「……それで、今日、シンがさ!」
フットサルの試合で大勝したらしい。それを誇らしげに、身振り手振りを交えて大げさに喋っていた。
やっと笑顔らしい笑顔が戻ってきた。その事は、本当に嬉しかった。
男友達というのはこういう時に羨ましい位置関係にある――と思う。
「そういう京太郎はどうだったのよ」
「いや、まあ……間違えてバックパスを手でとっちまったんだよな。うん」
「何やってるのよ。バカ」
申し訳なさそうに頭を掻く。その仕草は以前とは変わらない――そう、夏前に起きたあの事件の前と同じ。
一時の表情に比べれば、だいぶマシになった。
やはり、見ていて気分がいいものではない。
そして彼がその顔を、なるべく近しい者たちに見せないように笑顔の仮面を被るということが――それを行わせているという事実が、何よりも悲しかった。
今彼は、純粋に楽しいんでいる。楽しんでいた。
何があったのだろうか。
聞きたいが――そこに踏み込んではならないという意識が働く。
ただ、彼は視力の低下に悩まされていた。それ故に、着実に一段ずつ進んでいた成長の登り坂を、急激に駆けのぼろうとしたのはそのあたりか。
目が視えなくなっても、戦えるように――などと言って「エコーロケーション」(一か月ほどの訓練で使えるらしい。彼は春休みを利用していた)を覚えようとした。
その時は、「それで麻雀できたら人間やめてるわよ」と茶化したが……彼の気持ちは判った。
彼は麻雀が好きだった。そして麻雀に関して――約束していたのだ。憧の親友と。彼の元・恋人と。
彼は壁にぶつかってしまったのかもしれない。
そして、板挟みになった。
強くなりたいという理想。かつての恋人と交わした約束。そして、現実と。
だからこそスランプで――こうして麻雀から遠ざかっているのかもしれない。
かつて自分の師匠(に当たるのだろうか?)がそのような経験をしていただけに、もう少し様子を見るべきかと思った。
しかしそれにしても、麻雀部に顔を出さないというのは――些か、スランプの枠を超えている気もしなくはないが。
そのあたりの義理や気遣いはできるはずだ。
不用意に心配させることに――だから就活などで忙しい先輩たちはこうして憧に様子を聞くように頼んだ――思い至れない彼ではない。
少しスランプだから部活に顔を出さない。
それぐらい、一言あってもおかしくはない……筈なのに。
「ありがとな、憧。ご馳走様」
「お粗末様……どういたしまして」
丁寧に茶碗を重ねて、手を合わせる彼の笑みに息を漏らす。
こうして人に振る舞える程度の腕になったのは、実に喜ばしく誇らしいことである。
一応は憧も――というかかなり女子らしくすることに気を遣っているので、やっぱり手料理の一つくらい振る舞えるのは必要最低条件であろう。
一年生の間は、正直料理に関して彼に頭が上がらなかった。これはもう――色々とよろしくない。
まず、癪だ。超癪だ。すっごく癪だ。
男子に負けるとか論外だし、それが京太郎だということはましてやもう論外甚だしく、これを論外以外の言葉で呼ぶことなどできまい。
だって――こう、片思いの相手に、料理でこき下ろされるとか悲しすぎる。
彼は勿論、こき下ろしはしないだろうが――全くの善意でアドバイスをしてくれるだろうが――まあ、お調子者なので、ひょっとしたら若干上から目線で来るかもしれない。
そうなったら自分は、間違いなく彼に対して毛を逆立てて反論するだろう。
で、売り言葉に買い言葉。止まらない流れで彼と言い合い――になってしまう。
やってるときは、ただ怒りで頭が一杯になってしまうけど……やっぱり。嫌われたくない。軽く自己嫌悪に浸るのも、まぁしばしば。
「コーヒー入れるけど、豆は……」
「あ、ありがと。いつものでいーわよ」
「了解了解。キリマンジャロな……コーヒー気に入ったのか?」
「ま、一応はね? 紅茶の方が好きだけど」
「そういや部活の休憩中は、紅茶だったっけ……紅茶か」
「何?」
「いや、別に」
「何よ」
口を尖らせてみた。彼は微笑む。
