ごみ袋かなにかのように助手席に勢いのまま抛りこまれて、俺は尻からというよりは頭から座席に突っ込んだ。しかもまだ起き上がりもしないうちにキーを回してエンジンが掛けられ、乱暴にアクセルを踏まれている。
加速のGに俺は唸った。
「きさ、」
「口を固く閉じていなさい。舌を噛みます。」
俺が喚きかけた先を制して、そいつが俺にそう言った。俺が口を開くことを見越していたとしか思えない、どんぴしゃ絶妙のタイミングの制し方だった。
貴様な。
何か文句を言ってやりたかった。
もうちょっと丁寧な運転ができないのか。いやそんなことはいまどうでもいい。そもそもなんで貴様が俺のことを迎えに来るんだ。俺は迎えにこいだなんてひと言も頼んでいない。どころか来るなと電話越しながら怒鳴りつけたはずで、だのに自分が迎えにくるのはさも当然、と言ったふうでそいつが運転席に座り、前方の路面を睨みつけてハンドルを握っているのを見ると、無性にむかむか腹が立った。
俺は、貴様に面倒を見てもらわなきゃならないガキじゃない。
言ってやりたかったけれど、うっかり口を開くと文字通り舌を噛みそうだった。噛むだけならまだましかもしれない。路面がでこぼこしており、しかもこいつがやたらとスピィドを出しやがるものだから車体が跳ね、勢い、噛み切ってしまいそうだ。夜間救急行きだ。
噛み切った舌というのは、ところで医務局に駆け込んだところで何とかなるのかな、縫い付けてくっつくものなのだろうか。しかし医務局の奴らなら何とかしてしまいそうで、いやだな。
ついついそんなことを思いながら、俺は上下に突き上げられる車の中で何とか体を起こし、座り直してシィトベルトを締めるとアシストグリップを握る。そこでようやく一息ついた。
そうして、運転席のそいつと同じようにフロントガラスの向こう側へ目をやる。
真っ暗だった。
この時間でも、市街ならまだ防犯のために街灯がぽつぽつ点いているものを、店近辺の郊外ともなると、カーライトが当たっている箇所以外はほぼほぼ漆黒の闇だ。おまけに見たところ道路横にはガードレェルすらない。今走っている道路がどの程度の高低か判らなかったが、もしある程度の高さがあるとすると、ハンドルを握るこいつがほんのすこし手を滑らそうものなら道路外へ真っ逆さま、という洒落にならない事態に陥るわけで、そう考えるとぞっとしない。
しかも、思えばこいつの運転する車に乗った機会がない。まったくの初めてだった。
俺がヴァチカンから公用で出かけるときは専属の運転手がついたし、十三課個別の用事であったなら、俺は局員の中から気のおけない連中を選んで運転を頼んでいたから、こうして、こいつの隣に座る、ということがそもそもないのだ。
そこまで思い、俺はアンデルセンの顔を窺った。
街灯もないものだから車内はひどく暗い。まさか相手の表情をたしかめるために車内灯を点けるわけにもいかず、そいつがいま一体どんな顔をして前方へ顔を向けているのか判ったものじゃあなかった。
判ったものじゃあない、けれど俺はどういうわけだか貴様がひどく腹を立てていると言うことが手に取るように判るのだ。
……というかこいつ、運転できたか?
胡乱な目で眺めてしまう。免許証保持うんぬんのはなしではなく、実際の運転技術の問題の方だ。
人斬り包丁役のこいつは、後部席に座ることが多かった。運転役は運転に徹するもの、そうしてこいつの役目は的を見つけた瞬間、引き金を引き即凶器として飛び出す、と言うことだったから、ハンドルを握っていてはその役目を果たせない。
だから俺が見たことがあるのは、ばかでかい体をちまーと縮こめて座席に座りながら機を伺う姿で、こんなふうにクラッチペダルを踏み、シフトレバーをせわしなく動かす姿というのは、わりと想像の斜め上をいった。
だいたい、貴様の手の大きさじゃあ、レバーの握りが小さくて不便だろうに、などと俺は思い、それからいきなりきつく踏まれたブレーキの反動にわっと息を飲み、がくんと体を前後させた。
ベルトをしていてよかったと思う。してなけりゃあフロントガラスに頭の形に皹を入れて脳挫傷だ。
「――赤信号でした。」
……貴様な。
なじる俺の目線に、悪びれもなく貴様は低く呟いた。ひと言。
顔へ、信号の赤いライトが反射して、ようやく俺はそいつの表情を窺うことができる。
思った通り、ものすごく不機嫌な顔だった。
黙りこくったまま、じきに青信号になり、また車は発進しだす。だが一度止まって貴様は若干頭が冷えたのか、次の加速は先ほどめちゃくちゃなものではなく、俺はひとまずほっとした。徐々に市街地に近づいてきたせいもあるのかもしれない。一応こいつにも、往来を気にしてスピィドを緩める、という頭はあったわけだ。
路面の凹凸もやや平坦になったのか、先よりも上下に揺さぶられる感じも少なくなった。
