むかし、屠殺場に行ったことがある。あれはたしか、小学校の社会科見学だった。
生き物の命をいただいているありがたさを知るために、実際に生き物が肉になるところを見に行く、とかいう名目で、実施されたのだった。
生徒誰ひとり乗り気じゃなかった。たぶんノリノリなのは校長だけで、彼以外は教職員ですら、えー、行くの、みたいな感じだったのに、無理矢理実施されて、それこそ連れていかれるわたし達が屠場に向かう羊か豚の気分で、追い立てられるようにしてバスに向かい、泣きべそ顔で乗り込んだ。
べつに、いのちのありがたさを知るだけなら、市場の肉屋でも十分な気はしたし、そうでなくても全校生徒の前でせいぜい一羽の七面鳥でも〆ればいい話で、なにも屠殺見るためだけに一日がかりでバス移動、とかちょっと意味が判らない。
当時フェルディナントルークス院の子供が通ってた小学校の校長が、そういう、ちょっと過激な教育を押していたのかな、と大人になった今では思えるけど、そのときはどうして見たくもない、家畜が大量に殺される瞬間を見なきゃいけないんだって、かなしいともさびしいとも違う、怒りなんかもっと違う、とにかく胃のあたりがずうんと重苦しい気持ちになって、その日、目が覚めた院の布団の中で、いっそ熱でもあったら学校休めるのに、なんて思ったりした。残念ながら熱はなかった。
他の子も、その朝はぐずっていたと思う。
院の先生たちはものすごく困った顔をしていた。当たり前だけれど、先生たちから学校行きたくなければ今日は休んでいいですよ、なんて言えないだろうし、ましてや命の大切さと説くうんぬんで、その方法はよろしくないだなんて立場上絶対言えなかったんだろうから、とても複雑な心境だったんじゃないかなと思う。
時間通り着席し、朝食を摂って平然としていたのは、たぶんマクスウェルとハインケルくらいだった。
マクスウェルが考えていたことはよく判らない。なんだかいつも超然としているし、そのときもひとり涼しい顔で我、関せず、みたいな感じだったから、たくさん本を読むと、こういういやな場面でも平気になるのかなあ、なんて思ったりした。
ハインケルも別の意味でよく判らなかった。いやそうなことはいやそうだったんだけど、それはそれ、みたいな感じで、
「自分らがどうこう言ったって、もう今日社会科見学に行くことは決まってるんだしね?」
なんて言っていた。考え方が大人というか、割り切ってるというか、諦めているというか。それはたぶん、大人になった今でも変わっていない。
わたしは、そんな二人に引きずられるようにして、のたくた朝ごはんを詰め込んで、それから寮母さんとアンデルセン先生ふたりがかりで朝から奮闘したっていうお弁当を鞄に詰め込んで、やっぱり足を引きずるようにして学校へ向かった。
普段の授業はお昼なしの四時間だ。だからいつもだったら帰ってきてから院の食堂で遅いお昼だったから、そうしてお弁当を鞄に入れて一日お出かけなんて、うきうきで楽しいはずなのに、これから行くところを考えただけでもうどうしたって気持ちが晴れなくて、それは心づくしのお弁当の力でもどうすることもできなかった。
重い気持ちで鞄を座席の下において、窓の外を流れる景色を眺めていたわたしは、実はそのあと盛大にバス酔いしたのだけれど、その話はまたあとで。
なんだか前置きがずいぶん長くなってしまったけど、ここまで話してわたしがなにを言いたかったのかっていうと、あのとき、屠殺場に向かうバスの中の最重量の気分が、そっくりそのまま今だって言うことだ。
ものすごく重かった。胸にいちばん重い分銅十個くらい入れてる気分だ。ものすごくやらかした任務の後の呼び出しのときだって、ここまでじゃなかった気がする。
歩きなれた十三課の部屋に向かうだけなのに、気持ちと足だけ、地球と磁場が違う星にでもいるみたいだった。
「由美江、」
後ろから付いてきたハインケルが、大丈夫、と真面目に案じる声でわたしに訊ねた。
「どうせ、どっちが言ったってたいした違いはないんだし、なんだったら、あたしが言おうか?」
「……、……、……いい……、」
ものすごい低い声が出た。地の底から這い上がる声ってこんなのじゃないかなと思って、ちょっと自分でも笑ってしまった。ああ、死ぬ前の最後のひと呼吸、って、こんなのじゃないかなと思ったからだ。
それからうんと臍の下あたりに息を止めて、覚悟を決めた。
先延ばしにしてはいけない案件だったし、どうせ機嫌をそこねて怒られるなら、もうこちらも腰を低く落としてかまえて、とことん怒られてやろうという気になった。悪いのはわたしじゃない。わたしはただの御用伝えだ。だからどうせ怒鳴られたところで、それはわたしに対する叱責や憤怒ではなくて、ただの八つ当たりにちがいないのは判っていたからだ。
「由美、」
後ろでもう一度なにか言いかけたハインケルの声をさえぎるようにして、わたしはぐっとドアノブをつかむと、はじく勢いでがつんと内へ開いた。開いたその勢いに乗せるようにして、
「局長お願いですからなにも言わず結婚してください!!!」
ここ直近で出したことのないくらいの大声で、もうやけくそで、わたしは中にいるはずのイスカリオテ十三課のまとめ役――マクスウェル――に向けて、ひと息で吠えていた。
中にはそのとき、数人の局員がいたはずだ。
このところ大きな作戦はなかったし、ヴァチカン自体も繁忙期と繁忙期のちょうど間で、だから、おおよその事務局員が部屋に詰めて仕事をしていたはずだった。
でもわたしはそのとき必死すぎて、視界がほとんど肉食獣のそれになっていた。範囲が狭いというか、直線まっしぐらで、マクスウェルとその周辺しかはっきり見えてはいなかった。
ジャッポーネやくざのカチコミばりの勢いでばあんと開いた扉と、それからほとんど絶叫に近いわたしの声に、眼鏡越しの青い目をまん丸にしてこちらを見た彼は、一拍おいたあと、驚いた、と小さな声でぽつりと言った。それはたぶん取り繕いとかではなくて、ほんとうに驚いたからの感想だったと思う。
それから何ごともなかったかのように、彼はまた手元の書類へ目を落とす。どうやら横に立っていた事務局員と、なにかやりとりをしている最中のようだった。局員が二、三確認事項を口にすると彼はいちいち頷いて、それから手にした万年筆でこことここな、と何かメモのようなものを書き込んでいる。液漏れをしやすくて先も引っかかる、実に使いにくい万年筆だと常々不平を漏らしているそれだった。
だったらもっと使いやすいものに買い替えたらいいのに。わたしはそう尋ねたことがある。ピンキリあるとは言え、彼だってそれなりの立場にいるひとで、ペン一本手に入らない困窮の生活をしているわけではないし、使いにくいものを苛々として使い続けるよりも、使い勝手良いものに変えた方が精神衛生上よいのではと思ったからだ。
言うと、彼はちょっとびっくりしたような、困ったような顔をして、それからすこしだけ笑って、それはそうなんだけどな、と言った。不思議な目の色をしていた。
その、一瞬なんとこたえようか迷った顔に、ああ、このひとは口では何かと言いながら、扱いにくくて扱いにくくてしようのないペン一本に並々ならぬ思い入れがあるんだなとわたしは気が付いた。
その思い入れがなにかは知らない。聞こうとも思わなかった。
わたしは、せっかく清水の舞台からバンジージャンプみたいな覚悟で局室に突入したのに、何事もなくスルーされた現状はどうにもいただけないと思ったから、扉を開けた勢いがあるうちにと思って、ずんずんと彼に近づいた。
「お、お、お話し中、申し訳あ、ありませんが、局長、」
「ああ、ちょっと待て。」
勢い込んで話に割って入ろうとしたのに、ちらとこちらに一度視線を向けたきりで、またやりとりに戻ってしまう。
そのちら、の視線が牽制というか、お前いまこれ以上話に口はさむなよ、の冷え冷えとした釘をさすもので、気付いたわたしはひえ、と内心悲鳴を上げていた。
