「あっエンリコ! ちょうどよかった。いま行くところだったんだよ。」
背後から声をかけられて、俺は振り向いた。ひと区画向こうの通路から、見知ったと言いたくないのに見知ってしまった顔が手を振っている。
アンリ・マックスウェル。情報管理第五課に属する人間だ。
慣れ合いたくもないのに、偶然名前の綴りが一緒だとかで遠慮なく距離を詰められて、それからなし崩し的にずぶずぶの関係になっている。似た名前が連れ立って歩いているだけでも、見る人間によっては噂が立つから辟易するのに、こいつときたら歩く便所の芳香剤だ。ぷんぷんと色気だかフェロモンだかよく判らないが、とにかくある一定のものを惹きつけるものを周囲にだだ漏らして歩いていて、おかげでめちゃくちゃに悪目立ちする。
こいつひとりで歩いている分には、悪目立ちしようと、目つきの怪しい信徒が行列を作って付いて行こうと、俺にはさらさら関係ない話だから別にかまわない。問題は隣を歩かれるということだ。似たような名前で、似たような背丈の、しかも片方は反吐が出そうな甘ったるい空気を辺り一面に垂れ流しているんだぜ?
悪目立ちの二乗で、巻き込まれる俺は大変に迷惑だった。
それから、ついでに言わせてもらえば、こいつに関わると基本ろくなことにならない。理解しているので、俺は極力避けている。
なにしろこいつが今まで俺にしてくださったことと言えば、
「カラスにだけ効く催淫オーデコロンを吹きかけてきた」
とか、
「インド土産のカーマスートラ押し付けてきた」
とか、
「ガラス製のアナルプラグを置いていった」
とか、とか、とにかく貴様はエロに特化した権化かなにかかと喚きたくなるような、実にくだらないものばかりなのだ。
おかげで俺は、催淫効果が切れるまで、外を歩けば頭上に数十羽のカラスが飛び交い、まるで魔女裁判の様相を呈したりとか、柔軟体操と称して八十八手のポォズをいくつか取らされ、筋を違えたとか、きれいな文鎮かカトラリー飾りなんだなと思って執務机に飾っておいたら、道具の意味を理解しているハインケルにそっと耳打ちされ、かかなくてもいいいらん恥をかく破目になったりした。
吊るせるものなら吊るしたい。本気で吊るしたい。
しかし残念ながら、そいつは俺と同じ特務局に属する身で、しかも第五課にかなり精通している奴だったから、吊るせば大問題だ。十三課と全面抗争になる。
それに、マックスウェルの傍にいつも影のように付き従っているもうひとりの男が、非常に厄介だった。そいつはマックスウェルに心酔し、同じくらい五課に食い込んでいる奴で、五課のほとんどはその男とマックスウェルで回しているようなものだったから、下手に手を出して刺激するのは相当面倒くさい。戸籍国籍一切合切書き換えられて、文字通り抹殺される覚悟がないと手出しできない。
そんなわけで、俺はいつか絶対〆ると心に誓いながら、未だにマックスウェルを手にかけることができないでいる。
ちなみに極力避けている、と俺は先述したが、できることなら半永久的に会いたくない。百歩譲って葬儀くらいは出席してやってもいいので、死に顔までは顔を合わせずお互いに別の場所で心安らかに過ごしたい。
俺は、俺とはまるきり別次元に生息している生物にとやかく苦言を述べるほど、心は狭くないつもりだった。人間は煩わしく飛ぶ蠅に腹を立てても、説教しないものだ。兎がところかまわず糞をしようと、親の躾がどうのとは言わないのとは同じことだ。
つまりアンリ・マックスウェルは、文化どころか、文明が違う異星人のようなものだ。
俺は、相容れない部分があるのなら、わざわざ我慢して同じ車に同乗する必要性を感じない。どうにか同調しようとして、消耗することはない。それぞれ別の道を行けばいいと思っている。
だからそいつも、俺の視界に入らない場所、たとえば世界の反対側なんかで、俺に声が聞こえず、名前もちらとも耳に入らず、余分なちょっかいをかけてこないなら、俺はそいつをとやかく言うつもりはない。
ないのに、
「エンリコ、ねぇねぇ、ちょっとさ、ちょっと来て。来て来て来て。」
問題は、そいつがことあるごとに俺にからんでくると言うことだった。
