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  途端に、

  がつり、
  と鈍く重い音。
  ギャアアアアッッ。
  同時に響き渡る苦鳴音が、ボク自身のものでないと気付いて、驚いてボクは顔を上げ、腕の隙間から前を見た。
 「え……あ、あ、あ」
  ボクに伸ばした魔物の腕が、ありえない方向に曲がってへし折れていた。
 「――俺さまのモンに手を出すたぁテメェ相当イイ度胸してんじゃねぇか?ぁああ?」
  見知った大きな背中が見える。
  魔物サルの顎を引っつかんで、高々と頭上に掲げる一体どんな腕力してるんだ、って言う……その、持ち主。
  ボクの家に住みついている居候であり、不本意にも同居人であり、育ての親でもあり、
 「シ……ラス」
  でもって理解不能の人型の魔物は、渾身の力で巨大サルを吹っ飛ばし、物凄い怒りの形相と共に、道端に落ちていた釣り糸をひょいと手に取ると、右の指を二本そろえてボクには聞き取れない言葉を、口の中で呟いた。
  そのまま指を糸に当てる。
  あちらも食事の邪魔をされ、怒り狂った巨大サルが、一声叫ぶと叩きつけられた痛みも構わず、俊敏な動作で路地の壁を蹴りつけ、シラスの長身に襲い掛かった。
  ボクを庇うように背を向け、シラスは突っ立っている。
  構えようとも、逃げようともしない。
 「シラス!――」
  限界まで威嚇の牙をむき出し、爪を立て、邪魔な男をブチのめそうと飛び掛ったサルは、けれどシラスのその目と鼻の先で、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のように、飛んだ姿勢そのままに、無様に動きを止めていた。
 「――あ、」
  そこでボクは気づく。
  うっすらと青く光る糸が、シラスの前に幾本も幾本も張り巡らされているのだった。
  釣り糸だ。
  転がっていた釣り糸に、シラスが魔法をかけたんだ。
 「俺さまのモンを喰おうとした上に、俺さまに恐れ気もなく飛び掛ろうなんて脳ミソ沸いてんじゃねぇのかこのウジ虫が」
  言ってシラスが、く、と右手を下に引くと、
 「ギャアアアアアアアッ」
  巨大サルが苦痛の雄叫びを上げた。
  ボクの目の前で、見る見るうちに張り広がっていた糸は収縮し、サルを絡めとり、ぎりぎりとその体を締め付け、食い込む。
  ぶつ、ぶつ、と押し破られた桃色の毛皮から血が滲み始めた。
 「次はもう少し賢いケダモノで生まれてくるんだな……死ね」
 「シラスッ」
  ぽかんと状況を眺めていたボクは、そこに至ってシラスの意図が読め、我に返るとがむしゃらに目の前の背中に飛びついた。
 「ダメだよ、シラス!」
 「――レイディ」
  軽く――と言うか、かなり――驚いた声を上げて、シラスがボクを見下ろした。
  突き刺すような冷たい瞳が、ボクを映して少し和らぐ。
 「頭打ったのか」
 「悪いのは事実だけど今日はまだ打ってないよ!」
  この状況で一言目がそれって言うのも……まあ、らしいと言えばらしいか。
  ボクは振り切れそうなほど首を横に振った。
 「キミ、喰われかけたんだろ」
 「それは、そうだけど。そうなんだけど、でも、」
 「じゃあ何故だ?何故止める?キミを喰い殺しかけた魔物をブチ殺して何が悪い?」
  そう言ってシラスはまた軽く指を引く。
  締め付けられて満足に呼吸ができないんだろう、口から泡を吹きながらサルが哀れな声を上げた。
 「シラス!」
 「――何だよ」
  羽交い絞めにした後ろから、ボクは思わずシラスの首を絞める。
 「ダメだってば!」
 「ダメだとかなんだとか、おかしなことをキミは言うな?……自分の置かれた状況が判ってんのか?たまたま俺が中央市場に用事があって、出かけてみればお祭り騒ぎまっさかり、だ。生き餌代わりの女のコが一人逃げて言ったと聞いて、直ぐ追いつけたから良かったようなものの、キミ、コイツに殺されかけたんだぜ?」
 「わ、判ってるよ」
 「判ってるなら何故止めるんだ。やられたら、やりかえす。相手のテリトリーを犯したモノは、相手からどんな報復を受けようと文句は言えない。弱肉強食。それが魔物同士の掟だ」
  なけなしの力で締め付けるボクの腕が、小刻みに震え始める。
  怖いワケじゃない。
