<<ボクの下僕になりなさい。>>
「……サル、ですか」
「サルだ」
「サル退治をボクにしろと、そう言うことですか」
「サル退治をお前がしろと、そう言うことだ」
ちっちゃい頃に、近所の悪ガキ一同と一緒にたいていの悪さはしたボクだけれど、あいにくハトに豆鉄砲を撃ちこんだ経験は、未だ未体験ゾーンである。
ないけど、多分、ハトが食らったらこんな顔をするんじゃないかって言う――そんな表情を、その時確かにボクはしていたと思う。
午前11時。天気は上々。
布団を干したら確実にふっかふかになるだろうなって言うぐらい、いい天気だ。
そんな天気のいい日、ボクは丁度休みの日だった。
晴れた日って、なんだかワケもなく窓を一杯に開けて、新鮮な空気をたくさん部屋の中に取り込みたくなる。
それが例え、「半日通り」と呼ばれる、家と家がひしめき合って建てられている、せまーい路地の一角の我が家でも同じことだ。
だもんで、今日は朝から張り切って家中の窓を開け、腕まくりをしてハタキを握ったところに、急にサンジェット教会から呼び出しがかかり、ボクは疑問を抱きながら休日出勤にいたったのだった。
あ、サンジェット教会って言うのは、大陸で一番大きな教会団体で、ボクはそこで僧侶の真似事のような……と言うより下っ端?
的な仕事を色々こなして、生活費を稼いでいる。
ボクは16歳。「半人前」と世間では呼ばれながら、自立しかける年頃なんである。
本当に就きたい仕事は別にあって、「魔法介護士」と呼ばれる、女の子なら一度は、お嫁さんか介護士になりたーい!と思う、そんな憧れの職業に就くのが夢だ。
俗に言う「治癒魔法」と言う、病気の痛みを抑えたり、傷口を塞いだりすることが出来る魔法を使える職業のヒトのことで、どんな医院からでも引っ張りダコな、就職先オッケー!路頭に迷うことまず無し!な、うらやましい職業でもある。
単に、ボクは、あの魔法介護士の仕事着を着てみたいという、不純な動機もあるんだけど。
しかし。
その、憧れの魔法介護士になるには、まず一年に一度、王都カスターズグラッドで開かれている、「魔法介護士認定試験」なるものに、合格しなければいけない。
それに合格して、免状を貰って、それから初めて魔法介護士の看護学校に入学することが出来るのだ。
受験規定は6歳から。
本当に才能のあるコなんかは、6歳で一発合格、免状を手にそのまま学校へ入学し、10歳で介護士と言う、超超超!エリートコースを辿る場合だって、ある。
ただ、これはもう持って生まれた才能みたいなもので、例えばどんなに治癒魔法の知識を詰め込んだとしても、実際に魔法を使うことが出来なかったらイミが無いから、よく言えばかなり当たって砕けろ的な応募方法では、ある。
ボクももしかしたら、その何千人に一人か、何万人に一人かの割合で
「神童」
なーんて呼ばれるエリートコースまっしぐらの人生を歩めるんじゃないか?
なぞと、カン違いを起こして、同居人を巻き添えに、それまで住んでた山村を離れ、王都に引っ越してきたのが実に6歳の時。
それから毎年毎年無情にも試験からはじき出されて――今や、落第10回を記録だ。
いやあ、人生初の衝撃的な挫折を、6歳で味わうことになろうとは、ボクでも思ってなかったね。
でも、もしかしたら人生何分の一かの割合は、やっぱ才能じゃなくて努力で何とかなるんじゃないか?
それだけを強みに、毎年毎年受験し続けるボクの心の強さだけは……いや、諦めの悪さかな……は、判ってほしい。
どうしても、どうしてもあの白衣が着たいのだ。
「遅咲きでも花はいつか咲くさ」
そんなさすらいの詩人の格言を居間に貼ってみる辺り……自分でもちょっと、無駄かもな、なんて思ったりも……
いや!
いつかは夢は叶うよね!
