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【積乱雲グラフィティ/ブランコをこいだ日】


「……ああ、あの日もこんな感じだった」


 ヘルメット越しに、息を漏らす。

 中央道で河口湖方面へ。そのままバイパスで須走。街中を走行の後、新東名へと上がる。

 高低差があり、曲がりくねった中央道よりも、平坦な新東名の方が走りやすい。

 横風が些か強いのが問題であるが、PAの綺麗さでチャラにして置こう。

 そのまま適宜休憩を挟みつつ、京太郎は奈良へと二輪を回す。


 例によっての、龍門渕が主催の麻雀プロを集めたボウリング大会。

 何故、麻雀プロがボウリングなのか。意味が判らない。

 麻雀プロなのだから麻雀をしたらどうだろう。麻雀プロなんだし。

 まあ、そこは、例のお転婆御嬢様スポンサー様である。是非もあるまい。
やるといったら、やるのだ。

 ボウリング大会後は、若手プロを集めて交流会を行う――らしい。なんと見上げた、お祭り根性だろう。

 まあ、祭りが好きというのは自分も同じ。

 精一杯、楽しませて貰うとしよう。

 先輩である辻垣内智葉なら「火事と喧嘩は江戸の華」と嘯くだろうが、後輩である自分も大概それだ。


「奈良……か」


 後続する追い越し車輌を確認すると、レーンを移す。

 早く着くに越したことはないが、然りとてそこまで飛ばす必要なんてない。

 歓喜を現すエグゾートノイズに愛おしさを覚え、更なる加速をしたくなるが――我慢。

 この速度で転げでもしたら、流石に無傷とはいきはしまい。

 ともすれば、死ぬかもしれないし重大な障害を負う危険性だってなきにしもあらず。


(ごめんな)


 マシンに語りかけ、通り過ぎる自動車が巻き起こす風のシアーを、身を低くして耐える。

 京太郎は、そのボウリング大会に合わせて休暇を取っていた。

 故に皆より一足早く、奈良に入る。

 こういうとき、独り身の人間は身が軽くてよいと――改めて感じるのだ。


(ま、そろそろ……結婚も視野に入れた付き合いとかも考えねーとな)


 年上、同学年。

 その辺りと交際しようと思ったら、女性の適齢期を鑑みるに、

 畢竟、京太郎の交際にも真剣さを求められる。男と女じゃ、旬が違うのだ。


 鉄の駻馬が繰り出す風の戦慄きの中に、少女の言葉がリフレインする。

 流石にヴィジョンは浮かばない。

 目の前に浮かぼうものなら急停車して、その瞬間に玉突き事故の大発生だ。

 ピンを倒しにいくのであって、倒されるピンになる趣味はない。

 やるのはボウリングであって、ビリヤードではない。玉突きはお呼びじゃない。

 浮かんだ“幻影(ヴィジョン)”のせいで、自分自身が“幽霊(ヴィジョン)”になるなんて御免だ。

 なんて――心中で零して独り、自嘲する。


 この場にあるいは、宮永咲がいたのなら。

 小走やえがいたのなら。

 大星淡がいたのなら。

 新子憧がいたのなら。

 今の自分の言葉について、一体どんな顔をしてくれただろうか。


 そんな子供めいた悪戯心を胸に、笑いを漏らして手綱を握る。

 車体が震え、微かに浮き上がる感覚。排気筒が吼えて、少女の言葉を掻き消した。

 それでも、狭まる視界に記憶は加速していく。

 目指す目的地と同じく、京太郎の記憶の中のある場所へと――視界が収束していく。


(……穏乃)


