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 「レイディ」
  ああもう。
  頼むから、そんなものほしそうな声で囁かないでほしい。
  本気でどうしていいか判らなくなる。
 「レイディ」
  おろおろとボクは辺りを見回して、それから仕方なしに目を上げて目の前の長身バカの顔を見上げた。
  挑むように。
  契約を結んだご主人様の言うことが聞けないわけ?
  そんな思いをこめて、睨み付けてやった、つもりだった。
  人間にはありえない、金色の瞳が、ボクをじっと見下ろしている。
  ああ。ブランディの琥珀の色とよくにてるな。
  そんなどうでもいいことを思う。
  見蕩れたボクの耳へ、低いかすれ声でシラスが囁く。
 「なぁ」
 「……」
 「少しでいいんだ」
 「……」
  琥珀の色をしたびぃどろの中に、困った顔をした小さなボクがゆらゆらと立っている。
 「……判ったよ」
  にらめっこにとうとう負けたボクは、どっと襲う疲労感と一緒に息を吐き出した。
  いつの間にか、呼吸すら止めていた。
 「お酒買うのはボクの役だったし。買えなくてキミがお腹空かせることについては、全面的にボクの責任だろうし。いいよ。しょうがないよ。食べろよ」
 「なんだ。色気がねぇな」
 「色気とかなんとか。食い気に走ってるのはそっちのほうだろ……」
 「こういうときはキミ。フリでもゴッコするもんなんだよ」
  くすくす、笑いながらシラスがボクの体を引き寄せる。
  ボクは慌ててのけぞった。
 「わ、ちょ、ちょっと待って。何、いきなり?ボクが花見弁当食べる暇もなし?」
  空腹なのはこっちだってそうなのだ。
 「今を逃したら、キミのらりくらりと逃げちまうだろう」
 「でも、そのほら、ヒトとか来たら困るし」
 「こんな外れに、しかも夜遅く誰もこねぇよ」
 「だだだって、今日はその……ほら花見!花見主体なんだから、せめて桜をじっくりと観賞してから」
 「あとでいい」
  悲しいかな、ボクの言い訳はことごとく却下されて、シラスはボクの喉許へ顔を寄せる。
 「ちょっ……ちょ、ちょっと。ななななにしてるんだよ。いつもみたく手首から吸」
 「ココの気分なんだ」
  吸えばいいだろ、の言葉を最後まで言い終えることなく、ボクの言葉はシラスに押し被せられて消えた。
 「レイディ」
  すぐに痛みが走るだろうとぎゅっと目をつぶったボクに、
 「怖がるなよ」
  そのときだけは少し困った声を出して、シラスが言った。
 「怖がるな」
  言葉と一緒に、ふ、と熱い息が首筋にかかって、寒くもないのに背筋がぞくぞくとする。
  乾いた唇が、触れるか触れないかの位置にあるのは、精神衛生上非常によろしくない。
  そのままさっさと済ませてくれりゃいいものを、匂いを嗅ぐように鼻先を首へ擦り付けてきたりする。
  膝が、まるで自分のものじゃないみたいにだらしなく震えて、それが恐怖から来る震えなのかそれとも別ものの何かなのか、ボクにはもうよく判らなかった。
 「な……なに。……なに?」
 「怖がるな……」
  そうしてとうとう、堪えきれなくなったシラスが、ボクの首筋に牙の切っ先を当てる痛みがするかしないかぎりぎりの瞬間、
 「――新月の宵闇の中。桜の木の下に、災いがわだかまっている。物騒なことだね」
 「のわあああああああああああッッ」
  聞いた事のある声が不意に振って湧いて、ボクはそのまま反射的に渾身の力をこめ、シラスの顔面を拳で殴りつけていた。
  不意を衝かれて全く構えてなかったのだろう、数歩先までシラスが吹っ飛ぶ。
 「な……なに?て言うか誰?誰ッ?」
  穴が開かずに済んだ首を、それでも何とはなしにきつく押さえて、ボクは慌てて辺りを見回した。
  今日は新月。月明かりはまるでない。
  持って来たランプは、そう遠くまで照らし出すことは出来ないし――いやでも今の声はそう遠いもんじゃなかったぞ?