  ただ、目の前の、ボクが今飛びついている相手とボクの間に、もう交われぬくらいの深い深い隔たりがあるんだと気付いたからだ。
  そう。シラスもまた、魔物なのだ。
  こんなに一緒に暮らしているのに。
  こんなに近くにいるのに。
 「レイディ。邪魔だ。怪我をするから離れていろ」
 「だからダメだってば!」
 「何がだ」
 「なんだかよく判らないけど、ダメなものはダメなんだよ!そりゃ追いかけられたし怖かったし死ぬかもしれないと思ったしもう終わりだとか思ったけど、けど!けど殺しちゃダメだ!」
  呆れたように、諦めたように、シラスは大きくひとつ息を吐く。
  その音を聞いて、ボクはなんだか涙が滲んだ。
  繋いだ手を離されたような寂しさがあったから。
  俺とキミとは分かり合えないな、シラスは今そう思ったに違いないから。
 「ルール、というものがあるだろう」
  力をこめていたはずのボクの腕を難なく振りほどいて、シラスがボクに向かい直る。
 「可哀相だとか痛そうだとか。そんな感傷だけで生きてはゆけないし、腹も膨れない。……少なくとも、俺が生きてきた世界では、そうだった」
  小さい子に言い聞かせるように、視線を下げてシラスが言う。
  ボクはうつむき加減で答えた。
 「判るよ。シラスの言ってるコト、間違ってるワケじゃないって言うのも判るよ」
  だけど。
 「だけど」
 「……『だけど』?」
 「だけど、……キミ、ボクに言ったじゃないか。ヒトの嫌がることをしちゃいけない、ってそう教えてくれたじゃないか。ボクはそれを聞いて育ったんだよ」
 「……それは」
  それは、そうなのだろう。
  言葉に詰まってシラスが、何とも言えない顔をする。
 「そりゃ、人間のキミに魔物のルールを叩き込んでも仕方が無いと思っ――」
 「でも言ったのはキミだよ」
  駄目押しに言葉を被せて、ボクが上目遣いで見上げる。
 「いやだから、一般社会で生きていくためのルールと俺のルールとでは――」
 「子は親の背中を見て育つって言うじゃないか」
 「――」
  逆説を言えば反面教師、と言うフレーズもあるなとか、一瞬ボクの脳裏に浮かばなかったワケじゃないんだけど、それはとりあえず一旦どこかに置いておくことにして、
 「有言実行って言葉、ボク好きだけどなぁ」
  押し切った。
  シラスは言い返そうとして一瞬口を閉じ、考えている。
  何か言い返そうとはしてるみたいなんだけど、その顔がもうキレた冷たい顔でないことに、ボクは内心ほっとした。
  いつもの見慣れた、シラスの表情だ。
 「でもよ、レイディ。ヒトの嫌がることは率先してやれと、どこかの国の道徳の本に」
 「それ、キミが使ってるのとイミが違うだろ……」
  言い返す声も、普段の、穏やかな声に戻っていた。
 「――判ったよ」
  しばらく無言の時間が流れる。自問自答をぐるぐると繰り返して、何とか自分を納得させたんだろう、シラスが先に折れた。
 「殺すなとキミが言うなら。殺さない」
 「うん。ありがとう」
  ボクは安心して、肩の力を抜いた。
  魔物の癖に、シラスは約束したら、よっぽどのコトがない限り約束を破らない。
  それは確かなことだ。
  シラスには絶対言わないけど、ボクの本当のところは――サルが殺されたら可哀相だからとか、痛そうだからとか、そんなんじゃなくて。八つ裂きにされたサルを見るのが気持ち悪いとか、そう言うのでもなくて。
  本当の本当のところは、凍ったような表情のシラスを見るのが――哀しいから。
  突き放した顔が、さびしいから。
  本人に言ったら、かなりの高確率で調子に乗りそうな予感がするから、絶対、絶対、言わないけど。
 「でもコイツを野放しにはできねぇ」
  サルを見下ろしてシラスの言った言葉も、至極もっともだ。
 「あ」
  そこでボクはようやく、市場に来る前のサンジェット教会で、ネイサム司教が言っていたことを思い出す。
 「『始末』しろ、とは言われてないんだった」
 「――何が?」
 「夕方までに『回収』しろと、そんな風に確か言ってたな」
 「……飼い主でもいるってか」
  そうか。そう言う可能性もあるのか。
  確かに野生の魔物にしては、妙に人馴れしてるようなところがあるし、毛並みも肉付きもいい。
