わたしは、彼が誰に対しても必要以上に信用しないことを知っていたし、そうしておのれで成し遂げるまでの忍耐づよさも知っていた。
忍耐づよい、というとすこし語弊があるのかもしれない。
我を張るだとか意固地だとか、そうした方が、もしかすると彼にはぴったりの言葉なのかもしれない。そう思う。
彼の名はマクスウェルと言った。エンリコ・マクスウェル。
彼は司教であり、ローマはヴァチカンの、十二とひとつの機関のうちのそのひとつ、秘匿機関をまとめる長だと言うことを、わたしは知っていた。
彼について洗い出せと、ある筋から命ぜられたので人をやって調べさせたが、これが驚くほど年のほとんどを地下で過ごしている。地上に出てくるのはほんの時たま、彼が気の向いた時か、もしくは本人の意思では外せない公務に限られるらしい。蝉か、もぐらにも似ている生活様式だったが、彼のすがたかたちは、もぐらもちとは似ても似つかないほどに美しかった。
美しい、といまわたしは記したが、ほんとうならもっと多様で、適切な表現があるのかもしれない。しかしわたしは詩人でも文学者でもないので、美しいという以外に表現方法を知らない。
わたしは彼のような美しい生きた人間を、彼以外についぞ見たことがないように思ったし、そうしてすぐ危ないな、とも思った。
彼を初めて見たのは、たしか葬儀のときだったと記憶している。
一九七八年のパウロ六世か、もしくはヨハネ・パウロ一世の葬儀だったと思うが、なにしろあのあたりは教皇選出と葬儀と、それからそれに伴うメディア関連のこうるさい追及だので、とにかくバタバタせわしなくて記憶が定かではない。ただ、定かではないのは彼と出会った正確な時期というだけで、彼が目の前に現れた瞬間、わたしと、わたしの仕える主(あるじ)にもたらした衝撃は、今でも鮮明におぼえている。
わたしはある枢機卿の付き人だった。彼の名誉のために詳しい名は伏せる。ただある枢機卿、とだけ述べておく。
わたしは正確には助祭というかたちになるが、なんのことはない、主の業務が滞りなく流れるように配属された、体のいい秘書か執事だった。
仕えるべきは、天にまします父というのが形式上ではあるのだけれど、それは建前というもので、実際は主の機嫌を伺いながら日々仕事をする、というのがわたしのつとめであったから、ここで言う主とは、主(しゅ)ではなく、わたしの上司のことである。
話を戻す。
選出にしろ葬儀にしろ、わたしや、わたしのつとめる先の枢機卿の向かう先は同じで、多くは大聖堂だ。それから宿泊施設。それからいくらかの交流と名のついたパーティ。
何度も訪れる大聖堂なぞは、勝手知ったる、と言ってもよかったが、そこへ誘導するヴァチカンの人間が、開催のあいだ、ひとりにつきひとり配属されるのが通例だった。
期間中、ヴァチカン内外の司教司祭は、文字通り、根こそぎ駆り出されててんやわんやだ。ご苦労なことだと思うが、実際わたしもヴァチカンに詰めた時代に同じような負担を強いられたのだから、これは年功序列の持ち回りと言うやつだと思う。
わたしの主を担当したのがマクスウェルだった。
チャンピーノ空港のロビーに、供のものもつけず、たったひとりでわたしたちを出迎えるため彼は立っていた。
と言っても、そのときの彼はまだ十五か六あたりの少年で、司祭ですらなかったと思う。あまりに人手が足りないので、神学校の生徒まで駆り出されたという話だった。
もつれ、からまる肩ほどまでの髪は金色だった。無造作にうしろでひとつに縛っていた。おくれ毛がぴんぴんとはねるうなじはぞっとするほど白く、墓石のような涼しさでもって彼はわたしたちを出迎えた。
ああ危ないな、思ったのはそれが最初だったように思う。そうしてわたしは盗み見るように、斜め前に立った主をうかがった。
わたしの主は、やや倒錯した趣味を持っていた。
彼の「趣味」が、手を出した数にかかわらず、いままで事件らしい事件にならなかったのは、ひとえに彼の立場によるものだった。それからわたしが直接もみ消したものもいくつかある。
趣味、歯に衣着せずぶっちゃけて言うと、つまり、主は、男に劣情を催す性癖の持ち主だったと言うことだ。
多少は珍しい部類かもしれないが、世の中には一定数そうした人間はいる。それはわたしも知っている。問題は、主がそうした風評が立つと非常に困る位置にいたこと、そうして主が窮地に立たされた場合、わたしの安定した生活まで脅かされると言うことだった。
