シャラマー
USの人気TV番組『ソウル・トレイン』の出演をきっかけにデビューした男女混成バンド、シャラマー。番組の司会者であったドン・コーネリアスが、同番組のダンサーだったジョディ・ワトリーとジェフリー・ダニエルズ、そして音楽面を担当するメンバーの3人によって結成させたグループである。デビューを果たしたのは77年だが、グループの黄金期はハワード・ヒュイットが加入した79年以降になる。ちょうどこの年に「セカンド・タイム・アラウンド」という大ヒット曲を放ち軌道に乗ったシャラマーは、アルバム・リリースを重ねるごとに、着実にシーンのトップ・グループへとのし上がっていった。そんな彼らの魅力は、間違いなくジョディとハワードのツイン・リード・ヴォーカル・スタイルにある。だがサウンド面において、ファッショナブルなビートを取り入れた爽快ダンス・チューンを創造したプロデューサー=レオン・シルヴァーズIIIの鮮やかな豪腕も忘れてはならない。ダンス・クラシックスとして数々のカヴァーを生んだ「ナイト・トゥ・リメンバー」は、彼らのキャリアの頂点に位置する絶品ナンバーである。しかしオイシイ期間はそう長くは続かず、83年にはジョディとジェフリーがソロ・アーティストに、85年にはハワードも脱退してしまう。その一方でグループ自体はなんとか継続するが、まったく別モノのロック寄りサウンドに路線変更してしまった。もちろんその結果は芳しくなく、シャラマーというかつて一世を風靡したグループは、徐々にシーンからフェイド・アウトしていった。……かのように思われたが、その後ハワードがグループに復帰。現在は孤軍奮闘、彼がシャラマーを牽引している。
マリリン・マンソン
史上最強のロック色情魔、マリリン・マンソン。マリリン・モンローとチャールズ・マンソン(女優シャロン・テート殺しの犯人)を掛け合わせたという名前、日本のヴィジュアル系バンドが足元にも及ばない濃い化粧と派手な衣装&舞台装置、社会的問題にまで発展している反キリスト教といった過激な思想……どれをとってもフツーの人(?)にはショックが大きい。しかし、94年にアルバム『ポートレート・オブ・アン・アメリカン・ファミリー』でデビューして以来、カルト的な支持を保持している。いわゆるイロモノ的な要素も人気の片棒を担いでいるだろうが、やはりサウンド面の革新性に注目したい。トレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)との交流を通して完成されたと思われる彼らのインダストリアル・サウンドは、ヘヴィ・メタルの重量感とエレクトロ・ミュージックの享楽性をバリバリと貪り食い、作品にしっかり血肉化されている。それらが、まさにマリマン教のアンセムとして教徒(ファン)を増やしつづけているのである。
ステレオフォニックス
低迷していたUKシーンに元気モリモリに登場したステレオフォニックスは、97年に1stアルバム『ワード・ゲッツ・アラウンド』をリリース。一本眉のフロントマン、ケリー・ジョーンズ(vo&g)のパワフル&ハスキーなヴォイスが突き抜けんばかりの爽快感を放ち、ダイナミックなギター・ロックが琴線直撃のナイス・メロディを奏でる。またそれに加え、アコースティック・サウンドによる叙情的な曲も魅力のひとつ。99年の2ndアルバム『パフォーマンス・アンド・カクテルズ』は全英No.1に輝き、ここ日本でも多大な人気を獲得した。そして、01年の『ジャスト・イナフ・エデュケイション・トゥ・パフォーム』からは、3コード/3ミニッツ・ロックンロールのスタイルを覆し、豊かな曲想で新たな包容力を見せてくれている。
ボニーM
ディスコ世代にとっては忘れられないグループ。西ドイツ出身、男性1人/女性3人という編成で、宇宙服を模したと思われる金銀ラメが眩いばかりのド派手なファッションがトレードマークである。代表曲は「Daddy Cool(ダディ・クール)」、「Ma Baker(マ・ベーカー)」、「Sunny(サニー)」、「Rivers Of Babylon(バビロンの河)」など数多いが、最も有名なのが「怪僧ラスプーチン」。軽快なダンス・ビートに彩られたキャッチーなこのナンバーは、ヨーロッパや日本で大ヒットを記録し、彼らをディスコ時代を代表する存在に押し上げた。ある意味、キワモノ的グループともいえるが、フロアで踊る快楽性を徹底的に追求したプロダクションは、その後のユーロ・ビートへと繋がっていく。ちなみにグループは80年代中頃に自然消滅してしまった。
ビレッジ・ピープル