行かない、と俺は撥ねつけた。どうせろくなことじゃあない。課をまたいで本当に必要な用事だったなら、五課の長の名前でこちらに連絡が回っているはずだった。
とりあえずエンリコと呼ぶなと言いたい。大声で言いたい。理由は省くが、俺は名前で呼ばれるのが心の底から大っ嫌いだ。
だのにこいつは、同じつづりで似たような名前だからややこしい、その理由でばっさり切って捨ててしまう。
押しが妙に迫力があり強引なので、いや、と言う前に勝手に事を運ばれていたりする。
「いいからさ、来てよ。いいものあるんだ。君のために用意したんだよ。」
「行かない。」
行かない、の一言一言に力を籠め、区切り区切り言ってやる。こいつが何を言っているのかさっぱり見当はつかないが、絶対にいいものでないことだけは断言できる。もう確実に断言できる。不穏な気配しかない。
君子危うきに近寄らず。昔の人間はいいことを言ったものだと思う。
なのに俺はいつの間にかそいつに腕を取られ、ぐいぐいと五課の資料室の方へ引き連れられてしまうのだ。
だいたい、こいつが細いのが悪い。
俺と同じような身丈のくせに、俺より華奢で、下手に力を込めて振り払えばぼきんといってしまいそうで、乱暴に扱うのが怖い。薄氷のグラスみたいなやつだ。不健康だ不健康だと言われながら、毎年の健康診断で特に悪いところの出ない俺とちがい、薬を常用しているのを知っている。
詳しく聞いたことはないし、今後たずねるつもりもないけれど、循環器のどこかが悪いらしい。それが生来のものなのか、それとも後天的な何かのせいなのか、俺は知らない。ただ、無理をするとすぐにへたって寝込んでいたりすることだけを知っている。こいつに影のように従うアンダーソン、あの男が若干過干渉気味なのも、こいつが目を離すと、どこかで倒れていたりするからなのだと思う。前例が何度もあるらしい。
だったら、体に負担のないところで、真面目に仕事だけして大人しく家に帰れと俺は言いたい。わりと職場に泊まり込む俺が言うのも説得力のない話だと思うけれど、体を大事にしろと言いたい。だのに帰り際どこかの局員をひっかけていたり、飲みに出たり、こうして俺にちょっかいかけに来たりするのだから、始末に負えない。言うと、今日は調子がいいから大丈夫、そんなふうにかわされた。
……その白い顔で大丈夫と貴様は言うのか。
思わず出かけた言葉を、口中で留めて飲みこむ。
結局俺はそいつの手を振り払うことができなかった。
じゃん、見て見て。
しぶしぶ入室した俺に、そんなおどけた口調でもってそいつが取りだしたのは、手のひら大のシートに印字された、暗い色調の金の紋様だった。金というよりは、黄銅色と言ったほうがいいのかもしれない。目の前に翻されて、俺は眉間に皺が寄るのを自覚しながらそれをじっと見つめた。
一見して、かなり細密に書き込まれた模様だなと思う。
俺もそこまでこうした造形に詳しいわけじゃあないが、自分が知ってる範囲の文字で書かれているようには見えなかった。どちらかというとこれは花だとか、花火だとか、雪の結晶のような、なにかの抽象画に思えた。
「……なんだこれは、」
「デカール。つまり転写シートだね。」
「デカールは知っている。俺が言っているのは、何を転写するものなのか、と言うことなんだが、」
「淫紋かな。」
「帰る。」
俺は一も二もなく回れ右して退室しようとした。もうこの先どう楽天的に考えても嫌な予感しかしない。
だというのに、ドアーの前にはアンダーソンの巨躯が通せんぼうの形で控えていて、そいつを力ずくでどかすには、なかなか骨が折れそうだった。そいつも、うちの武装隊長さまと同じに、ぶ厚い体をしていたからだ。
そうして残念ながら、凄んで怯む可愛い相手でもない。舌打ちして睨みつけてやったが、涼しい顔で余計に苛ついた。
「アンダーソン、そこをどけ。」
「待ってよエンリコ。まだ何も言ってない。」
「言わなくていい。聞きたくない。口を開くな。何も聞きたくない。」
「そんなに毛嫌いしなくたっていいじゃない。なにも取って食おうとしてるわけじゃないんだからさ?