 「気をつけなさい。子羊は天からの視線にひどく無防備だ。ゆえに。神が天から我らを見下ろしているとしても、そう無警戒では――喰われるよ」
 「……って上かああああああッッ」
  慌てて頭上を見上げると、枝垂桜の太い木の枝の一本に、ひょいと腰掛け、眠っているように半目で桜の花びらに頬をなぶらせている優男――
  ――っていうかボクの直属の上司だった。
 「ネネネネネネネネイサム司教いつからそこに」
  そう。
  夕方過ぎにボクにさっさと仕事を押し付け、とんずらしてしまった元凶――ネイサム司教――その人が、座っているのだった。
 「まだ明るい時分からいたか」
  意味が浸透するまでに少し時間がかかった。
  まだ明るい……いや明るいってことは、
 「って司教!つまり、ボクに厄介ごとを押し付けて、そのくせ自分はうかうかと花見に出掛けたと!そう言うことですか!」
 「今日を逃すと散り始めてしまう。仕事は一日二日、遅れたところで支障は出ないが、自然は別だね。機を逃すと次は巡ってくるとは限らない」
 「お言葉ですけど!仕事だって一日遅れたら支障があるんですよ!そこんところ判ってるんですか!」
 「しッ」
  次の瞬間。
  喚きかけたボクの前に、まるで重さを感じさせない動作でとん、と司教は飛び降りると、言い募ろうとするボクの口へ、人差し指を突きつけた。
  このヒトもある意味、人間離れしている。
 「――タマゴ。大声はここでは無粋だ。咲き乱れる花々には敬意を持って接すること」
 「……それも教会の仕事には必要だとか、そう言うんでしょう絶対」
 「勿論だ。その場にあった立ち居振る舞いの出来る弟子を育てておかねば、後々私が苦労をする」
  ……今現在、苦労してるのはボクのほうなんですけどねー。
  喉許までこみ上げた不満は、どうせ言っても無駄だろうからぐっと堪えてやめておいた。
  いやそれより問題なのは、ネイサム司教が一体どこからどこまでを見ていたのか、とかそういう極めてこっぱずかしいプライバシーに関わる問題にも絡んでくるわけで、
 「無論最初から最後まで興味深く拝見させてもらった」
 「勝手に人の思考を読み取らんでください!」
  これだ。
 「タマゴ。お前が一体どういう懇願に弱いのか、とても楽しく観察することが出来た。今後お前と仕事柄、付き合っていく上での、大変重要な参考になった。感謝するよ」
 「わああもういいです!言わないでいいです!て言うか忘れて下さいお願いだから」
 「……何しに来たんだよフーテン聖職者」
  ようやく起き上がった泥まみれのシラスが、ぼそ、っと不穏な声色を発する。
 「花見だ。それ以上でもそれ以下でもない」
  なんだいたのか。
  声に、今ようやくシラスの存在に気付いたように、司祭はシラスへ顔を向けた。
 「部下に仕事丸投げしてか。いいご身分だな」
 「自然の美とは、万人に許された憩いの場だ。たとえ体が飢え渇いていても、心の栄養を取ることで人はたいそう豊かな存在となれる。――餓鬼と化す人外相手にその言葉が通用するとは思えないがね」
 「わー!ってちょ、ちょっと待ってってば!ほら!せっかくのお花見なんだからやめてよねそんな険悪な雰囲気作り出してくれるの!」
  見事なほどに司教とシラス、「犬猿の仲」ってヤツなのだ。
  なんでなのか、理由は知らない。
  とにかく寄ると触ると、互いにツンケン、ギスギスと威圧しあうところがある。
 「司教も!ほら、せっかくだから突っ立ってないで花見弁当一緒に食べましょうよ。ねッ。これなんか、ほら、アレですよ、シラスがわざわざボクのためにこさえてくれた力作なんですよ」
  なごやかーな見た目とは裏腹に、このままほうっておくと、取っ組み合いのケンカでもしかねない勢いだったので、ボクは慌てて中へ入った。
 「夕方から見てたってことは、夜ご飯まだなんでしょう?司教独り身なんだから、どうせ家に帰ってもご飯なんかないんでしょう?一緒に食べていってくださいよ。ね。ね?」
