*
「ふーむ」
相変わらず、夜目の利くシラスが先、おっかなびっくりランプを掲げたボクが後――と言うスタイルで、地下空洞のさらに先へとボクらは進んだ。
時々、ランプの光が届くよりも遠くの方で、ぱん、と何かがはじけ砕ける音がするのは、きっとあちこちにゆらゆらと立っている不死者――骸骨――をシラスが魔法で吹き飛ばしているせい。
「モテモテだぜキミ」
何度目かの破砕音の後、シラスが溜息と一緒にそう呟く。
「古墳中からどんどん寄ってきやがる」
「……つかぬ事を窺うけど、『何』にモテモテだって?」
「肉の削げ落ちたスリムな老若男女な皆様に、だ」
「ううう。嬉しくない……」
シラス曰く。
魔物には感じられるその「生気」ってのが、ボクの場合相当強い……と言うか、魔物好みのパターンであるらしく、それで必要数以上に彼らが寄って来るんだとかこないんだとか。
そうなんだ。
前に、上司のネイサム司教と二人で、廃村の墓地の調査に出向いたときも、埋葬されてた皆様方の熱い視線を一身に浴びたのはボクだけ、だった。
当然ボクは逃げ惑い、
そんなボクを尻目に、
こっちに向かってこないから楽でいい、しばらく生きデコイで走り回っていろ。
そんな呑気な、と言うか……薄情なお達しを上司は告げて、おかげで延々二時間、鬼ごっこする破目になったこともある。
追いつかれたら死ぬぞ、とも。
じゃあのんびりと、ひとつひとつの墓石調査なんかしてないで助けろよ、と言いたくなるんだけど、そんなもん、ウチの上司に何言ったって馬の耳に念仏だ。
念仏どころか、音声としても捉えてくれてないんだろうなぁとたまに思うことがある。
あの時は最後あたり、あわやと言うところまで追いつかれかけて、本当に怖かった。
「どうして寄ってくるんだろう」
「そりゃ生き返りたいからだろ」
ボクの疑問に、事も無げにシラスが答える。
「生き返りたい……?」
「死んだ体は、冷えてて寒いのさ。生きてる人間は、とりわけキミは、あったかい生気を放ってる。芯まで冷えるほど寒かったら、風呂に入りたくなるだろ?暖炉の前に走りたくなるだろ?それと同じ原理さ」
「じゃ……じゃあさ。じゃあさ、ボクの生気を分けてあっためてあげたら、満足して昇天してくれたりするのかな」
「満足して昇天するかも知れねぇが、生気を据われ尽くしておそらくキミも昇天するぜ」
「うう。やっぱダメだ」
平和的解決はムリだったらしい。
ところで。
このシュトランゼ古墳。
最初に降り立った地下一階部分より下は、元々、自然にあった洞穴を斎場に使用しようと思いついたものらしく、ところどころ通路の壁や天井を、漆喰や白レンガで補強してある他は、土床土壁になっている。
何て説明したらいいかな、時々ぽっかりと丸い空間と、後は細い通路で構成されていて、言ってみれば、なんだか土アリの巣を巨大化したようなカンジだ。
そう言うとシラスは意外に真顔で頷いた。
「多分、そうだろうな」
「多分……って。なにが多分?」
「元は何かの巣だったんだろう」
「こんなに大きな?」
「――いるんだぜ。たくさん」
たくさん、のところに力をこめてニイイとシラスは笑ってみせる。
基本的に意地悪なのだ。
*
地下に潜ること三時間。
地下三階辺りにたどり着いたボクらは、けれどそこではた、と足の進みを止めた。
と言うか、止めようにも何も、
「……突き当り……?」
あちらこちらにランプを差し向けて、最奥の広間の様子を窺う。
何か気になるものを見つけたのか、シラスはふい、とボクから離れて右奥の方へと進んでいってしまった。
ホネの姿も見当たらないし、安心して離れたんだろうと思う。
広間と言っても、そうだな、教会の聖堂ぐらいの大きさの、がらーんとした空間に、真ん中につくねんと、何かの石碑が立っている。
ひとつだけ。
他には何もない。
「コレが……シュトランゼ姫の石碑なのかな」
言いながらボクは近づいた。
これだけ下層にあって、
しかも何百年、ヘタすると千年単位で昔に建てられたはずの石碑なのに、
妙に白くてのっぺりときれいだった。
それともこれだけ、光も水もない空間になると、逆に侵食するものがなくて意外と長持ちするモンなんだろうか。
石碑の周り、半径一尋ほど同じように白い玉砂利が綺麗に敷き詰められている。
玉砂利なだけに、踏むとジャリジャリと足元から音が聞こえ、
「――え?」
ふッ、と。
不意に踏み出した足元の砂利が頼りなくて、ボクは声をあげ――、
胃が浮き上がる感覚と共に、空中に投げ出された
落、ち――――る。
「レイディッ」
シラスの声が頭上から聞こえて、それが耳に入ったか入らなかったか、それくらいの微妙なタイムロスと共にボクはしこたま、さっき打った尻を再度、床に打ち付けることになった。
「~~ッ!~~ッ!――~~ッッ!!」
コケて打つのは痛い。
落ちて打つのはもっと痛い。
それが、既にアザ確定の場所なんだったら、なおさら。
襲い掛かる痛みに、ボクは無音の悲鳴を上げて悶絶した。
目尻に涙が滲み出る。
こりゃ、通り一週間は椅子に座れないな……きっと。
「レイディッ」
頭上からシラスの声が聞こえ、数度呼びかけられてボクはようやく顔を上げた。
「レイディッ」
「……はい。落ちました」
我ながらなんて間の抜けた返事だろうなと思ったけど、他に何と答えたものか思いつかなかったので、ボクはそう言った。
ボクが返事をして、シラスはようやく安心したらしい。
「平気か?痛いところないか?」