そのままなんとなく、口を開けない空気が車内に広がっていたと思う。十五分は、会話もなく走っていた気がする。
俺は先ごろの店での接待相手とのやりとりを、思い出したくもないのに思い出していた。座っているだけで手持無沙汰で、それしかやることがなかったのだ。
これが日中なら、それでも外の景色について言及出来たろうに、夜間のおかげでまるきり景色は見えないし、ローマ市内につながるどこかの幹線道路を走っているはずなのに、いったい今どの路線を走っているのすら判らなかった。
「……ったろに、」
車内の揺れも軽減されたことだし、ひたすら黙って助手席に乗っているのも気まずい気がしたので、俺は何も見えない窓の外を眺めながら、ようやく口を開く。
本当だったらここは、休んでいる時間だろうに迎えに来てくれて悪かったな、だとかいう場面なのだろうと思う。俺もそういうつもりで口を開いたのだし、なにもばつの悪い子供じみた言い訳を言うつもりは微塵もなかった。
なのに、
「――はい、?」
貴様の声に一気に不穏が混じる。
「……らから。俺は、迎えにこらくて、いいって、言ったんら。」
ちがう。そんなこと言うつもりじゃあなかった。なのに口から勝手に付いて出た言葉は、まるきり可愛げのない言葉で、貴様が不快になるのも当然だと思う。
「……、そうは見えませんでしたがね。」
ふんと鼻を鳴らしてそいつが答える。
「だいたい、あの醜態はなんです。痴態とは言いたくないですがね。組み敷かれ、抗いらしい抗いもできず、あのまま私が行かなければいったい今ごろどうなっていたと思いますか。無傷で帰宅できるとお思いでしたら、能天気もたいがいにしろと言わざるを得ませんね。」
「……俺にらって考えが、」
「考え。考えねえ。」
続けてそいつは笑った。せせら笑いだ。
「……その呂律もおぼつかない、まともにひとりで立つこともできやしない状態で、『考え』?
あの御老人に気に入られるために、あなたはなにを差し出すつもりだったんです?」
「……、」
いらいらとハンドルを指ではじき、アンデルセンが前方を見据えたまま吐き捨てた。
「それとも、おきれいなあなたの崇拝者は多勢いて、『こうしたこと』は日常茶飯事だとでも言いたいですか。」
「――、」
そいつの言葉に、ひゅっと、俺は俺の喉が息を吸い込む音を聞いた気がした。
誰にでも媚を売りすり寄り、股を開き、夜の親密関係によって今の座を手に入れた、だとか内外で噂されていることを俺は知っている。べつに今に限った話じゃあない。ものごころついてよりずっと、俺は自分自身の顔をなにかと比べられ、貶されて生きてきた。
……見たかい、あの顔。母親そっくりじゃあないか。そりゃああの子に罪はないのだろうけれど、……けど、あの顔ではね。
古くは唯一の身寄りが死んだとき、引き取り拒否をした親戚どもに。
……なンて醜悪な面なんだろう。
そうして義母に。
……わたしはその顔が大嫌いだよ。男に媚を売り、お情けを乞うその顔がね。
片膝で俺を押さえつけ、ぐりぐりと火箸を肋骨の間に差し込みながら、あの女は憎悪を浮かべて死ね、死ねと耳に吹き込んだ。
自分の顔が歪むのが判った。恐怖でなく、純粋に痛みに耐えかねたのだ。
望んで生まれた顔じゃあない。そもそもおのれの面なんざ、鏡でもない限り見えやしないのに、まったく勝手ばかり言いやがる。
……見たか? あいつ。ほら、■■枢機卿のお気に入りってもっぱらの噂のだよ。え? ……そう、そりゃあのおきれいな顔でだろうさ……。
ヴァチカンに入っても妬み嫉みを含んだそれは変わらなかった。
きれい? なにが? きれいだとして、何かが変わるのか。
だいたい、この顔に産んでくれと誰も頼んでいない。腹立ちまぎれに言い返したかった。けれど反論するだけ無駄なことも俺は知っていた。
悪意に反応すればするほど、そいつらはそら見たことかと手を叩きはやし立てて、それまで以上に噂に尾ひれがついてひとり歩きだ。相手にしないのが一番で、だから俺は俺自身にまるで興味を持てなかったし、どころかおのれの顔がひどく嫌いだった。反吐が出る。
部屋にも鏡を置かなかった。鏡はなくても身支度は整うし、映る姿を見るだけでうんざりした。
だから、街に出るのも、実はあまり好きじゃあない。自分の姿がショウウィンドウに映るからだ。
今回だってそうだった。
あの、老いた枢機卿とやらが、俺のことを舐めまわすような目で眺めていたことは知っていた。……ああ、またか。そう思った。
要は慣れだ。
いちいち不快を示したところで、俺にとって有利にはならない。適当にあしらって流すのが結局一番害が少ないのだ。
猊下が是非にと望んでおられます、だとかなんとか、従者が今日の業務終了後の会食に当然のように誘ってきたが、受けるつもりはなかった。俺はさっさと局務室に戻り、仕事がしたかった。
