*
がつと後頭部をいきなりなぐられた感覚があった。痛みもなく、どちらかというと不意にたたかれた衝撃でしかなかったけれど、俺はおどろいてまじろぎ、宙に泳がせていた視線を戻す、目の前に少年が立っていることを知った。
「おい、」
さっきから何度も呼んでいるだろ。返事ぐらいしろ。
むすとふてくされた様子、ああこれは心底めんどうくさいと思っている顔だった。こいつはいったいなんだろう、俺は目の前の子供を眺める。子供、という型枠にはめるにはずいぶん大人びているけれど、おとなの仲間に入れるにはすこし早い。せいぜい十三、四ほどじゃあないかと思った。ひょろとした、あまり肉付きのよくない少年だった。顔色も青白い。
たいした食事をしていないのだろうか、そんなことを思いながら俺は反射的にすまないと謝る。呟こうとして、俺はせんからずいぶん黙ったままだったらしく、発声はみっともなくかすれていた。
ここはどこだったろうか、と思う。
「なあ、」
「……なんだよ。」
「ここはどこだ?」
俺がたずねると、なんだ、と言った先からいやあな顔をしていた少年が、俺が聞いた途端、鼻に皺をよせ、くっそ、と嘆息と倦怠を同時に吐きだして、いい加減にしろよとぼやいた。
「あんたさあ、それ、今日何回きいてると思ってる?」
「……さあ、」
そんなに俺は聞いたのだろうか。名前も知らない少年と口をきくのは、今がはじめてだと俺は思っていた。首をひねる。
「何回かな。」
「今のでもう十六回目だよ。いい加減、聞かれる俺の身にもなれよ。」
「そうだったかな。」
十六回。俺はそんなにこの少年と話をまじえたのだろうか。それにしては名前も知らないのはおかしいような気がするが、そんな風に思った。だいたい、少年がどうしていやな顔をして側にいるのか、はなから意味が判らない。せんだって俺の頭を叩いたのは、彼だと思うけれど確信はなかった。
「お前の名前は何という?」
「……十六回。」
ますます嫌悪をむき出しにして、少年が吐き棄てた。
「え?」
そんな猿のように顔に皺をよせていやがらなくても、そんな風に思う。だいたい初対面の人間に、無愛想ならいざ知らず、そこまで敵意をむけても好転するためしはないんじゃあないか、言いかけて、しかし十六回と少年がこたえた言葉を思い出す。だとすると俺と目の前の彼は、初対面と言うわけではないのか。
「悪いがおぼえていないんだ。もう一度教えてくれないか。」
俺は頭をさげた。おぼえていないのだからしようがない。十六回も聞いたなんて嘘だと思った。きっとからかっているんだろう。それだけ聞いたら、いやでもおぼえるにきまっている。
エンリコだよ、少年は言って手の甲をさし示す。言われるままにつられてのぞいて、莫迦、俺のじゃあない、自分のを見ろと舌打ちされ、俺はおのれの手の甲を見た。エンリコ、少年の名前。そんな風に書いてあった。神経質なボールペンの文字。俺のものだろうか、少年のものだろうか。
「聞く前に見ろって言っただろ。」
「……そうか、」
俺はあいまいに頷いた。少年の言った言葉、見ろと言っただろ。――言われたのだろうか?言われた記憶は俺にはない。そうか、エンリコというのか。はじめて聞いたと俺は思った。
それよりずいぶん眠い、どうにも話してる最中から、そのままうたた寝ができてしまいそうだ。うつらうつらというには強すぎる、気を抜くとがくんと首が垂れてしまいそうだった。焦点の合わない俺に気がついたのか、おい、そう言って少年が俺を足で小突いた。
「うん、……?」
「だから寝るなよ。」
寝たらまたあんたボケるじゃないか。十七回目をくりかえしたいのか?
さっぱり意味が判らず、俺は首をかしげる。傾げた拍子にがくんと頭が落ち、寝かけた。ようようのところでこらえ、また手の甲に目が行って、少年の名前のほかに、場所、と大きくペンで書きこんであるのが読めた。
場所、フェルディナントルークス孤児院。
「……ここは、」
「あ?」
「ここは孤児院なのか。」
そうすると、この目の前の少年も、この院で生活する子供のひとりなのだろうか。そうかもしれない、痩せぎすの体、きっとそうなのだろう、けれどここが孤児院であると言うことが判ったことと、少年が苛立ちながら俺とともにいるのかということの関連性が、まったく俺にはつなげられない。
解決になっていない。
ここが書いてあるとおりに孤児院だとしても、どうして俺はそんな場所にいるのだろう。俺はおのれの体を見おろす。おとなだった。救貧院や救済院ならともかくとして、おとなを預かる孤児院なんて聞いたことがない。だとすると俺は職員なのだろうか。
職員だった気もしないのだが。投げだしていた体が妙にすうすう寒い気がして、俺は膝を抱え、あたためようとした。しかしやけに眠い。
「おい。」
がつ、と先と同じように頭を叩かれて、しかしくらべるとだいぶん力が込められているようにも思った。見やると本気で辟易しているのがうかがえる。そんなに俺の側にいるのがいやなのなら、とっととどこか行ってしまえばいいのに、そうすれば俺も寝ることができるのに。水の中で会話しているように音が遠い。
「お兄ちゃん!」
叩かれたはずみで俺が前へのめり、同時にすこし離れた場所からとがめる声がした。子供の声だ。おさない声だったけれど、厳しい叱責だった。
俺は前へのめったそのまま寝てしまおうかとも思ったけれど、また頭を叩かれるのもいやだった。結局のろのろと視線を動かし、声のした方へ目をやる。眠い。
目をやると七つほどの子供が、驚きが半分、怒りが半分、きついまなざしで、俺と、俺の近くに立つ少年へ向けられていた。司教さまをいじめたらだめって言っているでしょう、興奮で目をぎらぎらさせながらこちらへやってくる。
「どうして、すぐ乱暴するの。」
「だってこいつすぐ寝るし、何もおぼえてないし……莫迦なんだ。」
「司教さまはご病気なのよ。」
唖然というよりはただぼうとなって二人を見比べる俺の前で、チビのほうが腰に手をあて、兄と呼んだ少年を睨んだ。甲に書かれてあったとおりここが孤児院で、そうしてエンリコと言った少年と、その妹らしいチビがここに立っていると言うことは、そうか、この兄妹はふたりとも親に捨てられたのだなと、俺は目の前の言い合いをよそに、そんなことを思っていた。ふたりともきれいな栗色の髪をみじかく切り揃えている。触れたら、やわらかそうだった。
しばらく間が悪そうに睨み返していた少年が、判ったよと折れた。どのあたりで勝敗が決まったのか判らないが、妹の剣幕勝ち、とでもいうやつだろうか。司教さま。だいじょうぶ?一転して心配気な顔になり、チビが俺をのぞきこむ。
「ああ……うん、」