 「――誰が作ったかには全く興味がない上に、独り身以降のセリフは余計な気もするが、まあタマゴがそこまで言ってくれるならご相伴に呼ばれようか」
 「そうですよほら!大人数で食べると美味しいって言うじゃないですか。ほらシラスも!フテくされてないでこっちおいでよ。ね!」
 「俺は別にソイツと相伴なんかしたく――」
 「あ、いたいたネイサム司教!」
  相当に不機嫌な顔をしたシラスがそう言って拒否したかしないかの言葉のうちに、背後から更に覆いかぶさる、華やかで優しい声が聞こえてきた。
 「あら。レイディさんもご一緒なんですのね。司教。そうならそうと言ってくだされば、持って来るグラスの数もっと増やしましたのに」
 「あれこんばんはシスター」
 「こんばんはレイディさん」
  ボクより少し年上の、いつも優しいシスターは、こんなときでもやっぱり優しい微笑を投げかけてくれる。
  司教の偽善者スマイルとは似て全く異なるシロモノだ。
  ああ。心のオアシス。
 「シスター、アレですか。司教とデートの約束でもしてたんですか」
  司教とシスターを見比べてボクがそう言うと、あらあら、そう言ってシスターはころころと笑った。
 「そうだったらどんなに嬉しいかしら」
 「私はいつでも、門戸を叩き乞う子羊を拒まないよ」
  にこにこと、エセ慈愛の笑みを崩さない司教が答える。
  まあ、とシスターは大げさに驚いて見せた。
 「司教まで嬉しいことを言ってくださるのですね。でも、残念ながらわたくしは天の父なる方に、身も心も捧げる決心をして教会へ参ったものですから」
  さりげーに司教、どきっぱりと断られてないか……。
  ふとそんな思いが、ボクの頭の隅っこをよぎったりもしたけど、口に出すのはさすがにはばかられた。
  ていうか口に出したら最後、一週間はそのことで司教から嫌味食らうことは目に見えている。
  降りかかる火の粉を増やすことはないもんね。
 「司教から、桜の見ごろは今日までだと聞きましたものですから、教会の何人かに声をかけましてね。皆で花見をすることにしたんですよ」
 「みんな、って言うのは――」
  聞きとがめたシラスの声がまた中途で途切れて、代わりに「げッ」とか、カエルがツブれたような声を上げて沈黙した。
  ボクもつられて振り向く。
  向こうから、いくつかのランプの明かりがゆかゆらと近づいてくるのが見えた。
  ガヤガヤと声も聞こえる。
 「こういうときのお食事は、大勢でいただいたほうが、美味しいですものね」
  まるで邪気のないシスターが、ボクがさっき言ったのと似たようなことを言って、にこにことシラスに同意を求めた。
  ただでさえ、大勢で集まって騒ぐのが、そう好きじゃないシラスが、あー、とかうーとか、返事をしかねて固まっている。
  そんな二人をさっさと差し置いて、司教はシスターの持ってきた紙袋の中から、防水加工のしてある敷物とグラスを取り出し、いそいそと並べ始めていた。
  有無を言わさず、宴会場に仕立て上げてしまうつもりなのだこのヒトは……。
 「ところで司教、どうしてまた、見所がいろいろある公園の中でもわざわざここなんですか」
  問題ある行動を、司教が取るのはいつものことなので、気にしないことにしてふと湧いた疑問をボクが口にすると、
 「タマゴがやたらと勧めるからだ」
 「へ?ボク?」
 「『中央公園の色とりどりの桜も勿論いいですけど、なによりキレイなのはちょっと外れたところにある、枝垂桜の大木なんですよ!もうピンクの花びらといい、枝にしなる花の量といい圧巻で圧巻で!なにせ樹齢300年はあるという桜の古木ですからね!行くなら是非、あそこがお勧めですよ!』……両手を握り締めて教会でしゃべりまくってただろうタマゴ」
  ああなんかそんなこと言ったような言わないような。
 「レーイーデーィー」
  心底恨めしそうな顔をして、シスターの向こう側からシラスが睨んでくる。
  新月だからか、若干その顔に覇気がない。
