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  ◇ ◆ ◇




   ……いつかは、戻って来てくれると信じましょう。どんな形でも。どこかで。


                             ――麻雀プロ 花田煌、「月曜嫌でしょうもういいでしょう」収録にて



  ◇ ◆ ◇





 いつも通りの公園。季節は冬に移り変わった。

 俵型のおにぎりを黙々と口に運ぶ少女を見ながら、京太郎は考えた。頭を巡るのは以前彼が少女から投げ掛けられた質問。

 ――麻雀をやるのか。

 その質問を、一度は否定した。しかしそれが少女が求めていた答えなのか。果たして。

 ひょっとしたら、彼女なりのコミュニケーションの手段ではないのだろうか、麻雀とは。

 得てして麻雀が得意な人間は、コミュニケーションが乏しかったりする。一部であるが、他の競技に比べれば多い気がするものだ。

 彼の知り合いだけでも、顔面表情筋が機能してない文学少女に、やたら方向オンチで内弁慶な文学少女、中二病を拗らせたような傲岸不遜な文学少女――。

 ……。

 ……ひょっとしたらコミュ障を生むのは文学なのではないだろうか。服毒、割腹、入水と作者もアレ揃いであるし。

 ……ひとまず置いておこう。

 兎に角この少女も、実は麻雀を使ったコミュニケーションが得意な輩に位置するのではないか。彼はそう当たりを付けた。

 ならば、あの「いや俺麻雀とかツイてないから無理っすわ。あとアイツら暗いよね。犬の匂いしそうハハハ」――とも聞こえない返答はよろしくないのではないか。

 寡黙なりに、勇気を振り絞ったとも言えなくもない。

 であれば、もしそういう意図ならば打つと言うのも悪くないのではないか。

 視力の関係から以前がごとき闘牌は不可能であるが、手慰みとあればそんな気負いは必要ないだろう。

 ならば、どういうつもりだったのか訊いてみるのも悪くないかな――と、京太郎は一人頷く。


「なあ、聞きたいんだけど――」


 そこで、彼の言葉は区切られた。

 少女の目。恐慌と絶望が混じった目線に、京太郎もその先を負う。


「返せ……俺の……返せ…………!」


 公園への闖入者。

 見開かれたまま、止まる少女の眼差しに――或いはそれを認識しながら、京太郎は立ち上がった。


「あんた、それ……」


 京太郎も同じく、驚愕を隠せなかった。

 オールバックの男のその手には、刃渡りが十センチを軽く超えるナイフが握られていたのである。

 彼としても、臍を噛む思いだった。

 自分一人ならば、迷わず走って逃げた。フィクションの――撮影の中ならいざ知らず、ナイフなど相手にした事がない。

 正直逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながらも――後ろに誰かが控えている状況で、京太郎は退ける男ではなかった。

 故に、こう笑う。


「大丈夫だ、いい子で待ってろよな」


 少女の頭に手を乗せて、京太郎は鷹揚に零して前を見据えた。


「一応言っとくけど……それ本物なのか? ……だったら、ここらで止めといた方がお互いいいんじゃねーのかな、うん」

「俺の“特性”……返せよ……! クソガキが……バラバラにしてやる……!」


 聞く耳持たず。

 武器は捨てず、歩み寄る男。

 京太郎は舌打ち一つ。奥歯を噛み締める。

 その瞬間に、彼の全てが加速した――。

 視界が広がり、遠ざかり、視界そのものが京太郎と化す。

 意は必要なし。意より先に肉体が反応する。潜り、浸り、酔いながらも俯瞰を行う超然的な感覚。


 武道に於いて“心・技・体”がその肝要として語られるのは理由がある。

 大事なのはこの順番。とりわけ、心が重要視される。

 一つの意味としては、得てして武を修めた人間というのは乱暴になるから。己の研いた拳を、足を、肉体を――その技を試し何かを破壊したいという欲求を懐くようになるから。

 故に戒める。故に歯止めかける。

 武という牙を持った獣を野に解き放たぬ為に、その心に鎖を付けるのである。

 しかし、真は異なる。そんな、聞こえ良く利他的な道徳ではない。

 武が道に変わる以前の術でも心が重視されたのは、とりわけ戦闘の為。勝利の為。生存の為である。

 軍隊に於いての徒手格闘の主とは、素手で相手を破壊し無力化し制圧する事などではなく――“全ての武器を失ってもまだ自分には戦う手段がある”と安心させ、それを冷静さに繋げる為。

 武の言う心は、技と体を支配する。

 恐怖を感じ腰が引けば、反応は遅れ、威力の乗らない一撃となる。

 気持ちが急いて前のめりになれば、術理は無視され、攻撃の隙が大きくなる。間合いを測り間違える。

 近代での武道が、武器を相手にしないのはこれが所以。

 鍛え上げた肉体なら殺傷に至らずとも相手の無力化は十分に可能。痛みを味わわず一切の鍛練を経ない素人の肉体など、どの攻撃でも制圧できる。

 相手はその手に握った刃物だけが必殺の武器であるが、武芸者はその全身が必倒の兵器である。手数からもコンビネーションからも、有利なのは武芸者。

 だが、練習と実戦は違う。

 それに加えて刃物という、明確なる害意と傷害の化身である。

 これを目の前に“心”が崩れぬ事はなく、その僅かな隙さえも致命に変えるのが武器であるから――まず徒手で得物相手はしない。


 だが――“心”が満ちたなら?


(――)


 没頭する。あらゆる事に没頭しない状態へと没頭する。

 瞬時に認識し、瞬時に理解し、瞬時に分析し、瞬時に思考する――そして意識を超えて繰り出される攻撃とそれを可能にする修練。

 呼気を一つ。相手が一歩。須賀京太郎の思考が沈む。

 沈黙を一つ。踏み出された左の足。距離が詰まる。京太郎の両手がアップサイドに動き始める。

 吸気を一つ。いよいよ相互は一歩と同時に攻撃の場所へ入る距離=間合い。京太郎の両肩が持ち上がる。


 ――瞬間。


「――」


 腰だめに構えられたナイフ。血走らせた目。白くなった指先。直進する肉体。乱れたオールバック。

 京太郎の右足が外を向いた。軸足、膝が伸びる。全く同時に回転する腰。放たれた左回し蹴り。

 直撃の瞬間、膝が曲がる。落ちる重心に従い、鞭の如くしなる左足に体重が乗る。相手の右大腿で弾けた。

 しかし止まらない。

 膝を曲げたのは次撃の為。この蹴りはムエタイの蹴りではない。ムエタイの蹴りは膝を伸ばして軸として撃ち抜く蹴り。

 大腿の筋繊維を破断させる感触と、人体でも有数の筋組織集中箇所を蹴り付けた反動が合わさりつつも、既に応力で京太郎の足は準備を整える。

 痛みに――衝撃に、無意識の内に丸まる相手の身体を認識しつつ――京太郎の考える視界は判断を下した。

 これで、ナイフが隠れた。


 無防備に開かれた体と、均衡を失った肩口――――目掛けて左の一撃。直撃。引き戻して更にステップ=軸足をそのまま、突き入れるかのごとき左の横蹴り。

 縮まった胸骨目掛けて叩き込まれる左の踵。足首が引き絞られ、さながら三日月を描く左足が無慈悲に男の肉体を弾き飛ばした。

 骨に直接響く破砕音。

 初めからそうなる事が運命づけられていたかの如く響く、乾きつつも湿り気と質量を感じさせる異音に――視界が脳と化した京太郎は片隅で男の骨を砕いた事を知った。

 胸を開いて、天を仰ぐ男。受け身も取れず、後頭部を強打した。


(――って! やべっ、これッ)