一瞬でも相手の視線に呑まれてしまうと、なんだか沸騰していた頭がしゅんと冷静になるようで、勢いでものすごくとんちきなこと叫んじゃったな、もうちょっと言いようあったよねとか、今叫んだときちっともどもらなかったな、どうしてかなとか、そんなことを考えながら、彼が話し終わるのをハインケルと並んでただじっと待っていた。
しばらくして書類確認が終わって、その事務員が自分の席に戻ってゆくと、
「――で、」
こちらに姿勢をあらため直して、話は何だったか、とマクスウェルが話を向けた。
「何だったか。」
「え、え、え、」
わたしはもう、そのときは完全に頭が冷えた状態に戻っていて、さっきのやけっぱちの死なばもろとも特攻はどこかに行ってしまっていたから、あらためて、で、と聞かれると、いったいどう説明していいものか、途端にしどろもどろになってしまった。
「マクスウェル局長に、ドレスを着て、結婚式のモデルをやっていただきたいんですよ。」
あのあのと目を白黒させて口ごもっていると、隣に立ったハインケルがやれやれ、というふうにため息をひとつついて、代わりに口を開く。ああ、結局ハインケルに言わせてしまった。情けない。
「ほう、」
「一応前置きしておきますが、これはべつに自分らの嫌がらせとか悪ノリとかではなくてですね、れっきと事務局広報課から回ってきた依頼です。……依頼というよりは人事部通した辞令に近いですが。」
「なるほど、」
「持ってきましたけど辞令見ますか。」
「あとでいい。……いや、貰おうか。」
淡々とやりとりするマクスウェルとハインケルを見て、わたしはきっと呆気にとられた顔をしていたんだと思う。こちらを眺めたマクスウェルがなんだ、とおかしそうな声色になった。
「鳩が豆鉄砲喰らってるぞ。」
「え、あ、は、」
「……局長。」
やっぱり怒り心頭に発した上司の怒号を聞く覚悟を決めて来ただろうハインケルも、辞令に目を落とすことでおそらく任務の全容を知っただろう彼が、まったく気分を害した様子を見せないので、怪訝な声を出して彼を呼ぶ。
「ん、?」
「怒らないんです?」
「怒る。どうして。」
「いや……、」
「挙式プランのパンフレットだかカタログ用だかに、花嫁役としてドレスを着て、写真撮影および挙式の真似事をしろという辞令に、目にした瞬間、私がとんでもなく怒り狂って、それこそ局室を飛び出し二丁拳銃かまえながら上層部へ殴り込みでも行く、……とでも思っていたか?」
「はあ、まあ、半分くらいは思ってました。」
「正直は嫌いじゃない。美徳でもないが。」
言ってマクスウェルが薄く笑う。
怒らないんですか。笑った彼へもう一度ハインケルが聞いた。怒らんよと彼が答える。
「怒ってほしいか?」
「あー、いや、まあ……、」
怒るぞ怒るぞもう絶対怒るぞと思って、腹も決めてやって来たものだから、激怒のかけらも見せず、素直に受け取られるとなんか困る。そんなふうにもいえなくて、わたしと同じようにごにょごにょと口の中で呟くハインケルへ、
「まあ、タネ明かしをすると、三十分ほど前、事務局長と広報課課長から、じきじきに電話を受けた。」
彼が言った。
「……はあ、」
「花嫁のモデルが玉突き巻き込みだってな?」
「五台だそうですよ。」
「不運なことだ。」
言ってぽんと受け取った辞令書を事務机の上において、マクスウェルは眼鏡を外し、眉間を揉みながらふんと鼻を鳴らした。
そもそも、わたしがここに屠殺場に向かう豚の気持ちで向かってきたのはわけがある。
このところ、ヴァチカンでは、ひらかれた政治、じゃないけど、もうすこし世界の一般信徒に向けて、内政というか内情を開示してもいいんじゃないか、だとか言いだす声が増えてきたのだ。たぶん発生源はオープンな性格の法王猊下だったと思うんだけど、まあ、トップが発した声って、だいたい賛同を得るんじゃないかと思う。
反対されるって、よほどのことだ。
で、繁忙期はどうしたって無理だけど、閑散期――観光客がぞろぞろ集まるヴァチカンにおいて閑散、という言葉は似合わないと思うのだけれど――に、もうちょっとヴァチカンを全国の皆さん利用することができるお知らせキャンペーンのひとつとして、サンピエトロ聖堂で挙式できますよ、があるのだった。
米国のトップセレブなんかは利用しているので、知られてないわけじゃないと思うんだけど、たぶん一般的な知名度はやっぱり低いんじゃないかしら。わたしだってヴァチカンに配属されて初めて、聖堂で結婚式できるって知って、えっできるのって言ったぐらいだ。なんかそういうのとは無縁な場所だと思っていた。
そりゃ聖堂なんだから、普通の教会でできるおおよその式は挙げられるというのは、考えてみたら概念としては判るけど、なんとなく、法王さまがお隠れになったときの葬儀とか、戴冠式とか、そう言うことでしか使われない特別な場所、みたいな認識があったのは事実だ。
あ、普通に世の中お金で解決できるんですねって。
もちろんここで挙式するためには、幼児洗礼を受けたものじゃないと駄目とか、それも敬虔な信徒に限るとか、挙式前三か月、土日以外は仕事終わりに近場の教会に詰めて、教会の人間と聖書開いてみっちりお勉強会があるとか、毎週奉仕活動に参加しないといけないとか、そうした面倒くさい条件はいろいろあるけれど、でも、それさえクリア―できれば挙げられるんだから、言ってみれば、つまり、夢の国とか名前のついてるランドでのいろいろややこしい手続きがある挙式と、そう大差ないような気がする。
あそことくらべたら、なんだか熱狂的なファンのひとに刺されそうだし、さすがに不敬だって、神さまにも怒られてしまうかもしれないけれど。
そうして広報課はもちろん、専用のドレスモデルを手配した。花婿モデルももちろん一緒で、彼らは今日、ヴァチカンの一般公開が終わったあと、夕方から深夜にかけて、サンピエトロ聖堂でセレモニーの撮影を行うはずだった。
ところが、だった。
移動中の花嫁の乗った車が、こちらへ向かう途中の国道で、追突事故に遭ったと連絡が入った。
それも、一台二台じゃあなくて、五台どんどんどーんといったトンネル事故だって。
乗っていた車がぐしゃぐしゃに潰れたわりに、さいわい大きな怪我はなく、意識もはっきりしていて、けれど念のために精密検査を受けるのと、あとやっぱりむち打ち症らしきものは出てしまっているので、とてもじゃないけれど今日の撮影はできない、と電話がきた。
さあ、広報課の面々は弱ったそうだ。
撮影って言うのは、モデルだけの問題じゃあない。聖堂内には一般公開時間中だというのに、すでに照明やら衣装やらカメラやらは入ってきて設営はじめているわけで、わたしはその業界のことを良く知らないけれど、これだけの人数のスケジュールをもう一度合わせるというのは大変だと言うことは、わかる。
それから、たとえ今日撮影なくたって、その裏方さんやらはきちんと準備して、しかも現地入りしちゃってるわけで、はい今日は何もないですどうぞお帰りください、なんてできない。
撮影もしないのにお金を払わないとならない。
広報課としたって、いまさら余分なお金なんて払いたくない。仕方のない貰い事故とは言え、経費で落とそうとしたときに、どうにかならなったのですかだとか、ぐちぐち文句言われそうだ。事務局長は年配の女のひとで、尼僧服なんか、びしっと皺ひとつないくらいくらいのひとで、もともと神経質なのか、更年期なのか、ここ数年当たりが悪い。
なにがなんでも今日撮影してしまいたい。
事故に遭ったモデルの体形で衣装は発注してしまっていた。所属事務所に同じ背格好の女性は、いま在籍していないのだそうだ。
しかも運の悪いことに、来週頭から、ヴァチカン自体の公式行事が始まっちゃったりして、聖堂を空けることがむずかしくなる。だからどうしても今日中に終わらせたい。
相当切羽詰まったようだ。
こうなったらこの際誰でもいい、観光客でも、オッタヴィアーノ通りの店員でも、なんならヴァチカン内の尼僧でも今日だけはいいことにする、どこかに一八〇センチを超える身長で、スレンダー体形で、金髪碧眼(カメラさんのこだわりだそうだ)の適役いないか、って頭を抱えてうんうん唸っているところに、ふと、誰だか知らない誰かが、うちの局長とそれからハインケルを思い出したんだそうだ。
