<<ボクの下僕になりなさい。>>



 「はぁ?」
  そうしてボクは――もう、あからさまに不愉快かつ極まりない声を腹の底から出して、ついでに眉までひそめて見せてやった。
 「何言ってんのバカ?」
  言ってから気づく。
  バカなんじゃない。
  大バカなんだった。
  目の前の――同居人とは口が裂けても言いたくない、ルームシェアだなんて名づけるのもおぞましい、ただボクにひたすら背後霊のように張り付いているだけの――まぁ、なんて言うか腐れ縁の魔物一匹。
  同じ家に住んでいる。
  それなりにバランスの取れた顔しているくせに、ウチの近所じゃ、ボクに養われてるヒモってことで通ってて、通り向こうの鼻垂れガキンチョ4歳(仮)にも、小指の先ほどの敬意も払われてはいないもの悲しさ。
  まぁ、ヒモだとかなんだとか、実はボクが言い広めた言葉だったりするとか、それは内緒だ。
  知らぬは本人ばかりなり、ってヤツである。
  シラスと言う。
  転がっていた。
  地面に転がっていた。
  今日の夕方前に雨が上がったばっかりだったから、まだかなりな割合で濡れてるだろうに、ためらいもなく地面に転がって、駄々をこねているのだった。
  大の男が、である。
  もうね。
  目を疑うね。
  この転がってるのが、見慣れたコイツでなかったら、側に走りよって「大丈夫ですか!」とか声をかけてたと思う。
  どう見ても苦しんでのた打ち回っているようにしか見えない。
  いやぁ、人気のない夜中でよかった。
  辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、ボクは胸をなでおろす。
  誰かいたんだったら、とっとと見捨てて家に帰るところだった。
  いやむしろ、他人の振りをしたね。
 「ひどいレイディはひどい俺のことなんかこれっぽっちも大事に思ってないんだろきっとひどい楽しみにしてたのにひどい俺だけ何もなしひどい」
 「キミねぇ……」
  じたばたするのをやめたかと思えば、今度は膝を抱えてしくしくとしだした。
  まったく。これが2000ウン年生きてきた魔物の吐くセリフだろうか。
  ボクは心底あきれ返って、駄々をこねる代わりにいじけ始めたシラスを見下ろしてため息をついた。


  そもそも。
  発端は、花見をしにきたんである。
 「公園の噴水横のでっかい枝垂桜。アレが今満開らしいよ」
  仕事帰りに立ち寄った、惣菜店でオバちゃんたちが井戸端会議しているのを、小耳に挟んできたのだ。
  ウチに帰るなり、ソファの上で伸びていたシラスにボクはそう声をかけた。
  中央公園の桜、って言うのは結構王都カスターズグラッド内外でも有名で、近隣の農村なんかからは、桜見物半分、王都見物半分で、ツアーを繰り出してきたりする。
  毎年、かなりの見ものなんである。
  公園をぐるっと囲むように、いろんな種類の桜が植えられていて、それが所狭しとばかり、いっせいに「バッ」と開花するのだ。
  聞きかじったところじゃ、昔、造園の際に、大陸でも有名な庭師さんを王様がわざわざ呼んで、「市民の 市民による 市民のための 公園」として、造らせたんだそうだ。
  だから、シロウトのボクなんかには、どこをどうしたらそうなるのかさっぱり判らないけど、土を変えるとか、ほんのちょっとの日当たり、風当たり具合とかを計算されつくしてて、植えられたいろんな種類の桜が、カウントダウンのように同じ日に咲いちゃう造りになってる……とは、コレ入り口の看板に書いてある宣伝文句。
  なんせこの時期、「桜祭り」なるものまで開催されている。
  まぁ、「祭り」と言ったって、激しく山車でも出るわけじゃなし、そこここにロバで引いてきた売店なんかが立ち並んで、恋人同士がブラブラ散歩してたり、親子連れがピクニックに来てお弁当広げながらのんびりキャッチボールしてたりなんかする、ほんとにのほほんとした名ばかりの「祭り」なんだけどね。
  ボクが、いろんな種類の桜が咲く公園の中で特にお気に入りなのが、公園内には違いないんだけど、ちょっと外れたところにある、噴水側のでっかい枝垂桜なんだ。
 「ボクね、あの桜が何でかしらないけど一番好きなんだぁ」
  ボクがそう言うと、シラスが物知りな顔をして笑った。
  2000ウン年、長らく生きてるもんだから、無駄な知識が無駄に山ほどあるんである。無駄に。
 「アレだけちょっとワケアリだもんな」
  そんなこと言ってる。
 「何。ワケアリって何。あの下で長い黒髪の女の人がブラ下がってただとか、夜な夜なすすり泣きが聞こえるだとか、木の下ほっくり返したらホネ出てきたとか、そんなワケアリだったら絶対絶対に聞きたくないからね……ってああ!自分で言ってて鳥肌立ってきた」
 「想像力豊か過ぎだろキミは」
 「なんだよ意味深なコト言うからだろ」
  呆れて目をむいたシラスに、ボクは舌を出して見せた。
  もったいぶるのが好きなヤツなのだ。
 「で。なんなのワケアリって」
 「ああ……あの枝垂桜な。公園が出来る前から、もともと自生してたヤツなんだよな」
 「自生って……もとから生えてたってコトだよね?」
  ボクが聞くと、うん、とシラスは目で頷いた。
 「まぁ、自然に生えたものなのか、その更に昔、誰かが植樹でもしたのかしらねぇが。他の種類は大陸各地から取り集めたらしいが、アレだけは公園予定地にすでに生い茂っててな。造園した庭師は、あの枝垂桜を公園のど真ん中に据えたかったようだが、若木ならともかく樹齢高い樹を移植するって難しいだろ」
 「見てきたように言うね」
 「見てたんだもんよ実際」
  感心してボクがうなると、白けたようにはは、とシラスは小さく笑った。
 「暇だったしな」
 「……」
  いつもはたいがい、バカだったりバカだったりバカだったりするんだけど、時折こうして欝な部分を見せることが、シラスはある。
  大抵は、昔の話をするときだ。
  よっぽどやることがなくて退屈だったのか、それともなにか思い出したくないことでもあるのか、ボクにはよく判らないけど、あんまり触れないようにしている。
  さびしかったのかもしれない、なんて思ったりもする。
  2000ウン年生きるってコトそれ自体が、ボクにはもう想像を絶する話なのだ。
  シラスは魔物だから、人間のように年を取って死ぬ、と言うことがない。
  もちろん、魔物には魔物なりの死があるみたいだけど、ボクはそれについて、あんまり聞きたいとも思わない。
  それでも自分だけ長生きするって言うのは……いや、そりゃ長生きしたほうがきっと得ですよ?ご長寿でお祝いもしてもらえるし、100歳までいったらもう万々歳で、屋根に上ってモチ撒いちゃいますよ?