人生、勢いがなければ始まらない。
んが、しかし。
夢だけではお腹がいっぱいにならないのもまた事実で、だからボクは日々の生活費稼ぎに、教会の下働きを志願した。
――と、言うか。とある事情で知り合った教会の関係者から、「やってみないか」と声がかかったのだ。
そんなワケで、今は憧れろ胸に秘め、毎日僧侶のタマゴのボクは、あくせくと教会に通うのであった。
そう言った教会からの呼び出しだった。
だけど休日にわざわざ、呼び出される理由が思いつかない。
昨日仕上げた報告書がマズいとか、聖堂の掃除がなってないとか、花の水変え忘れただろとか、そんなお説教は、別に明日になってからでもいいハズだ。
緊急で呼び出す必要性はない。
そんなにちっちゃなことでも呼び出すような、せせこましい性格の人間は、ボクの通う教会にはいないし、かと言ってそれ以外の理由らしい理由が、全くボクには思いつかない。
首を捻りながら教会の表門を抜け、参道を避けて裏口へ回り、丁度目の合ったシスターに挨拶すると、
「レイディさん。ネイサム司教のお部屋にいらしてね」
途端、にこやかに告げられた。
聞いたボクは、若干引き攣る。
ネイサム司教。
と、言うのは、僧侶のタマゴのボクの直属の上司で、まぁ、上司と言っても上司らしいコトあんまり――いや、ほとんど――っていうか全然――してもらってナイんだけど、まぁ一応、全ての責任を背負ってくれる(ハズ)の、相手だ。
でもきっと、責任追及が来たら、転嫁して逃げるだろうな、あのヒト……。
悪いヒトじゃあないんだけど、結構……と言うかかなり、破天荒な性格の持ち主で、下に付いたタマゴの誰もが耐え切れなくて、やめて行ったとかノイローゼで寝込んだとか祟ったとか。
あまり、いい噂は聞かない。
コレもまた才能と言おうか、ボクはたまたま、そんな掟破りなネイサム司教とウマが合った(いや、合ったなんて言いたくはナイんだけど!)らしく、とりあえず今のところ、ノイローゼにも狭心症にも生霊にもならずに、生活できている。
妙なところにこだわりのある変人上司で、例えば隣三軒先のパン屋の焼きたてツイストパンが大好きで、ボクは毎日ネイサム司教の昼ゴハンを買いに走らされるんだけど、
「斜め45度からの焼き加減が絶妙じゃなきゃ食べない」
だとか、
「三回転半のツイストじゃないとツイストと認めない」
だとか、
ああもうだったらいっそパン屋のオヤジと掛け合って、お気に入りのパンを作ってもらえよ!と言いたくなる時もまぁ、時折はある。
しかし、彼に言わせてみれば、それもすべて「神の思し召し」だそうで、そんな注文どおりの形のパンを食べても嬉しくもなんともないんだそうだ。
偶然だから良いんだ、と。
胸を張って偉そうに言う姿に、ちょっと丸め込まれかけたボクだけど、
「じゃあ自分でその幸運を探して来たらどうですか」
「面倒くさい」
青筋も立つというもんだ。
結局、単にヒネくれてるだけなんじゃないかって気もしてくる。
そんな、上司からのお呼び出しである。
どう考えても明るい方向に思いが進まない。
一体今度はどんな難問を押し付けられるんだ……。
這い上がる怯えに震えながら廊下を進み、扉をノックすると、
「入りたまえ」
内から声がした。
*
「失礼します」
どんなにハチャメチャな上司だろうと、上司は上司であるワケで、軽く一礼をしてボクは入室し――
「コレはもう決定事項なワケだが」
――た途端に、逃げを許さぬ断固とした口調で、珍しく仕事机に向かっていたネイサム司教が口を開いた。
今度こそ、ボクは完全に引き攣る。
「な、なにがですか」
「タマゴにね。頼みたいことがちょっとできたんだ」
「ボクの名前はレイディです。タマゴ呼ばわりしないでください」
「うん。中央の市場をね。小さめのサルが、暴れまわって騒ぎを起こしているそうなんだ」
全くヒトの話を聞かない上司である。
「騒ぎ……ですか」
「何人かが捕まえようとしたらしいのだが、すばしこくて上手くいかない。ネズミ捕り的な罠にかかってくれるほど愛想の良い相手でもないようだ。市場の知り合いが困り果てて、先ほどわたしに連絡が来た」
「……って、それ、ネイサム司教が頼まれたお仕事じゃありませんか……」
引き攣りながらも、何とか突破口を見つけようとボクは虚しい努力を重ねてみる。
「うん。名義上はそうなるワケなんだがね。あいにくわたしは忙しい。今日明日中に、今度開催される宮廷礼拝の企画書を王宮に提出しなければいけないと言う、崇高な仕事が目の前に横たわっていてね」
「まだ書き終えてないんですか!?……だから、だから二週間前から口を酸っぱくして、遊んでないで早くやってくれと、そう言ってたのに」
「――それに、この前のタマゴのお前が片付けたシュトランゼ古墳の報告書。あれに目を通し、同意書をつくり、事務の方に提出すると言うこれまた崇高な」
「二ヶ月も前の報告書、まだ目を通してくれてないんですか?!その日中に仕上げろって言うから、ボク徹夜して提出したのに」
「――さらには、今日はタマゴが休みで教会に人手が足りないため、わたし直々に昼食の用達に行かなければならないと言う崇」
「その程度で崇高な仕事にしないでください!」
僧侶のタマゴタマゴと、呼び名ではバカにされるけど、結局このヒトは下のものが尻を叩かなければなーんにも出来ないような、ズボラなヒトなんである。
いったいぜんたい、どうやって司教にまでなれたんだろうか。
