<<月へと還る獣>>

   蠢動

       1

 「怒涛。まるで怒涛ごとくございます」
  第一報。
  エスタッド皇都へ注進に走った兵が、放った一声が、それだった。
  興奮冷めやらぬ風体なのは、たった今まで早馬で駆けてきたからでなく、告げた内容をありありと、瞼の裏に再構築していたからであろう。
  告げる兵士は歴戦のつわものである。
  証拠に、着古した鎧に多くの刀傷が刻まれている。
  いくつもの戦場を渡り歩いた兵の、幾人もの指揮者の号令に動いた兵の、素直な感想が、冒頭のそれである。
  ただ一言で、
  広間に首を並べた各将が、身を乗り出した。
  大いに興味を引かれたのである。
 「ほう」
  その中の一人。
  片肘を突き、億劫そうな様子を隠しもしない男が一人。
  無論、偏屈と聞こえの高い――エスタッド皇国皇帝その人である。
 「怒涛。怒涛、であるか」
  膝に、雪のように真っ白な仔猫をじゃらし、眺めている。
  第一報で突如その瞳が、爛々と輝きだした。
  硬質の唇が、にっと上に引き上げられている。
 「……ハルガムント邸をミルキィユ将軍率いる、第五特殊部隊が奇襲するも、トルエ公国キルシュ公女の存在は確認できず。目下探索中とのことです。ハルガムント侯爵以下、主要な面々は、いつでも皇都へ向けて出立できるとのこと。出立の令を待機中」
 「数日、転がしておけ」
  相変わらず膝の上に視線は流しながら、注進の兵士の息次ぐ瞬間を狙って、皇帝が呟く。
  呟き声なれど、しん、と静まり返った広間に響き渡るには十分の声であった。
  ぐぅ。
  控える各将の一人が奇妙に喉を鳴らす音がした。
 「卿。如何した」
  ちら、と上目遣いに視線を投げやって、皇帝が喉奥でくぐもった笑いを立てる。
  楽しんでいた。
  喉を鳴らしたその男、ラグリア教団ともハルガムント侯爵家とも、一枚噛んでいると噂の大将で、閣議ともなればすぐに話の腰を折りたがる。
  表立っての反対はしなくとも、教団以下そちらの方面の肩を持たれて熱弁を揮われれば、独裁と名高い皇帝と言えど、無視――する訳にもいかない。
  それが。
  熱弁を揮う間を与えなかった。
  一言である。
  皇帝の直裁に、各将は逆らう弁を持てない。
  持たない、でなく、持てない、のである。
 「逆らうと、どうなるか判らない」
  そんな気配が、皇帝にはある。
 「――で、」
  続きは。
  促すと、凍ったように固まっていた兵士の背筋が一段と伸びた。
 「はッ。……エスタッド本隊に、トルエ公国参謀殿が合流。采配を将軍に進言し……、それがまるで、神技のごとき指揮にて」
 「神技」
  くく、と喉を鳴らしてますます楽しそうに、エスタッド皇帝は目を細めた。
 「こうなると、虚弱な我が身が嘆かれることであるな。私もその『神技』とやらを戦場で目にしてみたいものだ」
  ねぇ?
  背後を固める、皇国一の騎士――ディクスに同意を求めるものの、皇帝の誘いにディクスは乗らない。
  ただ、堅く無表情な顔つきで僅かに頭を垂れた。
 「無事に、ございましょうか」
 「何がだね」
  仔猫の喉を愛撫する皇帝に、命を発する気がないように見えたか、控えた将の一人が口を挟んだ。
 「トルエ公国。小国なれど侮れませぬぞ。公女と参謀が彼の国へ任してから、あの国は急激に力をつけておりますれば」
 「ラグリア教団とも手を組む卑劣ぶり」
 「いつ何時、牙を向けるか判らぬ相手に指揮を執らせるは、危険ではありますまいか」
  これ好機と、次々と口を開く各将の言い分を、皇帝は黙って耳を傾けている。
  背後に控えるディクスだけが、神妙な顔をした皇帝が、各将の意見をまるで右から左に流しているのを長年の経験から知っていた。
 「注進にございます!」
  そこへ、第二報を携えた兵士が走りこみ、さすがにこれには皇帝も顔を上げる。
 「アルカナ王国残党軍、およびハルガムント脱走兵が、一塊になり、戦線をゼフィール岸まで引き下げましてございますッ。トルエ公女陛下の御身の確保はいまだ叶わず、本隊もこれに付随して進軍の模様ッ」
 「大河ゼフィール……!」
 「難所にござりますぞ!」
 「この派遣、意外と長引く可能性が……」
  にぃ。
  口々に喚く男たちの声の間隙を縫って、細く甲高い声が広間に小さく響いた。
 「おや」
 「陛下」
  先ほど膝の上でくつろいでいた仔猫が、毛を逆立て足元へ降りている。
  だらしなく伸ばされた、皇帝の片方しかない手首に、転々と、歯跡。
 「嫌われたものだ」
  くく。
  血のうっすらと滲み出した、腕の傷を意にも掛けず、涼しい顔で皇帝は背後の意見を仰いだ。
 「お前ならどうするね、ディクス?」
  軽やかに駆け去る仔猫の後姿を追いながら、皇帝、実に楽しげに笑って見せた。
 「飼いならされた愛玩物など、如何ほどの楽しみがあるか。手向かうのが面白いのだ」
  のうのうと、各将の前で言ってみせる。
  各将、唖然と口を開けた。

