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無題・肥満化

     八月の暑い日。駅前の喫茶店で。
     フミという名の女を私は知っていた。短大時代の友人の一人でやたらと
    口数が多い癖に臆病で、ちょっと責められるとすぐに口ごもってしまう性
    格だった。そして、その外見は、まず一言で肥満体、と片付けられてしま
    われるそんな容姿だった。コンパでも異性からは敬遠され、同性からは同
    情される、そんなつまらない女のはず、だった。
     そして今、私の目の前に座ってアイスコーヒーのストローを弄んでいる
    女。タイトなサマースーツをカジュアルに着こなして、ゆったりとした幻
    想的な微笑を表情に刷いた、モデル顔負けの美脚の持ち主。
    「お久しぶりね、トウコちゃん。大学卒業以来ね。相変わらず、綺麗ね」
     それがフミを自称する女だった。
     私は、内心の動揺を押さえようとしたが、
    「ええっ! フミなの? あなた……いったいどうしたの」
     疑念と驚嘆に負けて、思わずそんな台詞が口を衝いて出てしまった。
     だって、まるで別人なのだから。90キロはあっただろう巨躯は半減し、
    脂肪に埋もれて引き攣れていた目元はぱっちりと開き、涼やかな輝きを湛
    えていた。
     フミは、軽くふふん、と鼻を鳴らして、
    「そうよね。驚くわよね、だって私がこんなに痩せちゃってたら、まるで
    別人だもんね」
     声まで細くなり、別人だった。
    「ダイエット? それとも、手術とかしたの?」
     私の質問に首を横に振りながらフミは、
    「ううん、そうじゃないの。ちょっとにわかには信じがたい話かもしれな
    いんだけどね……」
     そう言ってフミは、目を細めて、彼女の身に起こった異変について、そ
    の一部始終を話し始めた。

    「……私、一人旅とか好きでね、ほら、学生時代、彼氏とかもできなかっ
    たし、社会人になっても、やっぱりそうでね……って、まあ、どうでもい
    いか、今さらそんなこと」
     たしかに、フミは旅行好きで学生時代もバイトしてはその資金をもとに
    一人旅をすることが多かった、とトウコも記憶していた。しかし、それが
    どうしたというのか、とトウコは首を傾げた。
    「それでね、私も初ボーナスがつい、この7月に出たものだから、奮発し
    て遠出してそれで、かなりグレードの高いホテルに泊ったのよ」
    「はあ、そうなの?」
     としか、私も相槌は打てない。
    「それでね、やっぱりグレードの高いホテルはね、サービスもいいし、接
    客も一流なのよ。チェックインの日、その夜は雨が降っていてね、私も濡
    れた折り畳み自転車なんて抱えていたんだけど、ドアボーイの人も悪い顔
    ひとつしないで、それを運んでくれたの」
     やはり、話は外れていく一方だった。次第に怪訝になる視線をフミに投
    げ掛けるが、フミは分かっていると言わんばかりに頷きながら、話を続け
    るばかりだった。
    「それでね、クロークの係の女の子ね、うん、私達よりちょっとだけ若い
    くらいの娘かな、にこにこしててすごく愛想のいい子だったんだけど、私
    に向かって言ってくれたのよ、『足元の危ない中、よくお越しくださいま
    した。なんでもお預かりしますので、どうぞご遠慮なく仰ってください』
    ってね」
     にやにや、と表情を緩めるフミ。その異様に得体の知れない恐怖感を感
    じ始めた私。爪先が細かく揺れる。
    「だから、お願いしちゃったの。『私のぜい肉を預かって』って」
     私は思わず手にしたコップを取り落とし、割れはしなかったものの、氷
    と水を卓上に派手にぶちまけてしまった。水が床にまで滴るが、そんなも
    のはどうでもいい。
    「じょ……冗談よねえ」
     すると、フミは首を縦にして、
    「うん、私も最初は冗談のつもりだったの、だけど、その子がね、たぶん
    私のことを思いやってくれたのかどうか知らないけど、肯定も否定もしな
    かったのよね」
     片手を頬杖に、フミはにやにやと思い出し笑い。
    「そうしたら、次の瞬間にはね、私のカラダからしゅわしゅわ、って炭酸
    ガスが抜けていくように、ぜい肉が消えていくじゃない。そして、目の前
    のクロークの子が膨らんでいくじゃない。もう、びっくりだったわよ」

