商業都市と言うのは、王都、だとか、学術都市、だとか、そういった都市とはまた違った賑わいと言うか、活気がある。
  街並みも特殊だ。
  何て言うのかな。街並み自体がちょっと低い。
  見渡しても、ほとんど二階建て三階建ての建物はなくて、だいたいは平屋の石造りである。
  ちょっと、土グモの巣じみた穴倉我が家に似ている気も、する。
  だから親しみやすいんだろうか。
  これは、別に家の造りを高くする技術がこの地方になかった、と言うのではなくて、湖岸に面した気候と風土に関係がある。
  端的に言えば、湖からの吹き上げる風がかなり強いのだ。
  何も、遮蔽物を持たない水面からの風は、時には犬小屋ぐらい軽く吹っ飛ばすと言うんだから、嵐の夜なんかは押して知るべし。
  だから家もそうだし、街並み自体が強風に耐えられる造りになっている。
  ――んだと、ボクは側で知識をひけらかす我が家の居候の言葉に、適当に相槌を打っていた。
 「キミ、体験したことある?」
 「体験も何も、嵐の風でどのぐらいの距離吹き飛ぶのか興味が湧いて、重石をつけて実験までしたことがある」
 「……」
  無駄に長生きのシラスは、大陸のあちらこちらでおかしな体験をたくさんしている。
  まぁ、これは長生き云々は関係なくて、単にコイツの性格……と言うか性分?なのかも知れない。
  そんなワケで、
  ボクらは、サンジェット教会より直々の依頼を受けて、商業都市トルグを訪れていた。
  荷馬車を一台借りての、久しぶりの遠出だった。
  普段王都カスターズグラッドで暮らしているボクは、休日に徒歩で半日の距離まで出かけることはあっても、馬を使って一日二日かかるような場所に行くことは少ない。
  少ない、と言うか王都へ引っ越してきてからはまず、ない。
  なんせ、生活の全般は王都で揃ってしまうし、仕事場も王都だし、離れる理由がないのだ。
  そんなに長い休日もないしね。
  たまーに、シラスが実益を兼ねた趣味(ボクに言わせりゃ小遣い稼ぎ)に必要な薬草を摘みに出かけるのに、便乗する程度だし、それもせいぜいがところ近くの森まで片道二時間、だ。
  荷馬車の上で寝起きする二日の行程のトルグへの道は、だから軽く小旅行でもあった。
 「すごいねぇ」
  シラスにしてみれば見飽きたモノばっかりなんだろうけど、ボクにすると見るもの聞くもの珍しいものばかりで、ついつい歩む速度も遅れがちになる。
  道端に咲いてる花にしても珍しいんだから、自分で言うのもなんだけど、世話はない。
  マイペース、そのもの。
  普通、都市間の行き来は、何か仕入れの仕事でもしていない限りは、運行馬車を利用して移動することが多いんだけれど、今回ボクらは荷馬車を借りた。
  なぜかと言うと、運行馬車の荷スペースにはとても乗り切らない、でっかい荷物を抱えての移動だったからである。
  それに、積荷が見えると軽く騒ぎになっちゃうかもしれないし。
  そう。
  でっかい荷物と言うのは、ご存知、数日前にボクが(と言うよりシラスが)王都カスターズグラッドの中央市場で捕獲した、バブーンと呼ばれる、魔物――見た感じまぁ、可愛げのないごついサル――の、ことで、コレをもっては流石に運行馬車には乗れなかった。
  て言うか、むしろ乗ろうとしても断られたろう。
  始終うるさいし。
  王都でシラスが縛り上げて三日、トルグまでの道程で二日半。
  飲まず喰わずでいい加減おとなしくなってもいいハズなのに、あいも変わらずと言おうか、感心すると言おうか、トルグまで少し……いや、随分うるさかった。
  人間の女の子の上げる悲鳴にも似た、金切り声をこれまた上げるんだな。
  聞きようによっちゃ、「いやあ助けて」と聞こえないこともない。
  すれ違う馬車の相手がその度に怪訝そうに、
  と言うよりは明らかにとがめる視線をシラスに送るのが、いやあ、なんとも気分がよかった。
  ボクに全く非難の目は向けられないもんね。
  まあどっちにしろうるさいことに変わりはないんだけど。
  いい加減、そのやかましさにシラスがキレると、魔法でシバいてしばらくは黙らしてくれるんだけど、また目覚めると……の、繰り返し。
  バブーンがいなきゃ、もうちょっといい旅になったであろうと思うと、返す返すも残念である。
  まぁ、バブーンがいたせいで、ボクはトルグへ派遣されるコトになった、とも言えるんだけどね。
  と、言うのも、
 「……で。どこら辺だって?」
  御者席に座って手綱を引いていたシラスが、ボクに尋ねる。
 「えーとね。地図で見ると、中央通り抜けて……えーと、それから湖岸から数えて手前四つ目の道を右、ってなってるね」
  シラスの横でボクは、教会で書いてもらった地図と、店で売られてたトルグの地図を見比べながら、応えた。
 「そこが男爵様のお屋敷だってか?」
 「うん。クロコフスキ男爵の館だそうだよ」
 「クロコフスキ、ね」
 「あのさ。どんなヒトか知らないけど、とりあえず舌噛みそうな名前だよね」
  ボクらの後ろに積んである、その厄介にうるさい大荷物。
  の、持ち主――いや、この場合は飼い主か――なんだそうである。
 「相当偏屈な男爵だと教会では言ってたけど」
  トルグへ向かうように告げたのは、ボクの意に反して直属の上司ネイサム司教ではなく、その他の司教だった。
  とは言え、別にネイサム司教が寝込んでいたり、行方不明になってたりしてたワケじゃなく、単に、遊んでいていつまでも仕事を仕上げないネイサム司教に、堪忍袋の尾を切らせた教会事務局が、司教をカンヅメ状態にしてしまったからである。
  滅多に発令されないけど、事務局のカンヅメは厳しいことで有名だ。
  仕事を仕上げるまで、一切のゴハンも出してくれないという。
  飲み物はコップ一杯の水だけ、だとか。
  ……だから、早く仕上げてくださいってアレほど言ってたのに。
  あれはもう、自業自得と言うもんだ。同情する余地はない。
  だもので、事情通……と言うか、知っていなくてもいいようなコトを良く知っているネイサム司教と違って、男爵のことを教えてくれたのは、フツーの常識を携えた一般の司教だったもので、今回あんまり派遣先への知識がボクにはなかった。
  まぁ事前に知らされてたからと言って、コトが上手くいくってワケでもないけどね。
  ……上手くいくような情報は、ネイサム司教も言ってくれないしな……。
 「偏屈、か」
  ふん。興味なさそうな顔で、シラスが鼻を鳴らしている。
  思えば、コイツも結構、偏屈だ。
 「バブーン飼ってる時点で、常軌を逸してるとは思うんだけどねー」
 「なんだ。キミ、知らないのか。クロコフスキって言やあ、結構有名なんだぜ」
 「……何が?」
  怪訝な声のシラスをボクは見上げた。
 「サル男爵」
 「……サル男爵?」
 「そう。トルグのサル男爵として、結構王都でも話題になっているもんだと、思ってたんだけどな」
 「なにそれ」
  長生きの上に(なにせ2000とウン年だ!)耳聡いシラスと違って、好きなワリに噂にも情報にも疎いボクは、あいにくと件の「サル男爵」は初耳だった。
 「自分の屋敷に、バブーン飼ってるから『サル男爵』?」
 「いや。まぁ、それもあるとは思うんだけどな、なにせ本人の顔がまさにソレだ」
 「ソレ、って言うのは……」
  さっぱり判らないボクが首を傾げると、
 「サルなんだよ」
  シラスが言った。
 「サル」
 「ああ。サルと言うよりはバブーンって言ったほうが正しいか。自分の顔とあまりにも似てるからバブーン飼ってるんじゃないかって、そんな噂が立つほど」
 「そっくり、なの?」
 「そっくりと言うか、ありゃもう……そのもの、だな。先祖がえりだか突然変異かしらねぇが、まぁ見りゃ判る」
 「へえ」

