「……ちょっと整理してみようか」
 目の前に|獣被り《ドロシ》の女を正座するように促して、俺はなんだか痛くなってきたこめかみをぐりぐり親指で押しながら言った。
 痛いわほんと。頭痛が痛い。
「……あー、……そのな、その|獣被り《ドロシ》っていうのは、俺が知ってる人類とは違って、つまり被っている獣の性質を強く引き継ぐっていうことだな?」
「そうだ」
 女はこくん、と頷く。
「えーと、で、あんたが被ってるそのゲャなんとか」
「ゲャワ」
「あーもういいって。そこは問題じゃねんだって。正式名称とかどうでもいいよ。ゲャワな、はいはいゲャワゲャワ。……その動物さんは、とってもとっても精力旺盛な生き物だと」
「そうだ」
「あのさ? なんかさ、俺の知識違ってたらごめんね? 山の動物とかさ、春に発情するのが普通みたいなところある気がするんだけど」
「ゲャワは年中発情するな」
「あー……、そう。あーそう。あーそうそう。……、……、じゃ、そのゲャワを被るあんたは、そのムラムラ属性まで引き継いじゃうと、そういうわけだな」
「そうなる」
「じゃなんだ、あんたはそのゲャワと同じように、現段階、年がら年中発情するって言うことか」
「うむ」
「……あったまいてぇー」
 頷くと、頭の上のゲャなんとかまでこくん、と頷いて、醜悪なツラながらちょっと可愛……いやいやいやいや可愛いとかなに考えてんだよ俺正気に戻れよ。現実逃避してんじゃねぇよ。
 可愛くねぇよ。
 可愛いとか言ってる場合じゃねぇよ。
 俺の貞操の危機だよ。
 この場合、貞操と言っても尻というよりサオ寄りだけど、どっちにしたって合意じゃなかったら危機だよ。
 圧し掛かられたら確実に俺勝てないだろ。体格的にも力差的にも。

「あのさあ」
 引きつりながら俺は言った。
「あのさあ、俺、……、ほら。いちおう、一緒に旅してるわけだしね? そりゃお互い困ったことがあって、協力できるところは協力してやってもいいかなーとは思うけどさ、でもさ、うん、でもさ、ないわ、その、シモのお世話はさすがにねぇわ」
 いやこれが町でやってる人情劇ならいいんだって。俺だって楽しく見るわ。
 ラッキースケベって言うの。据え膳食わぬはじゃないけど、なんかわりとズレてて文明ちがう相手だとしても、まあそこそこきれいなツラしてて、若くて、次の展開としては男がその疼く体を慰めてやるぜみたいなさ。あるでしょそういうの。
 体からはじまる愛、みたいなさ。
 いや、たしかに世の中そういう愛のかたちもあるかもしれないよ? それは否定しない。否定しないけど、それはあくまでも遺伝子レヴェルというか、個々のお好みレヴェルで、無意識下で相手のこと気に入ってる場合に限るだろ。
 そういうのって結局ひとめ惚れしてるよねって。
 こんなふうに、もう好きとか嫌いとかの次元ぶっちぎって超えちゃってて、俺の趣味と守備範囲真逆の相手ととりあえず体から、とかねーーーーーーだろ。
 勃つかどうかすら未知数だわ。

 言いながら、でも、と俺はふとわいた疑問を口にする。
「でもあんたさ、これまでも集団生活してたわけだろ。あんたがいくつか知らねぇが、今日がはじめてってわけじゃねぇんだろ。その時どうしてたんだよ。なんか相手みたいなのがいたわけ?」
「ドロシーに相手はいない。薬湯で抑える」
「あ、抑えられるもんなの」
 当たり前と言えば当たり前のこたえに、俺ははあ、と腕を組んだ。
「群れで暮らす、男襲うわけにはいかない」
「まあ、いろいろ風紀が乱れるよな」
 そら女が発情して、性的な意味で襲い掛かってきたら、たとえ性に開放的な部族だったとしても困ると思う。いきなりは困るだろうと思う。
 ふうん、と納得する俺へ、それに、と女がややうつむいて暗い声になった。
 これまで聞いたことのない、低く抑えた声だ。
「ヌィ・ンッムョボ・ゲャワを抱く男はいない」
「久しぶりに聞いたな、その名前」
「ドロシーはゲャワを抱いているから、」
「あ?」
「ゲャワはよい生き物ではないから」
「……それはどういう、」
 なんだそれ。
 ちょっと闇深案件のにおいに、思わず俺はなになに、と前のめりになりかける。そういう話に弱い。でも結構誰だってそうだと思う。
 気になるじゃん。ここだけの話、とか、他言無用、とか、そういうの。
 だってさ、俺の美的感覚がおかしくなければ、目の前の女はわりと美人な部類に入ると思うんだよ。
 まあその美しさ基準が、彫刻の美しさか、ションベンが床に作った模様かはとにかくとして、たぶん、おきれいな顔、ってやつに入ると思う。
 性格もさ、日が浅いんでよく判らないけど、でも、とんちきな行動はしないというか、空気が読めるみたいなところはあるし、そこまでクセがないんじゃあないかって思っている。
 それともあれかね、美の基準が|獣被り《ドロシ》の群れの中だとまた違うのかね。マウンテンが一番美しい、とかそういうのあるのかな。あ、マウンテンって山じゃなくて猩猩(ゴリラ)の方な。