一呼吸後に掛けられた声は、いつもの落ち着いたものに戻っている。
「……尻。またお尻打っただけ。ごめ、大丈夫だよ」
言いながらボクは、膝を付いたまま辺りを手探る。
確か握ってたと思うんだけど、落ちた衝撃で転がったものか、ランプが見当たらない。灯りが無いので、例えばボク自身の手のひらを顔の前に持ってきたところで、ほんとーうにまっったく何も見えない。
鼻をつままれても判らない闇、てヤツだ。
「何か見えるか?」
「見えない。ランプどっか行っちゃった」
上からのシラスの声は奇妙にくぐもっており。そうだよね、どうも普通の落とし穴ってワケでもなかったしな。魔法で空間が歪んでるのか、それとも本当に何尋か上にいるのか、目の利かない今は何も判らない。
ごそごそと音がして、
「レイディ。コレ、届くか」
言われてボクは立ち上がり、両手を頭上辺りに何度も振りかぶる。
「何にも見えない」
「鬼火も届かない……か。参ったな。ちょっと待ってろ。じっとしてろよ」
「うん」
言われてボクは、それでなくてもヘタに歩き回ったら足でも挫きそうだし、そもそも上の階にいらしたあのスリムで生きていらっしゃらない方々が、ここにもいないとの保障はないワケで、それが有効かどうかは別としてなるべく息を潜めてじっと立ち尽くした。
上の階よりもここはさらに涼しい。
涼しいというか、寒いくらいだ。
両腕を抱え込んで、見上げたまま黙っていると、耳の奥で、自分の脈の音が意外と大きく聞こえる。
どくん、どくんと。
密やかに息を吸って……吐いて。
その内、耳の奥の自分の脈の音に、微かにチャカチャカと、軽快な音が混じりこんだ。
金属が触れ合う……いや違うな、もっと軽い。そう、まるで夜中の路地裏を、犬がウロついているような、爪と床との擦れ合うような、そんな音だ。
最初は微かに、遠くでウロウロと。
やがて、何か獲物を見つけたように、真っ直ぐ確信を持ってその音は段々大きくなる。
チャッカ。
チャッカ。
チャッカ。
四本足の生き物が、歩いて……今や走っている音だ。
アレは、ボクの音じゃない。
「……シラス」
叫びだしたいほど不安が一気に募ってくるのに、それでもボクはなんとなく、大声を出しちゃいけない気がして、そっと低く抑えた声で頭上へ呼びかけた。
「シラス」
「ぅん?別にどこにも行っちゃあねぇよ。も少し待ってろ」
「でも、シラス」
「ちょっと待ってろって。石碑に何か書いてあるんだが、文字が掠れてて読めやしねぇ。……これァ古代精霊文字よか古い文字だな……」
「でも、シラス」
「なんだ。心細いのは判るが、もうちょっとだけ待ってろって」
「何か、来る」
「――え?」
最後は、もう囁き声というより細い悲鳴だった。
言った瞬間、来ると思った方向と真逆の方向から、どん、と体に大きなものがぶつかって、ボクは衝撃を食らったまま、跳ね飛ばされて転がる。
跳ね起きた。
「レイディッ?」
シラスの声に返事する間もなく、起きたところを、さらにもう一撃。
はっと身構えたときには既に遅くて、真正面から見事にひっくり返され、固い土床に後頭部を打ち付け、一瞬気が遠くなる。
頭を打ち振って起き上がろうとしたボクの体の上へ、ごわごわとした感触の、大きくてとても冷たいものが馬乗りに乗り上げた。
重みで息ができなくなる。
空を切る牙鳴音が聞こえた気がして、ボクは思わず両手を顔の前に差し込んだ。
途端に走る、鋭い痛み。
いや鋭い痛み、何てモンじゃない。
激痛だった。
その、とんでもない力の獣は、口から泡を滴らせて、そのままボクの喉元に喰らい付こうとする。
滴る泡が、ありえないほどに冷たい。
ぞっとした。
コレは、野良犬なんかじゃない。
コレは、生きてなんかいない。
恐怖に無我夢中で押し返そうとボクも力をこめるけど、いかんせん獣の力の方が何倍も強いし、そうでなくともボクの体勢は、半身を起こしかけたままと言う異様に微妙な体勢だったので、力を入れようにも入れどころがまるでない。
みしみしと噛み砕かれかけている上腕骨が軋む音がして、
歯を喰いしばったまま、ボクは、
「――ンの野郎があああああッッ」
目の前をチカチカと星がちらついて、ああもうダメかなと力を抜きかけた刹那、ボクの上にいた獣がきりもんで吹っ飛ぶ気配がした。
唐突に肺に空気がなだれ込んで、ボクは呼吸に噎せる。
そこで初めて涙が滲んだ。
「レイディッ!」
いつになく真剣な、と言うより取り乱したシラスの声が不意に間近で響いて、ボクはびくりと身を縮ませる。
「――噛まれたのか?!」
力任せに抱き起こされて、状況についていけなくなったボクの頭は、立ち眩み――いや、ヘタリこんだままなんだけど――でくらくらとした。
「見せてみろ」
「だ、だいじょぶ」
いやもうホントは全然大丈夫じゃないんですけど。
夜目の利かないボクにだって、噛み裂かれた両腕からタラタラと血が滴り落ちてるのくらい、はっきりと判る。
だけど、傷口を見せたら、しばらく食事にありついてない腹を空かせたシラスが、そのまま吸い始めるんじゃないか?て言うか多分、きっと吸い始めるぞ、と言う懸念がさっと頭をよぎって、
ボクは思わず両手を背中に隠した。
「見せてみろ!」
そんなボクの思いを知ってか知らずか、シラスは強引に背後に回したボクの腕を引っつかむと、
「何が大丈夫だ莫迦野郎!」
頭ごなしにボクを叱りつけ、いつの間に取り出したんだろう、手ぬぐいで乱暴にぐるぐると痛み止めの薬草と傷口を巻き始めたのだった。
――た、
食べない……の?