 快活に笑う、一人の少女。

 京太郎の初めての恋人であり、初めての少女。

 後頭部で括った長い茶髪を翻して、彼女は疾風の如く表情を変え、喜怒哀楽を全身で現す女だった。


 ――あの日の彼女は、ブランコを漕いでいた。


 須賀京太郎と、恋人という関係を清算した――あの日は。

 丁度、こんな天気の日であった。

「おう、おう。俺だ。奈良に、行くんだよ……これから」


 給油がてら立ち寄ったSAで、煙管片手にスマートフォンへと語りかける。

 煙管という仰々しいものに人々は、一瞬目を見開くものの、すぐに個人個人の時間に戻っていく。

 悪目立ちするかと思いきや、道具ばかりに注意が向いて、持ち主に注目は集まらないらしい。

 家族旅行に来たのであろう。近くで須賀京太郎の話題で盛り上がる少年たちを眺めながら、

 なんとも気恥ずかしいような、微笑ましいような気分を覚え、一際大きく紫煙を漏らした。


『そりゃ判ったけど……どうして、また?』

「お前に会いたいからじゃ……駄目か?」

『……切るわよ』

「悪い、切らないでくれよ。あと……大丈夫か?」


 電話越しに聞こえた物音は、積んであった書類が崩れたからだそうだ。

 気を付けて欲しい。

 新子憧という女は、しっかりしてそうでどこか抜けているところがあるから。


『で、なんでまた?』

「仕事でそっちの方に行くことになって……ついでに、合わせて前倒しで休み貰った」

『なるほど、暇だと』

「暇になるかは……お前次第ってとこだけどな。どうだ?」


 暫しの沈黙の後に。


『……こっちには、どうやって?』

「愛車だよ」

『久しぶりに、二人乗りってのも悪くもないかもね』

「白馬でも、王子様でもなくて悪いけどな」

『そんなことないわよ。あんたは、あたしの王子様だから』

「へっ――」

『――って、言ってあげたらいいの? 見返り次第じゃ、考えてあげてもいいけど』

「勘弁してくれよ。こいつの餌代でかっつかつだ」


 笑いながら、愛車を撫でる。

 ガソリン代はともかく、本体の値段もさることながら、何よりも税金がやたらとかかる。

 その辺りは不自由しない程度に稼いではいるものの、やはり、あまり嬉しいものではない。

 大学時代の知人がバイト代を貯めて念願のバイクを買ったものの、税金に悩まされて結局手放した――。

 なんて話を思い出す。


 大学時代の京太郎は、そんな知人の話もあって排気量を絞っていた。

 それでも不便はなかった。中型で十分だ。

 友人と出掛けたり、先ほどの通り、新子憧に背中を貸して遠出をしたりと――。


『京太郎』

「……なんだ?」


 思えば多分、あのとき自分は新子憧のことを憎からず想っていた。

 高校一年生の頃からの付き合いであり、様々な悩みに、親身に付き合って貰った。

 大学では何かと一緒にいることも多く、休日ともに出掛けたり、

 また、動物好きだという彼女を実家に連れていったこともある(二人きりではない)。

 距離が親かった。

 だから、惹かれていた部分があるというのは事実だ――打ち明けはしなかったが。


 だから、麻雀を諦めそうになったときに、彼女に甘えた。甘えそうになった。

 彼女が話しかけてくれることを、世話を焼いてくれることを、心地好く思っていた。

 同時に、卑怯だと思った。

 彼女は何だかんだといっても、親しい人のことを見捨てられない。京太郎についても、そうだったのだろう。

 そこに付け込むというのは、出来なかった。


 決定的であったのは――彼女に牙を剥いてしまったことだ。

 一瞬、ほんの一瞬であったが、彼女が自分に投げかけた言葉に自分は苛立った。

 彼女にはそれを言う権利があった。それぐらい尽くしてくれた。

 なのにあの瞬間の自分は、それを煩わしいと思った。

 僅かな時間であったが――彼女の怯えたような視線が忘れられない。あんな目をさせてしまう顔を、自分はしていたのだ。


 そして、申し訳なかった。

 彼女を誰かの代わりにしてしまうようで。そのことが彼女を傷付けると判っていながら。

 そこに踏み入ろうとしていた自分の存在が――。

 まあ、なんというかこれも、青春のほろ苦い思い出という奴である。

 今では自分の中で整理のついた、彼女の知らない物語だ。


『何かあった? 大丈夫? 声、沈んでるわよ』

「……いや、休み明けたらまた毎日忙しくなると思ってな」

『そう? なら、近くなったら連絡頂戴』


 どうにも独りでこうしていると、時たま気持ちがふらついてしまうのは事実だ。

 友人の国広一曰く、誰かが後ろにいるときとそうじゃないときの差が激しいそうだ。

 そんな自覚はないが、誰かが隣にいないときもそうであるというのか。疑問である。


「じゃ、王子様は馬を走らせますかね」

『あんたの場合、戦車と剣闘士って感じだけどね』

「ハハ、違いないな」

『……じゃあ』

「応、また後でなー」


 そこまで、しみったれた弱い男ではないと思うのだが――。


(……奈良か)


