<<月へと還る獣>>
爛漫
(獰猛だ)
と。
春が巡るたびに思うのである。
キルシュだ。
同じ意見を持つものと、出会ったことが無い。
いるはずがない。
キルシュの統治するトルエ公国は、大陸の北方に位置していた。
貧しい国だ。
一年の半分以上を氷に閉ざされるこの国が、一番に待ち望むものは、雪解けの音であり、芽吹く新芽の目にまぶしい緑だ。
このときばかりは喜びに満ち溢れる。
道を行き交う者まで、どこかうきうきと小奇麗な衣装を身にまとう。
嬉しいのだ。
待ちに待った、やわらかな春の陽光を一身に浴びて嬉しいのだ。
そんな中で一人、キルシュだけが、浮かない顔をしている。
否。
浮かない顔をしていては周りに悪いと、取り繕った笑顔を浮かべている。
薫風に頬をなぶらせ、うっとりと目を閉じてやったりする。
だが、心の中では首を傾げずにはいられない。
不思議なのである。
「やわらかに美しい」と、
「あたたかで癒される」と、
誰もが口にする。
もしかすると、誰もではないのかもしれない。
だが、キルシュの周りに座すものは、口々にそう言って微笑んでいる。
(だまされているのかもしれない)
本当は、誰もが訪れた春の獰猛さを判っていて、
判った上でひた隠しに隠しているのではないか?
笑顔の向こうの表情を、伺わずには居られない心境に陥るのである。
ひねくれている。
(何がやわらかで、どこがあたたかなのか)
不思議なのである。
見えないと言うわけではない。
感じ取れないわけではない。
ただただ、不思議なのである。
待ちわびた春を迎え、伸びる薄萌黄色の若葉は判る。
時を逃すなとばかりに、いっせいに咲き開く百花繚乱も判る。
判る。
判るが、ただ、それだけなのである。
今まさに、花満開の枝々が入り乱れている光景を眺めると、背筋へ薄ら寒いものを感じる。
眺めるたび、毎度律儀に。
枝と、花と。
(獰猛だ)
そう思えて仕方が無いのである。
咲き誇るそこに、余地の存在を介さないからかもしれない。
仕方が無いので、最近は自分をそう分析している。
春の、それも花真っ盛りなこの時期が一番尻据わりが悪い。
嫌いなのではない。
苦手なのである。
公務に疲れて、息抜きに散策する時の、どこからともなく漂う花の香りも、
それを摘んで机の上に飾っておくのも、好きである。
好きだ。だが、優しいとは決して思わない。
だから、「苦手」だ。
「そう思わぬか」
であったから、
ある日、疑問が高じて口に出ていた。
一日の公務が全て終わった、自室である。
開け放した窓からは夜気が少しずつ忍び込んで来ていた。
傍らに控えているのは、いつもの見慣れたなりの男だ。
エンと言う。
このトルエを統べるキルシュの右腕として、参謀として、彼女から付かず離れずの位置を保っている。
訳あって、盲目。
キルシュの言葉を、不思議そうに聞いていた。
首をかしげている。
「獰猛――にございますか」
「獰猛である」
応えた男の声は落ち着いた声音だ。
時に、小憎らしいほど落ち着いている。
つねってやろうかと、キルシュが真剣に考えたことも、一度や二度ではない。
冷徹と言うよりも、不器用。
感情を表現するのがひどく下手なキルシュより、さらに数段下手だ。
「無骨もの」
そう名づけておきたい気もする。
盲いだ瞳は、光を失って尚、彼女の行く末を真っ直ぐに見つめていた。
「春過ぎて芽吹く。短い夏に、必死になって養分を貯める。だが、すぐに秋が来て葉は落ちる。……長い冬には、守る枝葉も無いあられもない姿になって、じっと春を待ちわびるしかない。今かと待ちわび、待ちかね、やがて来る春には真っ先に花を咲かせて、種子を成そうとする。ひどく……ひどく必死である。見ていてどこか、胸の痛む作業だ」
「……」
「春一番の盛りのそれには、養分を成せる『葉』の器官がまだ無い。一年も前の夏に貯め、守り通した養分を全て使い尽くして、花を咲かせる姿を……わたしは怖いと思うのだ」
「……」
「判らぬか」
生死を共にした相手でも伝わることは少ない。
すぐに同意されないことに、内心がっかりとしながらキルシュは諦めて笑った。
「わたしが奇特なだけか」
そんな彼女の考えを、見通していたのだろう。
男は少し困ったように笑って、
「私に、獰猛と言う言葉は判りかねます。――が、」
「……が?」
「私なりに、公女のお気持ちは、判るような気はいたします」
そう言った。
「判るか」
弾かれたように顔を上げた彼女に薄く微笑んで、
「――昔、陛下がひどくせがまれまして、夜半に部屋を抜け出し、春を愛でに出かけたことがございました――」
男は言った。
「――まだ――こなた様が四つ、五つの頃の話でございます。当時の屋敷の近くには、川を挟んで両側に堤がございました。堤には等間隔に、白い花の咲く細樹が植えられてございました――」
