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 マクスウェルを抱えてアンデルセンは通路を歩いている。
 サンピエトロ聖堂に続く回廊だった。普段自分らが局室に向かう殺風景なただ土の中に掘られたトンネルにくらべると、窓もあり、ところどころにはかざられた絵や張り紙があり、ずいぶん賑やかしいなとアンデルセンは思う。
 深夜だった。撮影は長引いたのだ。
 正直、小一時間ほどで解放されると高をくくって撮影にのぞんだので、中途から彼は飽きた。ほんのすこしの手の角度、首の傾け、たいした違いはないと彼には思えたし、一枚撮ればそれでいいのではないかと思っていたから、ほとほと厭になり、どこかのタイミングでそっと抜け出してしまおうかともちらと思った。けれど、相方役のマクスウェルが存外強い忍耐をしめしたので、それに付き合う形になった。
 ひとりだったらとっくにフェルディナントルークス院に戻っていたろうと思う。
 腕の中のマクスウェルは暴れるのをやめて大人しくしている。通路には聖堂とちがって人気がないからだ。
 聖堂でアンデルセンが彼を抱えあげたとき、即座に彼は反応し、暴れた。下ろせと喚き、じたばたしてみせた。だがそれがポォズだということをアンデルセンは見抜いていた。押しのける腕に力がない。怒りをかき立てて暴れてみたものの、相当に具合が悪いのだ。
 ハインケルと由美江のふたりは心配していた。あれはきっと心からのものだったと思う。彼の真意にふたりが気付いたかは判らないが、そのお人よしの前ですら彼は虚勢を張るのだなと思った。
 それははたして美徳かな、ふとアンデルセンは思い、じっと目を伏せ動かない腕の中の顔を見下ろした。おのれとはまるで違う生き物だった。
 アンデルセンは無理を通す。任務の時は顕著だ。有象無象の魔物どもの蠢くさまを見ただけで、体が勝手に反応してしまう。気付けば突っ込んでいたりする。事後のことは考えない。理屈でない。動くのだ。
 思考はあとで。叱責もあとで。行動が先だった。
 だが、決して無茶はしない。おのれの限界を知っている。許容範囲以上のものを抱え込むことはない。抱え込みすぎて押しつぶされては、元も子もないことを知っているからだ。
 マクスウェルは無茶をする。見た目に反して面倒見が良い。面倒見が良いとはもしかすると少し違うのかもしれないが、助けを求められた腕を、すげなく断われない。なんとか引き上げてやろうとする。他の目がある前で決して素をさらけ出さず、口角を引き上げ薄く笑ってみせる。そうして相手の分まで荷を背負いあげようとして、つぶされそうになっていたりする。
 だのに、自分の弱みは徹底して人に見せない。
 要するに彼はきっと上に立つ側の人間なのだ。昂然と頭を高くもたげ、どこか遠くを睨みつけ、指示を出すのが似合うのだ。