「あの体型、いけるんじゃないか。」
って。
モデルが出てるファッション系雑誌見たらわかると思うけど、モデルさんって細い。本当に細い。わたしだって結構現場に出向かされることが多いし、そこまでおデブなつもりはないけれど、そのわたしの半分くらいの太さしかないような気がする。
それから手足がめちゃくちゃに長い。棒切れと言ったら表現悪いけど、まず膝から下の脛の部分、ここが本当に長いの。え、普通、こここんなに長い? って。
そうしてわたしは、長いひとって多分石鹸で体洗うときも、長い分こする部分が多いのだろうから、毎日大変だな、だとか、どうでもいいところで感心したりもした。余計なお世話だ。
今日撮影予定だった花嫁役のモデルさんは、長身で一八〇は超えるとのことだった。それも、モデル体型だからもちろん胸元の肉付きもほとんどなし。うわ、ぴったりじゃない。聞いたときのわたしですら思ったんだから、広報課の助かったというか、それこそ天からのお助け、これはなんとかなりそうだ感はかなりあったろうと思う。
問題は花婿ではなく花嫁、というところだった。
仮にドレスが入ったとして、さすがにちょっと、ちょっとなんじゃあないか。そんな声も確かに上がったらしい。
結婚式のパンフレットとはいえ、市内のホテルの結婚披露パーティの写真ではないのだ。厳格で静粛な、天下のヴァチカン市国サン・ピエトロ寺院としてのパンフレットだ。男が、花嫁モデルをつとめただなんて内外知れたら、赤っ恥どころじゃない。下手したら文字通り首が飛ぶかもしれない。文字通り。
そんな思いもあって、内密にしておいてあとから公になった場合、人死に出るかもしれないと言うことで、法王猊下にまで一応お伺いが立ったらしい。結果は不問。セット機材を無駄にしないためならおおよそのことには目を瞑る、との判断が下った。
ヴァチカンって国、そういうところ信仰上だけでなく経営上の判断も混じって、結構現金だ。
ちょっとちがうかもしれないけれど、ずっと昔の免罪符って、もしかするとこういうものじゃなかったのかなって思う。あれで結局カトリックだのプロテスタントだの、ごたごたする切っ掛けになってしまったけれど、経営資金は大事だ。背に腹は代えられないのだ。ひとはパンのみにて生くるものにあらずだとか、昔の聖人はおっしゃったらしいけど、やっぱり飢えては力が出ないのだ。お金は大事。
とにかく、そんなわけで、うちのマクスウェル局長と、ハインケルに白羽の矢が立てられた。
この際どっちでもいい、ドレスが入って見栄えがすればいいって言うのが上層部の意見で、じゃあドレス着て似合う方がってことになったんだけど、そこでカメラさんから二度目の待ったがかかった。
「髪は長い方がいい」って。
なんでも世界的に高名なカメラさんだそうで、腕はいいが相当こだわりが強く、一旦へそを曲げると撮影に入れないんだそうだ。
だからなるべく機嫌を取りながら気持ちよく撮影していただかなければならないらしく、そこまで苦労してそのひと使う必要あるのかってわたしなんかは思うのだけれど、やっぱり出来あがった写真はとても素晴らしいものだから、誰も文句は言えないんだって。
ハインケルの髪は短い。短いといっても、武装神父隊の中じゃわりかし長めの方だとは思うけど、カメラさんの花嫁イメェジではなかったそうだ。
こう、頭を、シニヨンって言うか、いわゆる夜会巻きにしたいんだって。
ヘアメイクさんは、着け毛をすればハインケルでもできないことはないって言ったらしいんだけど、まあウィッグする手間と自前の髪とでどっちが楽かって言ったら、それは自前の方だ。しかも広報課がモデルの代わりの候補ですってマクスウェルの写真を見せたら、もうひと目……ひと目、なんて言ったらいいのかしら、ひと目即決?
のような感じになって、本人に確認取る前にカメラさんとヘアメイクさんで乗り気になってしまったらしい。
裏方がそこまで盛り上がり、法王猊下の了承も取れて、もうあとは本人への通達だけ――になって、そうして運悪く食堂でコーヒーを飲んでいたわたしとハインケルが、広報課の下っ端の目に留まってしまったのだった。
事後通達。いっとう最悪なやつだ。
いっとう最悪で、しかもうちの局長が一番に嫌いなやつだった。
マクスウェルというひとは、誤解されやすいひとだとわたしは思う。ものすごく偏屈で、腺病質で、沸点が低くて、無愛想、というのが彼をほんのちょっとしか齧っていないひとの感想だ。いつも不機嫌で仕事に没頭していて、周囲を顧みないとか、そんな評価も聞いたことがある。
それはもちろん彼の一面ではあるかもしれないけれど、決してそれだけではないことをわたしや、十三課の人間は知っている。だってそうでなかったらいくら頭が優秀だって、ひとの上に立つなんて到底無理だ。
ひとの上に立つには求心力がいる。それはよどみない信仰心だったり、強い決断力だったり、四辺すべてを掃討する暴力だったりする。それは弱さだったり、放っておけないあやうさだったり、ほんの時たま見せる愁いだったりする。
そんなものをいくつか、あるいはまとめて持っているから、ひとはその上に立つ人間に、ついて行きたくなるのだとわたしは思う。
だから、事前にきちんと一報をはさみ、事情を説明して、彼の意向をほんのすこしでもうかがう素振りを見せる努力をしていたら、彼は不満は持つかもしれないけれど、結構すんなりと了承してくれるのじゃないかなとわたしには思われた。
だのに、お膳立てを全部整えて、どうやったって否とは言えない状況に追い込んでから、ほれほれ、嫌ならやらなくてもいいんだよ、みたいな誘い受けの姿勢、もう喧嘩売ってるとしか思えない。反吐が出る、とでも彼は言いそうだった。
この書類もって渡してくれればいいだけだから。広報課の下っ端はそんなふうに言う。
渡すだけでいいなら、自分で行けばいいのに。心底そう思った。手間省きすぎでしょう。だから年中使い走りのようなことやらされて、昇進できないんだよ。
口には出さないけれど、ハインケルも同じような顔をしていた。
絶対激怒するような案件なのに、どうして自分でお願いしに行かないのか。それとも激怒すると知っているから、自分では行きたくないのか。
そうしてわたしはのろのろと地下の通路を歩きながら、盛大にバス酔いした遠い記憶、なんてやらを思い出してしまったりしたのだ。
実はもうひとつある。いや、ひとつというよりはみっつかな。
辞令書を机に置いたマクスウェルは、続けてそんなように言った。それから、相変わらず呆気にとられたままのわたしに目をやって、
「由美江、」
わたしを呼ぶ。
「由美江。」
「あ、は、はい、」
「口開けていると涎垂れるぞ。」
「へ、あ、は、は、」
「局長、みっつというのは……、」
「うん、」
慌てたわたしが口に手をあてがって閉じるのと、隣のハインケルが口を開くのが同時だった。まさか、みたいな顔をしている。
「こないだ、通そうとしてはねっ返された武器申請ありましたよね。通常のうちらが使ってるオートカスタムの他に、手練れの中でもさらに熟練者用のイーグル入れたいとか何とか、それも十や二十ではなかったですよね。」
「よく覚えているな。」
「……、……もしかして、イーグルねだりました?」
ふん、とマクスウェルがまた鼻を鳴らした。その口が薄く上に引き上げられている。とても楽しそうだなと思った。それも、今から花嫁役やらされるというのにも関わらず、自分が優位を確信した方の、勝者の笑みだ。
「局長、」
「うん、」
ああもう絶対何か通している。
「S&W M500なんて言ってやしませんよね。」
「まさか。それだけで済ますと思うか? Pfeifer Zeliskaもねじ込んだ。」
「うぇえ、」
マジですか、ハインケルの口が横に広がり呆れた声を出す。
わたしは目をぱちぱちしながら、ふたりの話を聞いていた。
