99 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:54:18 ID:L+4eDRnD Be:
いつもお世話になっています、四十年のものです。
またSSなんですが、よろしかったら少しだけお付き合いください。
「偕老同穴」
1
武州鹿毛の郷の山中におよそ六間の距離をとって二人の忍者が対峙していた。
いずれも女、そして同族の下忍だった。
ただ、その齢かっこうは大きく隔たりがあって一方は若く瑞々しい肢体をもった美々しい
娘であり、そしてもう一方は二足を欠損し、両脇にかかえた一対の松葉杖でその身を支える
怪異極まる風貌容姿の老婆だった。
「ふっふ、それで琴音よ、お前は儂をどうしようというのじゃ」
頬にひびが入るほどに大きく溝をこしらえて、老婆は笑った。いや、老婆と言ってもこの
網代は本当はまだ還暦を迎えるほどの年齢でもないのだが、過酷な修行と任務、そして受け
てきた拷問で一度に青春を消費し、古希の老婆さながらの姿になってしまったのだった。
「討たせてもらいます」
琴音と呼ばれた娘忍者は表情も変えずに短く返答をした。
琴音にとって網代は修行時代の師匠だった。のみならず、琴音たちの住む下忍の村では網
代という女忍者は、その経験と知識でもって頭領に比肩するほどの地位と権限とを与えられ
ていたのだった。
いたのだった、と過去形であるのは彼女が叛乱を起こし、みずからその地位を擲ったから
である。武州に新たに台頭してきた忍びの一族、風摩と繋がりを持ち、腹心の配下とともに
同族を隷従させるべく牙を剥いた彼女だったが、事ならずに追い詰められて一人山中に逃げ
込んだところをこの琴音に見つかったのであった。
「討つ、か、この儂を。よくも昔の師匠を相手に、言えた義理じゃて」
声は低く抑えられたものだったが、対面した相手だけにははっきりと伝わる独特の会話術
だった。もちろん、これは仲間を呼び寄せられる危険を回避してのものである。
「……お覚悟を」
冷たく冴えた眼差しを放ちながら、琴音は忍者槍の穂先を網代へと突きつけた。
「ちっ、犬にも劣るか、この……」
言いつつ両手に二本づつ、合計四本の棒手裏剣を袖口から抜き取る。
「恩知らずが!」
松葉杖を支点に下手投げに手裏剣を一颯の風に変えて琴音に向って投げ放った。
100 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:55:19 ID:L+4eDRnD Be:
「しゃっ、たっ!」
琴音の顔と、胸とをめがけて投げ込まれた手裏剣は、琴音の閃かせた槍の一捻りですべて
地に叩き落とされてしまっていた。
「無駄なこと、私にそんなものが通じますかっ」
琴音のその言葉の意味を誰よりも網代は知っていることだった。琴音の持つ能力は並外れ
て高い動体視力なのだった。飛来する矢を素手でつかみ取り、達人の剣閃を無刀で軌道を逸
らせてしまう、まさに戦士としては望外の能力であった。
「ふん、小手調べはここまでじゃ」
しかし、老いたりとはいえ網代は百戦の経験を積んだ猛者である。一気に間合いをつめな
がら、その中で彼女は攻撃の準備を整えた。
手甲にしのばせた針を口に含むと、両手で一気に松葉杖の握りをふん、と押し下げてバネ
仕掛けの短矢を杖から発射する。と、ともにその息を使って含んでいた針を噴出させるので
あった。並の相手にならば二度をも超える死をもたらす連係の攻撃だった。
ところが、それを琴音は大きく後ろに跳ね飛んで針を回避し、矢を蹴返して難なくこれら
をしのいでしまった。常人ならざるものの跳躍の技だった。
空中を大きく一回転、枯葉を踏んで姿勢を取り戻す琴音の目前に、杖を大きく振り上げる
網代の蟷螂のような姿が迫った。
がん、と音を立ててそれを受け止めた琴音の槍のけら首から先が吹き飛んだ。忍者槍とい
うものは振り出し式になっている短槍で、携行には向いていても耐久性においては通常の槍
よりも劣るものである。まして鍛鉄を仕込んだ網代の杖を受け止めてはひとたまりもない。
琴音は槍を投げ捨て、後ろ腰に差し込んだ山刀を抜きとった。
琴音としては、ここはなんとしてでも仲間を呼ぶ一手だったはずだった。しかし、それを
することを失念させているのは、まぎれもなく網代の妖異きわまる術から意識を外すことが
できなかったからである。
