母の肢体/娘の身体-

* *


 チリリリリ、という軽快な目覚ましの音に、わたしの意識がゆっくりと浮上します。
 「ん……もう朝ですか」
 ぼんやりと見開いた目に映るのは、未だ見慣れぬ天井。
 昨日に引き続いて、わたしは再び娘の部屋で目を覚ましました。
 これは娘が、「少なくとも当面は物理的にも立場的にも互いの服を着るしかないんだから、どうせならタンスのある部屋で寝た方がいいんじゃない?」と提案したからです。
 確かに、朝起きたり夜寝たり、あるいは外から帰って着替えたりするたびに、互いの部屋を行き来するのは手間ですし、妥当な判断と言えるでしょう。
 しかし、わたしは朝は決して弱くないはずなのですが、なんだか今日に限ってひどく起きるのが億劫です。
 昨晩は娘と色々な情報交換したりして、多少遅くまで起きてはいましたけど、それだってせいぜい1時を少し回った程度ですし……って、ああそうか。
 いまのわたしの首から下は、低血圧気味な娘のものなんでした。
 中学に入ったあたりから、ずいぶんと朝はグズグズするようになって、内心ちょっと困っていたのですが……なるほど、こんな風に早起きするのが大変な体質だったからなんですね。ちょっと反省。
 でも、首から上がわたしの自前なおかげか、かろうじて目覚まし時計の音で起きることはできました。
 うんっ……よいしょ!
 まだまだ布団を恋しがる身体を何とかなだめすかして、わたしはベッドから起き上がりました。
 鏡の前に立ち、視線をチラと下方にやると、今日のわたしはライムグリーンのナイティをまとっています。
 昨日みたいなパジャマも動きやすくて悪くはないのですけれど、わたしは寝る時はどちらかと言うと解放感のあるネグリジェ派なので、娘のタンスの奥から引っ張り出してきたのです。
 これは、娘が高校入学したころに買ってあげたのですが、「デザインが少女趣味過ぎる」と言って一度袖を通したきり、娘はあまり着てくれませんでした。
 (そんなにヘンかしら……可愛らしいと思うのだけど)
 確かに、それなりの数のヒラヒラしたフリル飾りがついてますが、子供っぽ過ぎるというわけではなく、むしろ女らしいと思うのですけど。
 まぁ、このあたりはわたしと娘の趣味や性格の違いかもしれませんね。
 どちらかと言うと、娘は年齢より大人びた服装を好む傾向にありますし、わたしは逆に(自分で着られないぶん)娘にはできるだけ可愛い系の格好をさせたがっているという自覚はあります。
 幸いと言うべきか、娘は、「同じ年頃の女の子たちの平均より多少小柄でスレンダー、反面胸はそれなりにある」という、ある意味「万能」な体型でしたから、羨ましいことに大概の服が似合うのですけれど。


 でも、可愛らしい格好って若い時にしかできないものだから、今のうちだけでも、わたしの好みに合わせてくれたって……。
 ──あら? そう言えば、今はわたしが他人から見ればその「娘」なんですよね。それに、顔はともかく少なくとも体型は娘そのものですし……ちょっと、イイこと思いついちゃいました♪
 おっと、でもそれは放課後のお楽しみですね。
 今は、とりあえず顔と髪を洗ってから、ご飯を……って、そうだ! ウッカリしてました。朝ご飯の用意がまだでした!
 今から用意してると結構ギリギリですけど、一応昨晩炊飯器のスイッチは入れておきましたから、なんとかなるでしょう。
 わたしは、急いで台所へと降りていったのですが。
 「あ、おはよー、ママ」
 「え、恵美ちゃん!?」
 嗚呼、なんということでしょう。娘が二日続けて朝食の用意をしてくれてるなんて!
 明日は雪、いえ槍が降るんじゃあ……って、そう言えば、わたしたちの身に伝説級の異変が起きてるんでしたっけ。うん、それなら仕方ないですよね。
 「……なんだか、凄く失礼な感慨を抱かれたような気がする」
 「き、気のせいですよ。あら、お味噌汁もちゃんと作ってくれたんですね」
 「て言うか、ちゃんと作ったのはお味噌汁ぐらいだよ。鮭はありものを焼いただけだし、お漬物も冷蔵庫のを切っただけだし」
 いえいえ、そのひと手間が大事なんですよ。子供だ子供だと思ってましたけど、恵美ちゃんもキチンと成長してくれてるんですね。母親としては感激です!
 実際、焼鮭も焦がしてませんし、沢庵もちゃんと切れて繋がってません。
 お味噌汁だって……。
 ──ズズ~~ッ
 ほら、いいお味。わたしが作ったものと、ほとんど遜色ありませんよ。
 「そ、そう? そう言ってもらえると、あたしも早起きした甲斐があったよ。
 でも、逆にママの方こそどうしたの? 寝坊ってほどじゃないけど、ちょっと遅かったじゃない」
 「あ、それはですね」
 わたしは、今朝起きた時の自分達の体に関する推察を娘に話しました。
 「ホント、恵美ちゃんが朝弱いのは、主に体質的なものだということは、身にしみてよくわかりました」
 「フフン、納得した? でも、そっか。だから、あたしは今朝あんなに早くに、爽やかに目が覚めたんだ」
 わたしは、ふだん6時半に起床してましたからね。こういうのも「体が覚えている」って言うのでしょうか?