時はレイト70s、ディスコ界にキラ星のごとき輝きを放つ新星マッチョ軍団が登場--その名もヴィレッジ・ピープル。カウボーイ、インディアン、アーミー、ポリスマン……と、今でいうところのコスプレともおぼしきそのド派手なコスチュームは、鍛え上げられた体躯に眩しいほどお似合いだった。ヴォーカル以外のメンバー全員がゲイということもあって、同性愛者の間で非常に高い人気を誇ったこのグループだが、キャリアにおいて「Y.M.C.A.(西城秀樹が「ヤングマン」としてカヴァー)」「ゴー・ウェスト」「マッチョ・マン(そのまんまやないけ!)」といったワールドワイドな大ヒット・ナンバーを連発。なにかと外見や私生活での噂が先行しがちな彼らではあったが、フランス出身のプロデューサー、ジャック・モラーリの辣腕もあり、ノリ重視のクラップ・ハンズ/アッパーなホーン・セクション/うなるようなファンキー・ベースという“ディスコ三種の神器"を各楽曲にきっちり収納。ちなみに日本でピンク・レディーが「ピンク・タイフーン(IN THE NAVY)」としてカヴァーした「イン・ザ・ネイヴィー」は、“いい男揃いの海軍へみんなで入隊しましょう!"というなんともアツ~いメッセージ・ソングであり、その事実を鑑みた上でミーちゃんとケイちゃんが「ヤっちゃいな/ヤっちゃいな/ヤりたくなったらやっちゃいな」と囁きモードで歌っていたことも、非常に含蓄深いものに思われる。01年3月に元メンバーのグレン・ヒューズが肺がんのため50歳という若さで逝去したが、96年まではヴィレッジ・ピープルに在籍していたという。--最近表立った噂は耳にしないけれど、もしかしたら他のメンバーは場末のクラブやキャバレーで現在でも歌っているのかもしれない。マッチョな肉体を駆使して……。
ボブディラン
フォーク/フォーク・ロック界のロンリー・ゴッド、ボブ・ディラン。ライト&メロウなAOR、カタルシス全開のハード・ロック、ダンサブル&スウィートなR&B……といった、いわゆる「使える音楽」から、数千マイル離れた極北に位置し、その孤高の存在感でもって全世界に(私財をなげうつほどの)熱狂的なファン/マニアを数多く有する。ぼくらは何度、彼の“コクのある歌"に救われたことか……。ぼくらが彼を敬愛して止まないのは、ひとえに「自己の表現欲求に対する猛烈なまでの真摯さ」ゆえだろう。例えば、保守的なフォーク・ファンから猛烈な罵声を浴びつつも、勇敢にエレキ・ギターを手にして生み出した、65年発表の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』『追憶のハイウェイ61』--ちなみに当時、ロック・バンドを率いた初のツアーにおいて、名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」はジミ・ヘンドリックス並みの爆音でカッコよく演奏されたという。そして、ザ・バンドとの魂の交流が生み出した『プラネット・ウェイヴズ』、結婚生活の破綻による苦悩に満ちた『血の轍』などなど(挙げれば本当にきりがない)……。それら至高の作品群に触れれば、彼がいかにシリアスに音楽と向き合っていたか、一目瞭然である。また、メロディ/アレンジは演奏するたび大胆に変更され、熱心なファンでさえその曲が何なのか即座に判断できないらしい。つまり、己にもっともジャストな表現を求めて止まないのだ。現在も依然、輝き続ける生涯現役のロック詩人ボブ・ディラン、この先最高傑作を生み出す可能性は十分にある。
ドアーズ
「知覚の扉が清められれば、あらゆるものが無限に見えるようになる」--オルダス・ハクスレーの言葉とウィリアム・ブレイクの詩の一説を引用して命名されたドアーズは67年にデビューし、ロックに文学を取り入れるという斬新なスタイルで、60年代のサイケデリック・カルチャーに多大な影響を与えた。ヴォーカルのジム・モリソンが全身全霊で叫び続けた奇妙で難解な詩は、美、愛、情熱といった魅惑的な世界を描きながらも、同時に憎悪、狂気、死と対峙した絶望をもたらすものであり、聴く者の思考を深い奈落に陥れた。--彼らは潜在意識を超越した次元で人々の精神を解放しようとしたのである。71年にジムが亡くなるまでの4年間を鮮烈に駆け抜けたドアーズの奇跡は、いまだに議論を呼ぶ。ロックンロールのシャーマンが唱える詩と、その魔力を最大限にまで引き出す官能的なサウンドは時代を超越し、我々の知覚を刺激して止まない。
ジェファーソン・エアプレイン
享楽的なラヴ&ピースを掲げたサイケデリック・シーンが猛威を奮う60年代後半のサンフランシスコ。そんな中、ドアーズ、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスと共に、一時代を築いたのが、このジェファーソン・エアプレインである。66年に『テイクス・オフ』でメジャー・デビュー。翌67年には、2nd『シュールリアリスティック・ピローズ』を発表する。LSD/ガンジャ/セックス/アルコールがもたらす幻惑感を、アメリカ・オリエンティッドな音楽スタイルとファズ・ギターで見事に表現した傑作として、あまりにも有名。ベトナム戦争、ドラッグ・カルチャー、サイケロック・ムーヴメントが一体となった“1967サンフランシスコ"の匂いを嗅ぐにはうってつけの一枚ではないか。そして69年の『ヴォランティアーズ』で頂点を迎えたジェファーソン・エアプレイン。その後、フラワー・ムーヴメントの沈静化に伴い、次第に失速、70年代に入り空中分裂してしまう。中心メンバーであった、グレイス・スリック(vo)とポール・カントナー(vo&g)は、72年にジェファーソン・スターシップを結成し、商業的に大きな成功を獲得していった。