 自動車の群れに囲まれながら、独りぼっちの気分を覚えて空を仰ぐ。

 空が青い。積乱雲が遠巻きに、音を立てている。

 あの日もこんな天気だったと、須賀京太郎は反芻しながら――奈良へと、再び愛車の鼻を向けた。


  ◇ ◆ ◇


「よ、お待たせ」

「……京太郎」

「どうした? 飛びついてくれても……悪い、今のは恥ずかしかった」


 多分、こんな人前でやられても恥ずかしいだけだ――――と、おどけたように少女へと笑いかける。

 久しぶりと言えば久しぶりであるし――。

 大して時間が立っていないと言えば、そうであろう。

 恋人にとっての一ヵ月という時間を、受け取り手がどう感じるかによるだろう。


「んじゃ、今日はどうする? 弁当作ってきたけどさ」

「山は……登るにしても、天気がね」

「市内まで出るか?」

「……そうだね」


 逡巡するように、少女が目を伏せる。

 どことなくその仕草に違和感を覚えたものの、具体的にどこかと言われると難しい。

 なんとなく、少女――高鴨穏乃らしくはない気がしたが、恋人と言ってもまだ半年ほど。

 一年に満たない関係であり、その辺りには自信がない。


「今日は、のんびりしようよ。ここで」


 穏乃の言葉に、判ったと頷く。

 正直なところ、今の体調で登山に耐えられるかと言えば難しいところだったので、その申し出は有り難かった。

 悟られないようにしながら、少女へと手を差し出す。


「お手をどうぞ、お姫様」

「うぇへへ……流石にちょっと、恥ずかしいかも」

「言ってる俺も恥ずかしいっつーの……恥ずかしがられると、尚更な」

「……ご、ごめん」

「ま、それより……可愛い穏乃が見れるから、いいんだけどな」

「ふえっ!?」


 耳まで朱に染める穏乃を眺めながら、自分も頬の火照りを感じる。

 なんとなく格好をつけてみようかと思ったが、まさかここまで恥ずかしいとは……。

 気障な台詞なんて、一生言えはしないだろう。


「……い、行くか」

「……う、うん」


 彼女の地元だから、噂になりやしないかとか。

 それとも案外、田舎だからそういう話は早いのだろうかとか。

 穏乃を後ろに乗せて、自転車で坂を駆け上がりたいとか。

 色々なことを考えて、手を繋いだり放したり、人目を窺いながら道を進む。


「京太郎、そっち一口頂戴?」

「おう。じゃあ、そっちとも交換でなー」

「うん」


 咥えていたアイスを交換する。

 自分はソーダ味で、彼女は梨味。何かと入り用な学生の財布には、やさしいお値段の氷菓子だ。

 鼻歌を歌いながらステップを刻む少女の髪が、気分を刻む。

 調子が外れた鼻歌が、妙に可愛らしい。

 少女の身体の柔らかさを思い返す欲のある衝動より、彼女に対する愛おしさが勝る。


 こうして、ずっと一緒にいたい――。


 子供じみた想いかもしれないが、紛れもなく京太郎の本心だ。

 少女のことを考えると、胸が締め付けられるように切なくなって。

 それから、替えがたいほど熱くなるのだ。いつまでも、ただただ抱き締めていたくなる。


「どうしたの、京太郎?」

「いや、なんでもない」

「そう?」


 彼女の笑顔を見ていると、心のどこかが波立って、同じほど静かになる。

 息を漏らしながら、手のひらを傘に、空を見上げて息を漏らした。

 一緒に飯を食べて、軽く身体を動かして、景色を楽しんだ。

 それから――いつも通り、穏乃が先を歩く風景を眺める。

 市内に出て映画を見るときも、買い物をするときも、山を歩くときも。

 穏乃は京太郎の先を歩いた。

 ぴょこぴょこと跳ね馬めいて躍る長髪と、ちょっと体温が低めの柔らかくて小さな肩。

 全身で機嫌を現すそんな仕草が、堪らなく可愛らしい。


「そういえばさ……」


 穏乃の背中に声をかけた。

 しめやかにこちらを振り返りながら、穏乃が後ろ歩きを続ける。


「うん」

「次の部長、俺になるみたいだ」


 大袈裟に喜んでくれるかと思って言ってみたが、それほどでもない。

 一瞬、考えるような素振りを見せて、それから笑ったのだ。


「……そっか。おめでとう」


 果たして、本当に笑ったのか。

 夕暮れが逆光になって、彼女の表情を正確に掴めなかったのだ。

 おかしいなと、かぶりを振る。その先に、ちょうど、公園があった。

 そんな京太郎の視線に気が付いたのだろう。

 穏乃も顎をそちらを向けた。後ろで纏められた髪が、尾の如く揺れる。

 一度、髪を下ろさせて誉め殺しにしたっけ――。


「……寄ってかない?」


 なんて、顔を羞恥で真っ赤に染める穏乃を思い返したときに、声がかかった。

 勿論と、京太郎は頷いた。

 こんな日々が、続いていくと思っていた――。

 だからこそ。


「京太郎……」


 だからこそ、信じられなかった。


「別れ、よっか」


 彼女の――そんな言葉が。


  ◇ ◆ ◇


 新東名から、伊勢湾岸道へ。

 このあたりになると、マナーの悪い車が増えてきて、追い越し車線はその意味を為さない。

 なんとも、気疲れがする。

 不測の事態に備えた車間距離へと割り込んできた乗用車の上に飛び移って、

 運転席の硝子を叩き割り、運転手を車外に放り出してやりたい衝動にすら駆られる。

 勿論、やらないが。

 そんなことで殺人者の汚名を被りたくはないし、主を失った鉄の馬はどうなるのだ。

 乗り捨てられて平衡を失い、横倒しになって後続車に飲まれる愛車を想像し、

 いや、そんなのことをしてはなるものかと首を振る。


(お前と俺は、一緒だ)


 速度を出せないことに憤るような唸りをあげる愛車に語りかける。