 俺の動きに女がうつむいていた顔を上げる。
 珍しく、普段目を覆い隠している前髪が左右に分かれて、女の顔があらわになった。膜の張ったような、黒目の多い目とかち合ったとき、あ、やべぇ、と俺の頭のどこかで警鐘が鳴った。
 なんかこの濡れた黒目に、夢の中でも呑まれたような気がする。
 どんな夢だったかな。先だって起きて、煙草を数本吸って、それからゲャワがどうとか聞いているあいだに、煙と一緒にどこかに消えてしまったようだ。もうほとんど覚えちゃあいないんだが、目覚めたときの気分は最悪だったということだけは覚えているので、いやな夢だったのかもしれない。

 目をすがめ、数歩後ろに下がった。こいつを洗ってやった数日前も、近くで目をのぞきこんで、なんだかおかしな感じになった。もしかすると、トコなんとかとかいう、ドロシーの呪(まじな)いだか幻術だかに関係するのかもしれない。
「……あんたさァ、」
 じりじりと警戒を強めながら俺は言った。
「俺になんか薬盛ってんの?」
「薬、」
 言われた意味の分からない様子で女が首をかしげる。
「薬でなけりゃ、呪(まじな)いみたいのかけてる? 催眠術的な」
 そうでなけりゃ、俺がこうちょいちょいこいつに呑まれる意味がわからない。
 抱き枕にされて大人しく黙っている意味もわからない。
 だいたい、ひとりでいるのが好きなのに、こうして他人を連れて旅をしているのが一番わからない。
 仕事でごくごく短期間、一緒に寝起きをすることもあったけれど、だいたい俺は他人と一緒にいられない性質(たち)だ。四六時中一緒にいたら、どうしたってそいつに自分の素の部分を見せることになる。それがものすごくいやだ。
 俺は申し訳ないけど、ありのままの姿を見せるーとか、そういうの結構ですから。ありのままの姿は自分だけに秘めておきたい派ですので。
 娼館の天使ちゃんたちと一緒に寝てるじゃんって言うかもしれない。彼女たちと寝たら、寝顔さらすでしょって。
 けど、天使ちゃんたちとはそれこそ一日ひと晩の付き合いだ。涎垂らした寝顔見られたって、ずっとお付き合いしていくわけじゃない。しかもあっちは商売だし。
 だからなんだかこのなし崩しな距離感が、いやだなあと思う。
 なんか弱くなったのかなあ。
 気弱になったというかさ、年取って丸くなるとか俺は絶対にいやだ。

 顔をしかめていると、お前さま、と弱った様子で女が言った。やっぱり髪で隠れてないで顔が見えていると、相手の感情ってわかりやすい。
「ドロシーは、なにも、」
 くっそ、そんな目で俺を見るなって。
 知らず唸っていた。その目は何も魔力なんてこもってない。朴訥というか、ばか正直な色があるだけだ。
 しばらく睨みあった。

