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 抛りだす、という言葉そのままに、モルタルの床めがけて勢いよく、掴みあげていた腕をアンデルセンは放した。放したので、罵り声をあげながら引きずられてきた手の中のマクスウェルは、したたかに背中を打った。打ったと思う。
 だのに、ばね仕掛けの反動で首をもたげ、それは男を睨むのだった。
 細い首が、撃たれ墜ちた鳥のようだと思った。
 きつい眼差しだった。
 打ちつけた背中の痛みか、それとも力のままに、庭から鷲掴みにされていた腕の痛みのほうがより強いか、痛みというよりは、まず先にそれまでこらえていた怒りがとうとう限界にきた、のが正解だろうなと男は見下ろし思った。
 腺病気質のある彼は、周りから実にこらえ性のない人間のように思われがちではあったけれど、実際のところ人目を気にして瞋恚を飲みこんでしまうのがここにいた頃よりマクスウェルの癖だった。
 よほど腹に据えかねないと、怒りをおもてにしないのだ。
 慇懃な嫌味は山ほどいう。小言も言う。だが、沸騰点は意外に高いことを、男は知っていた。
 ……だが、そんなにお前は精勤なやつだったかね。
 風船の口を縛るのに悪戦苦闘していた彼を思い出し、なんだかおかしくなって、男の頬に笑みが浮かんだ。
 おのれの無骨に太い指よりも、相当細い指をしているはずなのに、その結び目を作るさまは、ぶきっちょでたどたどしいことこの上ないのだ。しなやかな指先、だとか、どうあっても言いあらわしはしてやれないなと思う。
 自分は結ぶのがどうにもまずいので手伝ってくれとはどうにも言えなくて、なんとかひとりで済ましてやろうと躍起になると、への字に口が引き結ばれた。無関心にとりすました顔が幼味を帯びる。本人は気付かない。おのれの顔はおのれでは見ることができないから、それも当然だ。
 負けん気。それ以上の強情な、なにか。
 昔からだったな。思い出すとどうにも笑いがこみ上げた。
 それから、ふんと笑いを鼻息とともに漏らしながら、アンデルセンは壁にしつらえられたシャワーの元栓を思いきりひねった。
 前動作なくいきなりひねったので、
「貴様な、……ッ。」
 怒鳴りかけたマクスウェルが、ひゅっと呼気と水も同時に吸いこんだ。思いきりひねった水勢は容赦がない。まるで地雨かそれ以上だ。おかげで彼ははげしく噎せ、しばらく咳き込む。つづく言葉は聞こえない。
 ……ああこれは鼻からも吸ったかな。他人事のように思った。
 宵祭りのあった庭から、アンデルセンが問答無用でマクスウェルを引っ立ててきたのは院の宿舎の廊下の突き当たり、かたい石の階段をくだった先の、半地下のシャワー室だ。おのれの部屋に連れて行くつもりはなかった。職員用の部屋にもうけてあるシャワーの水圧では、彼の汚れはぬぐえない。あれだけ多くの目を浴びたのだ。
 打ち据える力が必要だと思った。
 水の流れを下から順繰りに追い、雨影を見るとはなしに眺めて、そう言えば子どもたちがこの部屋のことをガス室、だとか呼んでいることを、アンデルセンは唐突に思いだす。
 子ども特有の悪ノリ感覚のあだ名というもの。
 口さがないどの子が言いだしたかは知らないが、男が知ったときにはすでに数代言いつがれていたようだったから、わりと初期から言われ続けているのかもしれない。
 ――お前、今日のガス室、何番目? 俺? 俺はいちばん最初だよ。
 そんな声を聞いたことがある。
 男は部屋を眺めまわす。
 十をすこし超える数のシャワーヘッドが天井に固定されていて、四方の壁と床は塗りたくられたモルタルの床だ。明かり取り用の窓が一つ。中央をすこしずれたところに排水口があって、かびくさい水はそこへ流れてゆく。
 割り振られた人数、決められた時間に、肌着すがたの子どもたちが押し込まれ、頭上から水が降りそそぐ。あまりにも無機質な造作の部屋だったから、その名前がついたのかと男はいままで思っていたけれど、なるほどナチスドイツに引き立てられたユダヤの人間になされた行為と、言ってみればたいして違いはなかったのだ。
 水か、そうではなかったというだけで。
 だとすると、子どもの名づけ感覚というものも案外正しいのだなと男は思った。
 そう言えば、いま、床で濡れるだけ濡らされているマクスウェルは、この部屋を同じようにガス室と呼んだのだろうか。
 ボイラーはすでに止めてあったので、水は文字通り水だった。これだけ暑くても、水道管を通る水はわりあい冷たいのだなあと暢気な気持ちで男は思い、それからはげしく咳き込むマクスウェルの傍らに、おもむろに膝を着きのぞきこむ。
 潤んだ青色を見たいと思ったのだ。
 のたうつ髪は濡れたため全身にへばりついていた。
 生理的な涎だか洟だか判らないものでぐちゃぐちゃになった彼が、言葉の出ない代わりに男を鋭くにらんだ。滴が滴る。
 ひさかたに見たマクスウェルの瞳はやはり青かった。
 ……ああ良いな。男はうっとりとそう思う。
「き、ざ、まな”、」
「どちらがより痛みますか、」
 彼が再び口を開くだろう間を見計らって、男も同時に口を開いた。言葉をかぶせる。そうして、え、と一瞬ひるんだ隙を、無理矢理こじ開けて広げるのだ。
 はたして彼は、
「……なにが、」
 ごまかそうとして肩が揺れる。罵声は立ち消えた。
 お前はほんとうは嘘が下手なやつだな。男は思った。
 イスカリオテの名を冠する十三課の職務において、実際、毛筋の先一本たりとも動揺を感じさせぬ鉄面皮でもって、マクスウェルが同業と、もしくはそれ以上の狐狸どもと渡り合う姿を男は遠目から知っていたけれど、それは彼が何層もの壁を、おのれの周りにはりめぐらせた仕事上の涙ぐましい努力の首尾だ。彼の本質とはまるで別の、生きて這い上がってゆくために否応なしに身につけなければならなかった、半透明であちらの見えない寒天質の南山不落だった。
 だが不用意ななりゆき、それもマクスウェル自身についての問いになると、彼は面白いほど素がでた。
 彼はその自覚がない。彼自身は気付かない。――あわれなり鳩。男は呟いた。そのちらと見せる隙がどれほど周囲の嗜虐を煽るか、お前はわかっているのかね?
 判らないふりをした。おのれが道化のふりをして、それで彼が安息を得られるのなら、それで良いことにしようとした。
 しようと思った。
 なにも見えない、なにも気付いていない、無知蒙昧の芝居を演じてみせた。
 差しのべた手のひらに脅えるから、差しだすことをやめた、だというのに、

