日本教は特定の宗教を指すものではなく、日本の風土にある信仰形態の一種を指す造語です。「仏ほっとけ神かまうな」の言葉どおりです。
「神などいない」と公言しながら各種宗教行事に参加し、神社仏閣では賽銭をし、墓参りなど先祖崇拝を欠かさず、食事の前には手を合わせます。ゲンを担ぐのも日本教徒にとっては矛盾ではなく、場合によっては自ら否定した神に祈る事すらあります。
このような異質な行為の背景には、やはり
神道があるのでしょう。
シャーマニズム、アニミズムの流れを汲み、万物に神が宿るという考え方です。
日本教徒にとって唯一絶対の神は確かにいません。そういった意味では「神などいない」という発言は本心からのものです。
しかしながら万物がそのまま神ですので、アラーもキリストも仏陀もいるといえばいるし、それらの信仰を持つ者達を異教徒とは見做しません。
神が祝うように言ったのならばその宗教行事を祝う事はまったくおかしな事ではありませんが、ある神の祭に参加したからといって他の神を祭らないのはおかしい事でしょう(彼らは偽りの神ではなく、数ある神格の一柱なのですから)。
先祖は死後、神となって子孫を見守っているのですから、彼らを粗末に扱うのは人の道から外れた恩知らずな行為です。食卓にある食べ物は紛れもなく神であり、生産されて食卓に並ぶ過程にも神は宿るのですから、感謝するのは当然の事です。
全く存在を認知しておらずとも、あらゆる事に神が宿るのですから、理由について理解していなくとも、不躾な事をして神の不評を買うような真似をするのは得策ではありませんから、ゲンを担ぎますし、縁起の良し悪しなども気にします。
それでいながら、日本教徒は「神」に必要以上に振り回される事をよしとしません。「神」と「自分」は絶対的な主従関係ではなく、折り合いよく付き合っていく「ご近所様」なのです。
日本教徒は外国の、特に特定の宗教を持つ者からすれば異質に映るかもしれませんが、決して無宗教ではないのです。
最終更新:2007年08月02日 19:15