……ねえ、でも、君、淫紋なんて語句よく知ってたね。お堅い君のことだから、てっきり、インモン? なんだそれって聞き返されると思ってたんだけどな。」
「――それは、」
言いかけて俺は言い淀んだ。こないだ経験したばかりだ、だとか、口が裂けても言えないと思った。
それは、夢物語というよりは、もうほとんど幻覚みたいなものだったのだと思う。
ローマ市中で俺は夢魔というやつに遭遇した。夢魔、一般的にインキュバスだとか、サキュバスだとか言われている奴らだ。
たまたま出かけた市内の路地裏で、たまたま夢魔と遭遇する、というのも、あとから考えてみれば出来すぎた話だった。こんな陳腐なストオリィ、
雑誌なら打ち切りレヴェルだと思う。人間生きていて偶然だなんてそうそう起こりえない。
だのに俺は、市中でその夢魔と呼ばれるものに遭遇し、いろいろあったのちにそいつに精気を分けてやるという流れになったのだけれど、今更そのあたりは思い出したくない。死ねる気がする。世間体的に、というよりは主に俺の自尊心と羞恥心の意味で。
その中で思ったのは、特務局の仕事柄、常からグールだとかミディアンだとかいう言葉に慣れていて驚きも少なかったので、よかったと言うべきなのかな、ということと、実際に淫紋とやらを体に刻まれ、目にして初めて、ああ、これが淫紋というやつなのか、なるほど話にだけはちらと聞いたことがあるが、想像していたものと実物はちがうな、とか言うことだけだった。
いまでもあれはほんの数時間の夢だと思っている。夢魔が消えたあとの俺の体に、一切の痕跡らしいものは残されていなかったからだ。
髪の毛一筋ほどもなくそいつは消えた。残っていたのは、ホテルの利用料金の記載されたレシート一枚だけだ。
それもすぐに捨てた。
言い淀んだ俺をどう解釈したのか、エンリコもなかなか隅に置けないね、だとか勝手なことをマックスウェルが呟いている。
「なに、興味あった?」
「ない。」
「ふふ、相変わらず即答だねぇ。……うわあ、見て、すべすべ、」
「ちょっ……、おい貴様! 釦を勝手にはずすな!」
すっとそいつが俺の懐にもぐりこんできたかと思うと、いつの間にやら前立てが開かれ、俺の腹のあたりが露出する。神業と言っても大仰でないと思った。
俺が着用しているのは平服(カソック)で、しかも簡易型ではなく普通に釦の多いものを着ていたから、脱ぎ着にも手間取るし、急いでいるときにひとつでも違えてみろ、たいへん面倒くさいことになる。だのに好んで釦の多いものを着ていたのは、どういうわけだか俺はその手間取る時間が嫌いじゃない、という理由だけだった。
身支度の際、ひとつひとつ釦穴に通してゆく手順は、これから仕事に向かうのだという気持ちを奮い起こし、心境を整理整頓していくようなものだ。直前までどれだけぐちゃぐちゃな状態であっても、嵌め終われば、俺は十三課の長としての顔を取り繕うことができた。女装趣味はないので、はっきりそう、とは言い切れないが、聞くところによると、女性の化粧のようなものなのかなと思っている。
要はオンとオフの切り替えだ。
その手間のかかる釦を、いともたやすくこいつは十ほど外し、しかもその下に来ていたシャツの釦まで外して、俺の腹を遠慮なく撫でてやがるのだ。信じられない。いろんな意味で信じられない。手妻でも使ったのか、そうでなければこいつ本当に人間なのだろうか。先ごろの夢魔じゃないが、何かそうした人間とは別の生き物なんじゃあないだろうか。軟体的な……例えば妖怪ぼたんはずし、みたいな。
「ああー……、エンリコのお腹、白くてとってもきれいだねえー……、……ねぇ、ここに何か模様が付いたらもっときれいになると思わない?」
「思わない。放せ、」
俺の腹を撫でているのがこいつ以外の人間だったなら、たとえ女でも俺は遠慮なく突き飛ばしたか振り払ったと思う。一瞬躊躇したのは、こいつの体のことが頭によぎったからだ。衝撃を与えてもいいものなのか?
よくは知らないが、衝撃を与えることで、何か発作的なものがおきるんじゃあないのか?
