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 ――――その時、自分には確かに翼があると感じたのに。


 ――――それももう、失くしてしまっていた。


 ――――君とも。君との思い出とも。君と一緒に居たときの記憶も。


 ――――何もかも失って、自分は今もここにいる。


 ――――悲しみが消えない。


 ――――痛みが消えない。






「照さん、今回の目的地は……」

「奈良」

「……またですか」


 肩に掛かるほどのセミロングを擦らせて、宮永照が振り返る。

 赤髪が一房靡くその様は、物憂げな表情と相俟って実に絵になる一枚であるが――残念ながらこの宮永照、お菓子の事しか考えていなかった。

 そんな視線の先で苦笑するは花田煌

 紫色の、僅かに内側へとカーブを描くセミロング――こちらも肩まで――が揺れる。肩を落としていた。

 闘牌とあってはこの髪を結んで止める。頭の中心より下で為される鋭角的ツインテールとなるのだが、それが故か彼女は不名誉な渾名を蒙る。

 オオスバラクワガタ。とてもじゃないが女性に付けていい名前ではない。

 尚、花田煌のM.A.R.S.ランキングは100位。ファンから与えられた二つ名は“滅びを知らぬ巡礼者”である。

 巡礼と言っても、別にだから奈良は関係ない。奈良京都の神社仏閣を巡るからではない。


「えー、いいじゃないですかー。私初めてですしー!」


 と、波打つ金髪を漂わせながら応じるのは大星淡

 金髪碧眼。腰ほどまでの長髪は、緩くウェーブを描く。誰かはこれを指して、タコみたいだと言った。

 この三人、番組の収録であった。

 レギュラーメンバー――番組名は「月曜嫌でしょうもういいでしょう」。

 長野発ローカルだったのに、いつのまにか全国放送になりあまつさえ長野出身じゃない大星淡が混じっている当たり不思議だ。

 尚番組の都合で二回ぐらい淡は諏訪湖に落ちた。


「……あ、前に行った事あったかも」

「……どっちなんですか」

「それよりおかしおいしい」

「……」


 ボケナス先輩後輩コンビを前に、花田煌は頭を抱えた。


 せめてもう一人、常識人のツッコミ役が居てくれたらと思わなくもない。

 というか本当は居た。居たのである。居たはずなのに。居たのに。

 ……せめてこの番組には残って欲しかったなぁ、と煌は肩を落とす。


「煌」

「あ、はい! なんでしょうか、照さん!」

「きのこが入ってた。抱き合わせはいらない」


 「あんなの負け専用の駄菓子だよねー」、と大星淡がそれに続く。

 本当にこのボケナス先輩後輩コンビをどうにかして欲しい。もう三回ぐらい諏訪湖に沈めてくれてもいい。

 何故自分がこうも、ツッコミに終始しなきゃいけないのか。番組自体にツッコミ満点なのに、メンバーもツッコミ待ちとかどうにかしてる。


「煌ー、ねー、ひーまー」

「はぁ……?」

「これは所謂、手持ちぶたさんだね!」

「……すばらぁ」


 もう勘弁して。本当に頼むから。

 流石のメンタル鋼、メンタルプラナリア、メンタル再生生物と言われる花田煌でも心が削られる。

 偶に試合で弘世菫と出会うと、「この胃薬効くぞ?」とか渡される。

 弘世菫は宮永照の同級生であり、大星淡の先輩である。ついでに部長だった。

 実際彼女は有能だ。有能過ぎる。宮永照や大星淡の好みのお菓子を教えてくれたり、二人が気に入りそうな店を紹介してくれる。超優しい。

 ファンクラブがあったら間違いなく入る。それぐらい、感謝していた。

 ただ本人は、「なあ、アラサーで魔法少女って大丈夫なのか……?」とか「私も……子供の頃は、お嫁さんになりたかったんだよ」とか負のオーラを撒き散らしてる。

 胃薬が必要なのは、菫の方かも知れない。


「……はっ」

「どうしましたか、大星さん」

「なんか奈良で素敵な出会いがありそうな気がする!」

「……、……すばらぁ」


 ――そして、辿り着いた奈良県は吉野郡。

 美人姉妹がいる(片方は麻雀プロだが)温泉旅館である。

 なんかこう、イケナイサービスとか期待してしまうところであるが、生憎とそういうのはやっていない。

 話によると、偶に女将にそんな風に強引に迫る人間がいるらしいのだが……どうにもニンジャによって撃退されているそうだ。

 ニンジャナンデ!? これだからネットは信用ならない。これはちゃちゃのんのケジメ案件では?