琴音の使う術は網代の知るところであり、また、彼女によって仕込まれたものだったから
だった。どのような攻撃手段をとったとしても、それが有効なものには思われなかったのだ。
しかし、焦燥に駆られていたのは網代もまた同じことだった。
彼女はずっと、休息を取る間もなく逃げ続けていたのだ。体力ももう限界に近かった。ま
た眼前の琴音は彼女の指導した忍者の中では特に傑出した一人だった。経験の差こそあれ、
実戦で分のある相手には思えなかった。
101 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:55:52 ID:L+4eDRnD Be:
ふたたび六間の間をはさんで静止した二人の女忍者。次の一手を思案し、二人の手がひた、
と止まる。
またも懐から手を口に運んだ網代の欠け抜けた歯の隙間から、無味無臭の霧が迸る。鉱物
に由来する毒霧は彼女の得意技の一つだった。
網代はゆるやかに間合いを詰めて、毒の有効な距離にまで琴音を捉えようとする。
しかし、琴音はその間合いを詰めさせない。後ろ向きの運足をとどまらせることなく、相
手の思惑を打ち砕くその一手を取りつつ、さらに手裏剣を続けざまに連投する。
「……うぐっ、うっ」
こうなると不利なのは網代の方だった。毒霧を使用する間には、まるで呼吸がおぼつかな
いのだ。どうにか抱えた杖を振りつつそれらを打ち払おうとした、が、
「…………!」
その内の一つが深く網代の手の甲へと突き刺さる。そのはずみで網代は杖からずり落ちて
しまい、地面へ仰向けに倒れ込んでしまった。
「これまでです」
噴出された毒霧が、強い山風ですべて吹き流されてしまったことを確認した後に、琴音は
手にした山刀を逆手に、網代の息の根を止めようと突き付けた。
まさに、その瞬間である。
にい、と無防備なままの網代は醜怪な笑みをこぼした。
その笑みの意味を得ようと、琴音の視力はほんの数瞬だけ、網代の挙動に囚われてしまっ
た。そこに、攻守逆転の機会が生じたのであった。
黄色く鈍い、コハクのような光が網代の双眸に生じた。
瞬間に、それを見つめていた琴音の身体の自由が利かなくなり、手にした業物がするりと
抜け落ちて地に落ちた。
それきりで、琴音の意識は完全に消失してしまったのである。
102 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:56:34 ID:L+4eDRnD Be:
再び琴音が林間の陽の光を見たときには視界からは網代の姿は消失してしまっていた。
「ほう、ようやっと気が付いたようじゃな」
悪意のこもった女の声を投げ掛けられて、地に伏せた琴音は、はっと四肢を強張らせた。
ところが、踏ん張れなかった。踏ん張るはずの下肢が消え失せていたのである。
股関節から下に延長する感覚神経がないことが琴音の意識を一気に覚醒させた。
衝撃とともにさきほどの声の主を見上げると、
「ふふ、どうじゃ、驚いたかえ」
若い女の姿があった。
均整のとれた長身に、長い睫毛をもった濡れるような双眸。そこから覗く黒々とした瞳。
紛れもなく、それは琴音自身の慣れ親しんだ肉体のはずであった。
驚きのあまり、琴音は口をぱくぱくとさせたが、一向に声が出てこない。
「いいや、無駄じゃよ。喉は潰しておいた。声は二度とは出せまいよ」
琴音の声でもって、網代は言い放った。
ぎん、と琴音は手の甲と喉元に激しい痛みを覚えた。喉元の痛みが網代によってつけられ
た傷だというのならば、手の甲のそれは、まさしく琴音自身の手裏剣が突き立って付けられ
たもの。
じっと手を見れば、そこには枯葉のように茶褐色に変色した節くれだったものがあった。
口中には歯の多数が欠け落ちていて嫌な感触を舌先に与えていた。
まさしく、琴音の身体は網代のそれと取りかえられてしまったのであった。
「ほう、この状況を察しても取り乱さんとは、さすがは優等生じゃな」
立木にもたれかかったまま余裕の表情を見せる網代は腕組みしたままに、もともとの彼女
の容器であった肉体を見下ろしていた。
「これぞまさしく、忍法転写転身よ。人生一度の大術じゃ、光栄に思えよ」
視線をもって敵を圧する術は少なくない。
不動金縛りと呼ばれる居竦みの術、操術と呼ばれる催眠術、そしてこの転写の術はその中
でも最高峰に位置する伝説の術であった。
