* *
「あ、ちょっと待って!」
笑顔でテニス部の朝練に出かけようとする「娘」を呼び止め、鏡台から持ち出したリボンで髪を結んであげる。
「そのまま髪下ろしてると、運動するのに邪魔でしょ」
普段のあたしは運動時には後ろでまとめて簡易なポニーテールにしてるんだけど、折角だから昨日と同じくツインテール仕様にしてあげた。
実は何気に気に入ってたみたいだし、実際、今の「恵美」のかわいらしい雰囲気にはこっちの髪型の方が似合ってる気がするしね。
「あ、ありがとう、「ママ」……それじゃあ、改めて、行ってきます」
テニスの技術自体については、ママも学生時代テニス部だったから、そんなに心配ないはず。と言うか、むしろママの影響であたしが中学からテニスを始めたと言うほうが正しいし。
まぁ、人間関係的には多少の不安は残るんだけど、どの道、学校自体を休まない以上、部活の方にもキチンと顔を出しとくべきだろう。それなら、会話する機会の少ない朝練で、ある程度部員の顔とか把握しておくほうがいいだろう。
「はい、いってらっしゃい」
そうやって「娘」を送り出したのち、あたしは「ママ」の日課をこなすべく、掃除機を手にとった。
母子家庭かつ母親も外で働いているウチの家では、土曜日が「掃除の日」、日曜日が「洗濯の日」と決まっているけど、平日だからと言って家の中のことを何もしないというわけじゃない……らしい。
いや、あたしもママに聞いて初めて知ったんだけどさ。
出社前の1時間ほどのあいだに、月曜と木曜には軽く掃除機をかけ、火曜と金曜には普段着と下着の洗濯くらいはするものらしい。
(ちなみに水曜は、会社で朝から会議があるので、少し早めに出ないといけないんだって)
もっとも、ウチの家は築18年・木造2階建てで、1階が居間とダイニングキッチン(+トイレ&浴室)、2階は寝室がふたつあるだけ、という小さな借家だから掃除するにしても、さほど手間じゃないんだけどね。
鼻歌交じりに居間と台所の掃除を終え、掃除機を持って2階へ。元のあたしの部屋、そして今のあたしが使っている寝室の順に掃除機をかける。
むぅ、改めて昼の光の下で見ると、「雪乃」の部屋って……ちょっと彩りに欠けるかも。
どの道、すぐに元に戻れる見込みがない(仮にあの人形をおじさんに入手してもらうにしても、多分それなりに時間はかかるだろう)以上、この部屋をあたし好みで多少模様替えしちゃってもいいかな。
まぁ、これは平日は無理だし、本来のママ──「娘」とも相談しないとね。
さて、そろそろ出社の用意をしますか!
「雪乃」が普段着として愛用しているカットソーを脱ぐと、その下から白に近い色合いのコーラルピンクのボディスーツが露わになる。
「やっぱし、いいなぁ、コレ」
下着の上からムニムニっと軽くオッパイをつかんで揉んでみる。
ママは「こんなに大きいと肩が凝るし下着もなかなかサイズがない」っていつも嘆いていたけど、あたしとしては、やっぱり女はこれくらい乳房が大きい方が魅力的だと思う。
実際、ふたりで街を歩いていたも、男性(とくに大人の人)の視線は、だいたいママの方に向けられることが多かったし。
母娘だけあって顔立ちはよく似ているんだから、違うとしたら……やっぱり体型(主に胸)だよねぇ。
そりゃね、あたしもまだ16歳だから「将来はママみたくバインバインになる!」って望みは抱いてたわよ? でも、昔のママの写真を見る限りでは、正直いまのわたしより確実に一回り大きいんだもん(Dカップだったかな?)。
ママは「わたしも昔は恵美ちゃんみたいにスラリとしてたのよ~」って言ってたし、確かにそれも間違いじゃないんだけどさ。でも、ママは背だってあたしより高かったし……。
5歳の頃なんであたし自身はあまり覚えてないけど、亡くなったパパは、聞くところによると小柄で痩せてたらしいから、その遺伝もあるんだろうけどね。
胸だけじゃなくて、ウェストはあたしと1センチしか変わらないくらい細く締まってるし、ヒップは逆に女らしくまろやかな曲線を描いている。
あたしなんか、友達に「恵美のお尻って少年みたい引き締まってるね」って褒めてるんだか貶してるんだか、よくわからない評価を受けてるって言うのに。
こういうのを「ボン・キュッ・ボン」とか「モンロー体型」って言うんだろうなぁ。
──フン、フン、いいもんねー、今はこのグラマラスボディはあたしのものなんだもん!