  食いっぱぐれた犬のような――って言うか文字通り食いっぱぐれたんだろうけど――そんな顔をしている。
  その声になんて言い訳しようかボクがしどもどしているうちに、教会からやってきた一団が賑やかに現場に到着したのだった。
  ああ、もういいや。ややこしいことは後回しにしよう。

       

 「かんぱーい、とかね。へへ」
  いろいろ込み入った事情は、酒を飲んで忘れちゃおうとか、そういうヨコシマな考えも働いて、付き合い杯干しまくったボクは、大の字で伸びていた。
  もうその夜、誰と何度乾杯をしたのか、アルコールの回りまくった頭では判らなくなっている。
  敬虔なシスターは、小一時間ボクらの酒宴に付き合ったあと、では、とか言って教会の自室へと戻っていった。
  いつになってもつつましいヒトだ。
  残っているのは数人ののんべぇだけだったし、その顔見知りも少し離れた向こうで、ネイサム司教と一緒に、ウチワで盛り上がっている。
 「あー。きもちいー」
  満開の桜の枝も、星空も、ついでに辺りの景色もぐるぐると回っている。
 「飲みすぎだろさすがに」
  そんなボクの横にいつの間にか付いていたシラスが、ちょっとだけ心配そうな声を出している。
  覗きこむ顔に、不機嫌のかけらは見えなくてボクは何とはなしにほっとした。
 「ダメ!シラスも乾杯するの!ほら、乾杯!かんぱーい」
 「立派な酒乱だなこれは……」
  なおもグラスを握りしめたボクに、完璧呆れた声を出しながら、シラスがよいしょ、とボクの頭を膝枕してくれた。
 「なんだよ妙に優しくて気持ち悪い」
 「俺はいつもキミには優しいだろうが」
  心外だな、シラスがそう言った。
 「えー?へへ、そうだっけ?なんかいっつもいじめられてる気がするから、よく判んないんだよねー」
 「いついじめたよ俺が」
 「いつもだよ!いつも。絶対素直じゃないし。てゆかヒネくれてるし。天邪鬼で、嘘つきで、なかなか本心言わなくて、気を抜くとすぐ朝夜逆転するし、ご飯抜くし、好き嫌い多いし、えーとそれから」
 「それから?」
 「えーと」
  なんだかシラスの声が、妙に心地いい。
  目を閉じていい気分のままうとうととすると、
 「おい。寝るなよ」
  不満そうにほっぺたをツネって起こされる。
 「痛いよほらー。またいじめるだろ。キミ、多分いじめてる自覚ないんだよ」
 「これでいじめって、どんだけ深窓のお姫さんだよキミは……」
 「なんだよー」
  唇を尖らせて、ボクは反論する。
 「そういう風に育てたのシラス、キミだろ。責任は全部キミにあります」
 「俺かよ……」
  仕方がないな。そう言って薄く笑ったシラスの顔を、ぼんやりと下から眺めているうちに、
 「樹齢300年のこの木がまだ細い頃にも、キミはこの花を見てたんだろ?」
  ふと、口が動いていた。
 「ん?ああ……それがどうした?」
 「ひとりで見てたの?」
 「独りだったよ」
  いつでもひとりだったよ。
  そう言うシラスの顔を、今度はもうちょっとまじまじと、ボクは見上げた。
  きれいな顎骨のライン。浮き出た首の筋。下から見ないと、気が付かない。
  ざんばらに切った黒髪すら、獅子のたてがみのように優雅だ。
  膝枕をしてくれているのは、確かにうんざりするほど見知ったシラスのはずなのに、なんだか知らない男のヒトみたいで少しどきどきする。
 「?なんだよ」
  じろじろ見ていることに気付いたシラスが、不意に見下ろした顔の位置が近くて、ボクはびっくりする。
  この位置はさすがにマズイだろ……。
 「レイディ」
 「はははははいなんでしょう」
  囁いたシラスの手のひらが、ぴた、とボクの頬に当てられて、
  ぎゃあ。
  もしかしてまたさっきの、「ごはん」の続きをやらせろとか、そういうコト言われたらどうしよう。
  とかボクが勝手に焦ったところに、
 「目が据わってるぞ」
  ……。
  …………。
