「言ってない!そんなコト言ってない!」
 「二言はナシだ」
 「ムリ!ボク、武士でも男でもナイし!」
  抑えられてしまったら、シラスの力にボクは敵わない。
  牙を突き立てられる瞬間を思い出して、全身が毛羽立った。
 「そもそも!食べてもイイ日はまだまだ先だろ!」
  契約内容をご確認下さい、である。
  なのにこの小憎たらしい魔物は、クスクス笑いながら
 「『できることなら何でもやる』と張り切って明言したろさっき」
  そんなコトを言うのだ。
 「何を!くっそ、謀略を用いるとは卑怯な!」
  上着の襟をグイと押し下げられて、ボクはじたばたと暴れる。
 「手段は選ばない。目的達成できたら、勝ちだろ」
 「そ、そんな勝利は男らしくないぞ――ッ!」
  抵抗もあえなく、そのままボクは椅子に座らされ、堅い木の背に押し付けられて、迫る捕食の気配に引き攣る。
  嫌だ。
  痛いのは絶対に、嫌だ。
 「あの人間の子供を助けてやったんだ。褒美をねだってもイイだろう」
 「ムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリ本当にムリ!」
  バブーンに迫られてるのと、これではまるで変わらない。
  ああ、でもあの時と違うのは、窮鼠猫を噛むで、バブーンを噛むのは到底無理だと思ったけど、シラスならなんとか、……。
 「レイディ」
  どこを齧ろうか。
  テンパったボクの耳に、不意に穏やかな声が聞こえた。
  静かで深みがある、安心できる声。
 「――怖いか?」
  その声に、ボクは知らないうちにそむけていた顔に気が付く。
  恐る恐る目を開けて、ボクは心配そうな、気遣うような、そんな複雑な顔をしたシラスを視界に入れた。
  ……ずるい。
  コレはずるい。
  そんな聞き方をされたら、「怖い」とは言えないじゃあないか。
 「――怖いか?」
  そっと囁いて、シラスはボクの頬に手を添える。
  その片手首にぐるぐる巻きつけた包帯が見えて、さっきの『治療』をボクは思い出した。
  床に滴り落ちるたくさんの赤。
  思い出した途端、身体から力が抜けてしまう。
  畜生。
  ボクは心の中で唸った。
  魔物が魔力の塊だと言うのなら、ヤツの視線には特に魔法がこめられていると思う。
  抗う力を奪う魔法が。
  両肩を抑える腕は外れたはずなのに、身体が思い通りに動かない。
  向かい合うヤツの金の瞳が、ボクの瞳の奥を覗き込んだ。
  熱に浮かされたような視線の中に、ほんの少し、焦れる色がある。
 「レイディ」
  ボクはこの目に弱い。
  コイツはしっかりソレを知っていて、利用してるんじゃないか――とか思ったりもする。
 「た、た、タダで食べられるのはイヤだ」
  なけなしの気力を振り絞って、ボクは再び視線を逸らし、迫る魔物に条件を提示する。
  鎖骨の辺りを指で撫でていたシラスは、ふむ、と片眉を上げてボクを見た。
 「何を望む」
  言ってはいけないと頭の片隅で声がした。
  コレは悪魔の契約だ。
  だのに、ボクの口は勝手に動いていた。
 「……サル男爵を懲らしめたい」
 「了解した。――契約成立だ」
  あ、と。
  それ以上の制止の声を上げる前に、シラスはボクの喉元に喰らいついた。
 「ッぁう……ッ」
  食い縛った奥歯の更に奥から、堪えきれない声が漏れ出した。
  皮膚を噛み破った痛みを感じるか感じないかの瞬間に、まるで雪崩をうって、ボクの中にボクのものではない記憶が、注ぎ込まれ始めたからだ。
  古城。
  懸かる月。
  一面真っ白な雪原。
  舞い落ちる花びら。
  雑踏の中で聞こえる笛の音。
  夕闇に映る十字架。
  疾駆する獣の群れ。
  剣戟。
  泣いている小さな女の子。
  判るもの、判らないもの。
  色のついたもの、ついていないもの。
  音が、声が、色が、ニオイが。
  シラスが見てきた風景の全てが、ボクの中に鳴りを上げて流れ、喰い散らし、竜巻のように荒れ狂う。
  深い水底に、無理矢理引きずり込まれた感じだ。
  体の全部が滅茶苦茶で、息をすることも出来ずに、ボクは仰け反って小さく悲鳴を上げた。
  ボクの中から何かがシラスに向かって流れ出し、代わりにシラスの中からボクへ記憶が流れ込む。
  まるで植物の毛細根のように、体の隅々まで記憶の断片が張り巡らされ、我が物顔に暴れまわる。
 「……シ……ラ……ッ」
  こんな体験を、普通の人間は出来ない。
  こんな体験を、普通の人間はしてはいけない。
  喉元を噛まれる痛みよりも、異質な記憶に肌があわ立って、
 「も……や……ぁッ」
 「――ん」
  圧し掛かっていた胸板を、押しのけようともがくと、それに気付いたシラスがついと身体を離した。
  まったく悪びれた様子のない声と共に。
  シラスが離れると唐突に、ボクはボク個人だけの体に引き戻されて、
  なにかとんでもない喪失感と言おうか、孤独感に放り出されて、両腕で身体を抱え込む。
  さっきまで、あんなにもいっぱいだったのに、
  溢れてきてしまうんじゃないかと、思うくらいいっぱいだったのに、
  今のボクはあまりにもスカスカだ。
  隙間がありすぎる。
  知らずに涙が零れていた。
 「レイディ。おい」
  あったかい指の腹で拭われて、ボクは不意に我に返る。
 「おい。大丈夫か」
 「だ……じょぶじゃ……な……」
  この絶対的な喪失感が訪れるから、いつも嫌なのだ。
  ボクの体はボクだけのもので、
  ボクの記憶はボクだけのもので、
  本当はそれでイイはずなのに、物足りなくてしょうがない。
  あの――あまりある記憶をもう一度味わいたくて、もう一度体全部に満たしてほしくて、
 「レイディ?」

