No Nukes! / GenbakuHanzai
『原爆犯罪―被爆者はなぜ放置されたか』
- 椎名 麻紗枝弁護士がアメリカの公文書館などで収集した資料をもとに、アメリカと日本政府の加害責任「原爆犯罪」を告発しようとするもの
- この本は1985年に出版されたものであるが、入手可能である (参考文献を参照)
- 3.11 福島原発事故の端緒は、アメリカ政府と日本政府による原爆犯罪がその大本にある
- この本の重要性を示すために、本書から椎名 麻紗枝弁護士の言葉を下に引用する
アメリカの被爆者政策は人類史的犯罪である (P116)
アメリカの被爆者政策の真の意図は、ここにあった。アメリカは、なによりも原爆の未曾有の残虐性が世界中に広く知られることにより、国際世論から、アメリカは汚い戦争をしたという批判をあび、国際外交の場においてアメリカの発言力の弱まることをおそれた。
それだけではない。原爆投下が国際法の見地からも問題にされれば、アメリカが、20億ドル以上の資金と12万人にのぼる人員を動員して開発した原爆そのものも、アメリカは保有することを許されなくなる。アメリカは、それをもっとも懸念して、原爆の人的被害を徹底的に隠蔽することをはかったのである。
アメリカの被爆者政策は、被爆者に対する重大な人権侵害というだけでなく、今日の核軍拡競争に道を開いたという点において、人類史的犯罪である。
日本政府の被爆者政策は被爆者への差別である (P132)
被爆者、一般戦災者は、いぜん生活保護法のまま置き去りにされたのにたいし、軍人関係にたいしては、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の提案理由で、「戦傷病者等は、戦争において国に殉じた者で講和独立を機会に国家補償の精神に立脚して、これらの者を援護することは、平和国家建設の途にあるわが国として、最も緊要事」であると説明されているように、手厚い援護がなされるようになる。
なぜ、国は、このような差別をするのか。国は、この理由として、かならず身分関係論をもちだす。<略>
政府が軍人関係にたいして手厚い援護をしている本当の理由は、政府のすすめてきた政策にまさに合致するからにほかならない。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の制定運動の主体となったのは、日本遺族厚生連盟である。この日本遺族厚生連盟、名称にあるような戦争未亡人や遺族の厚生組織というだけではなく、「英霊の顕彰」をも目的としていた。損後、1953年3月に、財団法人日本遺族会に改組され、以来、遺族年金、遺族恩給の増額とともに、英霊の顕彰、靖国神社国家護持の推進が二大目的としてかかげられている。英霊の顕彰というのは、日本遺族会によれば、「民族のため身命を捧げた人の心」を「喜び感謝する」ということである。ここには、「戦死」を有意義な死として栄光づけようとする思想がある。家永三郎教授は、これら遺族会の運動を、英霊再生産運動であるという。遺族の心情としては、最愛の夫や息子の死を犬死とは思いたくないであろう。しかし、その死を意義ある死と考えるかぎり、ふたたび、戦争への道をくり返すこととなる。
これにたいし、被爆者運動では、原爆死をけっして栄光ある死とは考えない。あるまじき死と考える。原爆死が、意味をもつとすれば、私たちが、その死から深く学び、ふたたびこのような惨禍が起こらないようにする決意をかためさせるものとして意味をもつ。
被爆者運動と日本遺族会の運動とでは、前者が人類の恒久平和へ導く光の運動であるのにたいし、後者は、軍国主義に逆行させる暗黒の運動である。政府閣僚の靖国神社参拝を例にあげるまでもなく、歴代の政府が、どちらの運動により深く共鳴してきたかは、言うまでもない。政府の基本的考えが、同じ戦争犠牲者であっても、軍人にたいしてと、被爆者、一般戦災者とでは、まったく違った差別的扱いとして反映している。
なぜ「原爆被害」を人権問題ととらえるべきか (P160)
人権侵害は、基本的には加害者の責任において救済されなければならないというのがたてまえである。人権侵害の救済のためには、加害者の責任が明確にされなければならない。のみならず、加害者の責任を追及することは、同種の人権侵害を加害者に繰り返させないための保障ともなる。
加害者の責任をあいまいにしておけば、加害者は、同種の犯罪を繰り返す危険が大きい。ましてや、法の遵守義務を強く課せられている国家が、重大な人権侵害をおこなったとすれば、被害者にたいする賠償をするのは当然のことであるし、その責任を明確にしておくことは、今後、ふたたび同種の人権侵害をおこなわせないための保障となるものである。