「約まるところ同じことでした。……同じことですね?どちらにしたってあなたは自分を追いつめ続ける、」
「……なにが、」
「前にも歩き方のおかしいときがあった。足裏へ傷をつけられていましたね。なんともないと言い張ったあれは、いったいいつでした? 半年? 一年前? もっと間があきましたか? 遠方の任務ばかりくり返し命じられるもので、時間の感覚がどうもさだかでない。……合点のいかない顔をしていますね。もっと端的に言いますか? あなたが私を露骨に避けはじめてからどれくらいです、?」
「――知らん。」

 顔をそむけ彼は即答した。吐き棄てる物言いだった。
 あまりにもそのいらえが早かったので、男は目を見張り、おかしくなってすこし笑った。
 考えを止めたときの彼の癖。意固地になって奥歯を噛みしめるものだから、ほら、頬がゆがんでいる。
 そのままマクスウェルの頬に腕を伸ばしかけて、ふと気まぐれに男は行き場を変えた。触れられると身構え、こわばった彼の頬を素通りし、膚に張りつくばかりでまるで着衣の意味をなしていないシャツに手をかけると、無造作に引き千切ろうとした。
 だが破れない。
 ぐいと引いて、相手の重さにシャツが撓むのを手のひらで感じる。濡れた布というのは思いのほか丈夫で、破れにくいものだった。
 ……そうだったな。
 そんな当たり前のことに、アンデルセンは今さら気がついた。
 もうせんから洗いくたびれた、折りたたむたびにはらはらと繊維埃が舞う、縦糸と横糸の毛羽立つさまが見えるここの敷布たちならいざ知らず、上段まで確りと嵌め止めてある釦穴ごとシャツをぼろくずにするには、かなりの無茶がいるのだった。
 上から順繰りにはずしてやるやさしさはあいにく持ち合せていなかったので、さてどうしたものかと男はひと息分思案する。
 その隙を衝いて手の中の獲物がぱっと立ちあがり、シャワー室のドアめがけて駆け出そうとした。
 すかさず足を払った。
 力を加減せず勢いまかせに払ったので、もんどりうって転がるところへ、
「この間合いで、私があなたを取り逃がすと思ったのなら、ずいぶん舐められたものだ。」
 あきれた声がでた。
 そのまま左右の足を革靴から引き抜き、裏をかえしてそら思った通り、と二つ目の嘆息が出る。
 あのときと同じだった。いくつもの赤黒い十字がきざまれていた。
 痛そうだなと思う。よくも平然とした顔をして歩けたものだ。
「……やめろ、ばか、」
 怒りに歯軋りし、低く唸り声をあげるマクスウェルを男は眺めた。暴れたところでそもそも力では彼は男にかなわない。万力に挟まれたようなものだ。
「誰につけられた。」
「……貴様には関係ないと前にも言ったはずだ、」
「この足で逃げられると思ったか、」
 男は言った。
「――、」
「逃がすと思うか?」
 お前をここまで引き寄せるのに、どれほど手回しをしたと思う。
 低い声で告げると、すっとマクスウェルから怒気が失せた。みごとなものだった。
 室内がしんとなり、ただシャワーから降り注ぐ水の音が耳に滲みる。
 男から目を逸らし、マクスウェルは床の排水溝へ目をやって、