 勿論、答えなど返る筈がない。相手は、機械だ。

 それでも良かった。動物と共にいるようなこの感覚。

 一人で飯屋に入って、ものを食っているときの雰囲気めいた穏やかな孤独感。

 京太郎は、それが好きだった。


 こいつは、聞いているかもしれないし聞いていないかもしれない。

 判ってくれているかもしれないし、そうでないかもしれない。

 だけどこいつは、走る。京太郎を乗せて動く。

 この瞬間は、確かに生きていた。京太郎が跨がっていれば、それに応えて起きている。

 まさに、鉄の馬だった。


 また、スマートフォンを操作する電話の相手は、この先世話になる旅館の主。

 友人にして京太郎のファンで、同好の士にして多少なりとも期待する仲。

 そして――。

 京太郎の友人、新子憧の先輩で。

 京太郎のかつての恋人――鷺森灼の友人にして、同じく元恋人――高鴨穏乃の先輩だ。

 ……なんというか。

 自分はやたらと、奈良に縁がある男だと思う。色んな意味で。


 高鴨穏乃――元恋人。

 鷺森灼――元恋人。

 新子憧――男女の仲を意識していた。

 松実玄――かなり付き合いたい。わりと結婚したい。

 松実宥――正直付き合いたい。中々に結婚したい。

 小走やえ――大好き。尊敬してるし、落ち着くし、頼りになるし、大好き。


 なんなのだろうか、これは。

 一応言っておくなら、穏乃と付き合っていたときに憧以外の存在は知らず、

 灼と恋仲にあったときは、やえと大学でいくらか顔を合わせただけである。

 好みのタイプは、おしとやかで家庭的なタイプか、

 それとも頼りになる格好いい人か、明るくて楽しい女なのだが……。

 ひょっとして、奈良在住って文言が付くのだろうか。初恋だった原村和もかつてそうであったあたり、尚更。


「もしもし、松実さんですか? 今、大丈夫ですか?」

『あ、須賀くん……じゃなかった。須賀プロ』

「別に、仕事中じゃないからプロ付けなくてもいーっすよ」

『そ、そうだったね……失敗しちゃった』


 暖かな、日溜まりのような人だと思う。春の空気に似ていた。

 名古屋県民――もとい、愛知県人の荒い運転でささくれだっていた心が癒される。

 電話口の向こうで、笑っている彼女の顔が容易に思い浮かぶ。

 彼女もまた、恩人だった。

 熱中症で倒れたときに助けて貰えなければ、今頃愛車を残して旅立つところであったのだ。

 ドン底に落ちたときに掬い上げてくれた赤土晴絵といい、本当に奈良には縁が深い。


『それで、どうしたの?』

「ああ、また番組とかでお世話になるってのがあるんですけど……」

『うん、おもてなしなら任せてね!』

「俺、番組に合わせて休暇も入れちゃったんで……部屋、先に入っちゃってもいいですか?」


 我ながら、無茶を言っていると思う。

 駄目なら駄目で野宿するか、奈良市内で宿泊するか、憧さえよければ彼女の家に泊めて貰おうと思っていたが――。

 どうやら、


『一応、部屋は開けてあるけど……何かあったの?』

「まあ、前に温泉に入りに来てってお誘いがあったんで」


 大丈夫らしい。

 何かぶつかりでもしたのか、向こうで物音がしたが。


『え? えっと、ええぇ……!?』

「迷惑でしたか?」

『そ、そんなことないよ! 大丈夫! 大丈夫だよ!』

「は、はぁ……」


 そこまで大丈夫を連呼されると、却って不安になる。

 この人に限っては、まあ、安心していいだろうが……。


 ……半分は、本当だ。

 以前ほど気疲れはしてはいないがやはり、落ち着ける時間が欲しかった。

 心の代わりに、身体が疲労していた。


 それだけでは、ないが――。


『……須賀くん』

「なんですか?」

『もしかしたら、気のせいかもしれないんだけどね?』

「はい」

『なにか、あったの……?』

「――」


 だから、憧といい。この人といい。

 なぜこうも――鋭いのだろうか。

 それともよほど自分は、わかりやすい人間なのだろうか。そうである自覚はないが。


 ……或いは、憧も彼女も自分に気があって。

 そんな恋する乙女の眼力で、こちらの精神状態を見抜かれているのかもしれない――と考えるけど、

 そんな都合のいい話があるはずないと、即座に否定する。


 憧は気になっている人がいたという話だし、

 あれほど一緒にいても、彼女がそういう雰囲気を許したことがないあたりで否定(酒の席の戯れはともかく)。

 玄はやはり、いい友人である。

 それも、巨乳云々の話を振ってくるあたり、かなり異性として認識されてはおるまい。


 ……要するに、きっと。

 彼女たち二人は、優しい人間なのだ。知り合いのことを気にかけてくれる。


「……なんでもないですよ、玄さん」

『え、今――』

「――それじゃあ、また後で」


 そう呟いて、電話を打ち切る。

 高校生や大学生の時分ならともかく、今はもういい大人だ。

 確かに不安になったり、ナーバスになったりするだろう。そういう日は、どこかにある。


 だけど、誰かに頼るわけにはいかない。


 これは――勝手な気負いや、独り善がりじゃあないのだ。

 事実として以前とは異なり、自分の力で立ち直ることができるようになった。

 最近になっては、特にそうである。

 だから、一時の気の迷いで誰かに縋り付いてはいけないのだ。それは自分で解決できるのだから。

 きっと相手は、こちら以上にそれを気に病むだろう。気にしてくれるだろう。

 でも自分は、わりと直ぐに立ち直る。

 そうなったら――ただただ、迷惑をかけてしまうだけとなる。

 そういうのは、御免だ。


(それに……)