呆気に取られて、ボクが鬼火に照らされたシラスの顔を上目で見上げると、
「喰うかよキミがそんな顔してるのに」
むっとした声で返された。
ボクの思いは、声に出してなくともとっくにシラスには伝わっていたらしい。
「そ、そんな顔ってボクは何も言ってないよ失礼だな」
「あのな」
腹立ち紛れか止血のためか、かなり強い力でぐいぐいと手ぬぐいを巻きつけながら、大きく息をひとつ吐いてシラスは言った。
「言っておくけどな、俺は嫌がるキミを無理矢理押し倒して喰いつく趣味はないぜ」
「……」
「キミがイヤな内は俺は絶対喰わないから。だから。……頼むからそんなに怯えた顔すんなっての」
包帯代わりの手ぬぐいを巻きつけ終わったシラスは、ちょっと困ったように笑って、返事をしかねたボクの鼻をひとつ捻ると、そのまま背を向け一撃で叩きのめした獣の方へと歩いていった。
意外だったような、申し訳ないような、
……もしかしたらちょっとヘコんでるのかな……。
何て声をかけたものやら、戸惑うボクを尻目に、
「ちっとばかりまずいトコに来たかもしんねぇなあ」
獣の側にしゃがみ込んで、じろじろと見回していたシラスがそう言った。
「まずいって……何のコト?」
「ここは明らかに上の階と異う」
手当てしてもらった腕を擦りながら、ボクもしゃがみ込んでいるシラスに近づいた。
手ぬぐいと一緒に巻きつけた薬草は、即効性の痺れ草で、感覚がなくなる代わりに、痛みも直ぐに薄れてしまっている。
シラスの点してくれた鬼火が二つ三つ。おかげでつまづきもしないで近づけた。
「違う?」
「違う、んじゃない。異う、だ」
聞き間違えたのかと尋ね返したところを、首を振って否定される。
「異う……って。何が?」
「上の階は何て言うか……ただの、埋葬された死体の成れの果てだ。邪気も妖気も一切ねぇ。ただ眠っていたところを、たたき起こされて出てきただけの、全く問題のない不死者なんだが……、」
そこでちょっと困ったようにシラスは言葉を切った。
「『なんだが』?」
「例えばキミを襲ったこの不届きな獣。コレは“――――”と言って、人間界じゃめったに見かけない、ちょっと階層の違う生き物……まぁこの場合死んでるワケだけどな、生き物だ」
獣の名前はまるでボクの耳には聞きなれなくて、ボクは何度か聞き返した。
「難しいね」
やっぱりボクには聞き取れない。
発音はどうやったって絶対に無理だと思った。
「聞き取れなくて当然だ。人間界の発音じゃあないからな」
「人間界の発音……聞き取れるように発音すると?」
「こっちの発音は、耳に聞き取れる限られた音程だからな。まぁ似たような響きで言うなら……バズスー、ってトコか」
「バ、ズ、スー」
「そう」
「……ねぇ。さっきシラス、階層が違う、って言ったね」
「ああ、……?」
「人間界じゃない、てコトは魔界ってコト?」
「うーん」
ボクの質問に、シラスは腕を組んで悩んだ。
「何。何か言っちゃいけないコトでもあるワケ」
こんな状況にも拘らず、ボクは思わず身を乗り出した。
秘密と噂話はご多聞に漏れず、大好きだ。
「期待してるところ申し訳ないが、禁忌は別にない。ただ……説明するのが難しいんだがな。まあ、魔界と言っちゃあ魔界なんだが」
「なにその歯切れの悪い答え方」
「まあ、今は魔界から来た、と。そう捉えてくれておいたら良いか」
「詳しく」
「家に帰ったらな」
そう言ってシラスは立ち上がり、不意にボクを引き寄せた。
「ななななななんだよ」
「――俺から離れるな」
胸板に勢いよく顔面からぶつかって、咄嗟に飛びのきかけたボクが思わず強張ったのは、囁いたシラスの声が結構緊迫したものだったからだ。
ぐっと肩を抑えて、
「いいな」
ボクはシラスに目を覗き込まれる。
金色の瞳はこういうとき厄介だ。
吸い込まれそうな色をしている。
「わ、判った」
何がなんだか判らないけど、とりあえず空気に呑まれて頷いたボクに、シラスは不意に笑って、
「いい子だ」
ぐしゃぐしゃと頭を掻き混ぜた。
「わ」
ちょっとただでさえまとまりが悪いんだから触らないでよね、
ボクはそう言いかけたんだけど、シラスの笑顔を見て思わず口を噤んでしまったのは、何故だろう。
*
しばらくシラスにぴったりくっ付いたまま、進んでいたボクの耳に、ざりざり、と音が飛び込んだのは、それだけ辺りの空気がシンと静まり返っていたからなんだろう。
足音のように聞こえた。
「シラス」
「――しッ」
今の音聞こえた、そう聞きかけたボクの口を片手で押さえて、黙るようにシラスが目配せをする。
そのまま通路の物陰に身を滑り込ませた。
向こうから、誰かが来るらしい。
獣じゃないようだった。獣だったら、シラスは隠れなんかしないだろうから。
そうしてボクの耳元に、囁く。
「レイディ、キミ、もしあの音がもっと近づいて来たら、息止めていられるか」
「と、止めるってどのくらい」
なんつーコトを聞くんだ。
思わず突っ込むことも忘れて聞き返してしまったボクもボクである。
「アレが去るまでしばらく」
「アレ?」
「アレ、だ」
物陰からそっとシラスが見るように目配せする。
つられて背伸び、遠く向こう、今来た方向の反対側を窺いやると、鬼火のひとつにぼうっと照らし出された、フードを頭からすっぽりと被った人影が一つ見える。
長身の、人間のように見えた。
人間かどうかは別として、まぁとりあえず人型だ。
背には、あんなモン振り回せるのかってくらい巨大な両手剣が背負われている。
いやもしかしたら、ホントに背丈より長いんじゃないか?