俺は手の甲をたしかめて、彼女の名前が書かれていないことを見る、きっと初対面にちがいないとは思ったけれど、あのエンリコ少年とのやりとりを慮るに、もしかすると俺が彼女に名をたずねるのも十数度めなのかもしれなかった。
「名前。」
「え?」
「お前の名前は、」
「……もう忘れてしまったの。」
たずねると、俺におぼえはないけれど、やはり聞いたことがあったようだった。彼女が悲しそうな顔になる。
「悪いな。どうも、頭がすっきりしなくて。」
俺は慌てて言った。どうにもちびは泣きそうに思ったからだ。子供が泣くのは苦手だ。泣き声が苦手と言うよりは、たとえば泣かれたとして、その機嫌をどうしてとったらよいのかが判らなくて、弱るのだ。
「エレナよ、司教さま。」
「エレナ。……コンスタンティヌス帝の母親と同じ名だな。」
聖釘につけられた名前と同じ。ふと思い当たり呟くと、エレナと言ったチビがおかしそうに笑った。よかった、笑った。泣かれずにすんだことで俺はほっとする。
「司教さまは、わたしの名前を聞くと、いつもそればっかり言う。」
そうなのか、そんなに何度も、俺はくり返しているのだろうか。判らない。茫洋とした記憶へ手さぐりしようと腕を突っ込んでみても、なにもつかめないのだ。
聖釘つながりで思いだす、そういえば彼女は俺のことを、ためらいもなく司教と呼んだな。では俺は司教だったのだろうか。俺は、自分の名前すらもよく判らないでこうして膝を抱えている。
「なあ、」
俺は言った。手さぐりしている俺が、ゆいいつ、なんとか離さずににぎっている、たったひとつの名前があった。
「アンデルセンって、誰だか、知っているか?」
司教さまは何度かここに来たことがあるのよ。
言われて俺はうとうととしながら、そうかと頷いて見せた。先ごろから子供がひとり、俺の周りにまとわりついて、あっちへ行けと態度でしめしてもまったく離れようとしないのだ。ひどく眠かった。さすがに傍らで話しかける子供をさしおき、寝てしまうのはいけない気がして、俺は何とか目を開けてあたりを眺める。
いつの間にか子供と俺は手を繋いでいた。どうやらなつかれているようだった。
何度かここに来たことがある、そんな風にひとまじろぎ前、彼女は言った。何度か。では俺は、とくだんここに住んでいるわけではなくて、どこか別の場所、別の時間で毎日を暮しているのだろうか。たまさかここへ、気が向いてやってきただけで、……しかし「ここ」とはどこのことだろう。
「ここはどこなんだろう。」
俺が言う。俺の口が勝手に動く。
「裏庭?」
「そうじゃなくて――……その、」
「ああ、ここはフェルディナントルークス孤児院って言うのよ。」
「孤児院。」
ふうんと俺は頷いた。ぼやぼやとした日差しが眩しくて、目をつぶったら一瞬意識を持っていかれそうになった。だいじょうぶ?子供が俺を見上げている。どうやらすこしぐらついたようだった。
「大丈夫、なんともない。」
「司教さまは、ご病気なのですって。」
「そう、」
先から彼女が俺のことを司教と口にしていたから、この場合病気であるのは俺の、俺自身のことなのだろうなと俺は鈍りきった思考を働かせて理解した。病気、そうか、俺は別にどこが痛いだとか自覚はないけれど、滅多矢鱈に眠いのは、病気とやらのせいなのだろうか。だったら納得がいく、こうして手のひらに掬った砂がさらさらとこぼれてゆくにも似たような、あいまいな俺の、
「おぼえたことを、すぐ忘れてしまうの。」
何度も、何度も、同じことを聞くのよ。彼女に言われて俺はすこし面食らう、そうだろか、俺は何度も同じようなことを聞いたか?
「マルコ神父さまから、面倒見てくださいねっていいつけられたのはお兄ちゃんなのに、お兄ちゃん、いやがってすぐどこかに行ってしまう。」
「いやがる……、」
いやがることは当然だろう。俺は思う。病人の世話は誰だっていやなものだ。好んで名乗りを上げるものはそうそういない。
俺は別にそれを悪いことだとは思わない、目の前で幽鬼のような黄色味をおびた青い顔をして、枯れ枝のような腕、骨と筋の、肉はどこへ行った?一日一日動けなくなってゆく姿を見るよりは、そこから目を逸らし、見たいものだけを見ているほうがずっと気分はいいし、思い悩まなくてすむ。苦しい思いをして笑ってみせる、涙をこらえろ。誰かは言う。
無茶なこと言う。こらえて、こらえ切れるものなら、とうにどこかで堪えられているのだ、堪え切れないから、もうどうしようもなくかなしいから、水分が体の奥からにじみ出てくると言うのに、流すことは禁忌にひとしかった。
「お前は?」
俺は隣に立つ子供を見おろし聞いてみる、そういえばこの子の名はなんというのだったかと、まだ名前を聞いてもいないような関係だったなと思った。
「わたし?」
「お前も、俺の世話をするのは面倒くさいだろうに。」
「どうして?」
どうしてそんな風に思うの。じっと彼女は俺を見上げて問うてくる。どうしてだろうなと俺はうつろに返していた。ごめんな、お前の親切を疑うわけじゃあなかったんだ。ただどうも、疑ってかかるくせのようなものが俺にはあって、どうしたってそいつが顔をだしてならないんだよ。
「わたし、司教さまのこと好きよ。」
つないだ手へきゅっと力をこめて、彼女が真面目な顔をして言った。好きよ。素直に言いきってしまう彼女の純粋さが、俺にはうらやましいと思う。
「司教さまはとてもきれいだもの。」
「俺が、きれい……、」
そうか、俺はきれいに見えるのか。彼女の瞳孔に俺は突き刺さり水晶体と硝子体を通り、網膜に焼き付いて視神経から脳髄に向かう、そうしてお前の中で俺はきれいになるのか。
言われた通りくりかえして、それから先ほどからこうしてものを考えている「俺」というもの、名前も知らないこの体の持ち主は何なのだろうなとふと思う。
「アンデルセンって、誰だか、知っているか?」
ずっと気になっている欠片、俺が俺というものをたいして認識していないにもかかわらず、その欠片だけが燦然と輝いて俺が目を逸らすことをゆるさない、だったらきっと俺の名前だろうと思った。
「俺の名前かな。」
「違うわ。司教さまは、エンリコ・マクスウェルっていうのだって。」
「エンリコ、」
俺はまったく聞き覚えがない名前に首をひねる。俺はそんな名前だったのだろうか。
「そう。わたしのお兄ちゃんと一緒。だから余計にお兄ちゃんはいやがるの。」
それはそうかもしれない。おのれと同じ名前の人間が、うすらぼけっとしていて、要領を得ないばかりだったらいやにもなるだろう。けれどどうにか許してほしいものだと思う、俺はなにしろ病気なのだった、名も知らぬ、症状すらも判らぬ病気に俺はおかされているらしいのだった。
そうして俺の中にあるこのアンデルセンと言う名前、これほど俺にきつく食い込む欠片、俺はどうしてこの名前だけ、手ばなさずに握りしめているのだろうと思う。