 途端に、京太郎の頭が冷えた。雑念が脳を支配し、集中が途切れる。

 打撃そのものによって、例えば重機や弾丸めいて人体を破断させる事は極めて難しい。衝撃力が拳銃弾に並ぶほどの殴打だとしても、直接人体が千切れ飛ぶ事はない。

 だが、人は素手で死ぬ。素手で殺せる。

 そんな凄まじい威力の超一級のプロの拳を持たずとも、ただの素人の揉み合いですら人は死ぬ。

 これは外傷が積み重なる事による内出血過多での出血性ショック死もその内に含まれるが――一番の理由は頭部。

 頭部打撲による骨折や、頸椎損傷によるものが素手の大きな死因である。

 他の動物に比べて卓越した頭脳を持つが故に、そしてそれを外から守る為に発達した脳と頭蓋骨の重量は凄まじく――。

 倒れた際はこれらに遠心力が加えられ、更には梃子の原理宜しく加重される頭部は、そのものの防壁や頸椎へと多大な衝撃を与える。

 或いは外は無事でも、内部だけに響く。急ブレーキを掛けた電車とその乗客がごとく。

 つまりは戦闘に於いては無防備な転倒こそ避けるべきもの。攻撃する側もされる側もそうだ。

 だからこそ、まず受け身が重点される。


 京太郎の背筋に冷や汗が満ちた。

 打ち所が悪ければ、死亡しても不思議ではない。それ位、人体は脆い。

 相手は刃物を持っていたから急迫した不正な侵害であるが――――そんな理屈ではない。

 彼は恐怖した。冷血漢でもなければ異常者でもない。罰の如何に関わらず、人間は元より同族殺しに向いた生物ではない。本能的な警告が、脳の大半を占拠する。

 しかし、


「ブッ……殺してやる……クソガキ……!」


 痛みもない。正気もない。京太郎も眼中にない。

 どこまでも狂気に染まった膝立ちの男が、ゆらりと身体を起こす。

 血走った目は黄に染まり、無精髭には雲脂が散り、口角には泡が満ちる。尋常ではない。

 薄ら寒いなどと言うものではない。これほどまでの異常な執念を前にするのは、京太郎も初めてであった。


「マジ……?」


 それはプロの舞台での、ある種清涼感ある決闘に掛ける覚悟ではない。ただの妄執。自分の破滅を考えない、まるで動物的ではない――人間のみが持ちうる漆黒の狂気。

 たじろいだ。

 その石火の間、男の体が視界一杯に広がる。横薙ぎにされたナイフ――京太郎の顔面目掛けて襲いかかる。



 ――だかしかし。

 どんなに狂った相手を前にしても、変わらない。何が男の背後にあったとしても、止める。人に刃を向けるような危険人物は無力化する他ない。

 一瞬で切り替わる意識。

 いや、一瞬であったから良かった。余計を考える余地なく、京太郎の肉体は応戦した。

 京太郎の目玉に向けて閃く白刃。視界の右から左に奔る剣閃。重傷を避け得ぬ斬撃。

 だが、京太郎の肉体は冷静だった。

 常人ならば言うまでも閉じてしまう瞼を閉じず、僅かに口から吐息。それに先んじてか並んでか――行われる左前方へのステップ。

 刃が振るわれるより先に、逃げた京太郎目掛けて照準を修正しようと開いた男の体へ、痛烈な右ミドルが叩き込まれた。

 男の背筋が、不自然に伸びた。

 それを尻目に足を引き戻し、バックステップ。両手をハイアップにした構えへと戻る京太郎。


 京太郎は止まった。だが、男は止まらない。

 男の右手のナイフが、再度、力を込められて襲いかかる。京太郎の心臓を目指す直突――だが貫けず。

 勝ったのは頭部への左の肘打ち。腰を勢い良く回転させて力を伝えた肘――ティー・ソーク・トロンが男の後頭部で炸裂した。

 行ったのは単純。

 ナイフが突き出されると同時に左前方へステップ。左足が前に位置する半身の、彼の右腕の甲側がナイフを持つ腕を側面から弾いた。

 そのまま開けた後頭部に左肘が打ち込まれる。だが命中の感覚を得ても京太郎は止まらない。

 手の甲を晒していた右腕が翻る。即座に男の右手首をホールドし、上方へと引き上げる。

 まるで同時、右回転。

 腰と連動して足が一歩外へ開き下がる。

 攻撃から構えに戻ろうとした左腕が再度加速。彼の頭を跨がせた男の右腕の付け根、脇を潜り通り、右と同じく男の腕を担ぎ上げる一員に。

 そこで――勢いよく、男の腕を己の右肩に叩き付けた。

 掌を空に向けた形に腕を取られていた男の、肘が極められた。

 逆関節。靭帯と筋繊維が不自然に伸び、肘関節が反らされる。繋がる男の右肩も苦痛に前のめりとなり、腰が釣られた。

 開いた指に、ナイフが零れ落ちた。それを認識した京太郎は――咄嗟、男の腕を手放し、前方へと潜るように跳んだ。

 視界が迫る。近寄る地面に、両手のハンドスプリング。空中で身体を捻り付け、両足を前後反転。そのまま着地。

 飛び込み前転からの空中半捻りで着地した彼の――その背中のシャツが破れて、肌が露出した。


「……バトル漫画かよ、これ」


 冗談じゃねーぞと、小さく呟く彼の顔色は渋い。

 右腕を極めて制圧を試みるそのときに、相手は痛みに構わず隠し持っていたダガーナイフを突き出したのだ。

 間一髪、薄皮に触れたそれに気付いた京太郎は回避した。そうして、このような運びとなる。

 尋常な肉体ならば、更に関節への攻めを強ればナイフなど使う余裕などなくなる。でなければ技として――特に成立からして戦場から生まれたそれなら――片手落ち。

 だが、男は――恐らくは薬物などの影響だろう――痛覚が鈍い。彼は、それよりも確実な回避を重視したのである。


「やりにくすぎだって……!」


 ナイフ、それ自体も面倒である。面倒であるが、腹さえ据えてしまえば問題はない。

 しかし、ここで相手が碌に鍛えていない素人というのが災いした。京太郎の本気の攻撃を与えれば、間違いなく致死するのである。

 だが本来なら、殺すつもりの攻撃でなくとも制圧には十分。彼の前蹴り一つで、大方は痛みに踞り沈黙する。

 そこで主となるのが――このタフさだ。

 薬によって痛覚が鈍化した相手では、その安全な一撃が通用しないのだ。


「……お気に入りだったんだけどな、これ」


 吐息を一つ。

 力を込めてコートを抜いてシャツを引き裂き上半身を肌蹴る。

 露になる、ギリシア彫刻のごとき肉体美。いや、それには劣るが搾られ引き締まった闘士の肉体。数多の古傷が目立つ、戦士の身体。(……なおスタントを用いない撮影による)

 呼吸。

 左に握ったダガーナイフを右肩近くに掲げあげて直進する男目掛けて、放るように投げ付けられた上衣。冬の寒空に、オフホワイトの花が咲く。

 視界が遮られ俄に動きの鈍った男の人中を――コート越しに打ち抜く京太郎の左拳。

 稼働部の多い首が、頭部への打撃に釣られた。

 顎が首に触れ、頸椎の後部が伸びる。さながら助走を付けて固定された棒に激突したのに同じ。

 頸椎の駆動に脊椎が流され、腕が前に投げ出され指先が力を失う。ナイフを持つ左手が游いだ。

 京太郎は待たない。

 反動も加味されて引き戻された左拳が開き、男の首を掌握。

 同時に繰り出された右手が、ナイフを持つ男の左腕を跨いで左肩から首裏へ。


 そして――


「噴――ッ」


 ――ゴッ・コー・ティーカウ!


 所謂膝蹴り。首を掴んで行うそれだ。

 最早、ここに来て――痛覚が鈍いというのは何のアドバンテージにもならなかった。

 爆裂する膝。男からしたら、腹部で鉛の爆弾が弾けるに等しい衝撃であった。

 引き寄せ、寄りかかり、掴み寄りながら打ち込まれる京太郎の右膝。男の筋肉を打ち抜き、内臓を貫き、脊椎まで直進する衝撃の杭。

 痛みがなくとも、男は生きていた。生きる以上、酸素は必要であった。

 ――だが、それを奪われる。

 曲がる上体、縮まる腹筋。突き出された顎と顔に位置した血走った両目が飛び出さんばかりに漲った。

 歪んだ上半身に圧迫される肺腑は空気を搾りだし、挙げ句骨髄を粉砕し筋肉を断裂し内臓を圧殺せんばかりの圧力が加わったなら――痛みの遺憾に関わらず、酸素を失い動きが止まるのは必然。