  そのときは、そう答えて終わった、んだ。けど。

                    *

 「うわ」
  と、思わずボクは声をあげかけ……慌てて口を抑えた。
  ていうか、上げるだけで笑わなかったのが奇跡だったかもしんない。

  バブーンをつれて、クロコフスキ男爵とやらのお屋敷を訪ねると、幸い「そんなペットはいません」と断られることもなく、あっけないほど簡単に、ボクら二人は広間へ通されたのだった。
  偏屈、と聞いていたから、構えていたボクは結構拍子抜けしたのだ。
  通された広間。
  前々から不思議なんだけど、どうして偉い人のウチって、無駄に広いのが好きなんだろう。
  そりゃ、夜会?だとか舞踏会?だとかボクには一生縁がなさそうなハイソな社交の場として、ある程度の大きさが必要だってのは判る。
  判るんだけど、なにも例えばどこもかしこも広くでっかくしなくたっていいんじゃないかと、思うのだ。
 「掃除、大変とか考えないのかな」
  あんなところにクモの巣でも張ったら、一体どんな長いホウキで払ったらいいのだ。
  上を見上げるだけで口の開く、高い天井を見上げながらボクが呟くと、
 「自分で掃除するワケじゃないから、考えないんだろう」
  至極もっともな意見をシラスからいただいた。
  まあ、そりゃそうなのかもしれない。
  案内された広間には、さっきまでシラスが魔法をかけた糸でギリギリ縛っていたバブーンが、いまだ縛り付けられたあとも痛々しく、無邪気に、
 「うげ」
  ……無邪気に広間を跳ねて遊んでいる……。
  ていうか。
  一匹だけなら、もうまったくもって可愛くないけど、可愛げがある、としておこう。
  一匹どころじゃあない。
  その広間には、ありとあらゆる色のバブーン(なんだろうなきっと)が所狭しと遊び回……
  いや。
  暴れまわっていた。
  その瞬間ボクははっきりと確信した。
  ほかの貴族さまのお屋敷が何で広いのかはやっぱり判らないけど、このクロコフスキ男爵邸が広いのは、コイツらが自由に暴れまわる空間が必要だからだ。
  需要と供給、とかいうどうでもいい言葉がボクの頭に流れた。
  しかし。
  いくら広いったって、それは人間の尺度であって、あの中央市場を荒らしまくっていた破壊力から考えると、この広間だってバブーンにとっちゃあ、狭い鳥かごと変わらないだろうな。
  同情できる余地がないほどの可愛げのない顔なので、可哀相だな、とはとても思えないんだけどねー。
  その広間に、同じように所在無さげに立ち尽くす、幾人かの人たち。
  屈強な体つきといい、
  あちらこちらに生々しい引っかき傷がある様子といい、
 「ねぇ」
  ぽそ、と側のシラスに耳打ちすると、同じように辺りを見回していたシラスが、先を言わせずにボクの後を次いだ。
 「バブーン捕獲隊……なんだろうな多分」
 「うえ。あのヒトなんか頭に噛み跡あるよ」
  ちょっと離れた所に立つ、ハゲた壮年のおっさんの頭に、くっきりと歯跡が痛々しい。
 「……あなた方もクロコフスキ男爵に陳情に来たのですか」
  どことはなしに、気の毒そうな顔で――いや、これは同病相哀れむってヤツなんだろうな――そのハゲたおっさんはボクらに向かって言った。
 「ああ、ええ。まぁ……そうなんですけ、」
  頷いたボクが言葉半分で凍りつく。
  腹が立つほど無邪気にバブーンの一匹が、盛り上げられた果物かごからリンゴを一つ取り出して、食べるのかと思いきや、おもむろに勢いをつけて投げた。
  ボクらのほうに。
  ……本人(いや、本獣か?)にとっちゃ「軽く」投げたつもりなんだろうけど、リンゴはボクを掠め、脇においてあった荷物に若干触れて、後ろに転がった。
  背負い紐がばっさりと切れている。
  ……。
  ……人間に当たったらシャレにならんのじゃないか、アレ。
  ぱりーん、とかどこか後ろのほうで、ガラス窓が派手に割れる音がした。
  ああ。もったいない。
  割るくらいならボクの家に運んで欲しい。
  若干本気でそう思った。
  ガラス窓なんて、半日通りに住んでいるボクからしてみれば超超超!高級品である。
  そもそも街に住む人たちの中で、よほどの変わり者かお金持ちでないと、ガラス窓なんて持てるワケがない。
  ガラス製品がもともとかなりの高級品だったから、普通は一定以上のイイ暮らしをしている人たち(貴族とかね)の家とか、王宮とか、あとは公共の――たとえば教会とか――に、使用場所が、かなり限られているのだ。
  薄く、平たくまっすぐに作る技術、と言うのがなかなかに難しいらしい。
  さすがに、ガラスのカップだとかは、ある程度お財布が踏ん張れば、まぁ買えないことはないけど、木製だとか、土ものの食器を使っているのが普通だ。
  割れたら多分膝から崩折れて泣くし。
  実は、ボクん家にも、ボクが初任給でせいいっぱい奮発して買った、小さな金魚鉢がある。
  ボクにとっては宝物だ。
  中に住んでいる、フランチェスカくん(黒デメ金:10歳)と一緒に、大事に大事にしている。
  そう言えばフランチェスカくんの世話を、お隣にお願いしてきたけど、フランチェスカくん元気してるかな……。
 「おい」
  ボクがガラス窓からフランチェスカくんまで、思いを馳せている間に、この屋敷の当主……つまりはクロコフスキ男爵が入室していたようで、遠い目をしていたボクは、脇からシラスにつつかれて我に返った。