部屋にはこばれた木製のトレイを前に俺は祈り、それからトレイの上の食事へ手を伸ばす。食事はパンとスゥプとすこしの野菜、つつましやかなものだった。両脇で同じように目をつむり、祈りをささげていた兄妹が、かくあれかしと呟き食べはじめる。
部屋にいるのは俺と、そのふたりの、あわせて三人だけだった。
名前が何だったかだとか、ここはどこだったとか、そういうことは聞いた端から忘れてゆくのに、食事の前に祈る、三度歯を磨く、ペンを手に持つと指で回す、そうした染みついた記憶と言うやつは、なかなか忘れるものでもないらしい。人間の体とは不思議なものだと思った。
そうしてほとんど食欲がないことに気付く。食べるよりもまず眠ってしまいたかった。いっそちいさい子供がするように、不意にネジが切れてばたんとひっくり返ってしまいたいと思うが、今は食事中で、食事の最中に寝るだなんていけないことだ。駄目ですよと誰かにさとされてしまう、誰にさとされるのだったか?わからない。
だから俺はしかたなく味のしないスポンジのように感じられるそれを、無理矢理飲みこんだ。
「おい、ぼろぼろこぼすなって。」
ぼんやりと口元にパンをはこんでいる俺を見て、右脇の少年が肘で小突く。
「……お兄ちゃん。」
目ざとくチビが動作を見咎めて、それでますます少年がいやな顔になった。
「だってこいつ、おとなのくせに、食べ方が汚いんだよ。」
「言ったでしょう。司教さまはご病気なの。しようがないのよ。」
「しようがない話なんてあるもんか。幼年部のガキどもだって、こいつより行儀よく食べる。」
言われて俺は、おのれの手もとやら膝上やら、あちらこちらにパン屑を散らしながら食べていることに気がついた。きれいに食べているつもりだったのだけれど、どうも、うまくいかないようだ。
すまないな。謝った方がいいのだろうと判断し、俺がそう口にすると、苛ついていた少年の顔が侮蔑に歪み、ドス黒く変化する。
「謝るな。……謝るな!おとななんだから、おとなのくせに、そんな簡単に謝るなよ!」
どうして少年が急に怒りだしたのか、どこに怒らせるスイッチがあったのか、俺は判らずびっくりとする、けれど驚いたのは一瞬で、すぐに眠くなった。眠い。この、俺に向かってどなっている少年、たぶん俺が気にくわないだけじゃあない、俺をふくめた周りのなにもかもが思い通りにならず、苛立って苛立って、感情をもてあましているのだ、しかしこの少年の名前は何というのだろう。
席を立ち、部屋から駆けだしていってしまう名も知らぬ少年を、俺はぼうとしたまま見送り、それから下を眺めて、そんなに汚い様子だったかなと散らかしたパン屑を手で払った。
「ごめんね。司教さま、ごめんね。」
左脇にいたチビ、名前――わからない、七つほどの女の子供、飛びだしていった少年のことを兄と呼んでいたのできっと妹なのだろう、彼女が俺を見てそう言う。名前をたずねようとも思ったけれど、知っても、知らなくても、同じような気がしたので、俺はただうん、とこたえるにとどめた。
「気にしていないよ。」
「司教さまが悪いんじゃあないの。お兄ちゃん、このところ、ずっとおかしいの。このあいだ、神学校の先生が来て、お兄ちゃんに君なら飛び級できるよって言ったの。ここにいるよりもっと勉強できるよって。」
「飛び級。成績が優秀なんだな。」
「……うん。お兄ちゃん、ここにきてからずっと、ご本ばっかり読んでいたから。」
ずっと図書室にこもりきり、本ばかり読んでいた。窓の外から聞こえてくる、広場で遊ぶ同学年のはしゃぎ声、耳をふさぎ手元の文字へ目を落とす。誰とも馴染まず、誰にも馴染めず、ひとりきりでいることをもてあまして、もてあましているおのれに気が付きたくなくて、ひたすら逃げるように知識をつめ込んだ。つめ込んでいるあいだはなにも考えなくていい。つめ込んでいるあいだは、満たされているような気持になる。
判るような気がするよと俺は言った。そんな誰かの記憶が俺の中にもあった。
「でも、神学校に編入するには、ここを出て行かなくっちゃあならないの。学校には寮があるから、そこにはお友達もいるし、ご飯も、寝るところも、全部用意してあるからって。ここのお食事より、ずっといいものが食べられるよって。お兄ちゃん、行きますって言ったの。ちょうどよかったって。出ていきたいと思っていたんですって言って、でもそれから様子が変になって。」
能弁ではなかった口数が、ますます少なくなった。ひとりでいる時間が前よりも増えた。誰とも交わりを避けて、そのくせ、物陰から、仲間が遊んでいるのをじっと眺めて、
「さびしいんだろうな。」
俺は言った。え、と横のチビが俺を見上げる。
「でもお兄ちゃん、こんなところ出ていけることになって、せいせいするって言ってたよ。」
「さびしいんだ。」
眠いなあ。俺はゆるゆると首を振った。出ていきたくはなかった。一緒にいたかった。ここにいてはいけませんか。言いたかった人がいた。一度でいい、抱きしめてほしいひとがいた。誰よりも強く思い、誰よりも強く願い、誰にも言えずにそれらすべてを、なかったことにした子供がいた。
誰のことだったのか、俺は知らない。
「さわっても、いい。」
おずおずと俺を見て、七つほどの子供が俺の脇に立っていた。なんのことだ、言いかけて、彼女の視線が真っ直ぐに俺の頭へ向かっていることに気が付く。期待にきらきら輝いている。そうか、このチビは、俺の髪の毛を触ってみたいのか。応とこたえて、俺は手近のベンチへ腰を下ろす。
どういうわけか、俺の髪はずいぶん長いのだ。
腰を下ろした俺の横に立て膝になり、早速指をからめ、三つ編みだか四つ編みだかはりきりはじめたチビへ、そう言えばお前の名前はなんていうんだと俺はたずねた。
不意に話しかけられて、俺はチビの名前すら知らないのだ。
「エレナよ、司教さま。」
「エレナか。いい名前だ。コンスタンティヌス帝の、」
「お母さまと同じ名前なのよね。おぼえたわ。」
なにがおかしいのか、くすくすと笑いながらエレナは言った。そうだ、同じ名前だ。エレナの聖釘。お前、そんなちいさいなりをしているのに、よく知っていたな。聖書をたくさん勉強しているんだな。感心なことだ。聖書と言えば、いまお前は俺のことを司教と呼んでいたな。俺は司教だったのだろうか。
そうして、ここはどこだ。
「なあ、」
俺は言った。なあに、とわりと真剣な顔で髪のあいだへ今度はリボンを編み込みながら、エレナがいらえる。
「アンデルセンって、誰だか、知っているか?」
