走っている。
  身体が軽い。
  先程まで感じていた、疼痛がまるで嘘のように掻き消えて、今は羽根のような軽さだ。
  振り向けば、転々と血滴が垂れているのが見えたとしても、
  その紅い色さえも、既に薄まって、体内から出尽くしかけているのだと伝えていても、
  背後から、威嚇の声を張り上げて、白衣の男が追ってくるのに気付いていたとしても、
  ヒューの速度は緩まない。
  走るうちに、無機質な回廊の床面に、ぼうと白い灯りが点っていることに気付いた。己の進む方向を照らしてくれているように思えて、
 「ゴスペルとか……言ったか」
  一人語散る。
 「お前、手伝って……くれるのか?」
 「……何をしているゴスペルッ!」
  同じく床の白灯に気付いて、レンブラントが突き刺すような声を上げる。
 「お前まで……お前までわたくしに刃向かう気かアアアアァァァァァアッッ」
  ――博士。
  壁面のあちこちから。
  通路のあちこちから。
  どこまでも愁いを帯びた、優しい声が洩れ出る。
  彼は、中央塔に緊縛された管理者だ。
  塔内部が喋っている。
  ――もう。いいのでは――ないですか。
 「何を……何を言う!」
  ――私たちはどこかで道を――誤ってしまったのだと思います。
  ――たぶん、最初のほうで。
 「ゴス……ペル……ッ」
  ――1000年。決して短くは無い時間を、私は貴方と共にしてきた。もう十分――生きたでしょう。
  不意に重なった靴音が消えて、背後の気配のスピードが緩んだのをヒューは知る。けれど、
  ヒューの速度は緩まない。
  駆けながら胸元の内ポケットを探った。
  冷たい金属の感触が、右手に触れて、
 「おい。ネクラ男」
  内蔵されたマイクに囁くように、
  叱咤するように、
 「てめぇ、いつだか俺のこと吹き飛ばしてぇだとかなんとか、物騒なことホザいてたな」
  取り出したのは細い首輪。
  メタル・タイにも似た、デス・ティニーと名高い、請負仕事で見慣れた物騒な、
  職業紹介所が独自で開発したという、仕事引受人の運命を左右する、
  遠隔型爆弾。
  私が君を壊したくて仕様が無いのを忘れるんじゃないよ。
  そう囁いた、あの日の無機質な男の目。
 「喜べ。てめぇの望みを、叶えさせてやるよ」
  床の白い道標が唐突に、ふっと視界から揺らめき消えて。
  顔を上げると、中心部だった。
  中央に、P-C-Cの全頭脳。張り付けられた管理者を支える、幾億万の管がある。
 「こーんなモンがあるから。誰かが苦しんだり悲しんだりするんだろうが」
 「貴様……やめろ……やめろォオオッッ!!」
  必死の形相で、今しも追いつこうとする白衣の影がある。
 「こーんなモンがあるから。誰かがとてつもねぇスゲぇコト、しでかせるとカン違いするんだろうが」
  ――為しなさい。
  視線をやると上空の青褪めたピエタが、白濁した瞳で確かにヒューを見返した。
  頷く。
 「こんなモンが無くたって……人間は自力で、なんとかするさ」
 「やめろォォオオオオオ――ッッ!!!!」
  男が。飛び掛る。


