少女の脇のバケツを覗くと、入っているのは容量の半分ほどの水だけ。 @
「……私には、何も釣れていないように見えるのだが」 @
「実はこれ、あたしにしか見えない魚なんだ。どう?面白いでしょ?」 @
「……ははは」 @
面白いのは君だろう、とは言わないでおく。 @
「一人で釣りをしていて、寂しくないのかね?友達と遊んだりはしないのかい?」 @
「うーん、友達はいるんだけど、はっきり言って釣りしてるほうが楽しいんだよね」 @
「ふむ……まあ、人それぞれか」 @
「そーゆーこと。ところでおじさんはどういう人なの?この町の人じゃないよね?」 @
「私かい?私はちょっと休暇を取ってこの町に旅行に来ていてね。本当は忙しいのだが、秘書が休暇を取れとうるさくてな」 @
「ふーん。どこから来たの?」 @
「どこから……むう、一応家と持っている会社は東京にあるが、家にいるよりあちこちを飛び回っているほうが多いからな…… @
ここから来た、と自信を持って言える場所はないな」 @
「てことは、大きな会社のすっごく忙しい社長さんなんだ」 @
「まあ、簡単に言えばそうなるかな」 @
「へー、おじさんすごいんだね」 @
「そんなことはないよ。ただ昔から商売が好きなだけだからね」 @
だからこそ、これまで働いて仕事に飽きたことが無いのだろう。 @
● @
その後、私たちは日が半分ほど落ちるまで他愛の無い話を続けた。 @
「ふむ、そろそろ宿に戻るかな」 @
「そう。じゃあねおじさん」 @
「明日もここで釣りをするのかい?」 @
「うん。用事があるとき以外、いつもここで日が暮れるまで釣りしてるよ」 @
「そうかい。では、また明日も君に会いに来るよ」 @
「いいの?せっかく旅行に来たのに、町を見て回ったりしないの?」 @
「昨日と今日で、この町は大体見て回ってしまったからね。むしろ、残りの休日をどう使おうか迷っていたところだよ」 @
「そう。それじゃ、また明日」 @
「ああ、また明日」 @
別れの挨拶を済ませると、私は釣りを続ける少女に背を向けて宿への道を歩き始めた。 @
● @
次の日に言葉通りに同じ波止場に行くと、少女もまた言葉通りに釣りをしていた。 @
「やあ、釣れるかい」 @
「んー?昨日と同じだよ」 @
「ということは、今日もさっぱりか」 @
「だから、面白いのが釣れたんだって」 @
「まあ、そういうことにしておいてあげよう」 @
「むー……」 @
頬を膨らませて不機嫌な表情を浮かべる少女に和みながら、少女の隣に腰掛ける。 @
「ねえ、おじさんの話もっと聞かせてよ。おじさんって何歳?」 @
「ふむ、確か50前後だったかな。商売ばかりしていて祝ってくれる家族もいないから、自分の歳も忘れそうになってしまうよ」 @
「そんなにお仕事ばっかりやってるの?」 @
「そうだね。大学を卒業してからある会社に数年間勤めた後、独立して自分の会社を立ち上げたんだ。 @
最初は生活用品をいくつか扱うだけだったんだが、なかなか売れなくて辛い日々を過ごしたよ。 @
けどいくつもの危機を乗り越えていくうちに商品も増え会社も大きくなって、今じゃ世界を相手に様々な商品を扱う毎日さ」 @
「ふーん。じゃあぶっちゃけ儲かってるの?」 @
「ストレートな質問を包み隠さずぶつけてくるな君は。まあ、儲かっているといえば儲かっているかな」 @
「すごいんだ、おじさん」 @
「そんなことはないよ。私はただ好きなことをやっているだけなんだから」 @
「さっきも言ってたけど、おじさんって家族いないの?」 @
「ああ、もう両親は亡くなってしまったし、結婚相手を探す時間を仕事に費やしてしまったからね。 @
そういう話を持ちかけられたこともあるが、その気になったことは一度も無かったな」 @
「寂しい人生だね」 @
「自分ではそうは思わないな。自分の好きなことに人生を費やせて満足しているからね」 @
「ふーん……まあ、人それぞれか」 @
「そういうことだよ」 @
こんなふうに自分の話をするのも随分と久しぶりだ。 @
なのでついつい時間を忘れて話し込んでしまい、気が付けば日が暮れかけていた。 @
「おっと……それではそろそろ宿に戻るよ」 @
「うん。また明日も来てくれる?」 @
「ああ。約束するよ」 @
「そっか、ありがと。じゃあね」 @
「また明日、お嬢さん」 @
● @
次の日、私は近くの漁師に借りた釣竿を持って波止場にやって来た。 @
「やあ、お嬢さん」 @
「こんにちは……あれ、どうしたのそれ?」 @
「君と一緒に釣りでもやってみようと思ってね。色々と教えてくれないかな」 @
「おじさん釣り初めてなの?」 @
「そうだよ。だから君に教えて欲しいんだ」 @
「うん、いいよ。それじゃ座りなよ」 @
「ああ。よっこらせ……」 @
「あ、隣はダメ」 @
「え……」 @
少しショックを受けた。この3日で、多少なりとも私に心を開いてくれていると思ったのだが……。 @
「そんな近くで一緒に釣りしたら、釣り糸が絡まっちゃうでしょ。ちゃんと距離を置いて座らないと」 @
「あ、ああ、そういうことか」 @
「まったく、これだから素人は……」 @
「……申し訳ございません」 @
まさかこんな小さな子に謝ることになるとは。 @
今度は会話に差し支えないほどの距離を置いて座った。 @
● @
「……釣れないな」 @