 「……馬鹿ッ」

  この気持ちの原因を作った男が、目の前にいることを思い出し、ボクは握りコブシと共に立ち上がった。
  無性に腹が立ったのだ。
  顔面を打たれたヤツが、床に転がっている。
 「いいいいいいいいイヤだって言ったのに!言ったのに!この強食魔!変態!」
 「いきなりグーかよ容赦ねぇなキミ……」
 「容赦ないパンチ食らっていいようなコトしたのは、一体どこのどいつだよ!」
 「ハラ減ってたんだしょうがないだろ」
  鼻面を押さえて起き上がったシラスは、
 「まぁ美味かったし。いいか」
  に、っと満腹になったネコのような顔で笑ったのだった。
  ……ああ、もう、ほんっと懲りてないのだ。

       

  ばたばたとローブをあおる風が強い。
  空を仰ぐと、黒いシルエットになっている屋根の上を、早送りしているような速さで、雲が次々と流れてゆく。
  時折月を隠すので、辺りは明るくなったり、暗くなったりと忙しい。
 「逢引には絶好な夜だな」
  夜目の利くシラスは、気持ち良さそうに夜風に頬をなぶらせている。
  ボクはと言えば、誰かさんのおかげでなんか貧血気味だし、そうでなくても暗いところは見えないので、まるで足元がおぼつかない。
  屋根の上、なのだ。
  落ちたら結構……いや、かなーり危ない。
  危ないと言うか、命に関わる。
 「馬鹿と何とかは、高いところが好きだって昔からよく言うけど」
 「正面玄関突破でもいいが、派手にブチ壊すことになるだろ。街中の人間が見物しに来るぜ」
 「……」
  それは困る。
  何せ、ボクは今回、「サンジェット教会苦情係代表」として、トルグに来ているのだ。
 「サンジェットのヤツは礼儀を知らない」だなんて、トルグの人に思われたら、