「――以上の理由から、わたしがこの場を離れて問題に対処するよりも、タマゴに行ってもらった方がより早く、より効率的に解決へ導くことができるのではないかと言う、実に論理的な発想によってお前に来てもらったワケだ。……ああ、問題のサルの回収は夕方までにしておくように。市場の皆さんに迷惑だからね」
「……休日を見事にツブされたボクに迷惑はかかってないと、そう言うワケですか……」
恨めしい眼つきでボクは司教を見上げた。
同じタイミングで、こちらを見やった司教の視線とバッチリぶつかる。
シッチャカメッチャカな性格を別にすれば、確かまだ40代前で――、結構イイ男、なんではある。
几帳面に撫で付けられた髪。
心臓に毛の生えた中身を覆い隠す、司教の修道衣。
寄って来る女のヒトだっているはずなのだ。
……性格がよければ。
「何故迷惑なんだね?聖職者たるもの、市井の信者への奉仕活動、これ至上の喜びと感涙にむせ返っても、わたしは全く構わないんだよ」
「……泣きませんよ」
その、40歳手前独身男上司は、面白がるように――いやコレは確実に面白がっているな――ボクを見ている。
黒ブチ眼鏡の奥の灰色の瞳は苦手だ。
それ以上有無を言わせない強さと、初めて出会ったときの穏やかさを今でもたたえているから。
そう。
何を隠そう、ボクが小さい頃トラウマになった、「ピクニックに出かけて、ゾンビとホネの集団に追い掛け回されたのに、誰も助けてくれなかったよ事件」を収束させてくれたのは、偶然その場を通りかかったネイサム司教だった。
――もう大丈夫だ。
恐怖と疲労に、精も魂も尽き果てかけたボクを抱きとめてくれたのが、一瞬で不死者たちを浄化し蹴散らした、このヒトだった。
――良くないものは眠ってしまったから。
見上げたそのヒトは、安心させるようにボクに言い聞かせてくれて。
それから汚れるのにも構わず、袖口でボクの涙と鼻水でグシャグシャになった顔を、拭いてくれた。
――ほら。綺麗になった。
にっこりと微笑んだ慈愛の顔を、ボクは忘れない。
「……今となっちゃあ忘れちゃったほうが、人生楽に生きられるような気もするんだけどね」
「何を一人でブツブツ言っている」
「いえ。なんでもないです」
慈愛は慈愛でも、あれはきっと偽善者の微笑だったに違いない。
とは、口が裂けてもいえないボクである。
おまけに、教会の仕事を斡旋……と言うか、引き抜き?してくれたのも、このヒトだった。
恩があると言えば、ある。
ありがたいと感謝していないワケじゃあない。
まぁ、その理由が、
「お前は魔物に好かれるタチのようだ。わたしの仕事に何かと都合が良い。紹介状を書いてやるから、教会まで来なさい」
……ボクのためを思って言ってくれたのか、自分に好都合だったからだけなのか。
天邪鬼だから、どんなに聞いたって、本心はいつまでも言わないだろう。
「タマゴ」
「ははははいッ」
思わずぼんやりと回想しかけたボクを、不審感を込めた声が現実へ引き戻した。
「他に、何か質問は」
「ありません」
「そうか。ところで今お前暇そうにしているね。ちょっとそこまで走ってわたしの昼食を」
「――自分で買いに行ってくださいッ!」
これ以上長居すればするほど、雑用を押し付けられそうな気が満々する。
慌ててボクは踵を返し、一礼もそこそこにネイサム司教の部屋を後にしたのだった。
一筋縄じゃ、本当に行かないのだ。
「……なーにが小さめのサル、だ」
教会を後に、そのまま家には戻らず真っ直ぐ依頼のあった場所へと向かったボクは、惨劇の現場と化している中央市場で放心状態に陥った。
テントというテントが、ズタズタに切り裂かれている。
あちらこちらの木箱や荷車がひっくり返され、積んであったものはブチまけられて、足の踏み場もない。
これでもかと言う位、レンガは崩れ、喰い散らかされ、おまけに市場の丁度中央に位置する、よく待ち合わせに使われる噴水のど真ん中には、ご丁寧に脱糞。
怯えた顔の市場のヒトたちが、ボクが到着すると同時にほっとした様子を見せた。
「教会の、ネイサム司教様からの使いの方ですね?」
そんなことを聞かれる。
「ええ。そうです……けど」
頷きながら、ボクは有無を言わせなかった上司の顔を思い出し、みぞおちの辺りが重く、いやああな感触を覚えた。
知り合いに頼まれて、だとか、確か彼はそう言ったのだ。
目の前でよかった、助かったと喜びつつも、ちらちらとボクの顔色を窺う市場のヒトは、どう見てもあの司教と知り合いには見えない。
「あのヒト……司教は、あなた方になんと言ったんですか」
イヤな疑問は直ぐ解決してしまうに限る。
手近にいた一人を捕まえて、ボクは尋ねた。
「ああ、確か、『生き餌代わりのものを一人派遣するからそれでもう安心だ』とか、なんとか。けれど……その、あのケダモノは獰猛過ぎて、どうもあなたの手に負えるようには見えないのですけれども」
「生き餌……」
「その、『サル並にすばしこいので平気だろう』とも」
「獰猛なケダモノ……」
小さなサル、と。
司教は確かにそう言ったのだ。
「あの……、サル、と……ボクは聞いてきたんですけれども」
「サル……と言えば、サルでしょうか?」
いや待て、その「でしょうか?」の「?」は一体なんなんだ。
聞いてるのはこっちの方だ。
聞くごとに増してくるいやああな予感をなんとか払拭すべく、ボクは再び口を開きかけ、
「――シャアアアアッ」
不意に響いた動物の放つ威嚇の声に、驚いて顔を上げた。
何だ今のあまりといえばあまりに可愛らしくない声、は。
聞いた市場のヒトはうわ来た、だの助けてくれ、だのと悲鳴を上げて、頭を抱えて走り去ってしまう。