  絶叫を、出し尽くした後の感覚を、カークは一生忘れられそうも無いと思う。
  腹の底から空気を出し尽くして、身体の中が空っぽになって。
  目を開いているのに、何も見えない。
  耳を塞いでいるわけでもないのに、何も聞こえない。
  打撲だらけの身体が痛いはずなのに、何も感じない。
  ただただ、無味乾燥なカサついた己の心の塊だけが残っていて、
 「莫迦!」
  ぱん、と小気味良い音と共に、頬に僅かな痺れを感じて、カークは放心状態から、のろのろと舞い戻る。
 「マ、ル、ゥ」
 「何をうすらボンヤリとしてんのよッ?マスタの言葉を忘れたの?」
 噛み付きそうな顔で、必死に己を保っているのだろう。潤んだ瞳を乱暴に拭って、マルゥが声を励まして続ける。
 「あのね、言わせてもらいますけどね、アタシ、マスタを引き攣らせるゴハンしか作れないんだからね!アタシじゃあ無理なのよ。アンタが作らないと」
 「私が――つく、る――?」
 「当たり前でしょッ?アンタどっか頭打って、記憶喪失でもなったんじゃないの?聞こえたでしょう?”メシ作って待ってろ”って。マスタそう言ったじゃないの。アンタさぁ、アンタD-LLでしょう?管理者の目的で造られた賢い賢いD-LLでしょう?マスタの口にした言葉を実現させるのがD-LLの役目ってモンでしょう?」
 「マ、スター――」
 「アンタの主人は。アンタの主人は、後にも先にもたった一人でしょう?」
 「――ああ――!」
  虚脱感に顔を覆いながら、それでもカークは立ち上がる。
  意地だった。
  目の前の少女が、気丈にまだ彼女自身を保っているというのに、自分が真っ先に己を失ってどうするというのだ。
  その、立ち上がった弾みか突然、ずんと鈍い地響きがして、

  あっ。

  危うい安定を保っていた上天井が、雪崩のような轟音と共に、カークとマルゥの間に土石流のように降り注いだ。
 「――マルゥ……マルゥ!」
  巨大な鉄壁に妨げられて、つい瞬き一つ前までは目の前にいた少女の姿が見えない。
 「――マルゥ!」
 「……”マルゥ!”じゃーないわよ!」
  不意に無事に元気な声が響いて、ほっとカークが安堵する暇も無く、
 「早く行きなさいよ!」
  怒りに縁取られた彼女の声が聞こえてくる。
 「ココはどうやらムリみたいだし、アタシは別の道から行くから!アンタが一番スットロイんだから、さっさと精一杯、走りなさいよ!」
  張り上げた声がくぐもって響く。
 「しかし、」
 「しかしもカカシもあるかぁ!さっさと行く!でもってゴハン作っておとなしく待ってる!ブン殴られたくないんだったら早く行きなさい!」
  行きなさい。
  弾かれたように踵を返して、カークは一人、中央塔から逃れるために走り出す。
  もうあまり、考えたくない。
  部屋に戻って。二人の好きなものを作ろう。
  それだけを思う。
  そうだ。いっぱい、いっぱい、作ろう。
  三人で食べきれないほど、たくさん作ろう。
  テーブルに乗り切らないほど、たくさん。
  そうして言われよう。
  ”またこんなに作って”。
  ぼやけてくる視界を拭いながら、カークは走った。


 「……さて」
  ぱちんと頬を両手で叩き、一つ気合を入れると、マルゥはカークとは反対の方向――中央管理塔の中心部へ足を向ける。
  言うまでもなく、ヒューを助けるつもりだ。
  あの怪我では、到底自力で脱出できない。
  医療の知識が無くとも、それくらいマルゥにだって判る。
  ……助けなきゃ。
  頭を占めていたのは、それだけだ。
  ……マスタが歩けないんだったら、アタシが助けなきゃ。
  それは、義務だとか責任感だとか、そんな陳腐な気持ちではなくて、
  純粋な、
  ……なんだろうな。……使命感?
  彼女自身にもよく判らない。
  中央塔が身悶えるように、震動を繰り返す。
  瓦礫が山と降ってくる。
  顔をしかめながら、マルゥは中心部に向かった。


 「やめろォォオオオオオ――ッッ!!!!」
  男が。飛び掛る。
 「おぃ。ネクラ。……やれ」
  半径100メートルをゆうに吹き飛ばす、遠隔小型爆弾。
  軋んだ忍び笑いが、手にしたそれから聞こえたような気がして、

  刹那。真っ白な閃光が中心広間の全てを覆った。

  チューブが。配線が。ディスプレイが。
  一瞬で蒸発する。
  男の絶叫が、響き渡る。
  誰のものだか既に判別が付かない。
  ――愛おしいと、思いました。
  誰かが耳元で囁いた。
  ――貴方一人では逝かせはしない。私も共に――逝きますから。
  ――だって、一人はさびしいでしょう?
  ――博士。
  声を最後に、ヒューの意識は弾けて消えた。