 そのまま、ナイフが力を取り戻すよりも早く。


「寝てろよ。な」


 身体を反転させられた男の首に、須賀京太郎の腕が巻き付いた。

 外せない。外せる筈がない。一切を間に挟まぬ、文字通りの裸絞めであった。


「……ふう」


 二秒後、男の視界は暗転する。



「寒っ、これ寒過ぎだろ!」


 確かに寒いが、それよりも気掛かりな事態がある。

 色々と刺激が強すぎる映像を、少女に見せてしまった。その他にも幾つか――と、少女が座る筈のベンチに顔を向けた彼は、


「……あれ?」


 そんな視線の行き場を失い、顔に乾いた笑みを張り付けた。虚しい空笑い。

 そのまま京太郎は、引き裂かれた上着を手に警察が来るまで呆然と立ち尽くした。

 駆けつけた警官に不審者と間違えられ拘束されそうになり、更には女刑事に「この男に押し倒されたら生むことになる」とか思われたとか思われていないとか。

 結局老刑事に「オカルトスレイヤー、うちの娘がファンだったんだよ!」とサインを求められて解放された頃には、夜半となっていた。

 夜風は冷たかった。



「……なんだったんだ、あれ」


 流石に上半身裸で返すのは不味いという事で受け取った白いコートを羽織ながら、京太郎は眉を顰めた。

 思い返すのは、先ほどの襲撃者。ナイフを振り回したあの男。

 薬物反応が出た為、それが落ち着いてからの取り調べとなるが――おそらくそれより先に医療刑務所に送られるだろうと、刑事は苦く漏らした。

 熊にでも襲われたのかと向けられる冷たい目に、ただただ彼としても申し訳なさそうにするしかなかった。

 ただし、相手が重度の薬物中毒であり、さらには凶器も所持していたと言う事でそれ以上の咎めだてはなし。

 取り調べに時間は掛かったものの、彼も無罪放免でお役御免だ。

 殺しや破壊が前提の古式ムエタイの技こそ使用には至らなかったが、刃物相手で痛覚がないという事で京太郎としてもギリギリの戦いになった。

 手加減の余裕はなかったので――死ななかっただけ、御の字である。心底、肝が冷える思いだった。


 ……それにしても、と。


「……」


 あの尋常ではない男の様子。明らかに狂っていた。

 何よりも、あの男は京太郎を眼中に入れずに襲い掛かってきた。

 しかし、ただの通り魔というには――戦闘の高揚と緊張に拙い記憶を思い返せば、言動にいくつか引っかかりがある。

 重度の薬物中毒、襲撃者の言動、いつの間にか居なくなった少女――。


「よ、京ちゃん」


 突然物陰から掛けられた声に、戦闘態勢を取った京太郎は――やれやれと胸を撫で下ろしつつ、構えを解いた。

 シゲと呼ばれる老人が、口角を吊り上げた不敵な笑みで佇んでいたのである。口には咥え煙草。

 もう幾度目になろうかと、路上喫煙禁止を伝えつつ京太郎は疲れを零した。


「珍しいところから出てくるなんて思わなかったぜ」

「……それ、俺の台詞です。幽霊みたいに出てこないでくれよ」


 その気配からして死線にほど近いシゲの雰囲気は、彼としてもどうにも慣れない。

 日中ならば然程でもないが、夜間に……ましてやこんな風にいきなり姿を現されて、嬉しいという事はない。


「随分楽しそうな事をしてたみたいじゃないか」

「……裸コートが楽しい訳ないですからね」


 脱げばすぐ下には、数多の傷が刻まれた精悍な肉体。

 流石に、冬の気温には向いていない。レイヤーなんて概念はない裸レイヤー。オカルトスレイヤーがオカルト裸レイヤーとか洒落にならない。

 ……どこかで「ふきゅ」という声が聞こえた気がしたが、まあおそらくは空耳であろう。

 また別に日本の南の方の暴力と暴力団とロケット弾とアサルトライフルが渦巻く修羅の国から、「裸コート!?」と睫毛が長い小悪魔系レズ痴女の声が聞こえた気がした。

 ……きっと空耳だ。

 脳で残響する骨に直接伝わるような相手の骨髄の破砕音を、彼が聞き間違えたのであろう。


「……」


 しばしの沈黙。思案顔。

 やがて、京太郎は正面からシゲを見据える。

 彼はシゲについて詳しい事を知らない。ただ、麻雀を打つであろうという事とそちらの業界――とりわけ裏――に精通しているだろうという事。

 そして、この亡霊じみた気配。然るに命のやり取りが一つや二つではきかない位の経歴の持ち主であろうと言う事。

 それぐらいだ。


「なあ、シゲさん。……オカルト喰いについて、なんか知らないか?」


 深刻さを孕む京太郎の口調に、シゲは笑いを零した。

 嘲笑めいてもあり、喜色ばんでも居る――そんな吐息であった。


「京ちゃんから麻雀の話か。……明日は雨か?」


 ああいや、この寒さなら雪かも知れない――なんて囁きを零すシゲに向けられた京太郎の双眸は厳しい。


「茶化さないでくれよ。……何か知ってたら、教えて下さい」


 外見とか、経歴とか――そんな重要な事でなくとも構わない。

 兎に角、彼の内で高まりつつある疑念を殺せる材料ならば、それでよかった。


「情報か……そうだな、その魔法喰いってのは――まあ大方のオカルト関連と同じで、女だ」


 すっ、と――彼の顔面から血の気が引いた。

 寒いのは、この夜空の所為だけではあるまい。


「次に……ああ、そいつは餓鬼だってな。成人もしていないような」


 徐々に、胸が早鐘を打つ。

 こうも冷えると言うのに、何故背中に汗が滲むのだろうか。


「それで……まあ、人様の心の底に根付いた魔法を喰ってるんだ。恨まれてはいるだろうな」


 京太郎の掌が湿り始めた。

 それを認識すると並んで、首筋と胸元を覆う焦燥感。肩に力が入った。

 やはりという思いと、同じだけ湧き上がるまさかという願い。

 彼の視界が徐々に閉じ始めているのはきっと、その身に抱えた爆弾が理由ではないだろう。


「それで……そいつの両目に魅入られた奴は、魔法を喰われるって話だ。――こんなところだ、京ちゃん」

「……両、目?」

「どうかしたのか?」

「いや……両目なんだな!? なんだよな!?」


 思わず襟首を掴まん勢いで詰め寄る京太郎に、シゲは両手を泳がせる事で抵抗した。

 健全な成人男子であり、しかも格闘技を十二分に修める京太郎の膂力で締め上げられたら、このか細い首など折れかねない――。

 そんな風にアピールをするシゲの様子に冷静さを取り戻した京太郎は、両手を膝に当てて息を吐いた。


「……いや、悪い、シゲさん。ちょっと慌てちゃっててさ」

「それならいいが……聞きたかったのはこれで全部か?」

「ああ……。……、いや、もう少し詳しく訊けたらもっとよかったんだけど」


 未だ解には至らず、歯切れの悪いものを残す京太郎。シゲは、やれやれと肩を竦めた。

 ややあって、口が開かれた。


「被害に遭った賭場の場所だけなら、教えられるけどな……」


 無論、彼がそんな言葉に飛びついたのは言うまでもないだろう。

 少しでも、情報が欲しかった。どんな形でも――どんな形だとしても。

 この時の京太郎は、焦燥に平常心を失ってしまっていた。




 ――故に。


「おら、何モンなんだてめえ!」

「……だから、ただ、噂を……耳に、した……だ、け……だって」

「まだ言うってのか?」


 おい、と男が顎を向けた。

 その途端に、京太郎の脇に立つ男が――彼の金髪を乱暴に掴んで、押し下げた。

 広がる気泡。揺れるドラム缶の起こす不協和音。必死にもがこうとする両手を、それぞれ二人係で抑え込む黒服の男達。

 幾度目になろうか。京太郎の顔は、再び張られた水へと潜った。既に前髪は濡れてへばり付く。

 尋問――というよりこれは拷問であろうか。


 古来から伝わる、所謂水責めであった。

 リーダー格の、頭部の片側だけを借り上げた黒服の男。その隣に並んだ角刈りの男が、己の左手の銀時計を見やる。

 どちらも――いや、この場の誰もかも――京太郎以外は、サングラスを着用している。

 物置場か、或いは地下の倉庫。

 数々の包などが置かれた、心もとない鉄製の棚。柵で囲まれた、羽虫の影を映す黄ばんだ蛍光灯。

 コンクリートが打たれたそのままの、隅には埃と蜘蛛の巣のある部屋。そう広くはないそこに、男たちは肩を並べていた。

 バカ正直に問いかけに行ったのが悪かったのか。それとも、それほど急いて気が回らずに居たのか。

 シゲから聞いた賭場に足を運んだ京太郎は今、このように拘束されていた。

 賭場らしく、地下にあるのかと――そう階段を下りた京太郎に襲い掛かったのはスタンバトンとスタンガン。

 咄嗟の回避でやり過ごした京太郎もしかし、暗がりから飛び出たテーザーガンを回避できずに捕えられた。

 それから――こうして、男たちから尋問を受けている。


 乱暴に掴み上げられた金髪が、男の手の内で雫を垂らした。

 京太郎の顔は歪んでいる。

 当然ながら、このような経験はない。たとえ撮影で、たとえそれがノースタントだとしても、全力で誰かに頭を押さえられ沈められる事がある筈もない。

 どれが涙なのか、水なのか、涎なのか――。判別が付かぬほど、その顔は水に浸されていた。

 縮まった瞼と赤褐色の瞳が、力なく前方に向けられる。


「もう一度聞くぞ? てめえ、どこの組のモンだ? 何のつもりで来やがった?」

「だか、ら……俺は……ただ、話……聞きに……」

「……。やれ」


 クソ、と歯噛みする間もなく潜行を開始する京太郎の頭部。潜行と言うよりは轟沈だろうか。

 口から酸素が吐き出される度に、京太郎の意識が灰色に抜け落ちる。

 十から先は、覚えていない。僅かな呼吸と受け答えを残して、ほとんどが水中である。いつしか音も遠ざかり、視界も震え出していた。

 ドラム缶の反響音が、京太郎の脳裏に鈍く木霊する。それが自分の手足が立てる音なのか、それとも男たちの怒声なのかの区別もつかない。

 沈む。上がる。沈む。上がる。沈む――。

 呼吸の仕方を忘れたようで居て、それでもまだ肉体は貪欲だった。咽るたびに口腔と鼻腔から迸る飛沫に、また咽た。

 いつからか辺りの感覚は消えて、ぼんやりとした男の影と眩暈の度に流れ動く蛍光灯の灯りだけが彼と現世を繋ぐ頼りになっていた。

 その中で――。


(……憧、悪い)


 京太郎の思考に蘇ったのは、新子憧の笑顔である。

 一度だけ、一度だけ彼女が心の底から恐怖し驚愕した顔を見た事がある。

 それを見てしまった時に――それから頭が冷えた後に、彼の脳を埋め尽くしたのは猛烈な後悔であった。

 もう二度と、そんな顔はさせたくないと思ったのに――。

 それが今では、このざまだった。



 ――やがて、それすらもなくなる。


 京太郎の思考はただ、雑音に埋め尽くされた。数多のノイズ。生命維持に関わる本能がアラートを。思考の余地はない。

 不断の、連続した反射の連なり。ただ喘ぎ、たた咽び、たた吐き、ただ吸う。そこに思惟は介在しない。どこまでも正直な欲求しかない。

 鳴り止まぬ、肉体から発せられる警報音。警鐘が響き、意味ある、長い文などなくなる。

 苦、溺――。髪、音、水――。鼻。空気。酸素。酸素。呼吸。死。溺れ。死。呼吸。水――。飛沫。男。

 死、憧、助、憧、会――麻雀、呼吸、辞、目、酸素。少女、目、死、水――死、息、空気、息、息、息、酸素、空気、息、水、溺、沈、息、水、明、息。

 音、息、空気、欲、死、このまま、水、死、潜、頭、息、助、死――。空気、息、息、息、息、酸素、空気、息、呼吸、水、吸、飲、息、水、息、溺――。

 そこが地上なのか水中なのか、最早彼には判別できなかった。

 ドラム缶に顔を浸けられながら呼吸を試みようとし、地上で息を止めようとする。或いは顔が持ち上げられ吸おうとした瞬間に、再び水へ。

 咳き込むのか、吸うのか、喘ぐのか、咽るのか、京太郎自身にも把握が付かなかった。


「おい、もう一度聞くぞ。てめえは、どこの組からのモンで、何しに来やがった?」


 銅鑼を打ち鳴らしたかの如く撓んで唸る男の声に、京太郎は瞼を起こす。

 それから自分が、地面に投げ出されていたのだと知った。終わってしまえば――思い返す事もできない、濃密で一瞬の苦痛の時間。

 脳が醒めない。茫洋とした意識のまま、首だけ動かした。

 仰向けに倒れた彼の髪が、床に黒い溜まりを作る。


「おい、いいか? 答えろよ」


 視界が動いた事で、ようやくそこで彼は蹴られたのだと知った。

 無様に幾度も転がりつつ、再び仰向けになる。全身の感覚はない。指先すら、動かせないのか――それとも動かしたつもりなのか動かそうともしていないのか解らない。

 首を横に傾けると、口腔から躍り出た液体が床に沁み痕を残す。


「こいつ、気でも違ってんじゃないっすか?」

「なら、気付けでもしてやるか」


 葉巻を口にそう呟くリーダー格の、その傍に佇む男が火を取り出した。

 紫煙が漂う。全員が、うんざりするようでいて――それでありながらも昏い嗜虐を湛える笑みを浮かべる。


「おい、聞こえるか? 言わなきゃ、てめえをあのガキみたいに眼帯なしじゃいられないようにしてやる」

「俺は……ぁ……俺、は……」

「そうだ。てめーだ。てめーの話をしてるんだ。聞こえるか?」

「四百二十六……よんひゃく、じゅう、きゅう」

「あ?」


 打ち込まれる、蹴り。京太郎の躰が勢いよく横転し、戸棚にぶつかる。

 グレーのスチール製のラックが軋み、埃が舞い落ちる。そうされてもやはり京太郎は力なく横たわるだけ。

 舌打ちをした男たちが、手近にあった角材を握る。リーダー格の男は葉巻を吹かしながら、京太郎へと歩み寄る。響く靴音。

 電撃に、酸欠の影響。京太郎の精神も肉体も、既に正常の体を為してはいない。


「おめーの探してる糞ガキの所為で、俺たちのとこは大損だよ。舐めやがって」

「ガ、キ……?」

「そうだ。見せしめが必要なんだ、判るか? なあ、おにーちゃん」


 実際この理論は、まるで見当違いも甚だしい。

 男としてもそれを理解しつつあるし、目の前で倒れる金髪の青年を見せしめとしたところでそれを晒す場がない事は十二分に承知。

 ただ、この意識の大半を奪われた男に噛み含んで伝えて、話を出来る状態に戻そうとしていただけである。


 ――――ところで。


「判るか? 答えなきゃ、おにぃちゃんも目ン玉潰されて……あのガキみてーに眼帯なしじゃ暮らせなくなるぜ?」


 凄む男が、灰を地面に零した。靴裏で踏みにじり、京太郎を顎でしゃくる。

 角材や鉄パイプを持った男たちが素早く応じる。京太郎を、脇から抱え上げようと言う算段である。

 対する京太郎は――


「は、ハハハ、ハハハ、はははははははははは」


 笑った。

 大声で、心底おかしそうに。地面に倒れ伏したまま、背中を反らして。

 男たちの動きが止まった。瞳に、忌避感が強まる。異物に向けるそれと同じ目線であった。

 舌打ちを堪えるような顔のまま、気だるげに男は首を振る。


 ――――意識というならば、スポーツ選手やある種の競技者には、意識の切り替えのスイッチというのがある。




「お前は次に……『イカレやがったか、コイツ』――――」


「――イカレやがったか、コイツ」


「――――――と言う」


「…………はっ!?」





 ――――痛みに関する、ある研究があった。



「ハハハハ、マジかよ、ハハハハハハハハハハハハハハハ、マジなのかよ!」

「な、なんだ……コイツ、なんだ……ッ!?」

「はは、ははは、クソッ、ははははは、マジかよ……アハハハハハ!」

「な、なんなんだテメエッ!」


 突如として腹を抱えて笑いまわる須賀京太郎に、男たちは気色ばんだ。

 さっきのさっきまでの、あの呆然とした態度はどこへ行ったと言うのか。

 自分自身をあれほどまでに痛めつけられて、何故こうも笑顔になれるのだ。笑い続けるのだ。

 まったく理解できないそれに、不気味に思った一人は駆け寄りつつも鉄パイプを大きく頭上に掲げて――、


「……っし、治ったッ!」


 上体の重心が後方へと移動したそこに回転する足払いを受け、大きく転倒した。

 対する京太郎は、単純。両手を跳び箱に付くように――しかしそうしながらも絶えず両手が位置を変える。カポエイラと言おうか。

 そんな動きのまま、回転の勢いに乗せて上体を捻り起した。ブリッジが如く、その場で跳んで立ち上がる。

 目を見開く男たちに浮かぶ感情は――目の前の男が、人間であるか疑うようなそれ。



 ――――オックスフォード大学社会文化人類学研究所によれば。

 ――――腹式呼吸を伴う、息を吸わずに連続して息を吐く笑いを行う人間の疼痛閾値は、行わない人間のそれよりも大きくなると証明されている。



 息を吐かせぬ間で、京太郎の右前蹴りが角材を持った男の膝を跳ねて押し込む。咄嗟に彼目掛けて右の蹴りを放とうとしたその脚を、更に蹴り込んだのである。

 倒れかかった男の、その顔面の軌道に設置された――設置されたように繰り出された肘が、前歯を叩き折る。

 これは――奇しくも、微笑みの国として称されるタイに伝わる武術の技。



 ――――心の底からの笑いによって、人間の脳内にはモルヒネの実に六倍もの鎮痛作用があるエンドルフィンが放出されるのである。

 ――――笑いというのは人間がこれまで高度な発展を遂げる上でも、必要不可欠な存在であったのだ。

 ――「笑いと疼痛閾値の上昇の関連性(原題:Social laughter is correlated with an elevated pain threshold.)」より。



