クリヴォーイ王国

正式国名 クリヴォーイ王国
国の標語 神無くして我ら有らず
国歌 「国王陛下」
公用語 ロシア語
国王 オリガ1世(オリガ・ミハイロヴィチ・ルコムスカヤ)
摂政 アレクサンドル大公(アレクサンドル・ゲオルギエヴィチ・ルコムスキー)
大臣会議議長 ゲオルギー・フリスティアノヴィチ・ドラゴミロフ=ブンゲ
首都 サンクトツァルゴロド
最大の都市 ハスコフ
人口 約700万人
通貨 ビリン

クリヴォーイ王国、またはクリヴォーイ・ツァーリ国、(露:Криворожского царство/英:Tsardom of Krivoy)通称クリヴォーイとはたべっこどうぶつ共和国を倒し再建された立憲君主制国家である。
動物自治革命を標榜するたべっこどうぶつ共和国によって解体されたクリヴォーイ第一王国に次ぐものとしてクリヴォーイ第二王国(露:Второе Криворожского царство)とも呼ばれる。

歴史

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起源

950年頃にアンドレイ・ヴォロゴダがハスコフに国家を建設したことがクリヴォーイの起源であるされている。以降アンドレイの子孫はハスコフ公国を名乗り周囲のスラヴ族を支配し勢力を拡大させていった。
1239年、後に征服公と称されるウラジーミルは南東に対する大征伐を敢行し、クリヴォーイのみならずコリイーツァを支配するに至り、ヴォロゴダ朝の最盛期を演出した。ウラジミールは1261年に没した後、安定のために重要な都市とその周辺の領土を息子たちに分割相続させたが、これによってクリヴォーイ大公の権威は相対的に低下しかえって情勢を不安定なものにさせた。こうして各地の諸公は自立傾向を強めることになり、長い動乱の時代が始まった。

中近世ルコムスキー朝時代

イヴァン・ルコムスキーが1654年に群雄割拠していた諸侯を征服し約三世紀ぶりにクリヴォーイを統一する。彼はクリヴォーイ公国を再建し後の強力な専制君主体制の基礎を築いた。
1790年にミハイル2世は西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌させた。また西欧諸国から技術者を招聘して、産業の近代化に邁進した。これらの功績からミハイル2世は「ミハイル大王」の名で呼ばれることとなる。
ドミトリー1世の治世下では西欧諸国から自由主義と国民国家の概念が流入し、これに感化された青年将校を中心とした貴族の一部が農民反乱を煽動する事態が多発する。この危機にあってドミトリー1世は上からの改革ではなく社会の引き締めという旧来の粗暴な方法で答えた。この暴力による支配という「基本戦術」は1900年代まで三代のツァーリによって利用されたが、それも現代に入ると限界を迎える。

現代

ツァーリの専制支配に異を唱える社会主義者と動物によってどうぶつ革命が発生。クリヴォーイ第一王国は打倒され、世界初の社会動物主義国家たべっこどうぶつ共和国が成立する。直後に王党派が白衛軍を結成し凄惨な内戦が始まる。
白衛軍による必死の反撃が功を奏し、たべっこどうぶつ共和国は打倒された。革命政府により処刑された先王ミハイル4世の後を継ぎ王女オリガ・ルコムスカヤがオリガ1世として即位しクリヴォーイ第二王国が成立した。

クリヴォーイ王国海軍

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最終更新:2020年05月18日 06:22