「……なにが、」
 ぼつんと三度めの同じ言葉だけを口にした。

「――建前がほしかったのでしょう。」
 アンデルセンは言った。
「あなたが納得できるだけの、くどくど持って回る言い訳がほしかったのでしょう。仕方ない、これだけ孤児院から要請されているのだから無下にことわることは世間体が悪い、なにせ上からの指示だから、……そうして大手をふって、ここへやってくる理由がほしかったのでしょう?……、あなたはそれを自分でしなかった。自前で屁理屈をつくるということは、あなたが認めたくない部分を認めることだ。そう思った、違いますか?」
 いらえはなかった。
「でしたので私が作りました。」
「――、」
「マクスウェル。」
「――、」
「ロザリオは、どこに置いてきた、」
 問うまでもなく彼はその身に十字をつけていない。貼りついたシャツの下に見えるのは地肌の色だけだ。

 しばらくマクスウェルは動かなかった。
 彼が動かなかったので、それ以上は男も黙って、たっぷりと水気のふくまれた空気を吸い、吐いた。くり返しくり返し、深く呼気を吸い込んでは腹にとどめ、限界ぎりぎりまで満ちると、鼻からしずかに逃がす。
 ひとつ、ふたつと諳んじ、やがてそれが百になり、千を超えたあたりで、つとマクスウェルが顔を上げた。
 ――なんという目だ。
 男は思った。背骨に沿って下から上へちりちりと痺れが奔る。ちいさな慄き、興奮、またはそれに似たなにか。
 お前、なんという目でひとを見るのだ。
「私は、……。」
 低くかすれた声でマクスウェルが呟いた。熾火のようにゆらめく感情に、目が濡れていた。――めでたし、聖寵、充ち満てる聖母マリア。
 その濡れた目が、ゆっくりとおのれの体を這いたしかめるのを感じて、男は口角を上げてシャツの前立てへ手をやり、釦をゆるめる。胸もとのひとつ、ふたつを外して中を見せてやり、――……ほら。驚きに軽く見開かれる青い目を堪能した。
 引き返すのならぎりぎり今のうちだ。そう嘯く。俺だって聖人君子じゃあない。
 彼の前へもう一度膝をつき、すくい上げるように顎へ手をやると、抗うと思われた彼は、すっと目をすがめただけで、それ以上の動きを見せなかった。
「……ここで?」
 唇を近づけ、それが重なる直前で、彼がわずかに呟いた。そうだ、ここでだ。手を離せばすぐにお前は逃げていってしまうからな。
 ちゅ、と小さな音をたてて唇を重ね、数拍おいて離す。マクスウェルは大人しかった。……暴れないのだな。意外に思いながら、男は二度、三度口づけた。最初は浅く、軽く、互いの唇のかたちをたしかめるように重ねられていたものが、次第に食み合い深いものへ変えていく。
 応えようと、唇をうすく開く彼の動きがたどたどしい。

 おい、知ってるか?
 ヴァチカンのそこかしこですぐ立ちのぼる彼の悪評が、ふと男の耳にこだました。

 ……特務機関の……ほら、あの局長。そうだよ、お前も見たことあるだろ。あんまり表には出てこないけどさ、ほんの時たま、朝課で見かけたりとかさ。そうそう、よく、五課の課長とかと一緒にならんでるひとだよ。ちょっとレアだから、見たらその日は運が付くとか言われてる、……、……そう。あのおきれいな顔して、わたしは清廉潔白でございますぅ、みたいな顔して、いつも高くとまってる感じのあのひとだよ……。え?……そうそう。あいつさあ、どうにもあの顔でのし上がったんだってよ。まあ見てりゃあ、お察しってやつだけどさ、だいたい、異例の出世ってだけでもうおかしいんだよ。このあいだの……ほら、■■枢機卿が来たときの懇親会もさ?……あいつ、あからさまに媚売ってる感じだったろ。隣席に配置されてさ。枢機卿、歓談のあいだずっと、あいつの膝の上に手を置いてたって話じゃあないか。そうそう、しかも、眉ひとつしかめないでそれに付き合ってたって言うけどさ、いや、普通、いくらお偉いさんだって、それはそれ、遠慮してもらうって言うかさ。辞退するって言うかさ。ぶっちゃけ、そのままにするか?……怪しいもんだろ。あのあと、■■猊下、わりと早めに自室に引っ込んだっていうけどな、たぶん、……、……なあ? そう、あいつから誘ったにちがいないんだぜ……。

 彼は容姿が整っている。男は見下ろす。
 それは、彼が常日頃努力して保っているものではなくて、単純に生まれながらにして「そう」だったというだけだ。妾腹だった。母親は娼婦だっただとか、売れない舞台役者だったとか、没落貴族の出だったとか噂は後を絶たないけれど、はっきりとは知らない。美貌で知られていたと言うことだけはたしかだ。
 孤児院配属のアンデルセンですら詳しくは知らされていないのだから、きっと彼自身もはっきりと判っていなかったのだろうと思う。
 ときに彼が自虐の意味でぽつりと母親の話を漏らすこともあったけれど、それは常に死に際の話だった。生きている姿を覚えていないのだと言った。
 抱きしめられたことがあるのかすら判らない彼に、愛された覚えもなかったろう。
 だが確かに美しい。認知しなかった実の父親だけが、彼の母親を知っている。父親は、生き写しだと彼を評した。
 噂にとどまらず、アンデルセン自身も、彼が上層部の人間と親しげに廊下を歩いているのを見たことがある。隣に立つ人間の手は、彼の腰に回されていた。それは傍目から見ればさりげないエスコートだったのかもしれないが、そもそも男が男にエスコートをすること自体間違っている気がする。
 噂は彼の耳にも当然届いていたにちがいない。けれど彼は、肯定しない代わりに否定もしなかった。ただあいまいに笑ってみせただけだ。