主が性的興奮を覚える相手は、いつでも特徴的で、決まっていた。誰でも、ではなかったのだ。いわく、絵画的で、彫像的で、生きている感のうすい人間。若いか壮年か、男か女かは関係なかった。
目の前のマクスウェルは、あまりにその条件にあてはまっていた。まるで誂えたようにぴたりとしていて怖いほどだった。
こんな人間がこの世にはいるんだな。
わたしはそのとき感心した。生きている感がえらく薄いのに、生きて、存在しているんだな。
「ご足労いただき、恐縮でございます」
色味の失せた薄い唇からは、完璧な発音のイタリア語が発せられた。
品行方正、成績優秀、飛び級をして神学校に特待で入っている生徒のようだった。「だった」、というのは、話を振っても彼はあまりにも自分のことを話さず、移動中の後部座席でこちらがすこしでも彼の深くを探ろうすると、礼儀を失さない程度に眉をひそめるか、もしくは完璧にも見える笑みで冷ややかに返されたからだ。
主の隣に座る少年のまわりには、静謐(せいひつ)ともいえる空気があった。そよともせず、ただくり返しくり返しガラス瓶の中で同じ時をはかる砂時計の星の砂のような緻密さがあった。
あまりにも乱れがないものだから、逆に、この静けさを侵したときの彼の顔はどう言ったものかなと興味がわいた。興味というよりはそれは強い好奇心だった。
ミラー越しに後ろをうかがった。主はマクスウェルを見、そうして楽しそうに談笑していた。
一見人好きのする、その細めた目の奥で、おおよそ主が何を考えているのか、わたしだけはよく知っていた。
彼はきっと、不意に少年の前立てを引き千切り、隠された体をあらわにしたら、いったいどんな顔をするのだろうと想像しているのだ。
おどろくだろうか。顔をしかめ、どうなさいましたと取り繕うだろうか。それとも諦めるだろうか。
知りたくて知りたくてたまらないと言った色を、時折り隠しもせず、青年と少年のはざまで揺れているような彼へ向けているのだった。
マクスウェルはそれに気づいているのかどうか、わたしにはわからなかった。
一度、車が急ブレーキを踏んだときがあった。
衝撃に前につんのめりかけた助手席のわたしに、申し訳ありませんと運転手が慌てて言い訳をする。……酔っ払いが急に車道に飛び出してきたので。
だいじょうぶかね君、後ろで主が少年を気遣う声がする。ヴァチカンでの日程表だの形だけの宿泊許可証だの、膝にきれいに整え揃えていた書類をばさばさと足元に落としてしまった彼が、平気ですと答えながらそれを拾おうと身を屈めた。
屈んだ拍子に覗いた彼の首筋、そのわずかな首から背につながる骨の凹凸と、そうして耳のちょうどうしろに見えた小さなほくろを、舐めるようにして主は見ていた。
まるで作り物めいた、たとえるなら石膏像であるとか大理石であるとか、そんな表現が実に似合いの彼に生々しく息づく脈動を、感じとっていたにちがいない。
このまがい物は生きている。
わたしはそこで、車をヴァチカンではなくどこか別のモーテルかどこかへでもへやり、運転手には金を握らせて、主が若い肢体を貪る手順をととのえてもよかったのだけれど、結果的にそのときはやめた。醜聞を恐れたのではなく、単純にもうすこし熟れた方がおそらく主の好みだったからだ。まだ青くさい、まだとことん現実の非情さにどっぷり浸かっていない子供だった。子供はきっと泣き寝入りする。求めているのはそれではなかった。
次に会ったのは十五年は後のことだ。
それまでにも何度となく、ヴァチカンを訪れることはあったけれど、マクスウェルを見かけることはなかった。調べさせた彼の報告書にもあったように、彼はそのほとんどを機関室で過ごすと言うことだったから、ヴァチカンの上っ面の大聖堂や表の通りをいくら探したところでいるはずがないのだった。
わたしの主にあてがわれたのはただ凡庸な、毒にも薬にもならないような司祭や司教ばかりで、あの、秘めた彫像のあでやかさを持つ彼ではなかった。
彼に再会したのは、ほんの偶然、あまりに陳腐な言い方をするなら、神の思し召し、というやつだったのだろう。
「ご足労いただき、恐縮でございます」
十五年前と同じ言葉をマクスウェルは言った。
十五年前と同じに、まるで背中に長尺定規でも入れているようにまっすぐに立っていた。
そのあまりのまっすぐさに、わたしは風に吹かれても決して角度を変えることのない立ち木を思い出した。木なら彼は白樺だろう。それほどに白い。
そうしてあたりを睥睨(へいげい)する、透徹とした視線。
十五年前と違っていたのは、立っていた彼が月日の経過相応に年を取っていたことだ。