  ずぅうん。
  地を這う低音の地響きが、まず初めに聞こえ、
  次いで、劈く硬音の爆裂音が、殷々と空を揺るがす。
  喪失感に目の前が真っ暗になりながら、中央管理塔から脱出を果たし、それでも尚、全力で駆けていたカークは、振り向いた。
  見たくは無かった。
  目を閉じて歯を食いしばり、耳を塞いで何もかもから閉鎖されたかった。
  なのに、身体が振り向いた。
  見開かれたガラス玉に映るのは、
  弾けてゆく、消えてゆく、霞んでゆく、
  中央管理塔。
  P-C-Cのど真ん中に建てられた、不恰好な鉄の大樹。
  木っ端微塵に空中分解し、鉄の霧となって大気中に上昇する。
  カークの。
  彼の全てが、消し飛んだ瞬間だった。
  身体の震えは止まっている。
  涙は乾いて、もう流れない。
  両手に掬い上げた砂が、その隙間から零れてゆくように、
  消えゆく鉄の樹を、カークはいつまでも見つめ続けたのだった。


  ……そうです。それは、恋でした。
  何気ない一言で傷付き、そうです、それは恋でした。
  困ったように笑う穏やかな笑顔の向こう側で、本当はあなたが傷付いていたのだと思います。

  本当はあなたが傷付いていたのだと思います。


  きんと耳障りな音を立てて、弦の最後の余韻が宙に溶けた。
  ひなびた場末の酒場である。
  既に夜更け。
  店が一番盛況な時間でもあった。
 「それで……どう、なった、んだ?」
  酒に焼けた赤ら顔の男が、ごくと唾を飲み込んで、身を乗り出して尋ねる。
 「まさか、十年前のデッケェ鉄の樹の大爆発……、アレがその、コンピューター管理か何かの事故ではなくて」
 「作り話か?本当なのか?」
 「その……、人間はその時まで管理されていた、とでも……言う、のか?」
  耳を傾けていた数人の客が、いちどきに尋ねても、俯きがちの歌歌いは、微かに笑って答えない。
  ただ、愛おしげに、使い込んだ馬頭琴の背を、撫ぜるのみだ。
 「おい、教えろよ。どうなんだ」
 「――さあ」
  涼やかに通る声が、そっと囁くように解かれて、
 「――私は町から町へ、歌をつづり流れる歌歌い。一夜限りの夢を弾いて、うつつの昼明かりを忘れてもらう――歌歌い。今の語りが嘘か真か、お聞きいただいた皆様のご判断――次第」
  歌歌いの言葉と共に、慣れ聞き飽いた酒場の喧騒が舞い戻り、
 「なんでぇ。作り話か。ダマされたわ」
 「巧いもんだ。流石だ」
  酔客たちは好き勝手に納得し、にやにやと笑い、聞き終えたのをついでに数人、腰を上げて今夜のねぐらへ帰る素振り。
 「面白かった。また頼むぜ」
 「そろそろ帰らねぇと、母ちゃんにドヤされちまわぁ」
 「明日も……いるか?明日は何か景気の良いのが、いいな」
  口々に千鳥足。
  通りすがりに客の誰かが、はずんでくれようと、追加の銅貨数枚を、歌歌いに向かって放った。
  ゆっくりと腰を折り、見送る歌歌いの視線は、けれど虚ろに床に注がれたまま。馬頭琴を爪弾いていた先程までとはうって変わって、なりを潜めて僅か数秒後には、そうしてもう誰も目をやらない。
  一夜限りの夢だったのだ。
  今はそう思っている。
  馬頭琴を撫ぜる手を止められず、歌歌いは一人さびしく微笑んだ。