 というか、しばらく煌たちが行っていない間にどうなっているのだろうか。奈良って殺伐都市ではないはずなのが。


「いらっしゃいませ、おもち……いえ、お待ちしてました!」


 宿に入れば迎えてくれる、黒髪美人の大和撫子。

 松実玄。完璧な日本的な高嫁力である。一部を除いて。

 一瞬の内に、どことなく体中を舐め回されるように眺められて、同時に「おもち力たったの5だね」と吐き捨てられた気がする。

 残念ながら、このメンバーに彼女のお眼鏡に叶うおもち持ちは居なかった。

 一応はと言えば、大星淡が中々に実っているが……それでも玄からしたら「おもち力たったの5」らしい。自分基準か。

 とりあえず、そんなおもち狂いの女将は置いておこう。というか自分の胸でも揉んでたらいいんじゃないだろうか。

 煌は実際やさぐれかけていた。世も末法である。


「……あれ?」


 と、煌は見かけぬ人影を見た。それとなく、カメラの視界を遮る。

 藍色の髪のセミロング。眼帯をした少女が、和服の装いで盆を運んでいたのである。

 確か以前に見た覚えはないし、何よりもあんなに若い子が働くのだろうか。バイトにしてはハードすぎる気がする。

 それとも、ブッ壊れた雀卓の修理費用でも稼ぎに来たのだろうか――なんて首を捻れば、玄が耳打ちをした。


「知り合いの人の紹介でね……うちで、住み込みをしてるの」


 はあそんなもんかと、煌は頷いた。

 どんな人間にも事情はある。ちょっと気になっただけなので、深く追求する気はなかった。


 そして、ひとまず収録の方は中断となった。

 今回の収録内容はたしか――えっとたしか、桜の花びらでモザイク画を作るとかそんな狂気の沙汰。

 その手の狂気担当者はもう芸能界を去って長いというのに、そのノリで番組を作るのはどうかしてる。(照だけに)