あのとき、若く、神経質な小鹿のようだった彼は、神経質さはそのままにして三十路を超えるかどうかの男になっていた。成人したあとの人間の肉体の変化を成長した、というものかどうかはわたしには判らないが、たしかに彼は成長していて、しかもよりいっそうわたしの主好みの男に仕上がっていた。それが重要だった。
短く、なんとかひとつにひっつめていた髪は、腰に届くほどに長く、けぶり、うねり、まるで周囲を威嚇するたてがみのようだった。なるほど彼には似合っていた。
気高さ、みたいなものを彼は実に周囲に漂わせていて、フェルディナントルークス孤児院以前の情報を確かなものにしていた。
貴族の出であったようだ。
ようだ、というのは、彼はいわゆる私生児というやつで、父親にその生まれをみとめてもらえていない子供だったからだ。妾腹で、幼いころにその母親と死別し、父親に引き取られた末に孤児院へ厄介払いされたという話だった。報告書に添付されたデータの父親は、あまりにマクスウェルと似ても似つかない顔をしていたので、おそらく彼は母親似なのだろう。この彼の容姿をそのまま女の体にしたのなら、それはひどく美しい女性であったのだろうと思う。
彼は美しかった。
危ないなとわたしはまた思った。主の好みと言うには、あまりにどんぴしゃに当てはまりすぎて、そら恐ろしいほどだった。
これだけきれいな男であれば、もっと「そうした」趣向を持つ上層部連のあいだで話題になっていてもおかしくないものだが、それほど噂になっていないのは、きっと彼が普段は人目に付かない地下に潜り仕事に詰めているせいだろう。
そうしてたぶん、彼が聖職者の道へ進んだのは、きっと正しい選択だったのだ。
わたしたち、いわゆる聖職者、と言われるものはカソックが普段着だ。ときに私服を着ることもあるけれど、だいたいは平服で過ごす。規律がどうの、規則がどうのというよりは、その日、袖をとおす服をあれこれ悩まなくて済む、というのが一番大きい理由だとわたしは思っている。平服は支給される。懐も痛まない。
だから彼の普段着がカソックで、必要最低限でしか肌を露出せず、ひとところに引きこもって仕事をするというのは、もしかすると彼にとっては不本意な成り行きだったのかもしれないけれど、彼自身にとってもよかったことだったのかもしれないと思った。そうでなければ、食われてしまう。
それとも逆だったろうか。
隠されているからこそ、ひとは暴きたくなるのだろうか。
主はと言えば、礼を失さぬ程度の態度を保ってはいたものの、入れ食い状態の視線を彼の肢体に注いでいた。ああそうだ、これではまるで飢えた犬の前に、生肉を投げ込んだも同じだ。食ってもいい、と差し出されて、我慢できるけものはいない。
ヴァチカン入りし、日程表通りの会議を終えたところで、わたしはマクスウェルに声をかけた。
猊下がどうしても、と望んでおられます。
わたしは彼に言った。夜の個人的な懇談会食の誘いだった。
わたしたちを部屋へ送り届けて、それで今日の勤めは終いにするはずだったのだろうマクスウェルが、ちょっと片眉を上げて、考えるそぶりを見せ、結局は頷いた。
彼がなにを考えたのかはわからない。このあと残った仕事を片付けるつもりだったのかもしれないし、単純にこれ以上愛想をふりまくことに面倒くささを感じたのかもしれないし、あるいは主との間にコネを作ることと、主の下心とを天秤にかけて量っていたのかもしれない。
どちらにせよ彼は最終的に頷き、咢(あぎと)の中に落ちてきたのだ。
――もう一杯どうかな。
勧める主の声は、もう欲を隠しもせずに濡れていた。今や視線は舐るように彼の体を這いまわしていたし、肩や背をさする手は親しげに見えて性的なしぐさだ。
あれは、布地の下の肌をまさぐっている動きだった。
いえもう結構。
手を振ってことわろうとするマクスウェルの動きは重く、のろのろとしていて、だのにぎりぎり最後のラインで留まり、まだ落ちてこないのがより煽情的で危うい。
ローマ郊外のリストランテの個室だ。
ぶ厚い、防音壁に囲まれた三間ほどの室内は、いくら瀟洒にしつらえてあるとはいえ、そこへ男三人が入るだけでひどく狭く息苦しい。
完全予約制のここは、ヴァチカン御用達のプライベェトリストランテだった。
ちいさな卓が真ん中にひとつ、それを囲むように三方の壁沿いにソファが並べられ、奥の方に主とマクスウェルが、入り口に近いところにわたしが座った。
入り口近くにわたしが座ったのは、ふたり分の給仕をするためと、万一にも彼がここから逃げ出す気を起こしたときの用心のためだった。