  野良犬と飼い犬の違いのように、普通はもうちょっと、荒んだ顔と言うか、やせこけた感じ、がするものだ。
 「あ、でも。ソレ家まで引っ張っていくワケ?」
 「まさか」
  巨体を持ち上げると言う、馬鹿力を先ほど見せてくれたシラスだけど、どう考えてもサルを引きずって家まで持ち帰る姿が想像できない。行為が可能とか不可能じゃなく、想像できない、んだ。
 「転がしておく」
 「ここに?」
 「――だってキミ、こんなモン往来引きずって帰ったら、それこそ大騒ぎになるぜ?」
  そりゃあそうだ。
  怖がって逃げ惑う人もいるだろうし、面白がってずっと付いてくる人もいるだろうし。
  ボクなんか多分、見世物かと思ってずっと付いて行く方の部類だと、自分のことながら思う。
 「でも。こんなところ置いておいたら、うっかりここまで来たヒトの心臓止まっちゃったりしない?」
  巻き添えにするのは避けたい。
  ネイサム司教のインケンなお説教を食らうのは、もっと避けたい。
 「見えるようにはしねぇよ」
  内心苦悩するボクなんて最初からお見通し――なんだろうな――、言ってシラスは、片手をサルの方へかざし、またボソボソと口の中で一言二言、呟いた。
  あっ、と言う間に、
  まさにあっ、と言う間に、
  まるで、滑車で吊り上げたように、哀れな悲鳴を上げるサルの体は宙に浮き上がって、それから不意に視界から見えなくなった。
  高く上がっていっちゃったワケじゃない。
  掻き消えてしまったのだ。
 「多少の痛みはお仕置きだと思って我慢するんだな。命があるだけでもモノダネと思え」
 「ど、どっか行っちゃった」
 「そこにいるぜ」
  きょろきょろと辺りを見回すボクに、そこ、とシラスは消えた辺りを顎で指し示す。
 「……見えない、けど」
 「だから。見えるように転がしてたら、見たヤツが驚いて騒ぎになっちまうんだろ?」
  そうです。そうでした。
  頷くボクに、
 「まったく」
  仕様が無いなと言う顔をして、それからシラスは背を向けた。
 「腹が減った。昼メシにしよう」
 「あ、う、うん」
  さっさと歩き出したシラスの後を追って、ボクもその場を後にしたのだった。

       

 「――無事に、回収できたようだな」
  ボクとシラスが――これから家に帰って昼食を作り始めても遅くなってしまうと判断して――そこいらの街角で、パンとチーズを買い、緑地を兼ねた王都公園の木陰で、のんびりと齧っているところに、不意に振って湧いた声がある。
 「ネ、ネイサム司教」
  声の主に思い当たって、ボクは慌てて居住まいを正した。
  別にそんな不恰好な姿勢で座っていたワケでもなし、別に畏まらなくてもいいのだろうけど、コレはもう、体に染み付いた反射的なものだ。
  目の前に、ずるだらと裾まで隠れる修道衣を着て、見た目は眠そうな風情でネイサム司教は立っている。
  ただし、眠そうに見えるからと言って、侮ると足元をすくわれるのだ。
 「ところでタマゴ。念のために聞くが、殺しては、いないだろうな」
 「縛り上げてますけど、殺してはないです」
 「それは良かった」
  そう言うと司教は、厳しい顔を崩してやんわりと微笑む。
  ボクが内心外面の良い笑みと名付けている、別名、「偽善者スマイル」である。
  コレにダマされて泣いたものが、(……ボクも含めて)一体何人いるんだろうか。
 「二、三日転がしておいてくれ」
 「え、あの。ネイサム司教が……後始末してくれるワケじゃあ……いや……そんなコトはあり得ない、です、ね……」
  言いながらボクはそれが無駄なことだと気づいた。
  ありえない。
  天地が引っくり返ってもあり得ない。
  美味しいところはかっさらおう、とか言う功名心もナイ代わりに、部下の面倒を細やかに見てやろう、と言う心遣いもない上司なのだ。
  良くも悪くも放任主義。
 「トルグへ行ってもらうことになるかもしれない」
  不意に、頬を弄る心地良い風に吹かれながら、司教はぽつりとそう言った。
 「トルグ、ですか」
 「まだ未定だがな」
  トルグとは、ここ、王都カスターズグラッドから北に運行馬車で二日……の、商業都市だ。
  大陸一の湖に面していて、対岸は見えない。
  まるで光景は海辺の港町なんである。
  教会へ依頼の多いことでも有名な町だった。
