そして京太郎は、立つことも儘ならなくなった。
五年間。
その程度と人は断ずるかもしれないが、それは京太郎の青春と共にあった。
京太郎の短い人生でも極めて濃密な時間であり、彼の絆の殆どはそれが関わり、また、全ての情熱が向かう先であった。
それは、失われたのだ。
――殺してくれ。
京太郎は毒を漏らした。心の中の傷痕は、火傷の如く疼いた。
積み重なった出来事の末に、己の人生をも否定された京太郎は、死を願った。虚無的な欲望を抱いたのだ。
麻雀を忘れて別の日常に戻ろうとする反面、何かをして、死のうと思った。死ぬために何かを始めようと思った。
何かをやって、麻雀以外をやって、ちっぽけな達成感と引き換えに死にたかった。
いずれ炸裂する爆弾が如く、火薬を内に溜め込み、段々と上空へと高度を上げていく。
――殺してくれ。
途中で、死んでもいいと思った。
前のめりに努力して死ねるなら、そのときだけ麻雀のことを忘れて死ねるなら、欺瞞の果てでも良かった。
だから、到底正気の沙汰ではない行為を重ねた。
しかしすると、不思議なことに……死を願うほど打ち込むことで、却って京太郎は死にはしなかった。
それでいて技術を磨きながら、先がみえてしまったのだ。
このまま続けても、またしても自分は頂点へと辿り着けない。完全に極めることなど出来やしない――と。
そして、諦める。
死を願いこそすれ、徒労に身を投じることには耐えられなかったのだ。
――殺してくれ。
どこかで自分はまだ、未練があったのかもしれない。
あれからも、握れずとも、毎日牌に触れる生活は続いていた。習慣を続けていた。
まだ自分は生きていたいのかも――と思いながら、何を今更都合がいいと断ずる。
――殺してくれ。
大学の抗議も終わり、休みに入ったある日……
新子憧に言われた言葉。
己の中の弱さを、未練を、生き汚なさを見抜かれてしまった気がした。尊大な羞恥心と臆病な自尊心が火を吹いた。
心の奥底で何かが疼き――それから目を背ける。
もう、終わった話だ。初めから終わっていた話なのだと言い聞かせる。
――殺してくれ。
憧が居てくれる自宅を後にし、宛もなく街をさ迷った。何かが欲しくて、でも、それが何かを理解するのが怖かった。
代わりに、柄の悪い連中に絡まれている少女を見付けた。
ここで、死のうと思った。
あの日守れなかった少女の代わりに目の前の少女を守って死ぬ。
最期にしては、随分上等であるし、こうして街の片隅で死ぬなんてのは、自分にお似合いだった。
角材で撲られて、上衣に仕舞った携帯電話が壊れた。
だけども、京太郎は衝撃こそ負っても、負傷を受けはしなかったのだ。
なんたる皮肉か。
死を願いながら修めた体術は、死に敏感であった。死を紙一重で避け、死を遠ざけることに優れていた。
そして、死の気配に反応し、一撃を繰り出す。心がいくら死を願おうとも、身体がそれを許さない。
実に皮肉だが、焼け鉢で挑んでいた体術は、今まで希った全ての技能よりも身に付いていたのだ。
気が付いたときには、その場に立つのは京太郎ただ一人で――。
庇ったはずの少女はとうに逃げ去り、男たちも這う這うの体で壊走を始めていた。
何もかもが、どうでもよくなった。
死にたいと強く願うこともなくなり、同時に、生きる気力もやはりない。膨大な徒労感だけがある。
心臓が動いている間は生きるだろう。止まったら死ぬだろう。
無理に動かそうとも、無理に止めようとも思わなかった。なにをしても、儘ならないのだ。
主人を失った操り人形めいた動きで、地面に横たわった。
こうしていれば、いずれは心臓の鼓動も止まるかもしれない――なんて考えていたら、
「ちょっと、大丈夫!?」
赤い髪の女性に、拾い上げられた。
最早何がどうなろうと構わないので、されるがままに彼女に連れられ、心に浮かぶがままに彼女に問いかけた。
ややあって、沈痛そうな面持ちでいた彼女は――
「代わりとか、無理に忘れるとか考えないで息抜き! そこらへんは、経験者に任しときなさい!」
そしてその、
赤土晴絵と名乗る女性に連れ出された先で――須賀京太郎は、
鷺森灼に出会ったのだ。
「ハルちゃん!? って、それ誰……?」
こけしが店番している。
どうやら自分は知らない間に、妖怪の世界に連れて来られてしまったらしい――なんて思った。
これが、鷺森灼に対する第一印象だ。
◇ ◆ ◇
「京、店番お願……」
「……うっす」
「返事は?」
「……痛いっす」
脇腹をどつかれて、身体がくの字に曲がる。しかしそれだけで、他には俄に皮膚が痛む程度。
衝撃に対して、無意識の内に身体が対処してしまうらしく、しなやかになった身体にダメージは通らない。
猫が高層階から飛び降りても平気だという話もあるが、そんなものなのだろうか。
下からこちらを見上げるこけしこと――鷺森灼は、やたらと厳しい。こちらに敵愾心を持っているのかもしれない。
だけど、どうでもよかった。
よしんば夕飯に毒を盛られようが、寝ている間にボウリングの球を落とされようが、どうでもいい。
そうしたら死ぬかもしれないが、別に今、自分から死ににいくつもりはなかった。
殺したいのなら、止めはしないけど。
「ちょっと、お夕飯買いに行ってくるから……」
「了解っす」
「……そこで、普通、何かメニューの希望とかしないの?」
「……別にどうでもいいんで」
ある程度メニューを指定された方が作りやすいというのはある。
自分自身がそうだったから、それは知っていた。
でもやはり、そうとは知りながらも積極的に手助けする気力はない。億劫なのだ。
「なら、食べさせな……」
「……どうぞ。飯とか別に、構わないっすから」
「この……! ……もういい」
やがて諦めたように、肩を落とした。我ながら実に他人事である。実際彼女は、他人だし。
……ただ、まあ。
流石に少しは、申し訳なかった。飯を作って貰えるんだし。
「……灼さん」
「何?」
「ちくわ大明神」
「…………。……え?」
「……違う。ちくわ明太子。この間のあれ、お願いします」
こちらが発した余りに素っ頓狂な台詞に彼女は静止して、クスリと笑った。
「……判った」
鷺森灼の飯は上手い。子供の頃から、家事手伝いをやっていたそうだ。
彼女曰く――というか正確には――彼女の祖母曰く、『食べるという字は人を良くすると書く』らしい。
だから、料理に余念がないのだろう。
そんな彼女は、時々創作料理を行う。ちくわ明太子というのも、それだ。
ちくわの穴に、刻んだ生姜と明太子を詰めて焼いたもの。
出来上がったそれを輪切りにして、葱をのせて食べるのだ。
なんとなく京太郎は、気に入っていた。
セールで買ってきたという、小瀬川宅の冷蔵庫に多量に鎮座するちくわを使って、
何とか皆に飽きさせないようにおつまみを作っていた苦労を思い出すからかもしれない。
今では、遠すぎる思い出だった。
東京から物理的に距離が離れているというのもあるし、心理的に遠ざけているというのもあった。
「それじゃ、楽しみにし……」
「まあ、日本じゃ二番目っすけどね」
「……一番は?」
「俺。ダルいんで、作りはしませんけど」
そう茶化すと、僅かに喜色を帯びていた彼女の顔が強張った。
それから、小さな肩を揺らして不機嫌そうに立ち去っていく。
すれ違い様に、常連に挨拶しているようだった。
「よ、お兄ちゃん。喧嘩でもしたのか?」
「……生理じゃないっすか」
「わしらのアイドルなんだから、あんま苛めんでくれな」
あれは照れ隠しだなんだと、好き勝手に話ながら立ち去る壮年の男たち。
日本にまだボウリングブームが来ていたときに、慣らしたクチらしい。
カーブをかけた球がガターすれすれを擦りながら、見事に離れたピンを倒して、小気味良い音を鳴らせていた。
京太郎はというと、ボウリングはそれなり。カラオケのついで程度。
別に今更、上手になりたいなんて思えなかった。
(……申し訳ない、か)
馬鹿らしいと、腕の骨に顎を預ける。
またひとつ、小気味のよいピンを弾く音が、鳴っていた。
(変な奴)
それに、腹が立つ奴だと鷺森灼は考える。
やたらと一言多くふてぶてしいあの――赤土晴絵の紹介でやってきた男――須賀京太郎。
無給で扱き使ってやってくれと、そんな言葉を受けはしたものの……やはり気に食わない。
恩師で憧れの女性である、他でもない赤土晴絵の頼みであるから放り出しはしないものの、それでもどうかと思う。
卒業したとはいっても、仮にも元教え子の家に男を連れてくるなんてのは、正直晴絵相手であっても眉を顰めざるを得ない。
頼みの祖母は、豆腐を買いにフランスまで出掛けている(彼女なりの諧謔だ)。
つまりはまあ、あの家によく知らんどこぞの男と二人っきり。
身の危険を覚えぬ筈がない。
そりゃあ、確かに成長期を過ぎたものの未だに起伏に乏しい体躯であり、男の劣情を刺激はしないだろうが、
それでも年頃の女の子であり――いやいや多少は成長してます、でも、同級生の
松実玄と比べてしまうと悲しいよね、
だけど本来的にはまるで性的魅力に乏しくとも、二人っきりという状況でいざ相手に魔が差すとも限らない――なんて、
心配してしまうのは人情であり、刃傷沙汰になろうが貞操を守るのが優先であると、
鍵の付いた自室に念のための刃物を隠して幾星霜(冗談だが、最初の夜は正に朝までが無限に感じられた)。
……尤も。
今では、刃物は台所に戻してある。
一々料理の度に部屋に取りに戻るのが億劫なのだ。
無論、それだけではない。
(京太郎、ちゃんと店番できてる……?)