 * * * 

 ママの説明は確かに納得がいく。万年低血圧のあたしが、目覚ましが鳴る前に自分から目が覚めるなんて「奇跡」には、ちゃんとカラクリがあったワケね。
 あたしは、今朝起きた時の快適な気分を思い出す。
 「朝の空気は気持がいい」なんてよく言うけど、実際自分の身でそれを実感したのは何年ぶりだろう。
 あまりに(あたし主観で)早く起きちゃったから手持無沙汰で、新聞と牛乳配達の回収はもちろん、不燃物のゴミ出し、さらには朝ごはんの用意までしちゃったものね。
 身体的な特性は、今の体(くびからした)に準じるのだとしたら、料理するときあたしにしては、妙に器用に手が動いたのも当然だろう。なにせ、この(ママの)体は、いままで17年間上原家の食卓を支えてきたてのだから。
 「とは言え、これからずっと恵美ちゃんに面倒をかけるワケにはいきません。大丈夫です。明日からは頑張って早起きしますから」
 むんっ、と両手をグーの形で握りしめて、ママは気合(?)を入れている。
 「ん? なんで? 別にいいよ、あたしがやるから」
 「ふぇ?」
 絵に描いたような「きょとん」とした顔で、小首を傾げるママ。
 ──この人は、なんでいちいちこう可愛らしい仕草が似合うかなぁ。
 元の姿でも十分似合ってたけど、あたしの(つまり16歳の小娘の)姿になった今は、キュートなナイティ姿もあいまって、もぅ、抱きしめて頭を撫で撫でしたいくらいの絶妙な愛らしさだ。
 うーむ、あたし自身は「ボーイッシュ」とは言わないまでも、どちらかと言うと元気路線がウリなんだけど、ついてる頭が違うだけで、こうまで萌え方向に針が振れるとはねー。
 「いや、だって、その体だと朝起きるのツラいんでしょ。逆にあたしの方はとりたてて苦でもないし」
 「で、でも……毎朝、準備するのって、大変じゃないですか?」
 「その「大変な事」を17年間続けてきてくれたんでしょ? だったら、ちょっとくらいあたしにもその恩を返させてよ」
 「う~、でもでも、母親として我が子の食事を用意するのは当然ですし……」
 上目遣いで困ったように聞いてくるママのおデコにペシンと軽くデコピンを入れる。
 「い・ま・は、あたしが「上原雪乃」で、貴女が「上原恵美」でしょ。少なくとも、傍目にはそう見えるし、あたし達自身も、バレないように互いのフリをするって昨日決めたじゃない、「恵美ちゃん」」
 そう、外では事情をバラさずに互いの立場になりきって行動することを選んだ以上、それを家でだけ半端に元に戻したりすると、かえって混乱する可能性がある。
 だからこそ、あたしは互いの寝室を明け渡すことを申し出たのだ。
 ──まぁ、ママのアダルト向けな服や化粧品類に、ちょっぴり興味があったのも事実だけどネ!


 * * * 

 「い・ま・は、あたしが「上原雪乃」で、貴女が「上原恵美」でしょ。少なくとも、傍目にはそう見えるし、あたし達自身も、バレないように互いのフリをするって昨日決めたじゃない、「恵美ちゃん」」
 こんなヘンテコな状態を他人に信じてもらえる可能性が低い以上、わたしたちの現状は隠すべきで、だからこそ互いになりきる演技のためにも中途半端なことしはしない方がいい。
 なるほど、娘の……いえ、「ママ」の言うことにも一理あります。
 「わ、わかりました、「ママ」。でも、娘が母親のお手伝いをするのは、別におかしなことじゃないですよね?」
 だからと言って、朝ごはんの支度を「ママ」に任せて、元の娘みたく惰眠を貪るなんてことは、わたしの性に合いそうにありませんし。
 「ふーーん、まぁ、手伝ってくれるって言うんなら、「ママ」としては大歓迎だけど」
 あ、何ですか、その疑わしそうな目つきは? 確かに低血圧はちょっと辛いですけど、首から上は元のわたしのままで、睡眠は主に脳が必要とするものなんですよ? 主婦歴17年の猛者を侮ってもらっては困ります。
 ともあれ、これからの方針を互いに確認したうえで、「ママ」は洗い物、わたしはいったん恵美の部屋に戻りました。
 本当は皿洗いも手伝いたかったんですけど、今日は朝練のある曜日だそうなので、念のため早めに出かけないといけないのです。
 ウチの洗面所は朝シャン用の大型洗面台が拵えてあります。母娘兼用のシャンプーで髪を洗い、中低温のドライヤーで乾かしつつ、手早くブラッシング。
 高校生だし、メイクは軽めでいいのかしら?
 もともと恵美は、いわゆるギャル系とは正反対に、あまりお化粧に凝らない娘でしたしね。また、わたし自身も、幸いにして小皺などができにくいタチですし、この程度で十分でしょう。
 鏡の中の(自分で言うのも何ですが)若々しい顔つきを眺めつつ、ふと気がついたのですが、ほかの人達にはわたしの首から上も、幻覚だか呪いだかで普通に「恵美」に見えてるんですよね?
 ──もしかして、このお化粧って意味がなかったのかしら……。
 い、いえいえ、化粧は女のたしなみ、口紅は淑女の最後の武器です! そう思うことにしましょう。