 「追って連絡する」
 「あのう……それまであのサルは、そのまま……?」
 「そのままでいい。二日三日飲まず喰わずでくたばるような、ヤワい生き物でもないだろうから」
  ないだろうから、と言うところで司教はちらりと、ボクに声をかけて初めて、隣にしどけなく寝そべっているシラスへ目をやった。
  起きているのか寝ているのか、シラスは目を閉じてじっと黙っている。
 「ところで、司教。あの、ひとつだけ言いたいんですけど」
  そんなシラスの横顔を、つられてボクも見やった瞬間、内心わだかまっていた不満が不意にムク、と頭をもたげた。
 「なんだ」
 「なああああにが『小さいサル』ですか!」
  口にした瞬間、ボクの不満は爆発した。
  怖い思いをしたのだ。
  怒鳴るのは許して欲しい。
 「十分、というか十二分に巨大じゃないですかアレ!」
 「類人魔猿・亜綱目種・バブリブル科・バブーンと呼ばれる魔物だ」
  アレは。
  パンを固く握り締めてわなわなと震えるボクへ、どこ吹く風でネイサム司教は言った。
 「成獣ならば……そうだな、小さな水車小屋一件分ほどの大きさに育つのだな。アレは、かなり小さいサイズなんだよ」
 「バブーンだかドブーンだか知りませんけど、そう言う説明は事前にお願いしますよ!」
 「わたしは事細かに説明してやるつもりでいたんだがな。説明する前にお前が走っていってしまったんだろう」
  まったく。ああ言えばこう言う。
  屁理屈でコネる上司に勝てそうにないボクは、呆気なく白旗を振ることにした。
  相手にしたって、遊ばれるだけなのだ。
 「怪我がなくてなによりだった」
  そうして浮かべる、態のイイ偽善者スマイルに、ボクはがっくりと肩を落とした。
 「……いいですよもう……判りましたよ……。ところで司教。今日は確か、崇高なる仕事がいくつも横たわっていて、机の前から離れられないハズでしたよね」
 「――神は言い給う。『汝が休息を得るためならば、わたしは全てを投げ出そう』、と」
 「……ようするに。サボってるワケですね」
  バブーンのサイズの大小も、追いかけられたのも、もう済んだことだから、納得は行かないけど、まぁいいとしよう。
  だけど、
 「困りますよ!司教が仕事をしないせいで、事務からお叱りのとばっちりを食らうのは、ボクなんですからね!」
  今度こそ、握り締めた手のひらの中でぐしゃ、とパンがツブれる音がした。
 「ボクの報告書の方は、まだ怒られるのがボクだけだからいいですけど!宮廷礼拝の件なんかは、アレ、用意する方もされる方も、大人数が関わるんだから、さっさと済ませてくださいよ!」
 「判った判った」
  これ以上ここにいても、ボクの小言を喰うだけだと判断したんだろう、さり気なーく手を上げて、司教はまたのんびりと散歩がてら、歩き去ってゆく。
 「――タマゴ」
 「は、はい?」
 「気をつけろ。災いが近くに過ぎる」
 「……え?」
  背を向け肩越しに、最後にぼそりと言い残して。
  何のこと……だ?
 「……ってちょっと司教!イミシンな言葉を残す前に、お願いですから礼拝の方の資料は今日仕上げちゃってくださいってば!」
  判っているとの返事代わりなんだろう、振り向かずに片手をひらひらと上げて、司教は去っていった。
  まったく。
  憤慨の溜息をついたボクに、
 「――気にいらねぇな」
  やっぱり寝ているワケじゃなかったシラスが、不機嫌そうにそう呟いて体を起こす。
 「……どうしたの」
  見やったボクは思わず目を見張る。
  さんさんと降り注ぐ太陽光に辟易しながらも、さっきまで意外とコイツは、上機嫌だったハズなのだ。
  鼻歌のひとつも歌い、「やっぱキミの作ったメシが一番美味い」とかホメ言葉を言ってくれつつ、ボクと一緒にパンまで齧っていたんである。
  今はびっくりするほど、金の瞳をぎらつかせて、
  険悪な顔をしていた。
 「――キミのあの上司」
 「上司って……ネイサム司教のコト?」
 「俺を見るたび、宣戦布告なんだかどうだか知らねぇが、殺気をビンビン放ってきやがる」
  気にいらねぇ。
  吐き棄てるように呟いて、シラスは立ち上がる。
 「興が削がれた。俺ぁもう帰るぞ」
  その言葉に座ったままのボクは慌てて、シラスを引きとめようと袖口に手を伸ばした。