だいたい、俺に仕事を振るなと言いたい。一日のやることリストだけで両の手の指がなくなってしまうほどくそ忙しいのに、老いぼれの相手を割り振るなと言ってやりたい。
公務だかなんだか知らないが、そんなものは閑職のやつらに回しておけと言いたかった。どうして俺なのだ。
ひゅっとなった俺の喉の音は、狭い車内に響き、妙に気まずくなる。
「――申し訳ない。失言を撤回します。」
俺が息を飲んだことに気が付いたそいつが、前を向いたまま舌打ちし、かぶせて言い直す。
だが言い直してどうなる、俺は思う。撤回するなら、最初から口に出しちゃあいけないんだぜ。
口から一度放たれた言葉はもう二度と元には戻らない。だから、よくよく注意して発言せよと、毎日開くありがたい聖書にだって、何度となくそう書かれているじゃあないか。
……ああそうか、俺は気付く。
貴様の心にも、他のやつらと同じ、俺への侮蔑が満ちているのだな。
妙に冷めた頭で思い、そうして、止めろよ、と俺は言った。
「は、」
「車を止めろ。」
深夜営業の看板に顎をしゃくって俺は言い、貴様は黙ってスピィドをゆるめ、路肩へ寄った。駐車禁止の文字がちらと見えた気もするが、かまうものか。これは停車であって駐車じゃあない。それに、俺は降りるが、こいつは運転席に座ったままだ。
ちょっと待ってろ。
言い置いて俺はドアーを開け、灯りに誘われる蛾のようにふらふらとした足取りで、まぶしいくらい灯りが漏れる店に向かって歩き出した。
少し頭を冷やしたかった。
「――マクスウェル、」
だのに、なぜだかそいつまで慌てた様子で車を降り、付いてくる。待ってろと言ったのに聞こえないらしい。いらいらした。
苛立ったけれど、付いてくるなと口を開くのも面倒くさくなって、俺は黙って歩を進める。一瞬ゆら、と視界がぶれ、まだ酒が抜けていないことを知った。支えようと伸ばされた腕を振り払う。……かまうなよ。
鬱陶しかった。
こうしたことが日常茶飯事? 貴様も俺のことをそう思っていたんだな。
そればかりが頭の中をぐるぐる回って、なんだかぐちゃぐちゃだ。反吐が出そうだった。なんでもいい、何か飲みたかった。
服の隠しをさぐり、紙巻きの箱を取り出すと一本咥え、火を点ける。煙草の煙と硫黄がまじりあったにおいが好きなので、懐にマッチを入れていることが多い。だが今日はすうと深く吸い込んだ煙がおかしな具合に苦い。内心首をかしげた。
おかしいな。酒を飲んだあとは、いつもよりうまく感じるものなんだけどな。
隣でぬっと立っているそいつに、俺はもう一度顎を使って店内を示した。何か買ってこい。言ってやる。
「……なにか、」
「なんでもいい。飲む物。」
ちいさく頷き、貴様がのそのそ店内へ消える。俺はその背に向かって、長々と煙を吐きだした。
売り言葉に買い言葉。判っていた。
俺が貴様にねぎらいではなく不貞腐れた言葉をかけたのも、貴様が俺の悪意に過敏に反応して辛辣な言葉を返したのも。
ばかばかしい。失言と言うなら互いに失言で、言葉尻をあげつらってどうのこうの言ったって泥試合だ。泥沼どころか底なし沼だ。
「あー……飲みすぎたかなァ……。」
ひとりごち、がりがり頭を掻いて、立ちのぼってゆく煙を追って空を仰ぐ。仰ぐと、優しい黄味を帯びた月が空にかかっていた。
ぼんやり眺める。普段眺めているものより、だいぶんあたたかな色に見える。色でだいぶん印象が変わるものだな。なんだかやわらかでうまそうだ。
そのまま空を仰いでいると、ややして店内から湯気の立つ紙コップを手にふたつ提げたアンデルセンが、またぬうと姿をあらわす。無言で差しだすところへ、煙草の火をもみ消し、俺はひとつを受け取った。
市街から離れた、幹線道路にぽつんと建つ深夜営業の店に、テイクアウトのエスプレッソをわざわざ買い求めに来る頭のめでたい客は他にはいなかったのだろう。それは舌を火傷するほど熱くなっていて、俺とアンデルセンはふうふうと口をとがらし息を吹きかけ、しばらく立ったままコーヒーをすすった。
すすりながら、ちらと目をやる。ここは車内よりも店の灯りが漏れて明るい。だからそいつの顔がよく見える。やつが己の失言に苦い顔をし、俺になんといったらいいものか思案しているさまが判って、不意に笑いたくなる。口が過ぎた、しまったと具合悪くなっているのは俺も同じだった。
「……悪かったな。」
先に口を開いたのは俺だった。時間が経ったおかげで呂律も直りつつある。湯気の向こうの貴様が、窺うようにこちらに緑灰色の視線を走らせた。
「……バスもタクシーもこの時間はない。ヒッチハイクは論外だし、あすこから歩いて帰るのも大変そうだ。正直、迎えは助かった。」
「――、」
じっとこちらを見る貴様に、俺は肩をすくめ、
「給仕はあの従者がやっていた。やたらと勧められたのは、きっと何か一服盛られていたんだろうな。」