「さて、皆さん……ここはすばらっな温泉で、旅の疲れを癒すというのはどうでしょう!」


 女性三人、一室に泊まる――というのは何ともちょっと心躍る。

 具体的に言うと修学旅行的な。

 だけど悲しきかな、高校生と違って「誰それが気になるトーク」はない。というかアラサーになってそれは絵面的に悲しい。

 下ネタになれば間違いなく生々しい話となるし、年を取るのも考え物だ。

 となれば枕投げかと言えば、そんな事したら多分三日後ぐらいがヤバイ。筋肉痛で。

 年を取ると筋肉痛も遅れてやってくるのである。あとアラサー三人が枕投げとか絵的によろしくない。

 ごめん心躍るとか嘘だった。悲しみしかない。


「あ、ごめんなさい。私予定があるんですよー」

「すばらっ!? ま、まさか先ほどの素敵な出会いとかナンパとかそういうのでしょうか?」

「いや、今パシリの人がこっちに来てるらしいんでー、あいさつに行こうかなーって」


 「これお土産!」と、胸を張りながら答える淡。ちょっと揺れた。いや結構揺れた。くそう。くそう。これが格差か。くそう。

 パシリの人とは、小走やえ――M.A.R.S.ランキング7位の麻雀プロである。

 出身が奈良県。それ故に、里帰りでもしているのであろうか。

 なんだか飲み会か何かで意気投合して、それからちょくちょくと連絡を取っているそうな。


「あ」

「なんでしょうか?」

「私もう奈良何回も来てた!」

「アッハイ」


 もうこのアホの子どうにかして……と言いたくなった。

 が、耐えた。

 弘世菫からこう言われていたのである「淡が駄目になるのはある程度気を許した相手にだ」……と。

 ちなみにそうなると、先輩をパシリに使ったりタメ口を使ったりし出すらしい。

 それは気を許されない方がいいのではないか。煌は訝しんだ。その胸は平坦だった。

 なお、珍しい反応というのは――菫曰く「やたらとライバル視する」か「やたらと尊敬して懐く」のどちらからしい。

 どちらも同ベクトルにあるというのは、それって基本的に大星淡は傍若無人という意味ではないか。

 つまり、気を許した相手というよりは見知った相手に接する素ではないのか。レアさの欠片もない。


 ……閑話休題。


「では、照さんはどうでしょう?」

「私は……」


 暫しの沈黙。この沈黙が微妙に重い気もするが、そこは慣れたもの。

 最近にもなると煌も、この沈黙の内の種類を見分けられるようになっていた。

 そう、たとえば――「おかしが口に合わなかった」「おかしが欲しい」「おかしが足りない」「おかしの食べ比べをしている」とか。

 お菓子しかなかった。お菓子評論家か。

 だが――今回はそのどれでもない。そして、僅かばかりその顔に影が差した……気がする。


「いえ、申し訳ないです! 照さん!」

「……煌?」

「私から言い出して、実にすばらくない話ですが……私も予定を思い出しました。なので、自由行動という事で」

「……」


 取り繕うように身振り手振りで応じる煌に、照はゆっくりと頷いた。

 どこか、申し訳なさそうにしている風でもあったし、感謝している風でもあった。煌の思い違いでなければ。

 兎に角――これで自由行動という運びである。


「じゃあ、夜には戻ってくるという事で」

「テルー、もの拾って食べちゃ駄目だよ? あと迷子になっちゃわないでね?」

「……淡こそ、変な車とか変なお店に近付かないようにして」




 さて、と一幕。

 さては一杯の茶が美味いというのは饅頭怖いだ。

 一度だけ彼女もお菓子怖いと言ってみたが相手にされなかった。そういう教養が通じないのは実に悲しい事だ。

 これは落語であるけれど、やはり文学に触れるというのは大事なのではないか。

 武士の教養に古典や和歌が入っていたのは言うに及ばず。

 英語圏でも、ラテン語や古典文学の知識というのはその人の生まれ育ちを判別するのに重要になっているとか。


「……」


 ……で。

 要するに長々と考えているそれは現実逃避であった。

 宮永照、彼女は道を見失っていた。

 いや、違う。間違えているのは道の方だ。自分を見失っているのは道の方だ。お菓子おいしいです。

 そう胸を張ってみるが、答えは返らない。宿にも帰れない。なお実際その胸は平坦だった。


(大丈夫。ちゃんとサバイバルガイドも読んだ)


 こういう時は落ち着いて、太陽の方向に時計を向けてみればいいのだ。

 その短針と十二時の方向から方位を算定できる。やはり本を読むのは大事である。お菓子おいしいです。

 実に落ち着いた気持ちのまま、太陽へと短針を向けようとして――


(日が沈んでる)


 宮永照は、目をしばたたかせた。これは予想外だ。なんという事なのであろうか。

 だがまだ慌てるべき時間ではない。ただ一つの方法しか分からないのでは文学少女の名折れである。

 人間がこれまで蓄えた知識はそんなちっぽけでは無い筈だ。ならばそれを趣味にしている自分もそうである。お菓子おいしいです。

 そう、こういう時は落ち着いて年輪を探せばいい。その年輪の密度で北と南が――


(切り株どこだろう)


 そもそもそうも都合よくある筈がなかった。

 何たる不条理か。照は驚愕した。役に絶たないサバイバル知識である。誰が書いたんだあんなもの。

 額を冷や汗が伝う。絶体絶命だ。何よりも不味いのはお菓子がなくなった。このままでは餓死するのではないだろうか。


(……淡は大丈夫かな)


 彼女の頭を過るのは、あの後輩の事である。

 宮永照は断じて――――そう、断じて見失ったのは彼女ではなく道の方だが、一般的に言えば迷っているとも言えなくもない。

 ただ、まあ、拾い喰いをしてはいない。流石にそこまで人間の尊厳を捨てていない。

 道端に未開封のお菓子が落ちていたときはちょっと心惹かれたが、無論それを拾って食べるような人間様ではない。

 流石に馬鹿にしないで欲しい。

 暴“山”の方の駄菓子を冷たい目で無視した宮永照であった。山の方じゃなかったらどうなっていたかは想像の余地を出ないが。

 ……で、だ。

 淡が彼女に向けてきた注意が、こうして実現しているのである。

 ならば淡に対して照が向けた忠告も実際のものとして現れているのではないだろうか。

 例えば変な車に攫われたり。変なお店に引き込まれたり。


(……必ず、必ず助ける)