「な……お、おま――」


 呟こうとした男の喉へ、踏込と共にショートアッパー。同じく古式ムエタイ。

 糸を巻くように回転する京太郎の両手が、再び構えを取る。


「ふ――――ぅぅぅ」


 そして京太郎は、急激に脱力した。

 一時的に痛みの閾値を引き揚げ、さらにはある種の精神的スイッチともなるルーチンワークで平常を取り戻したとしても。

 肉体そのものに蓄積された疲労が、一切合財消えてなくなる訳ではない。

 そんな中彼は、目を閉じた。


 ――ところで、こんな経験はないだろうか。

 ――残業が続く、或いはついつい楽しみな記事を見かけて徹夜が過ぎてしまって。

 ――翌日の通勤や通学で、当然座席が埋まり尽くしてしまった電車の吊革に揺られながら、微睡んでしまった事は。


 脱力の幅が大きいほど、後に力を生み出す時の行動の緩急というのは凄まじいものとなる。

 ならば、究極の緩急とは――究極の脱力から生まれる。

 どんな姿勢で居ても基本的に二本の足で立つ事を止めない人間が、唯一その機能すらも捨てるというのは――。

 すなわち――。


「――――ッッッ」


 睡眠、或いは気絶。

 与え続けられた苦痛と疲労に一度意識を手放した京太郎の躰が、重力に従い崩れ落ちる――その瞬間に点火。

 かつてないほどの虚脱と共に、両足に漲る力は、一瞬でその速度をゼロから最大まで引き上げた。

 敏捷性というのは、この緩急。加速力に関わっている。走り続けるスポーツカーを目で追うのが容易くとも、飛び立つ蠅を見失ってしまうのはこれが所以。

 それは側転に似ていた。側転をしながら、斜め前方に飛び込むのと同じであった。

 空中で天地が回転する京太郎のその左足が、男の首を刈った――マーディットカローク。訳するなら、ヤシの実を蹴る馬。

 余りの加速に、反応が遅れた男――巻き込まれるように、後頭部から転倒。胸を開いて、仰向けに手折れる。力なく上下する胸。

 奇策である。本来なら相手の攻めを捌くか受けるか殺し、更に距離を作り、衝撃に硬直する相手目掛けて叩き込まれる技。

 着弾の直後に両手を付いた京太郎は体勢を立て直し、残る二人へと拳を向ける。


 流石の彼も、必死であった。

 その顔に浮かぶ鬼気迫る表情と獰猛な笑みに――リーダー格の男と、その付き人らしき男は硬直する。

 ――――これは、一体、なんだ。

 自分たちは一体、夢でも見ているのだろうか。こんな銀幕の中のような動きを行う人間と戦う事になるなど、何かが間違っているのではないか。

 ボタンを千切ったコートを脱ぎ捨てる京太郎。そのまま、丸めたそれを頭上目掛けて蹴り上げた。

 破裂音。蛍光灯が覆い隠されるその瞬間に、リーダー格の男は咄嗟に横に跳んだ。付き人は同じく、逆側へ。

 途中、ドラム缶を弾き飛ばした。暗闇で見えぬが、ラックに激突したドラム缶は盛大な音を立てて横倒しとなった。溢れる水。

 無様な着地となるが、構わない。暗闇となってしまったのならサングラスである自分たちは不利である――そう考えたから。

 だからこそ、


「いぎぃ」


 逆側からそんな呻き声が聞こえたときは、背筋が凍った。

 男には理解が出来なかった。蛍光灯を叩き割ったのはコートの、金属製のそのボタンである事はいいとしよう。

 だが、何故暗闇で追撃を行えるのだ。移動していると言うのに。

 サングラスを外しつつ、そこで男は耳にする――京太郎が、彼が発する舌打ちの音を。


「俺には分かるんだよ。……撮影だの息抜きだの、色々回りくどい事をしたおかげって奴だけど」

「お前……」

「質問にだけ答えてくれ。……オカルト喰いは、眼帯をしてたんだな」

「あ、ああ……」


 頷きつつ、男は懐に手を伸ばす。テーザーガン。

 大体の声の位置から、金髪の青年目掛けて打ち込んでしまえばいいし――何よりも、床に撒かれた水がある。

 それが果たして伝導体の役割を果たすかは不明であるが、もしその範囲に青年が居たのならば外してしまってもまだやりようがあるというもの。

 そして、暗闇でも状況が把握できるというのなら――、そうだとしても攻めてこないのは、疲労の回復を待っているかテーザーガンを警戒していると言う事。

 すなわちいくらかは、その水に濡れてしまっているという可能性があるという訳だ。

 限界の緊張を味わいながらも、内心ほくそ笑むそこに――、


「見つけたぞ、須賀」

「……辻垣内、せんぱい?」


 地下室への扉が開かれ、外の世界の灯りが射し込まれた。

 満月を逆光に背負って立つその女については――男としても、よく知る人物の者であった。




「先輩……?」


 どうしてここに、と伺おうとした京太郎の肩に羽織が投げ掛けられる。裏地には脚高蜘蛛の刺繍。

 辻垣内智葉――背中ほどの黒髪を垂らした、怜悧な瞳の美貌。触れれば斬られる刃の風情。

 実際のところ彼女は白鞘を手に、冬だと言うのに雪駄。右肩を肌蹴た着物と、僅かに覗くサラシの横胸。

 当惑気味の京太郎に構わず踵を返すと、付いて来いとばかりに鼻先を路上に向けた。

 状況が飲めぬまま、京太郎は構えを解いた。ストンプで打ち抜いた男の水月から足を外す。

 京太郎と入れ替わりに、白いスーツと赤いジャンパーの男が地下室へと降り立つ。扉の閉じられた地下は、きっと暗い。


「……」

「えっと……」


 路上。智葉から受け取った羽織のままでは、流石に冷える。だがそれは智葉も同じ。

 片肌を抜いた着物のまま、無言で京太郎に背を向ける。その顎の先には、月。

 なんと声を掛けたらいいものか、智葉に釣られて京太郎も空を仰ぐ。大きな満月。都会の中でも珍しく、冬の大気に青く冴える。

 雲が疎らな空。電線が檻となり、景観を切り分けている。


「――無事だった、みたいだな」


 月を眺める京太郎は、それが自分に向けられた言葉だと認識するのに時間を要した。

 変わらず智葉は、彼の方を見ない。月だけを睨んでいるのだろう。

 肩ひとつほども低いこの先輩であるが――果たして、ここまで小さな背中だっただろうか。


「……おかげさまで、何とか無事です」

「そう、か……どちらかと言えば私が助けたのは相手の方だったのかもな」


 小さく溜め息。智葉としても、京太郎の実力は知っていた。

 並みの極道など相手にもならず、その道の人間であろうとも――素手で相対したのならば、限りなく勝率は低い。尋常な身体能力だけなら軍人も蹴散らすほど。

 成長期にハンドボールで培った空中センスとバネに、何の因果か上乗せされた古式ムエタイと、冗談めいたノースタントノーワイヤーアクションが生んだ人間凶器。

 撮影やそれに伴う鍛錬から抜けて一年以上ともなるが、未だにバネとセンスと経験は錆びついていないのだ。

 ……これが麻雀プロの普通だと思われたら困る。人間の普通だと思われても困る。ちょっと特殊だ。



「あのー、辻垣内先輩……それは……?」

「ん、ああ……見るか?」


 白鞘を掲げて笑う智葉に、京太郎は猛烈に首を振った。お察しという奴である。

 藪を突いて蛇を出すという諺があるが、ヤクザを突いてヤッパを出すのは洒落にならない。ちなみに刃物と書いてヤッパと読む。業界用語だ。

 流石に彼としても、明らかな犯罪の片棒を担ぐのは御免蒙った。知らなければ、それが模造刀とも思える。というか思い込みたい。

 明らかに人を殺すつもりの武器とか本当に勘弁願いたかった。

 そして――、


(俺の事……助けに来てくれたんだよな、辻垣内先輩)