                    *

  ――んで、冒頭に戻るんである。
  我に返った途端の、込み上げる笑いだ。
  ひどい。
  これはひどい。
  サル顔だとかバブーンに似てるとか、そう言う以前にもうむしろ、
 「これはバブーンですか?いいえ、バブーンです」
  思っていたらこそっと横でシラスが囁いて、ボクは笑い転げる発作を抑えるのに、死ぬかと思う苦労をした。
  その、顔はともかく、身なりはびしっとごてごてと……つまりは、「成金趣味の見本はこういうものですよ」と教科書に出てきそうなほど、
  黒のディナージャケットに金章やら銀章やら銅章やらを下地が見えないほどにつけ、
  その上から金モールが全身を覆い、
  さらにはところどころ宝石バッジが光り輝いている。
  冬のお祭りに街に飾られている、モミの木のようだと思った。
  宵闇に紛れて立っていたら、きっと判らないだろう。
  そこまで思って、それからボクはおもむろに、上着の隠しから教会からの手紙を取り出して、クロコフスキ男爵(ああ、もうほんっと舌噛みそう)に差し出した。
  もちろん封は開けてないけど、いつもの盗撮魔(シラスのことだ)が中を覗き見たところによると、時候ついでの「アンタんトコのサルが悪さして本当に困ってるんですよ。市民は怒ってますよ。反省しなさいよ」的なお説教が延々、垂れ流されている、らしい。
 「教会から預かってきました」
  本当は、渡す前に長々、ちょっとヨイショも入れたような挨拶をしないといけないんだろうけど、男爵のあまりのバブーン加減に、用意してきた挨拶はどこかに吹っ飛んでしまったのだ。
  あちらこちらに佇んでいた、バブーン捕獲隊?(というか……きっと町の自警団)の人たちも、我に返って男爵に陳情書を差し出している。
 「店が滅茶苦茶にされたんです!」
 「花壇がほじくり返されたんです」
 「畑の作物を喰い荒らされて、もう売り物になりませんッ」
  差し出すついでに、受け取る執事のあまりの無表情さ加減に、たまらなくなったんだろう、次々と広間にいた人たちは声を上げ始めた。
  男爵はどこ吹く風。
  バブーンをとても優しい目で見つめながら、
 「……して、」
  パラ、と、差し出された手紙を読む素振りも見せずに、手紙の入った封筒を放り投げて、
 「ウチの子たちを傷つけた代金は、誰が払ってくれるのかね?」
  まるでスットコドッコイなセリフを吐いたのだった。

 「……は?」

  呆気にとられてボクはぽかんと口を開く。
 「傷つけた……、ですか?」
  しーんと思わず静まり返った広間に、ボクの声だけが妙に響いて、
  男爵がボクに照準を合わせる。
 「お前はどこから来たのかな」
 「ボ、ボクですか。あの、……カスターズグラッドから、ですけど」
 「カスターズグラッド。あんなに遠くからウチの子を縛り上げて運んできたと」
  男爵。ご不満のご様子。
 「……いや、だってその……、暴れるし……騒ぐし」
 「カスターズグラッドから、お前が派遣されてきたと言うことは、お前が慰謝料を払ってくれると言うことかな?」
 「い、慰謝料?」
  どえらいことを言う。
 「……ボク、薄給です……」
  聖職者たるもの、そもそもお給料なんてない。
  それら全てを神さまにささげるために、教会に入ったんだからね。
  ただ、たとえばボクのように、普段は街に住んでいる、「通い」の人間も教会にはそれなりに勤めていたから、そう言うヒトたちには、月々暮らしていけるだけのお給料が支払われているのが現状だ。
  お祈りは大事だ。
  でも、お祈りだけじゃ、お腹が膨れない場合もある。
  んだけど、そう言われたって、「僧侶」と名の付く人間が貰っているお給料なんて、本当に月々生活できる程度のものだったし、
  その上ボクはまだ僧侶の「見習い」扱いなんで、ほんとーにもらえる金額はお駄賃程度、なのだ。
  不本意ながら、シラスの古代文字の翻訳なんかの小遣い稼ぎの一部から、援助してもらわないとまだひとり立ちできない、スネかじりの身分なんである。
  弁償金なんて、どこをどう絞っても出てこない。
 「どどどどどどうしよう」
  おろおろとボクが辺りを見回す様子を見て、クロコフスキ男爵は大きなため息をついた。
 「話にならん」
  話にならんのはアンタのほうだ。
  喉元まで出掛けた言葉を、ボクはぐっと堪えて、
 「ちなみに、『慰謝料』っていくらなんですか」
  そう聞いた。
 「まぁ最低ラインで100万シクルか」
 「ひゃッ……」
  100万シクル!!
  一瞬、目の玉がでんぐり返って転がってどこかに行ってしまうかと思った。
  ありえない。
  金額的にありえない。
  王様の宝物庫とかにはあるのかもしれないけど、ウチにはどこをどうひっくり返してもそんなお金は、ヘソクリを合わせたってない。
  安いワインを飲もうと思ったら、一本10シクル(まぁ、値段並みに水のようなワインでは、ある、けど)。
  昼ごはんに、チーズとパンを街角で買ったら、せいぜい17シクル。
  ボクの一ヶ月のお給料が、おおむね2000シクル。
  ちなみに、金銭感覚のブッ壊れたシラスが、嗜好品として飲むワインが、一本6万シクル。
  まぁ、シラスのワイン代は自費だから、ボクとしては文句の言いようないんだけどねー。
 「ああ……あのワイン約16本分か……」
  とか、遠い目になったボクの耳に、
 「腕を噛まれたんですよ!」
  女のヒトの金切り声が聞こえた。
  意識を飛ばしたボクに、愛想を尽かしたクロコフスキ男爵が、さっさと大広間を去ろうと背を向けているところへ、
  ほつれ髪のオバさんが叫んだのだった。
  ショールを掛けた肩が折れそうに細い。
  自警団の男のヒトに支えられて、半分倒れそうになりながら、真っ青な顔で立っている。
  切羽詰った声を、さすがに無視することが出来なかったのか、男爵が顔だけ振り向いて足を止めていた。
  何事だ、と側の執事に呟く男爵に、
 「娘が腕を噛まれたんです!」
  重ねてオバさんがそう叫んだ。
 「強く噛まれて、血がいっぱい出て……!お医者様に見せても、手当てのしようがないんです!お宅が、魔獣を放し飼いにしているから、こういうことになったんです!自分の飼っている魔獣の始末も出来ないようなヒトが、慰謝料を請求するって、一体どういう神経をしているんですか!」
 「娘のことはたいそう気の毒だとは思うが、同じように、ウチのペットも肉体的および精神的ダメージを負った。医療費として請求したいのなら、まずはお前が誠意として支払う、それを確認してからこちらが対応を見せる、そう言う順序じゃあないかね」
  じゃあ、とか場違いに明るい言葉を言い残して、舌噛みそうな名前男爵は、広間から出て行ったのだった。
  ほんっとーに話にならんなあの成金男爵……。
  後に残るのは、ぽかーんと、と言おうか、あんぐりと、と言おうか、開いた口がふさがらない上になんだか無性に腹の立っている、ボクと自警団の人たちだけだった。