室内に店の人間はこない。彼らは戸口の表に出された皿を下げ、新しい皿の乗ったワゴンを通路に置いてゆく。それを受け取り給仕するのはわたしで、だから彼らはいまどういった人間が部屋に何人いるかすら判らない。せいぜい皿数で判断するしかないのだ。
だから、皿数は人数に合わせないのが基本だった。
ヴァチカンに関係する人間が内内にすすめたい話、とくに個人的利益につながる話や、今回のように他に漏洩しては大変困るような会談、のときに、この店は使われていた。店の人間の教育も行き届いている。余計な詮索や邪推は入らない。
こちらにとっても好都合だった。
マクスウェルは半ばテーブルに突っ伏していた。もうだいぶ酔いが回っているようだった。主の勧めるままに断れず、わたしが覚えている限りでも七、八杯は飲んでいたし、もしかしたらそれ以上は飲んでいるかもしれない。ひと晩でワイン一本はわたしもしないこともないけれど、こうして、ごく短時間のうちに、ほとんど一気飲みの勢いで飲み進めればどうなるか、飲んだことがある人間にはわかるだろうと思う。
要は悪酔いするのだ。腰が抜ける。
エールではこうはならない。
他の、グラッパだのウィスキィだのブランディなども、こんなふうにぐいぐいとは飲めないので、やはり悪酔いには発展しにくい。だから落とすなら、わりとペースを速められるワインがちょうどいいのだ。ことに香りがよい、色の濃い、澱(おり)の混じる赤は、「混ぜ物」をするには具合がよかった。
それが主のやり方だった。いくらか飲ませて、相手がいやおうなしに警戒を緩めたところで、「混ぜ物」の一杯を飲ませ、様子をうかがう。獲物へだんだんに薬と酔いが回り、落ちてくるさまをじっくり眺めるのが彼は好きだった。
わたしが給仕に徹するのもそのためだ。店の者には任せられない。また、給仕をするわたしが、手元で多少おかしな動きをしたところで、どうとでも言い訳が立つ。
マクスウェルは特に不振がることもなく、勧められるまま素直に飲み、食べた。
不思議な食べ方をする男だなと思う。
マナーとしてはなってない。たぶん「正しい」カトラリーの使い方という点では、てんで駄目な部類だと思う。百点満点で言っても赤点だ。食が細いのか、やたらと料理をフォークの先でつつく癖があるし、まずもって料理を全て切り分けてしまって、そうしてナイフを置いてからはじめてゆっくり食べている。
おそらく、彼の幼少期の育ちから鑑みるに、ほとんど躾らしい躾をなされてないのではないかとも思われた。テーブルマナーはあとから身につけるには相当の苦労がいる。ほとんどは母親が付きっきりで、やれ食べこぼしがあるだの、肘をつくのはよろしくないだの、フォークはこう持てだの、音は立てずに食べろだの、そうしたことをこと細かに、時にはがみがみと言われるうちにおぼえるものだ。
彼にはその体験があまりなかったのではないかと思えた。
彼が、フェルディナントルークス孤児院に抛りこまれた時分には、おそらくほとんどの人格は形成されていたはずだ。身についた仕草を矯正するのは難しい。歪んでのびてしまった立ち木を、いまさら真っ直ぐな支柱に無理矢理括りつけたところで、真っ直ぐは伸びてはいかないからだ。
彼のマナーはてんでなってなかった、ただしその所作は驚くほどにきれいなのだ。洗練されていると言いかえてもいい。
口元に料理を運ぶ、咀嚼する、グラスへ手を伸ばす、そのひとつひとつの動作に品がある。だから、全体的に、彼の食事の仕方そのものは決して褒められたものではないけれど、見ているこちらへまったく不愉快さをあたえないという、不思議、としか言いようのない食べ方なのだった。
これはもう躾だとか教え込まれたものではなくて、彼がもともと持っていたもの、つまり生まれつき備わった品なのかな、とも思う。生まれか育ちか、だとかよく言うが、生まれも時には大事なものなのだ。ごくごく一般の、貴種とはまるで縁のない家庭に生まれたわたしにはよく判らないが、きっとそういうものなのだろうと思った。
酒の方も、まるで飲めないクチではなかったらしい。最初の数杯は、それでも慇懃な笑みを浮かべて涼やかに受け答えしていたが、細工した数杯を飲んだあとは次第ににぶい反応を示すようになった。
そうして小一時間もすればこの通りだ。
とろんとした視線は鋭さを欠き、テーブルの上に置かれたパン籠や、グラスのあたりを物憂げにさまよっている。
