<<月へと還る獣>>
まどろみ
「――エン?」
入室した瞬間にそれと判った、馴染んだ男の気配。
人間である限り。五感以上のものは発揮できないのであるから、
単に勘、と言うものなのかもしれない。
音がするでもなし、匂いがするでもなし、姿も隠れて見えなかったというのに、確かに「いる」と判ってしまうその気配。
思えば、自身の一部と言うよりは既に半身のようなものだった。
深い椅子の背に近づきながら、キルシュはそう思う。
午後。自室。
気長だと最初から思ってはいない。
直ぐに応えの無いことに軽く苛立ち、彼女は男を覗き込むようにして近付き、
「……寝ているのか……」
小言のひとつでも浴びせようかと開いた口からは、軽いため息が漏れた。
必要以上に慇懃な男が、許可も求めずに先に椅子に腰掛けていること自体が、珍しいといえば珍しいと思ってはいたのだ。
「よほど」
疲れている。
男の顔を見下ろしながら、キルシュはふたつ目のため息をつく。
食事のたびに、彼女やバートが小突き回し、「食べろ食べろ」と半ば強制的に詰め込ませているというのに、日増しに頬は削げている。
連日山のように積み上げられる責務の一切を、愚痴ひとつ零すでもなく、黙々とこなすその姿勢を、立派なものだとキルシュは思うが、真似ができるとは思っていない。
隠されて今は見えないものの、当て布を払えば眼の下に、くっきりと隈取がなされていることだろうと思う。
いつ寝ているのか、不思議に思うこともある。
しかし、問えばのらりくらりとかわされることも目に見えていたから、深く突っ込んで訊ねたことはまだ、ない。
舌先で勝つ自身はキルシュにはないからだ。
俯き気味に寝息を立てる男の眉間に、僅かに縦皺が寄っている。
安らかには眠れない。
「苦労をかけるな」
そんな言葉が不意に口を衝いて出た。
男が、寝ているからこその、キルシュの本心だ。
常に思いを口に出来るほど、彼女の性根は簡単な構造を成していない。
思いを口に出来ないのならば、態度で表せばいいとものの本にはそう書いてあるが、その通り実行できるのなら、そもそもそんな本は読まないだろうと思うキルシュだ。
上下する胸の辺りを、ぼんやりと眺めていたキルシュは、ふと、腕を伸ばす。
男の眠りを邪魔しないように、
そっと。
直に触れて呼吸を確かめ、それから室内に誰も訪れないのをいいことに、ますます大胆になって、
耳を、寄せた。
布地越しに、低体温の男の温もりがじんわりと伝わる。
と、同時に規則正しい鼓動の音が響いてくる。
ああ。生きている。
「苦労をかけるな」
もう一度、囁いてみた。
彼女がまだ十に満つか満たない頃、その年流行った感冒に、男が倒れたことを思い出す。
慢性的なものなのか、こじらせてしまったのか、熱が一向に下がらない。
火のように熱い額に、濡れ手ぬぐいをおいたところで、まさに焼け石に水、だった。
もともと、外で闊達に武芸に励む男ではなく、書庫で日がな一日、気に入った本を開いてはそれで過ごせてしまう男であったから、
光を失ってからはいっそう、室内に籠もることの多い男であったから、
頑健な体のあろうはずも無い。
みるみる衰弱してゆく様に、キルシュは柄にも無く、うろたえた。
――これはもう。駄目かもしれませんな。
訪れた医師はそう言った。
――肺の腑をやられております。呼吸をしても、空気がほとんど体に行き渡っておりませぬ。
やめろ。そんなことは言うな。言うな。言わないでくれ。
医師の言葉に、世界が一瞬、静寂に包まれたのを覚えている。
違う。
思い出し、自身でキルシュは否定する。
あれは絶対的な孤独だった。
そうして昼も夜も無く、彼女は死に掛けた男の側にいた。
投げ出された力の無い手を握り、不規則な呼吸に震え、喀血される赤に恐怖した。
頼むから、どうか頼むから助かってくれと、
生まれて初めて祈った。
思えばあれが、最初で最後の祈りだ。
男が意識を取り戻したのは、三日後。
――水を。
唇を震わせて、ようよう発した言葉を、キルシュは見つめていた。
無感動だった。
感動できる余力は、彼女にも残されてはいなかったからだ。
「あれからもう――五年……六年、か」
ぼそと呟く自身の声が、男の布地に遮られ、くぐもって聞こえる。
相変わらず規則正しい寝息と鼓動に、安堵のため息をつくのである。
ああ。生きている。