 ちっぽけだけど、自尊心があった。羞恥心があった。

 世間体じみた安っぽい意地やプライドがあった。格好つけたかった。


(この時期になると、彼女たちにフラれたことを思い出すからとか……格好悪くて言えねーよ)


 単純に、そこに尽きた。

 高鴨穏乃と破局したのも、鷺森灼に拒絶されたのも――。

 どちらも、こんな天気のときだった。


  ◇ ◆ ◇


「――嘘、だろ」


 漸く口をついて出たのは、そんな言葉だった。

 冗談だと笑い返そうとするも、頬が引くついて碌に動こうとはしない。

 血の気が引くという言葉があるがむしろ、すべての血液が首元と唇に集中してしまったような錯覚を覚えた。

 口が、脱脂綿でも詰め込まれたかのごとく渇く。

 ひりついた癖に熱い呼吸で、ひゅうと喉が鳴る。


「だって俺たち、上手くやってたじゃねーか」


 今日だって、彼女は楽しんでいた。隣で笑ってくれていた。

 遠距離恋愛だけど、一ヶ月に一度ほどしか会えないけど、自分たちは良好な恋人関係だった。

 連絡だって、ちゃんと取った。

 しつこいすぎないか。逆に淡白すぎないかを考えるのには苦労をしたが、

 少なくとも間違いはなかったと思う。メールにそんな様子だって、なかったのだから。

 穏乃に限って、他に男ができたなどはあるまい。

 そんな可能性を思い浮かべた自分の頭を叩き割りたいほど、ありえない。


 なにが悪かったのか――。

 なにをしたらいいのか――。

 なにかの間違いではないのか――。


 そんな言葉が頭の中で、乱流を巻き起こした。その渦に巻き込まれて、立っていられなくなるほどに。


「なあ、シズ……俺、なんか悪いことしたか」


 駆け巡る思いが、口から零れ落ちて音になる。


「今からでもさ、そういうとこ……改めるからさ」


 声というにはあまりにも弱々しすぎるそれは、頭とは切り離されて、口が勝手に形作る。

 だから、音だ。

 声と呼ぶには蒙昧すぎる。言葉としての体をまるで成してはいない。


「悪かったところ、言ってくれよ……シズには遅いかもしれないけど、俺、変えるから。変えるからさ」


 だから、まるで響かない。

 言っている自分自身の脳裡を上滑りしていくのだから、誰の胸にも届くはずがない。

 ただひたすらに滑稽で、今の自分は、糸が縺れたことを知りながらも踊るしかない道化だった。

 だけど、止められない。

 このか細い言葉を途切れさせてしまったなら、すべてが終わりになってしまう。

 そんな、不安めいた確信がある。

 彼女に喋る暇を与えてしまったならば、何もかもが終わってしまう。


「だからさ、なあ……穏乃」


 女々しいなんてのは判っていた。

 それでもこうして陳情して、懇願して、彼女の心変わりを待つしかない。

 見えない手で彼女に縋り付く自分は、気付いていないだけでとっくに膝を折っていたのかもしれない。

 それでも、嫌だった。怖かった。

 どんなに無様を曝そうと、彼女の同情を引こうと、愛想を尽かされようと――。


 それでも、離れたくなかった。

 彼女が――高鴨穏乃のことが、好きだったから。

 ああ――――だけど。


「……ごめんね、京太郎」


 もう――終わっていたのだ。

 自分の中では、たった今始まったばかりの唐突な別れ話だったけど。

 彼女の中では始まって、とうに“終わっていた”話だったのだ――。


 そんなの、彼女の目を見れば判った。言われるまでもなく理解できた。

 困ったような、寂しそうな、悲しそうな顔。

 だけれども、決めてしまったものだという決意を湛えて静かに波打つ瞳。

 そんなのは、判っていた。

 そして言葉にされたことで、改めて拒絶の壁として、京太郎の頭を弾いた。

 その勢いに、両肩が崩れそうになる。


「さ、寂しい思いさせちまったか? それとも、俺、調子に乗りすぎたか?」


 でも、嫌だ――。

 振り払うように、次々と言葉を生んだ。とにかく並べ立てた。

 そうしていれば、掻き消せるかもしれないと狂信めいた祈りにも似た感情に苛まれて、舌を動かす。


「なら俺、もっと会えるようにするから……! お前が少しでも嫌がること、絶対にしないから……!」


 だから――捨てないで下さい。

 俺を、捨てないで下さい。

 捨てないで、下さい。


「俺、お前に嫌われるようなこと、しちまったか?」


 ただ、言う。


「俺のこと、嫌いになったか? 嫌になったのか?」


 声をあげるしかできない。鳴くしかできない。

 手を伸ばして下さいと、拾って下さいと鼻を鳴らすしかできない。

 それほどまでに、唐突だったのだ。

 何かしら、この状況を否定しないと――何もかもが信じられなくなってしまうくらいに。

 だって、つい先ほどまで笑いあっていたのだ。語り合っていたのだ。

 それすらも、嘘だと言うのか。何もかもが幻だと言うのか。


 もし、そうだと言うのなら――。


 これまでの何もかもが、嘘っぱちだという話になってしまう。

 ああして笑っていた彼女が自分に見切りをつけているということは、

 彼女が見切りをつけた人間にもあんな顔ができる人間だってことを意味していて、

 そんなのも見抜けない自分は、とんだ馬鹿でしかなくて、

 そうなると、今まで信じていたものすべてが信じられないような――足元が崩れ落ちていくような、錯覚を覚える。


「……違うよ。京太郎のこと、嫌いになってないよ」

「じゃあ、なんで……!」

「だから――――今の京太郎を、見たくない」


 それは、どういう――。


「ここに来るために、部活が終わってからもバイトをしてるんでしょ」

「あ、ああ」

「部活も必死にやって、バイトもやって、勉強もがんばって……今度は京太郎、部長になる」

「それは……」

「忙しくなるのに、このままだと……」


 ――京太郎はもたない。

 ――京太郎の負担になりたくない。

 ――京太郎を困らせたくない。


「だから、別れよう? 私たちは――子供過ぎたんだよ」


 そうまで言われて、そんなものをすべて捨てられる――などと言えるほど、京太郎は無責任ではなかった。

 子供というには大人の部分があり、大人と言うには未熟過ぎた。

 あるいはこれは、彼女なりにこちらを納得させる為の――都合のいい、耳障りのいい、言い訳かもしれないけど。

 それでもこう言われて、引き下がれないほど子供じゃなかった。


「……判った」


 辛うじて声を振り絞ったつもりだったが、意外にすんなりと言葉は出た。

 我ながら驚くほど、落ち着いた声だった。

 気持ちの中でも、最早どうにもならないのだと得心していたのだ。


「ずるい言い方して、ごめんね」

「……いや。俺こそ、しつこくて悪かった」


 声色とは裏腹に、未だ完全に落ち着きを取り戻した訳ではないが――。

 改めて、己の曝した醜態を思い返して、

 それがどれほどまでに彼女を困らせてしまったのか――そんな顔などさせたくなかった――を考え、黙る。


「……ごめんね、京太郎」

「いいよ。もう、謝んなって……」


 彼女がそう言うなら――もう、そうでしか、なかった。

 好きだった。ずっと一緒に居たかった。彼女の笑顔を見ていたかった。

 ……でも、こんな自分は負担にしかならないと言うのなら、この話はこれで終わりなのだ。


「……最後に一つだけ、我が儘を言っていいかな」

「……なんだ?」

「麻雀、どんな形でもいいから……続けて?」

「……」

「麻雀を打ってるときの、麻雀の話をしているときの、京太郎の笑った顔が――好きなんだ」


 心は静かに、形を取り戻していく。

 抉れてしまった部分は置き去りに、一先ずは形を整えていく。

 彼女は、どこか、泣きそうな顔をしていた――そんな顔などさせたくないのだ――。

 だから、自分は、立ち直らなきゃならない。

 フラれたことにショックを受けこそすれ、そこまで後には引かないのだと。

 彼女が気に病んでしまうようには傷付いてはいないのだと。ちゃんと納得できたのだと。


「判った。約束するよ」


 そんなことしかできないけど――。

 それが彼女に対して自分ができる唯一のことなら。そうすれば少しでも、彼女の気が晴れると言うなら――。

 たとえ嘘っぱちだったとしても、誓うしかない。

 恋人として自分にできることは、もうこれしかなかった。


「じゃあな。今まで、ありがとうな」

「私も、ありがとう」

「……ああ。本当に今まで、楽しかったよ」

「……うん」


 こうして、須賀京太郎と高鴨穏乃の物語は終わりを告げるのだ。


「元気でな」

「麻雀、頑張ってね」

「ああ」


 離れていく彼を見ながら、高鴨穏乃はブランコに腰掛けた。

 彼を――須賀京太郎を袖にした。穏乃の方から、彼に絶縁を突きつけたのだ。

 愛想がつきた、


(……京太郎)


 という訳ではなかった。

 むしろ、彼に対する愛おしさは未だこの胸に渦巻いている。目を閉じれば、思い浮かぶほど。

 彼と過ごす日々はまた新鮮で、穏乃に様々な気持ちを教えてくれた。

 友情を知っていても、穏乃は愛情を知らなかった。否、男女間の恋愛というものを知らなかった。

 誰かを好きになるということが――。

 こうも心を波立たせて、切なくさせて、熱くさせて、満たされるものだとは知らなかった。

 いつも、彼を思っていた。

 離れれば想いは募り、彼の笑顔を見れば胸が温かく安らぎ、

 彼の腕に収まったときは、激しく彼に口付けしたい衝動と、そのまま穏やかに向かい合っていたい安堵を抱いた。

 楽しかった。彼と一緒にいられることが。


「……うん、これでよかったんだ」


 彼は、麻雀の話をするときは――本当に楽しそうに笑っていた。

 一時は思い詰めていたようだけど、それも直り、実に――心底面白いと無邪気な笑いを浮かべるのだ。

 ちょっぴり悪そうな笑みや、何もかも考えてないような笑顔や、恥ずかしがったはにかみはあったけど、

 どれも好きだったけど、麻雀の話をして笑う彼の顔が――一番いい笑顔。


「あれだけ狡い言い方したら、私のことを忘れてくれるよね」


 麻雀、本当に好きなんだと思う。

 京太郎は優しいから、素直だから、きっとこうして別れてしまったことに傷付くだろうけど――。

 あんなにいい顔をできる麻雀をしていたら、きっと忘れられる。

 自分が付けてしまった傷だって、癒えるだろう。


 彼の負担になりたくないから。彼の疲れた顔を見たくないから――。


 そんな自分勝手な理由で別れ話を持ち出した女のことなんて、きっと忘れてくれる。

 だから、口約束でもいいから麻雀をやって欲しかった。


「……京太郎」


 ――よろしくな、高鴨さん!


「京太郎」


 ――ありがとな、って……穏乃って呼んでいいか?

 ――おう、俺の方も気軽に呼んでくれよ。


「京、太郎」


 ――ったく、お前……何だかんだ危なっかしいよな。


「京……太郎」


 ――へっへーん! どうだ! 俺の勝ちだな!


「京……太、郎」


 ――おう! 任せとけって! いい子にしてろよ?


「京、太郎ぉ……」


 ――よ、また来たぜ! この休みもいっぱい遊ぼうな!


「京、太郎ぉ……!」


 ――そこをなんとか、頼みますよ! 神様、女神様、穏乃様!