 先ごろふらついたときに、とっくに彼が限界だと言うことは判っていた。そもそもそんなに頑丈な性質でもない。脆弱ひ弱とまでは言わないまでも、一日どころか年間のほとんどを日の当たらない室内で執務している彼が、年に一度の健康診断はパスしているとはいえ、健康的であるかどうかは疑わしい。
 いや、二夜続けて仕事ができるのだから、たいした健康ぶりなのかもしれないな。ふとアンデルセンは思い直す。ほとんど休息も取らず仕事机に向かっていた彼は、勢いの気合で持っていたようなものとはいえ、それだけの体力があるのだ。
 それは体力ではなくやけくその気力なのかもしれない。だが、気力と言うならたいした精神力だ。アンデルセンはそう思う。夜魔ども相手にいくらでも戦い続けられる気はするが、机に座りむつむつと仕事を続けていられるかどうかは自信がない。自分は動の人間であると言うことを承知している。静は性に合わないのだ。
 その、静の似合う人間がうん、と呻いて目を上げた。こちらが見下ろしている視線を感じたのかもしれなかった。
「どうしました、吐きそうですか。」
 貧血だと思うが、青いを通り越して白くなっている。花嫁装束なのだから、おそらく彼は化粧を施されているのだろうけれど、その化粧を通してすら磁器のように白い。そうして全身がしっとりしているのは、脂汗をかいているせいだ。
「――吐くかばか。」
 腕の中の生き物がちいさく呟いた。ばか、と返せるほどの余裕はあるらしい。そうして、
「貴様、いつから、……、」
 続けた。いつから不調に気が付いていたのか問うたらしかった。うん、と男は返す。
「三つ子の魂百とでも言うんですか。……フェルディナントルークス院から卒院生を見ていますとね、存外、大人になっても小さい頃の癖が抜けていないものが多いのですよ。」
「……癖。」
「あなた、自分じゃあ気が付いてないでしょうが、具合を悪くしますとね、いつもより二割増し姿勢が良くなるんですよ。普通の子供は、こう、気分が悪くなると背を丸めて体を傾げるものなんですが、あなたは逆だ。背に三尺定規を入れたみたいにすっと真っ直ぐになる。」
「……、」
 自覚がなかったのだろう。言われて腕の中のマクスウェルが僅かに眉を上げた。
「自分は平気だ、まだ大丈夫、そんなように自己暗示をかけているのが、形に出るのでしょうかねぇ。おそらくほかの局員……、ハインケルや由美江ですら気づいていないとは思うのですが、」
「……ふん、」
 ふくれて彼はそのままそっぽを向いた。めくれ上げたヴェールの中の顔は、先より赤味を増していた。思いあたるところがあったのかもしれない。
 そうしてそのまま身もがき、もう歩ける、下ろせと命じる口調になる。
「私は花嫁じゃあないし、傷病人でもない。さっきはすこしふらついただけだ。貴様に部屋まで抱えられてゆくなんて冗談じゃない。」
「歩けると本当に思っているんですか。」
 呆れてアンデルセンは呟いた。彼の意地っ張りもたいがいだと思った。
「歩ける。」
「歩けるわけないでしょう。」
「歩ける。」
「――なるほど、たしかに立ち眩みはおさまっているかもしれませんが、しかし靴の中はどうです。ズレて、肉刺(まめ)がつぶれてひどいことになっているのは見ないふりをしますか。」
 仕方がないのでずばり言ってやると一旦口を開けてなにか反論しかけた彼は、唇を噛んで黙り込む。そこまで見破られているとは思っていなかったらしい。
 やれやれ、と肩で大きくため息をついて男はかぶりを振った。
「――あまりの忙しさにお忘れかもしれませんがね。私は『再生者』ですよ。嗅覚も利くんです。先から血のにおいがぷんぷんしている。」
「……、」
「立ち眩みと靴擦れと、ふたつ抱えてクランクアップまでしれっと耐えていたのは、まあ、度外れた忍耐力だと感服しましたが。」
「感服。貴様がか。」
 くく、と喉を鳴らしておかしそうに腕の中の彼が低く笑った。
「感服しますよ。私には到底耐えられそうにない。」
 言って男は肩をすくめる。
「まずもって、そんな高い靴底でまっすぐ歩ける気がしません。一歩目から捻る自信がある。それだけで称賛ものだ。」