蜘蛛の子を散らすようにあっという間に誰もいなくなってしまった。
ボクだけ、ぽつーんと。
「……あのー」
呼び止めたボクの手は、虚しく宙を掻くばかりで、
「ギシャアアアアアアッ」
そこへ、もう一度例の声がして、それから、サルにはまるで不似合いな声を上げる本体がのっしのっしと姿を現した。
「はは……小さいサル……ね……」
「ガアッ」
四足で歩行しているにしては、確かに前足が妙に長くて、胸板と肩幅があり、まぁサルに似てるといえば似ていないこともない。
例えば、この動物の名前を知らなくて、だけど誰かにその姿を伝えるのならば、ボクもやっぱり「サルにちょっと似た」と言う風に伝えるかもしれない。
けど、それはあくまでも「ちょっと」だ。
どう考えてもコレはサルじゃあない。
て言うか、それ以前に小さくもなんともない。
ゆうに成人男性の縦は二倍、横は四倍もある、明らかに野生の普段ボクらがサルと呼んでいるものとは別個の「魔物」が、長めの犬歯をむき出してボクの方へ威嚇して見せた。
毛皮のうっすらとしたエメラルド色加減が、可愛らしいといえば可愛らしいと言えなくも……
いや。可愛くない。
「わあッ」
半分腰を抜かしながら、ボクはもう本能的にくるりと回れ右をして、脱兎の如く駆け出。
市場がどうなろうと、とりあえずこの状況では知ったこっちゃなかった。
丸腰であんな相手に太刀打ちしろって?ムリだ。
いや、例え完璧に武装してたとしたって、多分武道の心得も何もないボクは一発で吹き飛ぶ。
到底ムリだ。
「と言うかコレは、確かに魔物なんだから教会筋の仕事かもしれないけど、どちらかと言うと、王都騎士団にでも駆逐を頼んだほうが断然早いんじゃないか?――って言うかああもう!追ってくるし!真っ直ぐ追ってくるし!!」
ちらりと後ろを振り向いたボクは、ますます必死の形相になって走らざるを得なくなった。
緑色の巨大な魔物が、嬉々としてボクを追って来ている。
そう。
ボクが、ゾンビだのホネだの、そうでなくともこう言うケダモノ型の、とにかく魔物と名の付く魔物に好かれるのは――もう、体質みたいなものだ。
説明してくれたヤツに言わせてみれば、「生気」とか「オーラ」だとか言うらしい。
人間の目には見えないけど、魔物の目には見える、気の流れとかニオイと言うのが、確かにあって、その中でも特に魔物を惹き付ける、特有の「ニオイ」を、ボクは発しているらしいのだ。
百万人に一人なんだと。
嬉しくない。
褒められてもなっっんにも嬉しくない。
おまけにこうして、毎度毎度、魔物に鉢合わせするたびに、ソイツと追いっかけっこをしなきゃいけない破目になる。
追う方は喰う方なんだから、多少手抜きしたってどうってコトないだろうけど、追われるボクははっきりと、何ていうかネコに追い詰められたネズミ状態だ。
真剣に逃げるんである。
だって捕まっちゃったら最後、絶対にロクなことにはならない。
おかげで逃げ足だけは速くなる一歩だけど、その前に毎度恐怖に縮み上がる心臓が持たない気がする。
後ろをもう一度振り向いて、相変わらずの速度で魔物が追ってくることを確認すると、ボクはヒト一人がようやく通れるくらいの、路地裏を選んで走りこむ。
ここなら、あの巨体は入ってこれ――
「グゥェアアアアアアッ」
「……って無理矢理捻りこんでくるし!」
その魔物が特殊なのか、もともと魔物と言うのがそう言うものなのかよく判らないけど、見た目よりもしなやかさを見せ付けて、魔物はさらに追って来た。
「ヤバいって真面目にヤバいってコレ逃げ切れないって」
流石に細い路地裏は魔物の速度も落ちたものの、いつまでも路地裏が続くワケでもない。
かと言って、広い場所へボクが逃げたら、多分屋根の上やら木の上やら、三次元で移動できる魔物に勝てるハズもなく、……て言うより、広い場所は人通りも多い。
魔物は多分、ボクを真っ直ぐ追ってくるだろうから、通行人を巻き込む危険性はおそらくはないだろうけれど、ボクは魔物じゃないので、その心変わりを知ることはできない。
100パーセント、安全ではない。
危険なことはなるべく選びたくはなかったし、それでなくとも、もし一般の皆さんに迷惑をかけちゃった場合、事後ネイサム司教からどんな難癖つけられるか、判ったモンじゃない。
「わああああッどうしようどうしようどうしようッ」
走りながらボクは喚いた。
とりあえず細い路地を選んで選んで、ひとまずそのまま振り切れないかと角を曲がり、
また角を曲がり、
それから、
ぎゅっと心臓をつかまれる現実に、ボクは目をむいた。
……そうなのだ。
細い路地裏は、時にこうして、
「……行き、止まり……」
無常にも目の前には壁が、立ち塞がっている。
「うそ……ぉ」
取っ掛かりも何もない壁はボクには少し高すぎて、上れそうにない。
何か、武器になるようなパイプでも落ちてないかと見回しても、そこらに転がっているのは紙クズだったり布キレだったり。こんがらがった釣り糸だったり。
ダメだ。
全力疾走した荒い呼吸を何とか立て直しながら、ボクは背後から迫る音に恐怖して振り向いた。
口端から涎をダラダラと滴らせ、あちこち体を擦りキズだらけにしながら、だけど魔物の視線は真っ直ぐボクを見ている。
獲物を追い詰めた目だ。
窮鼠猫を噛む、と言うことわざはあるけど、アレはネズミに噛めるだけの歯があるからであって、いやボクにも歯が無いのかって聞かれると、それはあるよと答えるんだけど、
って言うかムリ!絶対ムリ!
あの魔物を齧るなんてボクにはムリ!
