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  心臓が止まるような恐怖と言うなら、きっとこんなときのことを言うのだろう。
  背筋が凍るような恐怖と言うなら、きっとこんなときのことを言うのだろう。
  辿りついたそこは、やっぱり少し膨らんだ広間のようになっている、空間だった。
  さっきの石碑の広間と同じ位か……少し、狭いか。
  その広さに、数人はいるグレイスが、全ての深紅の瞳を真っ直ぐにボクに向けて、虚ろに立ち尽くしているのだった。
  グレイスは、あの一体だけじゃなかったんだ。
 「う、そ……」
  驚きに掠れた声がボクの喉から漏れる。
  ゾンビとホネの大群に追い掛け回された怖さなんて、今思うとこれの比じゃない。
  アレはとても怖かったけれど、まだはっきりと形のある怖さだった。
  いや、違う。
  アレも確かに怖かった。
  でもアレはもう過ぎ去った事件で、そう。もう終わったことで……、今ボクが現実に直面している恐怖と言うか畏怖、とは比べくはずもない。
  いつでも一番、今が怖いんだ。
  ボクは引きつった喉を、ごくりと鳴らした。
  この突き刺さる視線。
  視線に圧力が無いなんて、アレは嘘だ。無音で、無感で、――だのに、獲物を絡め取るようにそれぞれが真っ直ぐにボクを捕らえて放さない視線。
  動けない。
  動け……ない。
  殺される。
  まばたきひとつ分の静寂の後、全く予備動作を感じさせずに、突如グレイスたちがボクに向かって走り出した。
  大剣。大鎌。巨斧。
  何も皆が皆、大きい獲物ばっかり持っていなくたっていいじゃないかと、思わず突っ込みたくなるほど巨大な武器のぎらついた鈍い光が、ボクの視界を埋め尽くす。
  殺意はまるでない。
  そこにあるのは全く純粋な……生きて血の通う人間をずたずたに切り裂こうと言う、ただそれだけの意志だった。
 「わあああああああッ」
  両手は痺れて上がらない。
  解決策なんて思い浮かばない。
  腹の底から恐怖の声を上げながら、ボクは咄嗟に一番グレイスが少ない方向へ転がった。
  そのまま死に物狂いで、二転、三転する。
  天地がぐるぐると回転して、こんな時だというのに、思わずボクは眩暈を起こしかけた。
  ざく、ざくと紙一重で避けた空間に刃物が突き刺さるいくつかの音と、
  焼け付くような肩の痛み。
 「――あああッ」
  急所は幸運に避けたものの、肩口からかなり深めにばっさりと鎌の刃が食い込んだのだ。
  バズスーに噛まれた痛みなんかの比じゃない。
  そうして振り上げた鎌に、体ごと持ち上げられて振り下ろされ、ボクは広間の壁に激突する。
  一瞬めり込んだ体から、全ての空気が抜け落ちた。
  ずるずると下へとずり落ちて、固い土の感触。
  直ぐには呼吸が出来なくて、ボクは込み上げる吐き気と痛みとに床を転がって悶絶した。
  口の中一杯に血の味が広がる。
  冗談のように痙攣する手足は、操り人形のようだとも思った。
  打ち付けられた、後頭部からも背中からもじっとりと湿って生温いものが流れ落ちていく。
  薄く目を開けるのさえ、かなりの力が要った。
  横目で見やると、みるみる乾いた土の中に吸われていく冗談のように赤い血液と、それとは逆に急速に冷えていくボクの体。
  グレイスたちが容赦ない二撃目を叩き込もうと、近づいてくるのが気配で判る。
  ああ。
  もう終わりなんだ。
  意外に最後なんて、呆気ないモンだな。
 「――ディッ!!」
  既に聴覚さえ遠い。昏く沈みこむ意識の片隅で、聞きなれた声がボクの名を呼んでいるような気がした。
  ……シラス。
  首を巡らせて存在を視界に入れたいのに、頭が重くて動かない。
  空耳だったのかもしれない。
  キミ、あんな馬鹿力のグレイスを、大した魔法も使えないのにどうやって倒してきたんだい?
