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「信じらんない!」


 キッと瞳を強めるその先には、須賀京太郎

 若干申し訳なさそうにしているが、口元にどこか不満が浮かぶ。


「なんで言ってくれなかったのよ! 晩御飯作ったのに!」

「いや……」

「それで外食してきたって何よ! こっちも疲れてて、それでもご飯作ってたのに!」

「それは……」


 京太郎が言葉を詰まらせた。

 そんな様子を眺めて、それ見た事かと憧は腰に両拳を当てる。

 だけれども――京太郎も負けてはいない。


「でもな……今日は俺が担当の日で、ついでに言うなら夕飯は作り置きしてあるって書いといたろ」

「う……」

「というか俺、何回か言おうとしたよな? 阿知賀で。話聞こうともしなかったのは憧もそうだろ」

「それは……そうだけど」

「だろ?」


 うぐ、と憧は黙り込んだ。

 確かに勝手に夕飯を作ったのは憧の早とちりだったかも知れない。

 しかし――だ。しかし。

 今日の昼のときに、ふと「なんかまた憧のカレーが食べたいな」と言ったのは果たして誰だろうか。

 そしてカレーの話で盛り上がったのは、一体誰だというのだ。

 それより何より、遅くなるなら一報を入れるべきだと思う。新婚の妻を家で待たせるとはどういう了見だ。お互い職場が同じだというのに。


 しかも、帰ったのは京太郎の方が早かった。

 彼はその後部活――麻雀部に顔を出したが、憧は顔も出せなかった。本日に限っては。

 話を聞かないというのも要するに、それだけ仕事が多かったから。新任の京太郎と違ってもう五年目ともなる憧の方が、やらなきゃならない量は多い。

 それでも給料は折半。家事も半分キッチリ分担。男だからどう、女だからどうと言う不公平はなくやっていこうとしてるのに。


「っていうかあんたねー、そもそもちゃんと充電しなさいよ! あと外付けバッテリー!」

「充電足んないってのは昼言ったし、その時バッテリーも忘れたって言っただろ!」

「あたしも言った! 『生徒から充電機借りたら?』って」

「俺も言ったよな。『流石にそれは無理だろ』って」


 売り言葉に買い言葉。二人の間の空気が、ますますヒートアップしていく。

 新婚。かれこれ優に三か月ほど。

 しかし三が付く日は何かの区切りと言おうか――ここに来て、結婚後初めての大喧嘩が繰り広げられていた。


「なら、誰かから電話借りて連絡しなさいよ! 送ってって、ついでに相談に乗ってたならできるでしょ!」

「そりゃ……でも、相談中に電話貸してとか言えるか?」

「終わってから時間あるんじゃないの? そんときにでも言ってくれたら、あたしもまだやりようはあったのに」

「直ぐに帰ろうと思って、車にさっさと乗ったんだよ。それで送ってった」

「で。送ってった相手の家で電話を借りるって選択肢は?」

「はいはい、思いつきませんでした。俺が悪かったです」

「あんたねえ……!」


 どちらが決定的に悪いかというものがない。少なくともお互いそう思っている。

 小さな食い違いや失念の積み重ね、或いは効果を為さなかった思いやりが積もり積もって発露した分、互いに譲ろうとはしない。

 だから、態度にそれが現れる。そしてお互いにそんな様子に、怒りを煽られていた。


「どーせ、ちょっと可愛い女子高生から『先生、相談があるんですぅー』なんて言われて調子に乗ってて舞い上がってたんでしょ?」

「はぁ!? お前、生徒の事を良くそんな風に言えるよな! それとこれとは関係ないだろ!」

「なーに、図星? そんなに怒鳴ったって、あんたが正しい理由にはなんないんだから!」

「おま……!」


 京太郎が言葉を濁らせたのは、確かにそう思っていた事を突かれたから。

 だけれども彼にとっては『生徒から信頼されて相談事をされる教師』への嬉しさがあり、勝っていたのもそちらの方。

 憧からの紹介という形で女子高である阿知賀の教員として付いている以上、彼女の為にも早く一人前の教師として認められたい。

 また、言うまでもなく愛しているのは憧であるし、だから猶更、彼女の口からそんな風に俗に塗れた邪推を向けられる事が我慢ならない。


「……ああ、そうかよ!」


 頭を冷やしてくると、京太郎はキッチンを出た。臙脂色のカットソーと白いパンツのまま、上着も持たずにスニーカーをつっかけて家を出る。