あの男は殆ど、世捨て人だ。
仕事上のミスは少ない。否、ないと言っても差し支えがないであろう。
だけどそこに丁寧さや情熱はなく、卒なくこなしているという印象しか受けない。
仕事は出来るが、気遣いという言葉とは無縁だ。
……実際灼に度々無礼な言葉を投げ掛けてきやがりますし。
それに何より、あいつは笑わない。
これは客商売としては致命的であろう。
自分に構うのをするんじゃねえよ、なんて不機嫌そうな仏頂面や、
如何にも自分は不幸で辛いんです傷付いてるんです、なんて沈痛な面持ちは晒さないが、
どことなく冷めている目の、アンニュイそうな顔を並べていた。
何が楽しくて生きているのか判らない。
楽しさを感じるのだろうか。そもそもあいつ、本当に生きているのだろうか。
死んだ魚の目とはよく言ったもので、全体的に覇気がない。生気もない。
とりあえず、バイト兼用心棒として使ってやってくれ――。
赤土晴絵からは、そう言われた。
勿論、それだけではないとは思っている。
彼女がそう言い出すなら、きっと相応の理由がある筈だ――。
彼に何があったのか、気にならなくはない。
それは確かであった。
……まあ、そんなことはともかく。
何があったとしても、夕飯の買い物ぐらい代わってくれてもいいんじゃないか。
吉野は坂も多い。
二人分の食材を抱えて歩くのは、矮小な体躯の灼には一苦労だった。
食べたいと注文をつけてきたときは、こいつにもそんな珍しいことがあるものだなんて思ったけど、
気を利かせて買い物を申し出ないあたり、やっぱり須賀京太郎は須賀京太郎だった。
「……あ、お疲れっす。じゃあ俺、戻りますんで」
灼の顔を見るなり、そう言ってカウンターから顔を上げる京太郎。
ちょっと待て。
それ以前に何か、あるだろう。帰ってきたんだから、言うことが。
そもそも、こちとら買い物袋を両手に持っているのだ。
だから――。
「あ、灼さん」
「何?」
「俺は別にいーっすけど、裏口からの方がいいんじゃないっすか」
変な風に生活感を匂わすのは、客商売としてどうなんですか――。
なんて意図を含めた言葉だったので、脇腹に一撃お見舞いした。
痛いなんて言いながらも、まるで堪えた様子はない。
本当に、腹立たしい男だ。
「喧嘩かい? 若いっていいねぇ……」
「まさか、灼ちゃんにあんなハイカラな恋人ができるなんてね」
「彼……甲斐性、あるのかい?」
「いや、違……」
一連のやり取りを見ていた、常連さんに絡まれた。
やめてほしい。
高校の部活仲間の耳に入ったら、なんて言われるか判ったものじゃない。
東京に出てしまった新子憧、プロになった
松実宥には届くまい。
高鴨穏乃は、多分変に勘違いして、悪気なく盛り上がる。
一番面倒なのは、同級生の松実玄だ。
女性の豊満な乳房に執心していながらも、その実、男女の付き合いに憧れている。
悪い奴ではないが、何を言い出すか判らないし、何か変な騒動でも巻き起こしそう。
本当に、悪い奴ではないし、嫌いでもないんだけど……。
この手の話題を絡ませたら、話をややこしくしそうな印象を受けるのだ。
……いや、本当に何故だか判らないが。
ただでさえ、須賀京太郎というある種の頭痛の種がいるのだ。
これ以上は御免だ。
「いやいや、お祖母さんなら『ボールは見ただけじゃ判らない、見かけに騙されるな』とでも言うんじゃないか?」
「『本当の名店は看板さえ出していない』とも言うしねぇ……」
「いや、でも……『仕事は納豆のように粘り強くするものだ』って言うから、彼はどうかね?」
「認められるといいねぇ」
「もう、勝手にし……」
やっぱり、本当に腹立たしい男だ。
そして、夕飯も終わって灼は部屋に戻った。
やっぱり、須賀京太郎の奴は好きになれそうにないのだ。
夕飯もただ黙々と食べて、それっきり。
一応ちゃんと、「いただきます」と「ご馳走さま」は言っている。
加えて、最近ようやく食卓に皿を並べたり、皿を洗うようになったが――違う。
確かに、灼もむやみやたらに話すのは好きではない。
祖母からは、『食事とは一期一会、毎回毎回を大切にしろ』と言われていた。
だから、ながら飯は好きではなかった。
やたらとお喋りばかりに興じたり、テレビに余所見をしながら食事をするものではない。
そう思っていた。
でも――今になって思うのだ。
これの言うところの食事とは、食卓ではないかと。
その日の夕飯は、その日しかない。
その日の食事は、その日しかない。
当たり前のことだが――その日囲んだ食卓は、別の日には再現できないのだ。
だから、その日起きたことを食卓で話さなければ、別の日にはできない。
団欒をする食卓は一期一会で、
毎日様々に起きる出来事も、その度に抱く感想も、常に移り変わって行くのである。
……まあ、そんな大層なことはいい。
つまり、何が言いたいのか――と言えば。
(頑張って作ったのに……)
せめて、旨いとか。気に入ったとか。どうだとか。
食事についての感想を言ったらどうなのだ、あの男。
いや、無理に求めるつもりはないし、押し付けるつもりもない。
気に入らないあの男に、料理をやたらめったら褒められても仕様がない。
だけれども。
珍しく注文なんてつけてくれるから、作ったというのに……。
「おいしい」の一言とか、「ありがとう」の一言ぐらいはあってもいいのでは。
いや、勝手だと思うし、別に、期待してもないけど。
せめて、お通夜みたいに黙々と食うのはやめろ。
やっぱり、多少イケメンでも無理だ。
生理的に、そこらへんが合わない。
と、そんな時だ。
何か、物音が聞こえた気がした。それも、ボウリング場の方から。
初めは、京太郎かと思った。
だけれども彼は、仕事のときを除いて向こうには行きやしない。
というかそもそも、食事と風呂とトイレ以外、部屋に籠りっぱなし。
わざわざ閉店後に、あちらへと向かいはしないだろう。
――と、なると。
(まさか、強盗)
考えられる原因はそれぐらいしか、あり得ない。
いや、放火や空き巣なども思い浮かぶが……どれにしろ、同じこと。
対京太郎用のゴルフクラブを片手に握り、焦燥に後押しされて廊下に出る。
用心棒と、晴絵は言っていた。
見たところ、無気力な優男でしかないが……。
それでも、こういうときは男手が欲しかった。誰かに一緒にいて欲しかった。
少しでも、自分の不安は和らぐ。
それだけでも、須賀京太郎が居る意味はあった。
そこだけで感謝してもいいくらいだ。
「……夜這いにしちゃ物騒っすね。夜襲ですか?」
訂正。やっぱりこいつ、駄目だ。
一瞬たりとも、こんな男に感謝した自分が馬鹿だった。
ふてぶてしい皮肉に、思わず本気で頭部めがけてゴルフクラブを降り下ろしたくなった。
なんなんだろう。
この、斜視で皮肉屋の無気力男は。
本当に腹立たしい。
腹立たしいったら、ありゃしない野郎である。
「違……。あっちで、変な音がして……」
「ああ、空き巣か強盗かと思った――と」
その瞬間、灼は確かに見た。
僅かながら、須賀京太郎の瞳が強く輝くのを。
だけれども、それは――。
「判りました。見てきますから、灼さんはここに居て下さい」
「嫌。相手が複数いたら、一人っきりになるし……」
「ああ、それもそうか」
それじゃあ、と彼が立ち上がった。
普段見ていたあの姿はどこへいったのだろう。背筋は伸びて、その背中はいつも以上に広い。
やはり、男というのは背中が広いのだろうか。今の今まで、まるで気が付かなかったが……。
自分の手のひら、何個分だろう――。