 なんだ。男の視線を受けてマクスウェルが言った。
「……慣れていないんだな、」
 意外だった。男が素直にそのまま口にすると、即反応し、眉根を寄せた彼が鋭い目で見上げてくるのがわかる。
「百戦錬磨の手練手管で、夜ごと寝台を変えたと? 私が今の地位を、閨で手に入れたと貴様も思っているのか、」
「……失言だったか。」
「侮辱だな。……前に冬山で死にかけたとき、言わなかったか? 吸血鬼に精を注がれたら、きっと私はグールではなく吸血鬼になると。」
「言ったな。」
「あれは、嘘じゃない。」
「……、」
「嘘じゃない。」
 くり返すマクスウェルの目がまた揺れている。不安というよりは、うちからこみ上げる情欲へのためらいだ。
「アンデルセン、」
 私は何も知らないから、言って彼が男へ手を伸ばし、彼の側から唇を寄せる。
「貴様が教えてくれ、」
「――、」
 重ねられた唇はひんやりと冷たかった。
 そのまま、先ごろの男の動きをなぞるように、口づけては角度を変え、また重ねる動きを彼がおずおずと繰り返す。
 うだるような空気は半地下のここにもまんべんなく広がっていて、細かな湿気のひと粒ひと粒が見えてしまいそうなほどに重く濃かった。その空気も相まって、水が滴る体からむっとにおいが立ちのぼる。汗と、石鹸と、そうして彼自身のにおいだ。すんと大きく吸い込んで、胸に溜める。
 それはマクスウェルも同じだったらしい。
 まずいな。男の肩甲骨のあたりへ手を回しながら、彼が口づけの合間にぼやいた。
「どうした、」
「……貴様のにおいで頭がいっぱいになりそうだ。」
「なるといい、」
 俺はもうとっくにいっぱいだ。
 言って、次はどうすればいい、問う目で見上げる彼の頭の後ろへ手をあてがい、アンデルセンは噛みつくように口づけた。


 水に打たれ噎せながら男の動きをまねていくマクスウェルは、常日頃の彼とはさかしまに、従順で純朴で、大人しかった。
 互いに口を開き、よりどちらが相手の上にかぶせるか競うようにして、唇を食み合う。こうするんだ、と舌を伸ばし彼の舌先を突くと、おなじように舌を伸ばした彼がこたえる。シャワーの音にかき消されて、舌をからめ合う水音は聞こえない。
 次第に彼の呼気がふ、ふ、と穏やかなものから鼻にかかるものに変わっていくのを感じて、男は無意識に高揚した。
 彼の薄い舌先と、おのれの厚ぼったい舌が絡まり合ってゆくうちに、熱もあちらへうつったようだった。ひんやり冷たい彼がだんだんに、ぬるい温度にうつってゆくのが触れ合っているとわかる。
 けれど、上から叩き打つ雨にも似たシャワーが、興奮していく体温を奪って排水溝へと流してゆくので、それ以上に上がりようがないのだった。
「……ンデル、セ、」
 口づけの合間に、しっかりとめられた釦をひとつひとつ、上から順繰りに外していく。どうせぐっしょり濡れているのだから、布地の上から触れても同じようなものなのだろうけれど、彼の肌に直接触れたかった。
 すると口づけと同じようにマクスウェルも手を伸ばし、男の釦を外そうとする。外そうとする、けれど指先が震えていて、まるで力が入らないらしく、うまくいかない。
 すこしおかしくなってアンデルセンは吐息だけで笑った。……しようがないだろ。男が笑ったことに即座に気づいた彼が、むっとした顔になる。
「……他人の釦を外した覚えなんて、せいぜいここで粗相した下級生の世話をした以来だ。」
 貴様はなんでそんなに慣れているんだよ。むくれる彼に、私は世話になれていますから、と涼しい顔で男は言った。
「私はガキじゃない。」
「似たようなものだ、」
 むずかる彼へ唇を寄せて、ふたたび噛みつくと、マクスウェルはそれだけでもう許容いっぱいになってしまうのだった。
 釦をゆるめようと伸ばした指が止まっている。ゆるめるのではなくシャツをぎゅっと握りこみ、すがる動きになっていた。
 ああ、ほんとうに慣れていないのだ。