 拳をギュッと握りしめる。麻雀のその時のイメージのように電撃が走った気がした。

 やはり、こういうのには憧れる。単騎で皆を助けるために突撃するとか。実に小説みたいだ。かっこいい。

 実はヒーローものとか好きだった。

 残念ながら子供の頃、主役のヒーロー役は貰えなかったが……だからこそなのだろうか。ちょっとやってみたい。年甲斐もなく。


「……」


 という冗談はさておき。いや流石にそんな人が追いそれと攫われて堪るか。

 なんとなく今スモークで中が覗けないハイエースがすれ違ったが偶然である。偶然に決まってる。(照だけに)

 というか、ハイエースの製作者に失礼である。そんな蛮族御用達の奴隷商人のピックアップカーみたいに言われると。

 とりあえず鉄球を取り出して、道を眺める。

 ハイエースさんはそのまま走り去っていった。どうやら仕事帰りらしい。


 ……。

 ……うら若き女性が困っているのだからせめて声ぐらいかけてくれてもよかったんじゃないのか。酷い。迷ってるのに。


 それどころかなんだか、見てはならないものを見てしまったようにアクセルベタ踏みしてた。

 幽霊か何かと見間違えたというのか。

 というかそんな場所に人を置き去りにするというのか。


「……」


 ……酷い。

 結局どっちが道なのか判らない。このまま進んでいいのかも判らない。退いていいのかも。

 というか、道が曲がりくねっているのが悪い。その所為で戻れないのだ。

 そりゃあ、照としても自分が大体どちらから来たのかなんて把握している。無論である。そこまで愚かではない。

 だから、別の道を通る事になっても大体の行く方向は判る。判るのだ。判らぬ道理があるものか。

 ただ、判るからこそ困る。

 大体こちらへ行けばいいかと、一本別の道に入ったとする。理論上は、その移動分を加味して考えれば戻れる。

 だけれども、そういう時に限って道が悪い。

 変に曲がりくねっていたり、変に反っていたり、或いは横の道に入れなかったり、途中で止まっていたり。

 つまり何もかも道が悪い。


「……」


 そう、謝罪と賠償を要求したい気持ちでいっぱいになったが……道に話しかけるなんてどうかしている。流石に彼女もそこまで酔狂ではない。

 なんて、くだらない事を考えなければ二進も三進も行かない。どうにもブルドッグは関係ない。というかこのネタ分かるのだろうか。アラサーである。

 ひもじいし、やはりまだ完全に夏とは行かないので寒い。山だし。

 春は花冷えというぐらい寒いと松実宥がストーブを前に言っていた気がする。

 日は長くなり始めたけど、もう落ちている。それが訳もなく不安を煽るのだ。


「……京ちゃん」

「はい?」

「え」

「え」


 呟いたところで返事があったとき、流石の照も目を見開いてしまった。



「強くなったね、京ちゃん」

「……それ出会いがしらに鉄球叩き込んで言いますか?」


 思わず繰り出した鉄球を見事に躱されて、漸く宮永照は落ち着いた。

 これは須賀京太郎である。

 身体能力というか、センスは前より磨かれているらしい。不意打ちに反応するとは。前髪と鼻っ柱を掠めたけど。

 何があったのか。何となく命の遣り取りを経たような凄味がある。本当に何があったんだ。


「……」

「……で、まあ、照さんは道に迷ってた――と」

「私じゃない。道が悪いんだ」

「アッハイ」


 まるで本当に――何もなかったように。

 何もなかったように昔みたいに、須賀京太郎は柔和な笑みを浮かべていた。……若干苦笑交じりだ。

 そのまま彼は、照の隣を歩く。本当に何も変わらずに、昔みたいに。

 これが……夢だと思えるほどに。


「泊まってるのは……」

「松実さんのところ」

「……理由は」

「嫌でしょう」

「……ですよねー」


 あの番組また同じ事やっているのかと、京太郎が溜め息を漏らす。

 そんな風にする仕草も変わらない。

 別れたあの日と変わらない。


 しばしの、静寂が訪れた。

 須賀京太郎は前を見ながら。宮永照は俯き加減で。

 ただてくてくと、道をなぞる。

 時々思い出したようにどちらかが口を開いて、二三言応じる。それからまた口を閉ざす。

 その繰り返しで、どちらも深く踏み込まぬまま――歩く。

 それ以外が不必要であるように。解っていても踏み込まぬように。