  ――もうほんっとーーーーにデリカシーの欠けらもない、のだ。
  腹立ち紛れに握りっぱなしだったグラスを、下から顔面にゴンと押し付けて、ボクは急いで起き上がった。
 「帰る!」
 「……おい。急に動くとブッ倒れるぜ」
 「へーきです!構わないでくだ……ってだだだだだ」
  ぐるん。
  夜空と地面が一回転して、
 「おいレイディ!」
  酔っ払って平衡感覚をなくしたボクは、起き上がった勢いそのままに顔から地面に突っ込んだ。
  ……痛い……。
  たいがい、酔っ払うと痛覚が鈍くなると言うけど、これは痛い……。
 「何やってんだよキミは」
 「顔面が!顔面がヘコんだあ!」
  鼻が軟骨でよかった。
  ボクは地面を転がりながら涙を流す。
 「ハナっからたいして出たところも引っ込んでるところもねぇじゃあねぇかよ」
  呆れた声を出して、ボクは結局デリカシーのないコイツに起こされてしまうのだ。
  なんだか自分が、いつまでの手のかかる子供みたいで、悔しい。
 「てゆうかなんか今もんだい発言しませんでしたか」
 「ほら」
 「な……なんだよ」
  なんとかハラスメント、とか言う言葉が浮かぶより先に、ひょいとシラスがボクの前に膝を突いて、背を向ける。
  意味が判らなくてボクは目を白黒させた。
 「帰るんだろ。ほら」
 「……」
  負ぶって行ってやる、と言ってるのだと理解するのに二、三秒かかった。
 「ひ、一人で帰れるよ」
 「どうせ帰る場所一緒なんだから、いいじゃあねぇか」
 「よくない!ぜんぜんよくない!ヒトは己の足で道を切り開く生き物なのですよ!」
 「なに言ってるんだよ酔っ払い」
  これじゃ、ホントに手のかかる子供じゃないか。
  ぶんぶんと首を振るボクを眺めていたシラスは、やがて不意に向きを変えると、
 「うわ」
  暴れるボクをひょいと肩口に抱え上げて、有無を言わさずがっちりとキープした。
 「タマゴ。おやすみ」
 「タマゴちゃん、気をつけて帰れよー」
 「タマゴちゃん、明日二日酔いで休むなよー」
  そんなボクらに気付いた向こう側の酔っ払いたちが、赤ら顔で振り返って手を振っている。
  ザルのネイサム司教だけが、まったく素面の顔つきでちらり、とボクらを見やったけど、口を挟む気はないらしい。
  ひらひらと手を振った。
 「タマゴタマゴと司教以外のヒトまで言わんでください……って言うか誰か止めてくださいよ!もう!ちょっと!放せーッ」
 「おやすみー」
 「おやすみー」
 「いやだあああツブれるまで今日は飲むんだあああああぁぁぁぁぁ」
  抵抗の叫びもむなしく、つかつかと歩くシラスに抱えられたボクの視界から、あっちゅう間に枝垂桜の姿がぐんぐんと遠ざかって……
  ……って、

 「あ」

 そのまま公園を出て大通りを真っ直ぐにウチへ向かい、もうあとちょっとでウチのある路地に付く、ってあたりでボクは唐突に大変なことに思い当たって声を上げた。
  目の前のどぶ板の向こうから、多分ネコの額ほどの庭に(それでも庭があるだけすごい)、植えてあるんだろう、ほっそいほっそい、桜の枝が一枝、見えたからだ。
  公園の立派な桜とは、比べるべくもない。
  それでも、桜には違いなくて。
 「『あ』……?」
 「大変だ」
 「大変?」
 「花見だった」
 「ぇあ?」
  そう。
  花見、だったのだ。まさしく。花を見に、でかけたのだ。
 「どうしよう花見なのにまったく花を見た記憶がない」
  駄々をこねるシラスとか、上から降ってきたネイサム司教とか、焼かれてた肉とか、そんなものしか、見てた記憶がない。
  肩口でぼそっと呟くと、聞いたシラスが、不意に噴き出し、それからげらげらと笑い始めた。
 「な、なななんだよ」
 「キミ本当にかわいいなぁ」
 「ななななに言うんだよ!」
  飛び出す言葉に真っ赤になるのが自分で判る。
  言われなれてないような言葉をさらっと言うのはやめてほしい。