 言って彼は抱えたマクスウェルの脚へ目をやる。ぴったりとふくらはぎの形に添った乳白色のブーツの踵の細さに眩暈がした。そんな事態は到底あり得ないし絶対にあってほしくはないが、仮に自分のサイズで同じような底高の靴を履けと言われたら、自分は無理だと答えるだろう。涙目になると思う。苦行にしかならない。
 男の視線を受けて、ああ、早く脱いでしまいたいなと彼が小さくぼやく。
「童話であるだろう。グリムだったか? アンデルセンか?」
 アンデルセン、の言葉に、名前が被っているのがすこしおかしかったのか、マクスウェルが顔を上げる。その目が笑っていた。
「童話ですか、」
「『みなしごカーレンと赤い靴』だったかな。……フェルディナントルークスの図書にもあったろう。赤い靴に魅入られて呪われ、足を切り落とす娘の話だ。」
「……ああ、」
 アンデルセンも頷く。聞き覚えがあった。寝しなの読み聞かせに、子供らに読んだことが何度もある。
 ただ、他の童話にあるシンデレラや白雪姫などのように、ドレス姿の少女が出てこないこと、王子がいないこと、結末が幸せなのかどうかはっきりしないこと、などから、初等科の女子からの人気はあまり高い話ではなかった。いうとそうだろう、と彼も頷く。
「……子供心にあの話は怖かったな。いや、子供だから怖いのかな。幽霊船だとかの怪談なんかより、よほど怖かった。呪いから逃れたくて娘は足を切り落としているのに、その切った部分が離れてゆかず、まわりで踊って終生おのれを苛むなんて、精神的にクるものがある。神は心底慈悲深いだとか聖書に言うが、本当はどうかな。一度犯した罪は、いくら懺悔したところで結局許されないのじゃあないか。だから、決してしていけないことは、どうしたってしてはいけない、それが言いたいのじゃあないかな。そうして読むたび、最後の、いつの間にか教会の中に娘がいて、許しとともに天に召される瞬間が、私はいっとうに怖かった。……許された? いいや、あれは許されたんじゃない。いつの間にか移動したなんて話は物理的にありえない。あれは、追い詰められた娘の気がふれて、許される幻覚を見ただけだ。」
 ふんと鼻を鳴らしてマクスウェルは続けた。
「まあ、頭がいかれて幸せになったと考えることもできるかもしれないが、そんな結末私はごめんだし、それを幸せだとは言いたくないな。実際見たら後味悪いことこの上ないだろ。幸福なオチに仕立て上げているが、あの作者の童話は、他の作品も全編通して宗教観が強い。それを面白いととらえるか、作者の育ちととらえるかは人それぞれだとは思うが、まあ、つまり、名前と同じように貴様と似て、説教くさいな。」
「私は説教くさいですか。」
「貴様、自分がそうでないと思っているのか? 脳天からつま先まで説法と抹香くささでぷんぷんしているぞ? ……そうして、ここまで脱線しておいて私が言いたいことはと言えば、その娘と同じほどには、膝から下を切り落としたいほど怠いと、……まあ、それだけなんだが。」
 心外な言葉にアンデルセンが問うと、彼は小さく笑って答えた。

 言っているうちにアンデルセンはマクスウェルの私室の前に辿り着いていた。
 鍵は、と尋ねると、ごそごそと隠しをさぐっていた彼が男に小さな鍵束を渡す。機関をまとめる彼は、自室の他にも保管庫だの、機関室だの、その通路口だのの扉の鍵を管理していて、ざっと円環に通された鍵は十ほどあるように見えた。
 その中でも一番に小さい、親指と人指し指二本でつまめるような鍵を探し出し、アンデルセンは鍵穴に差し込む。
 かちんと小さな音がして鍵が回った。
 ノブを握り、入室しようとした男へ、待て、と抱えたマクスウェルが抗い、留める仕草を見せる。
「なんです、」
「ここでいい。貴様は中に入るな。」
「――ここまで来て?」
 今さらここで追い返すか。意外な物言いに目を落とすと、困惑に揺れる彼の目とかち合った。どうしたものか迷っている。
 迷いの理由は判っていた。
 私室は彼の居城、マクスウェルのたったひとつの巣穴だったからだ。何人もそこには入りえない。急を要する局員も、携帯電話のコールで呼び出すだけで、ここを訪れようとはしなかった。彼が極端に人払いしているのを知っているからだ。彼自身ですら、寄り付くことをためらう彼の巣だ。
 踏み込んだのはおそらくアンデルセンたったひとりだった。
 留める腕に力のないのをいいことに、アンデルセンは取っ手に手をかけ、内側へ開けると無遠慮にずかずかと入室した。腕の中の獲物は、止まる気のない彼にあきらめたのか、それ以上抗うこともなく大人しくしている。
 真っ直ぐに寝台へ向かうと、かかえていた彼をまず布団の上へ下ろしてやり、それから寝台横の華奢な作りの小卓に向かう。卓上のランプを点けるためだ。アンデルセンが最初に訪れたときから、ほとんど変わりのないこの部屋は、裸電球ひとつない。光源はランプだけだった。不便ではないのかと以前彼に尋ねたことがあったが、寝るためだけの部屋に灯りは必要ないとこたえが返ってきたおぼえがある。盲人と同じで、配置場所を覚えればランプすらいらない。彼はそう言った。
 それを合理的と言えばいいのか、生活に対して無味乾燥すぎると言えばいいのか、男には判らない。
 もともとマクスウェルが、自己というものに固執していないことには気づいていた。服や靴は、支給されるものがあればいい。靴下は黒だけでいい。着るときに今日は何を着ようか考える手間が省ける。この色とこの柄は合わないのではないかと頭を悩ますこともない。そう言って憚らない。神経質そうに見えて、わりに大雑把な部分もある。
 唯一手持ちのもので色味があるのは、銀杏色の外套だけの気がする。
 黄味がかったそれは、がらんと家具のない部屋でひとつだけある衣文掛に通され、壁にかかっている。司教就任の際、贈られたのだと聞いた。送った主が誰なのか、アンデルセンは知らない。けれど教会から支給される、ぶ厚くて固くて重い外套とちがって、上物の毛が使われているのが判る。軽いのに暖かいからだ。