「きょうたろぉ……!」


 ――ほれ、ちゃんと掴まれよ。

 ――……お前軽いのな。ちんまくて可愛いけどさ。


「きょう、たろぉ……!」


 ――大丈夫だ。俺が、何とかしてやるよ。


 怒った顔も、笑った顔も、悲しそうな顔も、嬉しそうな顔も、楽しそうな顔も、苦しそうな顔も――。

 全部、覚えている。

 彼との思い出は、胸にある。

 それが暴れて、どうにかなりそうだけど……耐える。耐えなきゃいけない。


(駄目だ。私から言い出したんだから、しっかりしないと……)


 高鴨穏乃は嘘が嫌いだ。

 というより、吐いてもすぐにバレる。だから、嘘とは呼べない。

 幼馴染みの新子憧には、「しず、あんた嘘が下手すぎ……」と呆れ顔を向けられる。

 それに元々、基本的に感情を表に出すタイプである。だから、必要ないと言うのもあるし……。

 嘘を吐くなんて、なんか卑怯だし潔くないと思う。

 勿論、他人が吐くのに対して、別にとやかくは言わないけど。

 まあ、おおよそ自分と嘘は無縁であろうと思っていた。


 でも――。


(京太郎、元気でね……)


 この日――高鴨穏乃は嘘を吐いた。

 水滴に濡れて黒ずんだ土を、軋むブランコが追い散らす。

 夕闇に紛れる蝙蝠めいた甲高い声をあげて、乗り捨てられた鉄の鎖は震えていた。


 遠くで、雷の音が聞こえた――。


  ◇ ◆ ◇


(……あいつとの約束ってのは、確かにあった)


 それがなければ、こうして今頃ここにはおるまい。それは確実だ。

 俺はここにいる。今、ここにいる――。

 それを一番知らせる方法というのは、連絡先を変えてしまった彼女に知らせるというのは、それが一番判りやすかった。

 ただ、会おうと思えば会えた筈だ。

 彼女の家は知っていた。奈良を訪れる機会というのも、多かった。


 赤土晴絵に連れられて鷺森灼と出会ったとき。

 プロになってから、思うように成績が振るわずに醜態を晒し、ふらりと奈良に出向いて――松実玄と知り合ったとき。

 その後、龍門渕透華に連れられて取材に向かったとき。

 そもそも、そんなものが無くとも、新幹線などを乗り継いで向かいさえすれば、彼女に出会うことは容易かったはず。


 なのにどうして、自分はそうはしなかったのだろうか。

 単純に、今更顔を合わせたところで仕様がないという意味合いも強い。

 確かに彼女と約束はしたが、あれは、所詮は彼女が別れの際にただ口から転がしただけの言葉かもしれない。

 考えたくはないが――そんなことを覚えているのは自分だけで、彼女はすっかりと忘れていることもあり得る。

 そんな事実を知ってしまうなら、綺麗な形で、胸の中にある方がいい。 


 また、あれは、終わってしまった話だ。既に終わっていた話だったのだ。

 それを今更掘り返して、得意気に晒して並べるというのは、どうにも収まりが悪い。

 自分の中でも、整理を着けた話なのだ。折り合いをつけ始めた話なのだ。

 でなければ、他の誰かを抱くことも、心を交わすことも、半ば冗談とはいえ交際を言い出すこともないだろう。


 いや、もっと単純に――。


(俺は、怖いのかもしれない)


 変わってしまった彼女を見るのが。

 変わってしまった己を見せるのが。

 そんなのが――実に単純ながら、酷く恐ろしいことに思えていた。


 折り合いはつけたが、割り切れないのが男と言うもの。

 流石にいつまでも“煮え切らない(ウフコック)”ような正確ではないが、ハードボイルドには片手落ちだ。

 青臭いセンチメンタリズムを抱えている自分には、最後に抱えた口約束を破ることも憚られた。


 もしも今の自分が、彼女の望んだそれとは違う形で――。

 それが故に拒絶されることがあるとしたら、やはり、覚悟はしていながら多少なりとも衝撃を受ける。


(何を馬鹿なことを言っているんだ、俺は)