互いの瞳孔を伝通して自らの脳幹の情報を全て相手の脳幹に焼き付けるというこの技は、
相手の身体を文字通り乗っ取るという、網代の言う通り、二度とは使うことのできない荒業
であった。
琴音は、悔しさに歯噛みしながら手近にあった石を投げつけた。
しかし、その石は若い娘となった網代の白い指間に吸いこまれるようにぴたり、と収まっ
てしまったのである。
「ひひっ、羨ましいとさえ思われたお前の超視力も、今はもう儂のものじゃ」
そして網代は美しい貌に凶悪な表情を浮かべながら、琴音の、もとの自分の背を強く踏み
つけた。
103 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:57:28 ID:L+4eDRnD Be:
たまらず、琴音の老婆と化した横顔は土に塗れてしまう。ぐうっ、と苦痛の声さえも潰さ
れて声を上げることさえままならないのである。
「どうじゃ、悔しかろ。若く、美しく、そして優れた肉体を奪われてしまった気分はどうじ
ゃ、ええ、何とか言ってみせい」
狂気を表情に交えながら、網代はさらに何度も琴音の背を踏みつけた。彼女としては、そ
れだけ鬱屈した気持ちが募っていたとも言えた。
ようやく一通りの網代の責め、仕置きが済んだのちに、琴音は口を動かした。
『それで、これから、どうする、つもりだ』
無論、網代は唇を読むことができる。声が出ずとも会話にはなるのである。
にい、と片頬を歪ませて網代は答えた。
「ふふ、お前はこれから儂が風摩に落ちのびるつもりだと思っているのだろうが、そうはい
かんわ。そんな、やすやすと事を収めるつもりなどはないわい」
網代は、追われるものとしての惨めさを顧みて、そして唸った。
「この身体で、じゃ、里に戻って儂を追いこんだ奴らを皆殺しにしてやるわ。そうして、奴
らの首を手土産にしてから風摩に流れるのじゃ」
にやにや、とこんなにいやらしい笑みをこの肉体はできるのか、と琴音が驚くほどの表情
で、網代は言い放った。そして、きわめつけの一言も。
「そうそう、お前の恋仲じゃった連太郎もじゃな」
その一言に弾かれて、琴音は犬の唸るような怒気を顔にした。それを見て、さらに網代の
狂気は狂喜へと変質した。
「いいや、そうそう、奴にはそのまま死なれてはあまりに気の毒じゃから、そうさの、この
瑞々しい身体を与えてからにしようかの、いっぱいいっぱい、楽しませてもらってから、そ
ののちに逝かせてやるのが恋仲としての儂の役目じゃろ?」
網代は両の頬を撫でるように手を淫靡に動かしながら、その手を胸のうち、腰のうちへと
さするように動かしていく。
「は……あん、連太郎どのぉ、琴音のことをもっと可愛がってぇ、抱いてくださいましぃ」
陶然とした表情を浮かべる網代に向かって琴音はムカデが這うように迫った。
『そんな、ことは、させない』
しかし、その様子を見ていない網代ではない。いや、わざと焚きつけていたのだから、そ
こに意識がないはずがない。
蹴りつける一撃で、再び琴音は地に伏せることになったのである。
「ひひひ、琴音よ。それを止めさせたくば、儂のことを追ってくるがいいわ。里まではここ
から山中を四里ほどじゃ。這ってすがって、里の者に伝えるがいいわ」
余計な口を叩かせなくするために、喉を潰したのである。それは網代の周到な復讐であっ
た。むろん、杖も今は谷底かどこかだろう。
「ふふ、もっとも、あんたが来た頃にはもう、みんな死んじゃってるかもしれないけどね」
老婆然とした喋り方を若い蓮っ葉なものに改めて、網代は軽く、鹿のような跳躍で里への
道を駆け出した。
『そんな、ことは、させない』
琴音は爪がはがれるほど強く、地面に指を突き立てた。
『連……太郎どのっ』
そして琴音は一念に、寡黙で端整な横顔の恋人のことを想い、ずるずると身体をひきずっ
て里への道を追った。
104 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:58:27 ID:L+4eDRnD Be:
2
網代は、陶酔していた。
こんなにも速く駆けているのに、まるで息が苦しくない、と。
こんなにも視界が広く開けていて、そして見通すことが容易である、と。
完全に琴音を引き離してしまった網代は小川のせせらぎに耳を留め、そちらに歩をすすめ
ていた。
湧水をすくい口へと運ぶ。琴音の肉体の持つ鋭敏な味覚には、その水に含有する成分さえ