一面の靄だった。アガーチナアスの膜がかかる俺の頭の中で、そこだけわずかに明瞭な空間があった。なんだったろう、ひとの名前だと言うことは判るのだけれど。手を伸ばせば届きそうな気がした。このチビの、エレナの、姓だったろうか、そうかもしれない。よくある名前じゃあないか。だから俺はどこかで聞いたことがあるような気がしていた、しかしチビの名前を聞いたのは今がはじめてだった。だから、彼女の姓だけ先に知っていたとも思えなかった。
それよりここはどこだろう。こうして座っているベンチが、公園のものとも思えないけれど、
「アンデルセンは、神父さまのお名前よ。」
「神父、」
「そう。ここの孤児院の先生のひとりなの。」
ここは孤児院だったのか。なるほど、どうりでエレナが妙になつっこく俺にまとわりついてくるわけだ。俺は納得する。
孤児院にいる子供はみな、誰でもいい、関心を欲しがる。誰かの「特別」がほしいのだ。どうしたってみたされない感情、抱くだけ無駄で、期待が大きい分あとにやってくる落胆ははかり知れないものがあるのだけれど、それでも。もしかしたら。そうしていつも、愛されたい思いをひた隠す。
司教、と俺は呼ばれた。だとすると俺も、孤児院へ勤める職員のひとりなのだろうか。それにしてはなんというか、子供慣れしていないような気もするけれど、仕事に慣れるも慣れないも、ほんとうはないものなのかもしれない。
エレナ、と俺は俺の髪をいじるチビに向けて呼びかける。なあにと彼女は言った。
「その、アンデルセン神父さまはどこにいらっしゃるのかな。」
「いまは、いないの。」
俺の中に巣食っている名前、気になってしようがない欠片、だったら、顔を見てみたら、もしかしたら何かきっかけがあるかもしれない。孤児院の教誨師であるなら、探せばすぐに会えるだろう、そう思った俺の考えはあっさりと首をふられ否定される。
「いない?」
「どこかにお出かけしていらっしゃるのよ。前からときどき、そうしてお出かけして帰ってこないの。」
「何日ぐらい。」
「判らない。次の日にお戻りになることもあるし、ずうっと長いあいだ帰ってこないこともあるから。もうすぐ帰ってくるって、ロナウド神父さまはおっしゃっていたけれど、もう二週間以上神父さまは帰ってこない。」
「二週間、」
それはずいぶん長い出張なのだなと俺は思った。孤児院へ勤める教誨師の仕事内容を把握しているわけではないが、それほど長い出張がはたしてあるものかどうか、それに二週間、という単位をまだちいさいエレナが、知っていたことも驚きだった。
「だって。司教さまがここにきてから二週間たつのよ。」
だから覚えてしまった。言って子供が笑う。二週間。俺はそんなに長い間、孤児院で暮らしているのだろうか?どうなのだろう、つい今先ほど来たばかりの気がしたけれど、彼女が言うのだからそうなのかもしれなかった。
できた、そう言ってエレナが俺からすこし離れ、満足そうに上から下を見回す。編み込んでいた髪がうまい具合に行ったらしい。お姫さまみたい。うれしそうに彼女が言った。せめて王子になりたいものだが、そんなことを思う俺の隣は、チビが離れた分だけ空間があいて、どうにもうすら寒かった。
「お花がほしいなあ。」
エレナが呟く。ひどく残念そうな、思わせぶりな口調だったので、どういう意味か俺はたずねる。
「司教さまに花冠をプレゼントしたこと、おぼえて……ない、よ、ね?」
「俺に?」
「そう。」
花冠。そんなことがあったろうか。たしかめるようにたずねられて、期待通り俺はおぼえていなかった。
「去年だったかなあ。秋に、一緒にお散歩したの。テヴェレ川のへりにまで行って、お花を摘んで花輪をつくったわ。大きな、ぴんぴんはねた赤い花がとてもたくさん咲いていて、きっと司教さまの髪の色にあうと思ったの。」
「赤い花、」
眉をひそめて俺は記憶を手さぐる。赤い花冠。被ったことすらおぼえていなかった。ただ、色が赤なら、その花冠の意味は殉教だろうなとそんなことを思う。花言葉も、色味のことも俺はさっぱり知らないけれど、誰かが、そんな風に言ったような気がした。
「でも、あとから怒られちゃった。毒の花だって。」
「俺が?」
花の名前のひとつも知らない俺が、この花は毒だとか、毒でないとか、そこまで詳しいものだろうか。けれど彼女に注意したのだったら、俺はどこかで知っていたことになる。
「そう。かぶれたりしちゃいけないだろうって司教さまは言って、服の袖でわたしの手をぬぐったのよ。」
続けるエレナの声をどこか遠くに聞きながら、眠気が急速に足元から這い寄るのが判った。眠気は寒さとも似ていた。ああ、子供が俺から離れるから。視界が明滅する。赤と、黒と、くりかえされる世界。
うまく座っていることができなくなって、俺はずるずると上体を滑らせ、ベンチの下へ崩れ落ちた。司教さま。驚いた子供の声が耳元に聞こえる。
川べりに俺はいた。どうしてこんなところにひとりで立っているのか、自分でもよく判らなかった。なにかを探しに来たのだっけ、俺は思い、そうだ花を探しに来たのだ、もうだいぶ薄暗くなって見えない足もとを見回し、不意に思いだす。
だが、どうして俺は花をさがしにやってきたのだろう。
冬枯れの、とてもじゃあないがコートもなしにはいられないような、寒風吹きすさぶ土手をくだって、俺は探している、必死になって目を凝らして、あたりを眺めている。花?こんな時期になにが咲いていると言うのか。なにもかも枯れはてて土手の上にも下にも何もない、やってくる前からもうせん判っていたことだった。
せいぜい息をしているのは、短く刈られちょぼちょぼと生えている先のとがった雑草くらいのもので、それすらほとんど褐色に色を変えている。いまは冬だ、花の咲く時期じゃあないのだ。お花がほしいなあ。誰かの声が頭の中でくり返し、くり返し、こだました。
そんなに欲しがっているのだったら、見せてやればよろこぶのじゃあないか。軽い気持ちだった。だが、どうにもこの土手には見つかりそうにもない。手っ取り早く花屋にでも駆けこんでしまえば良かったのかもしれないが、あいにく、まるで持ちあわせがなかった。
寒かった。
シャツ一枚でこんなところに立っているなんて、風邪をひきたくているようなものだった。羽織るものがあればよいと思ったが、どこにも上着が見当たらなかったのだ。それに、俺はどうして財布を持っていないのだろう。ここまで歩いてやってきたけれど、帰りも同じ距離を歩くのかと思うとすこしうんざりとなった。手持ちがないと言う人間だって、それでもすこしは懐にしのばせているものじゃあないだろうか。まったくのすっからかん、大のおとなが着のみ着のまま、ほかになにも持っていないと言うのも、どうにもおかしな気がした。
それが俺だった。
強弱つけてふきあたる風に、だらだらと伸びた俺の髪がもつれる。ああせっかく編んでもらったのにもうだめになってしまった。編んでもらったのだ、だが誰に?
