アリサがその疑問を感じたのは、不謹慎にも、彼女の兄――ケイイチの婚約者で、義姉になるはずだった女性(ひと)の葬式の、しかも焼香の真っ最中だった。
(あれ……?)
これは誰のお葬式だったかしら?なんて浮かんだけれど、それは一瞬のことで、すぐに我にかえったアリサは、何を馬鹿なことをと自分を責めた。
なんとか持ち直して焼香を済ませ、自分の席に戻ってほっと一息。だがこれも不謹慎か、と出かかった吐息を抑える。
それにしても、なんであんなことを思ったのだろう。
これは長瀬リョウコの葬式で、アリサは彼女と本当の姉妹のように親しかったのに。これが茫然自失というものだろうか。
(リョウコさん……)
彼女とアリサは本当に親しかった。よく買い物に一緒に行って、兄が冗談で嫉妬すると言ってくるくらい仲が良かった。
でも、そのいつもの買い物の行きすがら、二人はバスの事故に合い、リョウコは死んだ。アリサを守るように、覆い被さった姿で。
そんなことがあった自分が、正気でいられるとは思えない。
だからこんなことを思ってしまうのか。リョウコの遺影を見て、なんで自分の写真が?などと馬鹿なこを。
リョウコと自分は、似ても似つかない。
兄の部屋にアリサが泊まって、もう一週間になる。四年も同棲し、結婚を誓い合った恋人に先立たれた兄を不憫に思ってと両親には伝えたが、本当は自分が兄と一緒にいたかったからだ。
それは、リョウコが亡くなった原因が、自分にあるからだとアリサは最初は思っていたのだが、長く兄の部屋に留まれば留まるほど、何か違う気がした。何故か、ここにいるのが……自然なような気がして……ならなかった。自分でも上手く説明できないが。
まあとにかく、兄が実家のすぐ近くに住んでいたのは助かった。ここからならアリサが通う専門学校にもいけるし、アルバイト先も近い。
いっそのこと、このままここに住み込んでしまおうかとも考えていた。
兄はもう普通に出社して、何事もないかのように装い、アリサには帰れと言っているが、本当に普通に戻ったわけではないのは、どう見ても明らかなのだから。誰かが近くで支えるべきだし。
両親には兄なりのプライドがあるのか、実家に帰るつもりはないようだから、自分しかいない。
今こそ兄に恩返しをするのだ。昔いじめられていた時に、唯一同級生の中で――
(あれ……?)
まただ。また何かおかしかった。
事故にあってから起きる記憶の錯乱。自分が体験したことのない記憶を思い出したり、以前の自分ではあり得ない思考に至ることがある。医者は事故による後遺症で、一時的なものだと言っていたが――
「学校いこ……」
アリサはぶるっと身を震わせると、そう呟いて慌ただしく動き始めた。
得体の知れない違和感にいずれ飲み込まれて、自分が変わっていってしまうのではないかと、最近よく不安にかられる。アリサはそれを拭うことがいつもできなかった。
兄のアパートから専門学校に通えるとは、つまり実家と最寄り駅が一緒なのだ。アリサは専門学校には電車で登校している。
アリサが通っているのは、ペット業界の人材を育成するための学校で、トリマーコースに彼女は属していた。八月の現在、学校は夏休みを迎えているが、トリマー学科を受けているものは、希望すれば実習を受けられることになっている。
(結構混んでるな)
駅につき、乗り込んだ電車内は、平日のためかそれなりの乗車率だ。
しかし、女性専用となっている車両のほうに回れば座れそうである。しかし。
(ま、いっか)
なんとなく面倒臭くなり、アリサはホームの階段からすぐ近くにあった、若干混んでいる車両に乗った。
(兄さん、昨日も帰り遅かったな……)
吊革に捕まって、がたごと揺られながら考えるのは、兄のことだ。
そういう気分になるのは仕方のないこととはいえ、遅くならいっそ……
(お酒でも飲んでくればいいのに)
兄は真面目が服を着たような人だ。
酒を飲まない。煙草は吸わない。賭け事も一切無関心ときたものだ。
趣味は精々、映画鑑賞や読書か?それも人並みに好きという程度だ。
(ほんと、くそ真面目だからなあ……)
意固地といってもいい。
毎日遅くまで何をしているのやら。思い詰めるだけならまだいい。もし――
(自殺なんて……)
ぶるっと頭を振るう。縁起でもない。真面目で優しい兄は、遺された人間のことを考えて、そんなことしないはず――普段なら。
(あーあ)
こんなとき、無趣味は困る。現実逃避の手段がない。
(でも兄さん。いつも悩んでる時ってどうしてたんだっけ?)
