棚の方へ、ぽんと抛りこんでしまっていたようだった。
ぼんやりと、露店の品物、ちゃちなつくりのまがいもの、誰かに買って帰る土産でも眺めて歩いていたらしい貴様は、なにかのはずみでほんのすこし視線を上げ、すると俺の視線とかち合った。こちらを見たのは、ほんとうに偶然と言ったもので、決して俺が見ていたからではないと思いたい。視線に力なんてものがあることを、俺は信じていないからだ。
視線を上げて、俺を見つけたそいつは、ちょっと驚いたような顔をして、それからえ、どうしたものか、と思案したのが判った。このまま気づかぬふりをして、またひょいと視線を戻し、さりげなく離れてゆこうかだなんて一瞬でも考えたことを、俺は感じてしまった。
けれど、俺の足はずかずかと貴様に近づいていて、この距離で素知らぬ振りを決め込むわけにもいかない、回れ右をすればいやがらせすぎる、そう思い、貴様がそこにあきらめてそこにとどまることを選んだのを知った。
しぶしぶと言った態で、貴様は俺の方へ足を向けた。
観念しろよ。もう今さらだろ。そう思う。俺だって腹くくったんだぜ。
今さら知らぬ存ぜぬもない、そう思う俺の頭のもう半分は、八年ぶりに見た貴様の姿でいっぱいになって、もうそれだけで、他に何も考えられなくなっていた。
思考が停止するとかいう言葉があるが、俺はあまりそうした事態に陥ったことがなくて、銃だのナイフだの突きつけられているような切羽詰まったときだって、結構頭の片隅の方でなにがしか考えているものだ。それは例えば助かる算段だとか、俺は身を守るすべを持たないからどう床に伏せればよいかだとか、そうでなくとも昨日食ったピッツァのバジルは香りがよかったなだとか。
だから正真正銘、脳みそが考えることをやめて、真っ白というよりはただ透明のような存在になって、体がひとりでに前に進むという体験を、俺は新鮮な気持ちで他人ごとのように眺めていた。
そいつはもうとっくに、俺のもとを離れていた。
たもとを分かつとでもいうのか、ヴァチカンに在籍する身の上は同じだったけれど、俺ではそいつをあつかいかねる、だとか上層部が判断をしたせいで、俺の指示のもとから離れ、一課ペテロ直下の銃剣になった。
そのすこし後で、そいつがそれまでの働きを評価され、主任司祭あつかいで妻帯を許されただとかなんとか、そんな噂もちらと聞いた気もするけれど、俺にはもう関係のない話だった。
俺は、俺のもとにいない人間の成り行きにまで気を回すやさしさは持ち合わせていなかったし、またその余裕もなかった。
どちらももうずっと前の話だ。
過ぎた話だった。
だのに俺は、そいつがまったくの偶然を装いながら、ほんとうは俺に会いに来たことを知っていた。
そうでなければ、こんな大勢の中から、俺だけを見つけることなんてできなかったはずだった。
「――すこし、いいか、」
あと四、五歩のところでそいつは立ち止まり、俺を手招いた。そちらから近づくくせに、それ以上貴様から踏み込むことを決してしない。それは八年前も同じ、貴様の癖だった。俺はそちらへは行かない、お前が来いと根底のところで考えているのだと思う。自衛だ。ずるいやつだ。俺はずっとそれを知っていた。
……くそ。
だのに、声が耳に入った瞬間、急に喉が苦しくなる。どきどきして、うまく息が吸えないのだ。だのに体は貴様に喜んで近づいていくのだった。
いまわしいと思った。呼ばれただけで嬉々としてしっぽを振るおのれが信じられなかった。
最後の一歩を踏みこんでこないのが貴様だった。踏み込むのはいつも俺だ。
俺と貴様のあいだで、決定的に分かれた瞬間がそこだった。俺は貴様のそこが気に喰わなくて、何度もそれで衝突して、結局改善されることはなかった。