  ……でも。
  せいぜいボクら人間に出来る長生きって言ったらそれくらいのモンで、それ以上の感覚はどう想像したって共感できるもんじゃあない。
  自分の周りだけ、目まぐるしく、生き死にを繰り返している中で、たった一人そのままの形で置き去りにされているって言うのは――ボクにはとても孤独に思えてしまうのだ。
  だからボクは、そういう顔をしたシラスになんと言ったらいいのか判らなくなってしまう。
 「……えっと。で、つまり、ボクが言いたいのは、お花見しませんか、ってことで」
  仕方がないから話をそうやって逸らすと、花見かぁ、そう言ってシラスは予想に反して渋い顔をした。
 「何?花見キライなの?」
 「いや。キライってワケじゃあねぇんだが」
 「何その生煮えな返事」
 「……昼間はなぁ」
  腕なんか組んでしまっている。
 「月がなぁ」
  そんなことも呟いている。
  そう、シラスはもちろん人間じゃないので、なんと言うか魔物特有?の、いくつかの得手不得手がある。
  例えば、陽光。
  ものの本によると、魔物が昼間、陽光のもとに出るのは、人間が無呼吸で水の中に沈みっぱなしなのと同じくらいの苦痛なんだと言う。
  とか、細い針であちらこちらをチクチクと突かれる感じ、だとか。
  しかしいかんせん、ボクは人間なんで、陽光を浴びてもあったかいなとか、昼寝したくなるなとか、布団干そうかなとか、そんなことしか思えないので、
  そうかー、痛いのかー、かわいそうにー、でも午後のお散歩、気持ちいいから一緒に行こうね。
  程度だ。
  だって、そんな知識を知らない小さいときから、シラスとは昼間にお出掛けしたりしてたわけで、今さらそういう本を読んだからハイやめ、って言うのは逆に不自然な感じがするし。
  おかげでシラスは万年偏頭痛に悩まされてるらしいんだけど、本気でイヤなら付いてこないので、コレはもう自己責任ってことでボクの中では決着している。
  それとか、
  例えば、月の満干。
  ツキノモノのある女じゃあるまいし、何で月が満月になったり新月になったりするたびに体調が左右されなきゃいけないのか、やっぱりボクには判らないんだけど、おおむね、月が円に近いときは機嫌もいいし、体調もいい。
  満月のときなんか、真夏の真昼間の太陽ギラギラ、お肌コンガリ健康美人コース的な海辺に連れ出したって、ちょっとやそっとじゃ根を上げない。
  ただし逆に、新月の辺りは、ヘタすると地下室兼書斎兼シラスの私室兼物置部屋兼乾物庫へ、一日、二日、引きこもって出てこないときもザラだ。
  なるべく太陽から遠い場所が心地いいんだって。
  まぁそんなときでも夜は、昼間に比べると元気なんだけど、どこかげんなりしている。
  今がまさに、そんな感じだ。
  明日の夜が新月。
  シラスの事もあるけど、ボク自身、僧侶の見習いの仕事の都合上もあって、居間の暖炉の上に月の満ち欠けの日めくりを掛けている。
  ちらり、とそれを眺めて、ボクは再度丸の中が真っ黒に塗りツブされてなーんにもない、明日の夜を確認した。
 「うーん」
  お弁当もってお花見には行きたい。
  だけど、気分が優れないところを、無理矢理、ぽかぽか天気の中引きずり出すのは、さすがに可哀相な気がしなくもない。
  だけど、月が満ちるのを待ってたら、今満開の桜はもう散ってしまうだろう。
 「うーん」
 「……夜じゃ、ダメか?」
  腕を組んで今度はボクがうなり始めたのを見て、シラスが妥協案を出す。
 「夜。夜かー」
 「花見特別製サンドウィッチを付けよう」
 「夜かー」
 「花見特別製たまご焼きも付けよう」
 「夜かー」
 「花見特別製ウィンナーも付けよう」
 「ウィンナはタコさんにしてね」
  作ってもらうお弁当は、なんでだか、自分で作るよりずっと美味しい。
  結局、そういうことになった。


  ――んで。
  じゃあどうして折れたはずのボクが糾弾されてて、2000ウン年の魔物が膝を抱えてスネてるのかっつーと、
 「酒はレイディが買ってくる約束だっただろ」
  こうだ。
 「仕方ないじゃあないか」
  みじめったらしい魔物にがっくりきながら、ボクは肩を落とした。
 「行ったら店がもう閉まってたんだし」
 「でもレイディが酒買ってくるって言った」
 「別にわざと仕事上がりを遅くしたわけじゃないんだし」
 「でもレイディが酒買ってくるって言った」
 「ていうかボクはさっさと仕事切り上げたのに、今日に限ってネイサム司教が、やたらボクのコト引きとめて雑仕事押し付けてくる上に、自分自身はとっとと逃亡しちゃうし」
 「でもレイディが酒買ってくるって言った」
  もう。
  グゥの音も出ないほど言い負かすのはボクの得意技だったはずなんだけど、一緒にいる時間が長いせいなのか、最近ボクのマネをし始めたシラスだ。
  そんなトコ真似なくてもいいと思うんだけど。けど。
 「ボクだって冷血漢ってワケじゃないんだよ。そりゃあ本当に悪いことしたなぁって思うよ。特に新月だし」
 「でもレイディが……」
 「だーかーらーー」
  ほんっとに、もう。
  腰に手を当てて盛大にため息をついてやると、恨めしげな目でシラスが見上げる。
  そう。
  花見弁当をシラスが作ってくれる代わりに、ボクが仕事帰りに酒を買ってくる、って約束したのだった。
  それを、買いそびれた。
  いやでもほんと、悪いとは思ってるんだ。
  魔物ってのは、基本的に人間と食べ物が違う。
  何で違うのかって言っても、違うものは違う、としかボクには言えない。植物がどうして動物と違って水と日光で生きていられるんですか、って聞くようなもんだ。