体が火照るのか、額に落ちた髪を鬱陶しそうに何度も掻き上げる。すると、身動きとともに、彼が含ませていたらしいほのかなオーデコロンのにおいが狭い室内にふっと広がる。それは決して主張するにおいではないのに、たしかな体温を持ってそこに存在するのだ。
息苦しくなるのか、乱雑に指を入れて緩めた襟の下の細い喉が喘ぎ、それを見た主が目を細めるのがわかった。
ああこれは今夜部屋を取らなくてはならないな。
ここから近いオテルを頭の中でいくつか挙げながら、それでもまだ完全に判断力を手放さないマクスウェルをわたしは眺め、内心感嘆してしまう。
盛った当人が言うことではないのかもしれないが、これはいけないかな、と思える量を入れたつもりだった。今までの例から言えば、たぶんぐらぐらになっておのれの頭すら支えきれずにへばってしまう量だった。
介抱を装って、連れ込むのが一番に手っ取り早い。
だのに、多少の呂律が回らないとはいえ、いまだに礼儀正しく受け答えができ、ひと通りの会話をこなせるというのがちょっと驚きだった。よほどの自制心でもあるのだろうか。
隣で彼をさする主が、ちら、とこちらへ目を流したのがわかる。用法通りに使ったのかといういら立ちの視線だった。たしかに、と頷き、ほとんど彼が顔をあげなくなったのをいいことに、空の薬包をしめしてみせる。薬包はぜんぶで三つあった。
投薬したワインを飲んでから、小一時間は経っていて、酒も薬も体中に回りきっているはずだった。朦朧としていてもおかしくない。
君、そろそろ、と主が彼に言った。
「そろそろ場所を変えないかね?」
「……、……場所?」
不思議そうに顔をあげ、弛んだ目元を隠しもせずマクスウェルは主の言葉をくり返した。
「場所、?」
「ずいぶん酔いが回って辛そうだからね。懇意にしている店があるんだ。体を伸ばして休めるところでね。すこし横になった方がいい。」
「いえ……、」
緩慢なしぐさでマクスウェルは首を振った。光源を下げた室内の灯りにおくれ毛が透けて見えて、ああ金色の髪というのは半分透明みたいなものだものなあと、わたしは妙なところで感心しながら眺める。
「申し訳ありませんが、そろそろ、機関室にもろらないと、」
「勤勉なことだ。……だがもう一杯、付き合わないか、」
「いえ、……。」
もう無理です、やんわり断る彼の手に無理矢理グラスを握らせて、ほら、と主は強要する。
「もうひと口……いけるだろう?」
「……、」
困った態で彼は首を傾げ、すみませんがほんとうに無理なので、おそらくそんなようなことを言おうとして口を開いたはずだ。
濃密になった室内へすっと水を一筋差すようにして、そのとき電子音が鳴り響いた。無機質な電子音。携帯電話の呼び出しだと気が付いたのは、数コールなってから後だった。
誰の、というのは言うまでもなくわかる。主は携帯電話を身につけていなかったし、従者であるわたしは持ってはいたが、今は電源をオフにしてあった。
のろのろと胸のかくしを探っていたマクスウェルが、目的のものをようやく探り当て、フックボタンを押して耳にあてる。もしもし、と答えた声があまりに言えてなかったので、電話の向こうの人間には彼の酔い具合が丸わかりだったにちがいない。
やりとりに主とわたしは息をひそめる。この、同席しているうちの誰かが電話している際の、なんとなく気詰まりな感じ、聞き耳を立てているでもないのに、会話が半ば聞こえ気まずいような感じ、他のどの場面でもあまりこうした首をすくめてやりとりをそっと窺うことはなく、電話の際だけの、独特の空気。
「――そ――そんなころ、貴様に関係ないらろ!」
もしもし、と応えたあと、数拍押し黙っていたマクスウェルが、突然険しい声をあげ、電話口に向かって怒鳴りつける。
その声にぎょっとなった。
声の大きさや乱暴な口調に驚いたのではなく、先までやりとりしていたころには決して見られなかった、彼本来の素の顔が見え隠れしていたからだ。
「あのな、子どもじゃないんら、貴様に心配されなくらっれ、私はきちんとひとりれ帰れ、」
「……失礼、」
主の目配せを受け、わたしは彼から半ば奪うようにしてその電話を取り上げる。そのままやりとりを聞いていても、彼の素顔が見えて面白い気もしたが、それよりもっと面白いことを考え付いたせいだ。
あ、と漏れる彼の抗議を聞き流し、もしもし、と通話相手に話しかけると、
「――誰だ、」
低く抑えた重低音が耳に響いた。ドスが効いていると言い換えてもいい。明らかな敵意に瞬時に鳥肌が立った。
「何をしている、」
「プライベェトな問題も含みますので我が主の名は明かせませんが、わたくしはとある枢機卿猊下の従者でございます。そちらさまはどういった方で?」