いつも……いつもは――
(そっか、リョウコさんだ)
いつもリョウコさんが、家でうんうん唸ってる兄を連れ出してた。
兄は無趣味だったが、リョウコさんは出かけるのが好きだったようで、一緒に旅行なんかにも行っていた。
二人の出かける姿を思い出し、ふっと笑みが漏れる。だけど、目頭は熱い。
(リョウコさん……あなたがいないと兄さんは……兄さんは……あれ?)
思い出の中に出てきた兄の顔が、なんかおかしい。
引いているというか……諦めているというか……なんとも言えない顔だ。
(というか、また、わたしの記憶にないって――ん?)
尻に何かが当たっている感触。ぎしっと身体が固まる。さっと血の気は引いたが、鼓動の音が大きくなった。
(ち……ちか……)
痴漢。
しかし。
いや。なんかおかしいぞ?と尻の感触が伝えてきた。
手の感触ではない。固い。四角い。これは、鞄か?
急に押し付けられたからびっくりしたが、勘違いのようだ。ほっと息を吐く。
(なーんだ)
別に当たっているだけで、さらに押し付けてくるわけでもない。
(ざーんねん)
……
残念?
何が?
自分で自分の考えが分からなかった。
いや違う。本当は分かる。
分からないでいたかった。分かったが理解できないことだった。
痴漢を――
(されたかった……?)
――なんて。
(うそ……)
嘘ではない。そのためにこの車両に乗ったのだ、今にして思えば。
(いや……)
嫌と言っても思考は回る。そういえば、夏休みなのだから、通勤時間に巻き込まれるような、ここまで早起き時間に登校する必要もなかった。
ちょっと期待していた、痴漢されることを。
もし、今日痴漢されたら?
もし、抵抗しなかったら?
これから、卒業まで一年半、同じ時間に同じ車両に乗れば毎回痴漢されるかもしれない。
段々行為がエスカレートして、エッチなビデオにあるみたいに、最終的には犯されるかもしれない。
もしそれを友達が知ったら?親が知ったら?兄が――ケイイチが知ったら?
ぞくぞくとした悪寒が背中を走る。想像上のケイイチが侮蔑の表情で自分を見ていた。
先程下がった血がどんどん頭に上り、全身を駆け巡る。頭が痺れるこの感覚は脳内麻薬でも出ているのか?そして一番、お腹の下辺りが熱い。
(はああああ)
びくっと身体が震えた。声には出さなかったから周りは気づかれていないだろうけど、もし自分が発情しているなんて知られたら。
(えへえへへ)
おっと危ない。涎が垂れる。口を拭う。
(あーあ)
それにしても惜しい。いつの間にか感触が消えた先程の鞄が、もし、前方から当たっていれば……
(こすりつけて、見せつけて――)
ふんふんとそんな風に鼻息を鳴らしている中で、下車駅の駅名を聞いたのは奇跡かもしれない。
はっと我に帰り、人混みをかき分ける。なんとかぎりぎり降りることができた。
が。
息つく暇もなくアリサは階段を早足で下った。トイレに入る。
さらに一番奥の個室に入り、急に慎重になって手をスカートの中に入れ、陰部に触れた。果たして。
「濡れてる……」
尿漏れではない。原因は分かっている。当然、先程の……
「なにこれ」
分かっていても、そう言うしかない。
あんなこと、初めてだ。
痴漢を期待したことも。その妄想に耽ったことも。それが人の大勢いる電車内だったことも。それで、こんなことになったことも。
勿論、アリサだって自慰くらいはする。それが、色々忙しくてここ一週間ほどできなかったけど、溜まっていたと思うほどじゃない。大体、アリサはそこまで性欲は強くはなかった。
なのに。
「なんで、こんな、わたし……」
今日ほど自分が分からなかった日はない。
アリサはただ呆然と呟くことしかできなかった。
最終更新:2010年08月10日 04:29