もがありありと分かるのだ。
網代は瀬に映る自らの姿を眺めてみる。
その顔は頬の締まった美形である。鼻梁は高く隆起し、口唇は紅を差すまでもなく、赤く
艶やかだった。
そして、若い肌の持つ輝きはまた別格であった。女としての要所は形よく膨らんできてい
て、見る男全てを魅了していくことだろう。
さらに十八歳という娘としての絶頂のこの身体は、さらに男の手に摘まれればさらに色づ
いて進化していくことだろうと網代には思われた。
そしてその肉体を最大限に生かすための経験や知識はもはや熟練の忍者の網代には習得済
みのものなのである。むろん、くの一の術、男どものあしらいについても、である。
若い肉体と老獪な知識とを併せ持つ、まさに最強の女忍者の誕生だった。
『くくっ、人生一度きりの術も、この身体を得たのならまずは文句無しじゃな』
汗を冷水で湿らせた布切れで拭うと、網代の心には完全な余裕と自若とが生じていた。
そう、川向うの茂みのなかに人影の潜んでいることをせせらぎの音と聞き分けて察知する
ことが叶うほどに。
「誰、そこに誰かいるの?」
口調を平静な琴音のものに模して、網代は茂みに向かって一声を投げ掛けた。
ややあって、茂みの中からがさり、と頭を現したのはいかつい面相をした巨漢の男だった。
「いやいや、琴音よぉ、この暑い最中だ。いつになったら着物を脱ぎ捨ててくれるものかと
心待ちにしていたんだけどよ」
伝法な口のきき方をしたのは卯木という若衆の忍者だった。頭目の親類筋にあたる家柄に
はあって、確かな腕っこきなのだが、口の悪さに倍する素行の悪さで周囲の者からは白眼視
されている鼻つまみ者だった。
そして、この男は琴音によこしまな恋慕を抱いている、ということは網代も既知のことで
あった。
105 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:59:10 ID:L+4eDRnD Be:
「なんだ、近頃の熊はよほど凶悪な面構えをしている」
網代は完全に琴音になりきった台詞を吐いていた。この身体の主だった娘はひどく卯木を
嫌っていたのだ。
「へへっ、つれねえことを言いくさるぜ。これも連の字にたらし込まれたせいかぁ?」
品の無い台詞を吐くには相応の品の無い顔立ちであった。体格こそ恵まれたものを持って
いて忍びの術にも長けてはいたけれども、それを帳消しにしてなお余る下品だった。
『はん、ものの役に立ちそうだったなら事情を話して味方に引き入れんでもなかったに』
猿のように長い手を、やたらとこちらの尻に回そうとするのを避けながら、網代は値踏み
をして、そして卯木のことを価値なしと判断した。
「ふん、貴様なぞに連太郎どのの事を悪く言う資格があるものか」
「いやぁ、あんな始終むっつりしているだけのつまらん男なぞ、すぐに飽きるだろうよ。そ
それに男の価値っていうのはな、どれだけ強く、逞しくあるか、ってことなんだぜ」
言いつつ卯木は上半身をはだけて大きくせり上がった両肩の筋肉を誇示した。
『それに釣り合う知性が無ければ無駄だろうがね』
とは表情に出さずに、網代はわざとむくれた様子を装った。
「なんだ、どうしたよ。野郎をあしざまに言われて腹に据えかねた、ってか、ええ、おい」
卯木はぐいと顔を近づけると酒気を帯びた臭い息を吐きかけてきた。
「ああ、そうだ」
すると、卯木は六尺を超える体躯を網代に押しかぶせるように立ちはだかった。
「ええ、おい、まあそう邪険にするねえ、なあ」
鼻息を荒くして視線をちらちらと着衣から覗く太ももや、胸元へとやって下卑た笑みを浮
かべる卯木を、相当疎ましく思いながらも網代はわざと顔をそらして怯んだ様子を示した。
すると、案の定つけ上がったのは卯木だった。網代の両肩を上から押さえつけて性欲の赴
くままの行動を遂げようとしたのだった。
「そうだ、大人しくしてりゃあいい目を見せてやるぜ、あんの野郎のことなんざすっぱりと
頭から抜け落ちてしまうくらいに濃いやつを、おめえにくれてやるからさ、なあ琴……ね?」
下腹に突き立ったぎらぎらしたものが自前のものでなく、目の前の女に突き立てられた山
刀だと卯木が気付いた瞬間には、もう手遅れだった。
卯木の手をするりと抜け出して後ろ手に網代が山刀を抜き取った瞬間に、血が噴水のよう
に卯木の下腹部から吹き出していた。