「……あーーわかったよ。わかった。あんたはそういう罠仕掛けるタイプじゃない」

 多分、まんじりともしないで四半時ばかり睨みあっていたと思う。
 それから全面白旗な気持ちになって、文字通り俺は両手を上げる。
「信じてやるよ」
 信じる、とかクッソ嫌いな言葉だけどな。
「疑って悪かった。なんなら材料集めに協力してやるから、その……薬湯?だかをさっさと作って飲めよ」
 べつに優しさじゃないですよ。もんもんしてるやつが同行者だとか、俺が落ち着かねぇわ。
 主に性的に食われる的な意味で。
「手伝ってくれるか」
 俺の言を受け、ありがたい、と女が言った。
「森で作ろうとしたのだが、材料が足りなくて困っていた」
「……え、なんか、手に入れるのがすごい難しい高山植物とかだったら俺困るよ?」
 ひと晩しか咲かない花とかさ。
 言って早々俺は手伝うとか言ったことを後悔した。
 ちょっと探したくらいで集まる野草だのなんだの、考えてみればこの女の方が俺よりずっと詳しいに違いないのだ。
 薬、というくらいだから、たぶん何かの茸とか、何かの根を干したものとか、タネとか、もしかすると熊の胆みたいなのも使うのかもしれない。
 熊の胆って言えばさ、そういえばさ、ドロシーが相撲取ってて俺が射殺した熊、その場に置いてきちゃったんだよな。もったいないことをした。
 熊の胆は万能薬だ。それこそ滋養強壮から、火傷にまで効く。
 あのとき、いろいろバタバタしていたとはいえ、すごくもったいないことをした。雄の熊だったし、肉は固くて食えないかもしれないが、せめて胆だけでも切ってきたら、市場に持っていきゃあ、かなりの金に変わるはずだった。
 まあ熊くらいなら、また狩ればいいかもしれない。俺はデコイはごめんですけどね、そこに屈強な戦士がいらっしゃるし、熊をおびき寄せてくれさえすれば、離れた安全地帯から援護くらいはするよって。
 だから、熊の胆ならともかく、もっと希少価値の高いもの指定されたら困るなあ、そう思いながら俺が言うと、いや、と女は首を振る。
「……だいたいはそろっているのだ」
「ンじゃ後何が足りないんだよ」
 昨晩の焚火の跡を掘っくり返しながら俺は訊ねる。灰の中に残っている燠を探しているのだ。
 火なんてもんは、最初の着火はたしかに手間も時間もかかり大変だが、一度点けると、上手に管理してやれば何時間でも持つという点はありがたい。朝から着火の額に汗して重労働は、俺いやだし。
 朝飯にはちょっと早い気もしたが、なんか発情うんぬんで目が覚めちゃったしね、昨日取った山鳩の炙りでも作って置く気になった。首切ったあと、ひと晩吊っておいたから、きれいに血は抜けただろう。朝しっかり火を入れておけばこの暑さでも晩まで持つし、そうしたら今晩、さあ何を食べようか、だとか考えなくてもいい。それはとてもありがたい。
 毟るために湯を沸かしはじめる。
 昨晩のうちに集めておいた小枝をべきべき折っていると、こちらをじっと眺める女の視線を感じた。
「……ンだよ」
 なんというか、ちょっと湿感のある視線だったので、俺は眉間にしわを寄せる。
「何が足りないのかとっとと言えよ」

「お前さま」
「なんだよ」
「体液がほしい」
「ふぇぇ」

 おかしな声が出た。
 俺、こんな声出せるんだな。
 昨日山鳩〆たときに、きゅうって音がした。だいたい、鳥を〆るとどの鳥も最後に、鳴き声というか、空気音を漏らすものだけど、なんかそれに近いような音が俺の喉から出た。

「……はあ? え、 たい、……えっ。ちょっと待って、……はあ? 体液ってその、」
「ゲャワの発情を抑えるためには、牡の体液が必要なのだ」
「ええぇ……、」
 ドン引きですわ。
 文字通りイーーと歯を喰いしばって、俺はまじまじと女を見つめる。
 え、待って、キモい。
 体液ってあれだよな。体の液なんだから、つまり、精液だの小便だの唾液だのってことだよな。
 もしかすると血液も体液の中に含まれるかもしれないけど、なんていうかさ、血をすするってのと、ヨダレすするってのじゃ、キモいのべクトルが違うというかさ。
 それから、いわゆる「ヤる」ときに、べろべろ舐めしゃぶったり、ザーメン飲んだり飲ませたりすすったり、いろいろありますけども、なんかそれはそういう行為の時だから許されるっていうか、あらためてそれだけ採取してごっくん、とかさ、いや生理的に無理。無理でしょ。
 見つめながら、俺は早くもこの女へ、どうやって別れ話を持ちかけようか考えはじめていた。むりむりむりむり。そういう特殊性癖じみた行動起こすやつと一緒に旅は無理。ここいらでやっぱり袂を分かとうぜ。
 この場合、性癖じゃなくて抑制剤なんだって言われたらそらそうかもしれないが、でも納得するのと気持ち悪いから無理っていうのは別次元でしょ。
 なんとなく、俺は用意された容器に、自分が唾液ないし精液を垂らすところまで想像して、いっそうドン引いた。考えただけでほんとあり得なかった。
 そうして、まじまじと女を見かえしながら、ああでもそりゃ森の中で材量は揃いようがないわなと妙なところで納得もした。そりゃそうだわ。女ひとりだけ残されて群れはいなくなっちゃってるんだから、牡はいないわけですわ。