  ……ネイサム司教にブッ殺される。

  血も涙もない上司の顔を思い出して、ボクは思わず身震いした。
 「……キミ、寒いのか?だからムリせず待ってろと言っただろう」
 「いや。平気。ちょっとヤなこと思い出しただけ」
  頭を振ってネイサム司教のことは追い払う。
  そもそも、宿で待っていろとは言われたものの、
  待ってたところでヒマなだけだし、
  シラス一人で、クロコフスキ男爵のところにやったら何をするかわからないし。
 「ここいら……かな」
  コツコツと屋根瓦を叩いていたシラスがそう言って、それから懐に手を入れた。
 「何?」
 「サル男爵にプレゼントだ」
 「うッ……わ」
  ボクは思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
  シラスが懐から取り出したのは、幾本かの縫い針に刺さってヌメヌメと動く、あの虫だかヘビだかミミズだか良く判らない生き物。
  ヤツの手のひらの上で、丸まっていた身体を伸ばし始める。
 「……ちょっと!ソレ捨ててなかったの?」
  大声を出すと、屋敷の誰かに気付かれそうだったので、ボクは小声で怒鳴った。
 「バブーンに寄生している、寄生虫のような存在だからな」
 「それが何なんだよ」
 「えらく下等だが、一応は魔物だ。そこらへんに捨てたら、また人間に取り付く。それはキミ、困るだろ?」
 「……そりゃ、」
  そうかもしれないけど。
  そうかもしれないけど、何もわざわざ胸ポケットに入れなくてもいいようなものだと思う。
  ブツブツと呟くボクの前で、縫い針に手をかけたシラスは、そのミミズ魔物に刺さった針を、ゆっくりと一本ずつ抜いてゆく。
 「ぬ、抜いちゃって大丈夫なの?」
 「抜いちゃって大丈夫なのです」
  冗談交じりに鼻歌なんか歌いながら、シラスはミミズに刺さった針を全部抜き取って、
  また何か、ボクにはよく聞き取れない言葉を二言三言、ミミズに向かって囁いた。
 「いい子だ」
  ――行け。
  その声を最後に、
  ぼた。
  音を立ててブッといミミズは屋根瓦の上へ落ちると、そのまま、地面に水が染み込むように、みるみるうちに瓦に吸われて消えていってしまった。
 「ちょ、ちょっとキミ……!」
 「ん?」
 「『ん?』じゃなくて。ミミズ、どっか行っちゃったけ、」
  行っちゃったけどいいの?
  そう訊ねようとした瞬間、足元……つまり、屋敷の中から、うわあ、だとかぎゃあ、だとかそんな野太い男の悲鳴が聞こえて、
 「な、なに?なに?」
 「クロコフスキ男爵サマのお目覚めの時間だな」
  帰るぞ。
  何事もなかったように、くる、と回れ右して帰ろうとするシラスの背に、
 「ちょ、ちょっと。いいの?なんか助けてとか聞こえるけど」
  慌ててボクはシラスの背を追う。
 「キミ、サル野郎をこらしめたいとか、そう言わなかったか」
 「いや、言ったよ。言ったけど、」
 「あの騒ぎっぷりじゃあ、朝にはキミのところへやってくるさ」
 「だから!何がなんだか良く判らないんですけど!」
  言葉ったらずな説明に、ボクがイライラし始めると、
 「さっきのミミズな」
  シラスが面倒くさそうに、頭を掻きながら言った。
 「う、うん」
 「サル野郎に憑けてやった」
 「うん。……って、え?ええッ?」
  驚いて目を上げたところに、妙に得意げなヤツの顔が見える。
 「え、じゃあクロコフスキ男爵、病気になっちゃうじゃないか」
  あの女の子の苦しみ方を見るに、相当なものだった。
 「『こらしめろ』と言ったのはキミだろう」
 「言って……!いや、言ったけど。言ったけど。それじゃクロコフスキだんしゃ……ッあ」
  懲らしめたいといったのは確かにボクだ。
  でも、懲らしめたいワケで、
  殺しちゃいたいワケじゃない。
  ていうかそれで死んじゃったらすごくすごく困る。
  慌ててシラスにそう伝えようと、言葉途中でボクは盛大に舌を噛んだ。
  だから言いにくい名前は嫌いなんだ。
 「あつぁつぁつぁつぁ!コレは痛いって!」
 「賑やかしいヤツだなキミ」
  口を押さえて涙目になるボクを、呆れた顔でシラスは見下ろして、
 「とり憑かれた人間を清めることが出来るのは、教会に勤めている人間だ――そうだろ?」
 「うう」
  口に手を当てたまま、ボクは頷く。
 「あのチビが、あそこまでヒドくして死に掛けていたことから考えるに、トルグの街には、お払いの出来るような司教はいない――だな?」
 「うう」
 「じゃあ、王都カスターズグラッドのサンジェット教会本部から、わざわざお越し召されているキミにご指名が来るのも判る――よな?」
 「あ」
  そうか。
  バカみたいに口を開けて、ボクは思わずシラスの頭の良さに感心した。
  ……それともボクが鈍いだけなんだろう……か。
  僧侶のタマゴかどうかなんて、手紙を渡しただけなんだから、クロコフスキ男爵には判らない。
  渡した手紙はきちんと教会の朱印の押された、立派な封筒入りだったし。
  あっちから見たら、ボクは立派な教会関係者(とまでは行かなくても、僧侶か)なワケで。
 「教会からのお達しは、中央市場の破損修理費。店の売り物の弁償費。それと市場の人間への、謝罪――だったよな」
 「うん。そうです」
 「それとついでに、屋敷に押しかけてきていた他の奴らの苦情合わせて10件……くらいか。あと、あのチビへの慰謝料。野生の魔獣を飼育している件。魔獣を処分する件。しめて、サル野郎の体内に巣食っているミミズのお払いと引き換えに、清算するんだな」
  取引するのはキミだし。
  言ってシラスは、今度こそさっさと屋根を降り始める。
 「腹もくちくなったし。天気もいい。眠い。帰るぞ」
 「……あ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
  早く帰らないと、朝までそんなに時間は無い。
  シラスの言ったコト全部を、こっち優位態度でクロコフスキ男爵の使いと話すには、きちんと整理して順序だてておかないと、混乱するに違いない。
  いや、混乱する。
  情けないコトにその自信がある。
  いや、それよりか、こっちが条件を突きつけるってコトは、
  こう……高飛車になって、相手の不満を押し切るってコトだよね?
  ああ、ムリだ。ムリ。そんなのできない。
  買い物で値切るのだってボクはムリなのだ。