野生に特有の獣臭さが、ぷんぷんと袋小路に蔓延する。
ああ絶対……ムリ。
一歩一歩近づく緑色の巨大サルに、ボクは半ベソをかきながら壁に背を擦りつけ、
「うわあああッ。誰か――ッッ」
歓喜の腕を伸ばされ、今しもむんずと魔物に掴まれる直前、頭を抱えて絶叫した。
途端に、
がつり、
と鈍く重い音。
ギャアアアアッッ。
同時に響き渡る苦鳴音が、ボク自身のものでないと気付いて、驚いてボクは顔を上げ、腕の隙間から前を見た。
「え……あ、あ、あ」
ボクに伸ばした魔物の腕が、ありえない方向に曲がってへし折れていた。
「――俺さまのモンに手を出すたぁテメェ相当イイ度胸してんじゃねぇか?ぁああ?」
見知った大きな背中が見える。
魔物サルの顎を引っつかんで、高々と頭上に掲げる一体どんな腕力してるんだ、って言う……その、持ち主。
ボクの家に住みついている居候であり、不本意にも同居人であり、育ての親でもあり、
「シ……ラス」
でもって理解不能の人型の魔物は、渾身の力で巨大サルを吹っ飛ばし、物凄い怒りの形相と共に、道端に落ちていた釣り糸をひょいと手に取ると、右の指を二本そろえてボクには聞き取れない言葉を、口の中で呟いた。
そのまま指を糸に当てる。
あちらも食事の邪魔をされ、怒り狂った巨大サルが、一声叫ぶと叩きつけられた痛みも構わず、俊敏な動作で路地の壁を蹴りつけ、シラスの長身に襲い掛かった。
ボクを庇うように背を向け、シラスは突っ立っている。
構えようとも、逃げようともしない。
「シラス!――」
限界まで威嚇の牙をむき出し、爪を立て、邪魔な男をブチのめそうと飛び掛ったサルは、けれどシラスのその目と鼻の先で、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のように、飛んだ姿勢そのままに、無様に動きを止めていた。
「――あ、」
そこでボクは気づく。
うっすらと青く光る糸が、シラスの前に幾本も幾本も張り巡らされているのだった。
釣り糸だ。
転がっていた釣り糸に、シラスが魔法をかけたんだ。
「俺さまのモンを喰おうとした上に、俺さまに恐れ気もなく飛び掛ろうなんて脳ミソ沸いてんじゃねぇのかこのウジ虫が」
言ってシラスが、く、と右手を下に引くと、
「ギャアアアアアアアッ」
巨大サルが苦痛の雄叫びを上げた。
ボクの目の前で、見る見るうちに張り広がっていた糸は収縮し、サルを絡めとり、ぎりぎりとその体を締め付け、食い込む。
ぶつ、ぶつ、と押し破られた桃色の毛皮から血が滲み始めた。
「次はもう少し賢いケダモノで生まれてくるんだな……死ね」
「シラスッ」
ぽかんと状況を眺めていたボクは、そこに至ってシラスの意図が読め、我に返るとがむしゃらに目の前の背中に飛びついた。
「ダメだよ、シラス!」
「――レイディ」
軽く――と言うか、かなり――驚いた声を上げて、シラスがボクを見下ろした。
突き刺すような冷たい瞳が、ボクを映して少し和らぐ。
「頭打ったのか」
「悪いのは事実だけど今日はまだ打ってないよ!」
この状況で一言目がそれって言うのも……まあ、らしいと言えばらしいか。
ボクは振り切れそうなほど首を横に振った。
「キミ、喰われかけたんだろ」
「それは、そうだけど。そうなんだけど、でも、」
「じゃあ何故だ?何故止める?キミを喰い殺しかけた魔物をブチ殺して何が悪い?」
そう言ってシラスはまた軽く指を引く。
締め付けられて満足に呼吸ができないんだろう、口から泡を吹きながらサルが哀れな声を上げた。
「シラス!」
「――何だよ」
羽交い絞めにした後ろから、ボクは思わずシラスの首を絞める。
「ダメだってば!」
「ダメだとかなんだとか、おかしなことをキミは言うな?……自分の置かれた状況が判ってんのか?たまたま俺が中央市場に用事があって、出かけてみればお祭り騒ぎまっさかり、だ。生き餌代わりの女のコが一人逃げて言ったと聞いて、直ぐ追いつけたから良かったようなものの、キミ、コイツに殺されかけたんだぜ?」
「わ、判ってるよ」
「判ってるなら何故止めるんだ。やられたら、やりかえす。相手のテリトリーを犯したモノは、相手からどんな報復を受けようと文句は言えない。弱肉強食。それが魔物同士の掟だ」
なけなしの力で締め付けるボクの腕が、小刻みに震え始める。
怖いワケじゃない。
ただ、目の前の、ボクが今飛びついている相手とボクの間に、もう交われぬくらいの深い深い隔たりがあるんだと気付いたからだ。
そう。シラスもまた、魔物なのだ。
こんなに一緒に暮らしているのに。
こんなに近くにいるのに。
「レイディ。邪魔だ。怪我をするから離れていろ」
「だからダメだってば!」
「何がだ」
「なんだかよく判らないけど、ダメなものはダメなんだよ!そりゃ追いかけられたし怖かったし死ぬかもしれないと思ったしもう終わりだとか思ったけど、けど!けど殺しちゃダメだ!」
呆れたように、諦めたように、シラスは大きくひとつ息を吐く。
その音を聞いて、ボクはなんだか涙が滲んだ。
繋いだ手を離されたような寂しさがあったから。
俺とキミとは分かり合えないな、シラスは今そう思ったに違いないから。