なんて関係ないことを考えながら、短縮ダイヤルで即座に通報可能な電話を左手に。
というか、この男、こんなに大きかったっけ。
これまで気付かなかったが、ここで初めて、彼も男なのだと思った。
すると、無性に怖くなった。
今まで、こんな奴とひとつ屋根の下で、二人っきりで過ごしていたのだ。
そして、これからも。……晴絵がいつ引き取りに来るのか、訊きそびれた。
強盗よりも、そのことへの怯えが生まれる。
そんな自分に――。
「大丈夫ですよ、灼さん」
普段のあの、斜に構えた姿勢はどこへいったのだろう。
「何があっても、あなたを守りますんで」
それは、自然な笑みであった。
思わず、携帯を握った方の手で彼のシャツの裾を掴んだ。
困ったなと、京太郎が笑う。
「任せて下さいよ。何かあっても、絶対にあなたに手出しをさせませんから」
きっと彼は自分のことを、恐怖を覚えているとか、臆病であると思っているのだろう。
こちらを安心させようとする笑みを、須賀京太郎は浮かべ――。
それから、猫科の猛獣が如く、足音を殺しながら歩き出す。
(違う)
だけれどもそれは、まるで見当外れである。
鷺森灼は、強盗に対して不安を感じたのではない。
須賀京太郎の目に灯った光に、恐怖したのだ。
そしてそれは、その後彼が発した言葉によって、確信に変わる。
(京太郎は、どこかで安堵してた。悦んでた)
自分が誰かの頼りにされることを、ではなく――。
危険に、己のひとつしかない身を投じられることに。
それは期待を抱きつつも、ともすれば直ぐ様に消えてしまいそうな笑みだったのだ。
蝋燭の最期めいた光。
だから反射的に、闇に紛れてしまわないように掴み止めた。
それだけだ。
(これが多分、ハルちゃんが預けた理由)
ただ無気力で斜に構えたという奴は、それこそ世の中に掃いて捨てるほどいる。
何が楽しいのか、冷静を気取った他人の振りで、他人事じみた俯瞰姿勢ばかりを繰り返す。
そんな性分の冷めた人間は、少なからず存在しているだろう。
でも。
この男はきっと違う。
恐らくもっと、本質的には別人だ。性格だってまるで異なるものだろう。
それが、如何なる理由かこうなってしまったのだ。
きゅっ。
シャツを握り締める手に、自然と力が籠っていた。
彼の言葉は全て、灼の身についてしか言及されていない。
なるほど、確かにこれが物語に出てくるヒーローであれば、そんな台詞も頷ける。
だけれども、彼も私も夢物語のヒーローなんかじゃない。
或いは――。
普段から、須賀京太郎がそのような性格の人間ならば、素直に聞いた。
こちらを勇気付けようとしているものだと、肯んじられた。
だがしかし、普段の彼はあの死んだ魚だ。
まさか、昼行灯とは言うまいよ。
器用そうだが、不器用な男なのだ。
卒なくこなしはするものの、何かを取り繕うのが上手ではない。
それができているのなら、何かを器用に行っていると相手に気付かせまい。
必死にやっている振りさえしていれば、妙な軋轢とは無縁でいられるのだから。
何度も舌打ちをしながら、須賀京太郎が先行する。
彼の周囲だけ、空気が違った。
そこは京太郎の領域で、踏み込んだものから破壊すると言わんばかりの、静謐にして張りつめた気配。
当の本人が軽々と滑らかに動いている分、なおのこと恐ろしい。
猛獣と同じであった。構えを崩して脱力しつつも、己の牙の距離に近付くものを虎視眈々と狙っている。
緊張していない筈はないが、彼は己の筋肉にそれを悟らせない。
余計な身体の強張りが、運動を阻害すると知っているようだった。
改めて――と思う。
改めてこの男は、何者なんだろう。
普段の彼のイメージと噛み合わない。
とてもじゃないが、お世辞にも上等とは言えない店番で、置物になっている姿とはかけ離れている。
今浮かべた薄ら笑いは、未練の琴線に触れた亡霊じみている。
朽ちていくだけの炭の塊が、まだ燃えるだけの残りカスを見付けたようであった。
「こっちには、いないみたいですね」
「どうして……?」
「今の舌打ち何度かで、確かめました」
そんなことが、できるものなのか。
獰猛さにも見える酷薄な笑みを浮かべた男は、緊張感を伴いつつも愉快そうに、静かに喉を鳴らした。
普段の彼を老犬とするなら、今の彼は年若い灰狼であった。
一体、どちらが本当の京太郎なのだろうか――。
彼との付き合いの日は浅く、また、神ならぬ灼にそれを知るよしもない。
だけれども、不思議と思うのだ。
どちらもきっと、本当の須賀京太郎ではない――と。
普段のあの、空気の抜けた風船や糸の切れた凧めいた、意気や意気地を置いてきたという京太郎も、
今の、危険を感じつつも緊張は覚えず、どこか心待ちにしていたという様子の京太郎も、
その両方とも、恐らくは、ある意味では須賀京太郎ではありながら、本当の意味では須賀京太郎ではあるまい。
(馬鹿らし……)
なんで、こんな男のことを真剣に考えているのだろう。
灼の生活に紛れ込んだ異物。
異物というにはそれは、あまりにも自己主張をしないものではあるが――。
それが却って、気に障るのだ。
部屋の物をそのままに、配置をズラされてしまったような違和感が残る。
とにかく何か、しっくりこないのだ。こいつがいると。
だから、忌々しいとは言えずとも、少なくとも歓迎すべきものではない。
そんな男に、こうも思考を割いてしまっている自分に、多少ならず驚きを隠せない。
彼の顔を、見上げてみる。
黙っていれば、悪くない顔だと思う。
むしろ、今まで見てきた男の仲でも、かなり整っている方に分類されるだろう。
だけれども、普段のあの、骨を失って打ち上げられた魚ような態度は戴けない。
どれだけ見目が麗しくても、あれは駄目だ。マイナスだ。
かといって、今の顔がよいと言えばそうでもない。
薄ら笑い。
普段の京太郎に比べたら、えらく気力が充実している。さながら、獲物を見付けた大型肉食獣だ。
獰猛な、生気の充実した笑み――好戦的な笑い。
先ほどのごとき落ち着いた物言いは、普段のそれとは違って、見るものを勇気づけるだろう。
でもやはり、
(違う)
のである。
その笑いには、ある種の虚無的な愉快が含まれていた。
それこそ、どこか仮面めいている。
彼自身も気付いてはおらず、また、他方では紛れもなく本心なのであろうが……。
どことなく儚く、嘘っぽさを覚えた。
「大丈夫っすよ、俺が付いてるんで」
「いや……」
「こう見えても、鍛えてるんで。安心して下さい」
「違……、ちょっ……!」
子供をあやすように、頭に手を置かれた。
やっぱり、軽薄で無礼な男である。
女の身体に、命である髪にこうも容易く触れるとは何事だ。
きっと、こいつの本質は――こいつはどうなっていても、多分デリカシーがなく、無神経な男だろう。
こちらに笑いかけて、何度か、軽く叩いてきた。
気安く触るなと振り払おうしたが、それが原因で空き巣だか強盗だかの何者かに気付かれたら仕方がない。
そのまま、黙ってされるがままになる。
こちらの不満も知らず、いい気なものだ。彼は気をよくしたらしい。
……別に。
不思議と安心感を覚えてなんか、いない。いないったらいない。
万が一にでも感じるとしたらそれは、きっと強盗などの某がいるせいだ。
そんな非日常で、悍ましい存在がいるから……。
だから相対的に、こんな駄目男に安心してしまうのだろう。
許すまじ。
件の強盗やら何やらを見かけたら、ゴルフクラブの一撃では済ますまい。
静かに灼は、グリップを握り締めた。
「……窓、空いてましたがそれだけっすね」
「でも、確かに音が……」