「――こなたは放っておくと無茶ばかりするから。わたしなりに心配なのだが、言ってもこなたは聞くまいな?」
膝を床に突いた体勢で、キルシュはボヤいている。
そもそも、バートかその他の従者――または屋敷に勤めるもの――が、急にこの部屋に入ってくることも、考えられることではあるのだから、
この体勢を他のものに見られるのは、ひどく都合が悪いだろう。
そうは思うものの、体が動かない。
もう少しだけ、男の鼓動を聞いていたい。
もう少し。
「こなたは、わたしが必要だと言ったな?」
月に焦がれる獣であると。
ある晩男の口にした言葉だ。
「こなたと共に在りたいと望むことは、こなたを困らせる言葉であろうか?」
一部ではなく、
半身だと思う。
影のように付き従ってきた相手。
己の全てを懸けてキルシュを導いてきた相手。
「こなたは、公女でも施政者でもない、わたしがただ一個の人間でも、付いて来るか?」
愚問だ。
口にしてみて気付く。
そんなことは、キルシュが一番良く判っている。
居場所が無かった子供時代、唯一逃げ込める懐がここだった。
抱きしめられて、あやされて、愛おしいのだと囁かれて、
それが仮に、保護欲や博愛主義から出た男の言葉であったとしても、十二分に彼女は安心したのだ。
男が、キルシュと距離を置きはじめたのはいつからだったか。
男が、キルシュへの言葉を噤んだのはいつだったか。
「こなたは――わたしを愛しているか?」
言葉は、思いには勝らないものだ。
先ほど上げた、ものの本、ではないが、男の仕草や行為を見ていたら、男が彼女をどんなに大事に思っているか、判らないほどキルシュは子供ではない。
我が侭だとは、判っている。
弱音だということも。
だが、
判っていても、今はその言葉が聞きたい。
「わたしは――こなた、を、」
こなたを。
上げた視線の先に、驚くほど近くエンの顔がある。
側にいるのが当たり前であったし、立場上、頑健な兵士だのを見ることも多かったから、ことさら取り立てて、意識したことが無い。
だのに、こうして見上げると、自身とは違う人種――男――なのだと言うことにキルシュは気付く。
浅いようで実は意外と深い眠りであったらしく、男が目を覚ます気配はない。
指先で男の乾いた唇を撫ぜた。
それから、
小鳥が啄ばむように、キルシュはエンへ唇を重ねる。
ほんの瞬きひとつの時間のことだ。
動きに軽く頭が落ちて、
「エン」
「……陛下?」
「お早う」
目覚めたらしい男が、彼女の声の位置に気付いて、ぎょっとなる。
「何をなされておいででござ――」
「こなたの生死を確かめていた」
くつくつと笑って、キルシュは強調するように、強く額を男の胸へと擦りつける。
「陛下」
「あまりに安らかに眠っているので、そのまま往生でもしたかと」
「お戯れが過ぎまする」
「戯れではない」
受け止めかねた男が、困惑の声を上げるのを、キルシュは面白く思う。
まだ、寝惚けているのだ。
はっきりと目覚めていたら、歯牙にもかけてもらえない。
「陛――」
「本気だ」
そうして、彼女は再び男の鼓動に耳を澄ます。
離れる気のないキルシュに、軽く諦めのため息をついて、
「どうなさいました」
跳ね除けることは、流石に出来なかったのだろう。
ためらいがちに彼女の背を撫ぜる、男の腕がある。
あやすように。
「甘えているのだ」
「は、」
「そう言う気分だった」
「他に見られては」
「都合が悪い――か?」
「陛下」
困ったように首を傾げて、男が諭す口を開く前に、
「少しだけで良い」
先手を切って封じ込める。
有無を言わせない彼女の声に、エンはもう一度諦めたような吐息をついて、
「どうなさいました」
そう言って今度はしっかりと、キルシュの頭を抱きしめた。
厳しいことを言うようでいて、結局最後は、キルシュの我が侭に出来る限りは付き合ってくれるのだ。
それを、キルシュは知っている。
付き合うそれが、忠心からくるものなのか、それとも違うものなのか、今はまだ、問う気がない。
自分から聞くのは、悔しい思いもある。
「まあ良い」
今は男のぬくもりだけで良いことにした。
そうしてしばらく、エンはキルシュの我が侭に付き合わされ――、
――それとなく察したバートが、察したは良いが具体的な案も出ず、廊下で立ち往生したのはまた別の話である。
最終更新:2011年07月21日 21:10