ためらった一瞬の間がいけなかった。
「見て見て、きれい。」
「おま、」
強く出かねた制止の腕を、するんと猫のように潜り抜け、そいつが得意げに胸を張る。俺は思わずぎょっとなって自身の腹を見下ろした。
つい今しがたそいつが示した印字シートの印字部分、つまり淫紋とかいう二度とお目にかかりたくもない紋様が、シートの上から消え失せていて、
「うん、紫かこの色かで悩んだんだけど、君にはやっぱりこの色が合うね、」
「お前なーー!!」
ひと仕事終えた職人のような満足そうな面を下げたそいつに、とうとう俺は怒鳴りつけた。信じられない。こいつ本当に信じられない。ひとの尊厳を一体何だと思ってやがる、
「あは、君がお前って言うの初めて聞いた。君でもそんな言葉づかいするんだね。」
「するんだね、じゃねぇ! 外せこれ!今すぐ外せ!」
俺は慌てておのれの腹をごしごしと力任せに擦った。手袋をしていたから、素手よりも摩擦がかかり擦り取れる気がしたのに、数度強く擦っても、まるでかすれる気配がない。うわ、と知らず声が漏れる。本当になんだこれ。なんだこれ。
「エンリコ、駄目だよ、赤くなっちゃう。」
「赤くなるとかならんとかそういう問題じゃあないだろ! 貴様いったい何を考えてるんだ! 早くこれ取れ、なんとかしろ!」
落ち着きを装うことをかなぐり捨てて、俺は喚いた。とにかくこれをなんとかしないと、確実にろくでもない未来の予感しかしない。絶対にいやだ。
血相を変えて詰め寄る俺に、マックスウェルが半笑いのまま首をかしげた。
「うーん、それがさ、取れないんだよね?」
「――は?」
「取れないんだ。」
「はあ?!」
こいつ今なんて言いやがった。俺は目を剝いて色気だだ洩れの顔を睨みつける。
その手の趣味のやつらは、このつやつや照りのいい唇にしゃぶりつきたい衝動が沸き起こるらしいが、そんなもの毛ほどもない俺は、脂身でも食ったのか、としか思わない。そうして困惑の表情を優雅に浮かべていらっしゃるが、俺はこいつが意外に中身が下種なことを知っている。
「取れないってどういう、」
「正確には今すぐは取れないんだ。四十八時間は絶対に消えないインクを使用していてね、これ、シールに見えるけど、シールではないんだ。ええと……、転載呪文が掛けられてるって言ったら判る?
時間きっかりになると、印字そのものが消える仕組みなんだね、」
「説明しろとは言ってない!!」
「……ええー、だって、君、これから四十八時間はそれ貼り付けてるわけなんだからさ。あのね、それ、おもちゃとかじゃなくてね、うちの課が、……ほら、うちってさ、情報管理でしょ?
ネタを得るためにさ、いろいろ、相手にゲロ吐かせたりしなきゃいけない時あるでしょ。その度に人員割いて、尋問したり、拷問したりするの、手間じゃない。でもそれ貼っとけばさ、とりあえず効果時間内は、人員割かなくてもいいわけだから、」
「……、」
俺は数拍黙り込む。
つまりこれは、どこかの土産だとか、俺に嫌がらせのためのお遊びの淫紋シールなどではなくて、ヴァチカン法王局情報管理第五課として正式に、秘密裏に、研究開発されたものであると言うことだ。考えただけで余計に頭が痛くなってきた。
こいつの言からすると、五課として、捕虜だの異端者に尋問するだけの強力な何かがこのシールにはあるというわけで、それが薬品なのか儀礼呪文なのか判らないが、それはこの際関係ない気がした。重要なのは、これが規定時間剝がれないことと、
「……発動条件は何だ。」
「ぅん?」
「発動条件を教えろ。五課の名を冠して使用するものなら、いきなり効果が現れたり、無差別に発動したりはしないだろ。行動か、言葉か、何か……、キィになる条件を必ず仕掛けているはずだ。それを教えろ。」
「……君ってさ、」
不意に気だるげで、ちゃらけた顔を引き締めて、マックスウェルがまじまじと俺を見た。あまりに至近距離でじっと見やがるので、俺は思わず顎を引いてなんだ、と応じる。
「何て言うのかな。大局を捉えるっていうの?