「ルール、というものがあるだろう」
力をこめていたはずのボクの腕を難なく振りほどいて、シラスがボクに向かい直る。
「可哀相だとか痛そうだとか。そんな感傷だけで生きてはゆけないし、腹も膨れない。……少なくとも、俺が生きてきた世界では、そうだった」
小さい子に言い聞かせるように、視線を下げてシラスが言う。
ボクはうつむき加減で答えた。
「判るよ。シラスの言ってるコト、間違ってるワケじゃないって言うのも判るよ」
だけど。
「だけど」
「……『だけど』?」
「だけど、……キミ、ボクに言ったじゃないか。ヒトの嫌がることをしちゃいけない、ってそう教えてくれたじゃないか。ボクはそれを聞いて育ったんだよ」
「……それは」
それは、そうなのだろう。
言葉に詰まってシラスが、何とも言えない顔をする。
「そりゃ、人間のキミに魔物のルールを叩き込んでも仕方が無いと思っ――」
「でも言ったのはキミだよ」
駄目押しに言葉を被せて、ボクが上目遣いで見上げる。
「いやだから、一般社会で生きていくためのルールと俺のルールとでは――」
「子は親の背中を見て育つって言うじゃないか」
「――」
逆説を言えば反面教師、と言うフレーズもあるなとか、一瞬ボクの脳裏に浮かばなかったワケじゃないんだけど、それはとりあえず一旦どこかに置いておくことにして、
「有言実行って言葉、ボク好きだけどなぁ」
押し切った。
シラスは言い返そうとして一瞬口を閉じ、考えている。
何か言い返そうとはしてるみたいなんだけど、その顔がもうキレた冷たい顔でないことに、ボクは内心ほっとした。
いつもの見慣れた、シラスの表情だ。
「でもよ、レイディ。ヒトの嫌がることは率先してやれと、どこかの国の道徳の本に」
「それ、キミが使ってるのとイミが違うだろ……」
言い返す声も、普段の、穏やかな声に戻っていた。
「――判ったよ」
しばらく無言の時間が流れる。自問自答をぐるぐると繰り返して、何とか自分を納得させたんだろう、シラスが先に折れた。
「殺すなとキミが言うなら。殺さない」
「うん。ありがとう」
ボクは安心して、肩の力を抜いた。
魔物の癖に、シラスは約束したら、よっぽどのコトがない限り約束を破らない。
それは確かなことだ。
シラスには絶対言わないけど、ボクの本当のところは――サルが殺されたら可哀相だからとか、痛そうだからとか、そんなんじゃなくて。八つ裂きにされたサルを見るのが気持ち悪いとか、そう言うのでもなくて。
本当の本当のところは、凍ったような表情のシラスを見るのが――哀しいから。
突き放した顔が、さびしいから。
本人に言ったら、かなりの高確率で調子に乗りそうな予感がするから、絶対、絶対、言わないけど。
「でもコイツを野放しにはできねぇ」
サルを見下ろしてシラスの言った言葉も、至極もっともだ。
「あ」
そこでボクはようやく、市場に来る前のサンジェット教会で、ネイサム司教が言っていたことを思い出す。
「『始末』しろ、とは言われてないんだった」
「――何が?」
「夕方までに『回収』しろと、そんな風に確か言ってたな」
「……飼い主でもいるってか」
そうか。そう言う可能性もあるのか。
確かに野生の魔物にしては、妙に人馴れしてるようなところがあるし、毛並みも肉付きもいい。
野良犬と飼い犬の違いのように、普通はもうちょっと、荒んだ顔と言うか、やせこけた感じ、がするものだ。
「あ、でも。ソレ家まで引っ張っていくワケ?」
「まさか」
巨体を持ち上げると言う、馬鹿力を先ほど見せてくれたシラスだけど、どう考えてもサルを引きずって家まで持ち帰る姿が想像できない。行為が可能とか不可能じゃなく、想像できない、んだ。
「転がしておく」
「ここに?」
「――だってキミ、こんなモン往来引きずって帰ったら、それこそ大騒ぎになるぜ?」
そりゃあそうだ。
怖がって逃げ惑う人もいるだろうし、面白がってずっと付いてくる人もいるだろうし。
ボクなんか多分、見世物かと思ってずっと付いて行く方の部類だと、自分のことながら思う。
「でも。こんなところ置いておいたら、うっかりここまで来たヒトの心臓止まっちゃったりしない?」
巻き添えにするのは避けたい。
ネイサム司教のインケンなお説教を食らうのは、もっと避けたい。
「見えるようにはしねぇよ」
内心苦悩するボクなんて最初からお見通し――なんだろうな――、言ってシラスは、片手をサルの方へかざし、またボソボソと口の中で一言二言、呟いた。
あっ、と言う間に、
まさにあっ、と言う間に、
まるで、滑車で吊り上げたように、哀れな悲鳴を上げるサルの体は宙に浮き上がって、それから不意に視界から見えなくなった。
高く上がっていっちゃったワケじゃない。
掻き消えてしまったのだ。
「多少の痛みはお仕置きだと思って我慢するんだな。命があるだけでもモノダネと思え」
「ど、どっか行っちゃった」
「そこにいるぜ」
きょろきょろと辺りを見回すボクに、そこ、とシラスは消えた辺りを顎で指し示す。
「……見えない、けど」
「だから。見えるように転がしてたら、見たヤツが驚いて騒ぎになっちまうんだろ?」
そうです。そうでした。
頷くボクに、
「まったく」