106 名無しさん@ピンキー [] 2010/12/09(木) 23:59:56 ID:L+4eDRnD Be:
「ぎゃあああ!」
おろおろとうろたえながら、卯木は下腹を押さえてうずくまる。
「ふん、馬鹿な奴じゃ、目の前にいる者の正体さえもわからずにちょっかいを出そうという
のじゃからな、自業自得というものよ」
目つきに険を生じさせながら網代は吐き捨てた。
「な……な、お前は琴音じゃねえのか、そんな、だって、顔だって、声だって、同じなのに
なのに、なの……に」
本物の琴音ならばいくら嫌う相手であったとしても同族を手にかけるような真似は絶対に
しない。その安心が破られたことでようやく卯木は目の前の女が琴音などではないことに思
いあたったのだった、が、彼がはたして解答を得ることはその最期においても叶わなかった
のであった。
「ふん、いくらこっちが元老婆だからってこんな野猿なんぞに抱かれてやる義理はないわ」
崩れ落ちる大男を尻目にしながら、網代はざぶざぶと川に入り、血に塗れた衣服や肌を洗
い清めた。
「ふふ、ほしいのなら、これからいくらでも佳い男を得られようて」
きゅっきゅ、としなやかな肌を軽く擦りながら、網代は心に生じた高揚を押さえつけるべ
く、身を冷やし、心を静かに平らかに戻していた。
「そうさな、この身体に相応の男がな」
網代という女の本質は自己愛の高さにある。
本来、忍者や間諜というものは自己の肉体さえも道具として見る訓練を受けており、任務
遂行のためには進んでその身を投げ出すように刷り込まれているものなのだが、彼女はその
訓練を受けてさえ、そして人にはそのように教示してさえ、自らは決してそうはならなかっ
た。
彼女にとっては里の皆を裏切ったことも、恩愛の縁を引き裂いたこともまるで事ではなか
ったのだ。利用できるものを利用し、自らを立てる手段のみを一心に願う。純粋な利己の心
を持っていたのである。
「いやいや、その前に奴らに制裁することが必要じゃ」
瞳の深奥に復讐の炎を燃やしながら、若い姿を得た老忍者は一人ごちた。
奴らをみんな根絶やしにしてやる、と。
木立を蹴って風のように速く駆ける網代は、嬉々としながらその赤に染まった光景を思い
浮かべて、その想像に浸っていた。
107 sage [] 2010/12/10(金) 00:01:27 ID:L+4eDRnD Be:
3
「なんだ、琴音よ。戻っておったのか?」
里近くにさしかかった網代の前に姿を見せたのは、ことのほかに容色の優れた、若い女忍
者だった。琴音よりもいくぶん年長の、なまめかしい肢体とこぼれそうなまでに豊満な胸を
した仇な女ざかりの彼女は千鳥という若手の女忍者の統率者であった。
「ええ、千鳥様。網代様は皆目姿を見せませんでしたゆえに……」
網代は、さきほどの卯木に見せた対応よりもはるかに引き締まった態度で相手に接してい
た。
この千鳥は技の冴えもさることながら、非常に切れ者であり、ほんの少しのおかしな素振
りも見破られてしまう可能性が高かったからである。
「そうか、そうなればもはや婆はこちらには戻っては来ぬか」
白いうなじを見せて、少しだけ首を傾げた格好の千鳥は、伏し目がちに網代に流し目を送
った。
「ええ、そうなればもはや網代様は風摩へと逃げのびたと考えるのが必定でしょう。先行き
が気になるところなのでしょうが、いかがでしょう」
すると、千鳥は網代の言葉には敢えて取り合わずに、じろり、と一瞥を寄越して問いかけ
た。
「琴音よ、ところで何だ。その姿は。いくら酷暑の折とはいえ、水浴びとはどういう料簡か」
高圧的な態度で凄む千鳥には、貴婦人の気品があった。
「いえ、これは……その、喉を潤そうとして沢に入ったところを足を滑らしたのです」
しどろもどろの態を装って、網代は弁解を繕った。
「ふん、まあ良い。任務のこと御苦労だった」
いつも可愛げのない琴音の思いがけず年相応な様子につい気を許して、千鳥の警戒は緩ん
だ。
「はい、それでは一度里へと戻りましょうか」
と、ここで千鳥は記憶の中にあった琴音の姿と、今の千鳥の姿との違いが何とはなしに思
われていた。
出掛けの時と、そして今とのはっきりとした相違。
108 名無しさん@ピンキー [sage] 2010/12/10(金) 00:03:11 ID:L+4eDRnD Be:
はっとして振り向いた千鳥の眼前にはもう、凶悪に顔を歪めた琴音が迫っていた。