 彼女との約束それだけで、ここに立っている訳ではないというのに――。


 そもそもが、麻雀というものに魅せられたのが始まりだ。


 初めは、皆が熱中しているのは知っていたが、特段食指が動くものではなかった。

 どちらかと言えばアウトドアスポーツが好きで、子供時代は野山を駆け回りヒーローごっこに興じていた(らしい)。

 小学生のときも、周囲が何故麻雀の話題で盛り上がっているかは知らない、風邪を引かない風の子。

 中学時代は、ボール遊びが趣味。……の、帰宅部兼図書委員だった。


 理由は判らないが――忘れているだけで何かあったのかもしれない――なんとなく、麻雀を避けていた。

 その事を思い返そうとすると、鎖骨の辺りが痛み、赤い髪の少女の泣き顔が浮かぶ。

 何があったんだろうか。今度、誰かにに聞いてみるのもいいかもしれない。


 ……まあ、いい。


 高校に上がって自分は――学生議会長にして清澄麻雀部部長の竹井久と出会い、麻雀部に入部する。

 高嶺の花であった原村和とお近づきになれるというのもあり、竹井久の口車に乗せられたというのもあり、

 悪戯っぽく笑いつつも、どことなく寂しさ感じる雰囲気を漂わせていた久の頼みを無下にできない/したくないというのもあり――。

 結局自分は、入部した。


 そして、入部してから自分は知ったのだ。

 麻雀の持つ紙一重の悲喜を、百三十六の牌が作り出す奇跡的な確率を、十四の牌が成り立たせる奥深い押し引きを――。

 麻雀自体が、好きになった。魅せられていた。

 もっと知りたいと思った。もっと、こいつと楽しみたいと思った。


 極め付けは――宮永咲の見せた/魅せた、あの嶺上開花だ。

 あの瞬間、身体に雷が走った。

 ただ呆然とし、驚愕しながらも――何故だか心は“これだ”と叫びを上げていた。

 麻雀が成り立たせる、局や場は美しいが――。

 あの日卓上に咲いた花に勝る美しいさには及ばなかった。あれはそれほど自然であり、厳かなるものであったのだ。

 それに憧れた。

 今にして思えばそれはただ、太陽を目指すイカロスめいた無謀だっただろう。

 夜空に輝く星はどれも太陽が如く輝く恒星で、目に見えたとしても掴みとることなど出来やしない。

 湖面に浮かぶ月を掬おうとしても、ただ波立たせて像を乱すばかりで、得ることなど不可能だ。


 だけれども――。


 京太郎は、星を追いたいと思った。

 星の光を、見ていたいと思ったのだ。

 星が、欲しい。

 そのためには、まずはひとつでも勝ち星を手に入れる――。

 それは切望ではなかった。

 心にはあの日咲いた名前もない花への憧憬が根付きこそすれ、それが全てではなかった。

 勝てば嬉しい。負ければ悔しい。

 そんな、どこにでもある勝負事が絡む遊興の、延長線上である。


 麻雀は勝ちもすれば負けもする、公平な遊戯である。

 それが、結果がどうなるかなんていうのは事前には判らない。

 しかし――手解きをできなかったことを申し訳なさそうにする彼女は――竹井久は、言った。

 運はある。麻雀には、誰がなんと言おうが確率の偏りが存在する。

 しかしながら、それは全てではない。

 運などという不確かなものによらずに、勝利への道筋を整備し、敗北への断崖を埋めるものを――“技術”と呼ぶのだ、と。


 悲しきかな。

 自分には、仲間たちのごとき悪魔めいた運の強さはない。

 だから、生きる道はそこにしかなかった。それこそが、自分にできる星へと近付く為の手段だった。

 そうして、京太郎は技術を磨いた。

 勝って、麻雀を楽しみたいから。負けたら悔しいからという、シンプルな理由である。


 でもそれは――変わった。いつの間にか。


 あれは、国民麻雀大会のときだったか。

 誰かが呟いたのだ。顔も知れぬ、群衆の内の誰かが。

 「こんな化け物に、勝てるわけがないだろ」――と。

 その視線の先には、映し出されたモニターの先には、自分の憧れである少女たちがいた。


 京太郎は憤った。京太郎は悔しかった。

 友人を、仲間をよく知らない誰かに馬鹿にされたことよりも――心のどこかで、言い返せない自分がいることに。

 拳を握り締めて、しかしそれは行き場を失った。


「……俺があいつらを一人にはしない。独りぼっちなんかにはしない。化け物なんて呼ばせない」


 宮永咲。

 天江衣

 大星淡。

 宮永照

 夢乃マホ


 それ以上にもっと、もっと、もっと――不思議な偏りを産む少女たちを。

 守りたかった。

 好きになってしまった、憧れた彼女たちを守りたかった。

 彼女たちは泣きもすれば笑いもする、麻雀が強いだけの人間だ。ごく普通の少女たちだ。

 それを、何故悪し様に言われればならないのか。呼ばせねばならないのか。

 そんな言葉は、彼女たちの心に瑕を作る。たとえ小さく目立たぬものだとしても、絶対に瑕を付けるのだ。


「俺が、傍に居てやる。運がない人間でも、傍に立つものになってやる――」


 許せないのだ。

 何よりも、言い返せなかったあの日の自分が。

 心のどこかで、そんな言い訳を受け入れそうになっていた己が許せないのだ。


「俺が、俺自身が、勝てるって証明になってやる。絶対に証明してやる」


 いつしか勝ちは目的であり、手段となっていた。

 これがある種、須賀京太郎も彼女たちに並び始めた第一歩であろうか。

 インターハイに様々な想いを乗せて戦った、彼女たちと――。


 麻雀で、勝負で勝ちたいと思うことは自然であった。

 その為に技術を磨くことは、習慣であった。

 元々、努力をするのは好きだった。一歩一歩固めていくのは好きだった。

 多分、何だかんだと自分は生真面目な人間なのであろう。

 そうやって努力を重ねるのは、きっと自分の変えられない“習慣(いきかた)”なんだろうけど――。

 今度はそこに、麻雀を通してできた素敵な友達たちを守りたいというのが加わった。


 竹井久を頼った。

 最低限度の負けを減らす遣り方というのは、彼女の薫陶を受けた。一通りを知り、初心者ではなくなった。

 次には、眼を求めた。

 友人たちのいる――遠い巓を、嶺を見通す眼が欲しかった。

 そこで無理を言って、福路美穂子に頼み込んだ。頭を下げた。拝み倒した。

 彼女のそれは異能ではないが、限りなくそこに近付き――凌駕する技術であったのだ。

 彼女は始め、それを渋った。

 後輩にも伝えていないそれを、いずれ己たちの前に立ちはだかるであろう者に伝える――。

 それを忌避したというのもあるし、また、単純に、技術として修得するには恐ろしく難度が高いから。

 それでも京太郎は諦めなかった。

 貯金を切り崩して、美穂子の元に通った。男子禁制なので門前で追い返された。

 毎日通った。金がなくなれば、終いには走った。


 やがて、美穂子は言う――。


「強くなりたいのは判るけど、どうしてそこまでするの?」


 雨が降っている中、ずぶ濡れになった京太郎に傘を差し出して問うたのだ。

 京太郎の熱意が通ったのか、彼女の優しさが勝ったのか。どちらかは知らない。

 ただ、門のところに毎日他校生の男子が待っているというのは、今にして思えば、色々と迷惑をかけただろう。


「人とは違うところがある奴らがいます。大切な友達が居ます。違っても、あいつらは一緒です」


 静かに、京太郎は拳を形作った。


「だから、あいつらはどっか違うって言う奴らに、そんなことはないって言ってやりたい」


 恥ずかしさなど忘れて、ただ叫んだ。


「俺が強くなって、守りたい。そんなおかしな絶対なんてないんだって、証明したいんです」


 だから、どうかあなたの技術を教えて下さい――。

 あなたの力を武器として俺に纏わせて下さい――。

 そう、ひたすらに彼女へと懇願した。


「わかったわ。どこまで力になれるか判らないけど、あなたのその素敵な気持ちに……私も精一杯応えるわね」


 そして、福路美穂子からの手解きが始まった。

 しかし、ここで京太郎にとっての誤算があった。

 彼女の技能は全てが論理ではなく、感覚によるところも存在しているということ。

 一般的には――男女の脳には性差があると言われている。

 男性は論理的な思考能力に優れ、女性は感覚的な思考能力に優れているとする説である。

 福路美穂子のその特技は、論理だけでは成り立たず、感覚だけでも成り立たないものであったのだ。

 宛ら左右で色が異なる彼女の瞳のように、どちらの特色も持った能力。

 故に論理的能力が技能の水準には達しない女性――彼女の後輩――もそれを受け継ぐことや使いこなすことができず、

 また、感覚的なものが不足している京太郎にも、それは会得できなかった。

 ある程度の形になりはしたものの、完成には程遠いかった。

 だけど、努力を重ねて思考速度を磨くことに京太郎は努めた。


 そうしている間でも、京太郎には日常的な幸福はあった。青春を謳歌したいという気持ちがあった。

 麻雀以外の全てを切り捨てたら、一体、自分は何のために彼女たちを独りにしないと誓ったのかわからなくから。

 それは、国広一や萩原との交流であり――。

 原村和への、淡い思いであったりした。

 そして奇妙な縁があって、京太郎は高鴨穏乃、新子憧と出会ったのだ。


(三重から行くよりは、京都から奈良の方へ下っていく方がいいな)