貴様は足元の無事な安全地帯にいる。しっかりとした岩盤を見つけて立って、それからはじめて俺へ手を伸ばす。貴様のよくない癖だ。
俺はそんな貴様が怖かった。いつか、思いもよらぬときに、ぱっと手を離される瞬間が来るのじゃあないかと思っていた。
たとえば俺と貴様のふたりが、同時に濁流にのみ込まれたとして、すると貴様はまずおのれが安全な土台に辿り着くまで、こちらへ手を伸ばしはしないことを俺は判っていた。勢いで共に死ぬとか、考えなしに助けるだとか、そうしたことをしない人間だった。
――会いに来ても、いいだろうか。
まだたもとを分かつ前、そいつが俺に言った言葉だった。来たら部屋に入れてほしいと、そいつは言った。言われて俺はなんとなく頷きながら、でもおそらくそんな未来はないのだろうなと思っていた。
一緒にいて、不安が湧いてくる人間と、俺は同じ空間にはいられない。
けれど俺は、そいつがきらいじゃあなかった。不安だとかどうでもいいほど、そいつを手に入れたくて気が触れてしまいそうだった。
そうして結局、俺はおのれのこころとそいつとの距離を計りかねて、会うことをやめた。
……嘘をつくな。
俺の中の誰かが舌打ちをする。
そうじゃあない。貴様にさようならと言われることが怖い俺が、一方的に関係を切ったのだ。さようならと言ったのは俺。もう会わないと言ったのも俺。
もう一度会えないだろうか、話がしたい。
そんなように貴様は、一生懸命こじれひねくれた俺と貴様の関係とやらを修正しようとしてくれていたけれど、俺はがんとしてもう会わないと言った。
もう会わないと思った決意が、会った途端にぐらぐら崩れるのが怖かった。
けれど、あと一歩を踏み込んでこない貴様は、そのときも結局あきらめて、最後にはさらしの封筒に鍵をしのばせて俺のもとへ送ってきた。
貴様に渡した俺の部屋の鍵だった。
便箋一枚入っていない、さびしい封筒だった。
捨て鉢になり、懇願し、必死に縋りついて、いやだどうあっても俺はお前とはなれがたいんだと言われたら、俺はたぶん手のひらかえして頷いただろうにと、封筒を眺めながら思った。けれど俺は、貴様が決してそうしてこないことを知っていたわけで、だから結局、卑怯だったのは俺の方だ。
……愛されたかったのだろうか。
わからない。まず愛、だとかいうものが判らない。すべてをなかったことにした俺には、どれだけ考えてもせんのないことだった。
差出人の名すらない封筒は、すぐにごみ箱へ捨てた。
その貴様が目の前にいる。
ああ、でもやっぱり、最後の一歩は踏み込んでこないんだな。ほら、踏み込むのはいつも俺だ。
だから俺はそいつに近づいて行きながら、ひどく暗い気持ちになるのを抑えることができなかった。
「お久しぶりです、」
ためらいがちの笑いを浮かべて俺を見たそいつは、けれどあのときと同じ、俺が好きだった貴様だった。
「久しぶりだな。」
「お元気そうで、」
「……ああ、変わりなくやってるよ。」
笑った貴様の目尻に皺が浮いていて、どうにもくたびれた顔をしているのだなと俺は思った。そうだな、もう八年経っているんだものな。
お互い、年をとったのだ。
あのころとは違う。互いにもういい年になっていて、俺がそいつを見てなんだかがっかりしたのと同じくらい、そいつも俺を見てがっかりしたのだろうなと思った。
「……あなたはまるで変わらない、」
だのに貴様はそんなふうに言った。それは通りいっぺんの社交辞令というやつだったのかもしれないけれど、ありがとうと俺は答えた。
「あなたに会いに来たんですよ。」
そうしていきなりど直球にそんなことを言う。俺は推し量るつもりで、そいつの顔を見上げた。相変わらずなんだかくたびれた笑顔を唇に貼りつけて、そいつはじっと俺を見ていた。