「ちょッ……シラス、鬼火なんか向けたら、気付かれちゃうよ?」
「平気だ。アレは、目は利かない」
「み……見えないの?」
そうボクが聞き返した瞬間、じっと立ち尽くしていたフードの男(便宜上そう言うことにしておこう)が、ひょいとこちらを振り返った。
小さく悲鳴を上げかけて、ボクは慌てて自分で自分の口を押さえる。
「な、な、何アレ」
改めてぎゅっとシラスにしがみついて、ボクはその振り返ったフードの男を震えながら再度、見た。
鬼火の、うすらぼんやりとした明かりに照らし出されたソレは、どう見ても人間じゃない。
と、言うより人間の住む場所にいるとは到底思えなかった。
形は確かにヒトじみている。
手が二本。足が二本。いやそんなことはどうでもいい。とにかく、どこにでもいるような姿かたち。
だのにぽっかりと、フードの中の瞳が虚ろだ。
と言うか、フードの中には何もなかった。
顔、と言うモノが存在してない。
額もない。頬もない。鼻も、口も、顎も、そもそも顔のラインが存在してない。
ただ。ありえないほど真っ赤な瞳が虚空に一対、浮いている。
辺りの暗闇よりさらに深い、虚無の闇の中に、赤い瞳がまたたきもせずこちらを見ている。
「シ、シラス」
がたがたと小刻みに震える膝を、ボクは自分自身で止めることが出来ない。
「落ち着け。アレは見えていない」
「でも」
顔が、視線が、真っ直ぐにこちらを向いている。
「匂いを、嗅いでいるだけだ」
「に、に、ニオイ?」
「匂いと言うか……人間の……今はキミの生気、だな。ヤツら、鼻だけは利くから」
「ま、ま、ま、魔物?」
「ああ。グレイスと言う。死にぞこなって凝り固まった……元は人間の怨念さ」
「ど、ど、どうしよう」
「だから落ち着けって。俺がキミを隠してるから、アレには感じ取れていないハズだ。……だから、探している」
しばらくこちらをじっと見ていた(実際は見ていなくても、だ)フードの魔物――グレイス――は、また不意に興味を失ったようにくるり、と向きを変えこちらに背を向けると、ざりざりと足音を通路に響かせて、向こうの方角へ行ってしまった。
「た、助かった……」
シラスに、ボクの存在を隠されていようといまいと、あの魔物の放つ迫力はそれなりなものがあって。へたへたと腰が抜け、思い出したように脂汗がじっとりと湧いて出てくる。
「何。一体何なの?なんであんなモンが古墳の地下にいるんだよ」
恐怖から解放された安心感で、ボクは癇癪を起こしたようにシラスに食って掛かった。
「キミが落っこちたあの石碑な」
「うん。……うん?」
「失われた古代の文明の文字で書かれていた。全部は読んでる時間なかったんだが、ざっと前文だけ確認すると、どうも」
「どうも?」
「シュトランゼ姫は、ただの姫じゃねぇ。巫女姫だったんだな」
「……巫女。って、教会とか神殿とかのあの巫女?」
「あの巫女だな」
シラスは静かに頷いた。
頷く拍子に、さらさらとまっすぐな黒髪まで揺れる。
見ているこっちがうざったいから切ってよ、
と、よくボクが言う長めの前髪。
「それが、どう言う」
「ここの地下は、遥か昔から良くないものが頻繁に湧き出す空間ではあって。そこへシュトランゼ巫女姫が人柱に立てられた、ってワケのようだ」
「……恋焦がれて自分で湖に身を投げた、ワケじゃなくて?」
「じゃなくて」
「ひどいよ。そんなの生け贄じゃないか」
「まさに生け贄だ」
鹿爪らしい顔でシラスが頷く。
「シュトランゼ姫の魂がある限り、あの石碑は有効だと言うことらしいが」
「魂……」
意味深に流されるシラスの視線に、ボクは呟きながら、なーんか心に引っかかる光景を思い起こそうと努力する。
シュトランゼ姫。魂。
だいじなものとは なにかしら。
きらきらひかる ものかしら。
きらきら光る――、
「あ。」
シラスの歌った唄と、今の説明と、さっき見た光景が、パズルのピースがはまり込むように急にカチリと一致して、ボクは思わず声を上げた。
「墓泥棒の握ってた、青い宝石」
「――だろうな」
石碑を読んだ時点から、もう疾うに気付いていたのだろう。シラスがゆっくり頷いた。
「石碑にぽっかりとタマゴ大のくぼみがあった。あの宝石を動かしたから、巫女姫の戒めが解けて、グレイスらが動き出し、この古墳全体も呪われたってワケだな。おそらく墓泥棒自身も、湧いて出たグレイスに襲われて――逃げ切れずに、あの地下一階で殺されたんだろう」
「あのヘンな犬だか狼だかにやられたワケじゃあ、ないんだね」
「首はすっぱりと斬れていた。……と言うかそもそも、バズスーが襲っていたなら、もっと喰い散らかされているはずだ。あんな風にきれいには残らない」
「うう……墓泥棒め」
いくらその行為が褒められたものでないにしろ、と言うか断固として許されたものでないにしろ、死人に自業自得、と言う言葉は基本的にボクは使いたくない。
死に対して不謹慎な気がするから。