T.レックス
史上最強のブギー・ヒーロー、マーク・ボラン(本名マーク・フェルド)。狂乱のグラム・スター生活、キンキラ金ラメ衣装、ドラッグ漬けによる早すぎる死(直接の引き金は自動車事故)など--彼が築き上げた数々の伝説は、後進のアーティストに多大な影響を与えながら常に輝きつづけている。65年にソロ・デビューを果たし、67年からはティラノザウルス・レックスとして活動。70年にはT.レックスと改名して、バンド・スタイルによるエレクトリック・サウンドを展開し、「ホット・ラヴ」「ゲット・イット・オン」「テレグラム・サム」「20thセンチュリー・ボーイ」などの大ヒット曲を世に送り出した。パンク前夜のシーンにおいて彼が成し遂げた功績はあまりにも大きい。「ボラン・ブギー」という言葉まで作り出したそのサウンドは、キャッチーなメロディと目眩めく妖しげなグルーヴを携え、盟友デヴィッド・ボウイとともに“グラム・ロック"というきらびやかなスタイルを創造したのである。そして、ボランのどこか寂しげなヴォーカルと、ストリングスによる儚い雰囲気が狂騒的なグラム・シーンの裏側を垣間見せ、まるで彼の内面を代弁しているかのように鳴り響いているのだ。
佐野元春
始まりは、80年にリリ-スされたシングル「アンジェリーナ」だった。スピード感のあるロック・ビートに、都会で生活する若者の憂えた感情を描いた歌詞は、彼自身の「
日本語えいご的な歌唱法」と共にまったく新しいタイプのロックとして、当時のポップ・シーンに受け入れられた。そして「ガラスのジェネレーション」、続く「サムデイ」でその世界観を完成させるものの、その場所に安住せずアルバムごとに時代のトレンドや音楽嗜好を投影させ、つぎつぎと新機軸を打ち出していく。巨匠大滝詠一、杉真理との『ナイアガラ・トライアングルVol.2』でのマージー・ビートの追求、ヒップ・ホップの現場ニューヨークでの単独生活、ハモンド・オルガン奏者ジョージ・フェイムとのレコーディング・セッション、そしてジョン・サイモンをプロデューサーに迎えたウッドストック録音など、佐野元春がポップスの本質を探る旅は世界を股にかけて行われた。そう、彼は音楽における冒険者なのだ。さらに、94年に長年パートナーを務めたバンド、ハートランドとの活動にピリオドを打ち、新たにホーボーキング・バンドを結成。それはこれまでの直線的なビート・ロックから70年代アメリカン・ロックを意識した泥臭いグルーヴへの鮮やかな転身だった。前述したウッドストック録音の『The Barn』は、彼とバンドの最大の成果といえるだろう。また、この頃からアルバムやライヴなどで東京スカパラダイスオーケストラやプレイグスといったバンドと世代を超えた共演をしたり、『THIS』というイヴェントを開催し、若手バンドを積極的に紹介していく。こうしたことから彼は「伝えられる側」から「伝える側」へ成熟したといえるのかもしれない。そして佐野元春の旅は続く……。
ショッキング・ブルー
60年代のサンフランシスコに端を発すフラワー・ムーヴメントは世界中に飛び火し、米国以外にもヨーロッパ、南米、そして極東などでも数多くのサイケデリック・グループが生まれた。そのなかでも特に有名なのが、このショッキング・ブルー。--オランダ出身のグループである。彼らがジェファーソン・エアプレインに影響を受けていたことは想像に難くない。グレース・スリックばりの女性がリード・ヴォーカルを取っていたり、ラーガ・ロック・テイストを漂わせたりと類似点多し。しかしエアプレインが深い精神性をもってサイケデリアにアプローチしたのと較べると、彼らの場合は「流行っているから取り入れてみました」的な脳天気さがある。そんなフットワークの軽さがポップ・グループとして成功した要因であり、このグループの良さである。代表曲には「Lucy Brown Is Back In Town」や「Send Me A Postcard Darling」などがあるが、特に有名なのは70年のワールドワイド・ヒット「Venus」であろう。80年代にバナナラマがカヴァーしたのを始め、日本でもCMや番組オープニング曲に使われたサイケ・クラシック。ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」と共に、あの時代を代表するポップ・ナンバーだ。
ホフディラン