  そもそも、能動的な姿がまるで似合わないヤツなのだ。
  「頭脳派」だとか自称する常に不精な長身の魔物が、必死に飛んだり跳ねたりしてグレイスの追撃を避ける姿を想像して、おかしくて、こんな時だというのにボクはうっすらと微笑んだ。
  微笑んだ、つもりだった。
  ダメだよ。
  こっちに来ちゃダメだ。
  ここには、強いヤツがいっぱいいるから。
  キミだけでも、逃げて……――、
  そこまで思った瞬間、力強い腕が、ボクの体を勢い任せに引き上げていた。
  引き上げられる感触が、まるで水の中を泳いでいるようだとも思った。
  意識を飛ばしかけたボクの頭でも、その力強さは感じられて、
 「……シ、ラ……」
  ごめんね。もう声も出ない。
  頭が重くて、ゆらゆらと揺れる。
  そのボクの頭を抱え込んで、
 「レイディ。悪いがさっきの約束は撤回だ」
  ――なに――が?
  切羽詰ったシラスの声が遠く近く聞こえて、
 「喰わせろ」
  ――なに――を?
  言うが早いか、シラスはボクのずっぱりと切り込まれた肩口に顔を埋めた。
  良いも悪いもない。
  そもそもボクに抵抗する力なんて、残ってやしないんだ。
  シラスが口を付けた途端に、
  ボクの体内へ、ありえないほどの大量の光景がなだれ込んで、ボクは残り少ない力で細い悲鳴を上げた。
  息苦しさにもがくのは、陸に上がった魚にも似ている。
  なだれ込んできたものは、記憶だ。
  シラスの今まで見てきたこと、聞いてきたこと体験したこと。一瞬一瞬の場面が、まるで序列を為さずにボクの体内のあちらこちらで再生される。
  声がする。音がする。色がある。香りが、味が、感覚の全てが。
  きっかり、2000といくらか年分。
  たかだか十数年しか生きていないボクには、その膨大な情報量が受け止めきれない。
  溢れてしまう。
  ああ。
  ……溺れて……しまう。
  意識を失ってしまえばどんなに楽だろう。
  だけどいつも。喰われているときは、あまりに異様な感覚に気絶すら出来ない。
 「ごちそうさま」
  グレイスに周りを囲まれたこんな状況なのに、ありえない言葉を吐いてシラスはボクを床に置いた。
 「美味かった」
  グレイスに受けたダメージの上に、シラスに喰われたボクの体は、指先ひとつ思い通りに動かなくなっていた。
  仰向けに寝かされたボクの体へ、土を通して響く振動がある。
  ずん。だとか、
  どん。だとか、
  近くに雷が落ちたか、もしくはかなり大きい地震いかって言うくらいの、籠もっているのにつんざく共鳴音。コレだけの振動はそうそうあるもんじゃない。
  ボロボロの体は、目を開けるのも正直かなり億劫だったけれど、それでもあまりの衝撃波に好奇心が湧いて、ボクはほんの微かに瞼を上げた。
  まつ毛を通して向こうに赤と黒の飛沫が見える。
  それから、声にならない苦鳴。――いや。これはグレイスが漏らす、恐れの絶叫だ。
  似たような光景を、もう何度も見た気がした。
  何故だろう。あまり覚えが無い。
  違う。見ないようにしてたんだ。
  赤と黒の飛沫の向こうをはっきりと見てしまうのは怖いから。
  向こう側に立つ「それ」をはっきりと認めてしまうのは怖いから。
  がつ、がつと次々に床の上に大剣だの大鎌だのが転がり落ちる音がして、それから不意に、
  しん
  と静まり返る。
  もう何も聞こえない。
  ブツブツ途切れ始める、最後の意識を掻きを集めて、何故かボクは投げ出された自分の左手に視線を移していた。
  契約の印が刻まれている手の甲が、まるで呪われたように深紅に光っている。
  ――血の。
  ――血の契約。