  魔物は、生気を食らう。
  何せ、人間であって魔物でないボクには、聞き取ったニュアンスでしか理解が出来ないんだけど、人間には見えない(時に見える人もいるらしいけど)生気というか……オーラ?が、人それぞれ違った色形で存在しているらしくって、魔物はそれを食らう。
  時にそれは噛み千切ったり、切り裂いたりする行為にもなることで、たまに街道筋でバケモノに襲われた、っていうたいがいの事件は、腹を空かせた魔獣がやってしまう行為だ。
  獣ではないかもしれないけど、シラスも魔物だ。
  人間の生気を食わないと、生きてゆけない。
  ただしシラスは、一日食べないとヘナヘナになってしまう人間よりは、かなりに我慢がきくようで、一ヶ月や二ヶ月、食わなくても、死ぬということはない。
  空腹でイライラはするようだけど。
  だから、気晴らしに酒飲んだり酒飲んだり酒飲んだりするのだった。
 「腹が減った」
 「じゃあ一緒にタコウィンナ食べればいいじゃないか」
 「そんなもん美味くもなんともねぇ」
  そうなのだ。
  酒が飲めるのからもわかるように、別に、人間の食べ物が食べられないってワケじゃあないのだ。
  ただ、魔物にとっちゃあ人間の食べ物は嗜好品って程度のもので、それで腹がふくれて満足する、ということは基本的にないらしい。
 「ボクの作るシチューとか美味しいって食べるじゃん」
 「アレは、キミの作るシチューだから美味いってだけで、俺が自分自身で炒めたウィンナーには全く興味もへったくれもありません」
  さらりとどえらい褒め言葉を言われた気もするけど、それに気を止める余裕は今のボクにはなかった。
  ちなみに、
  腹を空かせたシラスが、気晴らしに飲むのは、一本ン万シクルはするだろうなって言う、ヴィンテージものの赤ワインだ。
  すごい昔のワイン。
  酒瓶を振っただけで、緑の色ガラスを通してどろりとした液体が揺れ動くのが見えるほど、濃いいいぃぃいヤツだった。
  月日がたつほどに熟成かつ水分が少しずつ蒸発して、なんかそんなんになっちゃったらしい。
  開けると、むせるほど赤葡萄の香りと鉄さびのような香り、それからなんとも言えない古いにおい?がして、ボクはあんまり好きな部類じゃない。
  まあいいんだ。ボクは別に飲まないから。
  ついでにその酒代を出しているのは、シラス自身だから、ボクの懐も痛まない。10シクルの水みたいなワイン飲もうと、ン万シクルのワインを飲もうと、それはどうぞご勝手に、ってヤツだ。
  ただ、そのシラスがお気に入りのヴィンテージワインの入手先が、えっらい限られてて、王都カスターズグラッドですら、偏屈なジィさんがやっている店一軒しかない。
  そこらの酒屋にはもちろん、王宮にだって置いてないのだ。
  だってそんな古くっさいワイン飲まなくたって、もっと新しくておいしくて飲みやすいワインは、いくらでもあるから。
  血液に。
  人間の血液に似ているんだと、ちょっとだけボクは思うことがある。
  赤いのにどこか黒くて。どろっとしているのにさらさらしてて。鉄くさいにおいがして。
  たぶん、シラス自身も、似てるから好きなんだろうなー。でもそれを聞くと歯止めが利かなくなる気もするし、怖い気もするし、なにより墓穴は掘りたくないので聞かないことにしている。
  まぁ。とにかく。
  そんな奇特なワインを置いてある、偏屈ジジィの店は、押し付けられた仕事の半分はなかったことにしたボクが、人生一世一代のランを見せて滑り込んだも、あえなく「Close」の文字が書かれた木札がかかっていただけなのだった。
  木戸を10分ほどガンガン叩こうと、出てくる気配はまるでなし。
  仕方なくて、遅くまでやっていた他の酒屋を回ってみたものの、やっぱり風変わりなワインはどこにも置いていなくて、若干肩身を狭く感じながら、ボクは帰宅したのだった。
  そうしたら、予想通り。
  案の上の反応、ってヤツだ。
 「腹減ったなぁ」
  上目遣いにボクを見ていたシラスが、本当に哀れを誘うようにすん、と鼻をすする。
  演技士め。
 「な、なんと言われようと仕方がないだろ。ないものはないんだ。明日必ず買ってくるから、今日は他ので我慢してよ」
 「そんな酔うためだけのワインおいしくもなんとも……」
 「もうじゃあどうしろって言うのさ!」
  とうとうボクは逆切れして、シラスを睨みつけた。
 「さっきから悪いってなんども謝ってるだろ!」
 「言葉で謝られても嬉しくもなんともねぇしなぁ」
 「じゃあなんだよ!態度で表せって?表せるもんならとっくに表してるよ!これ以上どうしろって言うんだよ!」
  売り言葉に買い言葉。
  ていうか……最初っから、それを狙ってたんだろう。
  聞いたシラスが得たり、とばかりにニヤァアと笑った。
 「態度で表してくれると」
 「な……なんだよ」
 「表してくれると、今そう言ったよな?」
 「いや、その、言いましたけど、あのそれが何か」
 「喰わせろ」
 「はぁ?」


  そこで、冒頭に戻るんである。
  再び膝を抱えたシラスを見下ろして、ボクは――もうその日何度目になるか判らないため息をまた一つ吐き出したのだった。
  喰わせろ、とシラスは言ったんである。
  聞こえなかったわけじゃない。
  聞こえなかった振りは、したい……けど。
  喰うといっても、さっき言ったように、噛み千切ったり切り裂いたり、そこまでひどいことはシラスはしない。せいぜいがところ、牙を突き立てるくらいで。
  とは言え。