仕様が無いなと言う顔をして、それからシラスは背を向けた。
「腹が減った。昼メシにしよう」
「あ、う、うん」
さっさと歩き出したシラスの後を追って、ボクもその場を後にしたのだった。
「――無事に、回収できたようだな」
ボクとシラスが――これから家に帰って昼食を作り始めても遅くなってしまうと判断して――そこいらの街角で、パンとチーズを買い、緑地を兼ねた王都公園の木陰で、のんびりと齧っているところに、不意に振って湧いた声がある。
「ネ、ネイサム司教」
声の主に思い当たって、ボクは慌てて居住まいを正した。
別にそんな不恰好な姿勢で座っていたワケでもなし、別に畏まらなくてもいいのだろうけど、コレはもう、体に染み付いた反射的なものだ。
目の前に、ずるだらと裾まで隠れる修道衣を着て、見た目は眠そうな風情でネイサム司教は立っている。
ただし、眠そうに見えるからと言って、侮ると足元をすくわれるのだ。
「ところでタマゴ。念のために聞くが、殺しては、いないだろうな」
「縛り上げてますけど、殺してはないです」
「それは良かった」
そう言うと司教は、厳しい顔を崩してやんわりと微笑む。
ボクが内心外面の良い笑みと名付けている、別名、「偽善者スマイル」である。
コレにダマされて泣いたものが、(……ボクも含めて)一体何人いるんだろうか。
「二、三日転がしておいてくれ」
「え、あの。ネイサム司教が……後始末してくれるワケじゃあ……いや……そんなコトはあり得ない、です、ね……」
言いながらボクはそれが無駄なことだと気づいた。
ありえない。
天地が引っくり返ってもあり得ない。
美味しいところはかっさらおう、とか言う功名心もナイ代わりに、部下の面倒を細やかに見てやろう、と言う心遣いもない上司なのだ。
良くも悪くも放任主義。
「トルグへ行ってもらうことになるかもしれない」
不意に、頬を弄る心地良い風に吹かれながら、司教はぽつりとそう言った。
「トルグ、ですか」
「まだ未定だがな」
トルグとは、ここ、王都カスターズグラッドから北に運行馬車で二日……の、商業都市だ。
大陸一の湖に面していて、対岸は見えない。
まるで光景は海辺の港町なんである。
教会へ依頼の多いことでも有名な町だった。
「追って連絡する」
「あのう……それまであのサルは、そのまま……?」
「そのままでいい。二日三日飲まず喰わずでくたばるような、ヤワい生き物でもないだろうから」
ないだろうから、と言うところで司教はちらりと、ボクに声をかけて初めて、隣にしどけなく寝そべっているシラスへ目をやった。
起きているのか寝ているのか、シラスは目を閉じてじっと黙っている。
「ところで、司教。あの、ひとつだけ言いたいんですけど」
そんなシラスの横顔を、つられてボクも見やった瞬間、内心わだかまっていた不満が不意にムク、と頭をもたげた。
「なんだ」
「なああああにが『小さいサル』ですか!」
口にした瞬間、ボクの不満は爆発した。
怖い思いをしたのだ。
怒鳴るのは許して欲しい。
「十分、というか十二分に巨大じゃないですかアレ!」
「類人魔猿・亜綱目種・バブリブル科・バブーンと呼ばれる魔物だ」
アレは。
パンを固く握り締めてわなわなと震えるボクへ、どこ吹く風でネイサム司教は言った。
「成獣ならば……そうだな、小さな水車小屋一件分ほどの大きさに育つのだな。アレは、かなり小さいサイズなんだよ」
「バブーンだかドブーンだか知りませんけど、そう言う説明は事前にお願いしますよ!」
「わたしは事細かに説明してやるつもりでいたんだがな。説明する前にお前が走っていってしまったんだろう」
まったく。ああ言えばこう言う。
屁理屈でコネる上司に勝てそうにないボクは、呆気なく白旗を振ることにした。
相手にしたって、遊ばれるだけなのだ。
「怪我がなくてなによりだった」
そうして浮かべる、態のイイ偽善者スマイルに、ボクはがっくりと肩を落とした。
「……いいですよもう……判りましたよ……。ところで司教。今日は確か、崇高なる仕事がいくつも横たわっていて、机の前から離れられないハズでしたよね」
「――神は言い給う。『汝が休息を得るためならば、わたしは全てを投げ出そう』、と」
「……ようするに。サボってるワケですね」
バブーンのサイズの大小も、追いかけられたのも、もう済んだことだから、納得は行かないけど、まぁいいとしよう。
だけど、
「困りますよ!司教が仕事をしないせいで、事務からお叱りのとばっちりを食らうのは、ボクなんですからね!」
今度こそ、握り締めた手のひらの中でぐしゃ、とパンがツブれる音がした。
「ボクの報告書の方は、まだ怒られるのがボクだけだからいいですけど!宮廷礼拝の件なんかは、アレ、用意する方もされる方も、大人数が関わるんだから、さっさと済ませてくださいよ!」
「判った判った」
これ以上ここにいても、ボクの小言を喰うだけだと判断したんだろう、さり気なーく手を上げて、司教はまたのんびりと散歩がてら、歩き去ってゆく。
「――タマゴ」
「は、はい?」
「気をつけろ。災いが近くに過ぎる」
「……え?」
背を向け肩越しに、最後にぼそりと言い残して。
何のこと……だ?