90年代に現れた最高品質ポップ・デュオとして、キリンジと共にその名を刻むであろうホフディラン。子供がまんま大人になったかのような2人、ワタナベイビーこと渡辺慎、テンフィンガーユウヒこと小宮山雄飛によるユニットだ。ほのぼのと心地好い脱力感を誘うサウンドのルーツを辿れば、ビートルズに始まりローリング・ストーンズ/ボブ・ディラン/XTC/ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツ……とキリがない。そうした、さまざまな音楽嗜好から得たエッセンスを自らの楽曲に反映させるポップ・センスは突出しており、天才肌かつ職人的だ。時にハッピーに響き、時に切なく心に染みるメロディ。ストレートに、ユーモラスに、プチ哲学っぽく、とアプローチに富んだ詞。そして両人の個性的なヴォーカル・スタイル。ワタナベイビーは、ハイトーン・ヴォイスを押しつぶしたような特異な声で歌い上げ、かたやテンフィンガーユウヒは、ぶっきらぼうな雰囲気を醸し出す。--2人の特性を活かすため、楽曲ごとにソングライティング/ヴォーカルは分担され、ビートルズに例えるならばレノン/マッカートニーのように絶妙な調和を生み出している。96年にリリースされたデビュー・アルバム『多摩川レコード』の時点で、比類無き完成度を誇るデュオとして評価を受け、今日に及ぶまでそれは揺らぐことがない。また、ザ・ユウヒーズ、ワタナベイビーとして個々の活動も盛んである。02年8月、バンドは一旦活動休止することを発表。
吉田拓郎
現在では、アイドルと一緒に音楽番組の司会を務め、人のいいオジさんという感もある吉田拓郎。70年代のライヴで見せたアジテイターとしての凄さと、ポップス界の即製概念を覆した数々の記録的活動を知らない世代が増えてきている。もともと、和製ボブ・ディランなるキャッチ・フレーズのもと登場した吉田だが、71年に発表した「人間なんて」「結婚しようよ」などの大ヒットにより、一躍フォーク界の寵児となった。そして、ポップス~演歌まで他のアーティストに提供した楽曲も百発百中に近い確立でヒットを記録、作曲家としての地位も確立。さらに、井上陽水、泉谷しげるらと共に設立したミュージシャン自身によるレコード会社<フォー・ライフ>は、音楽業界に波紋を巻き起こした。そんな吉田拓郎の最大の功績は、マニアックなファンのものであったフォーク・ソングをニュー・ミュージックという大衆性のある音楽に昇華させ、ポピュラー・ミュージックを次の地平に導く水先案内人としての役目を果たしたことではないだろうか。
グランド・ファンク・レイルロード
レッド・ツェッペリンやジェフ・ベック・グループなど英国へヴィ・ロック勢に対する米国からの回答として、69年に登場したグランド・ファンク・レイルロード。どデカいサウンドとひたすらパワーで捻じ伏せるような演奏で一気にブレイクを果たし、デビューから1年でレコードの売り上げが1000万枚を記録するという快挙を成し遂げた。
代表作は何といっても『We're an American Band』(74年)。アメリカのバンドであることを高らかに宣言するこの作品で、グループは文字通り頂点を極める。
また、激しい雷雨のなか行われた来日公演は"雨の後楽園"としてロック史の伝説として語り継がれている。
ゲスフー
カナダのバンド、ゲス・フーは65年にエクスプレッションズというバンド名でデビューし、ジョニー・キド・アンド・ザ・パイレーツの「シェイキン・オール・オーヴァー」をカヴァーし、カナダとアメリカでヒットを記録した。その後彼らは、ステッペンウルフが映画『イージー・ライダー』のサントラに提供し人気を集めたようなアメリカン・ロックへとサウンドを変えていった。ゲス・フーのアメリカでの正真正銘のヒットといえば、軽薄で反米的な内容の70年のナンバー「アメリカン・ウーマン」ただ1曲だけだったが、彼らがホワイトハウスでチャールズ皇太子のために演奏した時、当時のファースト・レディーだったニクソン夫人はこの曲を演奏しないようバンドに要請した。ホワイトハウスでの演奏からしばらくしてギターのランディー・バッハマンはバンドを去り、チャド・アレンと共にブレイヴ・ベルトというバンドを結成した。ブレイヴ・ベルトはその後、各地のコンサート会場を湧かせたバンド、バッハマン・チューナー・オーヴァードライブへと推移していった。ゲス・フーはメンバー・チェンジを繰り返しながらも活動中で、相変わらずヘビィなリフの利いたサウンドを演奏している。
ステッペンウルフ