 「許せないよなんだかもう!」
  とは言え、バブーンの群れ遊ぶ広間に、いつまでも突っ立っているわけにもいかず、たとえ突っ立っていたところで、男爵が広間に戻ってくる気配もなかったので、ボクらは仕方なしに、
  と、言うよりも、かなり執事に追い立てられる感じで、クロコフスキ男爵邸を後にしたのだった。
 「そもそも『慰謝料』請求する前に、『慰謝料』が必要な状況作っておいてよく言うよ!」
  ああ、ムカっ腹がおさまらない。
  宿に向かって歩く道すがら、ボクは隣のシラスが無言なのをイイことに、憤懣をブチまけまくって歩いた。
  思い返すだけでなんかムカムカしてくる。
  っていうか、「待てバブーン」ぐらい、言ってやればよかった。
  そもそもなんだ、あの態度。
  魔獣を飼う趣味はこの際とやかく言わない。
  世の中には、ヒトには理解できない趣味を持つ人間が沢山いるのだろうし、
  例えばヘビとかカエルが大好きなヒトもいる。
  ボクの黒デメのフランチェスカくんだって、友達のミヨちゃんに言わせると「でっかくて気持ち悪い」らしいから、ヒトの趣味については言及しない。言及しないさ。
  だけど、やっぱり飼うからには、それなりの責任、ってもんが必要なんじゃあないだろうか。
 「顔が似てるってだけで飼いっぱなしつーのはさ」
  ブツブツとボクがなおも文句を垂れているところに、ガヤガヤ、と数人が騒いでいる声が聞こえた。
  怒鳴る声。止める声。駆け出そうとする声。切羽詰った声。
  助けて、助けてください。
  怒号に紛れて、女のヒトの、そんな声も聞こえて、ボクは思わず足を止めた。
 「……おい、」
  無駄に首を突っ込むな。
  そう言いたかったんだろう、シラスがボクの腕を引いたけど、引かれたときには既に、ボクは声の主を探し当ててしまっていた。
  折れそうに細い肩にショール。
  ひっつめた髪が数本、ほつれて痛々しい。
 「さっきの」
  そう。さっき、クロコフスキ男爵邸で見かけた、オバさんだった。
 「レイディ」
  シラスがもう一度、ボクの腕を引いた。
  うん、と頷き返そうとした瞬間、こっちを偶然向いたオバさんとかっちりと視線が合って――、
 「あなた!」
  物凄い勢いでオバさんが、ボクらに向かって駆け寄ってきたのだった。
 「あなた!あなた、教会からいらしたんでしょう?教会の方なんでしょう?お願いです、お願いします、どうか、ウチの子を助けて、助けてください」
 「わ、わ、わ……、助けてって、どう言う」
  がっしりと肩を掴まれて、前後にがくがくと揺さぶられる。
  だだ泣きしている涙が、辺りに飛び散った。
 「噛まれたんです、バブーンに噛まれたんです。昨日から腕がはれ上がって、喉元まで真っ赤に膨れ上がって、もう満足に呼吸もできないんです。いただいたお医者様のお薬では効かないんです!教会の方なら、呪いを解いたりできるんでしょう?バブーンの呪いも解いていただけるでしょう?!」
 「や、でも」
  たじたじと後ずさりながらボクは言いうろたえた。
  確かに、教会では普通の医者では治せないような病気を扱うこともある。
  大抵は、なにか悪霊にとり憑かれてたり、ってのが多い。
  例えば、古い遺跡の発掘の仕事なんかしているヒトは、たまに墓荒らし対策のために古代のヒトがかけた、呪いを体に受けてえっらいコトになっちゃう場合も、ある。
  そう言うとき、呪われた本人は教会に運び込まれて、体から毒気と言うか、呪気?を抜くことをしたりする。
  ただ、そう言うことが出来るのは、一般に「司教」と呼ばれるヒトたちで、例えば上司のネイサム司教なんかがイイ例だ。
  問題のある性格はさておき、退魔行為は、サンジェット教会本部内でも一、二を争う実力の持ち主……らしい。
  聞いたときは耳を疑ったけど。
  ああ、だからやっぱりネイサム司教がココに来ればよかったんだよ……。
 「お願いします!助けてください!」
  代理でトルグに来たと言えど、ボクはあくまで「見習い」でしかない。
  助けたいのは山々だけど、どう言うことをしたらいいのかさえ、ボクには見当がつかない。
  ボクにできることといえば、せいぜい司教の手伝いか、そうでなくたって成仏できなかったさ迷う霊魂に、聖書の聖句を唱えてやる程度だ。
  そもそも、バブーンが呪いをかけられる種族かどうかもボクには判らないのだ。
  ごめんなさい、助けたいけどムリなんです。
  そう言おうと口を開けた瞬間、
 「おいアンタ!」
  宿の窓から血相を変えた男のヒト――ていうか、あの頭に歯跡のついたハゲたヒト――が、顔を出した。
 「嬢ちゃんが、息をしていない!」
  わあああッとオバさんが泣き崩れる。
 「助けてください!お願いです、助けてください!」
  必死の顔だった。
  胸を、衝かれた。
  母親の顔だ。
  おっぱいが恋しい年頃に、親と死に別れたボクは母さんの顔を知らない。
  もちろん、周りの親切な人たちが一生懸命育ててくれたとは思うし、それについてはとても感謝してるけど、それでもやっぱり、
 「シラス」
  ボクは助けを求めるように、傍らのヤツの顔を振り仰いだ。
 「キミ、出来るでしょ?」
 「――」
  無言なのは、肯定の印だ。
 「お願い。なんとかして。なんとかして!」
 「――そう言うと思ったよ」
  シラスはやれやれとため息をつきながら、だけどとっくにボクがそう言うと想像していたんだろう。
 「高いぜ俺は」
  そうしてボクより先に、足早に宿の中へと入っていった。