実は、ハインケルと組んでいるくせに、わたしはさっぱり銃に詳しくない。せいぜい種類がいくつかある、くらいしか判らなくて、やれホールド感がどうの、集弾性がどうの、反動がどれとどれを比べてどうのと熱く語られても、へぇーと隣で感心するくらいしかできない。ハインケルは、酔うと銃オタク丸出しになって延々と語るから、わたしはひたすら聞き手専門になる。
ときどき、もっと話に付き合ってあげたいなと思って、ハインケルが持っている銃のカタログとか借りて目を通すんだけど、いつまで経っても二ペェジから進んだことがない。すやすやだ。読むたびに頭を素通りしていくので、また最初から読み直してしまう。
そのわたしでもなんとなく、無茶苦茶高額な銃の申請を通したんだな、というのは理解できた。
ありえない、ってハインケルが呻いたからだ。
「……あんなの、希少価値だけで、重くて使い勝手最悪でしょうに。」
「示威に使える。グールどもには効かないだろうが、対人なら十分だ。……まあ、重い方は私なりの嫌がらせが八割かな。」
「胸は空きました?」
「実に爽快だ。」
本当に嬉しそうにしているので、これは心からのものだと思う。普段なら新品のオートマチックひとつ発注するだけで、その例の更年期小母さんがぶうぶう言うところを、今回に限っては無茶を通せる立場にあったからだ。
マクスウェルがごねると、カメラが機嫌を悪くする。そうなると撮影は進まない。法王も容認しているのに撮影が進まないのは非常に困るから、彼の要望は極力聞かなければならない。
言質を取るというか、揚げ足を取るというか、そういうのが好きなひとだと思った。
自分がそのすくわれる立場ならちっとも楽しくないけれど、こうして安全地帯にいる今、マクスウェルが楽しそうにしているのを見るのは、わたしに害がないので安心して見ていられる。
「それがひとつ。」
言って彼が自分の事務机を振り返る。
「ふたつめは、本日午後就業時間までに事務局に提出しなければならない件があって、」
「二徹してますよね、局長。」
仕事中毒の気があるマクスウェルは、できるはずがない量の仕事を抱える癖がある。他の内詰め局員を比較的早めに帰して、ひとり真夜中まで、ときには朝まで、むつむつと机に向かっていたりする。仕事にやりがいがあるとか、楽しいからやっているとかそういう感じではなくて、これは、わたしの勝手な想像なんだけれど、部屋に帰りたくないのかなって思ったりもする。
ひとりきりになると、孤独なことが身に沁みるから。
わたしはアッパルタメントにハインケルと一緒に生活している。普通はひとり一室だからこれは特例なんだけど、わたしの性格(というか中身)を加味して考えた結果、ひとりにしない方がよさそう、という判断が下って、そんなようになった。任務も一緒だから、絶対的にひとりになった経験って、思えば院の頃からない。
でも、もしハインケルが急にいなくなって、一人ぼっちになってしまったらって考えると、もう腹の底から恐怖しかない思った。
マクスウェルはその恐怖をいつも抱えているような気がする。
「……人間が一日にこなせる仕事量の限界を超えている気がするし、そもそも期日設定が無茶苦茶だ。局員フル稼働したって本日中には無理だと何度か連絡を入れたんだが、提出期日を守れの一点張りで、そういう事情は斟酌してくれないらしい。だが、このたび、めでたく今週末までの延期を取り付けることができた。」
今日は寝れそうだ。くたびれた顔でマクスウェルが笑う。
「徹夜していると正直、ドレスを着ろと言われたところで、怒りに回すエネルギィがないな。」
「そういうもんですか、」
「眠くてどうでもよくなる。」
はあ、と相づちを打ちながらハインケルが答えた。そういうもんだよ、と首を回しながら彼が返す。
「きょ、きょ、局長、」
ひとつ目が武器の大量申請。ふたつ目が提出期日の延長。じゃあみっつ目はいったい何を取り付けたんだろう。わたしは聞いているうちに気になったので、このひとがみっつ目、という前についつい口を出して聞いてしまった。
「うん、?」
「の、残りひと、ひとつは、」
「聞きたいか。……実はな、休暇を申請した。」
「え、」
「『この度の法王猊下じきじきの奨励、身に余る光栄で、無論、花嫁役を務めさせていただくことにいささかの異存もなく、吝かではございませんが、わたくしの男としての矜持は、やはり少なからず傷つけられるわけであり、その傷心を癒す手段として、来月中ごろに三日のお暇を頂けると幸いでございます』。」
「きゅ、休暇、」
「ああ。大手を振って十三課まとめて休みだ。待降節なんざ知るか。温泉にでも籠ってやるさ。」
「温泉(テルメ)……、」
テルメと言えば、ここから一番近いあたりだと、テルメ・デ・サトゥルニアだろうか。あそこなら、ヴァチカンから車でも列車でも行けるし、そこまで遠くないし、一泊二日でも十分ゆっくりできるような気がする。さっきここにくる間思い出していた屠殺場とも近い。近いと言っても結構距離あるし、行かないだろうけど。
「で、今から採寸にかかるのかな。」
どこへ向かえばいい、要望全て無理に押し通して上機嫌の彼が言うのへ、
「あ、はい、案内します。」
呆気にとられたふうだったハインケルが、やがて苦笑して、かなわないですよ、ぼやいてそれから彼を伴って撮影場所へ向かったのだった。
聖堂はきれいにされていた。
きれいに、って言うと、なんだかいつも掃除をしていないみたいだけど、せっせと聖堂担当者が清掃しているのをわたしは知っているし、月に一度は清掃業者も入る。よほど手の届かない、たとえばあの丸屋根の裏側なんかはきれいにしている、とは言い難いかもしれないけれど、そんな高いところ、望遠鏡でも覗かないときっと塵も見えない。それぐらいサンピエトロ聖堂って広くて、高い。
老いも若きも、観光客が上を見上げてあーと口を開いているのをよく見るけれど、ここに詰めることのあるわたしたちだって同じだ。慣れることってない。見るたびに高くて、観光客と同じようにあーと口を開けて天井を見る。
ここを建設することが決まって設計たのまれたひとって、いったいどういうひとだったんだろうか。そりゃ建築家の名前なんて調べたらすぐ出てくるけど、わたしが言いたいのはそう言うことではなくて、こんなに冷え冷えとおごそかでいかつくて、なのに今じゃあ敬虔な教徒もまったく異文化の無信心者も、訪れるすべてまるっと受け入れる懐の広さというか、あたたかさを持っている建物を作ってしまうっていうその人間性の方だ。
いったいどういう脳の回路構造してたら、こんなふうに設計できるのって思う。
そんなようなことを、前に十三課の部屋で、その場にいたひとたちと話したことがある。
あのときは、たしかもう就業時間外で、だからその場にいたのは、始末書書いてたわたしと、ハインケルと、アンデルセン神父と、そうしてその三人に付き合っていたマクスウェルと事務仕事の丸メガネ君の五人だったと思う。
たしか九時は過ぎていた。食堂は八時には閉まってしまうから、閉まる前に調達だーって言って、わたしとアンデルセン先生とで、お盆を持って食堂と局室を三往復くらいして料理を運んだ。
その、冷めてしまった軽食をそれぞれパクついていた休憩中の雑談の中で、たしか最初はスペインのサグラダ・ファミリア教会が新聞に載っていた話をしていたのだ。それから、そういえばあの教会、一体あとどれぐらいで完成するか、みたいな話になって、そのあと、サンピエトロ聖堂の建築についてどう思う、と、そういう流れになったのだ。
あたたかみを感じる、と言ったわたしを、なんだか変なものを見るように、マクスウェルは見た。
そこに嫌悪はなかったと思う。嫌悪というよりは純粋に、お前そんなもの感じるのか、そんなふうな信じられないといった様子の目だった。あれは珍獣を見る眼付きだ。
あたたかみを感じませんかとわたしが問うと、感じたことは一度もないと彼は言った。冷たさや厳しさや近寄りがたさというものは理解できるけれど、両手を広げて迎え入れる雰囲気だとか、よく理解できないと答えた。
ハインケルも同じような感じで、由美江ってほんと面白いね、と短く言った。わかりますと頷いてくれたのは、結局アンデルセン先生だけで、マクスウェルはそんなわたしたちを見て、貴様らちょっと似てるよな、と言った。