ジョン・ケイを中心に結成されたステッペンウルフは「ワイルドで行こう」を大ヒットさせた、ヘビーなブルース調のサウンドを繰り出すバンドとして永遠に音楽史にその名を残すだろう。ジョン・ケイは「ワイルドで行こう」の中に「ヘビィメタル・サンダー」という歌詞を入れ、「ヘビィメタル」という言葉を編み出した人間としても知られている。それだけでなく、ケイは夜中もサングラスをかけていた初めてのロック・スターだった可能性もある。(コリー・ハートがあの「サングラス・アット・ナイト」を歌った20年も前のことだ)。近代ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの小説から名前を借りたステッペンウルフは、太く短いキャリアの中で2曲の大ヒット曲を飛ばし(もう1曲は「マジック・カーペット・ライド」)、その後は一部メンバーによる再結成ライヴを行っている。
マウンテン
クリーム一連の名作をプロデュースして名を挙げたフェリックス・パパラルディ(b)が、巨漢ギタリスト、レスリー・ウエストと共に結成したハード・ロック・バンド。フェリックスとレスリーの火を吹くようなインター・プレイの応酬に、"70年代のクリーム"と賞賛された。であるからして、このバンドの醍醐味はライヴにあると言ってもいい。確かに「ミシシッピ・クイーン」に代表されるスタジオ録音もいいが、アルバム『Flowers Of Evil(悪の華)』のライヴ組曲は悶絶モノだ。これぞハード・ロック! といった演奏がスリル満点に展開される。特に、レスリーのプレイは、マイケル・シェンカーなどの鋼鉄系ギタリストに絶大なる影響を与えた。
バンドは72年に突如として解散。そして83年には、フェリックスが妻に射殺されるという悲劇的な最期を迎えている。
なお、84年・96年と2回に渡り、レスリーを中心に再結成を果たしている。
ヤードバーズ
3大ギタリスト(ジミー・ペイジ、ジェフ・ベック、エリック・クラプトン)を輩出したバンドとして有名。しかしそれ以上に、アメリカへ進出し、成功した数少ないイギリスのバンドとして重要な存在といえる。
「フォー・ユア・ラヴ」「ハートせつなく」などのヒット曲で知られており、フィード・バック奏法、シカゴ・ブルース、アンプリフィケイション、サイケデリックの要素をミックスさせた音を作り出した。また、「ストロール・オン」を聴けば、ロック界において初のハードロック・バンドであったことがわかるはずだ。もちろん、クラプトンは早々と脱退し、ベックは途中で手抜きしはじめ、ペイジはおかしな衣装をまとってステージに上がっていたことも周知の事実ではあるが――。しかし彼らは、白人がブルースを演奏することができる、と証明した初めてのバンドでもあるのだ。
ジェフベック
人類史上もっとも偉大なギタリスト、ジェフ・ベックは、65年にエリック・クラプトンの後釜としてザ・ヤードバーズに加入、壮大なキャリアの第一歩を踏み出していく。そして『フォー・ユア・ラヴ』(65年)、『ジェフ・ベック&ザ・ヤードバーズ』(66年)という不朽の名作を世に残し、ブリティッシュ・ハードロックの雛型を創り出した。ブルース・スケールのなか縦横無尽に繰り出される必殺フレーズ、ロック的高揚感を体現したフィードバック・ノイズ――を駆使したワン・アンド・オンリーな超絶奏法はすでにこの頃確立されていたようだ。しかし66年、後にレッド・ツェッペリンを結成するジミー・ペイジに後任を委ね脱退。
68年にはロッド・スチュワート(vo)、ロン・ウッド(b)、ミッキー・ウォーラー(dr)を率い、ジェフ・ベック・グループを結成する。同年、このラインナップでの唯一のアルバム『トゥルース』をリリース。超一流プレイヤー(ジェフ以外、当時は無名であったが)によって奏でられる、ロック特有のダイナミズムが120%完膚なきまでに表現されたサウンド/アレンジ/メロディ。それはまさにブリティッシュ・ハードロックにおける永遠不滅の金字塔であった。その後、大胆なメンバー・チェンジを敢行し、数々の名盤を生み出すも、72年に解散。
そして、元ヴァニラ・ファッジのティム・ボガート(b&vo)、カーマイン・アピス(dr&vo)を誘い、空前絶後のテクニカル・グループ、ベック,ボガート&アピスを始動させる。73年にはバンド名を冠した1stアルバムを発表。強力無比なリズム・セクションにジャズ/ブルース/ソウル/ハードロックと変幻自在なギター・プレイがスリリングに絡む、この傑作はセールス的にも成功を果たした。がしかし、ジェフの気まぐれな性格ゆえか、74年にこれまた解散の道をたどる。
こうして、ようやくソロ・アーティストとなった彼は75年に超一大傑作『ブロウ・バイ・ブロウ』をリリース。ジャズのスタイリッシュな響きと、ロック的な攻撃性を交配させた、このインストゥルメンタル作品は非常にセンセーショナルに迎えられた。続く『ワイアード』(76年)を含め、後のジャズ/フュージョン・シーンに残した足跡はあまりに大きい。80年代はソロ活動を一時中断。セッション・ギタリストとして、ハニー・ドリッパーズやロッド・スチュワートらの作品に参加し、数々の名演奏を繰り広げていった。89年には『ワイアード』『ゼア・アンド・バック』の系譜を継ぐ、久々のソロ・アルバム『ギター・ショップ』で第一線にカムバックを果たす。また最近では、『フー・エルス!』(99年)、『ユー・ハッド・イット・カミング』(00年)と豊穣な味わいの作品を発表している。30年前とほとんど変わらぬ風貌も含め、現在も依然モーレツにカッコいい存在だ。