でもこの場合は、自業自得としか言い表しようが無い。
いや、バカにしているワケじゃなくて。
「地下一階を荒らしたのも、墓泥棒じゃあない。あれは多分、グレイスが大剣を振るって暴れた結果、墓石が壊れまくったんだな、きっと」
「ふむ……湖が呪われてるのも、ホネがウロついてるのも、バズスーがいるのも、グレイスが暴れたのも、みーんなあの宝石が動いたから、ってコト」
「そう言うコト」
「なんだ。じゃあ簡単なことじゃないか。あの宝石をさっさと石碑に戻せばいいんだ――ってああああ」
そこまで言って、ボクは頭を抱えて呻いた。
そうなのだ。
宝石は遥か頭上、地下一階の彼方にあるんである。
ボクらは――ああでもシラスは巻き添えか――ボクは、文字通り墓穴に墓穴を掘り重ね、上に上がれなくて困っている。
「ねぇ。シラス」
「なんだ」
「あえて尋ねるけど、あのグレイスてやっぱり見た目に比例して強い魔物なの?」
「めちゃめちゃ強いってワケでもねぇが――中の上、てトコか」
「聖句や聖水程度で逃げてくれるほど、可愛い怨霊でもないんでしょ?」
「逃げたら苦労はないな」
「じゃ、ボクじゃあ太刀打ちできないよね」
「できねぇな」
「キミ、太刀打ちできる?」
「――今のままだと――どうかな」
ぼそりと呟いてシラスは腕を組む。
「破壊しようにも中身がスカスカなヤツだからなぁ」
「ど、どうしよう……もう一生グレイスに怯えて暮らすのかな」
この際あと何日が一生に当たるのか、とかそれはできれば考えたくない。
遅かれ早かれ、飢えて死ぬか餓えて死ぬか、グレイスに見つかるか、未来はそう明るくない。
「なんだ、キミ、そんなに一生穴倉暮らしがしたいのか」
ヒトが深刻に己の人生を嘆いている側で、不思議そうな声で尋ねてくる声がある。
「そんなワケないだろ!」
魔物じゃないんだから。そう続きかけた言葉は、慌てて飲み込んだ。
「上に上がりたいんだろ?」
「上がりたいに決まってるよ」
「――だから。今、上に上がるルートを探してるんじゃねぇか」
「……あ、……え……?」
そうだ。
言われてボクは、今更ながら気づいた。
何も無駄に体力を消耗するために、シラスは、うろうろと地下を彷徨っていたワケじゃあなかったのだ。
「ああーそうかーなるほどー」
「……キミね……」
妙に納得して両手をポン、と叩き合わせ、うんうんと頷いたボクに、シラスは胡乱な瞳を向けてきた。
その様子に少しだけ悪いかな、と思うけど、どうにもシラスといると緊張感が、今ひとつ湧かない、と言うのが実のところなのだ。
いや、それなりに緊張感も切迫感もあるっちゃああるんだけど、なんかどうにかなっちゃうかな、むしろ何とかしてくれるんじゃないか、って言う……え?おんぶに抱っこ?う、うるさい。
だから。
だから、少々憤慨したシラスがボクを胸に抱きなおして、まったく、だとか言いながら角を曲がったその瞬間に、通路ど真ん中に突っ立っていたグレイスの背中がまん前にあったとしても、
「わ……ぶッ」
正面衝突しかけて、ボクは息を呑み――、瞬間さっきのシラスの言葉が頭をよぎって、そのまま口を押さえて呼吸を止めた。
シラスもさっと顔色を変える。
耳も聞こえない、目も見えない、ただ感じられるのは生気のみと言う世界は、一体どんな感覚なんだろう。
あいにくボクには判らない。
想像の仕様もない。
したくもない。
その、ボクとはまったく異世界の住人は、何かを感じ取ったのか、くるり、とこちらを振り返った。
血塗られた深紅の……、白目も虹彩もなにもない、ただ目の形に切れ込んだ虚空が。
ゆっくりと、動く。
僅かにかがんで、呼吸を堪えるボクの目線にゆっくりと、動く。
ひた、とボクの顔面真ん中に視線が据えられた。
……怖い。
それは、本能的な恐怖だ。
再び震えだした体が、言うことを聞かない。
あとどれ位こうしていればいいんだろう。
震えるボクを抱きしめるシラスの腕に、ぐ、と力が篭もって、それに気づいたボクは少しだけ、呼吸を止めたまま肩の力を抜いた。
――俺がキミを隠しているから。
さっき、シラスはそう言った。
そう言ったんだから、それは信じて任せていれば、きっと大丈夫。
抱きしめたままシラスは、ゆっくりと、ボクを刺激しないようにそっと、一歩、一歩、グレイスから遠ざかる。
じいいいっとこちらを眺めていたグレイスが、やがてまた何かに惹かれたように、不意に明後日の方向を向いた。
ほっと息をつきかけて、すかさず伸ばしたシラスの手のひらで、重ねてボクは押さえられる。
あのー。でもそろそろ呼吸が限界なんですけど。
シラスへボクが伝えようと、口元を指し示したところへ、不意に太腿に走った痛みがある。
ぎくりとして見下ろした。
先ほどのバズスーと同じ、でももっと小型の獣が、ボクの片足に喰らい付いているのだった。
ボクもシラスも。グレイスの動きに気を取られて、獣が近づいてきていたなんて全く気が付きはしなかったんだ。