「……ってちょっと司教!イミシンな言葉を残す前に、お願いですから礼拝の方の資料は今日仕上げちゃってくださいってば!」
判っているとの返事代わりなんだろう、振り向かずに片手をひらひらと上げて、司教は去っていった。
まったく。
憤慨の溜息をついたボクに、
「――気にいらねぇな」
やっぱり寝ているワケじゃなかったシラスが、不機嫌そうにそう呟いて体を起こす。
「……どうしたの」
見やったボクは思わず目を見張る。
さんさんと降り注ぐ太陽光に辟易しながらも、さっきまで意外とコイツは、上機嫌だったハズなのだ。
鼻歌のひとつも歌い、「やっぱキミの作ったメシが一番美味い」とかホメ言葉を言ってくれつつ、ボクと一緒にパンまで齧っていたんである。
今はびっくりするほど、金の瞳をぎらつかせて、
険悪な顔をしていた。
「――キミのあの上司」
「上司って……ネイサム司教のコト?」
「俺を見るたび、宣戦布告なんだかどうだか知らねぇが、殺気をビンビン放ってきやがる」
気にいらねぇ。
吐き棄てるように呟いて、シラスは立ち上がる。
「興が削がれた。俺ぁもう帰るぞ」
その言葉に座ったままのボクは慌てて、シラスを引きとめようと袖口に手を伸ばした。
なにせまだ、昼ゴハンの最中だったのだ。
「え。ちょ、ちょっと待ってよ」
この後できれば一緒に夕飯の買い物に行って、荷物持ちでもしてもらいたいな……とか言う、ちょっぴりヨコシマな計算も、ある。
「もともと俺は市場へ用事があって来ただけだ。キミの暇つぶしに付き合う義理はねぇだろう?……それに、キミだって『災い』が側をウロついてるよりいないほうが、随分とマシだろうさ」
「なんてコト言うんだよ。ボクがそんな風にキミのこと、思っているとでも言いたいワケ?そもそも、昼メシにしようって言ったのは、シラスの方じゃないか。……せっかく、こんないい天気なのに」
恨めしげに顔を見上げても、本気で機嫌を損ねたらしいシラスは取り付くシマもない。
「いい天気だと感じるのは人間『だけ』だろ。魔物の俺にとっちゃあ――最悪の天気、だ」
ふん、と鼻息も荒くシラスは呟き、
ボクがまたたきひとつした次の瞬間には、目の前にもう、その姿はない。
大きな黒鴉が一羽、鋭い視線でボクをチラ、と見やって、
「シラス……ッ」
羽音を立てて、空へ舞い上がって行ってしまった。
普段、ボクやその他の人間の前で、極力魔物であることを隠しているシラスだ。
持って生まれた才能である、魔法使い自体の存在が意外に少ないこともあって、使うと目立つと言って、魔法も必要がない限りなかなか使わない。
流石に噂になるとか、避けられる、てコトはないけど、それでもやっぱり魔法を使えるヒトと言うのはそれなりに希少なのだ。
ボクが、魔法介護士試験に連続落第する理由もそこんところに……多分ある。
だから、街の中の移動だって、たいがいは徒歩であちらこちらをウロついている。
それがイイとか悪いとかではなく、シラスが人間の街の中で目立たないように、自分で決めたルール、だ。
でもきっと、その決めたルールの中には、ボクと言う存在が大きく入っているんだろうとは思う。
シラス一人だったら、そもそも人間のいる街に暮らす意味はないのだ。
趣味でもない限り。
ボクがいるから、シラスは人里に下りてきたんだろうし、
ボクが魔法介護士の試験を受けたいと望んだから、シラスは人目の少ない山村から、王都カスターズグラッドへ引っ越して来たに違いないのだ。
そんな、多分きっと根はひどくお人よしなヤツが、白昼堂々姿を変えて帰ってしまったんだから、アレはよっぽど頭にきてたんだろう。
ボクには、ネイサム司教が「殺気」とかを放っていたようには全然見えなかったんだけどな。
「……んっとに、もう」
膨れながらボクはシラスが飛んで行った空をバカみたいに見上げ――、けれどいつまでもそうしてても仕方がないので、腰を下ろして一人、昼ゴハンを再開しはじめる。
「なんだよ。なんだよなんだよ……!」
判っちゃいるけど、置いてきぼりにされた怒りはボクにだってあるのだ。
腹立ちまぎれに固いチーズへ歯を立てて齧るうちに、
「……なんだよ……」
ボクは不意に哀しくなって、うつむいた目の前がボヤけてしまった。
――キミの暇つぶしに付き合う義理はねぇだろう?
――いい天気だと感じるのは人間『だけ』だろ。
ムカついたついでに漏れた言葉なのは判ってるけど、もしそれがシラスの本心なんだとしたら、
……やっぱりボクはとても哀しい。
人間と魔物なんだと、はっきりと境界線を引かれてしまった気がするから。
バブーンを殺しかけたときの、シラスの声が、表情が、蘇る。
あの時。
口に出しては言わなかったけれど、所詮俺とキミとは分かり合えない、そんな風にシラスは思っているんだろうか。
百万人に一人の、「美味しそうなエサ」の価値としてしか、ボクと一緒に暮らしている意義はないと、本当のところ、思っているんだろうか。
それはとても哀しい。
――側を災いがウロついてるより、随分とマシだろうさ。
本当に、マシだと、思ってるんだろうか。
「でもボクはキミと一緒にいたいんだよ……」
ジンワリと熱くなった目頭をこすって、ボクは妙にしょっぱくなってしまったチーズを飲み込んだ。
教会からのお達しが来たのは、それから四日後のことだった。
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最終更新:2011年10月15日 18:16