 ふと、京太郎が立ち止まった。

 その顔を見上げる――先には星が輝く。須賀京太郎の金髪の向こうに星空。衣装のように、背負っている風にすら見える。


「俺、照さんに言いたい事があったんです」

「……何?」


 その瞳が見えない。余りにも星が眩しすぎて、彼の顔が霞んでいる。

 だからこそ、現実感を失ってしまっていた。

 この出会いが確かなものだという確信が得られない。彼女自身は未だに道に迷っていて、本当は寝ているのじゃないかとすら。

 そのまま、二の句を待った。

 喉が小さく震えて、唾液を嚥下する。それすらも照らしくない行動と言えたが、この雰囲気に彼女も見失ってしまっていた。


「ありがとうございます。俺……照さんのおかげで、人を助ける事が出来ました」

「……そう」

「照さんが今まで壁になってくれてたから……だから俺は強くなれた。多分、そうです」


 胸の前で静かに左手を握りしめる京太郎の姿を、照は呆然と眺めていた。

 向けられた手の甲が、そこだけ切り取られたように白い。臙脂色のカットソーが闇と同調しているだけに猶更。

 そこにいるのは須賀京太郎だが、須賀京太郎ではなかった。

 照の知らぬ思い出を背負った、別の誰かだ。だからこそ、こうも遠い。距離感が曖昧になる。

 きっとそれは、夜の所為だけじゃない。


「私は私がやる事をやっただけだから、京ちゃんが強くなったのは京ちゃんがやった事だよ」


 そう返す、照。

 それで会話は終わった。

 それ以上、お互いにまた踏み込もうとせずに歩き出すのだ。

 聞きたい事は多かったのかも知れない。伝えたい事は多かったのかもしれない。

 だけどまた、歩き出す。ただ夜の道を進む。それ以上の事には、足を進める気にもならない。

 だが――進もうとしたその時に、足元の小石に躓いてしまった。

 思わず悲鳴を上げかけた照に向けられたのは、


「――照ねーちゃん!?」


 咄嗟に差し出された手と、須賀京太郎の焦り顔だった。

 それに――重なる。夏の日が重なる。

 夜だというのに辺りは眩しくなって、何もかもが熱の蜃気楼に巻き込まれたように。

 青年の表情に、少年の面影が過った。


「……今」


 衝動に突き動かされるように、言葉が脳を介さずに口から零れ落ちた。

 その雫に頬を打たれたように顔を反らしながら、京太郎は答える。

 苦々しげに。申し訳なさそうに。恥ずかしそうに。立つ瀬がないように。


「……ああ」

「……」

「思い出したんだ、照ねーちゃんの事」


 倒れそうになって思わず閉じた瞼のその先には――。

 宮永照が知っている。宮永照が知っていた。そして宮永照の知る日常にはもうなかった――。

 須賀京太郎が、其処に居た。


「……そっか」


 もしも――と考えた事がある。

 もしも須賀京太郎が照の事を思い出してくれたらどうなるだろう、と。


 照の事を忘れてしまっていても、須賀京太郎の心根は変わらない。優しい少年は、優しい青年になった。

 だから彼は――あの日も手を伸ばした。

 高々一つのちっぽけな事を由縁に誰かの涙を許していいなんて、そんな事は理由にはならないと手を差し伸べて戦った。

 物語の主人公のように、そうせざるを得ない理由なんて彼は持たない。運命なんてないし、天運や祝福もない。

 そうだとしても――誰かが悲しみに顔を伏せているのを、止めない理由になんてならないと。

 彼は、己の持つ異形に心悩ませる少女と戦った。戦って勝った。彼女たちの最後の希望になった。

 照もその場に立ち会った。須賀京太郎がプロになって二年目の、長野での麻雀教室の事だ。


 それだけで十分だった。

 たとえ京太郎が彼女の事を忘れてしまったとしても、彼には変わりはなかった。

 ただ温和で、ただ温情で――ただ強情。そんな人間だった。

 誰しもが持っているような慈しみと、誰しもが持っているような正義感と、誰しもが持っているような祈りを持った――普通の人間だった。

 それだけで十分だったのに。

 差し伸べてくれた手は普通だったのかも知れない。彼からしたら当たり前の事だったのかも知れない。

 それだけで――でもそれだけで救われた気持ちだった。

 ――――彼は、宮永照を人間にしてくれた。

 その事が嘘じゃないと思えるだけでよかった。そんな心根が変わっていないというだけでよかった。