 「突き立てるぐらい」と言うのは、突き立てる側の言うセリフで、突き立てられる側はたまったもんじゃない。
  痛いものは痛い、のだ。
  よく、王都の本屋の店頭で売られてる、
 「今月のコレがいい!」
  とか紹介されてる騎士と姫の恋愛小説なんかには、騎士が満身創痍にケガする場面がちょこちょこちょこちょこ出てくるけど、騎士はきっと、
  痛覚が鈍いか
  不感症か
  そうでなけりゃ学習能力が皆無なんだろう。
  骨を折るとか。腹に穴が開くとか。
  あんなもん、一度体験したら二度目は絶対にイヤに決まってる。
  まともに考えたら、繕い物してて縫い針で指差したって痛いのだ。
  そうしてボクは、別に痛みに快感を覚える、おかしな性癖もあいにく持ち合わせていないので、痛い=嫌だ、である。
  シラスがどんなに腹を空かしていることを気の毒だな、と思うことはあっても、だからボクをお食べ、とはなりにくい。てゆうか、ならない。
 「痛くしねぇから」
 「痛くなかったためしがありません」
 「優しくするから」
 「優しかろうと乱暴だろうと痛いものは痛いのです」
 「気持ちよくするから」
 「そんな一晩の同衾を求められるのと同じセリフ言われても困ります」
  すがるような目で見られるともっと困る。
  ボクは慌てて明後日の方向を向いた。
  じゃあどっかで、他の人間をほんのちょいと食べてくればいいじゃん、とか他力本願に、無責任なことも言えない。
  相手の人間に痛い思いをさせたら迷惑だから、とかそんな正義ぶった理由じゃなく、もっと即物的な理由だ。
  シラスは、ボクの生気しか食えない。
  そう束縛する主従の契約を、その昔、ボクとシラスは結んだのだ。
  ボクはさりげなく左手の甲を見下ろした。
  ボクがシラスへ生気を与える代わりに、シラスは基本的にボクに逆らえない。
  普段はうすらぼんやりとアザのようになっている、複雑怪奇な文様。
  古代精霊文字の一種らしいけど、ボクには読めない。
  魔物と契約を結んでいるような人間が他にいるのかどうかも、その関係がどんなもんでどの間隔で食事を与えているのかボクはまったく知らないから、ボクはボクなりにルールを決めて、かたくなに実行を貫き通していた。
  一年に一回。シラスとボクが契約を結んだその日に。
  だって痛いものは痛い。嫌なものは嫌だ。
  仕方ない。
  それだって、ボクなりにかなーり譲歩した結果なのだ。
  吸血鬼じゃあるまいし、首筋に歯を突き立てられて喜ぶ趣味はボクはないのである。
  ところが昔はもっと、その主従の上下関係がはっきりしていた気がするのに、最近屋台骨が揺らいでいる――気が、しなくもない。
  シラスが妙にずうずうしくなってきたのが一番の理由な気もするんだけどね。
 「喰わせろ」だなんて、昔は口が裂けても言わなかったのに、最近じゃ冗談なのか本気なのか、時々口に上らせることがあって、ボクはその度にどきりとする。
  シラスに拾われてからずっと、一緒に暮らしてきたはずなのに、急にワケの判らない生き物になっちゃったみたいで怖くなるのだ。
  ボクが怖がっているのが判ると、それ以上シラスは押しては来ないから、今のところまだ安心しているんだけど、それでも、と思う。
  いつか――いつか、その一線をぐいと越えてきそうな予感が――しな――いやしない。
  絶対しない。
  しないことにしておきたい。
 「それにシラスこないだ食べたばっかりじゃないか」
  そうだ。
  ついひと月前に、教会の仕事の依頼があって、古墳に巣食った魔物退治に駆りだされたボクは、そこでありえないほどに大怪我をした。
  胴体を大鎌でチョン切られかけたのだ。
  幸い、一緒に行ったシラスが駆けつけてくれて、傷口を塞いでくれたり(もうボクは痛くてよく覚えてないんだけど)、そりゃもう色々してくれたんだけど、その際ちゃっかりと言おうか、、ついでとばかりコイツはボクを喰いやがったのだった。
 「アレは突発的な……事故みたいなもんじゃねぇか。それに、必要最低限しか喰ってない」
  大部分はグレイスが持っていきやがったし。
  とか、ボクにとってはどうでもいいようなことをシラスは言った。
 「それにもうひと月も前の話だぜ?」
 「ひと月だろうが四週間だろうが知らないけど、確かにあの時キミはボクを食べたし。ついでに食べてもいいよとボクが約束した日まではあと半年あります」
  うう、と聞いたシラスがうめき声を上げる。
  これで諦めてくれるかと、ボクがほっとしたところに、
 「じゃあ判った。ワインを飲んで我慢しよう」
 「……」
  くそ。話を振り出しに戻しやがったのだった。
 「腹を空かせた上に新月で無力で可哀相な俺は、健気にも酒に逃げ場を求めて空腹をひと時忘れることにしよう。そこであえて聞きたいが酒を買ってくる役割は誰だったか」
 「むう」
  何が健気だバカ。
  急に何か振り切ったように、立ち上がったシラスはそのままずいずいと、ボクの前へ立ちふさがる。
  ネコに、部屋の隅っこに追われたネズミの気持ちってこんなのだろうか。
  前に立っただけなのに、四方の逃げ場をふさがれた気になってボクは喉奥から絶望のうめきを上げた。
  ……ちっとも諦めちゃなかった……。


 「レイディ」
  ああもう。
  頼むから、そんなものほしそうな声で囁かないでほしい。
  本気でどうしていいか判らなくなる。
 「レイディ」
  おろおろとボクは辺りを見回して、それから仕方なしに目を上げて目の前の長身バカの顔を見上げた。
  挑むように。
  契約を結んだご主人様の言うことが聞けないわけ?