 京太郎は再び、口を噤んだ。智葉の格好を見れば、それは一目瞭然であったのだ。

 ただ、言うには憚られた。

 智葉は一度たりとも直接的に、須賀京太郎を助けに来たとは言っていない。おそらくはそれが彼女の美学。

 何故、この場所が判ったのか。どうして自分にそこまでしてくれるのか。何ゆえに、須賀京太郎が捕えられたと知ったのか。

 聞きたい事は山ほどあったが、彼女の美学を重んじて結局は踏み込む事ができない。

 彼女とて、名が知られた麻雀プロだ。M.A.R.S.ランキング9位――実家こそ極道ではあるものの、彼女は表の世界に並び立つ住人。

 それが、こうして京太郎の為に刃物を片手に討ち入りに馳せ参じた。その事だけで、随分と救われる思いだ。

 大学時代の麻雀の師というだけで、己に怪物と戦うための武器を授けてくれたというだけで大恩があると言うのに――本当に自分は恵まれている。良い先輩だ。

 そんな風に、彼は目の前の背中を見やる。

 ふと、


「――オカルト喰い、か?」

「……なんでそれを?」


 智葉が、肩を揺らした。


「ここの賭場は――まあ、直参じゃないと言ってもうちの縁故だ。下の奴、そいつと少し関わりがあった」

「ああ……」


 合点が言ったと、首を動かす京太郎。

 なるほど確かにそれなら、智葉が場所を知っているのも道理だ。

 おそらくはあの錯乱した男も、そちら絡みなのであろう。


「……先輩」

「なんだ、須賀」

「謝るのとか、ケジメとか……なしにしてくださいよ。俺は何ともないですから」


 結果論だが、それで十分だった。というかむしろ、彼と相対した連中の方が被害が凄まじいだろう。

 京太郎としても決死であった為、容赦なく古式ムエタイの技を使用した。

 気を付けたが……それでも脳震盪は言うに及ばず、骨折や鞭打ち程度の怪我は生まれていても不思議ではない。

 なのでまあ、殺されかけたのはお相子という話にしたい。というか彼としても、これ以上はその事について触れたくなかった。

 やはり智葉は京太郎を振り返らず、「……そうか」とだけ漏らした。

 ……なお、京太郎のこの言葉で見知らぬ誰かのケジメ案件が避けられたというのは余談であろう。ミラーシェードさんは実際ブッダスマイルを得た。


「……一年ぶりに見たと思えば、こうなってるなんてな」

「俺もっす。一年以上ぶりで、会った先輩の生肩見るなんて思ってないですよ」

「……、その下も見たいか?」

「いや……ごめんなさい、調子に乗りました」


 やはり大げさに首を振る京太郎に、智葉は小さく肩を竦める。

 軽口めいたやりとり。相応に落ち着きを取り戻し、場も温まってきたらしい。……未だ夜風は寒いが。

 というか、一日に二度も上半身裸になるとは何事か。ここはムエタイのリングや番組の撮影や火星ではないのである。あとアンデス上空ぐらいの酸素なら火星もきっと寒い。


「それで、その賭場の代打ちが……余所から薬を大量に買い込んだという報告を受けてな。シケ張りさせてたら――」

「……俺と揉め事になった、と」

「“金髪の滅法強い奴に警察送りに”――ああ、いや、病院送りにだったか忘れたが……そんな風に訊いて」

「あー、……、……両方です」

「金髪の男が、この賭場に来るのを見た……と」

「……なるほど。だから俺、あそこまで尋問されたんですね。……“だから”なのかちょっと納得いかないっすけど」


 フン、と肩鼻を押さえて息を漏らす。勢いよく、水が出てきそうである。

 あの水どこから調達したのだろう。まさか風呂桶の水とかそういうのじゃないよな。……というかあのドラム缶ってなんのために在ったんだ。

 ……なんて、恐ろしい思考を打ち切る。とりあえず無事に返れた、それだけでいい。

 などと上の空に思索に耽る彼へと、唐突に浴びせられる声。


「須賀、手を引け」


 辻垣内智葉が、正面から京太郎を見据えていた。左手に納まった白鞘は腰元へ。

 まさか抜刀、ましてや斬撃などは行われるはずないだろうが――それでも自然と身が固くなる。

 彼の返答を待たずして、智葉は二の句を紡いだ。


「オカルト喰いについての大まかは聞いてる。どこかの三下に囲われているのも、そいつの指示で賭場を荒しているのも」

「……」

「ただな、これは極道の案件だ。筋が通らないなら通すのは私たち筋者だ」


 静かに、噛み砕くように告げられる言葉。その声は、どこまでも優しい。

 辻垣内智葉は、須賀京太郎が存在すると厄介だと言うよりは――純粋に京太郎の身を案じているのだと、彼にも十分察しはついた。

 故に真摯に、京太郎と目線を交わす。反らす事なく、真っ直ぐに視線をやっている。


「どうしてお前がこの件に一枚噛む事になったのかは知らないが……」

「……」

「……手は出すな。堅気だからじゃない。お前が須賀京太郎で、元麻雀プロになってしまったからだ」


 理由は分かるなと、智葉が瞼を閉じた。

 それは京太郎とて十二分に承知している。そして智葉の思いやりも分かっている。

 だとしても――はいそうですかと頷けるほど、京太郎も容易い気持ちでこの場に足を運んだ訳ではなかった。

 でなければ温厚な彼が、その拳を誰かに振るう筈がない。


「……相手は、オカルトを喰うって言います。もし先輩がやるとしても――いや、辻垣内先輩は“麻雀プロ”だ。猶更、こんな事に――」

「……他の人間に任せられない。それが理由で十分じゃないのか」

「俺にはそうは思えません」


 そして、京太郎自身にもこの件に踏み込むに足る理由は十分にあった。

 いや、智葉の話を聞いて尚更にそれが強まったと言ってもいい。ただ巻き込まれただけだとしても、だからこそ尚の事ここで降りるつもりはなくなっていた。

 とは言っても、


「具体的に、お前にどう出来るのか……あるのか、解決策が?」

「……」

「……なら、決まりだな」


 牙を抜かれたかのごとく黙り込む彼の、しかし未だに火は消えきらぬという口元を眺めつつ――智葉は溜め息を漏らした。

 そして、努めて冷静に振舞う。そんな風な、京太郎の素振りに気付かぬ風に。

 本音でいうなら、彼女としても具体的な解決策がある訳ではない。

 ただ、速やかにその男の身柄を拘束して――裏で手ぐすねを引くものがいるなら炙り出し、この件に決着を付ける。

 オカルト喰いそれ自体は直接見た事がない為、どんな終わりにするかという話であるが……少なくとも話だけ聞くなら、咎めるほどでもない。

 ただし、遺恨は残るだろう。幾人もの代打ちはその“特性”を奪われている。

 智葉たちに罰する気がなくとも、今後もまた襲撃がされないと言う話でもない。いや、むしろそれが起きるのも自然と見るべきか。

 そして、京太郎のような相手が武器を持っていようが容易く制圧できる手駒は多くはない。

 そんな一部の利もない少女に、護衛を付けてやれるほどに義理がある話でもない。


 とはいっても――寝覚めが悪い。

 智葉が確保に乗り出しているのも、そこだ。智葉たちの組はそんな悪辣な方法で他の賭場を潰し、縄張りを奪い取る事はしない。

 だが、他は別だ。

 ともすれば少女はその飼い主を変えただけで、末永く奴隷として扱われる可能性もあった。

 スポーツで言うなら野球に相当するほど麻雀がこうも人気競技であり、そして野球に比べて場所も設備も必要としない競技である弊害。

 プロとなり表を歩くなら兎も角、裏には裏で人材が迎え入れられるのである。


「……久しぶりに、お前の顔を見れてよかったよ」

「先輩……」

「身体に気を付けろ。……いつか先輩として、お前が居た場所も獲る」


 ――だからお前は、元の生活に戻れ。

 智葉そう告げて、背中を見せる。遅れて地下室から、二人の男が彼女の影に付き従う。

 智葉の背に声がかかる事はなかった。





  ◇ ◆ ◇




   ……衣、悪い事しちゃったのかな。


                             ――麻雀プロ 天江衣、インタビューにて。(なおこれが初インタビューとなる)