ジミーペイジ
元ヤードバーズ/レッド・ツェッペリンのギタリスト・ジミー・ペイジは、60年代のイギリスにおいて最も名高いギタリストといえる。ヤードバーズに参加する以前(そしてレッド・ツェッペリン結成以前)、彼はあらゆるバンドから引っ張りだこのセッション・ミュージシャンだった。
初期レッド・ツェッペリンの作品(「胸いっぱいの愛を」「コミュニケイション・ブレイクダウン」など)は、現代のメタル・ギターの元祖と評価されているが、アコースティック・ギターとマンドリンに関してはいくぶん過小評価ぎみのようにも思える。しかし彼は、ラウドに弾きまくるだけでなく、叙情的なプレイでも言いようのない深遠なムードを醸し出す稀有なギタリストなのだ。
またペイジは、66年のミケランジェロ・アントニオーニ監督作品『欲望』にカメオ出演し、クールですらりとした姿で「Stroll On」の激しいリフを弾き(これは、実はあの名曲「Train Kept A Rollin'」だった)、ヘヴィな音に衝撃を受けたモッズの間に暴動を引き起こしている。
エアロスミス
ロックンロール・キングとして君臨すること早30年(低迷期はあったが)、エアロスミスはまさにアメリカン・ハードロックの不沈空母だ。人類史上最高の“娯楽・ロック・ミュージック”の愉しさを全世界に浸透させたという功績はあまりにも偉大。親父とオカンは「やりたい気持ち」(←スゲエ邦題)で盛りあがり、兄貴は「ウォーク・ディス・ウェイ」でダンシング、弟は「イート・ザ・リッチ」のギターを完コピ、そして、俺っちは「ホワット・イット・テイクス」でスケこまし――というロック一家も数知れず。
ツェッペリン
ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズと並びロック史上最も有名なグループだろう。「ロックン・ロール」「天国への階段」といった曲は、ロック・クラシックとして現在も耳にすることが多いし、全てを薙ぎ倒すような大音量の演奏は、ハードロック~へヴィ・メタルの元祖と評されている。と同時に、ツアー中の傍若無人な振る舞い(ホテルの部屋を破壊/グルーピィとの乱交etc)の数々は、その後の"ロック"なライフ・スタイルの雛型ともなった。
しかし、そうした側面は表層的なものでしかなく、彼らの音楽性は多面的でさまざまな要素を含んだディープなものであった。初期こそブルースをベースにしたロックを展開していたが、ブリティッシュ・トラッドを大胆にハード・ロック化した「幻惑されて」やインド音楽にアプローチした「フレンズ」、レゲエ調の「デイジャ・メイク・ハー」、ニューオリンズ・ファンクへのオマージュ「ロイヤル・オルレアンズ」など、ブラック・ミュージックからワールド・ミュージックまで、多彩なエッセンスを血肉化し、"レッド・ツェッペリン"というジャンルにまで昇華。もちろん、メンバーの高い演奏技術があってこそ成し得たことで、ロバート・プラントのハイトーン・ヴォーカルとジミー・ペイジの奇怪なチューニングを施したギター奏法、ジョン・ボーナム(ds)とジョン・ポール・ジョーンズ(b)のリズム隊が生み出す肉感的で躍動感のあるグルーヴ――全てが一体となった音世界は、強力無比、他の追随を許さなかった。
ジョン・ボーナムの死によりグループは80年に解散するが、それ以降もフォロワーは後を絶たず、現在も絶大な影響力を誇っている。
ジャニスイアン
デビュー曲の「ソサエティーズ・チャイルド」(67年)は、黒人少年と白人少女の悲恋を描いたプロテスト・フォークだった。当時、ジャニス・イアンは弱冠16歳。そして、この早熟な天才少女は17歳にして結婚。結局は破局するものの、その経験を歌にしたのが「アット・セヴンティーン(17歳の頃)」(74年)である。この曲は大ヒットを記録しグラミー賞を獲得、彼女の出世作となった。フォークを基調にポップスやジャズなどのテイストを織り交ぜ、若くして得たさまざまな経験を投影した作風は支持され、その後もロバータ・フラックが彼女の「ジェシー」をカヴァーしヒットさせるなど70年代後半までは順風満帆な活動が続く。80年代に入ると、2度目の離婚や財政破綻が彼女を休業に追い込んでしまうものの、類い稀なる女性的強さを発揮し、93年に復活。--こんな波乱万丈の人生を送ってきたからこそ、信念に溢れ、かつ純度の高い彼女の歌は、いまだ多くの人々の心を捕らえて離さないのだろう。ちなみに、椎名林檎の「17」は、ジャニスの「アット・セヴンティーン」へのオマージュらしい。
エリッククラプトン