  そんな思いをこめて、睨み付けてやった、つもりだった。
  人間にはありえない、金色の瞳が、ボクをじっと見下ろしている。
  ああ。ブランディの琥珀の色とよくにてるな。
  そんなどうでもいいことを思う。
  見蕩れたボクの耳へ、低いかすれ声でシラスが囁く。
 「なぁ」
 「……」
 「少しでいいんだ」
 「……」
  琥珀の色をしたびぃどろの中に、困った顔をした小さなボクがゆらゆらと立っている。
 「……判ったよ」
  にらめっこにとうとう負けたボクは、どっと襲う疲労感と一緒に息を吐き出した。
  いつの間にか、呼吸すら止めていた。
 「お酒買うのはボクの役だったし。買えなくてキミがお腹空かせることについては、全面的にボクの責任だろうし。いいよ。しょうがないよ。食べろよ」
 「なんだ。色気がねぇな」
 「色気とかなんとか。食い気に走ってるのはそっちのほうだろ……」
 「こういうときはキミ。フリでもゴッコするもんなんだよ」
  くすくす、笑いながらシラスがボクの体を引き寄せる。
  ボクは慌ててのけぞった。
 「わ、ちょ、ちょっと待って。何、いきなり?ボクが花見弁当食べる暇もなし?」
  空腹なのはこっちだってそうなのだ。
 「今を逃したら、キミのらりくらりと逃げちまうだろう」
 「でも、そのほら、ヒトとか来たら困るし」
 「こんな外れに、しかも夜遅く誰もこねぇよ」
 「だだだって、今日はその……ほら花見!花見主体なんだから、せめて桜をじっくりと観賞してから」
 「あとでいい」
  悲しいかな、ボクの言い訳はことごとく却下されて、シラスはボクの喉許へ顔を寄せる。
 「ちょっ……ちょ、ちょっと。ななななにしてるんだよ。いつもみたく手首から吸」
 「ココの気分なんだ」
  吸えばいいだろ、の言葉を最後まで言い終えることなく、ボクの言葉はシラスに押し被せられて消えた。
 「レイディ」
  すぐに痛みが走るだろうとぎゅっと目をつぶったボクに、
 「怖がるなよ」
  そのときだけは少し困った声を出して、シラスが言った。
 「怖がるな」
  言葉と一緒に、ふ、と熱い息が首筋にかかって、寒くもないのに背筋がぞくぞくとする。
  乾いた唇が、触れるか触れないかの位置にあるのは、精神衛生上非常によろしくない。
  そのままさっさと済ませてくれりゃいいものを、匂いを嗅ぐように鼻先を首へ擦り付けてきたりする。
  膝が、まるで自分のものじゃないみたいにだらしなく震えて、それが恐怖から来る震えなのかそれとも別ものの何かなのか、ボクにはもうよく判らなかった。
 「な……なに。……なに?」
 「怖がるな……」
  そうしてとうとう、堪えきれなくなったシラスが、ボクの首筋に牙の切っ先を当てる痛みがするかしないかぎりぎりの瞬間、
 「――新月の宵闇の中。桜の木の下に、災いがわだかまっている。物騒なことだね」
 「のわあああああああああああッッ」
  聞いた事のある声が不意に振って湧いて、ボクはそのまま反射的に渾身の力をこめ、シラスの顔面を拳で殴りつけていた。
  不意を衝かれて全く構えてなかったのだろう、数歩先までシラスが吹っ飛ぶ。
 「な……なに?て言うか誰?誰ッ?」
  穴が開かずに済んだ首を、それでも何とはなしにきつく押さえて、ボクは慌てて辺りを見回した。
  今日は新月。月明かりはまるでない。
  持って来たランプは、そう遠くまで照らし出すことは出来ないし――いやでも今の声はそう遠いもんじゃなかったぞ?
 「気をつけなさい。子羊は天からの視線にひどく無防備だ。ゆえに。神が天から我らを見下ろしているとしても、そう無警戒では――喰われるよ」
 「……って上かああああああッッ」
  慌てて頭上を見上げると、枝垂桜の太い木の枝の一本に、ひょいと腰掛け、眠っているように半目で桜の花びらに頬をなぶらせている優男――
  ――っていうかボクの直属の上司だった。
 「ネネネネネネネネイサム司教いつからそこに」
  そう。
  夕方過ぎにボクにさっさと仕事を押し付け、とんずらしてしまった元凶――ネイサム司教――その人が、座っているのだった。
 「まだ明るい時分からいたか」
  意味が浸透するまでに少し時間がかかった。
  まだ明るい……いや明るいってことは、
 「って司教!つまり、ボクに厄介ごとを押し付けて、そのくせ自分はうかうかと花見に出掛けたと!そう言うことですか!」
 「今日を逃すと散り始めてしまう。仕事は一日二日、遅れたところで支障は出ないが、自然は別だね。機を逃すと次は巡ってくるとは限らない」
 「お言葉ですけど!仕事だって一日遅れたら支障があるんですよ!そこんところ判ってるんですか!」
 「しッ」
  次の瞬間。
  喚きかけたボクの前に、まるで重さを感じさせない動作でとん、と司教は飛び降りると、言い募ろうとするボクの口へ、人差し指を突きつけた。
  このヒトもある意味、人間離れしている。
 「――タマゴ。大声はここでは無粋だ。咲き乱れる花々には敬意を持って接すること」
 「……それも教会の仕事には必要だとか、そう言うんでしょう絶対」
 「勿論だ。その場にあった立ち居振る舞いの出来る弟子を育てておかねば、後々私が苦労をする」
  ……今現在、苦労してるのはボクのほうなんですけどねー。
  喉許までこみ上げた不満は、どうせ言っても無駄だろうからぐっと堪えてやめておいた。
  いやそれより問題なのは、ネイサム司教が一体どこからどこまでを見ていたのか、とかそういう極めてこっぱずかしいプライバシーに関わる問題にも絡んでくるわけで、
 「無論最初から最後まで興味深く拝見させてもらった」
 「勝手に人の思考を読み取らんでください!」
  これだ。
 「タマゴ。お前が一体どういう懇願に弱いのか、とても楽しく観察することが出来た。今後お前と仕事柄、付き合っていく上での、大変重要な参考になった。感謝するよ」
