アットウィキロゴ
<<月へと還る獣>>

       犬も食わぬ

  だから、と。
  いっそう張り上げた声がした。
  トルエ公国。
  青臭い、草いきれの公園の片隅である。
  市民の憩いの場として設けられたそこは、設けた施政者の好みが、よく反映されていた。
  無駄な遊具は、逆に憩いの妨げになると、
  そうして維持費に税金を使うことは、無策の一言であると、
  元来の雑木林の中にぽっかりと、開けた広場がせいぜい一区画。
  四方あたり16件分の広さの砂地。
  あとは、濡れた緑が目にまぶしい、若葉の饗宴である。
  初夏の日差しも、そろそろ肌に痛い……晴れている、ならば。
  雨が降っている。
  さんさ雨、
  と言う奴で、半日も降れば、雨などまるで無かったかのように、止んでしまうのだろう。
  その広場の木の下、男女が向かい合って立っている。
  訂正する。
  睨み合って立っていた。
  雰囲気は最大に険悪。

 「だから」
  女のほうが、もう一度声を張り上げた。
 「二者択一と言うヤツだろう。わたしが辞退する。こなたが受ける。それで良いではないか」
 「賢い選択とは、到底思えませぬな」
  男のほうも、僅かに苛立ちを声に混じらせ、女の声に覆い被せるように否定する。
 「公女陛下には、よくよく考えていただきたい。『誰が』、『誰に』仕えているのか、と」
 「仕えるだとか。仕えないだとか。小難しい話で本題を逸らすな。わたしが言いたいのは、こなたは現実をよく見ておらぬと、そう言っている」
 「現実。高邁な陛下ほど世の中は広く見えませぬが、盲いた眼にも、映るものはございます」
 「そう言うのなら、その眼をかっぽじって、よぉく考えてみるが良い」
 「何度試算を繰り返そうとも、変わりはありませんな」
 「ではその眼は曇っている」
  ばっさりと切って捨てた女――トルエの公女、キルシュ――はそう言って男に一歩詰め寄った。
 「これは心外にございますな」
  元来の仏頂面を、ますます鹿爪らしく固めながら、男――公女の右腕であるエン――も、不機嫌そうに片眉をそびやかす。
 「私の忠誠が、公女には通じませぬか」
 「その言葉。そのままそっくりこなたに返そう。どうしてわたしの心配りが、こなたに判らぬか」
  互いに敵意剥き出しで、対峙している。
  運の良いことに、雨足の強い現在、通りかかる市民の一人も見えないが、仮に誰かがこの光景を見たら、一体何事があったかと、目を見張ることだろう。
  そもそもの発端。
  それは、脇の大木の幹に、立てかけられていた。
  傘、だ。
  何の変哲も無い、一本の雨傘。
  この大粒の雨に、本来の目的通り広げられることも無い。
  花曇り、天気もそこそこ、鬱陶しい雨の気配に、午前の公務を終わらせたキルシュが、軽い運動がてら、散歩にエンを誘った。
 「外の空気を吸いにゆかぬか」
  と。
  控えるエンに断る理由も無く、二人は連れ立ってのんびりと屋敷を離れ、公園へ散策に出掛けたはず――なのだ。
  その際に気を利かせたバートが、雨傘を一本、エンに手渡したのである。
 「『雨に濡れては困る』と、バートも言っていたのを、そなたは覚えておらぬのか」
 「バートが言ったあの言葉は、私ではなく、陛下を指した言葉でございましょう」
  火花を散らしあいながら、両者一歩も退かない。
  実際、
  バートの渡した雨傘は、役に立つはずであったのだ。
  公園に着き、気ままにぶらりぶらりと二人は、付くでもなく離れるでもなく、書類に囲まれ、息の詰まりそうな部屋からの解放を、楽しんでいた。
  薫風が頬をなぶる。
  ただひとつだけ、
  予想外であったのは、思ったよりも、降り出した時間の早いことである。
  ぽつ、とひと粒ふた粒感じたかと思うと、
  あっと言う間に、本降りに変わった。
  慌てて大木の根元に移動し、途方に暮れて空を眺めたところで、手渡された雨傘を、どちらとも無く思い出したのである。
 「こなた、差すが良い」
 「陛下がお使いくださいませ」
  発言したのは同時だった。
  はた、と顔を見合わせ、
 「陛下が風邪などお召しになられては、公務に差支えがございます。もとより、傘は一挿し」
 「こなたが風邪をひくと、周りが迷惑する。こなたが差すが良い」
  次に飛び出した言葉も、ほぼ同時であった。
  む、と更に顔を見合わせる。
  普通。
  憎からず思う同士、考えることが同じであったなら、恥らう。
  頬でも染めて、口ごもるかもしれない。
  普通、であれば。
 「陛下がお使いになられるのが、当然かと思われます」
 「こなたが差すのが、道義上理に適っているだろう」
  向かい合って、互いに譲らない。
  元は、親切心から出ているのであるから、余計に譲れなくなっていた。
 「私が差して、陛下が濡れられては、従者忠義に瑕が付きまする」
 「態の良い理屈なぞ、わたしは出てこないが、わたしはともかく、そもそもこなたが風邪をこじらせては、命に関わる。こなたが使うべきだ」
 「見損なわれますな。私とて、そこまで軟弱な造りはしておりませぬ」
 「こなたに根性があるのは、わたしが一番知っているが、根性だけでは乗り切れぬ局面も、時には、ある」
 「主のために死ぬは本望。もとより棄てた命にございます」
 「それは、ドブに棄てると言うのだ。好き好んで生死の境をさまよう趣味は、よもやあるまい?」
  どちらも、弁が立つ。
  と、言うよりは、そもそもキルシュはエンに依って育てられていたから、彼の屁理屈一辺倒で、言い負かされるほどヤワでは、なかった。
 「わたしは、濡れてもせいぜいが熱を出して終わりだ。こなた、そうはゆかぬだろう」
 「見損なわれますな。仕えるものの意地がございます」
 「そう言うのを意地ではなく、意固地だと言うのだ。素直ではない従者はわたしは好かぬ」
  好かぬと言われて、笑って右から左に聞き流せる性格であったなら、そもそもエンはキルシュの側には付かなかったろう。
 「よろしゅうございます。意固地であるのは判っておりまする。陛下こそ、おとなしく私の勧めを、お受けなられるとよろしいではございませぬか。素直でなきは、お互い様でございましょう」
  悲しいことに、
  傘は一本。
  キルシュにとって、あまり身体の強くないエンが雨に濡れることは、避けたい事態であった。
  肺炎に移行する恐れがあるからだ。
  エンにとって、主であるキルシュを差し置いて、己が雨を避けるというのは、まるで想像の埒外である。
  どこの国に、主を濡らす従者がいるというのだ。
  小雨程度であれば、大木に噴出した若葉が、雨除けの屋根にもなってくれようが、
  この、大粒の土砂降りの前には、ほとんど意味を成さなかった。
  しっとりと、二人の上着が濡れだす。
  ちなみに。
  咳払いをひとつしてキルシュは言った。
 「これが洒落戯作本の類ならば、双方相合って、ひとつの傘に二人で入る、とでも言うのだろうが、生憎わたしは現実主義だ」
  受けてエンが頷く。
 「無論にございます。あれでは頭が濡れるのを避ける程度。肩より下は、まるで意味を成しませぬ」
  まるで可愛げがない。
  激しい雨足のせいか、
  薫風もどこかへと消え去り、二人の間に流れる空気は、ぴりぴりと張って痛いほどである。
  甘い雰囲気を望むのが酷、と言うものなのかもしれない。
 「では問題はたった一つだ」
  いっそう真剣な眼差しで、キルシュは言った。
 「『零』か。『百』か。それしかないではないか」
 「零だの百だのと、問題を提示すること自体が、既に道を外れておりまする。私は零。陛下が百。それ以外にはございますまい」
  エンも頑として譲らない。