  ◇ ◆ ◇




「……どうかしたのかい、須賀君?」


 カップを拭う京太郎の手元が止まる。ゆっくりと顔を向ければ、人のよさそうな笑みを浮かべる老人。

 西洋骨董家具を冠した店名。その店長。

 仕事中、今日は人の入りが少ない。だから彼も、集中力を欠いてしまっていたのかもしれない。

 それにしても、他人からそれを見咎められるなどと――。

 不意に京太郎は、店長の老人に問いかける。


「……そんな風に、見えましたか?」

「最初にこの店に来た時に、そっくりだったよ」

「ああ……、もう一年以上前ですよね」


 あれはたしか雨の日であった――と、京太郎は振り返る。

 大学時代から聞いてはいたこの店に足を運んだその時、彼は決してこの店で働くつもりなどなかった。

 ただ、一杯のコーヒーを求めた。それだけであった。


「……ちょっと、悩んでるんです。なんていうか最近の事と、これからの事と」


 笑う京太郎には力がない。

 一晩考えて――その内に、熱も冷めた。戦闘の興奮も、己を突き動かす衝動も。

 あの公園に足を運んでみても、少女の影はなかった。書き置き一つない。それっきり、彼と彼女を繋ぐ糸は断ち切られた。

 同じく、彼としても途切れた糸に再び手を伸ばすだけの覚悟が、生まれなかった。


「時間があるなら、ゆっくり考えて答えを出すといいけど……」

「……」

「……そうだね。私からは……恥ずかしいけどこれまで生きていて、君の為になるようなアドバイスは思い浮かばないけど」


 老人の顎が、僅かに沈んだ。

 その後、目の細い店長は恥ずかしそうに後頭部へと手をやった。


「恥ずかしながらこの歳になってから麻雀を始めてみようと思ってね」

「……麻雀、ですか」

「不均等だからこそ公平で……そう思うと、少し気になってね。調べてみたけど、ルールが少し複雑で――」

「ああ、そうですよね。俺も初めは――役の数とか、点数計算とか、待ちとかに苦労しましたし」


 思えばそんな時期もあったと、京太郎は追憶に浸る。

 部の全員が経験者。

 インターミドル優勝者に、実家が雀荘の副部長に、とにかく人を喰ったように心理戦が美味い部長に、集中力の続かない高打点の逃げ馬。

 おまけに、部長から頼まれた人数合わせの一貫として――ただ出来るというだけで何気なく誘った幼馴染は、トンデモナイ実力者。

 それでいて彼は役も碌に覚えきっていない素人。苦労と言うより、ただ場違いと言った方が正しいかもしれない。

 夏のインターハイが終わって、――京太郎は初戦敗退――、引退する事となった元部長から手ほどきを受けた。

 漸くそうして、雀士の道に一歩を踏み出したのだ。


「だから……君が良かったらだけれども、麻雀を教えてくれないかな」

「……今からですか?」


 流石に道具もないのにそれは難しいと、京太郎はあたりを見回した。

 それにしたってまだ開店時間だ。まさか大体的に麻雀卓をセットして、牌を並べて説明に――なんて運ぶ事は出来まい。

 そんな風に考えていると、ふと笑う声。


「須賀君は、麻雀の事となると良い顔になるね」

「……そうですか?」

「だから――今じゃなくていいよ。君の悩みが片付いたら、教えて欲しい」

「……判りました」


 ああそうだと、店長が窓の外へと目を向けた。

 天気は曇り。気温の上下は少なくなるが、さりとて朝から温度も上がらずにどことなく暗澹となる空。

 何事かと伺う京太郎に、再び顔を合わせて一言。


「今日は客足もこのままだろうから、上がっていいよ」


 ただし――と、付け加えられた。


「前に持ってきたアレ……そのまま、持って帰ってくれるかな」

「ああ……。アレ、ここに置きっぱなしにしてましたっけ」


 やれやれと、京太郎は頭を掻いた。

 以前もそう言ったように、須賀京太郎は華が少ない。プロとしての活動をしていたと言っても、それを疑われるほど。

 であるからこそ、彼はしばしばその証明にプロ時代の小物を持ち出していた。

 ……この店に置いてあるのは、そんな一品。

 今思えば、どうしてそれを選んで持ってきたのか彼自身としても不思議がるような小道具だった。


「あの時は……ああ、通り魔騒動とかあったねぇ」

「ああ、あのやたらめったら常人離れした凄い動きの……懐かしいですね、本当に」


 あれは何だったんだろうと、かつて拳を合わせた京太郎は首を捻った。


「それじゃあ店長、上がらせて貰いますね」

「気を付けなさい、須賀君」

「……はい」


 袋を背負って、自室への階段を上る京太郎の頭にはある言葉がリフレインしていた。

 昼休み公園へと向かったその帰り道、またしてもシゲと出会ったのだ。


『よ、京ちゃん』

『……シゲさん』

『“魔法喰い”はいよいよ駄目だな。そいつは兎も角、連れてる方がやり過ぎた』

『……』

『ククク……ここからやるとしたら一発逆転、大博打しかないだろうな。今のままじゃ、あいつは角を立てすぎるだけだ』

『……どうして、それを俺に』

『訊きたくなかったのかい?』

『……。俺は、麻雀が出来ないんだって』

『そうかい? ……ああ、そうだったな』

『……』

『じゃあな。フグはまた、今度にしようや』


 飄々と笑い去るその背中を、彼はただ見つめる事しかできなかった。

 頭の中では、さまざまな事が渦巻いていた。そしてそれに結論を出すよりも先に、京太郎は歩き出していた。

 いや、結論なんて決まっていた。そんなものは一つしかなかった。それこそが最も『納得』が行く道であった――。

 智葉の言葉を受けて、自分なりに考えたその果て。その為の道筋も想定した。襲い掛かる困難も、これからの苦難も想像した。

 ただ一つ、それでもただ一つ――。

 彼には、未だに足りないものがあった。

 それが定まらぬまま歩き出し、歩み進め、歩み続けて自宅までこうして辿り着こうとしていても――。

 その大切な一つだけが、手の内にない。


 歩を進める足が鈍った。

 速度を失っていくそれが、緩やかに階段を上る。自宅へ続くフロアーへと、最後の一歩を踏み出した。

 そこで――



「――なんて顔してんのよ、京太郎!」


 聞こえると思っていなかった声を、聞いた。






「憧……お前、どうしてここに……」

「いやー、代休付けて貰っちゃって……一日前だけどね」

「それにしたって連絡ぐらい……」

「したけど?」


 口を尖らせる憧に促されて、京太郎は携帯電話を見た。

 電源が切れていた。そう言えば昨晩のあの騒動を受けて、充電する事がすっかり頭の外に行っていた。

 どうやら余程に衝撃的な展開で、混乱も冷めていなかったらしい――と彼は天を仰いだ。

 だが、食材の用意は済んでいるし、片づけると言っても元々私物が碌にない部屋だ。急な来訪になってしまっていても然程問題はない。

 ポケットから、日本刀のキーホルダーが付いた部屋鍵を取り出し、やれやれと残る足を階段から引き上げる。

 そのまま鍵を手で弄びながら、ドアを開けようとしたが、


「……憧?」


 新子憧が、そんな風に扉へと手を伸ばした京太郎を遮った。

 京太郎よりも頭一つ分以上に小さな新子憧。彼女の顔は殆ど、京太郎の胸に埋まるだろう。

 そんな憧が、下から京太郎を睨め上げる。勝気そうな赤い瞳が、どこまでも引き絞られた。思わずたじろぐ京太郎に、更に憧が一歩。

 腰ほどまでの赤味を帯びた茶髪が揺れる。明確に怒っている――そうとしか京太郎には思えなかった。


「な、なんだよ……」

「あんた、なんでそんなに情けない顔してんのよ」

「……元々?」


 なんて恍けた風におどける京太郎に向けられる目から険は消えない。

 判っているぞ――などと言いたげなほどの力強い目。どこまでも問いただす迫力がある。


「……仕事でちょっとミスしたんだよ」

「へー、その仕事って麻雀?」

「いや、喫茶店」


 自然な返し。そう、京太郎は思った。


 だからこそ、


「――オカルト喰い」


 新子憧からそんな言葉が飛び出したとき、彼の息は止まった。

 最早、ここからの誤魔化しなど利く筈もない。誰に対してもそうであるし、それが憧が相手ともなれば猶更だ。

 背筋が自然と伸びた。同時に浮かぶ数々の疑念。

 手のひらを見せての、憧の溜息。


「宥姉からね。ひょっとしたらひょっとするかもしれないから注意して、って」

「……そっちか」

「で……その分だと図星も図星、しかもあんたガチで首突っ込んでるってとこ?」


 そこまで言われたら、目を伏せるしかない。いや、伏せようとしたらどうしても新子憧と視線が克ち合う。

 仕方なく天井を見た。視界いっぱいに移される、棘のような突起の目立つ天井。所々、塗にムラがある。

 どうしたものかと、深い息を零すしかない。


「その分だとさ……うん、やっぱ」

「……?」

「どうしても戦おう――なんて考えてるんなら文句の一つでも言ってやろうかと思ってたんだけどさ」


 ――あんた、戦おうとかって思ってないでしょ。


「――」

「それも図星? ……まー、当然よね。あんた目が悪いし」

「……なにが言いたいんだよ、憧」


 新子憧の意図が、彼には読めなかった。

 京太郎の事を叱りに来たのか、呆れに来たのか、怒りに来たのか、止めに来たのか判らない。

 ただ、京太郎の事情を――失明の危険を知っているのならば、当然ながら彼が麻雀をしようというのならそれを断念させにかかるだろう。

 だけれども、何だこの態度は。


「ぶっちゃけ、今のあんたダサい。見てらんない。興ざめよ、興ざめ」


 心底うんざりだと告げる新子憧。下手をすればこのまま、奈良まで引き返そうというものがある。

 ――だが、何故。

 京太郎が麻雀を行わないと言うのなら、事情を知る者からしたらそれは願ったりの筈だ。

 むしろきっと、実際彼女自身がそう言うように……彼がそんな決意でもしたのならば、間違いなく喧騒は避けられないものとなる。


「しかもそれ……麻雀なしで解決するって話じゃないんでしょ?」

「……」


 正直のところ、京太郎は脱帽する思いであった。

 何も答えていないというのに、どうしてそこまで言い切れるというのだろう。これが教師の力か。

 正直なところ名探偵の方が向いているのではないかとすら思える。


「そりゃあ……何年の付き合いだと思ってるのよ、あんたと」


 そんな風に言われたら、さもありなんというところか。

 しかし、京太郎には憧の僅かな返答の仕草から何かを見抜く事など出来ない。女性は嘘に敏感だという話があるが、それが所以なのか。

 そんな風に頭を押さえる京太郎に、憧は半眼で返す。


「本当にそれ、打たなきゃいけないのよね」

「……ああ」

「ま、あんたがそこらへん考えない訳ないか……うん」


 そう、京太郎はあれから――辻垣内智葉に言われてから、彼なりの答えを探した。

 まず、その少女は借金を負っている。そしてどこかのヤクザの手駒として扱われている――そこが新たな情報。

 この解決策は正しく、辻垣内智葉に任せる他ない。京太郎が下手に介入するよりも、その道の智葉が余程上手く解決するだろう。

 下手に京太郎が踏み込むべきではない。お節介と不必要な助力というのは、時に妨害に匹敵する――座して待つべきである。

 そう、ここだけならば。ここだけならば京太郎は必要ないのだ。


 だが――あの少女。智葉に保護をされてから、それからどうなる?

 きっと、そんな人権をないもののように扱われたりはしない。平和に日常に戻れるだろう。智葉は、その辺りの線引きを考えている人間だ。

 しかし、戻っても……ある問題が付き纏う。少女の人生に、いつまでも暗い影を落とし続ける。絶望の闇を齎す。

 実際に京太郎も遭遇した――――あの、オカルトを奪われた人間からの報復である。


 智葉は解放するだろう。

 また、その借金についても――彼女の組の管理下となり、他の組が手を出す事は困難となる。

 だが、少女のその後まではどうだ?

 ヤクザ同士の抗争でも、刃物を使ったそれが行われたら――被害は恐ろしい事となるだろう。その備えと言うのも、常に万全に供給はできない限りあるものとなる。

 それを果たして、一般人の少女に貸すか?

 少女が組にとって有用なら、行う筈。それは同時に、またしても少女は“オカルト喰い”として使われる事に他ならない。飼い主を変えただけだ。

 智葉はきっと許さない。代打ちとして、強力な切り札として少女を使用する事は絶対にありえない。

 そう、その意味で少女は平穏だが――そちらを立てたら、逆側が立たない。少女を守るものは居なくなるのだ。

 誰も好き好んで一銭の得にもならぬ少女の為に体を晒さないし、また、智葉もそんな感傷めいた我儘を組員には申し付けないだろう。

 その辺りの線引きも、同時に厳しいのが智葉。

 ならば――誰が少女を守る? 誰が彼女をその報復から防ぐ?