わたしはアンデルセン先生は大好きだけれど、自分と先生が似ているなんて思ったこともなかったから、とてもびっくりした。
その、わたしとアンデルセン先生だけ、あたたかさを感じると思っている聖堂内は、撮影のための照明や反射板やらがずらずら並べられて設置されていた。
わたしには名前が判らない重ぼったい緞帳のようなもの、写真を撮ったあと、すぐ写り具合やらを確認できる裏方の控室のようなものもあった。告解室の横に設置されていたものだから、告解室の形と相まって、なんだか人形劇の舞台のようだな、とわたしは思って眺めていた。
口に出すと怒られそうだったので言わなかったけれど。
聖堂内の人数はとても限られていた。
これが事故なんてものは今日なくて、事務所所属のモデルさんだったら、広報課の面々も顔をそろえたり、他の課の課長なんかも覗きに来たりするのかもしれないけれど、今回は事情が事情だったので、ごくごく少人数、必要数で規制されてる現場のようだった。
まあ、でもそうかもしれない。
いくらサイズがぴったりだったとしても、男の自分がドレス着ている姿を、同じ部署の人間にじろじろ見られるとか、いやだものね。
あ、でもこれは極秘の任務ではなく、そのうち大々的にパンフレットとして一般の目にも止まるのか。ご愁傷さまです。
彼のそのときの胃がきりきりする様子を思うと、気の毒にも思ったけれど、それを含めてきっと難題みっつねじ込んだのだと思うから、了承済みと言うことなのかもしれない。転んでもただじゃ起きないというか。
すくなくとも、嫌嫌やるひとじゃないのをわたしは知っている。マクスウェルは、やると決めたら思い切りがいい。
わたしとハインケルは、邪魔にならないところに並んで立っていた。
どうしてわたしたちが、その少人数で敢行されている撮影に顔を出しているかというと、ハインケルはマクスウェルの代理だったからだ。
万が一、マクスウェルの姿かたちでドレスが入らない不都合や、マクスウェル自身に支障がある場合は、とりあえず候補に出たハインケルも試してみるとのことだった。……そうならないことを祈る、わりと深刻そうにハインケルが呟いていたのが印象的だ。
わたしは完全に部外者だったんだけど、一応、マクスウェルに通達を持っていった義理もあるし、時間になったけどじゃあ頑張ってね、わたしは帰りますねってなんとなく言えない雰囲気だったからというのもある。
これが普段の業務や居残り始末書なら、あの手この手を使ってわたしは帰ろうとすると思うけれど、今回はちょっと特殊だった。マクスウェルや、もしかしたらハインケルまで災難に巻き込まれるかもしれないのに、わたしひとり関係ありませんよ、って知らん顔で帰るというのもちょっと付き合いとしてどうかと思ったからだ。
ハインケルと並んでその場にいても、誰も、なにも言わなかったから、わたしはいていいものとして居残ることにした。
それと、これは内緒だけれど、ほんのちょっぴり、好奇心も、ある。
前に聖堂にヴェールが置かれていたことがあった。その日の昼間に結婚式があったときのことで、何組か同時に挙げていたから、そのいずれかの組の花嫁さんの忘れ物だったんだと思う。
たまたま聖堂に顔を出したとき、もう真夜中で、そこにはわたしとマクスウェルしかいなかった。そこで置かれていたヴェールを見つけて、マクスウェルが被ったことがあるのだ。
被った、というとちょっと語弊があって、ほんとうは被せたと言うべきかもしれないけれど、わたしが言いたいのはそこではなくて、そのヴェールを被った彼がもうとんでもなかったということの方を言いたい。
もう本当にとんでもなかった。
性別とかいろいろ、そのとき彼は超越していて、ただヴェールを被っただけなのにここまでさまになるひとって逆にすごいと思った。天性のモデルとでもいうのかしら。
わたしはそのとき、ああ、きれいなひとって何を着てもおかしくないんだなあって感心して、そういえばミラノだのパリだののファッションショーも、あそこで出されている服を一般人が着て、そのあたりの道をへこへこと歩いたら、絶対みょうちきりんで二度見される格好なのに、それがあのショーの舞台で手も足も長いモデルが着て堂々と歩くと、許されるし認められるというのと、似ているのかなと思ったりした。
非現実というか。生活感がないのだ。
だから、あのときヴェールを被っただけで聖母マリアみたいになっていたマクスウェルが、衣装さんとヘアメイクさんががっつり付いた現状、いったいどうなっちゃってるのか見てみたい、という好奇心だった。
まだかな、とか言っているうちに、出入り口ががやがやちょっと騒がしくなって、あ、もしかしてマクスウェルが来たのかなって、わたしはどきどきしながらそっちの方を見た。
見て、あんぐりした。
「……アンデルセンせ、」
あんまり驚いたので、フェルディナントルークス院以外では呼ばないようにしていた先生、が口をついて出そうになって、わたしは慌ててえへん、えへんと咳払いし、それから神父、と呼び直した。
え、え、え。結構頭はパニックだった。
どうして先生がここに来てるんだろう。
いや、来るのはともかく、どうして先生平服(カソック)じゃなくてスーツ着てるんだろう。
平服だって黒で、つくりだって詰襟でかっちりしていて、しかもカラーまで入ってて、体のラインをわりかしぴったり覆いながら隠している服なのだし、わたしはそれまで平服と背広って、どこか似たところあると思っていた。どちらもあまり変わりないというか。
だのに、アンデルセン先生が着ている礼服は、まさに礼服以外のなにものでもなくて、しかもネクタイが、ええと、あれ、なんて言うんだろう、普段メトロで見るような、ビジネスマンがしているタイでないことはたしかだ。
たいして顔には出さなかったけど、同じようにびっくりしているハインケルにあれ何タイって言うんだっけ、と聞くと、アスコットかな、と返された。そう。アスコットタイ。
先生は体がぶ厚い。贅肉がついているんじゃなくて、太い骨格の上にみっしり肉が詰まっている感じだ。
わたしは女だし、先生の裸を思えばまじまじと見たことはないけれど、それでも院で一緒だったし、シャツの上から、とか、たまたま着替えの途中、だとかでちらっと見たことはある。
とてもバランスの良い体のような気がする。筋肉質という点では、たぶんハインケルの方が筋張った筋肉がある。先生は筋肉と、脂肪と、ちょうどいい感じについている感じで、わたしは先生の体のそのぶ厚さが好きだ。
その厚い体にアスコットタイはよく似合った。
どうしてアンデルセン先生がここにいるのか判らないまま、わたしはそんなふうに先生のタイの部分をじろじろ眺めたりして、でもこの格好は、先生が適当に着付けたとかではなく、きちんと衣装さんが整えたものだというのがすぐに判った。短く刈り上げた髪も、後ろへ撫でつけていたからだ。
先生は聖堂内へ入ると、ぐるっと一瞬目を走らせて、そうしてぽかんとしているわたしとかちっと目があった。目が合い、おや、と片眉を上げてこちらへやってくる。
わたしは大好きな先生なのに、そうしてまったく気後れする必要はないのに、なんとなしに正装している先生と正面から向かい合うのは妙に気恥ずかしくて、隣のハインケルの陰に隠れた。
「アンデルセン神父。どうしてそんな格好に、」
おどおどとする背後のわたしに、はあ、とため息をついて、代わりにハインケルが言ってくれた。
「局長が花嫁するのは知ってましたが、神父が花婿は初耳でした。」
「緊急で呼ばれたんですよ。」
肩をすくめて先生が答えた。サイズはおかしくないのに、すくめた肩が窮屈そうだ。これも平服とちがうところかな、と思いながらわたしは眺めた。
「連絡じゃあ、花嫁が事故に遭ったって話でしたが。……花婿も追加で事故ったんです?」
「いえ、」
先生が動くと、胸に挿してある一輪の花まで揺れる。薔薇だな、とわたしはぼんやり眺めていた。白い薔薇だった。白と言っても、真っ白の白ではなくて、ほんのり薄杢色がかった、なんて言ったらいいのか、日常使いの麻のリネンのような色の薔薇だった。