普通、いきなり淫紋貼られたらもっと怒髪天衝くっていうかさ。怒り心頭して、しばらく言葉は通じるけど会話できないみたいになるじゃない。」
「……なりたい気持ちでいっぱいだけどな、俺は。」
「うん。……でも、そういう、いっときの感情に任せた行動に走らないで、常に冷静に次点、次々点の対処方法を考えようとするとこ、いいよね。好きだな。尊敬する。」
「……尊敬はしなくていい。貴様にされても嬉しくない。」
「ええぇ、褒めてるのに。」
「褒めんでいいから、今後こういう貴様の思い付きに俺を巻き込むな。」
正直いつでも爆発できたわけで、怒りを抑えてそいつと冷静に会話しようとするのは、俺にとってひどく努力のいる作業だった。だがここでこいつに説教垂れたところでもうどうしようもなくこの淫紋は剝がれないのだと、どこかで納得している自分がいる。
それは、行動のおかしいこいつに慣れたというよりは、日頃からひと癖もふた癖もある十三課の面々がしでかす事態の後始末に追われている自分の立場も、もしかしたらあるのかもしれない。怪我の功名じゃあないが、要は日々の精神鍛錬だ。
「……承知するのは業腹だが、剝がれないのは承知した。いくつか聞かせろ。これの発動条件と、消去方法、それからどうして俺にこれを貼ろうと思ったんだ、」
「え、だって似合うと思ったから。」
きょとんとした顔でそいつは答えた。深意はないようだった。
「それ、まだ完全製品段階じゃなくて、試作品でね。別の子にも試してみたから、今ストックはなくて見せられないんだけど……、君に貼ったのとちがって、他のはもっと……なんていうのかな、幾何学模様っていうか、数字かアルファベット程度の、ものすごく簡素で単純なマークでしかないの。簡単な模様の方が、呪法をかけやすいんだって。……あとほら、薬品の染み込み具合もあるしね?」
儀礼と薬品の複合かよ。最悪だな。
思ったが口には出さずに俺は先を促した。
他のやつらにも試した、だとかいう不穏な台詞も聞こえた気もしたが、聞こえないことにする。いやでも、俺の他にも無理矢理巻き込まれたやつがいるのか。ちょっと同情する。
俺が、現段階で同情できる立場なのかどうかは別として。
「でもさ? 淫紋でしょ? 淫紋って言ったら複雑な紋様って決まってるでしょ?
もっと細かで美術的なのできないのって開発部に注文して、ひとつだけ仕上がってきてさ。……ものすごくきれいだったから、これはこの模様が似合う人間に貼らないと勿体ないな、って使命感が湧いたんだよね。」
勿体ないじゃねぇ。そんなものに使命を感じるな。そんなに勿体ないなら自分に貼れ。
思ったが、やはりその言葉も俺はぐっとこらえて口外しなかった。
「きっと似合うだろうなって思っていたんだけど……、思った以上に君に似合って良かったよ。」
そうして妖艶な笑顔でにっこり、だ。まったく良くない。魅入られるやつは魅入られるのかもしれないが、俺がそのとき思ったのは、ああ、こいつやっぱりどうしようもないな、と言うことだけだった。
人体に使うのだからもちろん臨床試験は必要なのかもしれない。そこは十歩譲る。けれど、そんなものは異端審問のときにでもちょっと貼りつけて様子を見ればいいわけで、わざわざ、局をまたいで無関係の俺に試そう、という発想がもう飛躍すぎてついていけない。
百歩どころか万歩譲って、どうしても、俺にしか頼めないというのなら、せめて直々に話を通すべきだ。いきなり捕まえて事後承諾で貼りつけて、四十八時間取れないだ?
ふざけるな俺はモルモットじゃない。
あらためて切れそうになりながら、で、と俺は先を促す。
「うん?」
「どうして俺に貼ろうと思ったのか、理解できないが理解した。……で、発動条件はなんだ。先ごろこれが貼られてから、十分ほど経過している気がするが、いまのところ俺の体に異常はない。遅効性か?
……ちがうな、貴様ら五課が、不確定なものを尋問に使おうとするはずがない。じゃあ一体、」
「ノルアドレナリンだよ。」
「……は、」
苛々と尋ねる俺に、あっけらかんとそいつは答えた。
「……ノルアドレナリン、」
「そう。教科書に載っているような、難しい化学式だの学名がどうのは、エンリコは知ってると思うから詳しい説明は省くけど、要は、大きな驚きや恐怖、興奮を感じると、通常ホルモンが分泌されるだろ。僕らが開発した淫紋は、その分泌に反応して、ノルアドレナリンを快感に変えるんだ。快感って言うのは、ほんのちょっぴり脳内に奔るから快感というんだよね。長引く快感は苦痛と同義だ。人間性を麻痺させる。血を流したり、電気を流したりして痛めつけるより、よほど早く口を割るんだよね。」
「……、」
だが、と俺はそいつに尋ねる。
「貼られて直後、俺は貴様に怒鳴りつけたと思うんだが。怒鳴ると言うことはつまり興奮だよな?