                   *

  歩く百科事典とは、よく言ったモンだと思う。
  呼吸困難になって痙攣し始めている小さな女の子を見ても、シラスはまったく慌てるだとか、うろたえることがなかった。
 「湯。沸騰したヤツ。あと針。治療用のがなけりゃ、縫い針でもいい。それと手ぬぐいをたくさんと、ああ……、敷布の替えもか。今すぐ用意しろ」
  そう言うと、女の子をシーツごとベッドから床の上におろし、着ていた寝巻きを脱がせて傷を調べる。
  ……ヒドイもんだった。
  噛まれたと言う腕は三倍くらいに膨れ上がって、その腫れが首や胸にまで及んでいる。
  真っ赤と言うよりは全身紫色で、特に噛まれたと言う腕の辺りは、紫を通り越してドス黒かった。
 「何かすることある」
 「そうだな……暴れると思うから、抑えていてくれるか」
  言われてボクは、女の子の細い手足を床へ押さえつける。
  その間に懐からナイフを出していたシラスは、テーブルに燈してあったロウソクの炎でナイフの刃を焼くと、ためらいもなく女の子の傷口にあてがった。
  ぐ、と押し込むとすぐに柔らかな皮膚は傷ついて、タラタラと黒い血が流れ出す。
 「うえ。黒い……」
 「幼生のバブーンの中には、そこらのヘビ顔負けの毒を持っているやつも多くてな」
 「毒の牙か、爪でもあるの?」
 「体液そのものが毒化してるんだ。普通は成長するうちに次第に薄れていくんだが、エサ内容によっちゃいつまでも猛毒を保持できる固体もある」
 「エサ」
 「野生の食物じゃない場合が……まあ、多いか」
  言いながらシラスは器用に、女の子の腕の根元や足の根元を手ぬぐいで固く縛って、
 「ちょっとエグいぜ」
 「エグ……?」
  何を言ってるんだと首を傾げたボクの前で、運ばれてきた縫い針を数本手に取り、ブツブツと何かを呟く唇に当てると、それから、
 「うぅ」
  腫れあがっている体の中でも、特に真紫の部分のあちらこちらに、糸穴が見えなくなるんじゃないかってくらい深く、縫い針を差し込んだ。
  ボクは目をつぶる。
  魔法介護士志望と、僧侶見習いだけあって、ボクだってそれなりな治療の現場を見てきてる。
  ちょっとやそっと血が流れた、足が切れた程度では貧血を起こさない耐性はある。
  しかし痛い。
  これは痛い……。
  それでも元来の好奇心と知識欲のほうが僅かに勝って、眉をしかめながらボクは思わず目を開いてしまった。
 「ひー」
  縫い針を刺すからエグいと、シラスは言った訳じゃないと、ボクはようやく気付いた。
  差し込んだいくつかの針が、体内で赤く光っている。
  その針の下に何かが押さえられているように、針がモコモコと動きながら、ゆっくり、持ち上がってくるのだった。
  何かが抑えられているように。
 「何。何コレ」
  床に押さえつけている女の子が、うう、ううと奇声を上げながら身もがく。
  激痛が走っているのが、その表情から判った。
 「ねぇちょっと。何コレ。何なのコレ。」
 「――落ち着けよ。どうってコトじゃあない。体内に寄生してるヤツを燻り出しているんだ」
 「寄生……燻り……?」
  さすがにコレは、医者じゃできねぇなあ。
  そんなことを呟きながら、シラスは手にしていたナイフを自分の手首に当てると、
 「シラス……ッ」
  かなりざっくりと、切り込んだ。
  途端に、ばたばたと床の上に鮮血が飛び散る。
  ボクは思わず、女の子を押さえていた手を放しそうになって、
 「レイディ。押さえてろ」
  低い声に、慌ててもう一度押さえる腕に力をこめた。
  腕が震える。
  切り込んだ腕を、シラスは無造作に女の子の上に振りかざして、もう一度、
 「――」
  ボクの耳には聞き取れない、何かとても難しい呪文を呟いた。
  わっ、と。
  手品でも見てるんじゃないかと思うほど鮮やかだった。
  まるでカスミ網のように血液が宙に広がって、モコモコと揺れている各縫い針の上に取り付く。
  すると、縫い針の下から、えらくおぞましい、ぶっといミミズのような、ヘビのような、頭がどっちなんだか判らない、ニョロニョロした生き物……虫?が、赤いカスミ網に捕らえられて出てきたのだった。
 「うぇあ」
  今度こそ無意識にボクは腕を放してしまった。
  と言うか、二、三歩後退する。
  部屋から逃げたい気持ちでいっぱいだ。
  ありえないだろこの生物……。
 「アデリナ!」
  のけぞりかけたボクの耳に、オバさんの悲鳴が聞こえて、ボクはなんとか、裸足で逃げ出したい気持ちを押さえ込んで顔を上げた。
  顔を上げて、驚く。
  女の子が、安らかに――実に安らかに、寝息を立てて眠っているのだ。
  肌の色も、きれいなピンク色で、さっきまで死にかけていたのがウソみたいなんである。
  腫れあがっていたのが、幻なんじゃないかと、一瞬ボクは思った。
  アデリナ、アデリナ。
  顔面、涙なんだか鼻水なんだか判らないオバさんが、愛おしいものを触れる手つきで何度も何度も、女の子の頬を撫でさする。
  ああ。
  お母さんなんだな。
  ボクはなんだか、ほっとして、
  それと同時に嬉しいような悲しいような、羨ましいような切ないような、
  何とも言えない気分になって、つい顔を横に背けた。
 「……ってちょっと!」
  ばたばたと。
  カスミ網を握っている(この際、網の中は注視しないことにする。気持ち悪いから)シラスの腕から、未だ勢い良く鮮血が迸っていて、
 「キミ、止血!早く止血!」
  つい一瞬前の、なんだか良くわからない感慨もどこかに吹っ飛び、ボクは慌ててシラスの腕に飛びついたのだった。