続けて眉をしかめてみせる。
酒が強いとは思っていないけれど、それでもまるきり飲めないわけでもない。だのに二、三杯で視界がぐらぐらし始めた。従者もあの老いぼれもそろってこちらを観察する目で見ていたから、俺は最初値踏みされているのだと思っていたけれど、あれは、盛った薬の効き目が表れるのを待っていたのかもしれない。
そう言えば市内中のオテルを探すことになる、だとか電話越しに告げていたような気もする。とするとあの枢機卿は、俺を実際「そうした目に」合わせようとしていたわけだ。
はたしてあの猊下が俺に圧しかかる方か、もしかすると圧しかかられる方がお好みなのかもしれないが、さてどちらの御趣味だったのかな。くつくつと漏らすと、黙ってこちらを見ていたそいつの眼差しがきつくなった。
「……笑いごとで済んだからいいようなものを、」
「笑いごとさ。笑うしかないだろう。女性ならともかく、私は男だ。」
「――、」
すっと目を眇めたそいつが、紙コップを持っていない空いた方の手を俺に伸ばす。不意の動作に俺はぎょっとなったけれど、そこで下がるのは貴様に怯えたようで嫌だった。俺は貴様がちっとも怖くない。ふんと鼻を鳴らし、顔を上げて相手の顔を睨めつけてやる。
「男、ねぇ。」
「男だろう。たしかに髪は長いが、背の高さも、腰も、肩幅も、声も、どこにも女性のやわらかさやなよやかさやまろみはない。」
「……、……、……、」
黙って頬の横で俺の髪をからめて弄る指を、横目で見ながら言ってやった。
そりゃあこいつの体のデカさ、ぶ厚さにくらべれば数段劣るのかもしれないが、それは俺が華奢だとか、貧弱だとか言うわけではなくて、いわゆる比較対象が悪すぎるのだと思う。俺が普通で、こいつが規格外なだけなのだ。俺が局のトップで、こいつが武装神父隊の隊長なものだから、どうしたって横に並ぶことが多くなる。並べば比べられるのだ。しようがない。
言い募る俺に、うんとも否とも貴様は答えなかった。ただ眇めたままの目で推しはかるように俺の顔を眺めていただけだ。
「……、……なんだよ、?」
あまりにじっと眺めてくるので、居心地が悪くなる。まだ熱いエスプレッソの紙コップを片手に、俺は顔を背け、車へ戻ることにした。
向かいながら、そこではじめて、俺が乗せられていた、つまりそいつが乗ってきた車が、ヴァチカンの公用車でなかったことに気が付いた。
公用車の車種は決められている。その時々によって多少変動があったりはするが、メルセデス・ベンツか、デイムラーが最近の車種だったはずだ。
けれど、駐車禁止の看板の真ん前に堂々と停められている軽薄な青銀のそれは、だいぶ乗りくたびれたプジョー104、一般車両だ。ヴァチカンのものじゃあない。
たとえばヴァチカンに通う職員の車の可能性はあったが、それにしたってナンバープレェトが明らかにちがう。これは一般車だ。
そうして俺は、その車が停めてある光景を見たことがある気がした。
見たことがある、どこで。
「……アンデルセン。」
俺は足を止め、背後からゆっくり追ってくる男に声をかける。かけながら、先ごろのリストランテの位置を、頭の中の地図に思い浮かべていた。
「ちょっと待て。貴様、……、……貴様、どこから来た。」
たしか電話でのやりとりは、こいつがヴァチカンにいることになっていて、そこから二十キロ少々、だから待ち時間は三十分でぎりぎりだとかなんとか、そんなように従者が言っていたような気がする。
俺もあのときなんだかぼんやりしていて、会話を聞き流すまま、とくに気にも留めてはいなかったけれど、よくよく考えてみれば、このところアンデルセンが出張らなければならないような大掛かりな公務外征はない。
俺のラインに直接かけてきたから、たぶん従者はこいつがヴァチカンに詰める職員であると判断したのだろうけれど、こいつの肩書きはヴァチカンではなくフェルディナントルークス孤児院のお優しいアンデルセン先生さまだ。
つまりこいつは、
「おい、貴様、まさか、」
「――今夜はあなたが顔を出すような気が、なんとなくしていたのですがね。自慢じゃあないですが、私の勘はちょっとしたものなんですよ。あなたに言わせれば動物的だと言われてしまいそうですが……、……、寝ずに待っていたが、一向にやってくる気配がない。ですからこれは、十三課の局室で仕事しているのだろうと当たりを付けた。そうしてコォルしたら、知らない人間が電話口に出るでしょう。事件に巻き込まれたのかと焦りました。」
「……、」
助手席のドアーを開け、乗り込みながら俺はじろりと貴様を睨む。こいつが多弁になるときはきまって、何か誤魔化したいときだ。
なあ、と俺は言った。
「……フェルディナントルークスからあの店まで、どれだけあると思う?」
「……、さあ、」
