「もう戻るのか」
「うん、?」
「気ぜわしいことだな」
「明日の段取りを今夜中に組んでおかないといけないからな」
アンデルセンが声をかけると、シャツの釦を細い指でもってひとつひとつ上まで掛けていた彼が、背中で答えた。こちらを振り向く気はないらしい。
言葉の通り、おそらく彼の頭の中はすでに次に為すべき算段でいっぱいになっていて、そこに情緒だとか余韻だとかいうものは存在しない。あっさりとしたものだ。その執着は時に息苦しいほど自分を追い詰めてくるのに、こうして肌を貪りあったあとは目的は終わったとばかり、さっさと身繕いをととのえて帰ってしまう。
とくに今日は顕著だった。まだ男がのしかかっている最中から、視線が天井のどこか別のところを見ていて、心ここにあらずの状態だった。あれこれ考えて机に向かっているときの仕事の顔だ。一度そうなってしまうと、無理に呼び戻してもうるさがられるか、機嫌を損ねてしまうので、まあ仕方ないかと割り切って、
男は自分より体温の低い彼の体を揺さぶった。
近日中に大きな外征作戦が行われることは知っていた。おそらく自分も派遣されることになる。だいたい、派遣前の事務手続きは見ていても気の毒になるほどてんやわんやしていて、だからきっとこの様子だと、彼の企画している事前準備のまだ半分もこなせてはいないのだ。
そんなことを思いながらアンデルセンは目の前の背中を見た。今はシャツに隠された背中越しに骨をたどるようにして、ゆっくりとうなじへ視線を上げる。無造作にひとつにまとめ、紐でくるくる巻いている手つきは手慣れたもので、器用なものだと感心した。自分にはできそうもない。
「……珍しいものでもないだろう、」
眺めていると、笑いを含んだ声で彼が言った。鏡もないのに視線を感じていたものらしい。わかるか、と訊ねると、貴様の舐めるような視線がちりちりすると返される。
「あれだけ貪っておいてまだ余力があるのか。体力ばかなやつはこれだから弱る、」
「マクスウェル」
「なんだ」
「首の噛み跡が襟で隠れてないぞ」
「――、」
あの位置だと髪をまとめるとちょうど見えてしまうな。思いながらアンデルセンが告げると、ぎょっとなって首筋に手を当てた彼が、……付けるなと言ったのに。ボヤいてため息をついた。
「……しかたない。手ぬぐいでも巻いておくさ」
「髪で隠しはしないんだな」
「邪魔だからな」
答えるあいだにベストをととのえ、上着を手に取ると、じゃあな、こちらをたいして見もせず、いつものようにマクスウェルは部屋を出ていきかける。
彼の出入りはいつも裏庭へ続く出窓だ。口に出した取り決めではないのに、いつの間にかそうなった。戸口から出ていって、院の大人だの子どもだの出入り業者だのの目にとまり、声をかけられるのがいっとうに面倒くさいと彼は言うが、こうして夜半、窓の出入りを目撃されて誰何されるほうが余程なのじゃあないかと男は思う。
思うが、言わない。その立ち去りのあっけなさが彼らしいとも思ったし、そうして人間を誑かす夢魔は窓の外から呼びかけるというから、それでいい気がした。
「ち、」
その彼が、窓の掛け金に手をやり、半分ほど開けたところで小さく舌打ちをする。舌打ちと共にさあっと木立を濡らす雨の音が聞こえ、おや、アンデルセンは片眉を上げた。
「雨だ」
そこでようやく寝台から動く気になった。
床に落とされ山になっていたシーツの中からよれよれのシャツを探し出して、ひと払いするとざっくりとそれを肩にかけ、男も起き上がる。
開いた窓から、草葉の濡れる雨のにおいがした。
「夏場の雨なら濡れていくんだが、こう冷えちゃあ……、……。くそ、」
手にした上着を頭からかぶり、そのまま窓外へ体を躍らせようとするところで、
「待て」
寸前でアンデルセンは声をかけ、マクスウェルの腕を引いた。
「……なんだよ」
「濡れちゃあ風邪をひく」
「わかってる。だからタクシーを拾うさ。大通りまではこうして上着を、」
「待て」
男が力を籠めぐいと手前に引くと、……わ。小さく彼が声を上げて、窓枠から体をくずし、寝台へ尻もちをつく。
「貴様な、」
「そう長い雨でもなさそうだ」
「……だからなんだよ」
「薄くてまずいコーヒーでも淹れてやる。飲んでいるうちに止むだろう」
「だから、なにを」
「もうすこし、ここにいろマクスウェル」
こう言わないとわからないか?
真正面から顔をのぞきこみ、そう告げてやると、目を丸くしたまま数拍固まったマクスウェルが、徐々に赤くなる顔を片腕で隠して、それから小さくひとつくしゃみをした。