ところで、原爆にかんしていえば、どうであったか。
原爆を投下したアメリカについては、原爆投下行為は国際法違反であるにもかかわらず、その問題については国際的にもまったく責任を追及されることがなかった。アメリカは、原爆を投下したことについて、被爆者への賠償はおろか、謝罪すらしていない。かえって、原爆投下命令を下したトルーマン大統領は、後年、原爆を投下したことに良心の呵責を感じていないとすら発言した。そしてアメリカは、国際法上使用を許されない核兵器を保持しつづけ、三たび使用する意志のあることを言明してきた。
一方、無謀な侵略戦争を開始した日本政府にたいしても、日本国民みずからの手で戦争責任を追及することができなかったために、戦前の軍国主義勢力を温存させてしまい、ふたたび日本を軍国主義へと向かわせる方向を招来してしまっている。
責任を追及するということは、政治において、とりわけ重大な意味をもつ。
被爆者にたいする無理解は人権意識の希薄さをものがたる (P209)
私は、このような他人の人権問題についての無関心と無理解は、人権意識の希薄さをものがたるものだと思う。人権思想の中核にある思想は、他人にたいする人権侵害についても、自分の問題としてうけとめ、連帯して、人権侵害を排除するためにたたかうということである。他人事だといって、他人にたいする人権侵害をほうっておけば、いつかは自分の人権も侵害されることになるというのが、私たちが、世界の人権史やわが国の戦前の歴史から教訓として学んだことではなかったろうか。
しかしながら、日本の現状は、人権闘争の最大の部隊といわれる労働組合ですら、その人権意識はかならずしも十分ではない。その端的な例は、特定政党支持を組合員に強制する労働組合が多数存在していることである。これらの組合は、人権は、多数決によっても奪うことはできないという、人権についての基本的な認識に欠けているのである。また、企業による思想差別について、労働組合までがこれを当然視し、これに反対するたたかいにとりくまない組合すら少なからずある。差別思想こそは、人権を蚕食する最大のものである。しかし、日本には、従来から反共思想、障害者や未開放部落また、女性にたいする差別思想が根強くある。それにくわえて、新しいかたちの差別思想が生まれつつある。明治憲法下にあっては、国策遂行上障害となるものとして、前述のものが徹底的に差別され弾圧されてきたが、今日、日本においては、企業政策が明治憲法下における国策にとってかわってきている。この企業政策に反するものには、あらゆる差別と排除がおこなわれる。そして、これを当然視し、あるいはこれを感受する傾向が日本社会に広く存在する。今日、社会的にも深刻な問題になっている、いわゆる「いじめっ子」「いじめられっ子」の問題は、今日のこのような大人の社会を反映したものといえる。日本における人権状況は、きわめて深刻である。
いま問われるべき戦争責任は何か (P216)
最近、日本国民の加害責任が強く言われはじめている。その主張のなかには、日本国民は、原爆被害をはじめ、被害者意識が強く、加害者としての自覚がたらないというものがある。私はこの主張に少なからぬ抵抗を覚える。それはなにも、私が、あの戦争にたいして責任がないと考えているから反発を感ずるのではない。家永教授も言われるように、私も過去の遺産をうけついで生きている以上、負の遺産についてだけ相続放棄するわけにはいかないだろうと考える。問題は、問われる責任の内容やレベルが検討されないで、日本国民の加害者としての面のみ強調されすぎると、かつての一億総ざんげ論のように、ほんらい、まっ先に問われなければならない、戦争を指導した者の責任が免罪されて、日本国民も、戦争指導者もみなひとしく戦争責任があるという論法に陥りやすいと思うからである。日本国民の戦争責任の問題は、個々の国民の内省の領域、良心の自由の問題に属するものと思う。前述の論者が声高に非難すべきは、日本国民よりは、戦争を指導してきた責任者であり、また、戦後、戦犯を温存・美化してきた政治指導者に向けられるべきであろう。
日本国民が、歴史から学び、歴史の深い反省にたっているかどうかを世界の人びとに示す最大のあかしは、唯一の被爆体験をもつ国民として、被爆の惨状と核兵器廃絶を訴え、核による人類滅亡の危機から救うために行動することであると考える。
参考文献
?pc=http%3A%2F%2Fitem.rakuten.co.jp%2Fbook%2F200913%2F?scid=af_link_tbl&%3Bm=http%3A%2F%2Fm.rakuten.co.jp%2Fbook%2Fi%2F10139205%2F
広告
最終更新:2013年06月15日 22:13