教会ではわりと百合を使うことが多いので、薔薇は見そうで見ない花だったりする。
「男性のモデルさんはちゃんといらっしゃっていたんですがね。」
花嫁とのサイズ差が問題だったのだと言った。
サイズ差、というのとは少し違うのかもしれない。印象差というか、派手差というか。
ウェディングの花婿なんて、言っちゃあ悪いけど、花嫁の添え物というか、いないと困るけど、いても存在がまるでないというか、そうしたところがあると思う。刺身の黄色い花みたいな。
院の同期で、養女に貰われていって、そこで結婚した女の子を、わたしは何人か知っている。仲が良かった子も、そうでもなかった子もいる。
その子たちが結婚するとき、わたしは式にお呼ばれしたのだけれど、ドレスを着た子たちは華やかで、つつましくて、みんなとても美しかった。
それは特別な日だからとか、お化粧やドレスが凝っているとか、もちろんそういうのもあるかもしれないけど、彼女たちはみんな内面から嬉しい、を放出していて、その輝きがきれいだとわたしは思ったのだ。
申し訳ないけど、隣に立っていた花婿のことなんて覚えていない。
挨拶したはずだし、写真も一緒に撮ったはずだし、中にはしゅっとしたご主人もいたはずなのに、覚えているのはそのきらきら嬉しいをまき散らしている女の子たちのことばかりだ。
どれだけ男が格好良くたって、やっぱり主役は花嫁なのだ。
今回、花婿モデルに選ばれた男性は、そのつい数時間前事故に遭ってしまった花嫁と合わせて、目立ちすぎず、目立たなすぎず、いっとうに女性モデルを引き立てる男を、そのこだわりカメラマンのセンスで選んだのだそうだ。
前述したけど、事故に遭ったモデルさんは、身長一八〇センチを超える細身のひとだった。だからヴァチカンの尼僧でなくマクスウェルが選ばれたわけなんだけれど、実際花婿モデルと並んでみると、男性モデルがどうしても見落とりしてしまったのだって。
いくら細くても、肉付きが薄くても、立っているだけでローマ市内のカフェ店員からミケランジェロとかあだ名付けられてても、やっぱりマクスウェルは男だった。花嫁モデルさんでは問題なかったのに、マクスウェルが男と並ぶと、モデルの方が気圧されてかすんでしまったのだって。
で、また、カメラさんがごねたのだそうだ。
これじゃあいい絵は撮れない。マクスウェルの存在を消さない、けれど彼と並んで立っても存在の消えない男はいないかって。
花嫁モデル問題がようやく何とか着地点を見せて、ほっとしていた広報課の方々は、またたぶん慌てふためいただろうと思う。ほっとしたところいきなり足から掬われてふりだしに戻るって、想像するとちょっと気の毒だ。
ちなみに、マクスウェルの身長は一八九センチメートルある。となると、すくなくとも同じかそれ以上の男性が求められることになる。
ヴァチカン内で探そうとすると、もう、限られた候補しかいないのよ。
候補の写真が揃えた際に、枚数稼ぎで駄目もとでアンデルセン先生の写真も混ぜたそうだ。身長が高いから、という理由だけで。
顔に傷もあるし、まさかカメラさんが選ぶなんて思いもしなかったに違いない。
カメラさんは、ぱっと見てすぐに衣装が合うなら、とアンデルセン先生をチョイスしたんだそうだ。
そのときの広報課の胃を思うと、またなんとも可哀そうに思わないでもないけど、とにかくすぐにフェルディナントルークス院に連絡が飛んだ、ということのようだった。
「……しかし、いいんですかね。」
きっちり後ろに撫でつけられた頭を見上げながら、ハインケルがおそるおそる先生に問う。
「い、い、いいって、なに、なにが。」
「うん?
だって、イスカリオテ自体が完全秘匿の機関ってことになってるでしょ。だのにそのトップの二名が、いわゆるひと目で本人と判る状態じゃないかもしれなくても、のちのち残る資料に、しかも一般の目に触れるものに、堂々と顔をさらすというのは、さすがに、……さすがにあれなんじゃないの、」
「一応、裏の方でね、その場にいたヴァチカンの面々で協議してましたよ。マクスウェルも加わっていたはずだ。」
「あ、じゃあ局長は、アンデルセン神父が花婿役やるってご存じなんですね。」
「鼻に皺寄せてましたねぇ。」
「まあ、……、嬉しくはないでしょうね。」
事前の心がまえができているだけでもまし、と思うしかないのかもしれない。
マクスウェルは、アンデルセン先生をやたら毛嫌いしている。ただの写真撮影だって一緒に並んで、なんて言われたらいやな顔しそうだってわたしでも思うのに、それが花嫁だの花婿だの学芸発表会としか思えない仮装して写真撮られるわけだから、ストレスMAXだろう。MAXどころか、メーター振り切っちゃってるかもしれない。
でももう受けちゃったのだ。受けるかわりに交換条件も無理矢理飲ませたのだ。
いまさら、アンデルセン神父が花婿役やるなら俺はいやだからやめる、だなんて、ひと一倍場の空気読める彼が言えるわけはないだろうと思う。
中間管理職の悲しみを、彼は身に染みて知っているからだ。
「で、オッケーが出たと、」
「モデルがメインではなく、聖堂で挙式ができるアピールのための撮影ですから、どうも、そのあたりは、遠目で映すとか、真正面から撮らないとか、そうした対応をするようですよ。」
思わず口をはさんだわたしは、ハインケルと先生の説明にはあ、と頷いた。
それならべつに、長身のモデルにこだわることなく、背が普通でも別のモデルを発注したらいいのでは。
あ、でも、ドレスはサイズが決まってるのか。
この場合、サイズ込みでドレスとモデルを急いで別のものに手配しなおすのと、モデルだけ別の人間に変えるのとでは、どちらの方が手間なのかなと思う。わたしには判らないけれど、形振りかまわずマクスウェルが選ばれたってことは、まあ、そう言うことなのかもしれない。
そんなことを話していると、ふと、聖堂内の空気が変わった。
それまで忙しそうに、各々の待機位置でセットの確認や試し撮りなんかをしていた照明さんや機材さんや、それから警備や聖堂内の管理をしているヴァチカンのひととか、広報課の課長とその補佐、その他もろもろ、を合わせると、必要最低限の人数とはいえ、それでも三十人は超えるひとたちが忙しそうに撮影のはじまるのを待っていた感があるのだけれど、そのひとたちのあいだにざわ、となにか動揺のものがはしるというか、一瞬、集合体の意識がある一点に持っていかれる感じ、共通認識で驚くというか、そんな雰囲気が流れたのを感じて、いよいよ来たのだな、とわたしは思った。アンデルセン先生のときとは空気のどよめき感が段違いだ。
今度こそ花嫁が来たのだ。
思い、そうして息を一旦吸い、そのまま丹田に溜めて、覚悟を決めてから入り口を見た。
それは白い、どこまでも白いひとひらの蚕蛾だった。
けっして蝶ではなかった。蝶ではないと思う。蝶はこんなふうに、もったりと重く全身にけぶるもやを、纏わりつかせたりしない。
蝶というものはもっと明瞭で、せわしなく花から花へ飛び回る羽虫だ。
そのときわたしが見たものは、おのれが作った繭をおずおずと内から割り、冷たい外気にさらされ震えながら羽化する、おそろしいほど卯の花色の繭蛾だ。
その蛾は、誘引線を出し入れしつつ、和毛の生えた腹をひくひくと蠢かせて呼吸をくり返す。だからきっと雌だ。
わたしは覚悟して入り口を見たはずなのに、息すら飲むことができなかった。
頭をがんと殴られたような強い衝撃や、あまりに驚いて目を見開いたまま固まると言うことがあるけれど、一切そうした動揺はなく、わたしはただ、性別をどうやら超えたらしいその彼をじっと見ていた。
おそろしいほど森とした光景だった。
衣装さんとそのアシスタントを脇と背後に従え、もたつき絡まる裾を鬱陶しそうにしながら、顔をあげ、ヴェール越しにこちらを見止めた彼は、ほんのすこし首を傾げ、嬉しいような悲しいような不思議な表情でかすかに笑った。照れたのかもしれない。