 「魔物なキミの血も赤いんだよねぇ」
  すぐ止まるからいらない、と嫌がるシラスを無理矢理別室に引き連れて、ボクは奴の手首にぐるぐると洗いざらしの布を巻いてやりながら感心して呟いた。
 「不思議か?」
  嫌がった割りに、今はおとなしく包帯を巻かれているシラスがぼそ、と呟く。
 「普通っちゃあ普通だけど、不思議っちゃあ不思議かなあ」
 「青か緑のほうが魔物らしいか」
 「そうかもね」
  うん、とボクが何気なく頷くと、何やら含んでニッとシラスが笑う。
 「何笑ってるん……って!うわ!うわ!」
  ぎょっとしてボクは思わずシラスから手を放す。
  巻きつけていた包帯ににじむ、赤い血の色が、見る見るうちに赤から紫へ、そうして青色へ変わって行ったからだ。
 「何。コレ魔法?色変えられる魔法?」
 「魔法って言うか……何色でもいいって言うか」
 「どういうコト」
 「上手く説明できる自信が無ぇんだがな」
 「上手く説明しなさい」
  ボクがそう言うと、わしわしと頭を掻いて、しばらく宙をにらんでいたシラスは、
 「――魔物って言うのは人間とは違うよな?」
  頭の中で考えがまとまったのか、そう言った。
 「……まあ、似てるところもあるけど、多分違うんだろうねぇ」
  気を取り直して、もう一度シラスに巻きかけた包帯へ手を伸ばしながら、ボクは頷く。
  いつの間にか、色は元通り赤に戻っていた。
 「人間の中に紛れて棲むには、人間に一番似た形が、一番区別がつきにくい、って言うのも判るな?」
 「人間に似た形って言うのは、」
 「例えば、モヤモヤした煙のような形しているより、こないだのグレイスの方が人間の形に近いだろ」
 「ああ……、で、グレイスよりキミのほうがよっぽど人間に近いね」
 「だから。だ」
 「ぇあ?」
  シラスの言った意味が判らなくてボクは首を捻る。
 「どういうコト」
 「俺たちに、決まった形は無い」
 「え?」
 「つまりさ。魔物なんて、もともと『種族』だの『こういう形』と決まったものは何も無くて、まぁ言ってみりゃ魔力と言うモヤモヤしたガスが、ギュギュギュっと押し固まったものが、バブーンだったり俺だったり、それぞれの形なワケだ」
 「形……ないの?」
  知らなかった。
  もう16年も一緒に暮らしてるのにちっとも知らなかった。
 「キミ、腕あるのに」
 「無い形にも出来る」
 「キミ、あったかいのに」
 「冷たくも出来る」
 「キミ、ここにいるのに」
 「いなくなることも出来る」
  ふにふにとシラスの包帯を巻いた腕を触りながら、ボクはびっくりして見上げた。
 「いなくなっちゃうの?」
 「いなくなってほしいと、キミが言うなら」
 「言わないよそんなコト!」
  答えたボクの口から、大きな声が出た。
 「キミがいなくなるのはボクは嫌だよ!」
 「判ってるよ」
  思わず涙ぐんだボクに困ったように笑って、シラスはぽんぽんとボクの頭を叩いた。
 「今すぐいなくなるなんて言って無ぇだろ」
 「今すぐでもこの後すぐでもそのうちすぐでもボク絶対にそんなコト言わない」
  頭を叩くヤツの手の感触は、魔力の塊とはとても思えなくて、騙されてるんじゃないかとボクは思った。
  シラスがいなくなったら、ボクなんて王都に一人ぼっちになってしまう。
 「……バブーンも?」
  そう考えるとなんだかしんみりしてしまいそうだったので、ボクは無理矢理話題の矢印を、シラスとは違う方向へ向けた。
 「バブーンも魔力の塊?」
 「一頭として同じ色がいなかっただろう」
 「……ああ、そう言えば男爵の屋敷のバブーンは、バラ色虹色きらびやかだったねぇ」
  魔物に詳しいわけじゃないから、どこがどう違う、とはよく言えないけど、そういや確かにアレは同じ種族の生き物には思えない彩りだった。
 「アレも変幻自在?」
 「魔獣はまた……ちょっと下等なんだよな」
 「と、言いますのは」
 「『魔物』とヒト括りに人間は呼んでるが、魔力の塊の中でもいくつかランクに分かれていて、一番下っ端が魔獣。成長段階で、色や体のサイズをある程度変えることは出来ても、一度固定してしまったら、自分の意思では変えることが出来ない」
 「ふんふん」
 「もうちょっと上になると、色やサイズに限定してだが、その程度の変化はいつでも出来るようになる」
 「ふんふん」
 「で、更に上になると、それ以外の形――自分が望むどんなものにも姿を変えることが出来る」
 「ふんふん。……えーと、つまり、クッキーに例えると」
 「クッキーかよ」
 「いいの。判りやすいから。えーと、魔獣と呼ばれるのが出来上がったクッキーだね?」
 「まあ――そうだな。質量も形も決まっている。喰っちまえば終わりだ」
 「で。真ん中のランクが、こね終わったタネ段階のクッキーだ」
 「質量は決まっているが形はある程度未固定……そうだな」
 「で。最上階が何人分作るかまだ決めてないクッキーと」
 「粉入れりゃいくらでも増えるからそうだろうな」
  なるほど。
 「……はっきりと判らないけど、なんとなく、判った」
 「そうか」
 「でもさ」
 「あ?」
  思い当たるフシがあってボクは声を上げる。
 「キミ、こないだカラスになってたよね」
 「ああ……アレな」
 「えーと。上手く言えないけど、アレはキミが一時的に魔法をかけてカラスになった訳じゃあなくて、キミの形からカラスの形に、魔力をギュギュッとコネなおして変化した、……と言う解釈でいいのかな。上手く言えないけど」
 「まあそう言う風な解釈でいい」
 「上手く言えないね」
 「な。言えないだろ」
  同意を求めてくる眼に、
 「あ」
 「『あ』?」
 「ってコトはキミもしかして、結構すごい魔物だったりするワケ?」
  ヒモっぽいのに。
  ぽそ、と続けたボクの言葉を敏感にヤツは拾い上げて、
 「……ヒモ」
  胡乱な目を向けてきた。
 「うん。近所のヒトたちがみんなシラスのこと、引きこもりのヒモだって噂してるんだ」
 「……ソレ広めてるのレイディ、キミだろ……」
 「ふへへ」
  曖昧に笑ってボクは誤魔化した。
  そうとも言う。
  だって。
  育ててもらったっちゃあそうなんだけど、それにしちゃヒゲも生えてないし、オッサンぽくないし、まったく『ボクの養父なんです』とは説明しがたい。
  かと言って一つ屋根の下に暮らしていると言うだけで『同棲してます』ともますます言いがたい。
  コイビト同士ならともかく。
 「あ」
 「『あ』?」
  更にもうひとつボクは思い当たって声を上げた。
 「魔力をギュギュギュっと押し固めた感じが魔物なんだって、キミさっき言ったよね」
 「ニュアンスな」
 「じゃあ魔法使うたびに、体積目減りしちゃうワケ?」
  文字通り『影が薄くなった』らどうしよう。
  ボクは慌ててヤツの全身を眺めた。
  見た目にはいつもどおりで変わってないように見えるけど、
  けど、
 「目減りって。貯金じゃあ無ぇんだからそう簡単には……」
 「でも減るんでしょ?」
 「まあ、増えるか減るかって言われたら、そうだな」
 「ちっちゃくなっちゃう?」
  密度が薄くなっちゃって、次第に小さくなっちゃったら、それはそれで困る。
 「ボクが届かない上のほうにある荷物、取るヒトがいなくなったらすごく困るよ!」
  大問題である。
 「……どういう心配の仕方をしてくれてるのかよく判らないが、心配してくれてるらしいというのだけは判った」
  拳を握り締めて力説したボクに、圧倒されてシラスは頷いた。
  でもって、
 「だがしかし。目減りする可哀そおおおぉぉうな俺に、キミが出来ることが唯一ひとつだけある」
  そう言うのだ。
 「うん。なに?できることならボクなんでもやるよ!」
  ボクの平穏無事な生活のためにも、シラスには是非現在の形を保ってもらわなきゃいけない。
  任せなさい。
  張り切って胸を叩き、ボクは答えた。
 「目減りしたら、また減った分、蓄えればいい。……理屈的には、そうだな?」
 「うん。そうなるね」
  なんとなく、誘導尋問されている気がしなくも無かったが、ボクは頷く。
 「俺が消えるとキミは困る。そうだよな?」
 「うん。困る」
 「俺が小さくなってもキミは困る」
 「うん。困る」
 「じゃあ商談成立だな」
  にこにこと、不穏な笑みをたたえてシラスが言った。
 「……何が?」
  さっぱり判らないボクは、また首を捻る。
 「どこらへんで商談が成立したの」
 「俺が使った分、キミが与える。……そう言うコトだろう?」
 「……え、……え、え、ええええええ?!」
  つまり。
 「く、く、く、く、くくくくく」
 「喰わせろ」
  と。
  遅ればせながら理解したボクが逃げようとした瞬間、俄然、張り切って両肩を抑え、がっちりキープの構えを見せるシラスに、ボクは仰け反ってわめいた。