 火屋の中の蝋燭の炎をたしかめると、今度は彼のひざ丈のブーツのジッパーをゆるめ、片方ずつ足から引き抜いてやった。鉄錆のにおいが相当香っていたので、だいぶひどいことになっていると思った足は、思ったほどにひどいことにはなっておらず、ひとまず安心する。包帯を巻くまでもないようだった。せいぜい手拭いで汚れを拭って、絆創膏でも貼り付けておけば数日で治りそうだ。
 ふと思い立ち、持ちあげた足の甲の、ちょうど肉刺がつぶれ血やらリンパ液が滲んだ箇所へそのまま口を寄せ、べろんと舐めあげてみた。思いもよらない自分の動作に、ぎょっとなったマクスウェルが半身を跳ねおこし、眦をひらいてこちらを見る。
 温かみのある蝋燭の灯りに、見開いた青い目がゆらゆら揺れる。今日の青は、白によく映えると思う。
「き……、さ、……っ、え、貴様、なにをして、」
「舐めました。」
「え、は? 舐め、……ッ、なん、」
「知ってましたか?唾液には傷を治癒する成分が、わずかですが含まれていると研究で判ったそうですよ。」
「え、え、……は?」
 目を丸くしたままの彼が一瞬固まる。内心笑いをこらえて、アンデルセンは大真面目な顔で見返してやった。
 昔からそうだ。勢いや思い付きの行動には即座に反応する彼だったが、整然とした建前をかざされると一瞬思考が止まる。その論理をどうにか理解しようとする方に頭を割くので、現実がおろそかになる。