出掛けの時に持っていたはずの槍をどうして今は持っていないのだ、と。気付かなかった
ことが千鳥の命運の尽きであった。
夢中で跳ねのけようとした手を逆に捻られて、地に倒れ込んだ千鳥は網代の指により頸根
の秘穴を突かれることにより、完全に肉体の機能停止をさせられてしまったのであった。
「……ぐ、はっ」
千鳥は声さえもまともに上げることができない。
「無様よのぉ、千鳥よ。油断大敵じゃて」
声は違えどもその言葉の抑揚については千鳥はよく知っていた。
「きさ、ま、あ……網代婆か、なんで?」
すると、目の前の琴音の姿をとった女はにやりと獰猛な笑みをこぼした。
「ふふ、秘術により儂は琴音のこの身体を得たのよ。どうじゃ、驚いたであろ」
そして、千鳥の豊満な乳房をわし、と掴んだ。
千鳥は恐怖に固まり、顔面を蒼白にひきつらせた。
「やめて、殺さないで」
網代は、その掴んだ手を離そうともせずに、その触感を楽しんでいた。
「いや、いいのう。こんなに大きくて張りのある胸じゃ。儂はかねがね出来得ることならば
お前のその身体を奪ってやろうと目を付けておったのじゃからなぁ、いや、手に入らぬとな
れば執着はいや増すばかりじゃて」
千鳥の強張った首筋に舌を這わせると、網代は底冷えするほど暗い声色で脅した。
「この身体でお前はいったい何人もの男をたらしこんだ。ええ、白状せんか!」
「う……うっ、堪忍」
すると、網代は一度千鳥から距離をおき、そして、
「そうじゃな、妹分の琴音ばかりに老いの苦しみを味わわせては気の毒じゃからな」
瞳に酷薄な光を宿してふたたび歩み寄っていった。
網代の白い示指が、千鳥の側頭部、耳から二寸ほど上の辺りに一関節ほど突き刺さった。
「うげっ!」
「くくっ、これぞ儂がかつて身を持って味わった秘術、女体幻滅よ」
かつて、網代がまだ三十過ぎの、女としての矜持をまだ保っていた際に、敵対する忍者か
ら拷問として掛けられた秘奥義であった。
つぷっ、と指が抜かれた千鳥の身体全体に激しい気だるさが生じていた。
「うっ……重い、身体が重い」
109 名無しさん@ピンキー [sage] 2010/12/10(金) 00:03:58 ID:L+4eDRnD Be:
かつてない疲労感に襲われた千鳥の均整の取れた身体に変異がはしっていた。
大きく張り出した乳房がにわかにだらりと垂れ下がり、腰に締まりがなくなり、尻が下が
り、身体の線が大崩れをしてしまう。肌理の細やかな釉薬を上塗りされた陶器のようだった
肌は、ぐずぐずと豆腐の崩れたもののように変質していく。
目元や口元からは若々しい緊張が失せていき、ちりめん皺がその間を覆っていく。
「は……わわったし、私のカラだあ、があ!」
まるで早送りの映像で草木が枯死していく様子を映し出すかのように、絶頂期にあったは
ずの千鳥の姿は、あれよあれよと中年を通り越して初老の域にまで歪められてしまったので
あった。
「くくく、なまじ手に入らないものならば、潰してしまったほうがせいせいするものよ」
妖美な笑みを貼り付けた網代は、その様子に満足しながらぼそり、と一言を吐き出した。
「あ……ああ、いやぁわたしの胸ぇ、わたしの足ぃ」
精気を失い枯れ果てた頬に涙を伝わらせる千鳥、もはや彼女の実年齢が二十二歳の女盛り
だとは、誰にもわかってはもらえないほどであった。
「……殺して。いっそこんな姿で生きていくくらいなら死んだほうがましよ」
しかし千鳥の懇願に網代は首を横に振る。
「いいや、駄目だね。千鳥よ、お前はその姿で生きていくんだ。そして、私が辿った道のり
がどんなに屈辱に塗れたものだったかを知って、そしてその高慢だった態度を省みるんだね」
言いつつ、網代はもう用は済んだとばかりに里へ向かうべく足を向けた。
と、そこで捨て台詞に一言だけ。
「……ああ、そうだ。お前も修練さえ積めば肉体交換の秘術を究めることができるやもしれ
ないね」
その言葉は救済とも、鬼畜道への誘いとも取れるものだった。が、それを聞き終える前に
千鳥はすでに昏倒してしまっていて、それが伝わったかどうかまでは定かではなかった。
そして次の一瞬にはまた、網代は風を巻いて里へと走りはじめたのであった。
110 名無しさん@ピンキー [sage] 2010/12/10(金) 00:04:44 ID:nN9VYwqX Be:
4