「灼さんのこと、疑ってなんていませんよ」
それは、事実だろう。
依然として彼の身体には気勢が充実し、静かに闇の中を睨み付けているのだから。
彼の身体は、鋼鉄の鞭だ。
鋼鉄で、ゴムがごとき弾力を持った鞭だ。野生の刀剣だ。
その瞬間となったなら、引き絞られた弦が如く勢いよく弾けて、しなやかな身体は獲物に躍りかかる。
そのさまが、容易く想像できた。
想像していたから、次に己の身に起きたことを、灼は暫し把握できなかった。
「えっ」
「静かに……今何か、動きました」
肩を掴まれて、彼の胸元に抱き寄せられていた。
反射的についてしまった手から、京太郎の鼓動が伝わってくる。
とくん、とくん。
緩やかに一定のリズムを刻むそれから、鼓動の度に熱が流れ込んでくる。
その筋肉はやはり力強さを秘めながらも、優しく灼の指先を受け入れて包み込んだ。
これが、彼にとっても自分を守りやすい姿勢なのだろうが……。
(ち、近……)
訳もなく赤面してしまう。
相手が京太郎だとしても、こうして異性の胸元に指先を埋めるというのは、
灼に羞恥を覚えさせるのには十分な行為で、何故だか自然と掌が丸まっていた。
「……こいつか」
「可愛……」
「……確かに武器を隠し持ってるから、強盗と言えば強盗だよな」
それから、彼の言う音のする方向にいたのは、猫。
どこから入ったのか判らないけど、親とはぐれたのだろう、年若い猫がいた。
或いは早々に一人立ちしたのか……。
なんにせよ、その猫は人に馴れているらしく、近寄っても毛を逆立てようとはしなかった。
「おいで?」
しゃがんで、チッチと誘き寄せてみる。
躊躇いがちに前肢を出して、鼻をひくつかせながら猫が近寄ってきた。
その瞬間を狙って、両脇を抱えて持ち上げる。間抜けな具合に、後ろ足と胴が伸びる。
抱き上げられるとは考えていなかったのだろう。その年若い猫は、軽く目をしぱたかせる。
「ふふっ、ごめんね。何も持ってなくて……」
不満そうに、にゃあと声が上がる。
やはり野良だから、抱き抱えられることに抵抗があるのか身を固くしていたが、逃げ出そうとはしない。
雨風で乱れたのだろう、若干パサつく毛並みの尻尾が、ぱたぱたと脇腹を打つ。
なんて、可愛らしい強盗なのだろう。
こうして空き巣まがいのことなどせずとも、十分に稼ぐことなどできよう。
――いけない子め。
心中で呟きながら、だらりと前肢を垂らしたその身体に頬擦りをする。
なんともふてぶてしいような、それでいて胸が暖かくなる柔らかさだ。
新子憧が相当に動物好きであったが、それもわかるようだった。
「……他には誰もいないみたいっすね」
やや距離が離れたところに立つ京太郎が、辺りを見回しながら言った。
何が気に食わないのかは知らないが、先ほどから灼と猫を遠巻きにしていた。
或いは、望んでいた強盗が可愛らしい美猫であったことに、落胆したのだろうか。
なんとなく、居心地が悪そうにしている。
「アレルギー? それとも、猫は嫌いだった?」
「別に……。ただ、苦手なだけです……動物が」
「ふぅん……。こんなに可愛いのに、勿体な……」
ねー、と前肢を持ち上げてみる。
猫は、迷惑そうに欠伸をあげた。
嫌いではないのに、苦手だというのはどういうことなのだろうか。
しかも、アレルギーではないのだ。益々判らない。
動物全般が苦手ながら、猫は割りと好きな部類なのだろうか。本人は狼じみているというのに。
昔、動物に襲われたことがあるのかもしれない。
「うちの子になる?」
猫に問いかけてみた。にゃあと、鳴いた。
可愛らしい奴だ。こうしておとなしくしているのを見るに、向こうも満更ではないのだろう。
これも何かの巡り合わせだと思えた。
正直灼はこれまで、猫がこれほどまでに愛らしい動物だなどとは、思わなかった。
なんとなく、可愛いとは思っていた。
だけれども、新子憧があれほどまでに熱心に語り上げるほどの興味は抱いていなかったし、
そんな彼女の話も、なんとなく聞き流していた。
だがしかし、これはどうだ。
まさか、ここまで愛くるしいものだとは、思ってもみなかった。
今この腕に抱いていると、尚のこと思いが強まっていく。
「……灼さん」
「何?」
やっぱり、アレルギーなのか。
それならまあ、仕方ない。苦手という程度ならまだしも、生活に関わるなら譲歩も吝かではない。
京太郎の言葉の続きを促すが、待てども来ない。
何かを言いたげに顎を尖らせたものの、口を紡ぐと、伏し目がちに目線を反らした。
おかしな奴だ。
先ほどまでの、あの強気な態度はどこへやら。
今の京太郎は、吹けば飛ぶような力なさを湛えていた。
「……飼うんなら、大切にしてやって下さい」
「言われなくても……」
それきり京太郎は口を噤んだ。
いつものあの、無重力で無気力な彼とも違う、顔だった。
それが、嫌に引っ掛かる。
「……そうだ」
「何ですか?」
「名前……」
家族の一員になるなら、ちゃんとした名前が必要であろう。
これから長らく一緒に暮らしていくというのに、あれだのそれだのと呼ぶわけにはいかないし、
まさかなんの捻りもなく、猫だとか、タマなどと呼ぶわけにもいかない。強盗や空き巣は論外。
しかし、そうとなったらなったで、思い浮かばない。
ふむと、猫の頭に顎を乗せてみる。
お前はどんな名前がいい――?
言葉が通じない分、肌を合わせてみれば気持ちは伝わるかもしれない。
なんて思ってみたものの、「に゛ぇっ」っと、蝦蟇蛙を潰したような悲鳴が変えるのみ。
はてさて、「にえ」という名前がいいのか。
それとも、向こうからの返答も気持ちで伝わってきやしないかと考えるものの、
自らの額に乗った異物に対して、鬱陶しそうに耳ではたきを上げるだけである。
「カ……」
「なに?」
思案げな京太郎が小さく呟いたのを、灼は聞き逃さなかった。
というか、月の明かりと虫の音以外が呼吸していないこんな夜では、
いくら多少距離を取っているとは言っても、人の声を聞き逃す筈もない。
だからこそ、向こうに居ながらも店の物音が聞こえたのだ。
まさか、聞かれているとは思っていなかったのであろう。
京太郎が、ぎょっとしてこちらを見た。
「いや、今のは……」
「恥ずかしがらなくてもいいから、とりあえず言って……」
「本当に……」
「笑わないから、ほら」
そう促しても、京太郎は煮え切らない様子である。
猫と共に、彼を見やる。
「カ」と中途半端なところで区切られた猫も、早くしろと言いたげだった。
やがて、観念したのであろう。
京太郎が、訥々と口を開いてきた。
「カ……、カ……カブトとか。カザリとか」
「センスな……」
だがまあ……。
確かにこの猫の額の模様は、言われてみればどこか兜を被っている風ではある。
なんのかんのと離れながらも、よく見ているではないか。
可愛らしくもない名前だけれど、それが却って素っ頓狂で馬鹿馬鹿しく、猫の名前としては好い塩梅の気がした。
変に気取った名前よりも、野良猫だった彼(彼女?)には丁度よい。
名付け親を彼に渡してしまうのは、些か癪であるが……。
今日、その程度の働きはしたであろうし、
また何より、灼の中でその名前が実にしっくりと来てしまっていたので、仕様があるまい。
「カブト……お前の名前は、カブト」
「ちょっ、灼さん……!」
「文句があるなら、あっちのお兄ちゃんにどぞ……」
にゃあと、また猫が鳴いた。
灼は猫の言葉が判らないが、どうにもそのあとごろごろとあの不気味な音を立てるものだから、
猫としても、その名前に異存はないのだろう。
(まずはお風呂で、綺麗にしよ?)