「――低脳な分、獣の方が鼻がキく、……か」
くそ。
歯軋りするように呻いたシラスと、噛み付かれた太腿からぱたぱたと、土床に血が滴ったのが同時だった。
弾かれたようにグレイスがこちらを振り向く。
「――ちぃッッ」
舌打ちし、力任せに印を結んだ指を獣に叩きつけながら、シラスがボクと、瞬時に大剣を引き抜いてボクへと駆け込むグレイスの、間へ割り込む。
「レイディ!走れ!」
そのまま背中越し、怒鳴った。
「う、う、うん」
さっきの科白から考えて、大丈夫なのか、とか、
あんな大剣にどうやって太刀打ちするんだ、だとか、
言いたいコトは一気に湧いて出たはずなのに、いつも見せない厳しい顔のシラスと、その勢いに押され、ボクは噛み付かれた足の痛みも忘れて、慌てて頷き、とりあえず駆け出した。
ボクの脇を守り固めるように、鬼火が二つ、動きに合わせてふわふわと付いて来る。
……こんな時なのにボクの足元まで心配してくれるんだね。
そう気付いて、何故だか鼻の奥が痛くなった。
後はもう何も考えられないままに、うねる通路を無我夢中で駆け抜けて、息を切らせ、少し離れた向こう側に上へと続く階段があるのを見つけて、
――見つけて、ボクは。
ぴた、と凍り付いて足を止めた。
心臓が止まるような恐怖と言うなら、きっとこんなときのことを言うのだろう。
背筋が凍るような恐怖と言うなら、きっとこんなときのことを言うのだろう。
辿りついたそこは、やっぱり少し膨らんだ広間のようになっている、空間だった。
さっきの石碑の広間と同じ位か……少し、狭いか。
その広さに、数人はいるグレイスが、全ての深紅の瞳を真っ直ぐにボクに向けて、虚ろに立ち尽くしているのだった。
グレイスは、あの一体だけじゃなかったんだ。
「う、そ……」
驚きに掠れた声がボクの喉から漏れる。
ゾンビとホネの大群に追い掛け回された怖さなんて、今思うとこれの比じゃない。
アレはとても怖かったけれど、まだはっきりと形のある怖さだった。
いや、違う。
アレも確かに怖かった。
でもアレはもう過ぎ去った事件で、そう。もう終わったことで……、今ボクが現実に直面している恐怖と言うか畏怖、とは比べくはずもない。
いつでも一番、今が怖いんだ。
ボクは引きつった喉を、ごくりと鳴らした。
この突き刺さる視線。
視線に圧力が無いなんて、アレは嘘だ。無音で、無感で、――だのに、獲物を絡め取るようにそれぞれが真っ直ぐにボクを捕らえて放さない視線。
動けない。
動け……ない。
殺される。
まばたきひとつ分の静寂の後、全く予備動作を感じさせずに、突如グレイスたちがボクに向かって走り出した。
大剣。大鎌。巨斧。
何も皆が皆、大きい獲物ばっかり持っていなくたっていいじゃないかと、思わず突っ込みたくなるほど巨大な武器のぎらついた鈍い光が、ボクの視界を埋め尽くす。
殺意はまるでない。
そこにあるのは全く純粋な……生きて血の通う人間をずたずたに切り裂こうと言う、ただそれだけの意志だった。
「わあああああああッ」
両手は痺れて上がらない。
解決策なんて思い浮かばない。
腹の底から恐怖の声を上げながら、ボクは咄嗟に一番グレイスが少ない方向へ転がった。
そのまま死に物狂いで、二転、三転する。
天地がぐるぐると回転して、こんな時だというのに、思わずボクは眩暈を起こしかけた。
ざく、ざくと紙一重で避けた空間に刃物が突き刺さるいくつかの音と、
焼け付くような肩の痛み。
「――あああッ」
急所は幸運に避けたものの、肩口からかなり深めにばっさりと鎌の刃が食い込んだのだ。
バズスーに噛まれた痛みなんかの比じゃない。
そうして振り上げた鎌に、体ごと持ち上げられて振り下ろされ、ボクは広間の壁に激突する。
一瞬めり込んだ体から、全ての空気が抜け落ちた。
ずるずると下へとずり落ちて、固い土の感触。
直ぐには呼吸が出来なくて、ボクは込み上げる吐き気と痛みとに床を転がって悶絶した。
口の中一杯に血の味が広がる。
冗談のように痙攣する手足は、操り人形のようだとも思った。
打ち付けられた、後頭部からも背中からもじっとりと湿って生温いものが流れ落ちていく。
薄く目を開けるのさえ、かなりの力が要った。
横目で見やると、みるみる乾いた土の中に吸われていく冗談のように赤い血液と、それとは逆に急速に冷えていくボクの体。
グレイスたちが容赦ない二撃目を叩き込もうと、近づいてくるのが気配で判る。
ああ。
もう終わりなんだ。
意外に最後なんて、呆気ないモンだな。
「――ディッ!!」
既に聴覚さえ遠い。昏く沈みこむ意識の片隅で、聞きなれた声がボクの名を呼んでいるような気がした。
……シラス。
首を巡らせて存在を視界に入れたいのに、頭が重くて動かない。
空耳だったのかもしれない。
キミ、あんな馬鹿力のグレイスを、大した魔法も使えないのにどうやって倒してきたんだい?