「そこは、どこだ、」
声には有無を言わせない強い意志があった。こちらの建前をまるで聞いていない。
「ヴァチカン懇意のリストランテにございます。エンリコ・マクスウェル司教は、現在、わが主と歓談中でございますよ。」
「そちらへ向かう。」
「――来るら!」
受話器から漏れ聞こえる声を拾ったのか、不意に脇のマクスウェルが怒鳴った。先とはちがう、だだをこねるような、癇癪まじりの響きが混じっていた。
「迎えになんて来らくていい!」
携帯電話とはいえ、局の長の持つ電話に、しかも就業時間ではないときにかけてくると言うことは、実質これはホットラインだ。属する局の特質上、もしかすると局員全員が彼の番号を知っているのかもしれないが、それにしてもこのだいぶ夜も更けた時間、もしかすると相手がもう寝入っているかもしれない時間に、簡易とはいえ直通の電話へ推してかけてくるというのは、よほど緊急の用事か、それとも親しい間柄に限られると思った。
彼にこんな声を出させることのできる相手とは、いったいどんな男なのだろう。かけてきた用事は、急ぎのものなのだろうか。ふと好奇心が湧き、なるほど、とわたしは受話器の向こうへ語りかけていた。
「マクスウェル司教は、こう申されておりますが、」
「そちらへ向かう。」
「勝手に進めるらッ。話を聞け!」
「……なるほど、」
ゆっくりと頷き、わたしは視線を喚くマクスウェルと主の双方へ流す。
わたしの意図するところを正しく理解したのか、こちらを見ていた主がひとつ頷いて見せた。
「なるほど、」
みたびわたしは受話器の向こう側へ向けて話しかけた。
「……迎えにいらっしゃる、それは結構でございます。しかしだいぶん夜も更けてきましたし、店もそろそろ閉店の頃合い、いつまでも此方でそちらさまのご到着を待ち、店に迷惑をかけるというわけにもいきませんでしょう。」
「……、」
おそらく携帯電話を肩口で挟みながら、出かける支度をしているのだろう、相手の電話口のばさばさと外套を羽織る音や、せわしない息づかいがやけにクリアーに聞こえてくる。
「――三十分。」
その、手早く支度をしているだろう相手へ向かってわたしは告げた。
「マクスウェル司教のホットラインに電話をかけていらっしゃったと言うことは、そちらさまは今ヴァチカンにおられるのではないかと推察します。ヴァチカンよりおいでになられて、こちらまで三十分。二十キロメートルをゆうに超えますが、まあほんのちょっぴり飛ばせば十分間に合う距離だと思われます。それ以上は待ちません。三十分きっかりに、わたくしどもは河岸を変えることにいたします。」
「待れ、」
うまく呂律の回らない口調で、傍らのマクスウェルが首を振る。
「待れ、勝手に決めるら、私は、」
「店の場所はご存じでいらっしゃいますか。お伝えいたしますか。ヴァチカン御用達と言えば高名な、正面入り口に、錨にからみつくウミヘビの看板が立っている店にございます。」
「知っている、」
「結構。なに、ちょっとしたゲェムとでも思っていただければよろしいですよ。……もっともこの場合、場に出すものはコインではございませんが。三十分、万一にでも時間までにおいでにならなかった場合は、市内中すべてのオテルを探すことになるとご承知おきください。」
「……承知した。」
ツ、と最後の音をたてて通話が切れた。慌ただしい物音の中にエンジン音が聞こえていたから、おそらく車に飛び乗ったのだろう。
……さて、間に合うかな。
通話の切れた携帯電話のクリアーボタンを一度押し、袖口で汚れを拭ってからマクスウェルに差しだす。あらためて眺めた彼は呆然としていて、それまで周囲に張り巡らせていた堅固な壁が、ひと息の内に取り払われたような無防備さだった。
孵化したての羽虫の青白さだ。
「どうなされました、」
にっこりと笑ってわたしは彼に問うた。
「何か、問題でも、」
「――余計らことをするら、」
うつむきどこか拗ねたような口ぶりで、マクスウェルが呟いた。
「奴は来らい。」
「はあ、」
……来る気満々だったがなあ、ふとわたしは思い、けれどそれは口に出さずにそうですか、とだけ返す。聞いた彼が自棄になったように、ワインを煽る。先ごろ主が勧め、もう飲めないと断ったはずのグラスだ。ひっつかむと一気に呷った。あ、と止める間もないほどの勢いの良さだった。
そのままぐしゃぐしゃと髪を掻き上げる。また体温であたためられたオーデコロンの香りが広がって、主の手のひらが肩から背、そうして腰から臀部へじりじりと下りてゆくのが見えた。