「私も詳しくは知らないのですがね。このあいだ、定期点検の際にね、データ待ちの時間、医務局員とすこしそういう話になったんですよ。……院で、子供が転んで怪我をするでしょう。そのとき、……こう、唾つけて舐めるでしょう。舐めますよね。もとは自分が親にされた行為で、自分も自然にそうしたものだと子供らに教えていた行為だったのですが、……、あれは実際、雑菌が混じってよくないのかどうかとか、まあ発端はそう言った雑談だったんですが。その医務局員の彼が言うには、唾液中のタンパク質に、ヒス……、ヒスなんだったかな。とにかく、抗菌作用の成分があり、傷をふさぐ効果がある、とかなんとか。言ってみれば、私に施されている再生技術もその応用だそうで。血管形成細胞を活発化させ、血管を新生させるだとか、細胞同士をつなぎ合わせ、傷口の組織を再生させるだとか、そうした成分がもともと、どの人間の体の中にもあって、それを増幅しているだけらしいのですがね。――おや、どうかしましたか、」
「いい。その成分の説明の下りは別にいい。わ、私が言いたいのは、それと、貴様が私の足を舐めるのと、なんの関係が、」
 医務局員との会話をアンデルセンが思い返しているうちに、ようやく思考が追い付いたのか、彼が真っ赤になっている。これは羞恥かな。それとも怒りかな。測りかねて片眉を上げた男に、わなわな震えてマクスウェルが言った。
「ですから、私は再生者でしょう。」
「……それが、どうし、」
「通常の人体から分泌される唾液に微量含まれているのなら、再生技術を施された私のものなら、より効き目があるかなと思いましたので、」
「だ、だからって、な、舐め、……ッ」
 汚いだろう。険しい顔をして彼が言う。険しさはおそらく照れ隠しだ。そう踏んで、アンデルセンはもう一度、掴んだままだった彼の足をべろりと舐めた。二度目は完全に悪戯心だった。
「お、まッ……!」
 目を白黒させた彼にとうとう笑いをこらえきれず、くっと男は噴き出した。普段の貴様、の呼び方すら保てなくて素が出ている。相当に混乱しているのだ。
「わ、笑うな?! あと、あ、あ、足を舐めるな!」
「――どうして? 痛みが軽減されて治りが早い方があなたも助かるでしょう? それに、着替える前にシャワーを浴びている。では何も汚いところはない。」
「浴びた、……いやたしかに、二徹してそのまま貸衣装に袖を通すわけにもいかないと思って浴びたが、……貴様、なんで、」
「……香りがしましたので。」
「におい、……石鹸?」
 言われて思わずくんくんとマクスウェルがおのれの体を嗅いでいる。ひとつのことに気を取られると、怒りが沈静する。……ほら。お前の弱みはそういうところだ。
 くつくつと押し殺した笑いを漏らしながら、アンデルセンは彼の足を解放し、ベッドに乱暴に腰を下ろす。半身を起こした彼へひょいと手を伸ばし、そのうなじあたりをさぐってみせた。
「ちょっ……待ッ……、いったいさっきっから、」
 再び羞恥に怒りを点らせかけた彼へ、皺になるでしょうと男は先を制す。
「……え、皺、」
「貸衣装なのでしょう。あなたはこのまま寝ても何も問題はないが、衣裳は脱がなくては、」
 言われてはたとマクスウェルはおのれの格好を思い出したらしい。いま彼が身につけているのは、彼がほとんど日常的に纏っている平服(カソック)ではなく、撮影のための花嫁衣裳だった。私服ではない。このまま寝て、汚せば面倒なことになるし、そもそもこの窮屈な格好で寝られそうな気はしない。眺めているだけのアンデルセンでもそう思う。
「いい。自分で脱げる、」
 白色のドレスはうなじのホックとそれへ続くジッパーで留められているものだ。よほど体が固くなければそれへ手は届くと思われたけれど、
「……『下』も、ご自分で解くので?」
「……! ……ッ。……ッ!」
 痛いところを突かれて口ごもるマクスウェルに、これは無理だろうなと思いながら男は声をかけた。
 ドレスの下は、いわゆる縦骨の入ったドレス専用の肌着だ。肌着の名前をなんと呼ぶのか、女性の服飾にとんと興味のないアンデルセンには判らなかったが、その彼でも判るのは、背中に交差している紐の締結感だ。胸部ならともかく丁度肩甲骨の後ろあたりからはじまっているそれは、ひとりで解くのは不可能ではないにしても、なかなか手古摺ると思われる代物だった。
 しかも着慣れているならともかく、マクスウェル自身もこの肌着を身につけるのははじめてだったろうから、余計だ。
 いったいどうするつもりかな、そんな気分で他人ごとで眺めていると、右手と左手を上やら下から後ろに回し、なんとか緩めようと悪戦苦闘していたマクスウェルが、やがてきっと男を睨み、大いに不本意な声でほどけ、と呟く。地を這う低い声だった。
「触れるお許しを頂けるのですか、」
「――いいからさっさとほどけ!」
 八つ当たり気味に喚く花嫁にやれやれ、と苦笑しながら、アンデルセンは彼の後ろに手を伸ばす。
 撮影のために着崩れることがないよう。衣裳係はよほどしっかり締めたものと思われた。一辺をゆるめれば次々ほどけてゆくものでもないようで、上の段から順繰りに、交差している紐を穴へ通し、解いてゆくよりないようだった。