  なにせまだ、昼ゴハンの最中だったのだ。
 「え。ちょ、ちょっと待ってよ」
  この後できれば一緒に夕飯の買い物に行って、荷物持ちでもしてもらいたいな……とか言う、ちょっぴりヨコシマな計算も、ある。
 「もともと俺は市場へ用事があって来ただけだ。キミの暇つぶしに付き合う義理はねぇだろう?……それに、キミだって『災い』が側をウロついてるよりいないほうが、随分とマシだろうさ」
 「なんてコト言うんだよ。ボクがそんな風にキミのこと、思っているとでも言いたいワケ?そもそも、昼メシにしようって言ったのは、シラスの方じゃないか。……せっかく、こんないい天気なのに」
  恨めしげに顔を見上げても、本気で機嫌を損ねたらしいシラスは取り付くシマもない。
 「いい天気だと感じるのは人間『だけ』だろ。魔物の俺にとっちゃあ――最悪の天気、だ」
  ふん、と鼻息も荒くシラスは呟き、
  ボクがまたたきひとつした次の瞬間には、目の前にもう、その姿はない。
  大きな黒鴉が一羽、鋭い視線でボクをチラ、と見やって、
 「シラス……ッ」
  羽音を立てて、空へ舞い上がって行ってしまった。
  普段、ボクやその他の人間の前で、極力魔物であることを隠しているシラスだ。
  持って生まれた才能である、魔法使い自体の存在が意外に少ないこともあって、使うと目立つと言って、魔法も必要がない限りなかなか使わない。
  流石に噂になるとか、避けられる、てコトはないけど、それでもやっぱり魔法を使えるヒトと言うのはそれなりに希少なのだ。
  ボクが、魔法介護士試験に連続落第する理由もそこんところに……多分ある。
  だから、街の中の移動だって、たいがいは徒歩であちらこちらをウロついている。
  それがイイとか悪いとかではなく、シラスが人間の街の中で目立たないように、自分で決めたルール、だ。
  でもきっと、その決めたルールの中には、ボクと言う存在が大きく入っているんだろうとは思う。
  シラス一人だったら、そもそも人間のいる街に暮らす意味はないのだ。
  趣味でもない限り。
  ボクがいるから、シラスは人里に下りてきたんだろうし、
  ボクが魔法介護士の試験を受けたいと望んだから、シラスは人目の少ない山村から、王都カスターズグラッドへ引っ越して来たに違いないのだ。
  そんな、多分きっと根はひどくお人よしなヤツが、白昼堂々姿を変えて帰ってしまったんだから、アレはよっぽど頭にきてたんだろう。
  ボクには、ネイサム司教が「殺気」とかを放っていたようには全然見えなかったんだけどな。
 「……んっとに、もう」
  膨れながらボクはシラスが飛んで行った空をバカみたいに見上げ――、けれどいつまでもそうしてても仕方がないので、腰を下ろして一人、昼ゴハンを再開しはじめる。
 「なんだよ。なんだよなんだよ……!」
  判っちゃいるけど、置いてきぼりにされた怒りはボクにだってあるのだ。
  腹立ちまぎれに固いチーズへ歯を立てて齧るうちに、
 「……なんだよ……」
  ボクは不意に哀しくなって、うつむいた目の前がボヤけてしまった。
  ――キミの暇つぶしに付き合う義理はねぇだろう?
  ――いい天気だと感じるのは人間『だけ』だろ。
  ムカついたついでに漏れた言葉なのは判ってるけど、もしそれがシラスの本心なんだとしたら、
  ……やっぱりボクはとても哀しい。
  人間と魔物なんだと、はっきりと境界線を引かれてしまった気がするから。
  バブーンを殺しかけたときの、シラスの声が、表情が、蘇る。
  あの時。
  口に出しては言わなかったけれど、所詮俺とキミとは分かり合えない、そんな風にシラスは思っているんだろうか。
  百万人に一人の、「美味しそうなエサ」の価値としてしか、ボクと一緒に暮らしている意義はないと、本当のところ、思っているんだろうか。
  それはとても哀しい。
  ――側を災いがウロついてるより、随分とマシだろうさ。
  本当に、マシだと、思ってるんだろうか。
 「でもボクはキミと一緒にいたいんだよ……」
  ジンワリと熱くなった目頭をこすって、ボクは妙にしょっぱくなってしまったチーズを飲み込んだ。

  教会からのお達しが来たのは、それから四日後のことだった。


最終更新:2011年07月28日 07:25