「最初は……俺が護ろうかって思ったけどな、無理だ。誰か一人の命を背負いきれるほど、安くはないんだ」

「いや……いきなり命とか言われても話が全然見えないけど……うん、それで?」

「だから――俺はその元を絶とうと思った」


 ならば答えは一つ。その喰ったオカルトを全て、持ち主に返すしかない。

 そうすれば遺恨は残るが、己の手に再び拠り所となる武器が戻ってくるのだ――あのような無茶をするものも早々はおるまい。

 故に、少女が他人から奪い取った“異能”を返還する。それしか方法はないのだ。

 だが一体どうやってという話だが――京太郎はそれにも、解を得た。


「……で、あんたが打つの?」

「ああ……、そうなるんだけどな――――ウッ!?」


 歯切れの悪い京太郎の、その腹に拳が打ち込まれた。

 新子憧からの正拳突きである。右の拳が、綺麗に鳩尾にめり込んだ。

 思わず踏鞴を踏んで目尻に涙を浮かべる京太郎を――毅然と、いや、どこか平然と見る新子憧。


「なら、ちゃっちゃとやっちゃいなさい。あんたなら、勝つに決まってるから」

「お前……なんでそんな風に言い切れるんだよ……」

「判るに決まってるでしょ。これまであんたの戦いをずっと見てたのはあたしなんだから……ファン一号はあ・た・し」


 言いながら、顔を顰めて掌を動かす新子憧。

 大学時代、散々ばら京太郎に拳を叩き込んだ憧であったが、プロを経て強靭に鍛錬された京太郎の肉体は予想以上のものであったらしい。

 何度か拳を開いて閉じる憧を見やりつつ、やはり京太郎の顔色は優れない。

 実際のところ――勝敗の判断で言うのならば、彼は勝つ事を不安がっている訳でもなければ、負ける事を恐れている訳でもなかった。

 彼が二の足を踏んでいる理由は、別にある。

 勝敗ではない。少女を無事に救い出せるかという算段でもなければ、己の立てた方程式が正しいのか――という話でもなかった。


「あー、もー、まどろっこしいなぁ!」


 未だに煮え切らぬ須賀京太郎に、とうとう新子憧は叫びを上げた。

 何かと目で窺う京太郎に、憧は視線を逸らしながら口を尖らせる。


「本当はもっと時間と場所弁えたりとか、ムードとタイミングとかそーゆーのあるっていうのに本当にこの男は……!」

「……憧?」

「京太郎、目ぇ閉じなさい」

「憧?」

「いいから! 早くする!」

「アッハイ」


 言われるがままに瞼を落とす京太郎に、近づく憧の靴音。

 何が行われるのかと、身を固くする。これは古式ムエタイをやっていようがノースタントノーワイヤーだろうが変わらない。

 ただ、動転するほかない。


「京太郎がさ、あんたが……誰かの希望になりたいって言うなら……」


 ゆっくりと、声が迫ってくる。


「それなのにその勇気が出ないっていうなら……踏み出せないっていうなら……」


 足音が止まった。

 手の平に触れた冷たい感触に思わず振り払いそうに肩を動かすが、やがて彼はそれが新子憧のものだと気付いた。

 そのまま、手が腹のあたりまで引き上げられる。新子憧なら、胸元に相当しようか。

 京太郎の手を撫でつける憧の指は滑らかで、涼しい。

 手の甲が、天井に向けて晒される。


「だったらあたしの希望を分けてあげる。あたしがあんたの、希望って奴になってあげる」


 そんな言葉と共に――


「目、開けていいわよ」


 新子憧に促されるがまま目を向けると、京太郎の左手。

 その薬指に――指輪。


「憧、これ……」

「見れば判るでしょ? っていうか流石にこのムードもタイミングもへったくれもないのに加えてボケたらマジぶっとばすわよ?」

「あ、ああ……」


 これは所謂、結婚指輪という奴であった。



「……というかさ、これいきなり過ぎない?」

「茶化すな!」

「理不尽!?」


 足の甲目掛けて落とされるヒールを、すんでで回避する。

 流石にいくら須賀京太郎と言ってもそれは洒落にならない。ひょっとしたら折れたりするかもしれない。流石に憧がそこまで力は入れないだろうが。

 距離を取る京太郎に、「うー」と唸りを上げる憧。心なしか顔が紅潮しているのは、まさか今の運動の所為ではないだろう。

 そんな彼女がまた歩み寄ろうとしたとき、京太郎は思わず身を固くしてしまった。

 彼自身も動転していて何を言い出すのか、彼女から何をされるのか解らないのだ。


「こっから先は……独り言なんだけど」


 憧が、足を止めた。ヒールがかつりと音を立てる。


「やっぱりあんた、絶対に麻雀を怖がってる……。当然だよね、だって……あれだけ奪われたら……そうならない方が変だし」

「……」

「だから……だからさ」


 言葉を区切る憧に、無言の京太郎。


「だから……もしも麻雀なんかがあんたから奪うっていうんなら、あたしがあんたにあげればいい。十奪うんだったら、百あげればいい」

「……スケールでかいな」


 十に対して十一や二十で返さないところが――流石というかなんというか。

 なんて、京太郎は息を飲んだ。


「だから……あんたが家族取られちゃったんだったら……あたしがそれをあげればいいって思っただけ! 家族になろうと思ったの! なんか悪い!?」


 「なんか文句あるか!」と、後半が殆ど早口になって殆どやけっぱちに等しい勢いで喰いかかる憧に、開いた口が塞がらない。

 そして、嘆息。

 自然と彼からも、吐息が零れて笑いが落ちた。


「えっと……今のは、独り言でいいんだよな?」

「う……、ま、まあ……」

「ならいいんだけどな。うん」


 何が、と眉を寄せる憧に向けて彼は指を立てた。

 まずは一本。右手の指が、天井を向く。


「いきなり答えも聞かないで結婚指輪ハメるなよ」

「うっ」

「あと今のが独り言じゃなくてプロポーズとかだとしたらビックリすぎるだろ」

「ううっ」

「というかキスもまだなのに、結婚申し込むか普通」

「うううっ」


 三本指を立てた時点で、新子憧の顔は真っ赤だった。

 若干目が潤んで、涙が滲みそうですらある。かなり追い詰められていた。彼女自身、冷静になってみれば自分が相当先走っていると理解したのだろう。

 普段はちゃっかりと要領が良いくせに不器用で、計算高い癖に肝心なところで勢いで走って、冷静そうでいながら情に厚い新子憧らしい。

 そんな彼女の様子を眺めながら――彼は静かに、目尻を下げた。


「それに……こういうの、男の方から言わせろよな」


 若干バツが悪そうに顔を背けて後頭部を掻く彼を、見やる憧の目が大きくなる。

 そのまま瞬き。二度三度、三度四度繰り返される。


「え……」

「あれから考えてたんだよ。流石にどう考えたって……まー、その、男の部屋に泊まりにくるなんて……なぁ」


 昔はよくやったけど、あれは部屋が多かったし、何よりも隣同士で……それもそのまま寝てしまうみたいな形が多かった。

 世話を焼かれているときだって――おそらくはその延長線上だなんて思って、そのままの優しさだと深く考えぬようにした。

 だけど、この歳になって。それに、一間の家にわざわざ新子憧が泊まりに来るなんて。いくらなんでも、世話を焼くにしては長すぎるし面倒見がよすぎるなんて。

 それだって、ひょっとしたらの域を出ないものであったけど――





「俺でよければ――――結婚してくれ。家族になってくれ、憧」





 きっぱりと言い切った京太郎に向けられた目線は驚愕。

 頬が熱いのを認識しつつも、それを誤魔化すように京太郎は笑う。


「い、いいの……?」

「指輪用意してないけどな」


 あまりにも急すぎた話で面食らったと言うのは事実。

 ひょっとしたら交際とか、そういう真摯な対応が必要になるかもしれない――なんて考えてはいたが。

 それにしたって、普通は一足飛びで結婚話が出るなんて思わない。

 いつの間にレベルが99になっているというのだ。まだその為の任務消化をしたつもりもない――なんて提督めいた戯言はさておき、やはりプロポーズは突飛だ。

 実際京太郎だって、「いや、それでこっちの勘違いだったら最高にダサくないか?」という気持ちも強かった。

 だから、努めてそういう方面から意識を外して、新子憧に他意はないと思い込もうとしている一面すらあったのだ。

 だけど――尋問にあって、分かった。

 呼吸を奪われ、絶体絶命の危機に――そんなときに浮かんだ顔が自分の中で何を意味するのかなんて、いくら彼でも判った。


「あのさ」

「おう」

「あ、あんたがその……今まで麻雀の方にばっかり向いてたっていうのも分かるし……これからまた麻雀しなきゃいけないってのも分かるけどさ」


 彼自身の矜持の為に。誰かと交わした約束の為に。それが生活に掛かってるから。勝負事だから。生き方だから。

 だから――京太郎は、麻雀ばかりを見据えてきた。その目が限界になるその瞬間まで、見続けた。

 ここから先は、限界の更に先。そんな状況だとしても深淵の縁に立ち、暗黒に目を凝らさねばならない時間。

 それでも――と、憧は言う。


「今度は麻雀なんかじゃなくてあたしに夢中にさせてあげるから……目を離したら、ダメなんだから」


 それでも還ってこいと、憧は言った。



「……お前さぁ」

「うううううううううるさいってば! 判ってるって! 判ってるわよ! ええ判りますぅー! 判ってるからなによもう別にいいでしょ笑うなコラ!」


 きしゃーと牙を剥く新子憧に、京太郎は破顔するしかない。

 これはひょっとしたら判断を早まってしまったのかも知れないが――いや、むしろこれが良い。

 何とも、本当に可愛らしいというか微笑ましいというか。

 今となってはというものだが……これまでの悪態の裏返しに全てこんな照れ隠しがあったなんてすると、もう本当に彼としてもどんな顔をしていいのか解らない。

 ……とりあえず、痴女という評価は改めておこう。あれは酒の勢いでまかり間違ったアプローチだったのだろう。

 流石に新妻が酔ったら誰彼構わずアピールする人間だとは京太郎も思いたくない。そんな動物みたいな事して欲しくない。


「ううー、最悪……なんでこんな風にプロポーズする事になっちゃうのよぉ……」

「したの俺だけどなー」

「うるさい! だから茶化すなって言ってるでしょ、京太郎!」


 時間と場所もだけど、ムードとタイミングも――という憧の言葉が反芻される。

 つまり本当は彼女としても、こんな形というのは不本意だったと言う事。

 だけど不本意でも決めたのは――偏に、須賀京太郎の背中を押すため。

 須賀京太郎が須賀京太郎として、オカルトスレイヤーとして、誰かの涙を拭う為の一歩を踏み出す切っ掛けを与える為。

 全ては、道筋も彼自身が作り上げたというのに、それを実行する最後の一欠片を嵌め込む事が出来なかった彼の為。


「京太郎」

「ん、どうした?」

「あたしにここまでさせたんだから……判ってるでしょ?」


 須賀京太郎の、須賀京太郎の麻雀のファン一号と新子憧は言った。

 ならば彼が須賀京太郎に求めている事はただ一つだ。たった一つのシンプルな事だ。




 須賀京太郎は考える。


 例えば運命という名の物語があったとするのならば、自分の役目は終わっているものだと。

 大会の参加規定人数には一人だけが足りない、個性豊かな麻雀部。京太郎以外は経験者。

 そして、京太郎の幼馴染み。飛びきり麻雀が強くて、そして、インターハイに参加するに足る願いを抱える少女。

 彼女を麻雀部に導いた時に、須賀京太郎に与えられた役割というのは終わっていた。宮永咲を主役にした物語はそこから始まって、京太郎はお役御免。

 だから、華がない。咲とその周りの因縁と戦うには、あまりにも天運が足りない。

 何故ならば、主役はきっと彼女たちで――京太郎は端役だから。


 だけれども、許せなかった。

 ある麻雀大会で、幼馴染みの少女に向けられた心無い一言が。彼女を含めた周囲の持てる人間を、恰かもヒトとは異なる存在と切り捨てるその言葉が。

 京太郎も、彼自身も麻雀が好きだった。であればこそ、確かにそんな“異能”との隔たりは感じる。不公平を覚える。不平不満を抱いた。

 それまで宮永咲という幼馴染みの、麻雀という一面に依らないものを知っているのに――――そんな一言で切り捨てられ、あまつさえ言い返せなかった自分が許せなかった。

 何処かでその言葉に同意してしまった自分が許せなかった。


 始まりはそこ。運命からはまるで計算の外で始まった、些細な一コマ。

 だけれども――だ。それが全てではない。そんな一言の為に戦い続けられるほど、彼は強くない。

 後は――習慣であったり約束であったり願望であったり適性であったり、京太郎自身も判らない様々な土台で麻雀の道を歩き出した。歩き続けようとした。

 でも、終わった。もう、そんな割り込み行為は終わった筈なのに。

 それでも――こうしてまた、関わってしまうあたりには何か因縁がある気がしてならない。


「……」


 ……いや、一つ訂正がある。

 正しく言おう。須賀京太郎と麻雀――そこにはきっと、因縁なんてものは無い。

 因縁だのなんだのと理屈を付けて、ただ自分が特別だと想いたかった。思いたいだけの凡人だった。


(だけど――)