野良猫だったのだから、蚤やら何やら沢山だろう。
暴れてくれなければいいが……そうなったら、男手の京太郎に手伝わせよう。
なんて思いながら――新しい家族を抱えて、ボウリング場を後にする。
今度はしっかりと、窓も閉めて。
こうして鷺森家に、新たな住人が誕生した。
三人――二人と一匹の、奇妙な同居生活が始まったのだ。
しかしその間も、殆ど京太郎はカブトに寄り付こうとしなかった。
渋々と、カブトの寝床やトイレ砂を整え、皿を丁寧に掃除はしているものの、
肝心のカブトに対しては――少なくとも灼の前では――つっけんどんに接していた。
ともすれば、灼よりもカブトに懐かれているというのに……。
足元に擦り寄ろうとするカブトを巧みに躱し、ドアの向こうに逃げてしまう。
これでは、どちらが一体猫だと言うのだろうか――。
◇ ◆ ◇
(……何をうだうだやってんだろうな、俺は)
適度にSAに立ち寄って、息抜きをしている自分がいた。
余程、彼の地を踏みたくないというのか。躊躇っているというのか。
何を馬鹿な――と自嘲を溢す。
こういう重苦しいのは、自分には合っていないのだ。あくまでもいい意味でも悪い意味でも軽い男。
元来的に自分はそんな性質だろうし、
また、暗く淀んだ顔をして、近くにいる誰かの顔までも曇らせたくないのだ。見ていて胸が痛くなる。
最近はちゃんとそんな風に、周囲にまで目を配る余裕が出てきていた。
自分も、大学や高校とは違う環境へと順応できてきたのだろう。いい傾向だ。
「……と」
家族で旅行にでも来たのか、それとも遠出をするために遊びに来ていたのか。
果たしていかなる力学的作用かは知れないが、少女の帽子が吹き上がる風に舞い上がり、枝に囚われてしまった。
いや、ある意味では木が受け止めてくれたとも言うべきか。
そこに木がなければ、そのまま風に吹き晒されて遥か目視も叶わぬどこかに飛ばされていた。
ただ、どちらにしても、
「……ぁ」
係留ロープの向こうの、枝に掛かっているという状況は、少女の中では失ってしまったと同義だ。
手を伸ばしても、届く距離ではない。
みるみるうちに、少女の目に涙が湛えられていき――
「ちょっとこれ、持っててくれるか?」
自分よりも遥かに上背のある闖入者の声に、はたと少女の震えが止んだ。
手渡したのは、スマートフォン。
待機画面いっぱいに、積乱雲を孕んだ午後の空を映すそれは、少女の手には些か大きい。
え、と呆気にとられた少女が、京太郎を見上げる。
「何者って言いたそうだから先に言っとくけど、俺は魔法使いさ」
「えっと……」
「ま、いい娘で待ってな。直ぐに魔法をかけてやるよ」
ぽかんと口を開ける少女を背に、軽く足を屈伸させる。
早く少女の涙を止めなければならないという使命感と、
単純に、ただ単純に、今時は声かけ事案が多いので、相手が呆然としている内に片を付けなくては、
その後に通報されて、全く喜ばしくないことになるからだ。
多少なりともイケメンなら、許してはくれないものだろうか。なんとも世知辛い世の中だ。
……。
だから別に、自分は気障ではない。
これは、非日常的な言葉で相手を混乱させ、声かけ事案という冤罪から身を守るためである。
つまり、演技である。演技である。
自分はスカした気障野郎ではない。ないったらない。
そうやって伊達男を気取るからなんか冗談っぽくて女性に相手にされないとか、それが却って残念さを生んでいるとか。
そんな言葉は聞こえない。聞こえない。
「ふッ――」
両足に力を込めて、跳び上がる。
バッタは人間大で考えたら、ビル九階分のジャンプをするという言葉があるが――流石にそこまで、馬鹿らしい脚力はない。
ただ、この程度は十二分。
地を蹴り係留ロープを跳び越え、帽子を掴みとると同時に、
慣性で前方へと押し出された足で木の幹を蹴りつけ、帰還。着地の衝撃は身体を畳んで全身で散らす。
残すのは風と、ちょっと強めに揺れる枝葉のみ。
「ほらよ、笑顔になる魔法――ってな」
少女の頭に帽子を被せて、目線を合わせてスマートフォンを受けとる。
万が一でもポケットから零れ落ちたら困りものだから手渡したが、今の分では杞憂だっただろう。
泣き止まないようなら、何か手品のひとつでも見せねばなるまい。
なんて思っていたら、未だ驚きを隠せないといった様子で少女は、ありがとうと口を開きかけ――
「まさか、オカルトスレイヤー……?」
「……あー。その、なんつーか……クラスの皆にはナイショだぜ?」
唇に指を当てて、ウィンクを飛ばしてみる。
すると何度か躊躇いがちに、おずおずと首を上下させる少女。
うん、素直でよろしい。
「ありがとう、オカルトスレイヤー!」
(ちょ、声! 声!)
なんて大声でお礼を言ってくれるもんだから、流石にこれには京太郎も焦った。
すわ何事かとこちらを振り返る家族連れの視線から逃れるように、そそくさと立ち去る。
……まあ、出発の口実ができただけ、よしとしよう。
「……っと、電話?」
着信元は――松実宥。
軽くガッツポーズをして、通話ボタンをタッチする。
さて、一体全体何の用だろうか。まさか、個人的なお願い事だろうか。デートのお誘いだろうか。
いやあ、でも今殆ど奈良だしな。
ああいや、そのままハネムーンもいいしともすれば二人連れ立って彼女の実家に結婚の報告でも――。
いやいや、でも憧と約束してるしな。流石にドタキャンは不味いよな。
だとしても、二人と同じ日にデートの約束なんて、モテる男は辛いよな。ハハハ。イケメンで辛いわ。
……なんて、無理矢理に気分を盛り上げる。
付き合いが長い憧に露見してしまったのは判る。
だけれども、玄にまで察されてしまうとはどういうことだ。流石に予想外だ。
そこまで自分は、判りやすい男ではない筈だ。
多分。きっと。メイビー。
「はい、もしもし?」
『あ、須賀くん……?』
「そうです、あなたの須賀京太郎です」
相棒は
小走やえってことは変えられないけど、まあ、貞操くらいなら。
誘ってくれたらいつでもほいほい付いていくけどね。
……訂正。
流石に、そこまで軽くない。硬派なのだ。あっちと同じで硬いのである。
……なに言っているんだろう。疲れているのかもしれない。
『ボウリング大会の場所なんだけどね……?』
「あ、スルーっすか」
『え?』
「……なんでもないっす」
『う、うん……』
まあ、間に受けられても困るものがある。
この手の冗談を口にしてしまうのは、いつからか習慣になっていた。
なんでも茶化して、おどけてお茶らけて、煙に巻こうとしている。
自分でも理由は判らないが、誰かと真面目な話をするのに耐えられない――怖い――のかもしれない。
あるいはただ単純に、その方がオチも作れてテレビ向きであるというのもあるのだろうか。
つくづく、ワーキングプアでもワーカーホリックでもなく、職業病かもしれない。
「それで、ボウリング大会がどうかしたんですか?」
確か、松実宥は参加しなかった筈である。
その後の、若手麻雀プロの集いには出席する(というより会場が彼女の実家だ)が。
どちらも龍門渕が主催であるものの、何故だかボウリング大会の参加人数は区切られていた。
理由を聞いてみたところ――。
――あんまり人数が多すぎても、テレビ的に盛り上がらないからですわっ。
という回答が返ってきた。
が、実際のところをちゃんと京太郎は知っている。他のプロは、予定が合わなかったのだ。
なら素直にそう言えばいいのにと、内心苦笑を漏らす。
あの人も大概格好つけの見栄っ張りである。ただ、彼女なりの矜持や美徳があるので、余人のそれより嫌味ではない。
『うん……。その会場が知り合いの娘のところになるみたいなんだぁ……』
「鷺森、灼」
『知ってるの……?』
「ええ、憧から聞いてますよ」
やはり――。
奈良で、吉野で、ボウリングをすると言われた時点で判ってはいた。
あの場所の他にボウリングをできる所はない。多少、場所を移しでもしない限りは。
だけれども。
こうしていざ突き付けられてしまえば、また、判っていても思うところがあるというのが本音。
「どうか、したんですか?」
『えっと……最近会えてなかったから、よろしくって言ってくれたら嬉しいかなぁ……って』
――マズった。
電話を耳に押し当てたまま、空を仰ぐ。
昔の知り合い。プロになってしまった自分――となれば答えはそれしかあるまい。
逆に一体、こんな状況で松実宥が何を言うのだろうか。他にあるはずもない。
いつもならば、容易く察せる事態であるというのに――。
「ああ、了解っす。ついでに松実プロからって、手土産でも持っていきますか?」
『それは、悪いよ……』
頭が上手く、回らなかった。
普段なら、ここで何か気の聞いた言い回しをひとつでもして、ちょっと会話を盛り上げられただろう。
でも、できない。
そこまで動揺するような事態であるのか。やはり、彼女が昔言ったように、自分は割り切れない男なのか。
――どうなのだろう。
未だに自分は彼女への未練を抱えているのか。高鴨穏乃に抱くそれのように。
自分はこうも、センチメンタリズムを引きずった感傷的な男なのか。
「ま、判りましたよ。任せておいて下さい」
自分のせいで誰かを悲しませたくない――。そんな顔をさせたくない――。
かつての日に、静かに誓った想いが甦ってくるようだ。
多忙な毎日に、日々積み重なる思い出に押し潰されて、記憶の奥底に埋められたタイムカプセル。
こうしてオートバイで時間をかけて向かっていくことで、しめやかにカプセルは掘り返されていく。
この時期というのは、丁度埋めた時期と同じで――。
これから己が向かう先は、まさに埋めた場所そのものである――。
だからきっと、こうも自分は揺らいでいた。
……別に、そのこと自体を己自身にとやかく言うつもりなどはない。強さもあれば弱さもあるのが人間だ。
ただそれを、他人に聞かれてしまった――悟られてしまうこの状況が良くない。
何ともそれは、寂しさを伴った恥ずかしさなのだ。
誰彼の前でもいい格好をしたいとは思わないが、然りとて皆に己の弱さを晒したいかといえばまた別だ。
そこに踏み込まれても、困り者ではある。
偶々、こうして気分が不安定になっているだけで、普段の自分はまるで違う。
まるで腫れ物を触るように扱われたら、色々と寂しいところであるのだ。
『須賀くん?』
「……なんすか」
『長くて疲れるかもしれないから、気を付けてね……?』
ああ、ほら。
余計な気を遣わせてしまったではないか――。
こういうのは、苦手なのだ。
他人に変に気を遣わせるのは、どうにも性に合わない。むずむずして、居心地が悪くなる。
これは気負いとかじゃなくて――。
単純に、自分自身の性癖であった。相手に余計なことを、させたくはないという。
「ありがとうございます、松実プロ」
『うん、また後でね……須賀くん』
電話を打ち切りながら、思う。
自分は、彼女たち二人をどう思っているのだろうか。
未だ、未練がましいものを抱いているのか。
すでに終わっていて、彼女たちは割り切ったというのに。
会って――、もし会ったら――、どうしたいんだ。
考えても、答えはついぞ浮かばない。
なんというか本当に今日は、我ながら弱っちい日である。誰かに見られてなくて本当によかっ
『BeHinD yOU』
――ファッ!?