 「言ってない!そんなコト言ってない!」
 「二言はナシだ」
 「ムリ!ボク、武士でも男でもナイし!」
  抑えられてしまったら、シラスの力にボクは敵わない。
  牙を突き立てられる瞬間を思い出して、全身が毛羽立った。
 「そもそも!食べてもイイ日はまだまだ先だろ!」
  契約内容をご確認下さい、である。
  なのにこの小憎たらしい魔物は、クスクス笑いながら
 「『できることなら何でもやる』と張り切って明言したろさっき」
  そんなコトを言うのだ。
 「何を!くっそ、謀略を用いるとは卑怯な!」
  上着の襟をグイと押し下げられて、ボクはじたばたと暴れる。
 「手段は選ばない。目的達成できたら、勝ちだろ」
 「そ、そんな勝利は男らしくないぞ――ッ!」
  抵抗もあえなく、そのままボクは椅子に座らされ、堅い木の背に押し付けられて、迫る捕食の気配に引き攣る。
  嫌だ。
  痛いのは絶対に、嫌だ。
 「あの人間の子供を助けてやったんだ。褒美をねだってもイイだろう」
 「ムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリ本当にムリ!」
  バブーンに迫られてるのと、これではまるで変わらない。
  ああ、でもあの時と違うのは、窮鼠猫を噛むで、バブーンを噛むのは到底無理だと思ったけど、シラスならなんとか、……。
 「レイディ」
  どこを齧ろうか。
  テンパったボクの耳に、不意に穏やかな声が聞こえた。
  静かで深みがある、安心できる声。
 「――怖いか?」
  その声に、ボクは知らないうちにそむけていた顔に気が付く。
  恐る恐る目を開けて、ボクは心配そうな、気遣うような、そんな複雑な顔をしたシラスを視界に入れた。
  ……ずるい。
  コレはずるい。
  そんな聞き方をされたら、「怖い」とは言えないじゃあないか。
 「――怖いか?」
  そっと囁いて、シラスはボクの頬に手を添える。
  その片手首にぐるぐる巻きつけた包帯が見えて、さっきの『治療』をボクは思い出した。
  床に滴り落ちるたくさんの赤。
  思い出した途端、身体から力が抜けてしまう。
  畜生。
  ボクは心の中で唸った。
  魔物が魔力の塊だと言うのなら、ヤツの視線には特に魔法がこめられていると思う。
  抗う力を奪う魔法が。
  両肩を抑える腕は外れたはずなのに、身体が思い通りに動かない。
  向かい合うヤツの金の瞳が、ボクの瞳の奥を覗き込んだ。
  熱に浮かされたような視線の中に、ほんの少し、焦れる色がある。
 「レイディ」
  ボクはこの目に弱い。
  コイツはしっかりソレを知っていて、利用してるんじゃないか――とか思ったりもする。
 「た、た、タダで食べられるのはイヤだ」
  なけなしの気力を振り絞って、ボクは再び視線を逸らし、迫る魔物に条件を提示する。
  鎖骨の辺りを指で撫でていたシラスは、ふむ、と片眉を上げてボクを見た。
 「何を望む」
  言ってはいけないと頭の片隅で声がした。
  コレは悪魔の契約だ。
  だのに、ボクの口は勝手に動いていた。
 「……サル男爵を懲らしめたい」
 「了解した。――契約成立だ」
  あ、と。
  それ以上の制止の声を上げる前に、シラスはボクの喉元に喰らいついた。
 「ッぁう……ッ」
  食い縛った奥歯の更に奥から、堪えきれない声が漏れ出した。
  皮膚を噛み破った痛みを感じるか感じないかの瞬間に、まるで雪崩をうって、ボクの中にボクのものではない記憶が、注ぎ込まれ始めたからだ。
  古城。
  懸かる月。
  一面真っ白な雪原。
  舞い落ちる花びら。
  雑踏の中で聞こえる笛の音。
  夕闇に映る十字架。
  疾駆する獣の群れ。
  剣戟。
  泣いている小さな女の子。
  判るもの、判らないもの。
  色のついたもの、ついていないもの。
  音が、声が、色が、ニオイが。
  シラスが見てきた風景の全てが、ボクの中に鳴りを上げて流れ、喰い散らし、竜巻のように荒れ狂う。
  深い水底に、無理矢理引きずり込まれた感じだ。
  体の全部が滅茶苦茶で、息をすることも出来ずに、ボクは仰け反って小さく悲鳴を上げた。
  ボクの中から何かがシラスに向かって流れ出し、代わりにシラスの中からボクへ記憶が流れ込む。
  まるで植物の毛細根のように、体の隅々まで記憶の断片が張り巡らされ、我が物顔に暴れまわる。
 「……シ……ラ……ッ」
  こんな体験を、普通の人間は出来ない。
  こんな体験を、普通の人間はしてはいけない。
  喉元を噛まれる痛みよりも、異質な記憶に肌があわ立って、
 「も……や……ぁッ」
 「――ん」
  圧し掛かっていた胸板を、押しのけようともがくと、それに気付いたシラスがついと身体を離した。
  まったく悪びれた様子のない声と共に。
  シラスが離れると唐突に、ボクはボク個人だけの体に引き戻されて、
  なにかとんでもない喪失感と言おうか、孤独感に放り出されて、両腕で身体を抱え込む。
  さっきまで、あんなにもいっぱいだったのに、
  溢れてきてしまうんじゃないかと、思うくらいいっぱいだったのに、
  今のボクはあまりにもスカスカだ。
  隙間がありすぎる。
  知らずに涙が零れていた。
 「レイディ。おい」
  あったかい指の腹で拭われて、ボクは不意に我に返る。
 「おい。大丈夫か」
 「だ……じょぶじゃ……な……」
  この絶対的な喪失感が訪れるから、いつも嫌なのだ。
  ボクの体はボクだけのもので、
  ボクの記憶はボクだけのもので、
  本当はそれでイイはずなのに、物足りなくてしょうがない。
  あの――あまりある記憶をもう一度味わいたくて、もう一度体全部に満たしてほしくて、
 「レイディ?」

 「……馬鹿ッ」

  この気持ちの原因を作った男が、目の前にいることを思い出し、ボクは握りコブシと共に立ち上がった。
  無性に腹が立ったのだ。
  顔面を打たれたヤツが、床に転がっている。
 「いいいいいいいいイヤだって言ったのに!言ったのに!この強食魔!変態!」
 「いきなりグーかよ容赦ねぇなキミ……」
 「容赦ないパンチ食らっていいようなコトしたのは、一体どこのどいつだよ!」
 「ハラ減ってたんだしょうがないだろ」
  鼻面を押さえて起き上がったシラスは、
 「まぁ美味かったし。いいか」
  に、っと満腹になったネコのような顔で笑ったのだった。
  ……ああ、もう、ほんっと懲りてないのだ。


  ばたばたとローブをあおる風が強い。
  空を仰ぐと、黒いシルエットになっている屋根の上を、早送りしているような速さで、雲が次々と流れてゆく。
  時折月を隠すので、辺りは明るくなったり、暗くなったりと忙しい。
 「逢引には絶好な夜だな」
  夜目の利くシラスは、気持ち良さそうに夜風に頬をなぶらせている。
  ボクはと言えば、誰かさんのおかげでなんか貧血気味だし、そうでなくても暗いところは見えないので、まるで足元がおぼつかない。
  屋根の上、なのだ。
  落ちたら結構……いや、かなーり危ない。
  危ないと言うか、命に関わる。
 「馬鹿と何とかは、高いところが好きだって昔からよく言うけど」
 「正面玄関突破でもいいが、派手にブチ壊すことになるだろ。街中の人間が見物しに来るぜ」
 「……」
  それは困る。
  何せ、ボクは今回、「サンジェット教会苦情係代表」として、トルグに来ているのだ。
 「サンジェットのヤツは礼儀を知らない」だなんて、トルグの人に思われたら、