ここだけ、部活の最中に戻ってきたみたいだ。この分では、彼が部活に復帰するのは遠くはないのかもしれない。
一応、そのあたりの話題は出さないようにしている。……彼が言い出してくれるまで。
我ながら、中々に尽くす女だ。
もしこうして京太郎に思いを寄せてなければ、新入生歓迎会なんかで言い寄られて、そのまま流されて、挙句貢ぐ女になっていたのかも――しれない。
おかしいな、と思う。
彼とは――京太郎とは対等な関係で居たいと思った。だからこそ、張り合ってしまうし、喧嘩気味になるのもしばしばだ。
ひょっとしたら、悪い男に引っかかってずるずると関係を続けてしまうこともあり得たのかもしれないと思うと、ぞっとしない。
そういう意味で、姉の懸念は尤もだった。
「いっそのこと、喫茶店でバイトでもしてみたら?」
「うーん、練馬の方によさそうな店はあったんだけど……」
「へー。なんて店?」
「『あんていく』……だったか。なんかそんな感じの店」
「ふーん? で、バイトしないんだ。よさそうなお店なのに?」
「いや……なんつーかコレ、やっぱ趣味だからってのもあるんだよな」
知っている。
彼は、コーヒーを淹れると癒されると言っていた。その味や香りどころか、抽出という所作も好きなのだろう。
だからきっと、仕事として慌ただしくやるのは好みではないだろう。
……そう。だから、都度都度彼にコーヒーを淹れて貰っていた。そうしたら彼が落ち着くという理由も確かにあった。どころか、その理由の方が大きいだろう。
まぁ、嘘は言っていない。
確かに彼の淹れるコーヒーによって、今までのブラック=苦くて飲めたものではないという意識は消えた。
苦味よりも酸味寄りで、香りが強いその豆は、苦手意識の緩和に役立ってくれた。
ただ、京太郎以外が淹れたコーヒーをこれほどまでに飲むかと言われると、別の話だ。
「憧ー」
「なーにー?」
「良かったらさ、この間言ってた水族館行ってみないか?」
「どうしたの、急に」
「んー、いや……シンの奴が、デートで使ってみたいって言ってたから……」
「お友達の為? まー、あたしは構わないけど……それってどうなのよ」
「いや、悪い。奢るから付き合ってくれよ」
「……う、も、もう。仕方ないわね」
そんな形でも――彼と出かけられるなら、いいだろう。
……なんて。
我ながら実にちっぽけで、みみっちい恋心だ。餌を与えられた猫みたいに、嬉しくて擦り寄ってしまう。
都合よく利用されているようなものだと、誰かはきっと言うだろう。
でも――これでよかった。
だって京太郎は、穏乃の恋人で……きっと今も穏乃のことを思っていて、それがあるから麻雀でこれほどまでに悩んでいるのだ。
だからきっと、今自分が恋心を告白しても――彼にそれを受け入れるだけの懐はない。
何より、彼を追いつめたくない。余計なものを背負わせたくない。
報われないとか、馬鹿馬鹿しいとか言われるかもしれないけど――でも、これでよかった。これでいいんだ。
――そう。そう思っていた。つい、この瞬間までは。
つけたままにしていた、テレビのアナウンサーが暢気な声でそう漏らした。
その一瞬。
その、須賀京太郎の顔。
恥じ入るような、諦めるような、羨むような、悔いるような、謝るような――そんな表情。
「ねえ、京太郎」
「ん?」
「聞いてほしいことがあるんだけどさ……」
だから――魔が差した。
「実はあたしさ、フラれちゃったんだよね」
「え」
「あはは、あたし……駄目だったみたい。これで失恋――――って、なんだかガックリきちゃった。悲しいよりも、なんかさ」
「……」
押し黙る京太郎を見て、勝ったと――そう思ってしまった。
何が理由かは判らないが、彼は相当に傷付いた。傷付いてしまった。
だったら、それ相応の傷を見せてやればいい。
今は余裕がなくなっているから、以前のごとき気遣いは期待できないだろうけど――――。
自分と同じような傷を持ったものがいるならきっと、彼はそれを放っておけない。
「ねえ、京太郎」
「……何だ?」
「あんたに……相当辛く当たっちゃってたけど、やっぱりあたしって……女の子としての魅力、ないのかな」