  むぅ。

 「――ちょっと!シラス!お願いがあるんだけど!」
 「お願いは、もっと丁寧にお願いします」
 「大変お耳汚しで失礼しますがお願いがあるんですけどどうぞ!」
 「キミね、一応女のコなんだからもっと可愛く」 
  そう言ったっきり、振り向きもしないで、すげない。
  だいたい、だいたい、
 「こンの下僕――ッ」
  先に屋根を飛び降り(人間業じゃないよね)、背を向けているのをいいことに、ボクは足元の屋根瓦を一枚ひっぺがし、ヤツめがけて投げつけた。
  結構、渾身の力で。
  スコーン、
  とか盛大な音を立てて、シラスが地に倒れる。
 「だ、だ、だいたいキミね!勝手に喰ったり!勝手に命令したり!『どっちが主人』で、『どっちが従僕』なのか、もういちど確認したらどうなんだい!」
 「……背後から投げつけるかよフツー……」
  倒れたままうめき声を上げて、ど真ん中ストライクした頭を抱えるシラスに、
 「もうね、これは命令だけど!明日の条件交渉は主にキミが!強気な態度で臨みなさいよねこれは命令だけど!」
 「……俺は便利屋じゃあねぇんだぞ」
 「いいんですよ?ボクは別にいいんですよ?キミがとううううっぶん空腹で干からびてても?ボクは一向に構わないんですよ?」
 「兵糧攻めで脅すのはズリィだろ……って、おっと」
  ようやく起き上がり、いまだ屋根にいるボクを見上げて口を尖らせたシラスが、ふと何かに耳を澄ませ、
 「レイディ。ズラかるぞ」
 「……え?なに?なに?なにッ?」
  屋根の上にいつの間にか戻ってきたシラスに、ボクは小脇に抱えられ、途端にざわめくクロコフスキ男爵の庭。
 「うあ」
  ……大きな声を出しすぎた……。
  気付いてボクは青ざめる。
  ボクらに気付いた屋敷の警備員が、集まってきたのだ。
  ここで顔を見られたら、交換条件もへったくれもなくなる。
  なくなるってコトは、言いつけられてきた任務ができないってコトで、
  できないってコトは、あのネイサム司教に怒られるってコトで……、
 「ああ。それはダメ。死ぬよりダメ」
  恐怖に顔を覆ったボクの身体が、ふ、っと軽くなって風を切り始める。
 「う……わ……ッ?」
  警備員に顔を見られないように、指の隙間から辺りを覗くと、ボクは小脇に抱えられたまま、トルグの町並みを背景に、走っていた。
 「ボ、ボ、ボクは荷物じゃあないぞーッ」
  見つかったらとてもとても困る、というのは判っていたけど、ボクは思わず喚き散らしながら、シラスと一緒に夜へと溶けて行ったのだった。


僧侶と魔物にモドル
最終更新:2011年07月28日 07:29