60年代、まだデビューしたばかりの時点でクラプトンは早くもギタリストとして神格視されるまでの存在であった。しかし、そこから来るプレッシャーや、あるいはドラッグやアルコールへの深い依存、度重なる悲劇といった事柄が、彼の創造性を妨げることはなかったのである。
最初に評価されたのはその驚異的な速弾きだったが、「クラプトンは神だ」という有名な賛辞を生むことになった最大の要因は、言うまでもなく彼自身のソウルフルなブルーズにある。60年代を通じて、後のロック・シーンに強い影響力を与えることになる著名なクラシック・ロック・バンドをいくつも渡り歩き、その活動を通じてジェフ・ベック/ジミ・ヘンドリックス/ジミー・ペイジ/ジョン・マクラフリンといった優れたギタリストたちと親交を重ねたクラプトンは、その後ソロ活動を開始。すかさず大きな成功を収め、やがてヴォーカリスト/バラード・ライターとしての才能も開花させていった。
フレディ・キングのプレイから多くを吸収しながらもブルーズの可能性を広げる新しい演奏スタイルを次々と生み出してきたクラプトン――リズム&ブルースの世界にクロスオーヴァーするヒット曲を数多く輩出し、アンプラグド・スタイルでもシンガー・ソングライター的世界を展開。さらには匿名のトリップ・ホップ・プロジェクトにも取り組んでいるというから、なんとも素晴らしいではないか。
クリーム
クリームはジャズでありハードロックだ! ――名うてのプレイヤー3人が繰り広げる、ブルースを触媒にした長時間のインター・プレイは、まさにジャズ。そしてアンプを壁のように並べ立てる大音量での演奏は、HM/HRのルーツとなったのだ。
エリック・クラプトン(g)、ジャック・ブルース(b)、ジンジャー・べイカー(dr)という英国ミュージック・シーンを代表するスターが集結したクリームは、当時からスーパー・バンドと騒がれた。クラプトンの“ウーマン・トーン”と呼ばれる優しいタッチの奏法、ブルースのギター・ソロとみまごうほどテクニカルなリード・ベース、そしてスピード・メタルも真っ青なベイカーの自由奔放2バス・ドラミング――これらの要素がくんずほぐれつしながら、激しいインプロヴィゼーションを展開していく。それはヴォーカル主体による旧来のロックのフォーマットに、大きな風穴を開けたのだった。
しかし、彼らがクレバーであったのは、ライヴとレコーディングにおけるスタイルの使い分け――ライヴの即興演奏とは打って変わり、シングルではメロディ重視のサイケデリック・ポップを披露。「ホワイト・ルーム」「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」などのヒットを生み出したのだ。
66年から69年まで、たった3年という短い活動期間でロック・ミュージックのさまざまな可能性を導き出したクリームは、ロック史における最重要グループの1つであろう。
ロスチャイルド
ヨーロッパ 英国 AD
イギリスのユダヤ系金融財閥。ロスチャイルド(ロートシルト)家初代のマイヤー=アムシェル(1743~1812)は,ドイツのフランクフルトでヘッセン選帝侯お抱えの銀行家として巨富を蓄えた。その三男ネーサン=マイヤー(1777~1836)は18世紀末にイギリスに渡りロンドンで金融業を始めた。折からヨーロッパ諸国はナポレオン戦争中で資金繰りに困っていたが,彼は各国政府に1億ポンドを融資して一躍名声を高めた。その後は保険業や鉄道業にも進出し西ヨーロッパの金融界に君臨した。彼の兄弟たちもヨーロッパ各地に支店を出し,同家は政治的にも大きな影響力をもつに至った。ロンドンのロスチャイルド家では,ネーサン死後も,ディズレイリ内閣によるスエズ運河株式の買収(1875)に400万ポンドを融資,また第一次世界大戦中には莫大な戦費調達と引き換えに,戦後のユダヤ人国家建設を認めさせる(バルフォア宣言,1917)など,国際政治上に大きな足跡を残した。
【ロスチャイルドについて】
ヨーロッパに住むユダヤ人が迫害され始めたのは10世紀以降です。
ユダヤ人への差別は凄まじく、公職に就けなかったり* ギルドから締め出されたりしていたので、できることと言ったら両替商や金貸し業程度。(お金を貸す際に金利を取ることはキリスト教では禁止されていたので、その行為を宗教的に禁止されていなかったユダヤ人が、金貸し業などのお金関係の業務を行っていました)
ユダヤ人達の中には、宮廷や貴族に仕えてお金の管理をしたりする人まで現れました。
その中でも、ドイツのゲットーに住んでいた「マイヤー・アムシェル」という人は、ヘッセン伯ウィルヘルム9世にの元で、宮廷銀行家として働いていました。
そんな最中、ナポレオンがドイツに侵攻。
ヘッセン伯ウィルヘルム9世は、自分の持っていた財産を隠しておいてくれるように、マイヤー・アムシェルに頼み、フランス軍(ナポレオン)に逮捕されるのを恐れて逃亡しました。