  あの日。
  歌歌いの全てが、塵となって消え、
  最初に、泣いた。
  涙が涸れ尽くすほど。
  喉が張り裂けんほど。
  泣いて、喚いて、消え失せてしまいそうなほど、哭いた。
  次に、怒った。
  上手くいかない、この世の全てのものに対して怒った。
  我が身を呪い、運命を呪い、過去と未来をも呪った。
  怨霊というなら、それは怨霊だったと思う。
  町から町へ流れる度に、一つずつ絶望が増し、
  そうして最後に、諦めた。
  どう足掻いても無駄なのだ。
  理解し、受け入れるしか道は無いのだ。
  無感になることだ。
  感情に左右されるな。過去に蓋をせよ。
  そうして他人事として見るより、自身の保ちようがなかった。
  夢だったと。
  夢にしてしまえと。
  放り投げられた銅貨がころころと床を転がり、一人の客の足に当たる。
  流れる動作で硬貨を取り上げ、手のひらへ乗せて差し出すそれへ、

 「……ああ。――どうも、ありがとうござ――」

  細い腕を伸ばした歌歌いの動作が、瞬時に凍る。
  ま、さか。
  動かすことが出来たのは、視線だけだ。
  おどおどと、怖いものを確かめるように、歌歌いの目が客の腕を辿る。
  手のひら。手首。肘。二の腕。
  辿ってゆくうちに全身が小刻みに震え始め、情けないことに視界までぼやけてくるのが判った。
  夢を見ているのだと、歌歌いは思った。
  覚めないで。
  夢だとしたら、どうか覚めないでほしい。
  差し出した手のひらの、温かさに触れたいから。
  ああ。
  堪らなくなって、泣き笑いの顔を上げる。
  歌歌いは手のひらの持ち主の顔を、とうとう仰いだ。
 「……おーい」
  呆れた声が男から洩れる。
  どこまでも真っ直ぐな、鳶色の視線を向けて、
  「お前。まあぁた泣いてんのか」
  そう言って男が笑った。  
 「……壊れてんのよ。きっと」
  ひょこと男の背から顔を覗かせて、少女が彼を見下ろす。
  へなちょこ君だもんねぇ。
 「――どう――して――」
  どうして。
  どうして。
  目の前が歪んで、男の顔が良く見えない。
  言いたい言葉はたくさんあるのに、
  もし会えたら、まず文句を言ってやろうと思った言葉が、両の指で数え切れないほどあるはずなのに、
  喉がつかえて何も思いつかない。
 「……どうしたも、こうしたも。俺にもよく判んねぇワケよ。どうーも、お前の先生とやらが庇ってくれたみたいなんだが。崩れまくった鉄塔のど真ん中に、気付いたらマルゥと二人で立ってた。腹のキズも、なんもかんもキレイに消えて……な」
  ――行きなさい。
  ――生きなさい。
  あの人ならきっと最期にそう言っただろう。
 「すぐにマンションに向かったんだが、ビビったぜ。部屋、ブッ飛んで跡形もねぇのな。つーかP-C-Cの形態がいきなり変わって……何がなんだか。外郭都市が残されてたからいいようなものの、中央部分が一挙になーんもナシってなぁ……、ありゃ、予想外だったな」
  言い訳のように一人呟いて、それから未だ泣きじゃくる歌歌い――カークに目をやって、ヒューはまた笑う。
  照れたように。
  誤魔化すように。
 「まぁ、その……なんだ。ずいぶん待たせちまったな」
  なかなか見つけてやれなくて、ごめんな。
  いつにない生真面目な声に、けれど何一つ気の利いた答えを、カークは返すことが出来なかった。
  まるで子供のように両手で涙を拭って拭って、それでも溢れてくるそれが、邪魔で厭わしかった。
  泣きやまないカークを、困った笑顔で眺めていたヒューは、ふと思いついたように銅貨をポケットに突っ込むと、
 「……おいで」
  改めて、手のひらを差し出した。
 「俺が拾ってやろう」
  温かな手のひら。
  目にした瞬間、彼は迷わず手を重ねていた。
  弾みだ。
  ぐいと引かれる。
  ああ。
  既視感に目眩を覚えながら、カークは立ち上がっていた。
  満足そうな顔で、マルゥが彼を見ている。

  馬頭琴が、立ち上がった拍子に乾いた音を立てて転がった。


  そうです。それは、恋でした。
  何気ない一言で傷付き、そうです、それは恋でした。
  困ったように笑う穏やかな笑顔の向こう側で、本当はあなたが傷付いていたのだと思います。


人間と機械にモドル



最終更新:2011年07月28日 08:21