 よかった、のに。


「プロを辞めてから……闘ったんだ。オカルト喰いって雀士と」


 その名はたしか、照の耳にも届いていた。

 裏の方が騒がしいと――去年も暮れの事だった。

 ところがそんな噂もぱったりと途切れた。奪われたオカルトのその後の話も聞かないという事は、事態が収束したのと同義。

 一度だけ、それとなく辻垣内智葉に問いかけてみた。

 その時には「もう終わった。何事もなくな」と言われて、ただそうかと思った。そんなものかと。

 しかし、それも――。


「そんときに……まあ色々あって、思い出したんだ。照ねーちゃんの事」


 それから、と彼は続ける。


「俺が……忘れちまってたって事」


 瞳が落ちる。目線が下がって、それは照の足元あたりに。

 どう伝えたらよいものか、京太郎は悩んでいた。逡巡しながら、言葉を探していた。

 照の胸の中で、ある痛みが蘇った。

 それは今までの生活の内に押し流されて、切り取られて忘れてしまっていた感情だった。

 或いは、彼女自身が切り取ってしまったのか。切り取って追いやってしまったものなのか。


「俺、照ねーちゃんの事――」


 でもだからこそ、須賀京太郎が口を開いたそんなときに。

 宮永照は、即座に彼の言葉を区切って応じた。


「いいよ、京ちゃん。京ちゃんはその分、誰かの事を守ってあげたんだから」


 だから笑う。

 ただ自然に笑う。

 謝ろうとするあの日の須賀京太郎に笑う。


「……照ねーちゃん」

「強くなったんだね、京ちゃん」


 だって彼女は、宮永照は、自分は、「照ねーちゃん」だから。


「それだけで……うん、良かった」


 それは確かに彼の優しさだった。

 だけど別に、約束が全てではない。その約束が大事なのではなく、その約束をしようとした気持ちが大事なのだ。

 それを忘れてしまったとしても――。

 やはりその約束をした時と同じような温かい気持ちを以って誰かに手を差し伸べられたのなら。

 誰かの涙を拭おうと思ってくれる心を忘れないでいてくれたのなら――それだけで十分だった。


「京ちゃん、結婚したの?」

「へ……え?」

「今付けてないけど、付けてるってのは分かるから」


 バツが悪そうに須賀京太郎が視線を逸らした。

 その左手の薬指の中ほど、僅かに証が見てとれた。今外してしまっていたとしても、如実に。

 この様子ではきっと、喧嘩か何かでもしたのだろう。それとも仕事中か何かは外していて、そのまま外しっぱなしなのかも知れないが。

 どちらにしても、彼は彼で上手くやっているようである。


「……そうだね。じゃあ、照ねーちゃんからは一つ」


 言いたい事は沢山あった。

 伝えたい思いは色々あった。

 もしも彼が思い出してくれたらどうしようかと――照は考えても居た。

 今もやはり、悩んでいる。何を彼に告げればいいのか、彼女としても考え続けていた。

 だけど――ああ。

 ああ――――こんなときに言うとしたら、きっとこれが正しいのだろう。


「京ちゃん。――――幸せになってね」







 ある、夏の日だ。

 少年が歩く。彼よりも少し身長の高い少女が歩く。

 二人とも、口を閉ざしたまま。

 少年の躰には、いくらかの擦り傷が目立つ。それでも彼は痛みを噛み殺して、気丈に前を向いていた。

 一方の少女は、俯き加減。傍と見たら窺えない顔色で、それでも内心には苦渋が見える。

 ふと、少年が口を開いた。


 ――――大丈夫だよ、ねーちゃん。


 ――――あんな風に、高々ゲームの事でねーちゃんを虐める奴なんかに俺は負けないから。


 ――――こんなの、全然痛くないから。俺は平気だから。


 ――――またアイツらがねーちゃんを虐めに来たら、俺がねーちゃんを守ってやるから。


 ――――俺、絶対に負けないから。何回やっても、こんなの全然平気だからさ。


 ――――だからねーちゃん、泣かないで。



 少女はただ、うんとだけ頷いた。

 笑いかける少年の顔は、太陽みたいに眩しかった。



                                                         ――了

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最終更新:2015年01月03日 03:46