「今度、大司教に叙階されると風の噂に聞きましてね。」
「ああ、……うん、」
「おめでとうございます。」
頬をまたすこしほころばせて、貴様は笑った。ひどくやさしい、やさしいゆえにたよりない、力のない、どこかさびしい笑顔だった。
「あなたに会って、直接言いたかったんですよ。」
「うん、」
なにを言われるのだろうと俺は身構えた。
ここは公衆の面前で、さすがに場はわきまえていると思いたいが、もしかすると、いきなり罵倒されるのかもしれない。罵倒されるだけの不義理な対応をした自覚は、まあ、ある。
俺が徹底的に突っぱねたあと、貴様はいろいろとだめになって、しばらく酒浸りになっただとか、任務でありえない決定的なしくじりをしただとか、他の局員から聞かされていた。……だから局長、お願いです、アンデルセン神父に会ってください。
その原因を作ったらしい俺へ、頼みこむようにハインケルや由美江が言ってきたことがある。会う? 俺はせせら笑って拒否をした。
会ってどうする。会ったって、突き詰めれば、だめになったものはだめなんだよ。
一方的に音信不通になった俺に、いまさら非難の言葉でも浴びせかけに来たのだろうか。お前だ、お前のせいで俺はだめになった、そんなふうに言うためにここまで来たのだろうか。そう思いながら、けれど本質的にやさしい貴様は、きっとそんなことはできないのだろうなとも俺は判っていた。
非難すると言うことは、残りの一歩を踏みこむと言うことだ。
「――ありがとう。」
何度か口を開けては閉じ、言葉を思案していた貴様は、最後にそんなことを言った。聞いた瞬間、おのれの顔がさっとこわばるのを感じる。
……ありがとう。
ありがとうってなんだ。
皮肉かと思って見返すと、貴様はまっすぐに俺を見ていた。いつくしむ眼差しだった。
そうして俺はその時はじめて、そいつの指に銀環がはまっていることに気が付いた。
「――ああ、」
俺の目がとまったことに感づいたか、左手をそっと後ろへやって、こまったように肩をすくめたそいつは、来月結婚するんです、と言った。
そうか。俺の口が返す。
そうか。お人よしの貴様によく似たお人よしの誰かを、貴様は見つけたんだな。
前述したように目の前のこいつは、特例で主任司祭となった。だがこれまでのこいつの功績を考えればそれは遅いくらいで、かたちとしては特例なのかもしれないが、要は餞(はなむけ)だ。新しい再生者を見つけたあとの、前任の厄介払いだ。
それとも、もしかすると、こいつの優秀なDNAをようよう認める気になって、上層部がそのように仕向けたのかもしれない。こいつ一代で終わらせるには勿体のない素体。クローンをつくるよりだいぶ安上がりだと思った。
「……そうか、」
おめでとうと言うにはなんだか場違いな気がしたので、俺は頷くにとどめた。それ以上の複雑な感傷は湧いてこなかった。ただ、そんなことをわざわざ報告しに来るあたりが、愚直な貴様らしいなと俺は思った。
「田舎へ引っ込むんだろう?」
「そうですね。」
「地方の教会の財政は逼迫しているというし、ぶどう農家でも兼業するといい、」
「それもいいかもしれませんねぇ。」
うすく笑っていた貴様は、不意に腕を伸ばして俺を引き寄せ、軽く抱きしめる。俺も同じように腕を回し、貴様を抱きしめた。完璧な抱擁。こいつの行く先を祝福する、ヴァチカン在籍の同僚同士の抱擁だった。
気持ちは凪いでいた。そうして、もう二度と会うことはないだろうと思った。こうして触れ合うのも最後で、だとしたら醜い感情なんて湧いてくるはずはないのだ。
「――相変わらず、細いな。」