  そう思ったのを最後に、ボクは冷え切った体からとうとう意識を手放して、どこまでも深い深い暗闇の中を、まっすぐに、落ちて、行った。

                    *
  気付いたら、シラスの背中に揺られていた。
  よく、か弱い姫君の出る物語なんかには、アレしちゃあ気絶、コレしちゃあ気絶。そんな風に書かれているコトが多いけど、普通、気絶したくたって並大抵のコトでは気絶できるもんじゃあない。
  努力、ってワケでもないだろうし。
  それとも、いつでもどこでも気絶できるアレは、一種の才能なんだろうか。
  と言うか。
  そもそも気絶と言うもの、そんなに気持ちのいいもんじゃない。
  間の記憶が吹っ飛んでて、一体何がどうなったのかさっぱり判らないことが多いし、
  そうでなくても気分は最悪だ。
  軽やかに目覚めるなんてとんでもない。
 「起きたな」
  ボクを背に負ぶって、王都カスターズグラッドへの道を戻りつつあるシラスは、
 「気分はどうだ」
  そう言って横顔をボクに見せた。
  いつもと変わるところのない顔。
  何故かほっとした。
 「……最悪」
  不貞腐れてボクは短く答える。
 「キズは塞いだんだがな」
  言われてボクは、シラスの首に回されていた自分の腕をしげしげと眺める。確かに、バズスーに噛み裂かれて、全治一ヶ月はかかりそうなヒドい傷跡だったはずのそこには、きれいさっぱり、何もない。
  魔法のように、と言う言葉がこの場合あっているのかどうか知らないけど、
  本当に魔法のようにきれいに消えている。
 「治してくれたんだ」
 「治さなきゃ、キミも古墳の住人の仲間入りになりそうだったからな」
  見下ろそうとするとバランスを崩して、シラスの背中から落っこちそうなのでやめておいたけど、多分、肩口に受けたグレイスの傷も、太腿のそれも、きれいに塞がってるんだろう。
  とは言え。
  シラスがきれいに塞いでくれたのはもちろん、外傷部分だ。
  それはそれで、ひっじょうううにありがたいのは事実なんだけど、
 「頭痛い」
 「打ってたしな」
 「気持ち悪い」
 「出血したしな」
 「眩暈がする」
 「貧血だしな」
  ああ……もう本当に最悪。
  げんなりとして、ボクはシラスの肩口に顔を埋めかけ、
 「そうだ」
  ようやく思い出して、再び顔を上げた。
 「ねぇ。シラス。古墳は、どうなったの」
 「――あの後、無事に上に戻った。宝石を元の位置にはめて置いたが、本当に、それだけで呪いが解けたかは疑問なところだな……一応、湖もまた元通りきれいになっていた、が。万一の場合でも入り口から瘴気は漏れ出さないように、厳重に封をしておいた。あとは、シュトランゼ姫の石碑と、古墳の一階部分の修復と供養だが……まあ、それは教会に丸投げしちまえば、なんとかなるだろ」
 「……その丸投げにした状態を打ち返されて、再び派遣されそうな確率が非常に高いです……」
  ネイサム司教の顔を思い出してボクはさらにげんなりする。
  一筋縄ではいかない上司だ。
 「調査してきました」「原因は」
 「原因はこれでした」「ありがとうよくやった」
 「ではあとはよろしくお願いします」「ああ、任せておけ」
  ……、そんなスムーズにコトが進まないのは目に見えている。
 「一度手を付けた仕事は、きっっっちり!最後まで!責任を持って尻拭え!ぁあああ?」
  それぐらいのことは平気で言ってくる上司なんである。
 「ああ」
  ボクはシラスの背中の上で頭を抱えた。
 「またホネ祭りか」
 「グレイスに迫られておいて、キミ、未だにホネ程度が怖いのか」
 「ソレとコレとは別なんだよ……」
  感心したような、シラスの声にボクは応えた。