「……こうした肌着は、女性の凹凸を矯正するために必要で、男は着ないものだと思っていましたが、」
 おのれの武骨な指にくらべると、その骨のラインの浮くレース地の肌着はあまりに華奢だ。人生でこんなように、女性下着の紐を解く機会が訪れるとは思いもしなかったなと苦笑いしながら、アンデルセンは呟く。
「知らん。私も衣裳係に文句をつけた。だが、なんでもドレスのラインをきれいに出すためには、着なければならないそうだ。」
「なるほど……。」
「交換条件でいろいろゴネた手前、みっともない写真を残すわけにもいかないだろう。カメラにも照明にも金を払っているのだし、どうせ撮ると決めたのだから、撮るからには最善のものにしなくては、」
「……ずいぶんきつく締めあげていますが、呼吸ができるんですか、これ。」
「思ったより苦しくはなかった。私は肉がないから、形ばかりでゆるく結んでいるのだそうだ。女性だとよりきつく締めるらしい。」
「ほう……、」
 無駄な知識だな、そんなことを思いながら一段一段辛抱強く男は紐を緩めていく。
 ふとした身動きに、大人しく首を前に傾けうなじをさらした彼から、かすかに匂いが立ちのぼった。わずかに体温でも上がったのか、浴びたと言ったシャワーの石鹸と混じりあった彼の体臭だった。惹かれるようにして男はすっと目を眇め、音もなく呼吸をして腹底にその匂いをとどめる。彼の気づいた気配はない。
 それから目を下ろす。花嫁衣裳と合わせるために、きりきりと結い上げた髪のおかげで、平常は髪で隠されている彼のうなじや肩口がよく見えた。……ああ、耳の後ろにもほくろがあるのだな。小さな黒点を見止めて男は思った。
 不意に悪戯心が湧いた。まるきり無防備をさらすマクスウェル、どう考えても男の意図に気づけば機嫌を損ねることは判り切っているのに、どうしようもなく揶揄ってみたい心持ちになった。
 誘われるように男は背筋へ顔を近づける。
「……まだか、」
 なかなかほどけない肌着の紐に彼が催促する。うん、と低く答えて、結び目が固くてなかなか緩まんのだ、と男は答えながら、先ごろ深く吸った息を静かに近づけた背のあたりで吐きだしてゆく。
 背骨に沿った産毛にふっと吐息が触れ、ぴくんと彼が身じろいだ。
「おい、」
「……なんだ?」
 無心に結び目を解く振りを装いながら、男は頬のゆるみを抑えきれずにやにやする。にやついていても彼は後ろを向いているので、音をたてないかぎりこちらの表情は見えないはずだ。
 生真面目な声で返すと、なんでもない、とぶっきらぼうに彼が答えた。
 その言葉が言い終わるかどうかのうちに、すっと小指をすべらせ、肩甲骨に触れる。またぴくと身じろいで若干背をそらせた彼が、反応を誤魔化すように咳払いをした。
「手間取って悪いな。」
「……いや、」
 あくまでもただ紐を解いているだけだ、紐を解いているのだから指もぶつかるし、それにいちいち過剰反応する自分がおかしいのだ、そんな風におのれに言い聞かせるようにこわばった肩にやはり頬のゆるみを抑えきれない。
 そのまま、彼が大人しくしているのをいいことに、今度は肩口に触れ、さり気なく二の腕をつつく。いちいち敏感に反応するマクスウェルが面白くて、つい弄っているうちに、次第に血の気の失せた白から仄かに赤く色づくさまを眺め、ようよう紐を下段までほどき終わったころには、悩まし気な吐息を漏らすまでになっていた。

 ――これはなかなかそそるものがあるな。

 アンデルセンに倒錯の趣味はない。今の今までないと思っていたが、こうして背を向け表情のおぼろげなまま、上半身を裸にさらし、残りの半身をたっぷりとした白地の布をもたつかせ、肩で微かに息をしている彼は、白黒のポルノグラフィフィルムと大差はないようにも思われた。撮影を取り仕切った件のカメラマンが見たら、聖堂内の結婚式の様子より、ずっと垂涎の被写体かもしれない。知らぬが仏。あいにく彼はここにはいない。
 終いまで解けたぞ、そんなふうに告げてやると、ようやくこちらを振り返った彼が、恨みがましい目つきで睨んでくることに気が付いた。瞳がぼんやりと潤み、目尻が赤く染まっている。
「――どうしました、」
 知らぬふりのままで眉を上げ、彼の額に手をあてがった。
「すこし熱い。熱があるのかもしれませんね。」
「……どの口が言う、」
 拗ねた口調で目をそらし、マクスウェルはさっさと下半身を脱ぎ捨てると、ほとんど裸のまま上掛けを体に巻いて寝床に転がった。うつ伏せに寝たので顔は見えない。
 誘われるように、寝床にもつれ広がった髪をひと房手に取ってみた。
 くるくると指にからめて解き、解いてはまたからめて伸ばした手のひらで頭を撫でる。やめろ、とくぐもった声が僅かに抗うが、それ以上嫌がる様子は見えないので、男はそのまま彼の頭を撫で続けた。