 早々に彼を剥いたアンデルセンは、そのまま彼の肌へ手を当てる。予想はしていたのだろうけれど、それでもぎくんとなり、思わず退ける腰を追うようにして、男はおのれの体を割り入れた。
 打ちっぱなしの床へ尻もちをついているマクスウェルの脚と脚のあいだに体を入れたものだから、彼はもう動けない。
 ぐり、と一度膝がしらでやや兆している彼の股間を刺激してやると、一瞬大きく見開いた瞳が、やがておろおろと座り悪そうに宙をさまよった。
「アンデ、ル、セ……、」
 不安そうに小さく呟く彼に、どうした、と囁いてやる。
「シャワー……。噎せるし、溺れる、」
「止めてもいいが、止めると聞こえるぞ。」
 ほら。顎でしゃくって明り取りの窓を示してやる。半地下のここからだと、明り取りの窓はちょうど地面の高さすれすれで、そこから無数の土を蹴る足音が聞こえてくるのだった。
祭りが終わったのだ。
 後片付けをする上級の生徒たちと、大人だけが残り、低学年の子供たちは先に部屋へ戻ってゆくその足音だった。
 さっと青ざめるマクスウェルに、大丈夫だ、と男は声を吹き込んでやる。
「シャワーより大きな音を出さねば聞こえない。」
「……しかし、」
「入り口の鍵はかけたし、鍵はここにある。内からの掛け金もかかっている。万が一誰かがやってきても入ってこれはしない。」
「しかし、」
「それとも、声を抑える自信がないか?」
 含み笑いで煽ってやると、かっとなった顔が男を睨んできた。できるとも。売り言葉に買い言葉というやつで、マクスウェルが挑戦的に言い放つ。
 その偉そうに仰のいた鎖骨のあたりに顔を伏せた。細い。長身であったから、頼りなげがちには見られなかったけれど、そもそも彼は骨が細いのだ。
 力を込めれば噛み砕けるような気もする鎖骨をやわやわ食んでやると、は、と彼が息を飲んだのが音で判った。そのまま骨をたどり、くぼみを過ぎて首筋へ向かう。血管が皮膚の下で脈打っているはずだった。ぶつりと噛んだら赤い血が吹き出るのだろうな。
 男は常に狩る側だった。暗がりに蠢動するミディアンどもの気持ちを慮ったこともない。考えるだけ無駄だ。――最速。触れるな、交わすな。それが掃討する際の鉄則だったし、そうやって男も後発へ指導してきた。
 だから、妖魔どもに同調する、というのもおかしな話なのだけれど、人間のやわらかな皮膚の下に走る血管へ牙を突きたてたいという欲望、溺れるほどに喰らってめちゃくちゃにしてしまいたい、たとえぐちゃぐちゃに見る影もなくなって、あとは肉塊と化してしまっても、今いっときの快楽に身を投じてしまいたいという衝動が、今だけは理解できるなと思う。
 なるほどこれは壊したくなる。
 舌で上へ舐めあげるように這わせると、マクスウェルの体が震えた。
 先ごろまで男の動きをまねていた彼は、今はその余裕もなくなったようで、男のこわい髪へ手を差し込み、時折くしゃくしゃとかき回している。それが男を高ぶらせる仕草と言うことに気づいていない。見上げると、目をつぶっていいのか、開けていたらいいのかも計りかねている様子で、ぼんやり水滴を見つめている。一度かち、と視線が合うと、気恥ずかしそうに逸らされた。
犬のように何度も下から上へ、血管に沿って男は舐めあげる。そのたびに小さく肩を揺らしながら、やめろ、と彼がちいさく制した。
「やめる。……どうして。」
「勃……っちまう、」
「やめる理由にはならないな。」
 そうして男は首筋伝いに、耳裏の生え際へ舌を這わせた。うわ、と小さくマクスウェルの口から悲鳴がこぼれて、慌てて彼が口を押さえるのがわかる。

「……、ひとつ、怒ることを聞いてもいいですか。」
「怒るようなことと判ってて聞くな。」
「前々から不思議だったんです。懇親会だの、親睦会だの、そうした名目で、上から呼びつけられ、駆り出されたことが何度もあったはずだ。はずでしょう。」
「……あるな。」
「その時あなたはどうしたんです。」
「どうって、……、」
「中には、親愛と称して、およそ大手振っては行えない、褒められたものでないことを、あなたに持ち掛けてきた人間もあったはずだ。」
「……、」

 言うと、それまで濡れているだけだったマクスウェルの目が、不思議な色を帯びた。片眉を上げて、ちょっとおかしそうにしている。見たおぼえもあるがこれは何かな、手招きされひょいと顔を近づけると、
「一服盛るんだ。」
 ぽつんと囁かれた。
 ああそうか、と思う。これは悪戯を思いついた子供の目だ。唖然として見返すと、そのままくすくすと笑いながら、男がしていたのと同じ動きで耳朶を噛まれた。
「非合法な薬じゃあない。毒でもない。あんまり頻繁なんで医局に頼んでな、無味無臭で、水溶性で、即効性のやつを調剤させて一錠二錠、相手が見てない隙に抛りこむんだ。」
「……それは、」
「ワインでも食後のコーヒーでもいい。飲んで十分もすれば眠くて眠くて呂律も回らなくなってばたん、だ。」
「……、」
「自衛だよ。相席になるたびに貞操の心配をするのも面倒だろ。」
 かすれ声で囁きながら、彼の唇が男の前に戻ってくる。じゃあお前、俺にも一服盛るか。訊ねるとばかだな、と濡れた声と共に彼の側から唇が重ねられた。
 またいつの間にか冷えている。
 温めるように唇を開き、彼の舌を迎え入れた。こうでいいか、探る動きの舌へからめて吸いしゃぶる。飲みこみきれない唾液が互いの口から垂れて、頭上からの水滴とは違い粘度のあるそれは、ぬるぬると顎から下へ滴った。