孤児院からリストランテまでの距離は、ヴァチカンから店の比じゃあなかった。だとすると、指定された時間に間に合わせたこいつは、いったい時速何十キロでぶっ飛ばしてきたのかという話になる。
何十キロの世界じゃないよな。百キロ二百キロの世界だよな。
はあ、と俺はため息をつき、眉間の皺を揉みながら、轢いてないよな、ととりあえず確かめることにした。
「はい、?」
「この際、一般道をサーキット並みに何キロでクソ飛ばしたかは不問だ。信号をいくつ無視したのかも言わんでいい。言いたいことは山ほどあるが、確認したいのはひとつだけ、……貴様、店に現れるまで通行人をひっかけてはいないな?」
「おそらく。」
「……じゃあいい。」
まったくもってよくない気がしたが、俺はそう答える。
通報されたらどうするつもりだったのかとか、パトロール中の警察に見とがめられたらどうするつもりだったのかとか、貴様まさかスピィド超過カメラに引っかかってないよなとか、こいつがやらかしたことのしわ寄せは、確実に俺にやってくるわけで、できれば深夜の気ちがい暴走車をどいつもこいつも見ていなければいいが、そう思いながら俺は深々とため息をついた。
不問だ。不問。みんな不問。
厄介ごとの後始末は、とりあえず局に上がってきてから考えることにした。
「これ、誰の車だ?
公用車じゃあなし、フェルディナントルークス院に専用車はなし、ということは、院に出入りする誰かの車だな。脇に停めてあるのを一度見たことがある。」
「ルチオ神父です。彼は通いですから、」
俺のあとからそいつも運転席に乗り込んでくる。大柄なそいつがどすんとシィトに腰かけるだけで車が軽く揺れた。こいついったい何キロあるんだろう。ほどよく筋肉と脂のついたその体が、戦闘時は驚くほど俊敏に動くことを俺は知っていた。
「通話しながら表に出たときに、ちょうどエンジンをかけ、帰宅しようとしていた彼とはち合いましてね。」
「強奪してきたか、」
「まさか。快く貸してくれましたよ。」
「……快く、な。」
有無を言わさず奪ったんだろうなこれは。思いはしたものの口には出さなかった。こいつが血走った眼で貸してくれと押し迫って、否と言える人間の方がきっと少ない。
横目で眺めていると、俺の視線に気づいた貴様が、なにか、と怪訝そうにたずねた。
「……なにもない。」
そういやこいつ、夜目が利くんだったな。俺は視線を外し、慌てて漆黒の前方を見た。
ふんと息を吐いた貴様は、運転手の当然の権利だとでも言うように、こちらに向かって手にしたまだ中身のある紙コップを差し出す。たしかに片手で運転はできない。だったので、俺は仕方なく貴様の分も受け取る。
こういう時に、手に持ったままでなくてもいい、電車や飛行機にあるような、飲み物がこぼれないカップホルダーが取り付けられると便利なのにな。思いながら一旦ダッシュボードの上にふたつ置き、ベルトを締めてから再度手に持ち、俺は前を向いた。
先ごろとはまるきり違う、急な発進も不意の加速もなしに車は幹線道路をすべりだし、俺はシィトにもたれながら、ああ煙草が吸いたいなあとふと思った。
色々疲れた。頭を空っぽにしたい。
この両手の紙コップが片付けば蒸かしたってよかったのだけれど、ところでルチオは煙草を吸ったかな。吸わない人間の車にヤニのにおいをつけるのは、さすがに忍びない。
相変わらず窓の外はほとんど闇だった。ほんの時おり表示看板に当たる道路灯がぽつんと見えてはそれもすぐに車の後ろに流れていく。どこを走っているのか判らないのも先とすこしも変わらなかったが、どうも、ヴァチカンやフェルディナントルークスに向けて走っていないことだけはなんとなく理解した。
つまりこいつも特にゆく当てを決めるでもなく、でたらめに分岐を選び、運転していることになる。
貴様と深夜のドライブか。
俺はため息をつき、手にした紙コップの俺の分の方へ口をつける。冷めたそれは香りも飛んで、ただの黒いぬるま湯だった。
「――今日に限って、なぜ酒の誘いに乗った。」
「……あ?」
不意にアンデルセンが口を開き、静かに問うた。言葉の唐突さに俺は間抜けな声を上げる。
「公的な場所以外で個人と対面して酒を飲むことが、そんなにおかしいことか?」
「お前はしない。」
「……貴様がどう思っているのか知らんが、曲がりなりにも私は局の長だぞ? 酒の席でしか話せない相談事だって、」
「お前は付き合いを極力避けるだろう。行動を把握しているわけではないが、俺の知っている限り、他人との馴れ合いを是とする人間じゃあない。誘導役を務めた程度の、ほとんど見知らぬ人間と、必要性を感じない酒の席におそらくお前はいかない。……ただひとつを除いてな。」
「知った風な口を、」
「口に出せなくなるとお前は酒に逃げる。悪い癖だ。……実際のところ、あの老人とコネもツテも作るつもりもなく、ただ単純にお前が飲みたかっただけだろう?