「……冗談はやめれいただきたい、」
その動きにさすがに反応したマクスウェルが、きつい口調になる。ただし相変わらず呂律が回っていないので、まったく牽制になっていない。
「冗談?」
聞きつけて主が薄く笑った。
「これが冗談に思えるのかね?」
「……、」
「いま、私の従者がゲェムだと言っただろう。勝負には掛け金がつきものだ。時間までに君の部下が来なかった場合、君には覚悟を決めてもらわなければならないな。」
介抱するそれではなく、明らかに性的な意味合いを含む動きで、主は彼の尻を揉みしだき、太腿に手を這わせる。
ぴく、と彼が身動き、わずかに身をよじった。混入した薬の中には、意識を混濁させるもののほかに感覚が過敏になるものもやや含まれている。
触れられて不快を感じるより、多くは快感を拾うはずだ。
だのに主に撫でさすられながら、ちら、とマクスウェルが腕の時計へ目をやった。時計へ目をやるという判断がまだできることに驚きだった。
――待っている。そう思った。
来るなと言い、来ないと断定しながら、彼は電話の相手が時間内にここへやってくるのを待っている。
「電話の相手は誰だったのかな。ずいぶん親しい口ぶりであったが、君にそこまで仲の良い部下がヴァチカンにいたとはね、」
「そんらんじゃ、らい、……、」
しばらくワインを傾けていた主が、調査不足だな。呟いた。呟きながら、手は彼の太腿から今度は腹へ上がり、胸元の釦へと伸びている。彼が着込んでいるカソックには三十を超えるボタンがついていて、ひとつひとつを外していくだけでも時間がかかりそうだった。
きっちり着込んだ服の上から主の手が胸の上を這う。
「やめ、……、」
緩慢な動作で手をはらい、険しい視線をこちらによこす。おそらく彼はきっと睨みつけたつもりなのだろうけれど、酔いに赤くなった目元では、捕食者の劣情をいっそう煽るだけだ。
「マクスウェル司教、」
主は言った。
「君がその地位まで登ってきたのなら、実力以外の手段でもって取引した覚えもあるだろう、」
「実力以外ろ、手段、……、」
「それだけきれいな顔をして、まるで未通、と言うこともあるまい。」
「……何ろころを言っれ、」
「口には出せない密会の一度や二度、経験があるだろうと言うことだ、」
「やめろ、」
「言ってごらん、なにがほしい。融通は利かせるよ。」
「やめ――ッ。」
主が彼の首元に唇を落とすと、腕の中の鳥はもがいた。今の今まで、おのれが罠にかかっているのをまるで判っていなかったような、そんな不意の暴れぶりだった。
彼は若い。体は細いが力がある。
常態であったなら、きっと主の力では押さえ込めず、マクスウェルはこの部屋を力尽くで脱出することができたかもしれない。
常態であったなら。
残念なことに、彼はもう二本近くのワインを短時間で強要されており、さらには泥酔効果を狙った薬まで含まされているのだ。抗えるはずもない。
ああ、これは落ちたかな。身をよじる獲物を眺めながら、わたしは席を立つ。電話口での売り言葉ではなくそのままの意味で、この店はもうすぐ閉まってしまうだろうから、次の落ち着く先を考え、手配しなければならなかった。
車を入り口前へ回し、運転手に行き先を伝え、それからわたしは部屋へ戻る。手配しようとしたオテルが観光シィズンのせいか軒並み埋まっていて、若干手間取った。十五分は経っているように思った。
それでもようやく、邪魔の入らない最上階の部屋を取ることができた。わたしならともかく、枢機卿猊下ともなると、そのあたりのヤニくさいビジネスホテルや、防犯の手薄なB&Bに泊まるわけにもいかない。権威があるというのは時に難儀なものだ。
襟元のカラーへ指を入れ、ぐるりと首を回しながらわたしは廊下を歩く。主をオテルへ送り、部屋のドアが閉まるのを見届けて、本日のわたしの勤めは終わりだ。とくにたいした用事をこなしたわけでもないが、やはり慣れない土地は肩が凝る。
奥まった廊下の突き当たりが見えてきたころ、にわかに背後が騒がしくなってわたしは何ごとかと振り向いた。
お待ちください、店の人間が留める声と、それをすげなく振り払い前進する重強い足音、それはずんずんと言った音をつけてやりたいくらいの無遠慮なもの。
は、とわたしの口から息が漏れる。それは感心のものであったのか、それとも呆れた息だったのか自分でもわからなかった。
全身から熱気と無言の威圧を発しているデカブツがそこに立っていた。