 「なんだよ!笑い事じゃないよ!大問題だよ!花見なのに花見てなかったなんて、後々までの信用問題に発展するよ!」
  そこまでは言い過ぎかもしれないけど、なんだか大損をした気分だ。
  何がおかしいのか笑い続けるシラスの肩口から、ボクは身もがいて無理矢理降りると、
 「おい、レイディ」
 「いいもんねー、ここで宴会の続きするもんねー」
  子供だ、と思われたってもうかまわない。
  どうせここまで子ども扱いされて抱えられてきたのだ。
  シラスが、もう片方に抱えていたボクらの荷物の中から、ボクはグラスと白ワインの瓶を取り出すと、地べたに座って一人宴会を開始し始めた。
  こんな夜中に、路地を通る人はもう誰もいない。
  見える桜は一枝だけとか、この際もう関係ない。
  こうなったら、もはや意地である。
 「本気でやる気だなキミ。公園でだって、視界に入ってなかったワケじゃあねえだろう」
 「そりゃまーったく入ってなかった訳はないけど、ボクの当初の計画はもっと風流にだね」
 「風流?」
  先に帰ってるぞ、と言うことだってできるのだ。
  家は、どうせもう目と鼻の先なんだし。
  新月で相変わらず体調不良なんだろうし。
  なのにシラスは、ふうん、とか呟きながらボクの隣に、同じように腰を下ろした。
  付き合ってくれるつもりなのだ。
 「こう、さ。はらはらと舞い落ちる桜の花びらの中で、うっとりと上を眺め、過ぎ行く春を哀しくも愛でつつ、その舞い落ちた花びらのひとひらが、ほろ酔いの頬を掠めて、今にも飲み干そうとしたグラスの中に浮かんでゆっくりと」
 「……それが風流かどうかは俺にはよく判らないし、キミ舞台監督でも目指したらどうだとも思うが、とりあえずそう言うコトがしたかったのだけは理解した」
  うん、とボクは頷いた。
  それだけ理解してもらえれば、いいんだ。
 「それと、さびしがりやのキミのために」
  乾杯、とグラスを差し向ける。
 「は?……俺?」
  言うとシラスは金の瞳をまん丸にして、ボクを見た。
  そうしてると、まるでネコみたいに見えるときがある。
 「そう。こうしてふたりで桜を見たら、もうひとりぼっちじゃないでしょ?」
  呆気にとられた顔をしている。
  そんな姿が小気味よくて、ボクは酔いに任せてシラスに寄りかかった。
 「ね?ひとりじゃないよね」
 「……レイディ?」
 「喜べ。ボクがずっと一緒にいてあげよう」
 「どうせならボンキュバーンなおネェちゃんに言われてぇな……」
 「ちょっと!」
  喚くとそのまま、シラスがぐい、とボクの体を引き寄せた。
  もともとヤツに寄っかかっていたボクは、あっけなくシラスの胸元に抱え込まれた。
  無駄に高いシラスの体温が、シャツ一枚を通して伝わってくる。
 「な、なん」
 「可愛いこと言ってくれるじゃねぇか」
  こいつめ、とか言いながらシラスはぐしゃぐしゃとボクの頭を撫ぜた。
  小さいときから大好きな大きな手だ。
  髪の毛がぐちゃぐちゃになるからやめてよね、といつものようにボクは言いかけたんだけど、それがあまりに気持ちいいので、そのまま、されるままにしておいた。
  ぬくぬくと人肌(や、この場合魔肌?)も気持ちいい。
  シラスが耳元でぼそぼそと何か言ってる気もしたけど、アルコールの完全に回った頭には、もはや届きはしなかった。
  ああ、もうなんか目の前がちかちかしてきた……。

                    *
  そのままボクは風流も風情もなく、ぐうぐうとシラスに寄りかかったまま眠ってしまった。
  らしい。
  らしい、と言うのは、ボクはさっぱりそのあたりのことを覚えてなかったからである。
  次の日二日酔いドン底のベッドの中で、ボクは本気で酒を絶とうと心に決めた。
  決して守れそうにもない誓いを。

  シラスが最後になんて囁いていたのかを、ボクは知らない。
  そうして日常は穏やかに過ぎてゆく。


僧侶と魔物にモドル
最終更新:2011年07月28日 07:23