 さて、髪の毛が乾いたので今度は制服に着替えないといけません。
 恵美の部屋に戻ったわたしは、まずはナイティを脱ぎ、枕元に畳んで置きました。今の季節、1日着ただけで洗濯する必要はないでしょうし。
 ……この辺りの思考は、我ながらやっぱり主婦ですね。
 ともあれ、次は下着です。
 さすがに高校生になってからは、自分の分の洗濯物の収納は恵美に自分でやらせてますけど、中学生まではタンスの中身の整理も時折わたしがやっていました。
 半年ほどブランクはありますけど、それでもどこに何が入ってるかは今でも大体わかっています。
 えーと、確かこのあたりに……ほら、ミントブルーの地に青いレースの飾りがついてる、ちょっとハイレグ気味のショーツがありました。
 はぁ~、こういうのを履けるのって、若い子の特権ですよね。
 いえ、今はわたしが恵美、ピチピチの16歳なのです(少なくとも体は)、何を臆することがあるでしょうか!
 お揃いの色合いのブラジャーと一緒に装着完了! 勢いに任せて、ライムグリーンのキャミソールもかぶってしまいました。
 もはや怖いものはありません。丸襟の白いブラウスを羽織ってボタンをとめ、年甲斐もなく憧れていた緑と赤のチェックのスカートを履き、胸元に赤い蝶ネクタイを留めます。
 ベッドに腰掛けて学校指定の黒のハイソックスを履き、最後に紺色のブレザーに袖を通してから、わたしは着替え始めてからあえて見ないようにしていた鏡のほうに向きなおりました。
 ──鏡の中からは、まごうことなき吾妻学院高等部の女子生徒が、ちょっとおどおどした顔つきでこちらを見返していました。
 完璧です! 毛ほども違和感もありません! ……すみません、ちょっと言い過ぎました。やはり近くで顔をよく見ると、女子高生というのは少々微妙でしょう。
 ですが、恵美の平均を少し下回る背丈と少しだけ上回るバストのおかげで、パッと見には問題はなさそうです。そもそも例の不思議な力で、わたしの顔は、自分たち以外には「恵美」そのものに見えてるはずですしね。
 となると……あと問題となるのは仕草、でしょうか?
 あからさまに「どっこいしょ」とかのオバサン臭い言動はしてないつもりですが、かと言って、「女子高生らしい仕草」というのもイマイチわかりません。

 ああ、そうだ! このあいだテレビでアイドルがやっていた、すごく可愛い振付けというかポーズがありました。鏡の前で試しにやってみましょうか。
 「キラッ☆」wink!
 ………………ダメです。コレは危険です。封印指定級の破壊力があります。思わずベッドに突っ伏して、足をバタバタさせてしまいました。
 「──なかなか下りて来ないと思えば、何やってんだか」
 ハッ!!
 気がつけば、部屋の扉が半分開かれ、そこには優しい(と言うか生温かい)目をした「ママ」が立っていました。
 「い、いつからそこに?」
 「んーと、「恵美ちゃん」が自分の制服姿に見とれて、百面相してるところからかな」
 「そ、それでは、先ほどの「キラッ☆」も……」
 「ええ、バッチリ。せっかくなのでケータイにも撮らせてもらったわ。オホホホホホ……」
 お、終わった……orz
 「別にそんな落ち込むことないんじゃない? 抱きしめたいくらい可愛かったし」
 いえ、下手な慰めは無用です。
 「ふ…ふふふ、学校……そう学校に行かないといけませんよね」
 ゆらりと立ち上がったわたしを見て、「ママ」は若干引いています。
 「ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」
 「ノープロブレムです。コンディションオールグリーンです。いざ往かん、あの空の果てまで、です」
 「それ全然大丈夫に聞こえないんだけど」
 ──クスッ、冗談ですよ。安心してください、恵美ちゃんの名誉を貶めるような真似は、この身に代えてもしませんから。
 「いや、そこまで気張らなくても……ん~」
 しばし考え込んでいた「ママ」はポンと手を打ちました。
 「じゃあ、「恵美」ちゃん、適度に肩の力を抜きつつ、久しぶりの高校生活を存分に楽しんできてね」
 ニッコリと、まるで本物の母親のような優しい笑顔を向けられては、わたしもいつまでも落ち込んでなんかいられません。
 「ハイ、「ママ」、行ってきます!」

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最終更新:2010年05月05日 21:31