 「わああもういいです!言わないでいいです!て言うか忘れて下さいお願いだから」
 「……何しに来たんだよフーテン聖職者」
  ようやく起き上がった泥まみれのシラスが、ぼそ、っと不穏な声色を発する。
 「花見だ。それ以上でもそれ以下でもない」
  なんだいたのか。
  声に、今ようやくシラスの存在に気付いたように、司祭はシラスへ顔を向けた。
 「部下に仕事丸投げしてか。いいご身分だな」
 「自然の美とは、万人に許された憩いの場だ。たとえ体が飢え渇いていても、心の栄養を取ることで人はたいそう豊かな存在となれる。――餓鬼と化す人外相手にその言葉が通用するとは思えないがね」
 「わー!ってちょ、ちょっと待ってってば!ほら!せっかくのお花見なんだからやめてよねそんな険悪な雰囲気作り出してくれるの!」
  見事なほどに司教とシラス、「犬猿の仲」ってヤツなのだ。
  なんでなのか、理由は知らない。
  とにかく寄ると触ると、互いにツンケン、ギスギスと威圧しあうところがある。
 「司教も!ほら、せっかくだから突っ立ってないで花見弁当一緒に食べましょうよ。ねッ。これなんか、ほら、アレですよ、シラスがわざわざボクのためにこさえてくれた力作なんですよ」
  なごやかーな見た目とは裏腹に、このままほうっておくと、取っ組み合いのケンカでもしかねない勢いだったので、ボクは慌てて中へ入った。
 「夕方から見てたってことは、夜ご飯まだなんでしょう?司教独り身なんだから、どうせ家に帰ってもご飯なんかないんでしょう?一緒に食べていってくださいよ。ね。ね?」
 「――誰が作ったかには全く興味がない上に、独り身以降のセリフは余計な気もするが、まあタマゴがそこまで言ってくれるならご相伴に呼ばれようか」
 「そうですよほら!大人数で食べると美味しいって言うじゃないですか。ほらシラスも!フテくされてないでこっちおいでよ。ね!」
 「俺は別にソイツと相伴なんかしたく――」
 「あ、いたいたネイサム司教!」
  相当に不機嫌な顔をしたシラスがそう言って拒否したかしないかの言葉のうちに、背後から更に覆いかぶさる、華やかで優しい声が聞こえてきた。
 「あら。レイディさんもご一緒なんですのね。司教。そうならそうと言ってくだされば、持って来るグラスの数もっと増やしましたのに」
 「あれこんばんはシスター」
 「こんばんはレイディさん」
  ボクより少し年上の、いつも優しいシスターは、こんなときでもやっぱり優しい微笑を投げかけてくれる。
  司教の偽善者スマイルとは似て全く異なるシロモノだ。
  ああ。心のオアシス。
 「シスター、アレですか。司教とデートの約束でもしてたんですか」
  司教とシスターを見比べてボクがそう言うと、あらあら、そう言ってシスターはころころと笑った。
 「そうだったらどんなに嬉しいかしら」
 「私はいつでも、門戸を叩き乞う子羊を拒まないよ」
  にこにこと、エセ慈愛の笑みを崩さない司教が答える。
  まあ、とシスターは大げさに驚いて見せた。
 「司教まで嬉しいことを言ってくださるのですね。でも、残念ながらわたくしは天の父なる方に、身も心も捧げる決心をして教会へ参ったものですから」
  さりげーに司教、どきっぱりと断られてないか……。
  ふとそんな思いが、ボクの頭の隅っこをよぎったりもしたけど、口に出すのはさすがにはばかられた。
  ていうか口に出したら最後、一週間はそのことで司教から嫌味食らうことは目に見えている。
  降りかかる火の粉を増やすことはないもんね。
 「司教から、桜の見ごろは今日までだと聞きましたものですから、教会の何人かに声をかけましてね。皆で花見をすることにしたんですよ」
 「みんな、って言うのは――」
  聞きとがめたシラスの声がまた中途で途切れて、代わりに「げッ」とか、カエルがツブれたような声を上げて沈黙した。
  ボクもつられて振り向く。
  向こうから、いくつかのランプの明かりがゆかゆらと近づいてくるのが見えた。
  ガヤガヤと声も聞こえる。
 「こういうときのお食事は、大勢でいただいたほうが、美味しいですものね」
  まるで邪気のないシスターが、ボクがさっき言ったのと似たようなことを言って、にこにことシラスに同意を求めた。
  ただでさえ、大勢で集まって騒ぐのが、そう好きじゃないシラスが、あー、とかうーとか、返事をしかねて固まっている。
  そんな二人をさっさと差し置いて、司教はシスターの持ってきた紙袋の中から、防水加工のしてある敷物とグラスを取り出し、いそいそと並べ始めていた。
  有無を言わさず、宴会場に仕立て上げてしまうつもりなのだこのヒトは……。
 「ところで司教、どうしてまた、見所がいろいろある公園の中でもわざわざここなんですか」
  問題ある行動を、司教が取るのはいつものことなので、気にしないことにしてふと湧いた疑問をボクが口にすると、
 「タマゴがやたらと勧めるからだ」
 「へ?ボク?」
 「『中央公園の色とりどりの桜も勿論いいですけど、なによりキレイなのはちょっと外れたところにある、枝垂桜の大木なんですよ!もうピンクの花びらといい、枝にしなる花の量といい圧巻で圧巻で!なにせ樹齢300年はあるという桜の古木ですからね!行くなら是非、あそこがお勧めですよ!』……両手を握り締めて教会でしゃべりまくってただろうタマゴ」
  ああなんかそんなこと言ったような言わないような。
 「レーイーデーィー」
  心底恨めしそうな顔をして、シスターの向こう側からシラスが睨んでくる。
  新月だからか、若干その顔に覇気がない。
  食いっぱぐれた犬のような――って言うか文字通り食いっぱぐれたんだろうけど――そんな顔をしている。
  その声になんて言い訳しようかボクがしどもどしているうちに、教会からやってきた一団が賑やかに現場に到着したのだった。