「そう簡単には釣れないよ」 @
「経験者は語るか」 @
「そーそー。気長に待つしかないね」 @
「ではその間、今日は君の話でも聞かせてもらおうかな」 @
「えー、どうして?」 @
「いやいや、昨日は私が自分の話をしたんだから、今日は君が話をするのが筋というものだろう」 @
「う……それもそっか」 @
こういう思考回路を取る辺り、やはり私は根っからの商売人なのだろう。 @
「仕方ないね。それじゃあ……歳は11歳、趣味は釣り」 @
「それは見れば分かるよ」 @
「やっぱり?じゃあ……血液型はB型で、生まれてからずっとこの町に住んでて、他の町に行ったこともなくて、 @
あと……おじさんと一緒で、家族がいない、かな」 @
「あたしが5歳のときに、お父さんとお母さんが事故で死んでさ。 @
引き取ってくれる親戚もいなかったから、元の家に住み続けることになったんだ。 @
あ、もちろん自分の力だけで生活してるわけじゃないよ。隣の家の漁師さん家がご飯をおすそわけしてくれるし、 @
お父さん達が遺してくれたお金も残ってるから、生活費にはまだ困ってないしね。 @
でも寝るときとかいつも一人きりだから、最初は寂しかったかな。今はもう慣れちゃったけど」 @
「……すまないね、嫌なことを聞いてしまって」 @
「もう慣れたって言ったじゃん。一人で大変なこともあるけど、今じゃ一人の方が気楽なくらいだし」 @
「一人で暮らしていて、危ない目に遭ったりしなかったのかい」 @
「この町小さいから、変な人とかあまりいないんだ。だから大した問題が起きたこととかはないよ」 @
「……」 @
それでも辛いことは沢山あるだろうに、この少女はそれを全く感じさせずに自分のことを話した。 @
それから私は何も言えず、釣り糸の先を眺めながら少女の話を聞いていた。 @
● @
「全然釣れなかったね」 @
「そうだね……まあ、仕方ないか」 @
すでに日は暮れかけていた。もう宿に戻らなければ。 @
「今日はすまなかったね、あんな話をさせて」 @
「だからいいってば。しつこい男は嫌われるよ?」 @
「ははは……気をつけるよ。それじゃあ、また明日」 @
「うん、また明日」 @
私は夕日を背に、少女について様々なことを考えながら宿に戻った。 @
● @
今日は釣竿は借りずに波止場に来た。 @
いつも通り、少女は波止場に腰掛けていた。 @
「やあ。今日もいつも通りかい」 @
「いつも通りだね。今日は釣りしないんだ」 @
「ああ。君の釣りを眺めていることにするよ」 @
私は少女のすぐ横に腰掛け、少女と一緒に釣り糸の先を眺め始める。 @
「今日は釣れるかな」 @
「さあね。釣れたことなんて今までほとんど無いし」 @
「つまらなくはないのかね?」 @
「釣りの極意は待つことにありって、隣の漁師さんが言ってたよ。別に釣れなくてもこうしてるだけであたしは楽しいしね」 @
「なんだか達観しているね」 @
「そんなことないよ。ただ静かなのが好きなだけ」 @
今日もまたこんなふうに他愛も無い話をして、一日が過ぎていく。 @
しかし私は、ある決心をして今日この波止場に来ていた。 @
● @
「日、暮れてきたね」 @
「そうだね」 @
「それじゃあ、また明日かな」 @
「いや……明日は来れないんだ。明日で休暇を終えて仕事に戻るからね。君に会うのもこれで最後だ」 @
「……そっか。分かっちゃいたけど寂しくなるね」 @
「それで、君に話があるんだ」 @
「何?」 @
「……私と一緒に来ないかい?」 @
「……え……?」 @
そのときの少女の表情は、今日までで一番驚きの色を濃く浮かべていた。 @
「君が嫌なら無理にとは言わない。だが君が私と来てもいいなら、私は君を家族として迎え入れたい」 @
「……どうして?あたしがかわいそうに思えるから?」 @
「それが全く無いとは言わない。だが私自身も、この数日君と過ごせて楽しかった。 @
まるで、そう……娘か孫と一緒に過ごしているように」 @
「おじさん……」 @
「君が家族になってくれるなら、あの一人きりで体を休めるだけの家も、本当の意味での帰る場所になるかもしれない。 @
私が手に入れることのなかった、帰りたいと思える家族のいる家に」 @
「……」 @
「私と暮らすのは嫌かね?」 @
「……ううん。そんなことない……ありがとう、おじさん。 @
あたし、おじさんと一緒に行く……おじさんの家族になりたい」 @
「……お嬢さん、ありがとう」 @
「お礼なんて言わないでいいよ。本当にありがとう……」 @
笑顔で涙を浮かべる少女を見つめながら、休暇を取る前の秘書の言葉を思い出した。 @
……仕事から離れたところにも、何か得るものがあるかもしれない。 @
なるほど、たまには秘書の言うことも聞いてみるものだ。 @
確かにここで、すばらしいものを見つけられた。 @
● @
――日が暮れ、少女だけが残された波止場。 @
釣り糸を海に垂らし、目を閉じて微笑む少女。 @
やがて月が太陽にとって変わり輝きだすころ、少女は立ち上がり、釣竿を引き上げる。 @
本来釣り針が付いて然るべき釣り糸の先には、防水加工の施された『大物 あるいは幸せ』と書かれた紙。 @
じっとそれを眺め、少女は大きな笑みを浮かべた。 @
「……にひひ」 @
終わり @
最終更新:2010年12月26日 04:30