唐突なメールに含まれた添付ファイルに、思わず携帯電話を取り落としそうになった。
不気味に、画像が踊る。
いやいやまさかな……メリーさんでもあるまいしと、背後を振り返ってみる。
いたらマジで、全力の後ろ蹴りを以て完全に破壊する――。
「やっほ……って、うわ、危なっ!?」
「……俺の後ろに立たないで下さいよ。師匠」
「……いや、ゴルゴを弟子にした覚えはないんだけど」
そこには、頭部スレスレで止められた蹴りに苦笑する、赤土晴絵がいた。
相当に無礼なことをしてしまった。おまけに、一歩間違えれば殺人罪だ。
あまり考え込んでナーバスになるのも、どうにかしなければならないだろう。
今のはいくらなんでも、洒落にならない。
「いや、ちょっとした遊び心だったんだけどな……」
「……本当に、申し訳ないです。師匠にこんなこと、しちまうなんて」
「いやー、うん、好奇心猫を殺すって言うしね。いや……猫ってキャラでもないけどさ」
「そっすね」
両手に清涼飲料水の缶を持ったまま、硬直する晴絵。それでも、腰を抜かさないのは流石だと思った。
自分が逆の立場――つまり一般人の無防備な頭部に格闘家が蹴りを打ち込むのと同じ割合で、命の危険がある行為をされる――なら、
間違いなく動揺を隠せまい。
いや、先ずは防御を試みるだろうが。意識的にも、無意識の内にも。
……。
自分の肉体で換算したら、どのようなものか。
マイク・タイソンが唐突に殴りかかってくるのが等しいだろうか。彼のパンチの破壊力は、拳銃弾に相当すると聞く。
ヘビィ級、マジにヤバい。グレートすぎる。
その腕力を持つ身体能力の相手が、蹴りを打ってくるようなものか。
足は腕の三倍の力。忍者なら更に三倍の脚力。
忍者はともかくとして、そんなものを頭部に受けたらまず死ぬ。
ある程度(京太郎基準)鍛え上げた格闘家の蹴りがどれほど危険かは、賢明な諸兄ならば既に周知であろう。
コンクリート以上の固さを持つ、木製バットよりも遥かに密度のある、重量は軽く十キロを越える、
鞭と棒のそれぞれの利点を合わせ持った武器を、思いきり頭部目掛けて振り抜くのである。
勿論、人間の身体は弱そうで頑丈である。
仮にそれを受けてしまったとしても、細かい怪我や障害(頚椎捻挫など)に目を瞑れば、殆どは手酷い傷を負わない場合が多い。
理由としては二つある。
受ける側の身体のしなやかさと、放つ側の攻撃の鋭さだ。
で、相手はズブの素人だ。それも運動不足気味の。
身体に、しなやかさが足りない。
しなやかさこそが衝撃を上手く分散し、身体を死の危険から守るものだ。
それがあるから野性動物は強い。
打撃などで致命傷を負いがたく、一撃で仕留める為には鋭さを持つ攻撃が必要になるのだ――。
そこに来て、頭部などというしなやかさが疎かな場所だ。
たとえ直撃で死なずとも、衝撃で倒れた先で頭を強かに打ち付け、
脳を支える血管が切れるか、頭蓋骨そのものが破損するか、頭部の骨に熱烈なキスを交わした脳味噌が変形するか――。
とにかく、なにが起きるか判らない。
であるから故に、
「危なかった……」
のである。お互いに。
「重ね重ね、本当にすみませんでした……危うく、殺すところだったなんて」
「えっ」
「えっ」
「な、なにそれ……?」
「えっ、いや……判ってますよね?」
「すごく嫌な予感かするけど……一応聞いていい?」
「好奇心猫を殺すって言ってたから、殺されるって判ってたのかと……」
「あ、あはは……あはは、はは」
あ、判ってなかったらしい。
ごめんなさい、師匠。あばよ昨日、よろしく勇気。
宇宙ならぬ小さな惑星――地球――の、小さな島の、一地方の警察のご厄介になってしまうところだった。
まあ、顔面が潰れることはあっても一撃では中々人は死なないから、大丈夫な筈だ。
人を殺すには、相手のしなやかさと柔らかさを貫く攻撃の鋭さと、タイミングと方向が重要だ。
力任せに肘をコンクリートブロックに叩き付けてもどうにもならないのに、
攻撃が上手く“嵌まれ”ば軽く粉砕――人間なら一撃死させる――ことが可能だが、中々行うのは難い。
つまり、何が言いたいのか。
今のでも人は死ななかったのだ。
死なない可能性もあったのだ。
ちゃんと、止めたのだ。
だから、ノーカンである。
テンカウントまでに立ち上がるのがボクサーで、奇しくも京太郎はムエタイボクサーであるが、
そもそもノーカンである。ノーカンったら、ノーカンなのだ。
「あー、そんな、気にやむなって……」
「本当に、なんて言ったらいいのか……申し訳ありません」
「北九州なら、日常茶飯事だからさ」
嘘か本当か判らないおどけかたをする、晴絵。
こういうとこ、好きだ。この師匠。
「で、どうしたの?」
「……何がですか」
「そんなに、神経質になってる理由」
――やはり、判ってしまうか。
敵わないなと、天を仰ぐ。自分の師匠たちは、皆が皆凄い人だ。
年齢が上であるとか、経験が豊富だとか……そういう次元の問題ではない。
純粋に、一個人として優れているのだ。ただ単に、自分が劣っているだけかもしれないが……。
とにかくこのままでは、一生頭が上がらないだろう。
「……バレます?」
「そこまで長い付き合いじゃないっていっても、生徒みたいな相手のことなら……そりゃね」
「ちっとは成長してると思ったんだけど……やっぱ先生さんには敵わないな」
「成長はしてるだろうけど……ま、こっちも良いところを見せたいからね。生徒くん?」
お手上げだと、両手のひらを広げて笑う。
晴絵の差し出した缶を受け取り、プルタブを開く。
金属の産み出す軽快な声と共に、揮発した炭酸が缶の喉笛を鳴らす。
ちびりと啜ってみる。夏の匂いが、“聴こえた”気がする――。
「……灼のこと?」
「判りますかね……ま、それしか答えはないでしょうけど」
「そりゃね。私が引き合わせたからさ」
正確に言うのならば――高鴨穏乃の件も、あるが。
「そう言えば……」
「何?」
「どうして、あのときの俺を灼さんに会わせようと思ったんですか?」
自分で言うのもどうかと思うが、あのときの自分は色々と怪しすぎた。
いつ死んでもいいと思っていた。
むしろ、死にたいとさえも考えていたのだから手に終えないであろう。
ムエタイを始めたのだって、そこに尽きた。
危険性が高いから、殺傷能力が高いから、習得の過程で命を落とす機会もあるだろうと――考えていた。
フリーランについても、同じだ。
とにかく危険に身を浸し、逆説的に生の実感を得てから、死ぬ算段であったのだ。
ただ、自分の予想と違っていたのは――。
死地を望むほど、己自身の生の限界に近付くほど、却って業は冴え渡ったという点にある。
“死、必すれば則ち生く”などという言葉があるが、死人の方が生者より巧みになるのだから、始末に終えない。
――如何にして死ぬか。
当時の自分にとってそれは、命題であったのだ。まさに命懸けの。
せめて自分の命を有用に使い潰して、最期に自己満足と欺瞞に満ち溢れた虚無的な幸福感を胸に死にたかった。
世の中には生きたくても生きられない人間がいると聞くが、
そんなものを“どうでもいい”と断じてしまえる程度には、自分は空虚な感覚に支配されていた。
「ああ……まあ、ひとつは諦めきった目をしてたから、おかしなことはしでかさないだろうってのかな」
「よくもまあ、そんな不確かな感覚を信じましたね」
「駄目だったら、許されることじゃないけど……首括るつもりはあったかな」
「……重いっすよ、師匠」
苦笑をしつつ、缶を傾ける。
ここだけ、あの雲の動きが如く、時間が緩やかに流れているような錯覚を受けた。
どこかの天気は崩れているかな、なんて考えてみるも答えは返らない。
「まあ、あんなに疲れきった奴に、何もできないだろう……とは思ったのよ」
「……それは、どうして」
「似たようなの、自分も味わったからね。経験則って言うのかな」
何もかもがどうでもよくなったのは、その後だ。
驚くほど短期間で、その両方は習熟に至った。細かい部分や精度や練度はともかくとしても、最低限以上に仕上がった。
あれほど、心を傾けた麻雀に比べて――何なのだ、これは。
そう、愕然とした。
同時に、それほどまでに自身の内で消化が早かったものですら、頂きには至れない。
そう感じてしまったときに、何もかもが徒労に思えた。