たまたま舞台設定をあちらさんが設置してくれたわけだ。何から逃げる。俺と、顔を合わせるのが怖くなったか?」
「……怖い。どうして私が貴様を怖いと思わなければならないんだ。」
挑発的なそいつの言葉にさっと反応して、俺は肩をそびやかし、笑ってみせた。
「ばかばかしい。そういうのを下種の勘繰りというんだ。だいたい、来ると思った、だとか先ごろ貴様は言っていたが、いつ私は貴様と逢引の約束をした?
院に行くつもりなんてさらさら――、」
「さらさら? なかったか?」
くく、と喉を低く鳴らしてそいつは言った。どこか含んだところがあるように思えて、引っかかり、俺は片眉を上げる。
「……何が言いたい、」
「次期再生者候補リストを正式に提出したと聞いたぞ。」
「――、」
不意打ちだった。そこまで貴様が判っていたとは知らなかった。胸を衝かれてこわばり、俺は一瞬言葉を失う。
「今日の昼に事務所に用事があってな。ヴァチカンに顔を出した。ついでに医務局に呼ばれて、立ち寄ったところに、医局員がそんな話を振ってきた。」
「――、」
「選んだのは、我らがイスカリオテ第十三課の長のお前だろう。前から選出を渋っていたそうじゃあないか。さんざんせっついて、ようよう数名の候補があがってきたと、医局員はそんなように言っていたが、」
泣きべそかいて、俺のところに顔を出すと思っていたが、酒に逃げるとは思わなかったな。前方を注視しながらアンデルセンが低く笑う。
「――、」
動揺を隠したくて、俺は一息で残りのコーヒーを呷る。ぐっと喉を鳴らして飲みこんで、空になったそれを足下にほうり投げた。
またひとつ、灯りが窓の外を流れて、一瞬だけ貴様の横顔を照らし、すぐに闇に沈んだ。
「……べつにそれが原因で誘いに乗ったわけじゃあない。」
たっぷり十分は黙ったあと、しぶしぶ弁明しはじめた俺の声はしわがれていた。狼狽があからさまに声に出ている。なんとも情けない話じゃあないか、そう思う。
「飲みたい気分だった。それだけだ。」
「飲みたい気分、……ねえ。」
「悪いか?
始末書だの報告書だの見積書だの申請書だの、積み重なるファイルの山に日々うんざりだ。たまには、気晴らしに飲みに行きたい気分になったって、おかしいことじゃあないだろ。……その飲みたい気分の日がたまたま今日で、案内を務めた相手がたまたま誘ってきたから、断る口実も見当たらなかったし、乗っただけの話だ。」
なるほど。
一応そいつは答えた。だがまるで納得していない声色だった。返答に、俺はいらいらし、苛立ちを紛らわしたくて手にしたコーヒーを一口含む。含んでから、あ、これこいつの飲み差しだった、と気が付いたが、いまさら吐き出すわけにもいかず、しかたなく飲みこんだ。
こいつの言った通り、医務局から早く出せ早く出せと選出の突き上げを食らっていたのはたしかだった。
医務局は心配している。切り札を失うことをおそれている。
たしかに今現在、再生者アレクサンド・アンデルセンに不備はない。不備はないどころか基準値を大幅に上回る良好ぶりだった。こないだ行った身体検査も今までにないいい数値で、どこにも悪いところはなし。太鼓判を捺された。だったら杞憂じゃあないのか。俺は思う。
思う、けれど、今不備がないからと言って、明日も同じとは限らない。
それは残酷な事実だった。
――マクスウェル局長は、超新星爆発を知っていますか。
顔もおぼろな医局員の誰かが呟いた言葉が、今も脳裏にこびりついている。
前任者は五年だったそうだ。その前は七年。その前が八年。再生者歴代の記録を目にしたことがある。当たり前だ。俺は使役する側で、だったら放つ銃剣の性能をきちんと把握しておかなければその力を百パーセント効率的に使用することはできない。
どれだけ基準をクリアーしていようと、どれだけ歴代の再生者を凌駕していようと、鬼札は生き物だ。日々刻々と変化してゆくものを、変化してゆかねばならないものを、医療と秘跡で「いま」にとどめ、縛り付けておく複合技術だ。
歴代の再生者はみな精神をやられていったそうだ。……貴様はどうだろう。俺はたしかめるのが怖い。
俺の立場上、貴様の数値の増減は必ず報告にあがってくる。俺は見止め、認め、貴様が次第にしおれ、だめになってゆく姿をそのうち必ず目にすることになる。
それはいつだ。明日か? 数か月先か? それとも数年後?