 因縁なんて無くても。宿命なんて無くても。運命なんて無くても――。

 理由なんて無くても。原因なんて無くても。前提なんて無くても――。

 能力なんて無くても。才能なんて無くても。豪運なんて無くても――。

 誰かが泣いてるのを見て悲しさを覚え、そしてそれを和らげて遣りたいと思うのは――


「……ああ、そうだよな」


 ――きっとただ、当然の事だ。人間なら誰でも持ってる、普通の優しさだ。


 ヒーローに為りたいと思ったなら、為ればいい。為せばいい。

 愛と勇気は誰しもの標準装備で、夢と希望は一見様お断りの限定品じゃない。

 誰かの涙を拭うのに、特別な事情や才能なんて必要ない。

 一歩を踏み出す勇気と、理不尽を許せないという覚悟だけが在ればいい。


「俺は――オカルトスレイヤーだ」


 不条理を齎すオカルトがあるなら、ただそれを殺すだけだ。

 それこそが須賀京太郎が持つ唯一の力であり、唯一の理念だ。

 力に意思はない。生まれ持った者に咎はない。高々麻雀なんてちっぽけなものの所為で、その人の人格が悪し様に扱われて、人としての平凡を取り上げられて良い筈がない。

 それが許されるのならば――。それの口実となるならば――。それを行う奴がいるというならば――。


 ――――オカルト殺すべし。慈悲はない。



「……カレー、煮込むのに時間かかっちゃうから」

「だったよなぁ」

「冷めたりなんかしないから、ちゃんと帰って来なさいよね」

「……猫舌だけどな」

「それも込みで言ってるんだってば」


 そう呟く憧を、京太郎は静かに見た。

 彼女は断片しか知らない。京太郎がこれから真に何をしようとしているのか、どこに行こうとしているのか知らない。

 でもこうして――何も聞かない。ただ、京太郎の背中を押した。

 いい女だ。いい女だと思う。これまでも随分と苦労を掛けたと思うし、ひょっとしたらこれからだってそうだろう。

 彼は至らぬ身だけど――――それでも、それでもせめて。

 全てを取り戻し、少女を救い、涙を拭い――この日常へ。この日常へ。この日常へと、還ろう。

 そうしたらきっと――きっとそうしたら――――。


「……それじゃ、行ってくるぜ」


 余計な言葉など、もう必要ない。

 ここから先の事は、彼の仕事である。彼が為さねばならない、仕事である。

 包みを担いで、元来た道へと引き返そうとする。階段へと、一歩を踏み出す。そのまま段を降りる。

 ――と、気付いた。

 格好よく踏み出したつもりで、一つ忘れていた。部屋の鍵を渡さなければ、新子憧はこの寒空、廊下でひたすら待つ事になるではないか。

 いけないいけないと、振り向いたその時――


「……幸運の女神さまには、足りないかもしれないけど」

「いや、充分だろ」


 受ける、口づけ。

 階段のおかげで、二人の身長差は失われて――正面からお互いを見つめる形となっていた。





 階段を駆け下りて、街並みを直走る京太郎。

 彼の内を駆けるのは――昨夜の記憶。


 昨晩、彼は切り出した。

 須賀京太郎のウィークポイントであり、暗部。暴かれるべきではない過去の汚点。迂闊に触れ得ぬ禁忌。

 それは終わった。ひとまずの鎮静を見せた。

 ならば――触れるべきでないと思った。互いに苦い経験であるというのもあるし、忌み数のように……言霊が宿って、再び噴出する事を恐れたのだ。

 だけれども、踏み込む。踏破する。

 前に進むためには、そうするしかないのだ。いつまでも心を過去に囚われる訳にはいかない。


『なあ、マホ』

『どうしたんですか、京太郎先輩』

『マホが昔暴走したときに――結局、どうやって治ったんだ?』


 彼の知らぬ真相。

 己が関わり、そして解決できなかったその命題はどのような結末に――どのようにして結末に帰結したのか。

 今まで、敢えて触れなかった解法。触れる事を恐れていた解法。

 ついにそれが、明かされた。


『……宮永プロです』

『咲が!?』


 彼は驚愕した。

 彼の知る幼馴染とはあれから幾度か顔を合わせているというのに、まるでそんな素振りを見せてはいなかったから。

 だけれども、それは真に非ず。彼は余計に唖然とする事となった。



『……違います。マホの事を直してくれたのは、咲先輩じゃないです』

『じゃあ、誰が……!』

宮永照さんが、マホの事を倒して……止めてくれたんです』

『……!』


 そんな言葉と同時に思い返される事――それはあの一戦。


『嘘……』

『協力してあげた……ダメージ1ってとこか』


 小鍛冶健夜への止めの一撃。その為に練り上げた攻撃。

 その最後の一押しとなったのは――以前の対局で宮永照が与えた攻撃であった。


 宮永照は、彼女独自の理論で運を操る。決して万能ではなく、そこには照自身にも如何ともし難い制約が付きまとうが――それでも強力無比。

 他人の運の偏りから、さながら電磁定位が如くその“特性”や“異能”を探知する。

 コイルで発電するように運を徐々に練り上げる。

 或いは電磁加速装置が如く神速の一撃を叩き込み、また或いは強烈な落雷を誘発する。

 そして、独自の理論で他人の運を揺るがせて――後々までの不調を誘発する。一撃それ自体による表面的な損害よりも、内に響き内部から苛む攻撃。

 そんな照の一撃が、噴出したのだ。最後の場面で。


 小鍛冶健夜の“特性”は“神明が如く冴え渡る閃き”と“神憑り的な強運”。

 その閃きに従い、他人の特性や異能を看破し――――豪運がその打破を可能とする。

 雀士が衝撃を受ける事態としては、“己の判断が悉く裏目に出る”事がある。

 実際のところ京太郎も「引くべきと手を崩した結果直撃する」「その次順でツモだった」「二択での押しで危険を感じた逆側で放銃」「逃げたと思ったら他家に振り込んだ」など、

 その恐怖を十全に味わった。

 宮永咲には目の前で嶺上牌を奪い取り嶺上開花、大星淡には暗槓槍槓国士無双など――正に“解決法として思い付いても実行できない攻撃”を浴びせかける。

 言わば小鍛冶健夜は、豪運を備えた“完全版”オカルトスレイヤーであったのだ。異能の僅かな綻びを、思い通りの理論と強運で蹂躙出来る。

 しかし、宮永照が独自の理論で与えた運への雷撃が――小鍛冶健夜の完全を崩した。表で気付けぬ内部への致命傷を与えていたのだ。


 “闇を裂く雷神”の名はまさに、彼女にこそ相応しい。

 京太郎に襲いかかる絶望の雲と諦観の闇も晴らしてくれたのだから。

 これまでも――そして、これからの事も――。


 少女のオカルト喰いがどの域まで及ぶのか、京太郎は知らない。

 だが仮に夢乃マホと同等の規模で行われるならば――それは“異能”だけでなく“特性”にも及ぶと考えるのが自然。

 明確な“理論的や確率的に有り得ない事を必然として恣意的に行使する”のが“異能(オカルト)”ならば、“特性(のうりょく)”は違う。

 “特性”はその人の運や技術、経験や嗜好から導き出された最も自然であるスタイル。そんな打ち筋。それを“異能”に匹敵するまで昇華した戦闘理論。

 宮永咲・天江衣・大星淡・松実宥は前者、辻垣内智葉・小走やえ・小鍛冶健夜は後者に属する。宮永照は両方である。


 そこで――。


「待ってろ……! 必ず……必ず、助ける……!」


 奪われる“特性(のうりょく)”を持たず、それでいて複数操られる“異能(オカルト)”に対抗できる人間は――――ただ一人しかいない。

 そう、彼――須賀京太郎。


 曰く――人類の到達点。

 曰く――地上最強の男。

 曰く――M.A.R.S.ランキング第一位。


 ――――オカルトスレイヤーを於いて、他ならない。



「あ、そうだ。今のうちに――っと」


 包みを担いで疾風が如く駆ける京太郎の手が、スマートフォンを取り出した。

 靡く風に誘われて、金糸が曇天に翻る。

 それは宛ら、陽光に似ていた。




  ◇ ◆ ◇




   ……私、京ちゃんの分も負けないから。絶対に、負けないから。


                             ――麻雀プロ 宮永咲、須賀プロ引退について



  ◇ ◆ ◇




 表通りから一本と奥まった場所に位置する、裏路地。

 そこを医療用眼帯の少女と――、そしてその飼い主である浅黒い肌のスキンヘッドの男。

 目指す先はある一点。

 やり過ぎたのだと、少女は男から暴力を受けた。派手に目立ちすぎて、損ねてはならぬ者の機嫌を損ねたと。

 それを命じたのは男であるはずなのに、何ともおかしな話である。

 だから――と男は言う。

 “だからこそ、有用性を証明しなければならない”と。

 “そうでなければ、俺もお前も地獄行きだ”と。


 生きる事にはもう、興味はなかった。たった一つ、彼女を人間にしてくれる場というのも自分自身の因果が原因で失われてしまっていた。

 だから地獄行きでも、少女は既に彼女の中では地獄に居るのも等しかった。

 ただ一つ――。

 ただ一つ――それでも気がかりがあった。


 あの青年は、無事なのだろうか。

 もうきっと顔を合わせる事はないだろうし、彼も関わりたくはないだろう。少女としてもどんな顔をしていいのか判らない。

 でもせめて、せめて最後に――彼の無事を確かめたかった。

 あの後、彼はどうなってしまったのだろう。

 ただ怖くて、ただ恐ろしくて、ただあの平穏に普段の地獄が舞い込んだ事に戸惑って――。

 自分さえいなくなれば彼は助かると逃げ出してしまったあの場に居た、あの青年はどうなったのだろう。

 その生死を、無事を確かめる事すら今の少女にはままならない。

 こうして、敢えて騒ぎになっても人目に付きそうな場所を進む以外は――それだって目的の為以外には――出歩く事が、許されないのだから。

 男と共に、ある場所に匿われていた。匿われるというよりは、殆ど軟禁に近い。

 そんな状態では、彼の無事を確かめる事もできない。だから男の言う“地獄行き”に興味なんかなくても――少女は動き出した。

 ある麻雀雑誌に載っていた、その記事を頼りに。

 男と少女の有用性を示す事となる、切り札に向かって――――そして。


 そう、そこで、


「こっから先は通行止めだぜ。ドレスコードは夢と希望、ってな」


 少女は、太陽に出会った。




 弾む息を整えながら、須賀京太郎は鷹揚に笑う。

 彼の立てた推論は単純。シゲという男の言葉に従うのなら――少女とその債権者である男は唯一絶対の価値を求めている。

 麻雀に於ける唯一絶対。彼らが処分させず、そして何物にも替えがたい地位を手に入れるものはただ一つ。

 麻雀プロの――M.A.R.S.ランカーの特性を奪い取る事。

 言うまでもなく、M.A.R.S.ランキングは麻雀に於ける最高峰である。

 運の要素が強いルールでの勝率などを競ったそのランカーは、麻雀に於ける制圧力ランキングと揶揄されるほど絶対的。

 その幹を為す幹部クラスとあっては――凡百の打ち手が叶う筈がない。イカサマを使用しても、問題なくそれを叩き潰す火星における超上の戦闘者。


 だが、まさかM.A.R.S.ランキングに素人が殴り込む訳にはいかない。そんな事をしたら、それこそ門前払いだ。

 となれば対戦の機会というのは限られる。

 プロとアマチュア合同で行う大会。もしくは――そう、麻雀教室。

 或いはそのプロと打てるという触れ込みの、彼女たちが属する団体の所持する雀荘か。

 京太郎はそれらを、以前戯れに購入した麻雀雑誌を片手に調べていた。居たが、それにしたって特定はできないのだが……ある程度は絞り込めた。

 それは彼らが逃亡者であると言う事。

 無論、あまり大体的に人目に付く場所の移動はできない。しかし、人通りが疎らな場所も選択できない。どちらにしても補足からの拉致があり得るからだ。

 そうして地図と日程を頼りに数を絞った京太郎であったが、それでも完全とは言い切れない。


 そして、最後の欠片は――宮永咲。

 あの日、少女が向けていた目線。街頭のヴィジョンに映った咲へと向けられていた感情に、全てを賭けた。

 分の悪い賭けとなってしまったのは師匠である竹井久譲りだが、どうやら勝利する事が出来たらしい。

 そう、奪わせない。

 宮永咲の進む道を――、彼女が手に入れた経歴を――、彼女が磨き上げた特性と異能を――奪わせない。

 京太郎は固く決意した。最後のピースは受け入れられた。ホープという名の、彼の指輪が。


 故に、笑う。どこまでも鷹揚に――どこまでも大胆不敵に。

 麻雀プロ、宮永咲という希望を守る希望になっていい。

 少女の希望を守る、希望になっていい。


「なんだテメーは……!」


 肩を怒らせる、浅黒い肌のスキンヘッド。黒目がちなその様は、顔立ちも相俟ってどことなく原人に似ている。

 それを尻目に京太郎は、包装を解いた。

 露わになる――身の丈ほどの大剣。無論、これは精巧に作られただけの小道具であり、刃など持たないが――その切っ先を男に向けて、京太郎は眦を吊り上げた。

 その剣の銘は――“聖ジョージの剣”。

 イギリスに於ける守護聖人の名を冠した、オカルトスレイヤー最後の武器。物語の途中から使用された“ウスランガの仮面”という忍者刀と並んだ、必殺の剣。

 無論それはお話の中で、こんなのものを振り回す意思は須賀京太郎にはないが。

 それでも縁起担ぎだと、彼は持ち出した。

 オカルトスレイヤーが最後の戦いに使用した最強の剣であり、そうして彼は戦いに勝利したのだから。


「受けて貰うぜ、勝負をな」

「勝負……?」

「俺とその子が戦って、俺が勝ったならその子を解放してもらう。そっちが勝ったなら好きにしたらいい……単純だよな?」


 無論断られるのもあり得るが――。

 そうなったなら腕づくでそれを許さないだけの力が京太郎にはあった。男もそれを十二分に理解したのだろう。僅かにその立ち振る舞いに、格闘技経験者のそれがある。

 どちらにしても彼は選択せざるを得ない。

 彼らとしても時間がないのだ。京太郎にこのまま阻まれ続けたのなら――或いは大事となったのならば、本懐を遂げる事ができないと。

 だが、男に変わって少女が応えた。


「……夢とか希望とか」


 ――そんなものは自分にはない。必要ない。

 そう告げる、少女の瞳。どこまでも乾ききって、擦り切れて歪んだ目。

 虚無の瞳だ。何もかもを奪われて、痛みに打ち据えられて、ついには一歩を踏み出す事さえも考え付かなくなった澱んだ瞳。

 余りにも痛々しい少女の表情に京太郎も沈痛な面持ちと変わりそうであったが、努めて不敵に笑う。 


「じゃあ……そうだな」


 こういう時に言える事なんて、彼には一つしかないのだ。出来る事なんて、ひとつしかない。


「俺が君の――最後の希望だ」


 次があるのかないのかは知らない。

 ただ、今を全力で生きるしかない。

 プロになったはいいけれど……結局碌に手元には残らなかった。

 記録にも記憶にも残らずに、いつしか流されて埋もれていくとしても――。


「――さあ、ショータイムだ」


 ――今日ここで涙を止めたいと思うこの気持ちは、きっと嘘ではないだろう。

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最終更新:2014年12月30日 19:53