「……」
キルシュは目を閉じ、男の声に耳を傾ける。
記憶は朧だ。
定かでないそれをかき集めて、男の情景を思い描こうとした。
「――植えた場所が悪いのか、元々そういう樹種なのか――数年眺めておりましたが、一向に幹は太くなりませなんだ。ただ細く高く、強風が吹いてまいります季節には、折れてしまうのではないかというほどに伏し、しなるのでございます――」
「……」
「――それ以上大きくならないところを見ると、あるいは、年を経た樹であったのかもしれません――いずれにせよ、植物に疎い私には、識らぬことでございました。ただ――知っていたのは、毎年その樹が、大輪の白い花を咲かせるということだけにございます。――こなた様と堤に至ったその夜も、川を挟んで両側は月明かりに照らされ、真っ白にけぶった回廊が、ずっと――視界の利く更に遠くまで続いているのでございます。それは、夢のような景色にございました――」
「……」
「――あまりの美しさに、連れてまいった私の方が、惹かれるように回廊へ足を踏み入れましてございます。踏み入れまするといっそうに、香りがうっそうと漂い、その辺りだけ空気が密になっているのでございました――果敢ないほどに白い回廊へ、花と枝の切れ目より月の光が零れ落ちて、それが砂上に、えも言われぬ陰影を投げかけるのでございました。私はふらふらと回廊を進んだのでございます――」
まるでその仄かな香りがよみがえったかのように、男は深く息を吸い込んだ。
見えない瞳の裏に、確かにその時の景色が映っているのだろう。
人は、目の前に広がる風景ではなく、描かれたそれぞれの脳内の景色の中で、生きているのだと言う。
不意に不安になってキルシュは、目を開く。
彼女の脳裏の情景は、瞬間、霧消した。
(ああ)
寒気の這い上がってきた二の腕を、知らずキルシュは擦っていた。
(また――だ)
「――進みまするほどに――なおも空気は密に、重たいと感じるほど密に、身体にまとわりついて離れませぬ。そうしてその回廊が、進んでも進んでも先が見えないのでございます。他の季節に訪れますると、そこまで長い堤ではございませんものを、確かにその時は、永遠に続いてゆく気がいたしましてございます――」
うっとりと、何かに取り付かれたように言い募る男の言葉を聞くうち、
(駄目だ)
急き立てるような焦燥感に駆られて、無意識に彼女は、男の腕を掴んでいた。
「――陛下、」
「許可せぬ」
思いもかけぬ強い力に驚いたのだろう、見下ろした男へ、キルシュは怒ったように言った。
「こなただけが、その回廊だかなんだかを抜けてゆくことを、わたしは許可せぬ」
わたしを差し置いて。
「陛下」
強張る彼女に気付いたのだろう、驚いた様子の男は、急にやわらかに微笑むと、
「あの時も仰いましたな」
言った。
「あの時、とは」
「その、春の宵にござります」
「……」
微笑んだ男に、彼女は首を捻って応えた。
覚えていない。
「『ゆくな』と。そう仰いました」
「ゆくな、と……」
「はい。気がつきますと、回廊を進んでいるのは私一人。驚いて振り返りますと、陛下は入り口に立ち尽くしたまま、一歩も歩んではおりませなんだ」
「……」
「怒っているような、悲しんでいるような顔をされて。――この、」
そうして男はそっとキルシュの手を取り、押し頂くようにした。
「今よりずっと小さな拳を握りしめて。頬を真っ赤にして」
――ゆくな。
「ゆくな、と」
「はい」
挟んだ男の手のひらのぬくもりを感じて、ようやく彼女は、ほっと肩の力を抜いた。
同時に、なにか八つ当たりしたいような、衝動にも駆られる。
何か上手く言いこめてやりたくてキルシュは言葉を捜し、
「覚えておらぬ」
結局、そんなありきたりな言葉で締めくくり、ふてくされたように顔を背けた。
男はそれ以上答えず、静かに立っている。
もう一瞬だけ、キルシュは男の感じた情景を思い描こうとして、小さく身震いした。
(目の前に見えるものしか、信じぬ)
信じたくない、の間違いだったかもしれない。
身震いついでに、なかったことにした。
いずれにせよ、男がまだ目の利いた、遠い昔のことだ。
ゆえに、キルシュは春が苦手だ。
言うと、周りは怪訝な顔をしたと言う。
「こんなに綺麗なのに、どうして」
何度も尋ねられたが、公女は語を曖昧にして話を逸らしたようである。
そうして何より、冬を好んだ。
「隠すものが何もかもなくなって、せいせいする」
晩年には、そう漏らしていたようである。
統治者であろうとし、透徹を貫きたがった、らしいと言えば、彼女らしい言葉であったのだろう。
春を嫌った、と言う公式記録は一切無い。
最終更新:2011年07月21日 21:09