琴音は高さを増した空を見上げて困憊の息を吐いていた。
年老いた肉体で、しかも二足を欠損している。さらには片手には深い傷まで負っている始
末である。
もうだめだ、と諦める気持ちはいくらでもあった。もはや、自分のもとの肉体を取り戻す
算段がたたないことについては心裡で認めていたのである。
しかし、諦めきれないことはひとつだけ。
恋仲であった連太郎を守りたい。それだけだった。
山中を這うことがどれほどの苦痛かを思い知りながらも、そして声が出せない以上、仲間
に会ったとしても敵とみなされてしまうだろうということを知りつつも、琴音は一心に里へ
と這い進んでいくのであった。
日は高く天頂へとさしかかっていた。。
そして、琴音の願いもむなしく網代は先に里へと到着してしまったのであった。
『ふふ、私は遂にここへ帰ってきたのだ』
得意気に胸を張って、網代は門番に適当な首尾を伝えた後に、連太郎のいる屋敷へと歩を
すすめたのであった。
里の一隅に新設された屋敷は連太郎が琴音を娶って新しい生活を迎えられるように、と里
長から与えられたものであった。
あいにくと、連太郎は留守をしていたが、網代にはどうせ行先はわかっていた。
「ふん、相も変わらず土いじりか。志の低いこと」
と、毒づいては見たものの、網代には連太郎のことがどうにも気にかかっていたのであっ
た。
物腰が穏やかで寡黙ながら、とても美しい横顔をした青年。そして、そのしのびわざもま
た一流の域にあるのだった。ただ、生来争い事を好まずに、静かな暮らしを送ることを望ん
でいて、わざわざ要職には就かずに畑を打つことばかりしているのであった。
網代は、そんな連太郎のことがどうにも気にかかっていたのである。自分にはない穏やか
さを湛えた青年を、どうにかして自分のものにできはしないか、と。
そして、あわよくば自分の連れ合いにしてしまおう。それができなければ、とりあえずの
歓楽を啜ったあとに始末してしまおうと、そう考えたのだった。
網代は、解いた髪を手櫛で梳いて、その艶やかな乱れ髪を綺麗に撫でつけていた。
『ふふふ、くのいちの術を使うのは何十年ぶりかの、せいぜい婆臭い仕草などでボロを出さ
んようにせねば、な』
手桶に張った水鏡に向かって艶冶に微笑んだ網代は、これからはじめようとする楽しみを
控えて、心を躍らせていたのだった。
111 名無しさん@ピンキー [sage] 2010/12/10(金) 00:05:30 ID:L+4eDRnD Be:
「なんだ、来ていたのかい、琴音」
上がり框に腰かけて待っていた琴音の姿を認めて男は言った。
抑揚の乏しい声だったが、不快なものではない。むしろ穏やかな信頼をそこに抱えている
ようで安心を与えるものだった。
高い鼻梁に切れ長の瞳。柔和な頬を併せ持った美男子といっていい容姿の連太郎だった。
「ええ、婆様の追跡が不首尾に終わって、それでこれからどうしようかって、皆と話してい
たのですけど……」
手を捩らせながら頬に羞恥の色を刷かせて網代は甘い声を張った。
「あなた様のことが、どうにも気になったものですから」
すると、連太郎は土に汚れた手をぱん、と単衣ではたいた後に、
「そうか」
とだけ、後は網代の頭を静かに撫でて、優しい笑顔を見せたのだった。
その笑顔を見た瞬間に、網代はこの男をモノにしたい、という執念に取り付かれてしまっ
ていた。
なるほど、これは琴音が夢中になるほどのものじゃと感心しながらも、網代もまた彼に夢
中になってしまったのであった。
「ええ、気になってどうにもしかたがなかったものですから……」
そこで網代はゆっくりと身を連太郎へと預けていく。網代という老獪な演者は琴音の仕草
や挙動の全てを知っていたのである。もちろん、この連太郎と琴音とが何度も身体を重ねあ
っていたことまでもとっくに調査済みだったのである。
ゆっくりと、連太郎は壁にもたれたままに網代のことを琴音として招き寄せた。
「……おいで」
静かな口調で恋人を呼ぶ繊細さに惹かれて、網代も劣情に火を点ける。
胡坐をかいたままの連太郎ににじり寄り、そしてその膝の上に座り、唇を寄せる。
「ん……んん」
舌を絡め合う濃密な口づけの後に、網代は、顔を連太郎のしなやかに鍛えられた胸へと埋
めていた。
繊細に見えてもそこは鍛練をおさめた戦士の身体だった。十分な逞しさと男の匂いを堪能