駄目になるのだろうか。こいつが。俺を置いて先にくたばってしまうのだろうか。
……こんなに腹の立つほど近くにいて、減らず口を叩いてくるのに?
飲みたかった。飲んでへばって、ぐでんぐでんに崩れて、どうしようもなく不条理な、先々の布石だとかいう、次期再生者候補の名前なんざ頭から追い出して、反吐にまみれて眠ってしまいたかった。
飲める場所なら場末のカウンターだろうが、ヴァチカンお抱えの高級リストランテだろうが、どこでもよかった。とにかく飲んで、このぐずぐずに堂々巡りになった思考を、頭から追い出してしまいたかった。
もうすこしでばかになれた、前後不覚にひっくり返ってしまえるあと半歩のところで、不意に胸元の携帯電話が震えた。
取りだしたディスプレイの数字を見たかどうかは覚えていない。耳にあてた瞬間、今いちばん聞きたくない声が、俺だ、と言った。俺だ。いまどこにいる。局室か部屋ではないんだろう。何をしている。
瞬間一気に感情が高まって、わけが判らなくなった。いやだ。貴様が消えてしまうのはいやだ。
この声も、聞けなくなってしまう。
「――だいたい貴様は私の保護者か?
何か鬱憤を晴らしたい理由で酒に逃げたとして、どうして貴様がしゃしゃり出る?
私は成人した男で、しかも貴様の上司だ。くそテロリストだの異教徒だのから、拉致だの襲撃されたときに警護されることにいささかの不満も感じないが、今回は別だろ。接待相手から酒席に招待され、それを私が受けた。それだけの話だ。受けた理由が酒に逃げるためだろうが、純粋なる接待相手との歓談だろうが、貴様に関係のある話か?
ないだろう。私事に首を突っ込むな。不愉快だ。」
「――、」
言い募っているあいだに、くん、と体が前方へ引かれる感じがした。運転席のそいつがゆるゆると減速したのだ。
そのまま次第に車はスピィドを失い、中途からがくがくと車体が震えた。加速の時は流暢にいっていたのだから、減速を知らないわけじゃあない。さっき店に停めたときだって、こんなようにはならなかった。だからこいつはわざとこうしているわけで、つまりギアチェンジする気がさっぱりないらしい。
下から突き上げてくるようなエンストすれすれまで堪えてのち、ギアをニュートラルに戻して、すん、とエンジンが黙り込む。途端に車内が静かになった。
路肩に停めることすらせず、おんぼろ中古のプジョーは停まった。道路のど真ん中だ。頭がおかしい。
たとえば今、後方から車が来てみろ。街灯ひとつないあたりは畑だか藪だかの田舎道で、真の闇だ。そこにライトを消した車が一台、反射板ひとつ後方に立てるでもなく、ぶつかる気満々でど真ん中に停まっていて、はたして運転手が自車のライトと目視だけで、いったい接近何メートルで気が付くか。それが普通車だって冗談じゃあないのに、もし、大型ダンプだったとしたら?
車内にいる自分たちが、ダンプのライトを確認し、ベルトを外し、車外へ逃げ出す時間があるかどうか、考えたくもない。
深夜だからか、田舎道だからか、行き交う車はまるでないことだけが救いだけれど、いつやってくるかは判らない。危険なことに変わりはなかった。
なんだ、と俺は言った。先は一度、俺が譲った。売り言葉に買い言葉、迎えが助かったことは事実だったし、言い張ることも大人げないと思ったからだ。けれど、
「……なるほど、」
今日ここ一番重低い声でそいつが言い捨てた。なるほど。俺の言い放った何かがこいつに気に障ったらしい。……なるほど。三度呟かれたが、いまさら後に引く気は俺にもなかった。
「……私がどこで誰と飲もうが、仮におのれの手落ちで窮地に陥ろうが、それは私の問題で、貴様の問題じゃあない。はき違えるな。再生者リストを提出した、それがなんだ?
次期再生者候補者選出に多感な私が心を痛め、憂鬱に陥り、酒に逃げたとして、何か問題があるか? 貴様に泣きつく? 私が?