 一方の憧も、勝手にしろと顔を背けたまま。お鍋の前で腕を組む。

 やがて、足音が離れていく。そんな中でも憧は、目をきつく結んでいた。怒り心頭。未だに冷めやらない。

 その前には、鍋に入った大量のカレー。


「……せっかく作ったのに」


 新しい生活に、京太郎が戸惑っていると思った。フリーターと違って、やはり急激に業務量や責任は増える。

 憧にも、覚えはあった。新任教師の辛さは分かっていた。

 だからこそ――だからこそせめて、ちょっとでも京太郎が食べたいと思っていたものを作って元気づけてあげたかったのに。

 その結果がこれだ。

 本当に――本当に、少しでも連絡してくれたなら。どこかでちゃんと一報をくれたのなら、こんな事にはならなかったというのに。

 京太郎の調子の良さと、慣れた人間に対する気安さが恨めしい。同じだけ自分の、勝手な思いやりというのも憎らしい。

 それらが完全に、裏目に出ていた。




 ◇ ◆ ◇




「……よ、ただいま」


 返ってきた京太郎は、凄惨な有様だった。

 頬には擦過痕。肩口の辺りからは出血をして、その身も憔悴し切っている。

 エプロンをつけたままの憧は――それでも思わず飛び出して、その体を抱きしめた。


「……おかえり、京太郎」

「……ああ」

「心配、したんだから……」


 声に涙が滲んだ。

 麻雀を打つという話であったが、まさしく彼は戦場に居たのだ。命がけで戦っていた。

 その手に携えた袋から覗いた柄――完全に物語の騎士が振り回すような、身の丈ほどの大剣のそれ。

 憧も知っている、以前京太郎が出演したドラマで使用していた武器――小道具。

 麻雀に何故そんなものを持っていくのかは不明であったが、どうやらこの分では一度包装を解いており、使用したのであろう。

 何があったのか聞きたい。でも、聞けなかった。

 ただ彼は――憧の元に還ってきてくれた。

 迫り来る困難を押しのけて、押し寄せる邪悪を切り払って、憧の待つ家まで戻ってきてくれた。

 それだけでも、もう胸は一杯だった。そんな気持ちが溢れ出て、目を伝って頬に流れる。


「……憧」

「なに、京太郎」

「ちゃんと、見えてる。……見えてるからな」


 そう言って、京太郎から強く抱き返す腕。

 本音を言うなら、そんな戦いになんて行って欲しくはなかった。ひょっとしたら失明するかも知れないなんて、憧も重々承知だった。

 見知らぬ誰かの為に、身を危険に晒して欲しくはない。当然だ。

 だけれどもきっと、須賀京太郎は考えなしにはそうしない。しっかりと考えた上で、それでも京太郎しかできる人間が居なかったから戦いに行った。

 憧が京太郎の光を危ぶんだように、きっとそれ以上に当人が失明を恐れているのだから。

 だけれどもそれでも彼が戦いを選択するというのは、つまりはそういう事だ。


 だったら――それを支えてやるしかないじゃないか。

 悲しむ事は、行きずりの人間にだって出来る。止める事も同じく、どこの誰でも出来る。

 でもそうやって覚悟をした男を送り出す事は――――きっと、憧にしか出来ない事。

 だから、精々強がって背中を叩く。不安なのは京太郎も一緒で、後ろ髪を引かれるのは彼だって同じ。

 だけれどもそうやって余計な事に悩んでいたらきっと、それが京太郎の明暗を分けてしまうから――だから。

 だから他でもない憧が、京太郎を送り出してやる。


 戦って欲しくないから止めるんじゃない。心配しているから引き留めるんじゃない。

 絶対に無事でいて欲しいから、だからこそ猶更、憧はその最後の希望と勇気になってやるのだ。

 好きだから諌めるのじゃない。好きだから縋り付くのではない。

 愛しているから――だからこそ、笑ってそんな男を送り出してやるのである。


「うん……。ありがとう、京太郎。帰ってきてくれて、ありがとう」

「まー、約束したしな。最後の希望が、希望を裏切ってどうするんだよ」


 笑う京太郎の胸に手を添えた。

 熱い躰。つい先ほどまで、命の遣り取りをしていたと、何よりも雄弁に語る鼓動。

 多分それは京太郎にとっては予想外で、でもどこかで覚悟していた戦闘。恐らくは襲い来る火の粉を、自慢の肉体で切り開いたのであろう。

 本当に、無茶をする奴だ。