極めつけは、あれほどまでに世話になり、尽くしてくれた――そして憎からず思っていた――新子憧へ、
あのような感情を発露してしまったこと。
自分は価値がなく、そして残酷で、救いようのない人間だと確信した。己がまるで信じられなくなった。
であるが故に、益々、己は生きているべきではないと思ったのだ。
――風が鳴り止まなかった。風が。
耳の奥から聴こえる風の囁きに誘われて、街を歩いた。
そして、実に自分に都合がよく――お世辞にも上品とは言えない連中に、執拗に纏われている少女を見たとき――。
ここだ、と思った。
これこそが自分が望んでいて、誰かの助けにもなり、有用性の証明を土産に死ねる場所。
きっと、このときの為に自分は居たのだと、静かな使命感と充足感を得た。
「あの子はしっかりしてるけど、気負い易いし、変に何かに憧れてしまうところがある」
「……」
「まあ、それでもいいんだろうけど……この先もそれだと、詰まらないだろうなって思ってさ」
「……俺は、同族嫌悪の相手として適当だった?」
「そんなつもりはないけど、まあ、お互いを反面教師にしてくれたらなー……って」
だけれども、違った。
どれほど死を願おうが、死ぬ為に触れた技術がそれを邪魔する。
止まろうとはせずに、動き続ける。
従おうとしない身体と、それに促されてしまう精神。
「後はまあ、いい子だからもうちょっと色んな楽しみを覚えて欲しい……ってね」
「……だからって、男遊びはぶっ飛ばしすぎじゃないっすか?」
「ハハ、教師が不純異性交遊を進めてどうするんだって――、……不純じゃないよね?」
「純粋でしたよ。それはもう」
それでとうとう何も信じられなくなり、何もかもがどうでもよくなった。
絶望。その一言に尽きた。
何をしても徒労に終わってしまうのが、自分の人生だと思った。
「灼は、どうだった?」
「やっぱり、大人でした。俺よりも……ずっと」
「でも、大人にしたのは京太郎でしょ?」
「おい、教師ィ!? 言わせねーぞ!」
風が止まなかった。
そのまま、胸にある道標たる灯火も、憧憬も、希望も願望も何もかもを――吹き飛ばして。
後は、蝗の群れに食い尽くされたような、脱け殻の須賀京太郎を残した。
雷があった。雹があった。巻き込まれた何もかもが、なくなった。
後はただ、心臓の鼓動に合わせて動くだけの、空蝉めいた人型でしかなかったのだ。
「ごめんごめん。つい、若さが憎くてね」
「……突っ込み入れにくいボケ、やめて下さいよ」
そのまま、促されるままに灼と暮らした。
自分は虚だらけの独活の大木で、ただ流される以上の価値はなかった。
彼女と出会わなければきっと、ここにはおるまい。
彼女は恋人であり、そして、恩人であった。
常に自分は誰かから受け継いでいる。ただひたすらに、貰ってばかりで、勝手に失ってばかりだ。
「……ま、その分じゃ、切れちゃったみたいだね」
「重すぎたのか、フラれちゃいましたね。わりとふつーに」
「あー……。ま、まあ、仕方ないの……か?」
「さあ……」
受け継いだものを伝えなくてはならない。
なんて大層な意思ではないが、多少なりとも誰かにそれを還元したいと思い至った。
元々、誰かの世話を焼くのは好きであった。
であるが故に教師になりたいと思っていたのである。後輩の指導を通じて、それが自分にあっていると思った。
そこに、少しでも、自分の経験を生かして欲しい――という思いが加わった。
間違えてしまった部分を、同じような悩みを抱える人生の後輩を、手助けしたくなったのだ。
「で、自分をフった元カノがいるとこに行くことになるから、そんな風に悶々と考えてるわけ?」
「そうって言やあ、そうっすね」
「ま、あんまり難しく考えなくても……再会して焼けぼっくいに火がつく――なんてのもあるんじゃないの?」
「まさか。……向こうはもう、俺のことはなんとも思っちゃいないでしょう」
「そう? 案外今も、応援してると思うけど」
「そう願っちゃいますけど、それはそれで……なんともこそばゆいような、情けないような気もします」
「どうして?」
それでもこうして麻雀プロになったのは――。
麻雀が好きだったから。
自分も幼馴染みの彼女のように強くなりたかったから。
大切な友人たちを、独りぼっちにしたくなかったから。
高鴨穏乃と約束をしたから。
鷺森灼に送り出して貰ったから。
――そんな様々な感動や感情や感傷めいた心の働きと、巡り合わせが絡み合っていたから。
「普段を知ってる相手に、テレビでのあれこれを見られる――てーのがひとつ」
「……ああ」
「もうひとつは、麻雀プロというには不甲斐ないことしかできていないから……っすかね」
そうしてプロになった。プロになれた。
それについては、小走やえの恩が強い。彼女には本当に世話になっている。
そういうのを抜きにしても、単純に彼女のことを尊敬していて、同じくらいにその人柄に好意を抱く。
……ただ、そういう受け継いだものやお膳立てがあっても。
プロ一年目の彼是などで、自分は存分に叩きのめされた。一時は退職も考えた。
背負った期待も約束も、かなぐり捨ててしまいたくなるほど――そこは生易しい世界ではなかったのだ。
……これもまた、色々な要因が絡むが。
「確かに、全国ネットであんな目に遭えばね……」
「申し訳なかったっすよ、色んな人に。ま……タレント雀士と化したのもありますけど」
「……今もじゃないの?」
「やめてください。それを言ったらおしまいっすよ」
やっぱり自分の力など、そんなものか――と思うところもあった。
どんな感情があろうが、事情があろうが、卓に立ったものには何の関係もない。
実にシンプルで、唯一絶対のルールが叫ばれる。
勝つことが、全てだ――と。
だけどそれは実に自然なことであり、極めて単純なことではあった。
最初につけられた、大きなマイナスポイントを――ゼロに戻す。その為に邁進した。
――負けたままでは、終われない。
却って集中して麻雀に臨めたのだから、その点に関しては感謝している。
M.A.R.S.ランキング上位者になれたのも、きっとそのようなものがあったからだ。負けることが、己をより強固にした。
それでも覚悟なんてのは、いつまでも長くは続かない。
どうしたって長丁場では、モチベーションが低下する。
繰り返すルーチンワークに心は疲弊していく。
堅実に勝って、勝って、勝って、負けて、勝って、勝って、勝って、派手に負けて――。
スケジュールの忙しさも加わって、三度、心が乾き始めた。
しかも今度は、ある種気楽であった学生の頃とは違い、自分以外のものも背負わなければならなかった。
その中での不甲斐ない自分というのは、益々以て情けなさを加速させる。
ただ、死にたいとは思わなかった。殺してくれとも願わなかった。
そんな段階は過ぎていた。
一度やったことを、二度もやるつもりはなかった。
逃げ出すようなことを考えていては、胸を張ることはできない。
流石に、失敗を通じて以前よりは、前向きになっていたのだろう。
でも――どこかで倦んでいた。
自分一人の敗北が――どれほどまで多くに波及してしまうのか、とか。
汚名を漱ごうといくら勝利しても、一度ついたイメージは中々に拭えないのだとか。
ここまでが自分の限度で、これ以上の成長なぞは見込めやしないのだとか。
色々、あった。
なるたけは、前向きに考えた。前向きに考えられる程度には成長していた。
人と関わり、或いはオフを充実させて息抜きした。無意識的にも、ストレスを溜め込まないように努めた。
でも夜中ふと一人目覚めると、夜の闇に紛れて漠然とした不安感が自分を包み込む。
そいつが、かつて胸に開かれた傷へと流れ込み、音を鳴らそうとしているのだ。
――ひゅう、ひゅう……と。
「でもまあ、なんでもできるタレント雀士だよね」
「やめてくださいよ。俺にだってできないことぐらい、ありますから」
「どんなこと?」
「そうっすね……。恋の病を……治すこと、とか」
「いやー、今日は少し涼しいねー」
「露骨に流した!?」
そうして迎えた、あのタイトル戦。
全ての進退を――雀士としての自分を懸けた闘い。
結果は、言うまでもないだろう。
「でも実際、選り取りみどりでしょ」
「いやいやまさか」
「気が利いて、麻雀も強くて、スポーツマンで、ルックスもイケメン……モテない訳がないよ」