孤児院のガキどもじゃあないんだ。ばかばかしい。……もう一度言ってやろうか。私の問題だ。貴様は何の関――、」
何の関係もない、と言いたかった言葉は立ち消えた。
次に感じたのは、どんとおのれの後頭部が座席にぶち当たる衝撃だった。不意を衝かれ、固く目を瞑る。一瞬何がどうなったのか、理解できなかった。殴られたのだろうか。腹を立てた貴様が拳を俺に叩きつけたのだろうか。
それにしては殴られた痛みは感じないけれど。
「っ――、」
目の前が暗かった。暗いというか塞がっている。
車内は暗くて、夜目が利くでもない俺には何も見えないわけで、だから暗いと言うならもうずっと暗かったのだけれど、暗さというか、迫っていたのは質量だった。振り払おうともがいて、そこで初めて、俺は貴様に押さえ付けられていることを知る。そいつのばかでかい手が、俺の頬というか顎というか、顔ごとがっちりと掴んでいた。
塞がれていたのは俺の口だ。
俺の口が、貴様の厚ぼったいそれでもって塞がれ、有無を言わさぬ強さで押しつけられ、乱暴に食まれる。
頭が真っ白になり、一拍のちには血が上った。
やめろと言いたかった。怒鳴りたかった。
こんな公道で、しかもライトすら消した車体で、田舎道だったから通行人に見られる心配はなくても、先も言ったように後続車が突っ込んでくる可能性はいくらでもあった。ゼロに近い交通量はゼロじゃあない。
だのにこんなふうに俺に圧し掛かり、互いの視界を塞ぎ合い、唇を貪りあっていては、あっけなく追突され、二名仲良く死亡、そんな新聞記事まで目に浮かぶ。冗談じゃあない。本当に冗談じゃあなかった。
振り払いたくて暴れるのに、万力のように挟むそいつの手はびくともしない。手袋越しのくせに体温がこちらに伝わってきて、ますます頭に血が上った。
それは羞恥ではなく怒りだ。
「――ふ、ざ、け……ッ、……!……!」
ふざけるなと怒鳴った口は声を発しきることなく塞がれたまま、貴様の唇が覆いかぶさり舌が侵入する。噛みついてやってもよかったが、噛み切った舌先が俺の口中に残ることを考えると、生々しい話だった。
貴様の二の腕に、俺はぎりぎりと力を籠め指先で引きはがそうとしてしがみつく。やめろと言いたかった。
やめろ。はなせ。放してしまえ。塞がれた息でもって口中で叫ぶ。何もかも放してしまえ。
貴様、ヴァチカンへ顔を出したなら、三課の話も回っているのか?
俺は聞きたかった。聞きたくて、そうしてどうしたって絶対にその答えをこいつの口から聞きたくなかった。
今日正式に、俺のところにあれが運ばれてきたぞ。ヴァチカンの秘蔵物、奇蹟の偶像崇拝、キリストを穿ったエレナの聖釘。
仰々しく箱をまた何重にも聖骸布で包んであってな。中まで確認させられた。釘というから真っ直ぐな、太い鉄のそれを俺は想像していたんだが、中に入っていたのは釘というよりは不格好な形の杭だった。――こんなものを心臓に突き立てる?
見ただけで嫌悪感に吐き気がした。
突き立てなければならないのか。それしか手はないのか。突きたてなくてもなにか別のやりようが、探せばいくらでもあるんじゃあないのか。
貴様がひとであることをやめて、それで何か救われるのか。
いやだ。いやだ。いやだ。無茶苦茶に暴れて押さえ込む貴様の力を、俺はたしかめて安心している。これだけ力があるのだ。小汚い釘ひとつに頼らなくたって、貴様の力はまだこんなにも強いじゃあないか。
どうして貴様なんだ。貴様以外の誰でもいい、誰が別の人間がその大役を務めることはできないのか。――できないのか。
……できない。できないんだよ。判っている話だった。貴様以外にできない。
暗闇の中で貴様にすがりつく。シートに埋め込む勢いで俺を押さえている貴様は、きっと気づかない。気づかないでよかった。気づいたらきっと駄目になる。
目端に浮かんだ涙は、息苦しさと混同する。貴様にバレていないとよいなと思う。顎を掴んだ手と、頭の後ろにあてがった手は不愉快に熱い。俺の体を押さえこむ膝は、肋骨をぎしぎし軋ませたけれども、その痛みがある間はこうして貴様と触れ合っていても許されるような気がした。
これは罰だ。こいつを死地へ送り込む、確実に人として駄目になるのが判っている場所へ送り込む俺の罪に対する罰だと思った。
俺の手は抗うようでいて、貴様の背中に回されていた。くそ。呻く。無駄に熱い体が腹立たしかった。
ぢゅ、ぢゅと互いに唇を貪る水音が耳管に響く。やめろ。勘弁してくれ。俺がこいつでいっぱいになって、溢れてしまう。
一瞬離れた隙を衝いて俺は喘ぎ、相手の胸板を押した。押した手を取られる。何をするつもりだと見上げたそいつの影が、ゆるゆると取った顔に近づけ、俺の手を噛んだ。
俺には見えない。だが、夜目が利くそいつなら、俺があ、と息を漏らしたのも判るはずだ。
握っていたはずのコーヒーは手になかった。車内に香ばしくて苦い豆のにおいが立ちのぼる。こいつが激突した瞬間に落としたのだ。じっとりと太もものあたりに濡れた感触が広がって、ああ畜生シィトが染みになると俺は唸った。
唸った口を再度塞がれる。そいつの伸びかけた無精髭が、ざらざら痛い。
食いついてやろうとすると離れ、追いかけると押しつけられる。求められて舌を出し、からめて吸いしゃぶる。互いに性急で手前勝手な口づけだった。