だから。
嘘の傷を晒す。偽りの怪我を見せる。幻の痛みを告げる。
それでよかった。――もう、狡い女でいい。親友を裏切る女でいい。最低の女でいい。
京太郎は、渡さない。あんな顔はさせない。させるぐらいだったら――――だったら、自分が貰う。自分をあげる。
「……いや、そんなことないだろ! 憧は、十分女の子してるって!」
「あはは、ありがと……。お世辞でも、嬉しい」
「お世辞……じゃねーよ。お前、だって、色々服とかに気を遣ってたのってそいつの為で――」
「別にいいわよ。だってあたし、もう、フラれちゃったから」
現に彼は、自分の痛みを忘れた。
そういう優しい男なのだ。そう、自然に立ち直ることを期待するなんて――そんなのは間違ってた。
こうして、自分を出せば。出まかせを教えてあげれば。法螺をいくらでも吹いたのなら。
彼は立ち上がれる。
何よりも手っ取り早くて――――これが一番、いいのだ。
もう、知らない。何があったっていい。
須賀京太郎を諦めない。自分の心を焦がす炎を消してはやらない。この熱を、溢れ出るほどの熱を伝えてやる。
自然と吐息が湿った。
唇が火照り、首筋を焦燥と緊張と期待が駆け上がり、乾いた痺れを齎した。
このまま、もう止まらない。思いを止めてやる訳なんてない。
「それに……元々、上手くいく訳なかったのよね」
「憧……」
「だって、あたし――――何年も付き合いあるあんた相手でも、こんな感じだからさ。……付き合っても絶対、駄目だったに決まってるじゃない」
「そんな言い方、よせよ。その、フラれたのには何も言えないけど……でも全部が駄目だったって、そんなの……」
「いいわよ、慰めくれなくても。あたしが一番判ってるからさ。……あんた相手にこれなら、絶対無理だって」
「憧……!」
彼がキッと瞳を向けて、拳を握るのを確認した。
――ああ、そうだ。止まってなどやるものか。
このままどこまでも、行ってやる。進んでやる。諦めてなんてやらない。
「じゃあ、京太郎は――あたしのこと、可愛いと思ってくれるの?」
言葉に詰まった京太郎に、申し訳なさそうな顔をする。
だけどもこれは、演技だ。
そして――彼の心を誘導する。彼の言葉を誘発する。彼の思考を支配する。
今の彼はどん底に居た。
だからこそ余計に、彼は痛みに敏感だ――自分の痛みにも、他人の痛みにも。
こうして憧が痛みを見せたのなら、彼は測ってしまう。憧がどれほどの辛さを抱えているのか、自分に照らし合わせて考えてしまう。
「そんなこと、ないぞ。……その、俺だって、結構お前のこと、意識してたし」
「へー、そうなんだ。初耳ー」
コーヒーを淹れる、エプロン姿の京太郎に迫る。
彼の揺れる瞳と視線を交えて――――内心嗤って、目尻に涙を浮かべた。
そして自分の目が潤んでいないことに気が吐かないフリ。なおさらに京太郎の瞳が動揺を湛え、見開かれた。
「だったらさ――あたしのこと、抱いて?」
「なっ……!?」
「だって、可愛いって思ってくれるんなら……駄目?」
「でも、お前……そういうのは、俺じゃなくて……こんなのは……」
「……駄目なんだ。そっか」
「……ッ」
「いいわよ。ごめん、変なこと言って――――忘れて? ……ごめんね、京太郎」
そう言って、背を向ける――だけど結果は知っている。
京太郎はきっと何だかんだ、憧がこうして構っていたことに安心を感じていた。居心地が良いとは思っていた。
今更、受け入れられないはずだ。
憧が離れてしまうことに――――変に友達に迫ったから、その気まずさから、憧が顔を合わせぬようにすることに――――。
彼はきっと、耐えられない。
「……憧」
「……何、京太郎?」
「……ごめんな。でも――――」
後ろから彼に抱きしめられた。
これでいい。
今はただ、慰め合うという――そんな関係でいい。
偽の恋人にすらなれない、嘘が発端の関係でも構わない。
彼の身体と心を――自分と重ね合わせて、あとはそのまま結び付けていくだけでいい。
狡い女だって構わない。
――了
最終更新:2014年05月31日 18:28