 「まぁ、頑張るんだな」
 「――あ。」
  俺には全く被害はないもんね、と言わんばかりの、他人事で涼しい顔のシラスを睨みつけながら、僕は唐突に思い出した。
 「『あ』?」
 「あの。つかぬ事を窺いますが、シラスさん」
 「――な、何だよ」
  急にしゃっきり背筋の伸びたボクの態度を、背負ってるヤツは感じたんだろう。僅かに動揺の混じる声になる。
 「ご自分の為された行動を覚えておいでですか。いえ、あなた自身が覚えてなくとも、神はいつでもあなたの行動を、見守っていてくださると思うのですけれど」
 「けれど」の部分に力をこめてボクは言った。
 「――」
 「告白すると実は。今日、ボクは大変に悲しい目にあったのです」
 「――」
 「ボクが一番に『信頼』している者から、嘘をつかれたのです」
 「――」
 「その者は、ボクのその者に対する『信頼』を、この世で一番尊いものとされている『信頼』を、何がなくともそれだけは決して違えてはならぬと言われている『信頼』を、平気な顔でズタズタに裏切り。切り裂きました。……そう、まるで魔界から湧き出したグレイスが、振り下ろした大鎌のように」
 「――」
 「あまつさえ、その『信頼』を裏切った者は、ボクと主従の契約を結んでいるにもかかわらず、です」
 「――」
 「ああ。この現し世は何と悲しき荒み世であることか。結んだ血約は所詮は形でしかないと言うことだったのでしょうか。下僕から裏切りを受けるよりもひどいことが、この世界に存在すると言うのでし」
 「いや、その、だな」
  滔々と嘆くボクの言葉を、堪えきれなくなったシラスが遮り、
 「確かに俺はキミを喰ったさ、だけどな」
 「この世の至宝。二つとなき心と心の結びつき。それが『信ら」
 「――ああああもう!判ったよッ」
  聞こえない振りをして続けるボクに、とうとうキレたシラスは、がしがしと頭をかき回しながら、
 「判った!全面的に約束を破った俺が悪い!完全無比、清廉潔白なキミは、どこをどう見てもなーんにも悪くない!そう言いたいんだろ!」
  怒鳴った。
 「うん」
  ボクも言い切る。
 「……だって。すごい苦しいし」
 「う」
 「食べられるのはすごいすごいイヤだったし」
 「うう」
 「痛いのはすっごいすっごいすっごい怖かったけど」
 「ううう」
  怒鳴り散らして有耶無耶にしようとする辺り、知らない誰かには利くのかもしれないけど、ずっと一緒に暮らしてきたボクにはよーく判る。
  シラスが今、本気で怒ってるか、怒ってないかくらい。
  ダマせると思っている辺り甘いのだ。
 「……じゃあ……。キミは俺に何を望むんだよ……」
  がっくりと肩を落としてしょぼくれたシラスの腰を、背負われたボクは膝で蹴りつけてやりながら、
 「このままオンブで王都まで頑張ってね」
 「……判った」
 「それと、あとで浄化供養のとき、手伝ってね」
 「……判った」
 「それと、一週間くらい掃除洗濯はおろか、ご飯作りもできないかも……いや!これは絶対出来ないに違いない」
 「……判った」
 「あと。元気になるには、ラヴェリーローズルの『シェフお勧め:一日限定10コ!イチゴたっぷりとろけるチーズムース』食べないと、多分ダメだと思う」
 「……判った」
  チクチク苛めるのは、我ながら褒められたもんじゃないと思うけど、ちょっと、楽しい。

  そうしてボクは、もうとっぷりと日が落ちて、夜になっている王都カスターズグラッドまでの道を、ずっとシラスに我がままを言いながら、負ぶわれて帰っていったのだった。
  空は満天の星だ。
  うん、明日もきっと晴れるだろう。


僧侶と魔物にモドル
最終更新:2011年07月28日 07:22