 誰よりも平和が好きそうで、穏やかな男なのに……だからこそ強情で。


「それにほら、可愛い嫁さんを未亡人にする訳にはいかないよなーって」

「……ばか」


 それから――全部が終わって、聞いた。

 彼がどういう戦いをしていたのか。どういう風にして、その輪の中に飛び込んでいったのか。その戦いの中で何があったのか。

 肌蹴た肩を並べてシーツに横たわる京太郎の腕が、憧の髪を撫でた。慈しむように、穏やかに。

 先ほどまで愛を熱く耳元で囁いていた口が、徐に開く。


「それでも流石に拳銃向けられた時は……これヤバイって思ったけど」

「はあ!? 銃!?」

「全部終わってから、そいつがゴネてさ」


 京太郎は振り返る。

 勝負を決めて、天目譲司の野望を打ち砕いたその後――譲司とそれに組する者たちは実力行使に踏み切った。

 あとは単純。泉や恭子、伊吹は立会人に任せて、京太郎はその暴力を叩き潰しに掛かった。

 元より古式ムエタイのそれは、戦場への運用を主眼としている。故に破壊する箇所は首や頭部、相手の膝など鎧の外にある部分。

 打撃についても、前蹴りや肘打ち。膝蹴りなど“己が武器を持っていても咄嗟に使える部分”を使用するのはそれが故。

 聖ジョージの剣を片手に立ち回る。

 撮影で覚えた殺陣と、アクロバット、それから古式ムエタイをベースに組み合わせた戦闘術。

 人間にある意と間合い、その出だしを剣で殺し――――小道具と言っても迫力がある。切っ先を意識のその先に置かれたら人は止まる――――制圧。

 あとは余程迫力があったのか、殺陣の内に習った“正しい峰打ち”を行う事で、精神的ショックと思い込みで“斬られた”と気絶させた。

 やはり、色々な事をやっておくものだと京太郎は思った。何が命を拾うことに繋がるか判らない。


「だから肩、こんな風に……痕になっちゃうかもね、これ」

「まぁ、それを言ったら背中の爪痕の方が――」

「ううううううう、うるさいわよ!!!! うっさい! うるさいこの馬鹿! うるさい!」

「それを言ったら憧の声の方が――」

「うううううううううううううううううるさい馬鹿喋るんじゃないわよこのドスケベ変態鬼畜男ド変態!」

「でもそれで悦んでたのは憧の――」

「黙りなさいっつーの! っていうかあたし黙れって言ったわよね!? ああそう物理的に口封じされたいのそうなんだそうなのねへーそうなんだへぇえええええ!」

「え、ちょっと憧さん……? あの、怖い……顔怖いぞ、なあ……」

「あー、こんなところにお酒があるー。飲んじゃおーっと♪」

「ちょ、おま……それは…………ちょ、お、あ、おい、うお………………アッ――――――――――――――!?」


 翌日、「穢された」と京太郎はさめざめと泣いていた。

 お互い様だと、憧は思った。




 ◇ ◆ ◇




「……はぁ」


 一人静かに腰掛けるうちに、段々と頭が冷えてきた。

 同時に浮かぶのは、彼がこんな時間にどこに行っているかだ。

 コンビニで時間を潰すというには長すぎる。パチンコなどの賭け事を行う男ではないので除外。

 雀荘は――あれからコーチとして打つ事はあっても、それ以上麻雀を打とうとはしていない。

 やはり、多少なりとも目に負担がかかるのか。それとも、プロの第一線に立っていた身がアマチュアに交じって稼ぐのは不公平と思っているのか。


 となると一体、彼はどこに行くのだろう。

 奈良県吉野は、憧の実家だ。彼の生まれ育ったのは長野で、仕事をしていたのは東京。どちらもあまりにも隔てられている。

 だから、実家を頼るというのはあり得ない。そもそも男が実家に帰るというのは余り聞かない。

 それにもう、頼ろうにも京太郎に両親はいない。


 では……。

 彼の知りあいというのは、阿知賀女子の――つまりは憧の同級生やチームメイトである。

 憧の親友の高鴨穏乃は京太郎の元恋人。高校時代の一時――一年に満たない期間交際をして、それから破局した。

 それは幼い高校生での遠距離恋愛故のひずみであって、お互いの関係が冷めきったり、嫌い合ってという事ではない。

 憧の先輩である松実玄は京太郎とも友人関係。プロの時、たびたび番組での取材の機会もあったとか。

 黒髪の美人で、おしとやかな大和撫子。男ならば放ってはおかないし、あれは京太郎のタイプであろうと思う。