上半身は、平服によく似た形のドレスだった。わたしは花嫁と聞いたので、もっとレースがもさもさで、胸もとや二の腕がばんと出るようなデザインの服かと思っていて、さすがにそれは男のマクスウェルが着るのはどうなのって思ったりもしたけれど、細い体にぴったり沿って手首や首元まで隠すなめらかな無地の絹布は、えらく品がよくてしかもものすごく似合っていた。
ドレスの下部分も、周りに広がり接近を拒むタイプのいわゆるお姫様ドレスではなくて、マーメイド型とも違う、Aラインにちょっと似た、裾を後ろに長く引くタイプの形だった。同色の糸で細やかに刺繍がしてある。そうしてその上に緩やかにマリアヴェールが流れている。わたしは、たぶんヴェール各種用意してきているであろう衣装さんが、あえてマリアヴェールを彼に選んだと言うことに喝采を送りたいと思った。判ってるって言いたい。
これだけマリアヴェールが似合うひと、なかなかいない。
同期の子の結婚式のお呼ばれしたときには思いもしなかったけれど、花嫁姿って真正面じゃなくて、斜め四十五度後ろとでも言えばいいのか、後ろ斜め側から見るとたいそうきれいに見えるのだなと言うことをわたしは知った。
従えた衣装さんとメイクさんが、やり遂げた感を出しているのが遠目にもわかる。これはそういう顔になるだろうと思った。これだけ仕上げられたら、わたしでも誰かに胸張って自慢のひとつもしたくなる。
変身という言葉があるけど、花嫁姿のマクスウェルは、どこから見てもマクスウェルだった。彼以外なにものでもない。変身なんかちっともしていない。
さっきわたしは正装したアンデルセン先生を見て、いつもと違う先生にちょっとどきどきしたけど、言ってみればマクスウェルはそのまんまだった。ドレスを着ているのに女性めいたところはどこにもない。鋭い目つきも、それを覆う重たげな睫毛も、角ばって細い肩も、腰も、そうしてたぶん中身も、みんなそのままでマクスウェルなのに、変身した彼は、彼でないようだった。
彼がこちらを見て笑っても、わたしは声をかけるのすらためらわれて、じっと彼を見ていた。すると今度は眉をしかめた彼が、絡まないように裾を手繰り、持ちあげて、かつかつといつもの大またの足取りでわたしたちの方へやってきた。衣装さんのアシスタントが、慌ててヴェールを捧げ持って後に付いてやってくる。まくり上げたので彼がひざ丈のブーツを履いているのがわかった。フィットしたふくらはぎの形に目が行ってしまう。
ブーツも、ドレスと同じ、乳白色のものだった。
「わ、な、七センチ、」
まくり上げて見えてしまって、思わずわたしの口から漏れたのは、そんな色気もへったくれもない感想だ。七センチ。見たことあるけどわたしぎりぎり履いたこともない。五センチが限界だし、それでも二時間で痛くなる。
世の中には十センチとか十二センチとか、それよりもっと、纏足みたいに思える高さとか、そういうのを履いて平然としている猛者もいることを知っているけど、とてもじゃないけどわたしは履けないし、もうそういうひとって一種の、なんだろう、その道の天才なんだろうなって思う。わたしなら履いた瞬間音を上げる。どんなに可愛いデザインでも、見る分にはいいけど履くのは無理だ。
七センチは、そこまで驚く高さではないかもしれない。でも、男のマクスウェルが、これまで生きてきた中で、こんな高さのヒール履いたことあっただろうかって思うと、よく平然と歩けるものだって感心してしまう。才能あったのだろうか。
闊歩する彼を見て、やれやれ、とアンデルセン先生が呆れた声を出した。あれだけ鮮烈な花嫁を見ておいて、いつもと変わらない口ぶりだった。
「おしとやかに歩かないと、せっかくの衣装が台無しでしょうに。」
言い置いて、そうして先生の方からも歩み寄る。わたしはその背を見送った。
聖堂の通路のちょうど真ん中で、花嫁姿のマクスウェルと花婿姿のアンデルセン先生が面と向かい合って立ち止まった。
うん、と彼がざっと先生の全身へ目を流してにっと笑う。薄いベージュか薄紫の口紅を塗られたせいか、ヴェール越しなのに妙に目立ってなまめかしい。
ヴェールは、視線をけぶらせるのだ。ほんの薄やかな布一枚なのに、鋭い眼光はその鋭さを隠し、視線の行き先をあいまいにする。だのに、唇だとか顎のラインなんかは逆にやたら目立つと言うことをわたしは知った。ヴェールをはぎとって、その下の素顔を確認してみたくなるこの衝動というものはいったい何なのかしらんとわたしは思い、そうして挑むように互いに見合っているアンデルセン先生とマクスウェルを見た。
そこで先生はひょいと身を屈め、顔を近づけるとひと言ふた言、彼の耳に囁いた。以前夜の大聖堂で、先生がふざけてヴェールを被せた彼に、何か囁いたことがあった。あのときは本当に暗くて、なにか言った、位しか判らなかったけれど、まだ日が沈むか沈まないかの時間、しかも今日は撮影のために煌々と聖堂内に灯りが反射していて、先生の口の動きがなんとなく読めてしまった。
――死ですらふたりを分かつことなく、
先生は今こう言ったはずだし、あのときもこういったに違いない。わたしは根拠もなく確信する。
隣のハインケルもきっと読めたのだと思う。ちらと見上げると、ものすごくむつかしそうな顔をして、視線を明後日の方向へ向けていた。どう反応していいか困ったのだなとわたしは思った。
言われたマクスウェルは、あのときはさっと赤くなっていたはずだ。けれど今日は平然とした顔をして、にやりと笑い返す余裕すらあった。極限まであり得ない状況に追い込まれてて、いまさら先生のひと言でどうこうなる気持ちの隙間はなかったのかもしれない。
笑い返した顔は挑戦的で、野性味があって、とても美しいなとわたしは思った。
撮影は粛々と行われた。わたしとハインケルは壁際に下がって、その様子を眺めていた。
疑似とはいえ結婚式だった。けれどこれはあくまでも挙式するわけでなく、挙式ができることを知らしめるための広告用の撮影だったから、ずらりと並ぶ聖歌隊もなく、葬儀と似たような黒ずくめの列席者もなく、中央の祭壇に夫婦の誓いをうながす司祭も立つことはなくて、ただ先生とマクスウェルが入り口近くや通路に並んで立ったり、離れて立ったり、手を取ったり離したりと、カメラマンが指定するポォズを何十と繰り返してゆくだけの、言ってみればひどく乾いて無機質な結婚式の舞台だった。
それにしても実に感心するほどの忍耐強さだ。そんなことはないと判っていても、もしわたしなら、と想像するのはやめられなくて、もしわたしが花嫁役を急遽押しつけられ、有無を言わさない力で聖堂内に連れてこられて、ここまで従順に辛抱強く撮影に付き合えるかと思ったら答えは否だ。
一時間くらいならなんとか我慢できるかもしれない。でも、矢継ぎ早に飛ぶカメラマンの注文にいちいち応え、それが三時間も四時間も超えるとなると、もうもう感心というか、感銘というか、到底わたしには真似できない、できる気もしない、尊敬の念でいっぱいになった。
ぺたんこ靴で突っ立ってるわたしですら足が痛くて座りたくなってきているのに、あんな履きなれない靴を履いて、へいざな顔をして、マクスウェルっていったいどういう神経しているのだろうかと思ったりした。
いやもう絶対痛いでしょう。鬱血して、なんなら痺れてるどころか攣ってるかもしれない。なのに挙動にいささかの乱れもないのだ。
わたしはなんかもう撮影の途中から羨望というか、感服というか、すごいすごい、だけの感想しか出てこなくなって、とりあえず撮影が終わるのを待っていた。
撮影はいったん休憩をはさんで深夜におよんだ。
壁にもたれていたわたしたちはげんなりというかぐったりして待っていた。撮影ってこんなにかかるの。信じられない。
カメラマンのこだわりが異常なのか、それとも明日から聖堂が使えないから、今日のうちに終わらせようとするとこうなるのか判らないけど、ここまで長いとか、聞いていない。
でも、控えていた照明さんとかメイクさんとか、裏方さんたちの顔を見ているとわりとみんなけろっとした顔をしていたので、やっぱり撮影というものがもともとこう時間がかかるものなのかもしれない。