  ……ネイサム司教にブッ殺される。

  血も涙もない上司の顔を思い出して、ボクは思わず身震いした。
 「……キミ、寒いのか?だからムリせず待ってろと言っただろう」
 「いや。平気。ちょっとヤなこと思い出しただけ」
  頭を振ってネイサム司教のことは追い払う。
  そもそも、宿で待っていろとは言われたものの、
  待ってたところでヒマなだけだし、
  シラス一人で、クロコフスキ男爵のところにやったら何をするかわからないし。
 「ここいら……かな」
  コツコツと屋根瓦を叩いていたシラスがそう言って、それから懐に手を入れた。
 「何?」
 「サル男爵にプレゼントだ」
 「うッ……わ」
  ボクは思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
  シラスが懐から取り出したのは、幾本かの縫い針に刺さってヌメヌメと動く、あの虫だかヘビだかミミズだか良く判らない生き物。
  ヤツの手のひらの上で、丸まっていた身体を伸ばし始める。
 「……ちょっと!ソレ捨ててなかったの?」
  大声を出すと、屋敷の誰かに気付かれそうだったので、ボクは小声で怒鳴った。
 「バブーンに寄生している、寄生虫のような存在だからな」
 「それが何なんだよ」
 「えらく下等だが、一応は魔物だ。そこらへんに捨てたら、また人間に取り付く。それはキミ、困るだろ?」
 「……そりゃ、」
  そうかもしれないけど。
  そうかもしれないけど、何もわざわざ胸ポケットに入れなくてもいいようなものだと思う。
  ブツブツと呟くボクの前で、縫い針に手をかけたシラスは、そのミミズ魔物に刺さった針を、ゆっくりと一本ずつ抜いてゆく。
 「ぬ、抜いちゃって大丈夫なの?」
 「抜いちゃって大丈夫なのです」
  冗談交じりに鼻歌なんか歌いながら、シラスはミミズに刺さった針を全部抜き取って、
  また何か、ボクにはよく聞き取れない言葉を二言三言、ミミズに向かって囁いた。
 「いい子だ」
  ――行け。
  その声を最後に、
  ぼた。
  音を立ててブッといミミズは屋根瓦の上へ落ちると、そのまま、地面に水が染み込むように、みるみるうちに瓦に吸われて消えていってしまった。
 「ちょ、ちょっとキミ……!」
 「ん?」
 「『ん?』じゃなくて。ミミズ、どっか行っちゃったけ、」
  行っちゃったけどいいの?
  そう訊ねようとした瞬間、足元……つまり、屋敷の中から、うわあ、だとかぎゃあ、だとかそんな野太い男の悲鳴が聞こえて、
 「な、なに?なに?」
 「クロコフスキ男爵サマのお目覚めの時間だな」
  帰るぞ。
  何事もなかったように、くる、と回れ右して帰ろうとするシラスの背に、
 「ちょ、ちょっと。いいの?なんか助けてとか聞こえるけど」
  慌ててボクはシラスの背を追う。
 「キミ、サル野郎をこらしめたいとか、そう言わなかったか」
 「いや、言ったよ。言ったけど、」
 「あの騒ぎっぷりじゃあ、朝にはキミのところへやってくるさ」
 「だから!何がなんだか良く判らないんですけど!」
  言葉ったらずな説明に、ボクがイライラし始めると、
 「さっきのミミズな」
  シラスが面倒くさそうに、頭を掻きながら言った。
 「う、うん」
 「サル野郎に憑けてやった」
 「うん。……って、え?ええッ?」
  驚いて目を上げたところに、妙に得意げなヤツの顔が見える。
 「え、じゃあクロコフスキ男爵、病気になっちゃうじゃないか」
  あの女の子の苦しみ方を見るに、相当なものだった。
 「『こらしめろ』と言ったのはキミだろう」
 「言って……!いや、言ったけど。言ったけど。それじゃクロコフスキだんしゃ……ッあ」
  懲らしめたいといったのは確かにボクだ。
  でも、懲らしめたいワケで、
  殺しちゃいたいワケじゃない。
  ていうかそれで死んじゃったらすごくすごく困る。
  慌ててシラスにそう伝えようと、言葉途中でボクは盛大に舌を噛んだ。
  だから言いにくい名前は嫌いなんだ。
 「あつぁつぁつぁつぁ!コレは痛いって!」
 「賑やかしいヤツだなキミ」
  口を押さえて涙目になるボクを、呆れた顔でシラスは見下ろして、
 「とり憑かれた人間を清めることが出来るのは、教会に勤めている人間だ――そうだろ?」
 「うう」
  口に手を当てたまま、ボクは頷く。
 「あのチビが、あそこまでヒドくして死に掛けていたことから考えるに、トルグの街には、お払いの出来るような司教はいない――だな?」
 「うう」
 「じゃあ、王都カスターズグラッドのサンジェット教会本部から、わざわざお越し召されているキミにご指名が来るのも判る――よな?」
 「あ」
  そうか。
  バカみたいに口を開けて、ボクは思わずシラスの頭の良さに感心した。
  ……それともボクが鈍いだけなんだろう……か。
  僧侶のタマゴかどうかなんて、手紙を渡しただけなんだから、クロコフスキ男爵には判らない。
  渡した手紙はきちんと教会の朱印の押された、立派な封筒入りだったし。
  あっちから見たら、ボクは立派な教会関係者(とまでは行かなくても、僧侶か)なワケで。
 「教会からのお達しは、中央市場の破損修理費。店の売り物の弁償費。それと市場の人間への、謝罪――だったよな」
 「うん。そうです」
 「それとついでに、屋敷に押しかけてきていた他の奴らの苦情合わせて10件……くらいか。あと、あのチビへの慰謝料。野生の魔獣を飼育している件。魔獣を処分する件。しめて、サル野郎の体内に巣食っているミミズのお払いと引き換えに、清算するんだな」
  取引するのはキミだし。
  言ってシラスは、今度こそさっさと屋根を降り始める。
 「腹もくちくなったし。天気もいい。眠い。帰るぞ」
 「……あ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
  早く帰らないと、朝までそんなに時間は無い。
  シラスの言ったコト全部を、こっち優位態度でクロコフスキ男爵の使いと話すには、きちんと整理して順序だてておかないと、混乱するに違いない。
  いや、混乱する。
  情けないコトにその自信がある。
  いや、それよりか、こっちが条件を突きつけるってコトは、
  こう……高飛車になって、相手の不満を押し切るってコトだよね?
  ああ、ムリだ。ムリ。そんなのできない。
  買い物で値切るのだってボクはムリなのだ。

  むぅ。

 「――ちょっと!シラス!お願いがあるんだけど!」
 「お願いは、もっと丁寧にお願いします」
 「大変お耳汚しで失礼しますがお願いがあるんですけどどうぞ!」
 「キミね、一応女のコなんだからもっと可愛く」 
  そう言ったっきり、振り向きもしないで、すげない。
  だいたい、だいたい、
 「こンの下僕――ッ」
  先に屋根を飛び降り(人間業じゃないよね)、背を向けているのをいいことに、ボクは足元の屋根瓦を一枚ひっぺがし、ヤツめがけて投げつけた。
  結構、渾身の力で。
  スコーン、
  とか盛大な音を立てて、シラスが地に倒れる。
 「だ、だ、だいたいキミね!勝手に喰ったり!勝手に命令したり!『どっちが主人』で、『どっちが従僕』なのか、もういちど確認したらどうなんだい!」
 「……背後から投げつけるかよフツー……」
  倒れたままうめき声を上げて、ど真ん中ストライクした頭を抱えるシラスに、
 「もうね、これは命令だけど!明日の条件交渉は主にキミが!強気な態度で臨みなさいよねこれは命令だけど!」
 「……俺は便利屋じゃあねぇんだぞ」
 「いいんですよ?ボクは別にいいんですよ?キミがとううううっぶん空腹で干からびてても?ボクは一向に構わないんですよ?」
 「兵糧攻めで脅すのはズリィだろ……って、おっと」
  ようやく起き上がり、いまだ屋根にいるボクを見上げて口を尖らせたシラスが、ふと何かに耳を澄ませ、
 「レイディ。ズラかるぞ」
 「……え?なに?なに?なにッ?」
  屋根の上にいつの間にか戻ってきたシラスに、ボクは小脇に抱えられ、途端にざわめくクロコフスキ男爵の庭。
 「うあ」
  ……大きな声を出しすぎた……。
  気付いてボクは青ざめる。
  ボクらに気付いた屋敷の警備員が、集まってきたのだ。
  ここで顔を見られたら、交換条件もへったくれもなくなる。
  なくなるってコトは、言いつけられてきた任務ができないってコトで、
  できないってコトは、あのネイサム司教に怒られるってコトで……、
 「ああ。それはダメ。死ぬよりダメ」
  恐怖に顔を覆ったボクの身体が、ふ、っと軽くなって風を切り始める。
 「う……わ……ッ?」
  警備員に顔を見られないように、指の隙間から辺りを覗くと、ボクは小脇に抱えられたまま、トルグの町並みを背景に、走っていた。
 「ボ、ボ、ボクは荷物じゃあないぞーッ」
  見つかったらとてもとても困る、というのは判っていたけど、ボクは思わず喚き散らしながら、シラスと一緒に夜へと溶けて行ったのだった。


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最終更新:2011年10月15日 18:24