 おそらく――憧の見立てでは、玄も満更ではない。憧とこうして結婚していなければ、今頃は玄と結ばれていたのではと思うほど。


 それから、同じく先輩である鷺森灼

 ここに関しては女の勘でしかないが――距離が近い。

 大学のときに、憧と京太郎は殆ど一緒に居た。だけれども、二年生の一時彼が失踪した事を知っている。

 それは後輩を止める事が出来ず、必死に食い下がった為に家を開けがちだった両親に変わって彼の傍に居てくれたペットの異変の発見が遅れ、死に立ち会えず――。

 止めとして、憔悴した京太郎の世話を焼いていた憧に対して当り散らしてしまってから起きた事。

 結局夏休みいっぱいをどこぞで過ごして戻ってきた京太郎は、以前のように笑うようになり、以前よりもタフで強くなっていたが――。

 ひょっとしてそれに、灼が関係しているのではないかと思っていた。


 他には、松実館で住み込みで働く(形としては手伝いであるが)あの少女――石見伊吹。

 オカルト喰いと呼ばれた、オカルトスレイヤーの最後の敵。須賀京太郎が手を差し伸べた少女。

 彼女の家に母はなく、父親と二人暮らし。おまけに父親が重ねた借金のカタにヤクザの元で、賭場の勢力拡大の駒として扱われていた。

 それを京太郎が助けた。盲目となるリスクを背負い、銃撃を受けつつも救い出したのだ。

 その父親の元に居ては――結局は元の木阿弥となる。そんな判断から憧と京太郎は関連施設へと届け出て、彼女と保護者の親権を解除した。

 言うのならその父親は強度のアルコール依存症でもあり、京太郎は元とはいえ麻雀プロ。おまけに憧が教師なので、駄目押しとなった。

 それから――友人である弁護士の原村和に相談して、どうにか彼女を引き取れないかと考えた。婚姻を結んでいれば、その資格はある。

 しかし少女からの申し出で断られ、結局後見人という形に落ち着いた。

 その彼女は、京太郎に慕情とも好意とも憧憬とも尊敬とも付かぬ感情を抱いている。物語の騎士のように苦境から助け出してくれたのなら、無理もないだろう。



「……あたしってば、最低」


 憧の心を深く曇らせたのは、この場で“それ”を考えてしまったから。

 友人を疑い、先輩を疑い、夫を疑う――どうしようもないドス黒い想像。

 皆、そんな事をするような人間ではないと思っているし、憧も信じている。だからこそ――ホンの少しだとしても頭を過った可能性が、吹き出るほどに恨めしい。

 何よりも恥ずかしい。

 一瞬でも、最悪の想像をしてしまうような自分の弱さが情けなく、消え入ってしまいたいほどの羞恥と恥辱を生んだ。


 キッチンの中を静かに見回した。

 やったのは口喧嘩だけ。お互いに決して、手を出そうとはしない。

 憧も癇癪に任せて物を叩きつけたりもしなければ、京太郎も怒りそのままに手を上げはしない。二人ともその程度の分別はあった。

 だけれども、あるからこそ何故こうなるのか――という思いでもある。

 本当はちょっと、京太郎を励ましたかっただけなのに。ほんの少しでも喜んでくれたら、料理を食べるその顔に幸せな気持ちになれたのに。

 なのに、どうしてやってしまったのだろうか。

 間違った事は――言ってないと思う。京太郎にだって、非はあった。だけれどもそれは、ホンの軽い気持ちであったのだろうとも。

 些か目くじらを立てすぎたのではないか。それに、後半はただ苛立ちをぶつける口実を探していたのではないか。

 学生時代はこんな風にしょっちゅう言い合いになった。お互いに余計に意地を張って――余計に噛み付いて。

 いつまでそれを繰り返すのだろうか。もう卒業しても良い筈だ。でも……。


「……よし。とりあえず、カレー食べよう」


 思えば、帰宅してから何も口にしていなかったのである。腹が減れば、それは苛立ちに向かうのも必然。

 どうするにも、と頭を振る。

 すっかり冷めきってしまった鍋に火を通して、皿に盛りつける。一応、もう一皿も出した。

 それから、冷蔵庫にしまってあった京太郎が作り置いたおかずも並べる。

 そのラップの上にある文字に――『ちゃんと食べる事。あと洗い物は俺がやるからそのままでオッケー』――顔を綻ばせる。

 そんなときに、玄関が開いた。鍵が回される音――聞きなれた足音。


「……」

「……」


 何となくの気まずさで、挨拶をする事が出来なかった。

 互いに視線を合わせれず、憧は逃げるように鍋に向き合う。