最後にシャッターを切ったカメラさんが、はい、お疲れ、といったのが解放の合図だった。
わっと聖堂内に溜息が漏れた。なんとかなった、よかったというヴァチカンの面々の安堵の息と、裏方さんたちの張りつめた仕事の緊張の糸がふっと弛んだ吐息の、双方が合わさったどよめきだった。
「す、す、すご、六時間、」
時計を見てわたしはたまげる。六時間。普通にぶっ通しで突っ立っていたのかと思うと、時間の流れってとんでもないなと思うとともに、その時間付き合ったアンデルセン先生とマクスウェルがありえないなって本気で思った。彼らはモデル業ではないのだ。おまけにマクスウェルに至っては、撮影の直前まで、別の仕事を死に物狂いで、二徹までしているひとなんだって気づいたら、超人クラスなんじゃないのかって思う。
意識あるんだろうか。
お疲れ、を聞いたマクスウェルはほっとしたように肩の力を抜いて、それからぐるりと視線を流し、壁際のわたしたちを見つけると、こっち目指して真っ直ぐにやってきた。
いまは撮影も終わったものだからアシスタントの子らも誰も従ってなくて、だから裾もヴェールも後ろに長く引いて彼はこちらへやってきて、わたしはどういうわけか、ヴァージン・ロードのてっぺんで待つ新郎のような気持ちになって、そこではじめてどきまぎした。
「由美江、」
そうしていったいどうしたらいいのか判らず、どぎまぎしたままのわたしの前までやってきた彼は、ヴェールの向こうからわたしの顔を面白そうに眺めて、なんて顔してるんだって言った。
「あ、え、え、え、な、なに、」
「ほら、これ。やる。」
言って彼は唐突に、手にしていた白無垢のブゥケをわたしに半ば抛るようにした。
「わ、わ、」
わたしは咄嗟に両手のひらを広げ、落ちかけたブゥケを慌てて受け取る。茎に対してこんなに丸ぼったくて重たげにしてる花、床に落ちたら無残に砕けてしまいそうだと思う。色は、アンデルセン先生が胸につけていたのと同じ、生成りの白い薔薇だった。
受け取った瞬間なんともいえない良い匂いがした。薔薇のにおいって他の花とくらべても特別だと思う。ふっと鼻の奥に入った瞬間、強烈でだのに儚いのだ。こんな香り、わたしは薔薇以外にちょっと嗅いだことがない。
いいにおい、そのままの感想を口にして、わたしはブゥケに鼻をうずめ、胸いっぱいにそのにおいを満たした。そう言えば薔薇の花束をひとから貰ったこともない。
同期の子の式の時に、最後のあたりでブゥケトスなる花束争奪戦が行われていたけれど、未婚の女子がぎらぎらした目で構えていたし、わたしは自分の職業柄、結婚とは縁遠い場所にいることを理解していたから、あえて椅子を増やすこともないだろうと思い、争奪戦に参加したことはなかった。
したことはなかった。でも正直な気持ちを言えば、あの花束を狙える子がうらやましくてうらやましくて仕方がなかった。
わたしは今の道に入ったことを決して後悔はしていないし、むしろ誇らしく思う。神に仕え、いわゆる神の嫁として死んでいけるなんて、人生の選択最高じゃないの、くらいまで思っていた。迷わなくていいと言うことは、惑わなくていいと言うことだ。
でもその一方で、わたしとはまるでちがった道を歩いている彼女たち、好いたの惚れたので右往左往したり、旦那の浮気がどうのとか、子どものよだれが止まらないとかで一喜一憂する人生というもの、わたしとは無縁のもの、もし万が一、万に百分の一くらいの確率で、わたしがそうした道を選んでいたら、そんなことを思ったこともほんとうは、あった。
「あ、あ、りがとうござ、ございます。」
わたしの声はほんのすこし湿っていたかもしれない。
マクスウェルはそんなわたしを見て、ちょっと困ったように笑って、それからハインケル、と隣を呼ぶと、とんと手袋越しの指をハインケルの胸に突きつけた。
「はい、?」
「お前、今度はお前が贈れよ。」
「は、え、……は?」
言われている意味が判らない、心底そんな声でハインケルが目をむく。そんなハインケルにマクスウェルは鼻で笑って、それから疲れた、着替えてくる、と踵を返しかけて、
「――う、わ、」
ぐらとよろめいた。
慣れないかかとに足を捻ったのか、長時間の辛苦に膝がだめになったのか、それともそもそも徹夜の体力がとうとう底を尽きたのか、わたしとハインケルはそれぞれ同時ほどに支えようとしたけれど、先回りして彼を支えた腕があった。
支えたというよりは、ぐいと引き寄せて肩に抱えあげたという方が、正確かもしれない。
抱えあげたのは、アンデルセン先生だった。
「き、さっ……放せ!」
引き寄せられた瞬間から誰が何をした、を理解したマクスウェルが、鼻に皺を寄せて噛みつく。
「貴様な、こんな格好だけでも嘲笑の的なのに、その上貴様に抱えられて退出だなんて、ばかにしてくる奴ら格好の餌食だ。まっぴらだ。下ろせ。もういい。」
「……疾うに限界でしょうに。」
ばたばた暴れる彼に惑わされない声で先生が言った。呆れた口調だった。
「軽い貧血ですよ。このまま医務室に連れて行きます、」
「やめろ。歩ける。下ろせ、」
「……マクスウェル。下ろして、より盛大に倒れた方が、スキャンダルになると思いませんか。」
撮影機材を片付けながら、ちらちらこちらへ視線をやってくるスタッフを指さしながら先生は言った。スタッフだけでなく、無事撮影が終わり、いつの間にか大半が撤収したとはいえ、まだ広報課が数人残っていて、彼らがマクスウェルの異変に気付くのも時間の問題だ。
弱みを見せることを彼はいっとうにきらった。弱みを見せれば掬われる。
先生が言った言葉を頭の中で反芻したのだろう、一瞬彼の抵抗がやみ、それからあらためてばたばた暴れて下ろせ、と彼は声をひそめて喚いた。
暴れたのでヴェールがずれて素顔がのぞいている。その額にいつの間にか汗がびっしりしていて、具合が本当に悪そうなので、わたしはびっくりした。貧血というのはあながち嘘でもなさそうだった。
「マクスウェル、」
「いいから下ろせ、」
「マクスウェル、」
「下ろせ、アンデルセン。これは命令だ、」
「……、……、マクスウェル。」
不意に先生が声を低くして三度目の名を呼んだ。まるで部外者のわたしたちですらぎくりとなるほど、ドスのきいた、普段先生があまり出さないたぐいの、逆らいがたい声だった。
「暴れるなら、bridal carryingしてゆくが、覚悟はいいな?」
「――、」
え、となって彼が固まる。bridal carrying、つまり、お姫さま抱っこ、というやつだ。
いま先生は彼の腕を首に回させて抱えている。言ってみれば負傷者を運ぶ姿勢で、これを完全に男性が女性を運んでゆく姿勢に変えると言っているのだ。しかも新郎新婦姿で。末永くお幸せに。わたしでも言いたい。
そのままたっぷり数十秒、彼は呼吸すら止めて固まっていた。このまま暴れ続けて無理矢理お姫さま抱っこされていくか、それとも多少なりとも体裁を保って大人しく運ばれてゆくか、天秤にかけて思考が停止したらしい。
「局長。ほら、あきらめの境地。」
「局長ぉぉ、あば、暴れるとパンツ、見えちゃいますよ。」
「――ッ。――ッ!――ッッ!!!」
わたしたちがぽそりと提言すると、羞恥でなく怒りで顔を真っ赤にした彼が、言葉もなく口中で罵った。何に向かって罵ったか判らない。畜生、とか、ジーザス、とか、混じっていたような気もするけれど、聞かなかったふりをする。
どういうわけか先生まで蹴られていたので、半分は八つ当たりだったのだと思った。
そうしてその怒り顔を見て、ああ、ようやくこのひとの怒った顔が今日は見れたなと思う。このひとは今日ずっと我慢していた。我慢して、平気なふりをして淡々とこなそうと、気持ちを押し殺して努力した。
怒られるのはごめんなのに、怒った顔を見てなんだかほっとしているわたしもたいがいだ。
ふつふつと湧き上がる怒りに震え、沈黙になる新婦と、その彼をやすやすと横抱きにして退出してゆく先生を、ハインケルと並んで追う。
そうしてもう一度、わたしは白無垢のブゥケに鼻をうずめて、その香りを胸いっぱい吸ったのだった。