ホルモン分泌はどうなってるんだ。薬がまだ浸透してなかったのか?」
「だからさ、君、そこがとっても可愛いなあと思うんだけど、エンリコのはポォズなんだよ。形だけ。怒ってるんじゃなくて怒ってみせてるの。つまりさ、君は僕のこと好きだから本当は何されても怒れないってこと。」
「……貴様の頭は、本当にめでたくできてるんだな……、」
なんだか怒るのもばかばかしくなって、俺は本気で痛みはじめたこめかみを揉みほぐしながらそいつに言ってやった。これだけ自分に都合のいい物事の受け取り方をしていれば、生きているだけで楽しいかもしれない。常時脳内麻薬のようなものだ。
「これの剝がれる条件は。四十八時間黙って貼られたまま過ごすしかないのか?」
「んんー、仮に発動してしまって、どうしても、無理矢理治めたいなら、方法はないわけでもないんだけど、」
「……だけど?」
「君にはちょっとハードル高いんじゃあないかなあ。」
「つまり、」
「指でも器具でもいいけど、とにかくアヌスに突っ込んで、前立腺穿って自発的に絶頂くり返したら、まあ、剝がれないでもない、」
「……、……。」
俺は大きく息を吐く。心底最悪な気分になってきた。
「……、まあいい。つまり俺は、四十八時間、大きく動揺したり、興奮したりしなければ、貼られたこれは反応することもなく、ただのシールのまま、平穏無事に過ごせるというわけだな、?」
「うん、まあ、そうだね。」
「好奇心から聞くんだが、もし発動した場合はどうなるんだ。」
「だいじょうぶ、命に別状はないから。メスイキしまくって、失禁するぐらいだよ。」
「……、……、……もういい。」
俺はとうとう聞く気をなくした。失禁。おのれのみじめな姿を想像するだけで首が吊れそうだと思った。
「尿パット、いる?」
「いらん。……アンダーソン、そこを通せ。局室に戻る。」
ここにいっときもいたくなくて、俺はずかずかと戸口の男に近づいた。他人ごとというか、面白がる目つきで見ているその男が非常に腹が立つ。
「ねえ君、それで仕事するの?」
後ろから声がかかった。
「する。平常心を保っていればどうと言うことはないだろ。さいわい報告書チェックに喜怒哀楽は必要ないからな。」
「ふぅん?」
ふうん、の言葉でそいつの目がきらっと光った。見るたび思うが、不思議な色だ。光の当たり具合で色が大幅に変わる。猫のようなやつだと思った。
俺は、はだけられた前立てを正し、釦を留め直しながら入り口へ向かう。先だって番兵のように控え、部屋の一か所の出入り口を塞いでいたアンダーソンが脇にどけ、咥え煙草に火を点けながら俺をちら、と見やった。その口が若干含み笑いしているような気がして、
「……なんだよ?」
「ここの鍵は開けておく。情報だだ洩れの十三課とちがって、この部屋にはカメラやマイクのたぐいは一切ない。俺が調べた。簡易だが、内から鍵もかかる。つまり密室だ。苦しくなったら好きに使うといい。」
「……好きにって、」
「警備のやつらに公開ズリセンサービスする気か?」
「……!……!……ッ!!」
飄々とした顔でこちらを揶揄ってくるものだから、俺は思わずかっとなりかける。だが、頭に血が上りかけた瞬間、ぞく、と快感が走った。些細なものだったけれど、背骨のあたりを羽箒で撫でさすられたような快感だった。
そうだった、今はまずい。思い直して何とか堪え、俺はその男をいないものとし、二度と来るものか、その部屋を後にした。絶対にあとで殴る。二発は殴る。殴ることが仮にできなくても、相応の報復をしてやる。覚えておけ。
「エンリコー、性欲持て余したら、アッパルタメントにおいで。濃厚な三Pしようね ♥」
「……悪魔め……、」
背後から追い被ってマックスウェルの声がする。くすくすと笑い声がした。しくじり、進退窮まった俺が、 奴らのアッパルタメントへ行くものと思って笑ってやがる。絶対に行くものか。
そいつの語尾に、ハートマークがはっきりと見えた気がした。