「ヤバい、」
 はっはと喘ぎを漏らしてマクスウェルが顔を背ける。勃つ、と漏らしていたそこは、いつの間にかしっかりと熱く硬く主張していて、細身のズボンが窮屈そうだ。
 早いな、揶揄しながら男は彼のズボンのバックルへ手を伸ばした。一瞬びくんと体をこわばらせたマクスウェルは、覚悟したようにひとつ息を吐き、男の肩口へ額を押し当てる。
「……マクスウェル、」
 荒い呼吸をついた彼が顔を伏せてしまったので、今どうした表情でいるものか、男には判らない。
「嫌なら言え。」
「嫌じゃあない。……、嫌ならそもそもここへは来ない。」
 言い終わるか終わらないかのうちに返事をされる。ならどうしてそんなに顔を伏せるんだ。怪訝に思って男が訊ねると、ぶつぶつと彼が口中で呟いた。
「え?」
「……ぃんだよ。」
「何、」
「……、だから、……んだよ。」
「聞こえない。」
「ああもう、……だからッ……恥ずかしいんだよ。」
「――、」
 思わず体を放し、彼の顔をのぞきこむ。恥ずかしい。およそ彼に似合わない言葉を聞いた気がして、しげしげと眺めると、耳まで真っ赤になったマクスウェルがくそ、と顔を背け吐き捨てた。
「……マクスウェル。」
「なんだよ……うわ、」
「今ので勃った、」
 マクスウェルの手を導くようにおのれの股間へ持ってゆく。しっかり主張しているそれにすぐ気づいた彼が、びっくりした声を上げた。
「きさ、……くっそ、なんでこんなにデカいんだ、」
「……体が大きいからじゃあないですか。」
 そうか、大きいのか。他者と比べる機会もないのでおのれのサイズがよく判っていないけれど、彼が驚く程度には大きいのか。
 そんなことを考えていると、そのまま彼が服の上から男の陰茎を刺激しはじめる。たどたどしいその動きは、直接に快感を得るにはすこし足りないくらいだが、拙い動きが視覚的にはクるものがあった。

 ――アンデルセン神父さまぁ。

 そのとき男の耳に、おのれの名を呼ぶ声が飛び込んだ。まだ遠い。しかし確実におのれを探している声だった。
 ち、と知らず舌打ちが漏れている。もう終いか、そんなに時間が経ったろうか、見下ろすと、やや心ここにあらずで見上げる彼の視線と行きあった。
 行けよ。
 吸い弄ったために腫れぼったくなった唇で、マクスウェルが声を出さずに呟く。伏せた睫毛の下の青い石に、すっと冷たい色が差すのを見たように思った。
「行く。どうして。」
「呼ばれている。」
「……まだいい、」
 ここで離れてゆけば、きっと彼は二度と腕の内へやってこないと男は知っている。。
性急に彼のズボンをゆるめ、彼自身を取りだす。なにを、と目を瞠る彼へ、口づけで終わらせては未成年と同じだからな、と告げた。
「触れるのは嫌か?」
「……だから、嫌じゃない。」
 むきになって彼が返す。――そうか。
 得たりとばかりに、アンデルセンは勃ちあがったおのれの陰茎も取りだし、二本をまとめて包むように彼の手を誘った。
「くそ、やっぱりデカい。」
「大きいと何か支障が?」
 忌々し気に舌打ちした彼に訊ねると、
「突っ込まれる私が死ぬだろ。」
 すんと言葉を返された。そこまで覚悟してきたのかと、アンデルセンは内心驚きながらマクスウェルを見下ろすと、
「……なんだよ。」
 怪訝な顔をされる。
「お前は突っ込まれる側だと自覚しているんだな。」
「……いや、判らない。判らんが……、……逆でもいいが、いろいろ絵面がひどい気がする。それに貴様は重そうだ。やり方も知らん。面倒くさい。」
「ふ、」
 笑いが漏れてアンデルセンはそのまま彼の口をふさいだ。屁理屈じみた言い訳が多くなるときは、彼が緊張しているときなのだと男は知っている。