そうしているうちにますますあたりは暗くなる、たとえばいま誰かが隣にいたとして、その輪郭すら見えない。暗い水辺。川面を唐突にのぞき込んでみたくなって、俺はゆっくりと川縁に近付く。暗くてなにも見えないことは判っていた。だのにのぞいたら、なにか見えるような気がした。
近付く中途で背後からおい、と胴間声がかけられた。ずいぶんと不明瞭な、酔っぱらったにもほどがある、だみ声。がさがさと下生えを踏み分け近付く音がする。数人分。
声をかけられた手前振り向いてみたが、どうにも暗いのだ、そうして俺はえらく眠かった。近付いてやってくる声にも仕草にも、見覚えのあるものはなかったから、きっと知らない人間なのだろう。
たちまち周りを取り囲まれて、兄ちゃん、なにをしているんだ、そんな風に言われた。
「溺死したいのなら、遠慮するな、俺たちが突き落としてやろうか。だがその前に、ちっと酒代を貸してくれないか。」
酒代。近付いた男たちから発せられる、饐えたにおい。ろくでもない底辺の人間のにおい。これは俗に言う、恐喝行為というやつなのだろうな。
三人、もしくは四人いる人間のかたちの影を見ながら俺はぼんやりと思う。それから、黙っているのも悪い気がしたので、あいにく持ちあわせはないよと言った。
ああああ。俺のこたえを聞いて、囲んだ男たちが実にいやらしそうに、実にうれしそうに笑うのだった。おう、おうと肩を叩かれ、勢いに俺はよろけた。
わかってる、わかってる。俺たちが頼むと、みんなそんな風に言うんだ。そう言って、言い逃れようとするんだ。なに、返さないってわけじゃあない。貸してくれ、そう言ってるだけなんだ。かならず返す、そのうちかならず返すよ。いま、俺たちが楽しめるだけ、たあんと飲めるだけ置いて行ってくれりゃあそれでいいんだ。な?……だからとっとと命が惜しけりゃ金を出しやがれ。
「だから、」
そんなにちいさな声で呟いたわけではなかった、俺の声が聞こえなかったのだろうか。不思議に思い、持ちあわせはないよと俺はもう一度言った。
言うと同時に、前のめる。囲んだ男のひとりが、俺の腹に一撃叩きこんだのだ。ぐう、と勝手に喉が鳴って、俺は体をふたつに折り、はげしく噎せた。
それが合図だった、たちまち数人の男の拳や、蹴りや、手にした酒瓶に俺はがつがつと殴られ、打ち倒され、倒れたところを胸倉を、髪を、つかまれ引き上げられてまた殴られた。どうして殴られるのかさっぱり意味が判らなかった。持ち合わせがまるでないから、そのままないとこたえたのに、そのこたえがこいつらは気にくわないのだ。
気が狂っている、そうなのかもしれない。頭がおかしいと誰かに言われた気がする。だったらご同輩じゃあないか。そんな風にも思う。頭のおかしい俺が、頭のおかしいやつらに殴り蹴り殺されたとしても、同類相憐れむ、しかたのないことのように思えた。
俺は逃げることもままならず、あちこちを殴打され、ひたすらに立ち上げられてはうずくまった。加減を越えて殺されるのと、やつらが虐め飽きてどこかへいってしまうのと、どちらが先かなと思った。もしかすると、こういうときに、ひとは祈るのではないか、袋叩きの真っ最中だというのにしごく真っ当な考えが脳裏に浮かぶ。そうなのだろう、頭を庇いながら俺は思った。だが俺には、祈る神の名前が見当たらない。
俺は知っていた、困窮しきって神の名を口にしても、神は決して手を差しのべるわけじゃあない、誰かの言う、神は汝が試練に打ち克てる強さをお与えになった。祈りとは、痛みから逃れられるよう、おそろしさから逃れられるようになるものじゃあないと、教えられた。痛みに、おそろしさに、耐えうることができる強さを与えよとただ無心になることなのだと教えられた。だからこんなところで神の名を何億回叫んだところで、一片の慈悲すらむけてなんざくれない。お笑い草だ。耐えることができそうにないから、どうにかしてくれと祈っているのに、耐えろと言う。
たったひとつ、すがるように俺が抱えている名前があった。たぶん俺の名前じゃあない。誰の名前だか判らない。どうしたってだめなとき、もう前にも後ろにも進めず、進むことができず、最後の最後の瞬間になったらすがってもよいと思える名前があった。俺の唇はその名前を呟こうとし、だがまだだ、と思いとどまる。まだだ。こんなところで呼んでいいような名前じゃあない。俺はまだ進退窮まってなんかいない、俺がもうそれしかなくなって、本当の本当に、いままでの建前や体裁やら、そのほかいろんなものをみんな捨ててすがる名前、それを呼ぶのはいまじゃあない。そう思うととても口に出せなくなった。
そうして、同じようなことを、最近俺はくり返し思ったような気もした。どこでだったろう。そもそもここがどこだかすら、俺は判っていないのだ。どこかの土手。どこかの川辺。どこかの部屋。くり返し。……いい加減吐けよ、まだお薬がたりないか?あんたが……の局長だってことは、こっちにゃあもう判ってるんだよ。筒ヌケてんだよ。素知らぬふりしたって……ああ、もうそんな余裕はねェなあ、だいぶいい顔するようになってきたじゃあねェか。だったら全部吐いちまえよ。殺すって言ってんじゃねェんだ。ただほんのちょっと、……の情報を口にするだけでいいんだ。それであんたは解放される。もういい加減キツいだろ?なあ、これ以上薬を入れるとどうなるか、こっちだって判らねェぞ。こんなに入れたためしがなかったんだ。だいたいのやつは二、三本でゲロしたからな。あんた、もう十を超えてるんだぜ?そんな後生大事に……に尽くしてどうするよ?……は、あんたのことなんか、助けちゃくれねェぞ。
助けてほしい、そんな風に俺は思わなかった。ただ早く来いと念じただけだった。なにをしている、なにをぼんやりとしている、俺の居場所が掴めない?別の場所に派遣されていて連絡が遅れている?知ったことか、貴様は、真っ直ぐに俺のところへ来るべきで、そうでなくてはならなかった。銃剣。きっと来る、来るに決まっている、向けられるべき、はなたれるべき刃。刃の名前は何と言ったろう?