「……あ、でもちょっと待てよ」
 なんか、森の中に乗り込め~したおばかさんたちいませんでしたかね。あいつら全員男だった気もするんですけど、え、いやまて、もしかして、看護しながら、その。
「彼らの体液はもらっていない」
 考えが顔に出ていたのか、俺を眺め返していた女が答える。
「発情が出なかったからな」
「あ、そうですか」
 それはよかった。ちょっとほっとした。いや良くないんだけど、なんか濃厚ミルク生絞り牧場、みたいなのを想像しかけていた俺は安心する。

「……症状が出る出ねぇがあるのな」
「あるのかもしれない。巣にいたときも、何度か出ただけで、いつも出るわけではないのだ。ドロシーにも、どうした場合に出るのかよく判らない」
「へぇー」
 なんか変なところで感心してしまう。どういうきっかけなんですかね。人体の神秘。
 そこまで思って感心して、で、また振出しに戻るわけです。
 いや、いいんだよ。俺はスピリチュアル的なものはまっったく信じてねぇですけどね、男の体液を入れることで、抑えられる発情があるなら、それはそれで喜ばしいことだよ。
 いいんですよ。
 ただ問題は、それを要求されているのが俺で、それ混ぜた薬を飲むのが同行者ってことだよ。
 うん、やっぱキモい。
 引きつった顔で、どうやってここから逃げ出そうかとか考えていた俺を、首を傾げ、お前さま、とまた女は呼んだ。
 不思議そうな顔だった。
「出すのは、それほど難しいことか」
「いや。いやいやいや。難しいっていうかね。倫理的にっていうか、いや倫理的というより生理的にね」
 だって考えてみて。容器に自分がツバ口に溜めて、それからペッペってやるところ想像してみて。
「『皮無し』には、求めてはいけないのだな」
「いや駄目っていうかな。中には平気なやつもいるだろうけどさ、俺はちょっと御免被りたいっていうか」
 始終ムラムラするのはたぶん結構きついんじゃあないかなとは思う。きついんじゃないかなとは思うし、できれば解消できたらいいねとは思うけれども、
「出せないか」
「出したくねぇなあ」
「涙を」
「うん、涙をね、」
 うん。涙をね。涙。涙を。……えっ。

「――え?」

 頷いて返しかけ、それから俺はたっぷり十数呼吸沈黙してから、もう一度涙、とおうむ返した。
「涙」
「……え、……は? あんたがさっきから出せ出せ言ってたのって、涙のことだったの」
「そうだ」
「じゃ、前に|皮被り《ドロシ》の他のやつから提供されて飲んだっていうのも」
「涙だが……ほかにあるか?」
 心底いぶかしそうな顔でじっとこちらの顔をのぞきこまれて、体液の文字で即座に飲尿健康法まで連想した自分が、なんだか居たたまれないっていうか、勝手な勘違いして慌ててたのが赤っ恥っていうか、……いうか。あああ。
「あーそっかーなんだー涙かー」
 言いながらぶちぶちと鳥の羽を毟る。鍋に沸かした湯にくぐらせてから普通は毟るんだろうけどさ、なんかやってないと間が持たないっていうかさ。
「お前さまが出ないと言うなら仕方がないな。……誰か、別の皮無しの人間に頼まないとならない」
「いえ! いえいえ! 俺が出させていただきますんで! 涙くらい! 一合ほどでいいですかね!」
 よくよく考えりゃ涙を提供してそれを飲むというのもたいがいな気がしたが、もう最初が最初だけに相当ましっていうか、べつに涙くらいいいんじゃね? 的な思考に俺はおちいり、そのあと、玉ねぎの切ったやつ鼻の下と目に当てて、盛大に絞り出したのだった。
 ごめん、ちょびっとだけ、鼻水も垂れたかもしれない。

 

 

最終更新:2020年11月23日 09:03