 ――アンデルセン神父さまぁ。

 声は先より近づいてきているようだ。だが、この場所を定めて向かってくるわけでなく、孤児院のあちらこちら探しながらのことだろうから、まだ余裕がある。
 二本まとめて握らせた彼のその手の上からおのれの手を重ね、男は上下に扱き上げはじめた。
「は……、」
 ぴく、と背をそらした彼の目がたちまち蕩けて潤みを帯びていく。性的に潔癖な印象を受けがちな彼ではあるけれど、その本質はきっと快楽に弱いのだ。弱いことを自覚しているから遠ざける。
「最後にしたのはいつだ、」
「さい……ご、って……ッ、」
「最後に抜いたのはいつだ、」
「……知るかッ……、このところ忙し、くて……っ、ここに来るために空きを作らなければいけなかったから、……、」
「じゃあ、溜まっているんだな。」
 ぐっぐっと扱き上げるたびに、彼の鈴口から先走りがじんわり漏れだしていた。親指の腹でくりくりと擦り、ほら、と示してやる。むっとなって口角を下げかけた彼の、
「ア、」
 反論は許さない。口封じに男が雁首を掻いてやると、反論のかわりにこらえきれずに彼がうすく口を開き、嬌声まじりの抗議を漏らした。
「やめろ、……ぁっ……ィ、……声が出ちまう、」
「こらえろ。」
 にべもなく返し、刺激する。でかいと評された男のものよりやや細身で小ぶりに見えるそれが、ひくんと跳ねていっそう硬くなる。たらたら垂らしはじめたぬめりを潤滑剤代わりに、ほら、と男はマクスウェルに促してみせた。
「お前もしっかり扱け、」
「くっそ、……っ。」
 解放されているもう片方の手が、男の頭を掻き抱く。普段は手袋に隠されているものだから、こうして手指の感触を直に感じるだけで興奮する。ぐい、と引き寄せるようにして男の肩口にかじりつき、腰を突き出してだめだ気持ちいいと、彼は何度も弱音を漏らした。

「――アンデルセン――……アンデルセン神父さま?」

 唐突に、シャワーの音の合間を縫うようにして、うすい鉄の扉の向こうから声がかけられる。さすがに男も驚き、動きを止めた。同じようにぎょっとマクスウェルの目が見開かれ、背中がこわばっている。
「はい。」
 寮母さんですね、そっと彼の耳に囁き、声を立てないように目配せをした。
「ここにおりますよ。」
 それから扉の向こう側へ向けて男は応える。トーンをひとつ高くした、余所行きの声色だ。
「どうされました。」
「――ああ、よかった。探したんです。その、ローマ市清掃支局の担当の方から電話がありまして、……ええ、そうです、このあいだの使用済みプロパンガス缶の処分の件とかで……、折り返し、こちらからかけ直しますとお伝えしたんですけれど、なんでも明日から担当の方が留守にするとかで、今日中に神父さまと連絡を取りたいっておっしゃられて……、」
「……っおい、」
 決してシャワーの音以上に大きな声にならないよう細心の注意を払いながら、マクスウェルがアンデルセンへ非難の声を浴びせかけ、ぎりりとうなじに爪を立てる。
 男が、扉の向こうとやりとりしながら、動きを止めかけた屹立への刺激を再開したからだ。しかも先ごろよりも強く、下からしっかりと揉み上げるように擦りたてる。
「やめッ、なに考えて……、」
 先端と先端を互いにすり合わせ、今はこちらも滲みはじめたカウパー腺液を、彼の溢すそれと混じり合わせてみせる。ぬちゃ、と水では決してたて得ない粘着音が立って、くっと彼が喉の奥で息を詰まらせたのがわかる。
「……気持ちいいだろう?」
「き、さ、」
「声は出すなよ。」
 言って男は彼の口中へ指を突っ込んだ。人差し指と中指を揃えての二本。上顎の裏あたりをずるりと撫ぜてやると、う、と思わず声を立てかけたマクスウェルが、慌てて奥歯を噛みしめようとして、はずみで男の指を噛んだ。
 ぱっと、密度の濃い空気中に血のにおいが広がる。
 そのあいだにも、扉の外とのやりとりは続いていた。このシャワー室の掃除が終わったら、すぐに連絡をしてみますよ。答えると、よかった、お願いしますね。人の良い彼女は、ほっとしたようにそう残して、それから扉の前を離れていった。宵祭でいまだ興奮が残る子供らの寝かしつけに行ったのだろうと思う。
 今夜はきっと、あちらこちらで火種がくすぶって眠れない。
 扉越しに声をかけるだけで、開けようとする動きはない。彼女はきちんとした教育を受けた、礼儀正しい人間だ。礼儀正しい人間は、やりとりをする相手のいる扉のノブをいきなり掴んで、不用意に開けようとはしないものだ。
 だが、そうは判っていても、なかなかにスリルがあるものだな。思いながら腕の中にいるマクスウェルに思い当たり、
「マクスウェル。」
 声をかけた。
「もう声を出してもいいぞ、」
「――、」
 彼からの応えはない。
 おやと思い、男が見下ろすと、男の指を噛みしめ。皺の残るほどきつくまぶたを閉じながら、マクスウェルが声も出せず全身をヒクつかせていた。

「……マクスウェル?」
「……ッ、くしょ、……っ」
 一瞬目を開け、男をその青い瞳で見つめようとした彼は、
「――は、ッ。」
 ぐ、っと体を引き攣らせのけ反って、駄目だ、駄目だ、とかぶりを振った。突き入れていた男の指が外れて、唾液が滴る。
「お前、出さずにイったのか。」
「知るかばか、くそ、なんッ……、これ、」
 マクスウェルの鈴口からは、相変わらずだらしなく先走りはこぼれていたけれど、腹に散った様子はない。まだきれいなものだ。
 言ってる途中にまた彼がぐっと眉根を寄せて、固く噛みしめるようにうつむいた。引き攣るように体を震わせ、二度、三度、鼻から漏れる声を逃がそうとして失敗する。おそらく空イキ、というやつなのだろうと思った。あまりに固く射精をこらえてしまうと、体外へ放出することなしに脳が快感を拾ってしまうらしい。
 ……これはなかなか辛いだろうな。そう思う。
 経験した覚えはないが、想像するととんでもない。
 てっぺんに突き上げられたまま、しばらく降りることを許されず、その場で留まり続けるだとか、話に聞く分には気持ちがよくて結構なことじゃあないか、そんなようにも思えるのだが、では自分がその立場になれと言われたら御免被(ごめんこうむ)りたい。きっちり辞退したい。そう思う。