「――司教さま!」
絶叫にも似た声がひびいて、俺の意識は唐突にうつつへと戻される、がむしゃらに破落戸どもへ突っ込み、決死の覚悟で暴れる細い体、それはひとりの少年だった。
俺は憮然としてそのさまを見る。やめておけ、お前一人じゃあどうにもならない。加勢しようとして、まったく膝に力が入らないことに気が付く、これではまるで腰を抜かしているようで、どうにもみっともよくない、不意を衝かれた男たちは、瞬間ひるみ、それから土手の上でけたたましく鳴る警笛に気が付いたようだった。
ちっ。舌打つ、脳の芯まで酔いのまわりきったやつらでも、状況をまずいと判断する力はあったようだった。命拾いしやがったな、捨て台詞は俺へ向けたものか、それとも加勢に飛び込んだ無茶な少年へ向けられたものか。慣れた動きで目配せし合い、体をひるがえし、すぐに姿は見えなくなった。うまい具合に逃げるものだ。背をながめ俺は感心する。
「おい!」
ぼうと闇をとおして眺めていた俺の目の前に膝を着き、細い影が俺をのぞきこむ。
「あんた、だいじょうぶか?生きてるか?!」
「お兄ちゃん!」
土手の上から転がるようにちいさな影が降りてきて、勢い俺の体にどんとぶつかる。子供だった。子供はぶつかり、そのまま俺に両腕をまわしてしがみつき泣きじゃくる。
「ごめんね。司教さま、ごめんね。わたしが、お花なんて言ったから。ごめんね。」
ずいぶんちいさな体だった。おそらく彼女が警笛を鳴らしたのだ。警察の姿はない。だいたい、酔っ払い同士の喧嘩に出動してくれるほど、親身なものでもないように思う。
花、俺は呟いて、そうか、彼女が花をほしいと言ったのかとそこではじめて合点がいった。誰がほしがっていたのか判らず、どうにもすっきりとしないところだったのだ、彼女が花冠をつくりたがって、そうして俺は土手にやってきたのだ。
しがみつく体を抱き返してやる。そうしてこの子供、子供が兄と呼んだ少年はいったいどこの誰かな、そんなことを俺は思った。少年に俺は助けられたらしい。機転の利く子供だと思う。司教さまと俺は呼ばれたようだったから、きっと教会の人間なのだろう。俺の名前は何だったかな。
「あんた、どうしてひとりでこんなところに来たんだ」
花、と俺が口をきいたことで、すこしは安心したのか、少年が俺をのぞきこんだまま、今度は詰問する口調になった。暗くて表情までうかがえないが、睨みつけるなりまで容易に想像できる。聞かれて俺は首をかしげた。切れた口の端が痛い。
「どうしてだろうか。」
「あんたおかしいんだよ。頭がいかれてるんだ。それを判れよ!」
少年が怒鳴る。そうか、やっぱり俺はおかしいのか。
反論する気も起きず、妙に感心して俺が頷くと、不意に伸ばしたてのひらで、少年は俺の胸倉を掴む。
「どうしてそこで頷くんだ。どうして怒らないんだ。あんたはそういうひとじゃあなかっただろ……!」
俺。俺の知らないところで、俺が忘れているところで、ほかの人間のなかでだけ、ひとり歩きしている俺。ぽかんとなって俺はまくしたてる少年の、顔があるだろうあたりを見る。眠いなと思った。
「あんた、いつも厭そうだった。孤児院へ顔を出すたび、チビどもにかこまれて、手を繋がれて、背中に乗られて髪の毛弄られていいようにされて、迷惑そのものの顔してた。どうして俺が、そんな風な顔をいつもしてた。傲然としていて、横柄で、不遜で、笑ってみせてるけど、ちっとも笑顔になんかなってやしなかった。俺は正直、あんたを見るたびにむかむかした。どうしてこのひとは厭なのに、好き好んで俺たちのところに来ているんだろうって、いつもいつも思ってた。」
そうか、そんなに嫌われていたのか。俺はゆっくりと首肯する、しながら、嫌っていたのはお前だったのかな、それとも俺だったのかな、判らなくなった。
「全然気にくわなかったけど、でも俺あんたがしてることだけは、純粋にすごいって思ってた。かくしたって無駄だよ、俺知ってたんだ。あんた、ヴァチカンの裏でいろいろ働いてるんだろ?あそこの卒業生で、成績が誰よりも良くて、神学校に飛び級して、そうして機関員になったって俺は知ってたんだ。」
「お兄ちゃん……?」
感情を吐露する少年に驚いた様子で涙も止まり、俺にしがみついていたチビが顔をあげ、怪訝な声をあげる。きっと今の俺と同じような気分に違いないと思う。
「先生に会いに来てるんじゃあないかって次に俺は思った。先生も機関員のひとりなんだろ。あのひと、うまく隠してるけど、前に一度、コートを汚して戻ってたの俺は見てた。夜中だったし、ほかの誰も見てなかったから、たぶんあの人は気付かなかったと思うけど、俺は眠れなくて、明かりもつけずに広間の隅にいた。息をひそめている俺の前をあの人は横切って行った。コートが濡れていて、過ぎた瞬間えらくひどいにおいがして、俺は先生が怪我でもしたのかって驚いて、部屋へ戻って着替える様子をこっそり覗いた。部屋の明かりに照らされた先生は真っ赤だった。着ている服も真っ赤だった。床に転がしたいくつかの物騒なものも全部染まってた。顔はよく判らなかったけど、しばらく先生は着替えたきりじっとしていた。俺は見つかっちゃまずいと思って部屋へ戻ったけど、そのときどういうわけか、俺は先生が孤児院にいるわけと、あんたがそこへやってくるわけがつながったような気がした。」
だから、胸倉を掴む力が強くなる。
「あんたはえらいんだって。先生をしたがえるほどえらくて、俺と同じ名前、俺を呼ぶときにかならず先生がちょっと不思議な顔をするから、だから俺は、あんたになってやろうってそう思った。あんたは俺の憧れだったんだ。俺はあんたみたいになりたかった。だのにそれを、なんであんた、こんなおかしい、」
言葉の最後は憤りと涙で切れ切れになって俺にはうまく聞き取れない。激昂する少年の名前は何と言ったろうか。吐きだす彼の言葉が、誰かをさしていることは理解したけれど、それが誰のことなのか俺はよく判らずにいた。眠かった。ただひたすらに眠かった。
腕を上げると、俺の意に反してそいつはうまく持ちあがる。あちこち傷んでどうしようもなかったけれど、骨が折れたりしたわけじゃあない、どうやら歩くことはできそうだった。
だからぽん、と俺は少年の肩に手を置く。なにかを期待し、顔をあげる少年へ俺はあいまいに笑って戻ろうか、と言った。
「もどろうか。ここは寒い。」
少年が悲鳴を飲みこむ。誰のために嘆いているのか。鐘が遠くで鳴った。
なおるのですよね、と必死で訴えかけている声があった。俺はぼんやりと意識が戻り、瞼を開けようとしている。開けようとする、瞼がまるで接着剤で貼りあわせたように重くて、固くて、瞼を開ける動作ただそれだけなのに、なんだか全身の力を使っているようなこころもちになった。糸で縫いあわせているんじゃあないか。縫いあわせたのは誰だ。
まったく、誰でもいい、鋏を持ってこい。