あたしは気を取り直して、着替えを続けた。
まず、ブラウスと言うよりドレスシャツと言う方がふさわしいイメージの、ビシッとノリの利いたピンストライプのシャツを身につける。
藍色の紐タイを結んでから、ママのアドバイスに従って、先にオーキッシュブラウンのパンストを履く。タイトスカート履いたあとだと、皺になっちゃうからね。
で、空色のタイトスカートとベストを身につければ、「上原雪乃・秘書モード」は完成。ちなみに、職場はここから歩いて3分の商店街の端っこにあるので、着替えはいつも家で済ませてるみたい。
「……っと、いっけない」
お化粧を外用のものに直すのを忘れてた。
もちろん朝起きたときに、肌の手入れと簡単なメイクぐらいはしてるけど、ほとんど社屋内にいるとは言え、一応「外」に出る以上は大人の女として、身だしなみにはそれなりに気をつけないとね。
あらためてアイラインとルージュを引き直す。
昨日の昼は、あくまで休日モードのお化粧だったから自力でも何とかなったけど、正直ここまでOL風のクッキリしたメイクは未体験だ。昨晩やり方を教えてくれたママに感謝しよう。
おかげで、いかにも「有能な美人秘書」風の顔立ちが鏡の中に写っている。知らない人が見たら、あたしが16歳の小娘なんて到底思わないだろう。
……まぁ、他人にはママの顔に見えてるワケだけど、これはあたしなりのケジメであり、「上原雪乃」として社会に出るための「儀式」だしね。
うん、時間もちょうどいいみたいだし、NEW「雪乃」、出動よ!!
……と、勢い込んで木下商事に出社したのはいいけれど、じつはココの社員さんの大半と、恵美としてのあたしも顔見知りなのよねー。
子供のころから、ママや泰男おじさんに連れられて何度も来てるし、毎年の慰安旅行には、ママと一緒にあたしも参加させてもらってる。
そもそも元々は有限会社でそんなに社員の数も多くないし(たぶん、パートやアルバイトを含めても50人はいないはず)。
おかげでママのふりをして対応するのも、そんなに難しい事じゃない。
ママのやってた仕事についても、日ごろから色々話だけは聞いてたし、昨日改めて詳しく説明してもらった。それに今は、社長である泰男おじさんが出張中だから仕事の内容も限られてる。
ママが書いてくれたマニュアルに従って書類を整理したり、机のまわりを掃除したり、社員の人たちからの要望に従って文具類を倉庫から出して来たり、その在庫が切れてたら商店街で買って来たり……。
正直、中学の頃、生徒会書記としてやってた仕事とあんまり変わらないなぁ。
そう言えば、社内会議の時は、ママが議事録とかつけてたそうだから、ますます秘書と言うより書記だよね。
唯一違うのは、泰男おじさん──木下社長のスケジュールを管理・調整することらしいけど、これもパソコンのスケジューラーを使えば割と楽らしい。
実際、午後3時を回るころには、今日やるべき仕事はほとんどなくなっていた。
むしろ、4時になって「あれ、珍しいですね、上原さん、こんな時間までいるなんて」って、ベテラン社員に驚かれたくらい。
9時半に出社して午後3時半に帰宅!? いや、確かにママは正社員じゃなくパート扱いだから、そんなものなのかもしれないけどさ。
(もっとも、それは社長のいない時だけで、普段はちゃんと9時5時勤務らしいことは判明した。それでも、このご時世に実働8時間って……)
ま、まぁ、お仕事が楽だからって、文句つけるのも変だよね、ウン。
深く考えるのはやめにして、あたしは退社することにした。
家に帰ったら、すぐに寝室に戻って着替えることにする。
と言っても、これから夕飯用の買い物に出ないといけないのよねー。普段なら日曜は食料品を多めに買いこんでくるんだけど、昨日はあたし達の服とか中心で、あまり冷蔵庫のストックが増えてないし。
あたしは、ママの普段着を手に取り……かけて、やめにした。
んー、前々から思ってたけど、ママの普段着って、ちょっと地味過ぎるのよね。
素の容姿自体は25、6歳って言っても通用する反則的な存在のクセに、この地味でおとなし過ぎる服装のせいで相殺されて、結局それより幾分年上の30歳前くらいにに見えちゃってるし。
(まぁ、実年齢考えると、それでも十分若々しいんだけど)
うん、決めた! この際だから、あたしが「雪乃」でいるあいだだけでも、それなりに見合った(そしてあたし好みの)、イケてる格好しちゃおーっと。
チラッとだけ「元に戻った時、ママが困るかな?」と言う考えが脳裏を過ったけど、それでもなお、この美しい身体を誇示したいという欲求の方が強かった。
そうと決まれば、いくら近所の商店街だからって、こんなラフな格好で出るのはアウトよねー。さすがにスーツを着るのはやり過ぎだとしても……うん、これくらいのお洒落はしておくべきよ。
あたしが選んだのは、純白のブラウスと暗紫色のロングスカート。
一見シンプルで地味に思えるかもしれないけど、ぴったりしたブラウスには何本もの飾りタックが前面についていて、胸の豊かさをより立体的に際立たせて見せる。
また、ボックスプリーツのスカートには深めのバックスリットが設けられていて、歩くたびにストッキングを履いたふくらはぎがチラチラ見えるのが色っぽい。
髪を後ろで軽くまとめて白いうなじが見せているのも、大人っぽさをアップしているんじゃないかな。
実際、さして露出が高いわけでもないこの格好で商店街を歩くだけで、あちこちから主に男性の熱い視線を感じる。
(ウフフ……おもしろーい!)