  ああ、もういいや。ややこしいことは後回しにしよう。



 「かんぱーい、とかね。へへ」
  いろいろ込み入った事情は、酒を飲んで忘れちゃおうとか、そういうヨコシマな考えも働いて、付き合い杯干しまくったボクは、大の字で伸びていた。
  もうその夜、誰と何度乾杯をしたのか、アルコールの回りまくった頭では判らなくなっている。
  敬虔なシスターは、小一時間ボクらの酒宴に付き合ったあと、では、とか言って教会の自室へと戻っていった。
  いつになってもつつましいヒトだ。
  残っているのは数人ののんべぇだけだったし、その顔見知りも少し離れた向こうで、ネイサム司教と一緒に、ウチワで盛り上がっている。
 「あー。きもちいー」
  満開の桜の枝も、星空も、ついでに辺りの景色もぐるぐると回っている。
 「飲みすぎだろさすがに」
  そんなボクの横にいつの間にか付いていたシラスが、ちょっとだけ心配そうな声を出している。
  覗きこむ顔に、不機嫌のかけらは見えなくてボクは何とはなしにほっとした。
 「ダメ!シラスも乾杯するの!ほら、乾杯!かんぱーい」
 「立派な酒乱だなこれは……」
  なおもグラスを握りしめたボクに、完璧呆れた声を出しながら、シラスがよいしょ、とボクの頭を膝枕してくれた。
 「なんだよ妙に優しくて気持ち悪い」
 「俺はいつもキミには優しいだろうが」
  心外だな、シラスがそう言った。
 「えー?へへ、そうだっけ?なんかいっつもいじめられてる気がするから、よく判んないんだよねー」
 「いついじめたよ俺が」
 「いつもだよ!いつも。絶対素直じゃないし。てゆかヒネくれてるし。天邪鬼で、嘘つきで、なかなか本心言わなくて、気を抜くとすぐ朝夜逆転するし、ご飯抜くし、好き嫌い多いし、えーとそれから」
 「それから?」
 「えーと」
  なんだかシラスの声が、妙に心地いい。
  目を閉じていい気分のままうとうととすると、
 「おい。寝るなよ」
  不満そうにほっぺたをツネって起こされる。
 「痛いよほらー。またいじめるだろ。キミ、多分いじめてる自覚ないんだよ」
 「これでいじめって、どんだけ深窓のお姫さんだよキミは……」
 「なんだよー」
  唇を尖らせて、ボクは反論する。
 「そういう風に育てたのシラス、キミだろ。責任は全部キミにあります」
 「俺かよ……」
  仕方がないな。そう言って薄く笑ったシラスの顔を、ぼんやりと下から眺めているうちに、
 「樹齢300年のこの木がまだ細い頃にも、キミはこの花を見てたんだろ?」
  ふと、口が動いていた。
 「ん?ああ……それがどうした?」
 「ひとりで見てたの?」
 「独りだったよ」
  いつでもひとりだったよ。
  そう言うシラスの顔を、今度はもうちょっとまじまじと、ボクは見上げた。
  きれいな顎骨のライン。浮き出た首の筋。下から見ないと、気が付かない。
  ざんばらに切った黒髪すら、獅子のたてがみのように優雅だ。
  膝枕をしてくれているのは、確かにうんざりするほど見知ったシラスのはずなのに、なんだか知らない男のヒトみたいで少しどきどきする。
 「?なんだよ」
  じろじろ見ていることに気付いたシラスが、不意に見下ろした顔の位置が近くて、ボクはびっくりする。
  この位置はさすがにマズイだろ……。
 「レイディ」
 「はははははいなんでしょう」
  囁いたシラスの手のひらが、ぴた、とボクの頬に当てられて、
  ぎゃあ。
  もしかしてまたさっきの、「ごはん」の続きをやらせろとか、そういうコト言われたらどうしよう。
  とかボクが勝手に焦ったところに、
 「目が据わってるぞ」
  ……。
  …………。
  ――もうほんっとーーーーにデリカシーの欠けらもない、のだ。
  腹立ち紛れに握りっぱなしだったグラスを、下から顔面にゴンと押し付けて、ボクは急いで起き上がった。
 「帰る!」
 「……おい。急に動くとブッ倒れるぜ」
 「へーきです!構わないでくだ……ってだだだだだ」
  ぐるん。
  夜空と地面が一回転して、
 「おいレイディ!」
  酔っ払って平衡感覚をなくしたボクは、起き上がった勢いそのままに顔から地面に突っ込んだ。
  ……痛い……。
  たいがい、酔っ払うと痛覚が鈍くなると言うけど、これは痛い……。
 「何やってんだよキミは」
 「顔面が!顔面がヘコんだあ!」
  鼻が軟骨でよかった。
  ボクは地面を転がりながら涙を流す。
 「ハナっからたいして出たところも引っ込んでるところもねぇじゃあねぇかよ」
  呆れた声を出して、ボクは結局デリカシーのないコイツに起こされてしまうのだ。
  なんだか自分が、いつまでの手のかかる子供みたいで、悔しい。
 「てゆうかなんか今もんだい発言しませんでしたか」
 「ほら」
 「な……なんだよ」
  なんとかハラスメント、とか言う言葉が浮かぶより先に、ひょいとシラスがボクの前に膝を突いて、背を向ける。
  意味が判らなくてボクは目を白黒させた。
 「帰るんだろ。ほら」
 「……」
  負ぶって行ってやる、と言ってるのだと理解するのに二、三秒かかった。
 「ひ、一人で帰れるよ」
 「どうせ帰る場所一緒なんだから、いいじゃあねぇか」
 「よくない!ぜんぜんよくない!ヒトは己の足で道を切り開く生き物なのですよ!」
 「なに言ってるんだよ酔っ払い」
  これじゃ、ホントに手のかかる子供じゃないか。
  ぶんぶんと首を振るボクを眺めていたシラスは、やがて不意に向きを変えると、
 「うわ」
  暴れるボクをひょいと肩口に抱え上げて、有無を言わさずがっちりとキープした。
 「タマゴ。おやすみ」
 「タマゴちゃん、気をつけて帰れよー」
 「タマゴちゃん、明日二日酔いで休むなよー」
  そんなボクらに気付いた向こう側の酔っ払いたちが、赤ら顔で振り返って手を振っている。