なんとか無理矢理目を開いてみても、結局上まぶたと下まぶたのあいだから見えたのは白色ばかりで、遠近どころか形すらはっきりしやがらない。それに閉じているときはまだ耐えられるように思った眠さが、開けると一気に激烈なものになった。畜生、視点はどこにある。
ぐらぐらする頭、焦る俺の頭の上あたり、いいやこれはドア越しの廊下だろうか?数人の人間がやり取りしていて、それが膜をとおした音になって俺におぼろに聞こえてくるのだった。片方が冷静に受け答え、片方が矢継ぎ早にあれこれ聞いているらしかった。何人いるのかは判らない、ぼそぼそとした話しぶりだった。誰のことを言っているのだろう、しかしやかましくて耳障りだった、できれば向こうのほうへ行ってくれるといいんだが。
なおるのですよね、聞いた側が悲鳴を押し殺した風で必死になっているのが手に取るように判った。なおりますよね?どれくらいのものなのですか、一時的なものなんでしょう、恢復するんでしょう、いったいどうしてこんなことに。
落ち着いてください、もう片側が淡々とした口ぶりでこたえた。こうしたやり取りになれている、なれきって飽き飽きしている、無感動まるだしの口調だった。落ち着いてください。記憶の混乱が多分に見られますが、これは一時的なものだと我々は判断しています。
ほんとうですね?すがる片側の口調に、実際俺が出くわした覚えはないが、こういう展開、こういう話し方、よくある病院でのひとコマに過ぎない。ドラマだの、映画だのでよく使われるんじゃあないだろうか。患者をかこんで、家族が医師に向かって質問を浴びせかける、主人は、主人の容体はどうなんですか。だとするとよく判らないけれどここは病院で、経過のよくない誰かが運ばれてきたのかもしれないなと俺は思った。運ばれてきたんだろう、そうして知らされた家族が慌てて駆けつける、煌々と蛍光灯の照る廊下、どこかうすら昏い光景で、医師の白衣がくすんで見える。
近くに病室でもあるのかもしれなかった。
つかわれた薬が悪かったんでね。こたえる側が医師にしてはずさんなもののように思った。けれど俺が知っている医師への知識と言うものは結局つくられたものでしかなく、実際現場ではこんな風な会話がされているのかもしれない。……ええ、なにしろ認可されていない、名前もよく判らない劇毒すれすれのものを……まあ、あれだけ投与されてはどんな種類でも同じか。……え?体?多少なまっているかもしれないが、まったくぴんぴんしてますよ、今すぐにでも出てゆかれても結構です。
しかし、と声の言う。しかしねえ、記憶がねえ。
記憶。記憶がどうかしたってんですか。
頭の部分、……そう。ひとが、見聞きしたことをを情報としてとどめておく部分ですね、そこをだいぶんやられたようで……ええ、そうだろう、そうだと思いますよ。彼の持っている、彼しか知りえない情報がほしかったんでしょう。徹底的に、過激に、執拗にその部分をぐずぐずにしやがった。今や、手遅れの虫歯の歯茎のように、惨憺たるものですよ。……え?そう、そんな具合に。自白なんて生ぬるいもんじゃあなかったと思うがね。しゃべった?……どうかな、しゃべったかどうか、そのあたりの記憶が本人にはないから。
彼はともかく、また誰か別の声の言う。いつの間にか声は両端に分かれていない。それとも分かれていたのは俺の勘違いで、最初からそうだったのかもしれない。
彼はともかく、彼の頭にあった情報知識、これは最高機密にひとしいものであり、これが漏洩すると言うことはあってはならないことだ。
……つまり、なかった。誰かが言った。
そうだ。仮に彼の情報をもとにこちらへの攻撃がされたとしても、それはあくまで偶然のものであり、不意をうたれたものであり、……そうだな、台下には暫くの間、ヴァチカンを離れていただくことも……そう、隠密に、隠密にだ。
しかし、「彼」はどうします、誰かの言う。
じきに意識を取り戻すのでしょう、動けないならともかく、体は正常であるならひと部屋に押しとどめておくことは不可能です。ふん縛りますか?しかし周りの目もある。
仕事は?仕事はできないか?……ああ、できないか。駄目になっているんだものな。
どこか、彼の職務とはまるで違うところへ放り込んでおくのはどうでしょう。
あなたがた、さっきからいったい、何なんです。局長を心配して集まったのではないのですか。
心配?心配しているとも、大変心を痛めている。だからこうして、各課から派遣されてきているじゃあないか。彼の今後の身の振り方を憂いている。これを心配と言わずしてなんだね?
とにかく。そうすると、彼の一時的な身柄拘束先を検討しないといけない。
どこがいいかな?なるべく目立たず、人目につかず、少々足りない人間がいてもうわさされないところ。
恢復するまでにどのくらいかかるんだね?判らない?一時的ってさっきあんたは言ったが、その一時的ってどの程度の期間なんだ。
ですから、これは大変こたえにくい質問で、なにぶん頭の……。
……精神病棟?いけない、表沙汰になってみろ、格好のメディアの餌食だぜ……。
お気の毒なことだ。俺は聞かずとも漏れ聞こえてくる会話を右耳で拾い上げ、左耳から垂れ流しながら、そんな勝手なことを思った。お荷物扱いされている人間、本人はそうと知っているのだろうか。しかし気の毒と言うのは本人が「知って」いるから気の毒なだけかもしれない、知らずに過ごしているならそれは荷物ではなく、ただの静養だ。
やたらと眠いな。もうじき手放す意識のはしっこのほうへ、かろうじてすがりながら俺は思った。こんなに眠い眠いと思ったのはいつぶりだったろうか。数日の徹夜、限界を過ぎると眠気よりも吐き気やら頭痛に襲われることが多い、結局横になったってちっとも眠れやしないのだった。
何人か判らない他人の声は、それからもしばらくのあいだざわざわと靄いで、ずいぶん経ったあとに、冷えた空気をともなって誰かが俺の近くへ泳いでやってくる。エアコンで完調された空気が流れる、そうか、ドアが開いたのか。
ぼんやりと俺が目を開けると、まったく見たおぼえのない人間が俺を覗きこんでおり、瞼をひっくり返したり、口を開けさせたり、脈を見たりと、俺を弄ったあと、カルテになにか書きこんでそれから頭上のモニターを眺める。
いったい何を調べているのだろう、俺は思う。ここはどこだ。
「すこし、ちくっとしますからね。」
俺が問う口を開ける前に、その知らない人間が俺の腕をとり、微かに笑って針を刺した。
「じきによくなりますよ。」
じきに。じきに、というのは何秒先のことかと聞く前に、俺はもうせん足をひっぱり続ける眠気に負けて水底へ沈む。
気が付くと裏庭のベンチに俺は座っていた。ここにはおもての広場のように遊具がない、たいした広さもない。だからだいたい閑散としていて、その静けさを俺は好んだ。