下品にならない程度に心持ちヒップに重心を意識して歩くと、さらにその視線の温度が上がった気がする。
まったく、ママってば、こんなに女の武器に恵まれてたクセに、どうして有効活用しなかったんだろ。
まぁ、どちらかと言うと引っ込み思案な人だから、仕方ないのかもしれないけど……十人並みよりややマシ程度のプロポーションしか持たないあたしから見たら、もったいない話だ。
でも、今は違う。今は、あたしが「上原雪乃」。あたしは、この豊満な肢体を、地味な部屋着に押し込めてコソコソ歩いたりしないわ……!
そのおかげか、商店街のお馴染みの店でも、色々オマケしてもらっちゃったし……やっぱり美人は得よねー。
とは言え、浮かれてばかりもいられない。
ママの立場でいるということは、ウチの中の事もママに代わってこなさないといけないってことだし。
具体的に言うなら、今晩のご飯の支度とか。
もっとも、いくら首から下が入れ替わって、その身体が持つ調理技術が備わったからと言っても、頭の中味については元のまんまなのよね。
あたしは、友達とかと比べるとそれなりに家事手伝いをする方だと思うけど、さすがに料理のレパートリーに関しては圧倒的に知識と経験が不足している。
仕方ない。そろそろ涼しくなってきたし、今夜は鍋にしましょ。
同性の嫉妬と異性の欲望、そして両者からの羨望の込められた視線を心ゆくまで堪能しつつ、あたしは夕飯の買い物を済ませて、家に帰った。
「ただいま~」
あたしが台所で夕飯の準備をしていると、玄関から「娘」の声が聞こえてきた。
時計を見れば、午後6時半を少し回ったところ。部活がある時の「恵美」の標準的な帰宅時間だ。
どうやら、「娘」の方も、無事に女子高生としての一日を送ったみたいね。
「おっじゃましまーーす!」
ん? この声は……。
すぐにあたしのいる台所に「娘」と、彼女に連れられた少年が顔を出した。
「あら、政紀…くん。いらっしゃい」
アブないアブない。つい、いつものクセで呼び捨てにするところだったわ。
「あ、すみません、雪乃さん。お邪魔してます」
殊勝な顔つきでペコリと頭を下げる政紀。
(まったく、コイツ、ママの前でだけは行儀いいんだから!)
とは言え、今はあたしがその「ママ」なのだ。ひきつらないように注意しつつ、微笑みを浮かべてみせる。
「いいのよ、政紀くんは、ウチの子みたいなものなんだから」
これは満更嘘でもない。あたしにとってはコイツは兄弟(ダメ兄か、ヘボ弟かはさておき)みたいなものだし、ママだって息子みたいに思ってるはず。
少なくとも、この瞬間までは、あたしはそう考えていた。けれど……。
「ま、「ママ」、あのね、マサくんのところお父さんが出張中でしょ? 折角だから夕飯をウチで食べてもらったらと思うんだけど……」
なぜか、微妙に顔を赤らめつつ、力説する「娘」の姿を見れば、何となくピンとくるものがある。
「あらあら、「マサくん」……ねぇ」
「──あ!」
「へー、ほー、ふーん、そういうコトですかー」
それだけ言って、ジロジロと視線を投げるだけで、「娘」はおもしろいほど動揺している。
どうやら、この勘、アタリみたいだ。そう考えれば、確かに納得のいくフシもある。こんなに美人なのに、浮いた噂のひとつもないと思ったら、まさかの伏兵ねー。
とは言え、良識が服着て歩いてるようなママとしては、さすがに娘と同い歳の少年にモーションかけるわけにもいかず、ひとり悶々としていたのだろう。
それが、対等に接することのできる「幼馴染」という「恵美」の立場に立ったことで、ちょっと浮かれて、気持ちが零れ出したってトコロかしら。
「いいわ。幸い今晩はすきやきだし、政紀くんも遠慮なく食べてってちょうだい」
本当なら、恵美(あたし)の代役としては慎重さに欠ける行為と咎めるべきかもしれないけど、どの道、完全に互いのフリなんて出来るはずがないのだ。
第一、いつになったら戻れるかわからないのに、自分の意思を押し殺して他人(まぁ、あたし達は親子だけど)のフリをして無難に日々を過ごすなんて、考えただけでも気が滅入る。
そういう意味では「お互い様」だし、むしろ、あたしもそれなりに好きにやらせてもらう口実が出来たとも言える。
「じゃ、「恵美ちゃん」は、手を洗ってからお手伝いして頂戴。あ、政紀、くんは、居間でテレビでも見てて」
「娘」をいぢるのに、こんなに美味しいネタはない。あたしはニヤニヤ笑いを浮かべつつ、ふたりにそう告げて、夕飯の準備に戻ったのだった。
最終更新:2010年05月05日 17:29