  そうして結局、
  睨み合って数十分。

  口を開けば口論になるのが目に見えていたから、互いに黙ってそっぽを向いたまま、それでも並んで屋敷へと帰った。
  互いに頭から足まで、完全に濡れそぼって。
  傘はしっかりと折り皺の付いたまま、バートの手に戻される。
  仲が良いのか、悪いのか、
 「……仲がよろしゅうございますな」
  そう呆れて呟いたのは、
  不貞腐れて帰ってきた二人を眺めた、バートの科白。
  15歳の屁理屈をこねるキルシュに非があるか、
  倍ほどの年の男が、むきになって相手をするのが悪いのか。
  二人共に執務室へ向かい、
  二人共にくしゃみをして、
  二人共に悪寒に震えて、
  二人共に、熱を出して寝込んだ。
 「どちらか、折れようという気にはなりませなんだか」
  好奇心を抱いたのか、各自の部屋を訪れた際に、バートは二人にそう訊ねたと言う。
 「あれは既に、傘を差す差さないの問題ではない。個人の威信と尊厳を懸けた、戦いである」
  言葉は違えど、熱に浮かされた二人とも、熱い息の下そう言ったということである。
 「仲がよろしゅうございますな」
  その時、もう一度呆れ返ってバートは呟いたそうだ。

  なんとやらは、犬も食わない。
  トルエは今日も平和である。


公女と参謀にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:10