そもそも、能動的な姿がまるで似合わないヤツなのだ。
「頭脳派」だとか自称する常に不精な長身の魔物が、必死に飛んだり跳ねたりしてグレイスの追撃を避ける姿を想像して、おかしくて、こんな時だというのにボクはうっすらと微笑んだ。
微笑んだ、つもりだった。
ダメだよ。
こっちに来ちゃダメだ。
ここには、強いヤツがいっぱいいるから。
キミだけでも、逃げて……――、
そこまで思った瞬間、力強い腕が、ボクの体を勢い任せに引き上げていた。
引き上げられる感触が、まるで水の中を泳いでいるようだとも思った。
意識を飛ばしかけたボクの頭でも、その力強さは感じられて、
「……シ、ラ……」
ごめんね。もう声も出ない。
頭が重くて、ゆらゆらと揺れる。
そのボクの頭を抱え込んで、
「レイディ。悪いがさっきの約束は撤回だ」
――なに――が?
切羽詰ったシラスの声が遠く近く聞こえて、
「喰わせろ」
――なに――を?
言うが早いか、シラスはボクのずっぱりと切り込まれた肩口に顔を埋めた。
良いも悪いもない。
そもそもボクに抵抗する力なんて、残ってやしないんだ。
シラスが口を付けた途端に、
ボクの体内へ、ありえないほどの大量の光景がなだれ込んで、ボクは残り少ない力で細い悲鳴を上げた。
息苦しさにもがくのは、陸に上がった魚にも似ている。
なだれ込んできたものは、記憶だ。
シラスの今まで見てきたこと、聞いてきたこと体験したこと。一瞬一瞬の場面が、まるで序列を為さずにボクの体内のあちらこちらで再生される。
声がする。音がする。色がある。香りが、味が、感覚の全てが。
きっかり、2000といくらか年分。
たかだか十数年しか生きていないボクには、その膨大な情報量が受け止めきれない。
溢れてしまう。
ああ。
……溺れて……しまう。
意識を失ってしまえばどんなに楽だろう。
だけどいつも。喰われているときは、あまりに異様な感覚に気絶すら出来ない。
「ごちそうさま」
グレイスに周りを囲まれたこんな状況なのに、ありえない言葉を吐いてシラスはボクを床に置いた。
「美味かった」
グレイスに受けたダメージの上に、シラスに喰われたボクの体は、指先ひとつ思い通りに動かなくなっていた。
仰向けに寝かされたボクの体へ、土を通して響く振動がある。
ずん。だとか、
どん。だとか、
近くに雷が落ちたか、もしくはかなり大きい地震いかって言うくらいの、籠もっているのにつんざく共鳴音。コレだけの振動はそうそうあるもんじゃない。
ボロボロの体は、目を開けるのも正直かなり億劫だったけれど、それでもあまりの衝撃波に好奇心が湧いて、ボクはほんの微かに瞼を上げた。
まつ毛を通して向こうに赤と黒の飛沫が見える。
それから、声にならない苦鳴。――いや。これはグレイスが漏らす、恐れの絶叫だ。
似たような光景を、もう何度も見た気がした。
何故だろう。あまり覚えが無い。
違う。見ないようにしてたんだ。
赤と黒の飛沫の向こうをはっきりと見てしまうのは怖いから。
向こう側に立つ「それ」をはっきりと認めてしまうのは怖いから。
がつ、がつと次々に床の上に大剣だの大鎌だのが転がり落ちる音がして、それから不意に、
しん
と静まり返る。
もう何も聞こえない。
ブツブツ途切れ始める、最後の意識を掻きを集めて、何故かボクは投げ出された自分の左手に視線を移していた。
契約の印が刻まれている手の甲が、まるで呪われたように深紅に光っている。
――血の。
――血の契約。
そう思ったのを最後に、ボクは冷え切った体からとうとう意識を手放して、どこまでも深い深い暗闇の中を、まっすぐに、落ちて、行った。
*
気付いたら、シラスの背中に揺られていた。
よく、か弱い姫君の出る物語なんかには、アレしちゃあ気絶、コレしちゃあ気絶。そんな風に書かれているコトが多いけど、普通、気絶したくたって並大抵のコトでは気絶できるもんじゃあない。
努力、ってワケでもないだろうし。
それとも、いつでもどこでも気絶できるアレは、一種の才能なんだろうか。
と言うか。
そもそも気絶と言うもの、そんなに気持ちのいいもんじゃない。
間の記憶が吹っ飛んでて、一体何がどうなったのかさっぱり判らないことが多いし、
そうでなくても気分は最悪だ。
軽やかに目覚めるなんてとんでもない。
「起きたな」
ボクを背に負ぶって、王都カスターズグラッドへの道を戻りつつあるシラスは、
「気分はどうだ」
そう言って横顔をボクに見せた。
いつもと変わるところのない顔。
何故かほっとした。
「……最悪」
不貞腐れてボクは短く答える。
「キズは塞いだんだがな」
言われてボクは、シラスの首に回されていた自分の腕をしげしげと眺める。確かに、バズスーに噛み裂かれて、全治一ヶ月はかかりそうなヒドい傷跡だったはずのそこには、きれいさっぱり、何もない。
魔法のように、と言う言葉がこの場合あっているのかどうか知らないけど、
本当に魔法のようにきれいに消えている。
「治してくれたんだ」
「治さなきゃ、キミも古墳の住人の仲間入りになりそうだったからな」
見下ろそうとするとバランスを崩して、シラスの背中から落っこちそうなのでやめておいたけど、多分、肩口に受けたグレイスの傷も、太腿のそれも、きれいに塞がってるんだろう。
とは言え。
シラスがきれいに塞いでくれたのはもちろん、外傷部分だ。