 交流を重ねる中、やがて京太郎は穏乃のことを思うようになった。

 ころころと変わる表情に飽きないというのもあるし、彼女の意外な女性的一面が琴線に触れたというのもある。

 でもきっと一番は、彼女の優しさだ。

 遅々として進まない自らの成長、頭打ちを見せた発達で顰め面が増える京太郎に、彼女はこう言った。


 ――麻雀を楽しまないのは、勿体ないよ。


 なるほど確かにそうである。

 最初はそのつもりであった筈なのに、いつしか心に灯った焔に急っつかれて、大事なことを忘れかけていた。

 彼女は恩人だった。

 麻雀にのめり込みすぎた京太郎を、人間にしてくれた。


 また、そんな恩などはともかくとして――。

 この美しい少女と、優しい少女と、いつまでも一緒に居たいと思い始めていた。

 彼女のことが、大好きだった。


 彼女と交際を続けた。

 初めてできた、目的を共にする後輩への指導を行い、傍らで自分の技能を研く。

 牌譜を調べて、己が目指す方向性を表す雀士を見付け、静かにその大学への勉強を進める。

 月に一度は愛する彼女の元へ向かうために、その旅費を稼ぐ。

 かつてないほど、気力に満たされている気がした。全て、上手く行っている気がした。


 果たして――。


 そして結果は、先に語ったばかりである。

 そんな幻影はただ、消えてしまった。

 朝霧が、照らし出す太陽に掻き消されるが如く。山の天気が種々に移ろうが如く。

 代わりに京太郎は、彼女が最後に伝えた約束を頼りに歩き出した。

 たったひとつの道標だった。京太郎の足元を照らす月明かりであり、大いなる星の瞬きだ。

 痛みを直視して受け入れる強さを、あのときの京太郎は持ち合わせていなかったのである。


 それからもう一人、可愛い後輩ができた。

 てんで素人なのに麻雀が大好きだというその態度を、京太郎は好ましく思った。

 大学に向けた勉強を本格的なものとしつつも、空いた時間を作っては彼女の面倒を看た。

 彼女には、京太郎と違って素質があった。

 それを何とか生かせはしないかと腐心して、同じだけ彼女に懐かれた。


 可愛い後輩だった。力になって、やりたかった。


 その後京太郎は、志望した大学に合格した。

 ここに来たのも、麻雀の実力を更なるものにするためだったのだ。

 そして、己の後を追う知己の新子憧と共に、大学の麻雀部の扉を叩いた。新たなる扉を。

 皆が、尊敬できる強さを持った先輩たちであった。

 自分なりに彼女たちの牌譜から研究を重ねて技能を模倣し、福路美穂子から受け継いだ技能と組み合わせて、

 高校最後の年には――それなりの成績を記録したが。

 それでもまるで、敵わない強さであった。


 彼女たちに師事をした。その技術を、何とか“もの”にしたかった。


 きっと、その武器の所有者でなくては――ひとつひとつではただの武器としてしか使えまい。

 だけれども、己の受け継いだ技能――“特性(のうりょく)”と組み合わせることで、それは京太郎の専用武器となった。

 京太郎が今まで教わった技術が、京太郎が今まで積み重ねてきた努力が、自身を更なる高みへと改造したのだ。


 相手の動きを読み、素早く撃ち込まれるそれはただの直撃ではない。

 相手の攻撃を掻い潜り受け流して行われるそれは、表面的な打点よりも、内部への衝撃を産み出す。

 上手く当てはまったのなら、それで相手の気概を殺ぎ、行動や判断を鈍らせることができた。


 「狙った他人からカウンターを受けるというのは、相当にショックだからな」――とは、弘世菫の言葉だ。

 事実彼女はかつてのインターハイでそれを受けたことがあり、正に電撃が走るような衝撃だったと笑っていた。

 なるほどなと、その言葉を胸に刻む。


 あとは場数を踏む。とにかく打つ。

 己の押し引き判断をより正確なものに変え、読み合いを制し、攻める力を確たるものにする。

 自分の力が開けただけに、毎日が楽しかった。


 それだけではなく、また、麻雀を通して繋がった人々との交流が――。

 憧や和、部活の先輩たちとの毎日が新鮮で、かけがえなく、満たされていた。


 そして大学の一年間も、あっと言う間に過ぎた。

 何か話題や楽しみをということで、国広一たちとの交流を続けてはいたし、部活の仲間との日々を楽しんだ。

 全てが上手く回り始めていると考えたが――問題が起こった。


 ひとつは、眼球の酷使――眼精疲労による視力の低下。

 元より京太郎の生活には、無理があった。特にここ数年間それを続けていたのは重大であった。

 心が緊張感で張り詰め、精神が肉体の無理を許容している間はまだ良かった。

 だが一旦緊張の糸が解れることで、ツケは一気に襲いかかって来たのだ。


 もうひとつは――後輩、夢乃マホの豹変であった。

 いつもの彼女はそこにはなく、ただ、麻雀で他者を蹴散らす為にいる。

 そんな悲鳴を、京太郎は聞いた。かつて己のいた清澄麻雀部の後輩たちから、そんな助けを求められた。

 話を整理するには、恐らく原因は京太郎で――京太郎のしてしまったことで間違いはなかった。


 京太郎は焦った。

 低下した視力に代わり、麻雀に使えそうな技術を片っ端から探して、試みた。

 時期が時期であるがゆえに、大学の先輩は頼れず、また、プロとなってしまった宮永咲の手は借りられなかった。

 己がやるしかない――。


 そして、京太郎は夢乃マホを止めんと戦いを挑み――。

 破れた。破れ果てた。

 全ての立ち上がる気力を奪われ、何もかもを砕かれ尽くした。そこにいたのは後輩ではなく、ただの破壊者。

 限度を超えて眼を使用し、誰もが顔を背けるほど諦め悪く立ち上がり、両目から血涙を流しても――。


 京太郎は、大切な後輩一人すらも助けることができなかった。


 苛まれる自責のメスは、京太郎の心を切り取り抉る。

 ついには牌を握ることが叶わないほど、何もかもを破壊された。

 京太郎の抱いていた希望も目標も矜持も約束も努力も――全ては切り捨てられたのだ。

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最終更新:2014年04月12日 04:13