 ――アンデルセン先生ぇ。

 再び男を呼ぶ声がする。今度の声は先の彼女ではなく、十三課に所属するおのれの教え子だ。
「……ああ、今度はまずいかもしれませんねぇ。」
 ため息が漏れた。
 おそらく、先にアンデルセンを探し当てた寮母から、男の居場所を聞いたのだろう。声はまっすぐにやってくるし、
「由美江なら開けかねない、」
 最初にマクスウェルに告げた通り、たしかに鍵はかけてある。ただ、由美江の無自覚な腕力で引き開けた場合はその限りではないかもしれない。
「はなせ、」
 アンデルセンが漏らした彼女の名前に、即座に我に返ったらしいマクスウェルが、腕の内で身もがいた。もがく様子がやはり撃ち落された鳥のように見え、男はすっと目をすがめる。
 興が削がれたな。そうも思った。ここは何かと騒がしい。
「……私は先に行きます。あなたはもうすこし、水を浴びていらっしゃい。」
「……ッ、」
 何かもの言いたげな彼の瞳をちら、と見やると、参った、そんな表情で彼はしかめ面をしていた。理性の方は我に返っても、体はまだてっぺんから戻れないでいる最中なのだ。
 この快楽に潤んだ青は抉りたいな。そう思う。

「入り口の籠のところに、タオルと着替えを入れておきますのでね。私のものですのでサイズはすこし大きいかもしれませんが……、裸よりはましでしょう。」
「……仕事は終えた。帰る。」
「その濡れねずみの格好で? 乗せてくれるタクシーがいると思いますか? 公共機関を使ってごらんなさい、ヴァチカンに戻るより早く、あなたはどこかに連れ込まれていますよ。」
「女ならともかく、私は男だ。」
「自惚れないのは結構ですがね、……あなたはもうすこし、自分の容姿が周りにどう映っているのか、自覚した方がいい。敷布の予備もあります。泊っていけばいいでしょう。」
「長居をするつもりはない。」
「私はあなたを、過大評価しませんが、過小評価もしませんよ。……あなたのことだ。きちんと明朝まで仕事を開けてきたのじゃあないですか、」
「……、」

 突くと、図星だったのだろう。ぐっと彼は黙り込んだ。
 その黙り込んだ彼の濡れた髪が、べっとりと体にまとわりつき、蜘蛛の巣に絡めとられた羽虫のように見える。
「マクスウェル。」
「……なんだ。」
 次に答えたときには、彼はもう帰る、と口にしなかった。
「私も寮母さんのお手伝いをしてきます。ことに下の学年の子たちは、なかなか寝付かないでしょうし。……そうですね、だいぶ興奮していると思いますし、寝入るにも普段の倍は時間がかかるかとは思いますが、どれだけ遅くても、必ず自分の部屋には戻りますのでね。……、……いい子で待っていられますね?」
「――き、さ、」
 子供に言い聞かせる口調と同じに言ってやると、さっと顔色を変えた彼がたちまち不快をむき出しにして貴様、と噛みついてくる。
「粗相はするなよ。いい子で待っていろ、マクスウェル。」
 にやりと口の端に笑いを浮かべ、一度ぐしゃぐしゃと濡れ絡みもつれた金糸へ手を差し込み撫でくり返したあと、……では、また後で。わなわな怒りに震える彼の額へ口づけて、男は体を離した。

「わ、わ、私は、貴様の、そういう、無神経なところが、大っっっ――嫌いだっ!」

 後ろ手に閉めた扉の向こうから、怒り狂って喚き散らすマクスウェルの怒声が響く。ざあざあ振り落ちる、シャワーの音をかき消すほどの怒鳴り声だった。
 男の姿を見つけて駆け寄りかけた由美江が、その声量に驚いて目をまん丸くしている。
「どうしたんですか、……いまの声、局長ですよね。」
「なに、あのひとが暑さに当てられて、ちょっとした熱中症になっていたのでね、」
「大丈夫なんですか。」
「あれだけ怒鳴り散らす元気があるなら、大丈夫でしょう。」
 くつくつと喉奥で笑いながら、アンデルセンは由美江と肩を並べ、一度着替えるために自室へと足を向けた。
 宵祭の余韻をあちらこちらに残した建物の中は、就寝時間も近いのに賑やかだ。あちらこちらからはしゃぎ声、くすくす笑い、飛んだり跳ねたりの音であふれている。
 ……ああ、火種がくすぶっている。
 一生懸命、今日のケバブの店の成果について報告してくる由美江に頷いて返しながら、ちらとそんなことを思った。

 

 

 

最終更新:2020年11月16日 10:37