貴様は言った。
「きちんと食べていますか。」
「食ってる。食ってるし、休んでいる。貴様に心配されずとも、私はひとりで大丈夫だ。」
「――そうですか。」
「うん、」
そこでしばらく間があった。
友人同士、挨拶の抱擁の時間にしてはわりとぎりぎりの、そんな間だった。
いっそここがどこか人目のない場所だったなら、俺もそこまで気にはしなかったのかもしれない。けれどここはサンピエトロ広場に続く大通りで、有象無象の人間の目が行き交う気の抜けない場所だった。
いくら端の方へ寄っているとはいえ、カソック姿の男と男が抱きしめ合ったまま離れないだとか、仮に観光客の誰かが注視していたら、醜聞もはなはだしいと思った。
「……困ったな。」
だのに、うつむいた貴様が耳元で呟く。本当に心底、困ったような口ぶりだった。
「このまま、もう一度やり直したくなる。」
「――……、」
言われて俺はうつむく。噛みしめた奥歯に、頬が歪むのが判った。
無理だ、と俺は言葉を押し出す。
「無理だ。何度やり直しても、同じことをくり返すだけだ。わかっているんだろう。」
触れた瞬間、絶対に無理で、状況的にあり得ないとはわかっていても、やり直したくなったのは俺も同じだった。もう一度、最初から、互いになにもないまっさらな状態でやり直すことができたなら、もしかすると別の可能性があるのじゃあないか。
けれど、たとえやり直したとしても、結局俺は貴様の同じところに行き詰って、不安に陥って、そうして最後の一歩を踏み越えてこない貴様にいらついて、駄目になるしかない未来だと言うことも判っていた。
「……ああ、時間だ、」
言って、名残惜しそうに貴様が体をはなす。うん、と言って俺も離れようとして、おのれの手が、相手の服を握ったままなかなか開かないことに気が付いて笑えた。
未練たらたらなのはお互いさまだった。
なにを言っていいのか、言葉に詰まって俺は貴様を見る。きっと今、ものすごくほしそうな目をしているのだろうなと思った。
「……なあ、」
「なんでしょう。」
「貴様の行く手に幸多かれ。」
「――、」
「願わくば、恩恵と、平安と、汝に在らんことを。」
俺は言った。未練がましい俺からの、貴様より上位の俺からの、最後の餞別だと思った。
「あなたも、」
「私はもう満ちている。」
「……そう、」
そうあれかし。
貴様はそんなふうには言わなかった。頷くにとどめただけだった。満ちていないのだろうか。だったらどうして来月結婚なんてするのだろうと思った。幸せじゃあないのに結婚するのだろうか。けれどそれは聞いてはいけないと思った。
「では、また。」
「……うん、」
おそらくもう会うこともない。また、だなんて機会は二度と訪れない。なのにそう言って、貴様は俺に背を向け、来た方向へ歩き出す。よそよそしい、終始互いを伺うような邂逅に似合いの、ぎくしゃくとした別れだった。
もともと行くつもりだったバールの店先へ、俺も足を向けながら、どういうわけか目の前がぼやけた。片手のひらで顔を覆う。俺は満ちている、俺は満ちている、……満ちていると言ったはずなのに、どうしてこんなにも視界が悪いのだろうと思った。
だけど、と絶対に振りむいてはいけない冥界下りの気持ちになりながら、俺は前に向かって歩いた。戻らない過去。そうして、やってくることがない明日。
手前勝手に終わらせた結末だというのに、どうしようもなく今さら涙が出た。
だけど、ともう一度俺は思う。
だけど好きだった。貴様に対して、二度と口に出すことはないけれど、それでもやっぱり俺は貴様が好きだった。
瞼を覆った手袋が湿るのが判っていらいらする。
不安で仕方なかったけれど、本当に好きだった。