       2

  その。「怒涛のごとく」。
  エスタッド皇国は職業軍人を抱える軍事国家である。
  職業軍人とは、戦時の際に一般公募される傭兵や、徴兵される市民兵ではない。
  文字通り、給料を貰う代わりに年中軍に所属する、錬成された一軍のことである。
  その、鍛え上げられた騎馬が。容赦なく轟波となってアルカナ本陣へ斬り込んだ。
  夜襲であった。
 「鈍色の鉄のうねりが、息継ぐ間もなく頭上から降り注いだ」
  とは、アルカナ王国残党軍に従事し、しかしその勢いに恐れをなして尻に帆をかけて逃げ生き延びた、ある男の手記である。
 「何が起きたのか判らない。判る暇を与えられなかった」
  この男、逃げ延びたことからもわかるように、ある程度の爵位を持ち、逃げ延びるための手段、
  即ち、騎馬、
  があったと読み取ることが出来る。
  からくも「逃げよう」との意識が働くだけの余裕があった、男の手記にしてこうであったのだから、他の一兵卒はそれこそ、「何がなんだか判らない」状態で巻き込まれていたことだろう。
  崩れ落ちた。
 「割れ釜の底から麦が零れるように」。それが、男の手記に記された、アルカナ王国残党軍の軍馬共に総立ち乱れた様子を表した言葉だ。
  瞬く間に、あたりは怒号と悲鳴に埋め尽くされた。
  本陣を守るはずの親衛隊が、旗印を片手に右往左往している。
  目の前に立った相手が、敵か味方か判らずに、切り殺されていくものがいる。
  恐怖の叫びを上げ、軍馬の綱を意味も無く解放つものがいる。
  と、思えば才覚を示して獲物を腰に構え、迎え撃つものがいる。
  そこに既に統制は無い。
  また、
 「エスタッド軍か。これが、エスタッド軍なのか」
  大将軍含め本陣一体は、放心の態で乱れ立つ戦線を離脱したと、「後アルカナ録」には記されている。
  その際、「ご立派にも」大将軍は自ら軍馬を乗りこなし、一同の手を煩わせることなく颯爽と退却したと言う。
  ただしこの「後アルカナ記」、脚色が大いに含まれているので、信に値するかどうかは定かではない。


蠢動 / 後編へススム
公女と参謀にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:04