息せき切らし、いまだ落ち着かぬ様子で、これは相当急いだようだと思う。
……ずいぶんデカいな。中肉中背の自分とくらべても相当デカい。
そんなことを考えながら眺めるわたしへ、入店した勢いのままかつかつと男は近づき、睥睨の視線でもってこちらを見下ろす。
「――時間内に来たぞ。」
男は言った。
「賭けはこちらの勝ちだ。マクスウェル司教はもらってゆく。」
そうして男は返答を待つことなく、ぐいとわたしを脇へ押しのけ、――あそこだな、押し殺した声で呟きながら主とマクスウェル司教のいる部屋へと向かう。勢いに呑まれ、ひと呼吸、ふた呼吸、見送ってしまったわたしも慌ててその後を追った。
だん、と音が鳴り響いた。乱暴にドアを開けたら、こうした音が出るのではないかなと想像する通りの大きな音だった。
中にいた主が厳しい誰何の声を投げかける。半分は不躾に侵入したデカブツへ、もう半分はその無法者の侵入を阻止することをしていない、従者のわたしに対しての叱責の声だった。
わたしは急いで戸口へ顔を出す。こうした失態を侵したとき、取り繕ったり誤魔化そうとすることがいっそう主の怒りを買うと知っていた。彼の従者に着いてからのわたしが覚えた対処方法だ。ひたすら低姿勢に、自分の過ちを認めて頭を下げ続ける、それが一番に主を鎮めることにつながった。
けれどわたしは戸口から室内を窺い、そうして申し訳ありませんの言葉を口にすることができなかった。場に呑まれたのだ。
室内には、主とマクスウェル司教のふたりが折り重なるようにして座していた。司教の着衣は乱れ、シャツなど半ば開(はだ)け、ひとつにまとめた髪もぐしゃぐしゃにほつれ、絡まり、わたしが席を外したあいだも、彼がひたすら抵抗し続けたことを表していた。
だのにその抵抗を一切やめて、彼はぽかんとなってこちらを見上げていた。先までの羽虫ともまた違う、文字通り目をまんまるにして、一切の虚飾を打ち払って、まるで子供のように素のままの彼がそこにいた。
無垢、という言葉をわたしはそこに見たように思った。おそらく彼はそれほどまでに驚いたのだ。
ざっと室内を見回した男は、なにが行われていたか一目で理解したにもかかわらず、主に対して憤りを何も口にしなかった。ただ高圧的な態度を崩さず、ずかずかと室内へ踏み込み、マクスウェルの片腕をつかんでぐいと引き立たせるとひと言、行くぞ、と言った。
マクスウェル司教は何も答えなかった。あれほど来るなと言い、来ないと言い、不貞腐れた態度を取っていた彼は、腕を引かれるままに立ち上がった。そうして引き立てられるままに彼は部屋を後にした。大きな男と同じように、我々に対して何一つ非難を浴びせることなく、不平ひとつ言わず、ただ黙って部屋を出ていった。
主もわたしも止めなかった。それは先だっての電話口での賭けがどうののやりとりがあったからではなく、単純に、今下手に手を出したら最後、力にものを言わせてひどいことになるなというのが空気を伝って感じとられたからだ。たぶん、この男は、権威だとか、上下だとかに捕らわれない。野生の獣だ。
虎口に手を出せば確実に噛み千切られる。虎のいる巣穴をつつく阿呆はいない。
けれどわたしは見た。
堂々と退室してゆく彼ら二人を黙って見送りながら、わたしはマクスウェルの顔を見てしまった。
二の腕を引き絞るほど強くつかまれ、力任せに店の表に連れてゆかれながら、彼のその顔は隠しきれぬ驚きと、放心と、そうしてその裏には戸惑いまじりの喜色が見えていたのだった。
……幸せそうに引きずられやがって。
あとにはわたしと、主である枢機卿が残される。
未だ無言を貫き、さて、これから先ごろ予約したオテルをキャンセルするのが先か、それともぶら下げた人参をまんまと奪われた主の鬱憤晴らしに付き合わされるのが先か、それのどれもを置いてまずは閉店間近のこの店を出てゆくのが先か、迷う破目になりながらわたしふと思う。
もらってゆく。
男はわたしにそう告げた。もらってゆく。たしかに言った。普通この場で言うのなら、返してもらう、とか、引き取ってゆく、とか、そんな言葉が妥当じゃあないのだろうか。けれどあの男ははっきりもらってゆく、と言ったのだ。
ゲェムと言いだしたのはこちら側だった。けれど、
「……なるほど、」
もらってゆく。
いったい彼に対してどういった感情を抱いていれば咄嗟にその言葉を選ぶかな、そんなことを思いながら、わたしはため息をつき主に向かい合い、ところでこれからいかがなさいますか、そんないかにも間抜けなことを呟き、予想通り八つ当たりされたのだった。