「……カレー、食べる?」

「……ああ」


 盛りつけた皿の、具材が溶け合ったカレー。

 そのまま二人で黙々と食べた。だけど、やけに辛い。空腹だからだろうか。

 見れば、京太郎の方も舌を突きだしている。どうにも調味料を入れ過ぎたのか――何ともおかしな話だ。

 そうして食べているうちになんだか悩んでいたのが馬鹿らしくなって、自然と笑い合っていた。


「憧、悪かった。言われてみたら、確かに言うとおりだったよな」

「ううん、あたしもちょっと言い方酷かったし……。お互い、次から気を付けようって感じで」

「だな」


 そうして穏やかに話しているうちに――本当にカッとなって暴れたりしないでよかったと、二人揃って胸を撫で下ろした。

 それから、『ちゃんと連絡手段を確保する事』という形で話は終わった。

 諍いの大元を引き起こしたのは、実に些細な擦れ違いからである。理由さえ判ってしまえば、あとは気を付けるだけだ。早々繰り返さない。

 京太郎が片付けを請け負ったそのまま、憧は風呂場に向かった。

 長くなったが――実に互いに不本意な形で長い一日となったが、あとはもう休むだけだった。


「そう言えば京太郎、どこ行ってたの?」


 風呂上り、リビングの白いソファーに腰掛けて。バスタオルを頭に被せたまま。

 なんとなくニュースを付けながら、同じく風呂を上がってストレッチを行う京太郎に肩越しに問いかけてみる。


「んー、その辺走ってた。身体動かせば割と気分ってどうにかなるしなー」

「……この体力馬鹿」

「嫁さんの為に鍛えてますから」

「……ただのあんたの趣味でしょーが」


 軽口で応じる京太郎に、口を尖らせて返す。

 昔はこんな風になりたいと思ってもなるとは思っていなかったが――やっぱりお互い、根本のところで変わっていない。

 尤も、流石に憧とて昔と違って即座に拳で応じなくはなった。そういう意味では互いに成長したのであろう。


 一つ分を開けて、京太郎がソファーに腰を下ろした。僅かに揺さぶられたそのままに、京太郎の顔を見上げる。

 穏やかな目であるが……どことなく、様子が違う風にも思える。

 そう憧が考えた瞬間、応じるように口を開く京太郎。変なときにタイミングを外さないのは、昔から。


「あとはまあ……珍しい人に会ったか」

「珍しい人?」

「……宮永照。玄さんとこに泊まってるんだって。道に迷ってたんだぜ、あの人」

「あー、方向オンチかー」


 何とも思わぬ――或いは憧を信頼しているからこそ、実に平然と呟いた京太郎のその言葉。

 実際のところ、ああそうかと憧も受け流した。久しぶりに共演者にあって昔の想い出の一つや二つを語ったのかもしれない。

 京太郎の瞳に満ちるそれは、望郷の気持ちや――或いはノスタルジーにも似ていた。

 疑問は解消された。まあ、それはいい。そして別にだからどうという話ではない。

 話ではないのだが……やはりどこかで、負けず嫌いな憧が顔を覗かせた。


「あたし、さ」

「ん?」

「玄とか宥姉みたいにスタイル良い訳でもないし……しずみたいに、京太郎の前からって訳じゃないし……テレビ出てる人たちみたいに可愛い訳じゃないけど……」


 腰かけたソファーの上。一つ分挟んだ隣に座る京太郎。

 胸が苦しくて何となくその顔は見れなくて、ただテレビ画面を眺めながら次を繋ぐ。

 言い出してしまったら――さっきまでは小ざっぱりとした気持ちであったのに、己の内で何かが高ぶっていくような感覚を憧は得た。


「目を離さないで……って言ったのに……なにしてるのよ、馬鹿」

「……悪い」

「馬鹿」

「ごめん」

「ばか」

「悪かった」

「……ばか」


 ソファーの間に置かれた手が、重なる。お互いの指の間に噛み合って、熱を持つ。

 汗も掻いていないのに湿り気を帯びた熱を感じる掌に合わせて、ソファーの空白が縮まっていく。

 そこで――何かを思い立ったように、京太郎がぽつりと口を開いた。


「憧、俺さ……。――今、幸せだよ」

「……あたしもよ、京太郎」


                                                  ――了

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最終更新:2015年01月04日 04:02