夏の夜

あゝ 疲れた胸の裡を
桜色の 女が通る
女が通る。

夏の夜の水田の滓、
怨恨は気が遐くなる
――盆地を繞る山は巡るか?

裸足はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黒い。

霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛はどうしやうもない、
――疲れた胸の裡を 花瓣が通る。

疲れた胸の裡を 花瓣が通る
ときどき銅鑼が著物に触れて。
靄はきれいだけれども、暑い!

裡(うち)
水田(すいでん)
滓(おり
遐(とほ)くなる
繞(めぐ)る
裸足(らそく)
花瓣(くわべん)
銅鑼(ごんぐ)
靄(もや)



わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった 

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね
最終更新:2007年08月05日 21:35