「私は、子供じゃない……、」

 枕に顔をうずめたままマクスウェルがもそもそと呟く。そうだな。お前はひとりでも寝られるな。そう返しながら、アンデルセンはそのやわらかで腰のない髪から、手を離すことができなくなっている。
「……早く帰れ。だいたい、急な呼び出しだったんだ。途中で抜けて来たんだろう。」
「帰る、――フェルディナントルークスに?」
「貴様の居場所はそこだろう。ガキどもが朝課に貴様のいないのを知ったら大騒ぎだ。」
「……うん、」
 頷き、あなたが寝たら帰りますよと中途まで言いかけ、彼がふとこちらを向いたことに気が付いた。
「マクスウェル?」
「――帰るならいま帰れ。言っただろう。子供じゃないんだ。寝入るのを確かめられるだなんて迷惑だ」
「……、」
 急な拒絶だった。唐突に目の前に張り出した玻璃の硬壁だ。そこでああそうだなと応え、腰を上げるのが常だったが、その拒んだ色の目が泣きだしそうに揺れていることに、男は気付いてしまった。
 ……あるいは見せた弱みは、ここが彼の巣だったからだろうか。
 そうか、とすとんと腑に落ちる。この拒絶は、彼自身のテリトリーに踏み込んだゆえの拒絶ではない。踏み込まれ、そうしておのれの知らぬ間に立ち去られることがきっと彼はいやなのだ。
置いていかれたあとの、目が覚めたときのしんとした部屋の静けさ、おのれ以外にぬくもりを発するものがいない隙間の空虚さを知っているから、
「なるほど、」
 ぎし、と寝台を軋ませて、アンデルセンは彼の隣へ寝そべる。
「では俺も朝までここで寝てゆこう。」
「はあ……ッ?」
 こいつ何を言いやがる。
 信じられないと言った態の、目を丸くした彼を見るのはこれで今日は何回目だったかな、思いながら男はくつくつと笑い、脇の彼へ腕を伸ばすとその体へ身を寄せた。
「もうちょっとそっちへ寄ってくれ。この寝台は狭い。俺が半分落ちる。」
「きさッ……、おい、寄ってくるな! あっちへ行け! 落ちるなら床に落ちて寝ろ!」
「つれないことを言う。」
 ばたばた暴れる体を胸に抱え、男は彼の耳に声を吹き込んだ。
 都合よくと言おうか、マクスウェルにとっては運悪くと言おうか、彼は体へ巻き付けるようにして上掛けをかけていたので、暴れたくてもたいして暴れようがない。そこへ押さえ込みをかけられて、体重差に動けなくなっている。
 押さえ込んでやると、噛みつきそうな顔をして彼はアンデルセンを睨んだ。
「……あのな、私はふた晩寝てないんだ。とても疲れている。寝たい。今すぐ寝たい。一分でも長く寝たい。だのになにが悲しくて、貴様とむさ苦しく同衾しないといけないんだ、」
「おや、前にここで体を重ねようとしたこともあったのに?」
「あッ……、……あ、あ、あれはあれ、今は今だッ。」
 指摘してやるとたちまち彼は真っ赤になって怒鳴った。ここが防音のきいたぶ厚い石の壁でよかったと思う。
「――今。」
 ふっとあらわになった首筋へ鼻を寄せてすんすんと嗅いでやる。たちまち彼が肌を粟立て硬直するのが判った。
 お前な、こういうところだよ。アンデルセンは心の中でため息をついた。抵抗を見せるなら徹底的に抵抗しないと無意味なのに、すぐにこうして弱さをひけらかすから足元をすくわれるのだ。
「なにもしない。朝までお前を抱き枕にして寝るだけだ。」
 こわばった肩へ鼻をうずめて男は言った。
「……だから、ここはひとり用だと、」
「お前が寝ても置いていかない。お前の目が覚めるまでここにいよう。」
「……、」
 弱い建前の声をさえぎり言葉を重ねると、彼が急に黙り込んだ。肩越しにのぞきこんだ顔は固い。納得しているわけではないらしい。
 ……これはとことん拒絶されるかな。様子を見ていると、しばらく黙り込んでいた彼がやがて、勝手にしろ、と聞こえるか聞こえないかの声で、小さく呟いた。
「勝手にしていいのか。」
「知らん。私は眠い。考えるのが面倒だ。寝る。」
 そうして上掛けごと体を丸め、まるで繭のようになって眠りの体勢に入ってしまう。
 その体を後ろから抱きかかえ、そう言えば花嫁の衣裳を脱がせたはいいが、自分の装束一式をまるで脱いでいなかったことにアンデルセンは今さら気が付く。
 ――まあ、いいか。
 アイロンでもあてれば何とかなるだろう。いい加減自分も眠かった。楽観的にそう決めて、適当に靴だけ寝台下へ脱ぎ落すと、ほどけて波打つ金茶の髪に鼻をうずめて男も目を瞑り眠りに落ちる。

 

 

最終更新:2021年01月17日 22:34