ここがフェルディナントルークスと言う名前の孤児院で、俺はエンリコと言う名前。仕事で体をおかしくして、いまは孤児院で厄介になっている。世話をしてくれている子供は、俺と同じエンリコと言う名前の、もうじきに神学校へ飛び級する少年と、その妹のエレナ。聖釘の話はもう二十回以上しているのでしないようにすること。
何度も、何度も、周りがもういい加減にやめてくれと困るほど俺がくり返し、同じことを聞くらしいので、いつのまにか紙に書いたメモを俺は握らされている。なくすな、とこれはエンリコ少年とやらの走り書きだろうか、下のほうにつけ加えて書かれた跡もあった。
周りに誰もいなかった。時折わっと聞こえるおもての歓声以外とくべつ音もなく、物干しにかけられた毛布が冬の日差しに揺れている。今日はだいぶあたたかい。コートが見当たらなかったので、俺は薄着のままこうしてベンチに腰を下ろしていたけれど、日向にいる分にはこれで十分だった。
ぶぶ、とかすかな羽音が聞こえて俺は目を上げる。さきほどから妙に眠くて、このままここで昼寝としゃれ込んでしまおうかと思っていたところだった。羽音、初冬にまだ虫が生きているのか?そんなちいさな好奇心だった。
見ると、羽もかすれ、色は煤けたえらく弱っているように見える一匹の蜂が、毛布へ留まり日に当たり体をあたためている。お前も俺と一緒だな。そんな風に思うとおかしくなった。ここはずいぶん、あたたかいよな。眠ってしまいそうだ。蜂のお前にも睡眠と言うやつはあるのかな。もうこんな寒さで、そろそろ氷も張りそうだ、お前はいつまでそうしてしがみついて頑張っているのだろう。今日はまだいけそうか、では明日か。いっそそのまま、三対の肢をはなしてぽとんと地に転がり腹を見せてしまった方が、もう楽なんじゃあないか。誰もいないところで頑張ったって、評価されないだろうに、ああ、でも俺がこうして見ているか。
弱った蜂を見て、がんばれと思う。そうして同じくらいの強さで、もうがんばらなくていいのじゃあないかと思う。背反している、けれど生きるってことはだいたいそう言うことなんじゃあないかと俺は思った。
そんな風にうつらうつらと哲学していると、ざくざく砂を踏みしめる音があって、音は、俺に向かってやってくるのだった。なんだ、思って俺はちらと眺めた。こうしてひとりで穏やかな空間でいるところを、掻き回してほしくはなかった。
見たところここの教誨師のひとりだと思う、胸元に十字をさげて、それが無闇にさまになるのだ。
ちらと見ただけで、俺はまた足もとに目を落とす。日差しが眩しくて、とてもじゃあないが顔を上げていられやしない。そうして眠い。
近くまでやってきた男は、俺の側で足を止め、横に座ってもいいかと聞いた。どうぞ、と顔を上げぬまま俺はこたえる。裏庭のベンチはひとつっきりしかなかったし、子供らのためにしつらえたものか、結構な幅広のものだった。俺と、近付いてきたもう一人が座っても、まだ十分間があるほどにベンチは広いのだった。
ぎし、と接ぎ木をきしませてもう一人が俺の隣に腰を下ろした。なんて名前だったかな。手の中のメモを見やるが、紙には孤児院へ勤める数人の名前は書かれていない。しかしずいぶん大きななりをしている。俺も背丈はそれなりにあるつもりだけれども、その俺より、縦にも横にもひとつ分以上はでかい。孤児院にそんな役職の人間がいてはおかしいけれど、ボディガードと紹介されてもまったく違和感なく、ああそうですかと頷いてしまえそうだった。名前を聞いたことはまだないけれど。
名前。そういえば、名前で俺ははじめて思いだす、どうにも俺の中に一つ、引っかかっている名前があって、それがどうやら俺自身のものではないようなのだ。自分の名前も忘れる俺が、しつっこく握って手放さないそれ、よほど重要なものかもしれないとおもったけれど、誰かに聞いてみたことはまだなかった。
隣の相手なら知っているかもな。相手はどうにも俺のことを見知っているような素振りだったけれども、これで全くの初対面だったら恥をかく。ああ、でも俺にあったおぼえはないし、だとしたら初対面だ。
なあ、と俺はしばらくどうしようか迷ったあげく、結局問いを口にした。
「アンデルセンって、誰だか、知っているか?」
「――」
俺が隣の男にたずねてみてから、そうしてかなりの間があった。あれ、もしかして俺は口をきいたつもりだっただけで、実際はなにも発声してなかったんじゃあないか、そんな風に不安になるほどじっくりと間があいた。男は微動だにしない、不審に思った様子もなければ驚いた様子もなかった。
「その名前が、」
やがてゆっくりと男は口を開く。いい加減返事がなかったので、俺が諦めて眠りかけた頃合いだった。ああやっぱり聞こえていたのだ、俺は話した「つもり」になってしまっていたけれど、聞こえていて、それからずっと考え込んでいたに違いない。
「その名前がどうかしたのですか。」
ひとつひとつ言葉をえらんで話しかけるような口ぶりだった。じっくりとおのれに言い聞かせてくるような口ぶりだった。きっと孤児院で、子供たちを相手にしているのだから、そうした話し方に慣れているのだろうと思う。
わからない、と俺は言った。判らないが、どうも俺にとってだいじなものであったような気がしてならないんだ。
「すくってほしかったのかもしれないな。」
俺は言った。いつ、どこで、そんな風に思ったのかまったくおぼえはなかったけれど、もしかすると手放してしまった俺、俺といううつわがゆいいつすがったよすがだったのかも知れないと思った。
「救う……、」
男は呟いた、救うのであれば、もっとも相応しい方が天におわします。
「判ってる。」
俺は頷く。
「判ってる。でもきっと、そこは祈りも届かなかったんだ。」
「――そうですか。」
男は言った。それからいきなり男は腕を伸ばし、なにごとかと驚く俺の頭を乱暴に撫ぜる、もみくちゃにする、せっかくエレナが時間をかけて整えてくれた髪をがさつに撫ぜる。
がんばりましたね、男はそう言った。
「とてもよくがんばった。誰もいないところで、誰もゆかない場所で、たったひとりで本当によくがんばりました。」
だが、もうがんばらなくてもいいのだよ。俺がせんだって羽虫に向けた言葉と同じ言葉を、男は口にした。もうがんばらなくていい。もういいんだ。頑張らず、休んで、ゆっくり戻っておいで。
俺はベンチの上で膝をかかえる。もみくちゃにされるままにして膝を抱え、背を丸める。かなしくもなかった、うれしくもなかった。俺の中から感情と言うものがすっぽり抜け落ちて、そのとき俺は空虚でしかなかった。だのに涙が出た。どうしてだかこらえきれずに涙があふれた。
戻っておいで。男が言った。名前も知らない男の前で、俺はぶざまに声を殺して泣いた。
(Calvaria:キリストが十字架に架けられた丘)
> next
--------------------------
最終更新:2012年11月11日 08:47