「だったらいいんですけどねー」
だけれども、感謝している。
――悔しい。
他の誰でもなく、
宮永咲にあんなことをやられてしまったからこそ、自分は踏みとどまれた。
いつしか麻痺して薄れていた感覚が、より強く胸に灯ったのだ。
再戦を誓う彼女のためにも、投げ出さずに続けなければ――と思ったのだから。
「憧と大学は一緒でしょ?」
「そっすね。世話になりましたよ、あいつには」
「で、宥とも番組で共演したり……同じ麻雀プロとして交遊もあるでしょ?」
「ま、多少は」
「玄の実家に泊まりに行って、連絡とってるんじゃないの?」
「そうっすけど……なんで知ってるんですか?」
「本人から」
「……何やってんだよ、あの人」
後はまあ、単純に――。
麻雀の持つ楽しみを思い出したのだ。慌ただしい日々に、激しい情動に流されてしまっていたそれを。
自分は、麻雀が好きだったのだ。麻雀に惹かれたのだ。麻雀に魅せられたのだ。
「これ全部フラグだとするでしょ?」
「あり得ないけど、仮にっすね」
「そこに元カノの灼を加えたとしたら……後は穏乃、憧の親友を入れたら初期阿知賀麻雀部フルコンプじゃない」
「……いやあ、ハハハ。ノーウェイ、ノーウェイ」
「今なら私もセットになってあげるから、お買い得よ」
「俺の愛は全人類規模なんで、ちょっと6人相手には無理ですね」
思考を打ち切る。
自分が阿知賀フルコンプなど、そんな馬鹿な話があるものかよ。
確かに元カノ二人は鷺森灼と高鴨穏乃。阿知賀である。恋人であった。
だけど残念ながら、袖にされてしまった。
次に、目下交流のある松実玄であるが、あれは駄目だ。男として見なされていない。
この時点で既に三人。京太郎と恋愛関係にならない。
既になってしまったもの――と見なすのなら、下衆な話では二人は消化しているが。
どのみち、やはり玄がボトルネックである。
「というかね、同じ部活全員姉妹とか……生理的に無理っす」
「そうなの?」
「ビバリーヒルズみたいなノリは勘弁っすよ。それよか俺は、ダイハードです」
「全然ジャンル違うじゃない」
「それぐらい、俺の中では考えにくいってことですよ……別れた後のことを考えると、気まずくてとても」
「あー、ついに別れた後を考える年齢になっちゃったかー」
「俺のせいで友人関係が駄目になるとかは、勘弁ですね。そういう人間関係にいる相手だから、好きになるんですし」
松実宥は、どんな感じだろうか。
多分、きっと、悪くは思われてない。抱きつかれたし。話をしてくれるし。
ただまあ、あの人は体質によるところが大きいであろう。
それにあの人の中でのライン――「だめ」「普通」「お気に入り」「好き」――というのはどうにも、
最後の二つの間が偉く離れているか、曖昧である風に思える。
だから多分、そういう関係になるまでが大変であるか……それとも、なった後が大変だろう。
故に、非常に残念ながら、須賀京太郎とフラグは立ってない。Q.E.D.
「じゃあ、その辺が後腐れないとしたら?」
「その手の話題で難儀したサークルの話を聞くから、絶対にないって言いたいっすけど……仮にですよね?」
「仮にだね」
「つーと、5股って形になるから……無理ですね。絶対に俺が耐えられない」
「可愛い女の子選り取りみどりだーモテモテだー、とは?」
「遊びならともかく、あの人たち相手にそんなことはしたくないですね」
新子憧――。
あの三人の中では恐らくは一番、そういう関係になり得るだろう存在。
正直、物凄くいい奴ではあるし、きっと結婚生活の方も順風満帆に行くだろう。
「つまり、その程度にはみんなには本気だってこと?」
「みんなって括りはやめて欲しいけど……遊びで済ませたくはなくなるのは確かです」
早々に子供を作って、二人の為に頑張って稼いでくる――という将来像のには、憧れる(憧だけに)。
ひょっとして、リアルが充実するから……麻雀も強くなるんじゃないかとも思える。2位くらいに。
酒の席でのあの絡まれ方を見るに、多分、嫌われてはおるまい。弄られてはいるのが非常に不安だが。
後は……。
「お互いが割りきった関係ってのは?」
「なったら、なるでしょうね。向こうがそれを望んで、状況がそうなったら判りませんよ」
「ほうほう」
「ただまあ、その後は……何かあったら、面倒でしょう」
スキャンダルとか、養育費とか、税金とか。
そりゃあ、大学生の時分はその辺りを気にせずに遊びもしたが、今や社会人である。
それもそれなりに知名度もある。
ただ、よくある話とは聞くが――どうしてもそれを自分に当て嵌めて考えられないのと、
また、自分を信じてくれた人間を裏切りたくはなかった。
ファンという実態の見えない相手ではなく、手の届く範囲にいる――仲間の期待を。どんな形でも。
「面倒って……草食系だねー」
「肉食ですよ? ただ、慎重なだけですけど」
「もっと恋って、シンプルに考えるもんじゃないの?」
「シンプルで失敗すりゃあ、慎重にもなりますよ」
そういうこの人自身はどうなのだろうか。
相手が、自分の師匠ということもあり――あまり下世話な想像をしたくない部類に入る。
ただ、この人もこの人で色々あっただろうし……よほどタイミングが悪くないかぎりは、いい歳した人間なら経験ぐらいあるだろう。
小鍛治プロ? ……聞こえないな。
「つーか、こんなしょうもないことを聞いてどうするんですか?」
「あー、まあね」
「俺にどんなことを求めてるのか、判りませんよ」
師匠に恋愛観を質問されるとか、一体どんな拷問なのか。
男同士で盛り上がるとか、合コンや酒の席はともかくとして――師匠相手である。
ただ異性ならともかく、師匠だ。
目上の人とする話題ではないのでは……と思わざるを得ない。プライベートな話なのだ。
「いや……上の空で、考え込んで悪い方に入ってそうだったからさ」
「……」
「ちょっとは気分転換になるかな――と思ったんだけど、駄目?」
――。
「……駄目ですね。全然駄目です」
「そっかー、ごめんごめん! 変な話を聞いちゃって、悪かった」
「今、惚れ直しそうになるぐらいには駄目でしたね……師匠の癖に」
「え、ちょっと待って!? というか然り気無く私のこと馬鹿にしてない!?」
やっぱり、本当に敵わないんだよ。
この人たちの、こういうところに。
「……さあ、知りません」
「まあいいや……とりあえずもう一回言ってよ。瑞原プロと小鍛治プロに音声送り付けるから」
「命を大事にして下さい! 二重の意味で!」
なんて悶着があった末に、師弟ともども牌を握れなくなったらどうするのだという結論に至って、終了。
相手が気の毒というより、藪をつついて人間大のクロカタゾウムシに殺されるのは恐ろしかったのだ。
間違いなく、血涙を流しながら襲いかかって来るだろう。勘弁してくれ。
たったひとつの音声が原因で、再起不能者が四人――。
ちょっと洒落にならない大惨事である。
「それにしてもやっぱり、誰かと話す前と後じゃ大違いだね」
「人は一人じゃ、生きられないってことっすか?」
「というよりも京太郎が、舞台役者気質だってこと」
どういう意味だろうか。
軽く首を捻ってみる。
「自分一人じゃなくて、誰かの為だと……誰かに見られてると思うと、張り切っちゃって良くなるタイプ」
「格好つけで、目立ちたがりやってことですか」
「それもあるけど、ただ目立とうとするって言うよりは……自然と動きが良くなって結果目立つ、って方かな」
そんなもん、なのだろうか。
自分の中では――ある程度の浮き沈みや意図的に振る舞うときはあっても――それ以外では基本的に、
大して変わらないものだとは思っているが。
「まあ、それのせいで気負いすぎて悪く入ることもあるかと思ってたけど……大丈夫そうだね」
「師匠にそう言って貰えたら、安心です」
「私の方も、灼とのことがどうなってるか心配だったけど……安心できた」
それじゃあと、缶を付き合わせて互いに笑いあう。
なんというか確かに、気分が晴れたのは事実であり――そういう気っ風の良さは、流石赤土晴絵だった。
傾けて流し込んだ缶を、ゴミ箱に放る。
スリーポイント。気分がいい。
「それじゃあ師匠、お仕事頑張ってください」
「そっちも、仕事……仕事……ボウリング? 頑張ってね」
最終更新:2014年05月02日 08:42