して網代は半ば陶然と自らの帯を解き始めていた。裾をはだけていくうちに、白く輝く琴音
の肉体が露わになっていった。
「あ……はぁん、連太郎どのぉ、抱いて、くださいまし」
しおらしい口調もまた、完璧に琴音のものであった。網代はこの瞬間に完全に琴音と化し
て四つん這いに連太郎へと寄っていったのだった。
上半身をはだけた格好の連太郎は網代をゆっくりと抱き締めると、
「……じゃあ、な」
どすん、と網代の首に鉄火箸を突き刺した。
表情を変えようともしない連太郎を前に、事の次第がしばらくは網代には掴めなかった。
が、口からみるみる溢れてくる血汐を目にして、ようやく悲鳴を上げていた。
112 名無しさん@ピンキー [sage] 2010/12/10(金) 00:06:05 ID:L+4eDRnD Be:
「うぎゃあああ、何故じゃ、何故、こんなことをする」
すると、連太郎は眉一つ動かさずに、
「だって、お前は琴音ではないのだからな」
冷淡に言い放った。
「どうしてじゃ、どうして分かった。理由はなんじゃ?」
すると、連太郎は少しだけ悲しそうに瞳を曇らすと、
「運だよ、網代婆。運がお前に味方しなかった、ただそれだけなんだよ」
良くわからない説明を受けながら、まるで納得がいかないままに、網代はしばらく血を吐
いた後に、苦悶の表情を浮かべて命の火を絶やしたのだった。
連太郎は、虚脱した表情のままで壁に凭れつつ、赤に染まったその網代の死に様を眺めて
いた。
連太郎が運と言った訳。
それは実に簡単なことだった。彼は昔、修行の最中に左の脾腹を負傷しており、今でもた
まに痛むのだが、それを知っている琴音は必ず彼の膝に乗るときには左の足から、身体を半
身に構えて乗るのだった。それを知らなかった網代が無造作に右の足から乗りかかってきた
ために、彼はその事実を察するに至ったのである。確率は二分の一。運命の神に網代は嫌わ
れてしまっていたのであった。
113 名無しさん@ピンキー [sage] 2010/12/10(金) 00:06:42 ID:nN9VYwqX Be:
5
空はすでに夕映えの中にあった。
琴音が、ここまで誰にも見つからずに里の中へとやって来れたのは奇跡のようなものだっ
た。運が良かった以外の何物でもなかった。
死力を絞ってようやく連太郎の屋敷の戸を開けた琴音の目の前に広がったのは、辺り一面
赤に染まった自分の肉体の亡骸と、それから虚無の表情で部屋の一隅に蹲る連太郎の姿だっ
た。そして、連太郎はゆっくりと顔を上げる。
その様子を見て、琴音はその顛末を悟ったのだった。
そして、言葉は音にもならなかったが、呟いた。
『よかった、あなたが、無事で』
その言葉に連太郎は瞳を揺らした。言葉はなかったけれども、気持ちは伝わったのだった。
里の外れには大きな滝があった。
手負いでもはや助からないとわかっているような者たちはそこの滝壺へと投げこまれるの
が習わしだった。
琴音は連太郎の背に負われたままに、そこへと運ばれてきたのだった。
当然だ、と琴音は思った。
こんな姿ではもはや連太郎とは添い遂げることはできないし、忍びとしての働きもできる
とは到底思えなかった。
だから、捨ててもらったほうがいいのだ、と。
終始、二人は無言だった。いや、それはいつも通りだったのかもしれなかった。あまり口
数の多くない二人だったからこそ馬が合い、今まで幸せにやってこれたのだろう、と琴音は
なんとなく思っていた。
好きな人に見取られて死ねるのだもの、自分は何と幸せなのだろうか、と琴音は思った。
崖縁までたどり着き、連太郎の背中から静かに下ろされた琴音はせめて最期の挨拶をしよ
うとにっこりとした表情を作ってみた。しかし、今の自分が醜悪な老婆になっているのだと
思い直すと袖で顔を覆ったきり、何もできなくなってしまった。
連太郎は、その琴音の袖をゆっくりと下ろすと、ありったけの親愛の情を込めて力強く彼
女の身体を抱きしめた。
「……さよならじゃない、ずっと一緒だ」
はっ、として顔を上げた琴音に赤く染まった連太郎の笑顔が眩しく映った。
そして、固く結びついたままの二人の男女はひとつの礫となって滝壺へと吸い込まれてい
き、二度と浮かびあがることはなかった。
轟然と絶えず音を立て続ける自然の瀑布は、そんなことがあったこともおかまいなしにい
つもどおりの姿をとどめていたのだった。
完
最終更新:2011年04月22日 11:20