しかしマイヤー・アムシェルは、その預けられたお金をネコババしてしまいました。
そのお金で、三男のネーサンはイギリスに「ロスチャイルド銀行」を設立したのでした。
そのロスチャイルド銀行は、イギリスの戦費調達の手助けをしたりしました。
その後、各国に散らばったアムシェルの息子達は、早くて正確に決済が出来る金融システムを構築し、国際的で大きな金融業者へと発展して行ったのでした。
現在、ロスチャイルド系の企業は多方面に広がり、大活躍しています。
【こちらの書籍を参考に作成しました】
ロスチャイルド〈上〉―富と権力の物語
デリク ウィルソン (著), Derek Wilson (原著), 本橋 たまき (翻訳)
【ロスチャイルド系の企業】
【通信】
■ タイムズ
■ ザ・サン
■ ロイター通信
■ AP通信
■ ABC・NBC・CBS放送
【金属・重工業】
■ ビッカース (兵器)
■ ダッソー(兵器)
■ アームストロング(兵器)
■ シュットーデル(兵器)
■ ミノルコ(金属)
■ モンド・ニッケル
■ モンド社(アルカリ)
【
その他】
■ フィリップ・モリス
■ ローマ・プーラン
■ デビアス
■ リオ・チント・ジンク 【食品】
■ ネッスル(コーヒー)
■ ユニリーバ(食品)
■ ブルックボ ンド(紅茶)
【銀行・保険】
■ フランス銀行
■ イングラ ンド銀行
■ パリ国立銀行
■ スエズ金融
■ 香港上海銀行
■ ウェストミンスター銀行
■ ル イ・ドレフェス商会
■ ソロモン・ブラザーズ
■ リーマン・ブラザーズ
■ カナダロイヤル銀行
■ アラブ投資銀行
■ モントリオール銀行
■ ジェネラル銀行
■ ブリュッセル・ラ ンベール
■ ウェストバンク
■ ロイズ保険
ギルドとは
鍛冶屋や仕立て屋など、各々の利権を侵害しないように、ヨーロッパではギルドと呼ばれる組合組織が存在しました。その中に異教徒のユダヤ人が入り込めなかったのは言うまでもありません。
ユダヤ人は近代になって、ギルドに対抗して、欲しい商品が一つの店で何でも揃う「百貨店」を開店しました。現在のデパートの原型は、ユダヤ人が作ったものだと言われています。
ロックフェラー
北アメリカ アメリカ合衆国 AD1839
1839~1937 アメリカの実業家・石油王と言われる。ニューヨーク州の生まれで農民出身。ペンシルヴァニア油田発見以後,石油業を初めクリーブランドにおいて石油精製事業に成功する。1870年「スタンダード=オイル社」を設立しアメリカ全製油量の10%を握った。業界は競争が激烈であったが,輸送機関・パイプラインをも確保し,次々と合併を行って1879年にはアメリカの全石油精製の90%を独占した。1882年には「スタンダード=オイル=トラスト」を設立し販売組織をヨーロッパ・ラテンアメリカにも拡大したが,弱小企業を倒産に追いこむなど世論批判を受け,また最高裁の独占禁止のため解散命令を受けた。次いで持株会社を設立したがシャーマン法にふれ解散させられ,多くの子会社に分割された。しかし今日,なおエクソンなど世界最大の石油会社を支配している。1911年には引退し,文化・慈善事業に没頭し,ロックフェラー財団・シカゴ大学等の設立などに努めた。
【ロックフェラーについて】
ロックフェラーを創設したのは、ジョン・D・ロックフェラーと言う人です。
ジョン・D・ロックフェラーは、ニューヨーク州の北部で行商人をしていた父と、バプティスト教の母と共に育ちました。暮らしは決して豊かではありませんでした。
ジョン・D・ロックフェラーが大成したのは、石油事業で成功を収めたからです。
その当時、アメリカで採掘されていた石油は、精製の具合がバラバラで良質のものから点でダメなものまで様々でした。その石油の精製具合をある一定の標準まで高めて、品質の良い石油を安定して供給するサービスを初めて確立したのが、ジョン・D・ロックフェラーでした。
その為、名前もスタンダードオイル(スタンダード石油)でした。
このスタンダード石油は他社を合併・統合し、どんどんと拡大していきました。
さらには、鉄道やパイプラインなどで都市部に石油を安定して大量に供給することで、巨万の富を得ました。そんなこんなでスタンダード石油は、アメリカ国内でのシェアが、90%を超えるほどの巨大な会社へと成長していきました。
1911年にアメリカ最高裁は解体を命じる判決を出してからは、全米に広がっていたスタンダード石油は分社化しました。その後、スタンダード石油は改名・統合を繰り返しました。
スタンダード石油系の企業には、エクソンモービル・ロイヤルダッチシェルなど、皆さんおなじみのガソリン・石油企業があります。
【こちらの書籍を参考に作成しました】
タイタン〈上〉ロックフェラー帝国を創った男
ロン チャーナウ (著), Ron Chernow (原著), 井上 広美 (翻訳)
最終更新:2007年05月19日 19:27