それはそれで、ひっじょうううにありがたいのは事実なんだけど、
「頭痛い」
「打ってたしな」
「気持ち悪い」
「出血したしな」
「眩暈がする」
「貧血だしな」
ああ……もう本当に最悪。
げんなりとして、ボクはシラスの肩口に顔を埋めかけ、
「そうだ」
ようやく思い出して、再び顔を上げた。
「ねぇ。シラス。古墳は、どうなったの」
「――あの後、無事に上に戻った。宝石を元の位置にはめて置いたが、本当に、それだけで呪いが解けたかは疑問なところだな……一応、湖もまた元通りきれいになっていた、が。万一の場合でも入り口から瘴気は漏れ出さないように、厳重に封をしておいた。あとは、シュトランゼ姫の石碑と、古墳の一階部分の修復と供養だが……まあ、それは教会に丸投げしちまえば、なんとかなるだろ」
「……その丸投げにした状態を打ち返されて、再び派遣されそうな確率が非常に高いです……」
ネイサム司教の顔を思い出してボクはさらにげんなりする。
一筋縄ではいかない上司だ。
「調査してきました」「原因は」
「原因はこれでした」「ありがとうよくやった」
「ではあとはよろしくお願いします」「ああ、任せておけ」
……、そんなスムーズにコトが進まないのは目に見えている。
「一度手を付けた仕事は、きっっっちり!最後まで!責任を持って尻拭え!ぁあああ?」
それぐらいのことは平気で言ってくる上司なんである。
「ああ」
ボクはシラスの背中の上で頭を抱えた。
「またホネ祭りか」
「グレイスに迫られておいて、キミ、未だにホネ程度が怖いのか」
「ソレとコレとは別なんだよ……」
感心したような、シラスの声にボクは応えた。
「まぁ、頑張るんだな」
「――あ。」
俺には全く被害はないもんね、と言わんばかりの、他人事で涼しい顔のシラスを睨みつけながら、僕は唐突に思い出した。
「『あ』?」
「あの。つかぬ事を窺いますが、シラスさん」
「――な、何だよ」
急にしゃっきり背筋の伸びたボクの態度を、背負ってるヤツは感じたんだろう。僅かに動揺の混じる声になる。
「ご自分の為された行動を覚えておいでですか。いえ、あなた自身が覚えてなくとも、神はいつでもあなたの行動を、見守っていてくださると思うのですけれど」
「けれど」の部分に力をこめてボクは言った。
「――」
「告白すると実は。今日、ボクは大変に悲しい目にあったのです」
「――」
「ボクが一番に『信頼』している者から、嘘をつかれたのです」
「――」
「その者は、ボクのその者に対する『信頼』を、この世で一番尊いものとされている『信頼』を、何がなくともそれだけは決して違えてはならぬと言われている『信頼』を、平気な顔でズタズタに裏切り。切り裂きました。……そう、まるで魔界から湧き出したグレイスが、振り下ろした大鎌のように」
「――」
「あまつさえ、その『信頼』を裏切った者は、ボクと主従の契約を結んでいるにもかかわらず、です」
「――」
「ああ。この現し世は何と悲しき荒み世であることか。結んだ血約は所詮は形でしかないと言うことだったのでしょうか。下僕から裏切りを受けるよりもひどいことが、この世界に存在すると言うのでし」
「いや、その、だな」
滔々と嘆くボクの言葉を、堪えきれなくなったシラスが遮り、
「確かに俺はキミを喰ったさ、だけどな」
「この世の至宝。二つとなき心と心の結びつき。それが『信ら」
「――ああああもう!判ったよッ」
聞こえない振りをして続けるボクに、とうとうキレたシラスは、がしがしと頭をかき回しながら、
「判った!全面的に約束を破った俺が悪い!完全無比、清廉潔白なキミは、どこをどう見てもなーんにも悪くない!そう言いたいんだろ!」
怒鳴った。
「うん」
ボクも言い切る。
「……だって。すごい苦しいし」
「う」
「食べられるのはすごいすごいイヤだったし」
「うう」
「痛いのはすっごいすっごいすっごい怖かったけど」
「ううう」
怒鳴り散らして有耶無耶にしようとする辺り、知らない誰かには利くのかもしれないけど、ずっと一緒に暮らしてきたボクにはよーく判る。
シラスが今、本気で怒ってるか、怒ってないかくらい。
ダマせると思っている辺り甘いのだ。
「……じゃあ……。キミは俺に何を望むんだよ……」
がっくりと肩を落としてしょぼくれたシラスの腰を、背負われたボクは膝で蹴りつけてやりながら、
「このままオンブで王都まで頑張ってね」
「……判った」
「それと、あとで浄化供養のとき、手伝ってね」
「……判った」
「それと、一週間くらい掃除洗濯はおろか、ご飯作りもできないかも……いや!これは絶対出来ないに違いない」
「……判った」
「あと。元気になるには、ラヴェリーローズルの『シェフお勧め:一日限定10コ!イチゴたっぷりとろけるチーズムース』食べないと、多分ダメだと思う」
「……判った」
チクチク苛めるのは、我ながら褒められたもんじゃないと思うけど、ちょっと、楽しい。
そうしてボクは、もうとっぷりと日が落ちて、夜になっている王都カスターズグラッドまでの道を、ずっとシラスに我がままを言いながら、負ぶわれて帰っていったのだった。
空は満天の星だ。
うん、明日もきっと晴れるだろう。
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最終更新:2011年10月15日 18:04