  ザルのネイサム司教だけが、まったく素面の顔つきでちらり、とボクらを見やったけど、口を挟む気はないらしい。
  ひらひらと手を振った。
 「タマゴタマゴと司教以外のヒトまで言わんでください……って言うか誰か止めてくださいよ!もう!ちょっと!放せーッ」
 「おやすみー」
 「おやすみー」
 「いやだあああツブれるまで今日は飲むんだあああああぁぁぁぁぁ」
  抵抗の叫びもむなしく、つかつかと歩くシラスに抱えられたボクの視界から、あっちゅう間に枝垂桜の姿がぐんぐんと遠ざかって……
  ……って、


 「あ」


  そのまま公園を出て大通りを真っ直ぐにウチへ向かい、もうあとちょっとでウチのある路地に付く、ってあたりでボクは唐突に大変なことに思い当たって声を上げた。
  目の前のどぶ板の向こうから、多分ネコの額ほどの庭に(それでも庭があるだけすごい)、植えてあるんだろう、ほっそいほっそい、桜の枝が一枝、見えたからだ。
  公園の立派な桜とは、比べるべくもない。
  それでも、桜には違いなくて。
 「『あ』……?」
 「大変だ」
 「大変?」
 「花見だった」
 「ぇあ?」
  そう。
  花見、だったのだ。まさしく。花を見に、でかけたのだ。
 「どうしよう花見なのにまったく花を見た記憶がない」
  駄々をこねるシラスとか、上から降ってきたネイサム司教とか、焼かれてた肉とか、そんなものしか、見てた記憶がない。
  肩口でぼそっと呟くと、聞いたシラスが、不意に噴き出し、それからげらげらと笑い始めた。
 「な、なななんだよ」
 「キミ本当にかわいいなぁ」
 「ななななに言うんだよ!」
  飛び出す言葉に真っ赤になるのが自分で判る。
  言われなれてないような言葉をさらっと言うのはやめてほしい。
 「なんだよ!笑い事じゃないよ!大問題だよ!花見なのに花見てなかったなんて、後々までの信用問題に発展するよ!」
  そこまでは言い過ぎかもしれないけど、なんだか大損をした気分だ。
  何がおかしいのか笑い続けるシラスの肩口から、ボクは身もがいて無理矢理降りると、
 「おい、レイディ」
 「いいもんねー、ここで宴会の続きするもんねー」
  子供だ、と思われたってもうかまわない。
  どうせここまで子ども扱いされて抱えられてきたのだ。
  シラスが、もう片方に抱えていたボクらの荷物の中から、ボクはグラスと白ワインの瓶を取り出すと、地べたに座って一人宴会を開始し始めた。
  こんな夜中に、路地を通る人はもう誰もいない。
  見える桜は一枝だけとか、この際もう関係ない。
  こうなったら、もはや意地である。
 「本気でやる気だなキミ。公園でだって、視界に入ってなかったワケじゃあねえだろう」
 「そりゃまーったく入ってなかった訳はないけど、ボクの当初の計画はもっと風流にだね」
 「風流?」
  先に帰ってるぞ、と言うことだってできるのだ。
  家は、どうせもう目と鼻の先なんだし。
  新月で相変わらず体調不良なんだろうし。
  なのにシラスは、ふうん、とか呟きながらボクの隣に、同じように腰を下ろした。
  付き合ってくれるつもりなのだ。
 「こう、さ。はらはらと舞い落ちる桜の花びらの中で、うっとりと上を眺め、過ぎ行く春を哀しくも愛でつつ、その舞い落ちた花びらのひとひらが、ほろ酔いの頬を掠めて、今にも飲み干そうとしたグラスの中に浮かんでゆっくりと」
 「……それが風流かどうかは俺にはよく判らないし、キミ舞台監督でも目指したらどうだとも思うが、とりあえずそう言うコトがしたかったのだけは理解した」
  うん、とボクは頷いた。
  それだけ理解してもらえれば、いいんだ。
 「それと、さびしがりやのキミのために」
  乾杯、とグラスを差し向ける。
 「は?……俺?」
  言うとシラスは金の瞳をまん丸にして、ボクを見た。
  そうしてると、まるでネコみたいに見えるときがある。
 「そう。こうしてふたりで桜を見たら、もうひとりぼっちじゃないでしょ?」
  呆気にとられた顔をしている。
  そんな姿が小気味よくて、ボクは酔いに任せてシラスに寄りかかった。
 「ね?ひとりじゃないよね」
 「……レイディ?」
 「喜べ。ボクがずっと一緒にいてあげよう」
 「どうせならボンキュバーンなおネェちゃんに言われてぇな……」
 「ちょっと!」
  喚くとそのまま、シラスがぐい、とボクの体を引き寄せた。
  もともとヤツに寄っかかっていたボクは、あっけなくシラスの胸元に抱え込まれた。
  無駄に高いシラスの体温が、シャツ一枚を通して伝わってくる。
 「な、なん」
 「可愛いこと言ってくれるじゃねぇか」
  こいつめ、とか言いながらシラスはぐしゃぐしゃとボクの頭を撫ぜた。
  小さいときから大好きな大きな手だ。
  髪の毛がぐちゃぐちゃになるからやめてよね、といつものようにボクは言いかけたんだけど、それがあまりに気持ちいいので、そのまま、されるままにしておいた。
  ぬくぬくと人肌(や、この場合魔肌?)も気持ちいい。
  シラスが耳元でぼそぼそと何か言ってる気もしたけど、アルコールの完全に回った頭には、もはや届きはしなかった。
  ああ、もうなんか目の前がちかちかしてきた……。

                    *

  そのままボクは風流も風情もなく、ぐうぐうとシラスに寄りかかったまま眠ってしまった。
  らしい。
  らしい、と言うのは、ボクはさっぱりそのあたりのことを覚えてなかったからである。
  次の日二日酔いドン底のベッドの中で、ボクは本気で酒を絶とうと心に決めた。
  決して守れそうにもない誓いを。


  シラスが最後になんて囁いていたのかを、ボクは知らない。
  そうして日常は穏やかに過ぎてゆく。


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最終更新:2011年10月15日 18:11