     私は手元を拭くことさえも忘れて、フミの話に釘付けになってしまって
    いた。
    「いやー、言ってみるものよねえ、無理が通れば道理が引っ込むって。あ
    っという間に私はスリムに、その子はおデブに早変わりってなものよ」
     くっくっ、と笑いをかみ殺すように、フミは愉悦に浸っていた。
    「もちろん、その子も泣き叫んだわ。『戻してください、お願いですから
    この身体を元に戻してください』って、潰れた声で、汗と涙で顔をくしゃ
    くしゃにしながらね。うふふ、悪いとは思うんだけど、私、ちょっと笑っ
    ちゃったと思うわ」
     どうしてそんなに屈託無く笑えるのだ、この女は、と私は驚嘆していた。
    「もちろん、そんなの嫌よ、と言い捨ててぜい肉をその子に預けたまま、
    部屋に行ってシャワーを浴びながら自分の身体を確認してみたんだけど、 
    これがもう、最高だったわけね」
     口元に手をあててくっくと笑うフミ。
    「なにしろ、ウエストも足も腕も腰回りもすごく細くなっちゃったんだも
    の。顔だって、まるで別人でしょ。それに、こんなに急に痩せたのに、全
    然シワにもなってないし、私だって痩せればちょっとしたものなんだな、
    って初めて知ったわよ、自分のことながらね」
     そうして、次に胸元の豊かに盛り上がった対の膨らみを両手で軽く持ち
    上げて、
    「それにね、『ぜい肉』を預かってほしいってのもナイスな選択だったと
    思うわ。単に『脂肪』なんて言ってたら、こんな大事な部分までぺったん
    こにされてたに違いないものね。どうやら、ここはぜい肉とは認識されな
    かったみたいね。体重は半分になったのに、アンダーとトップとの差でバ
    ストカップは逆に増加してるんだもの。BからEになんて、そうそう増え
    るものじゃないわよね、成長期を過ぎたら」
     みっちりとした質感のある胸元は、同性の私ですら息をのむほどに魅力
    的で、羨ましくさえあるものだった。
    「その夜はもう、一人ストリップよ、もう。眠ってなんていられるわけな
    いでしょう? だって、私、今までの人生の中で痩せてた時期なんてなか
    ったもの。それが、今やウエストも57センチよ。誇張じゃなくね、実測
    値で、よ」
     それだと、私よりも6センチも細いということか、と、つまらない嫉妬
    に囚われていてもどうにもならないか。
    「そして、次の日の朝、クロークの彼女に会わないようにそっとおカネだ
    け置いてチェックアウトして帰って来たってわけよ。もちろん、会わない
    ように、と偵察しながらだったんだけどね。まあ、上手くいったみたい」
     

     彼女は、うかれているようだが大事なことを忘れているようだ、と私は
    思ったが、まあ、まだ口に出すべき時ではないだろう。
    「……それからが大変だったのよ。服も、下着もぜんぜんサイズが合わな
    くなってるでしょ、だから全部買い直しよ。まったく、とんだ散財だった
    わ。思わぬ誤算っていうやつね」
     17号から7号サイズへのサイズダウンは劇的すぎる。彼女のことを同
    一人物だと認識できる人間などいるのだろうか。
    「それから、仕事場でもね、あまりに急激に痩せたもんだから、脂肪吸引
    してもらったの、ってごまかしたんだけど、そうしたら常務さんに妙に気
    に入られちゃったみたいでね、経理課から窓口係へと配置転換で、給料も
    アップしたの。ちょっとくらい見た目が変わったくらいで、まったく、皆
    現金なものよねえ」
     余裕の表情で、フミは笑って、
    「それから、おとといには生まれてはじめて『ナンパ』されたわ。あんま
    り好みのタイプじゃなかったから、丁重にお断りしたんだけどね……ああ、
    まあ、そういうことにかけてはトウコ様相手に自慢なんてできるほどのこ
    とじゃないんだろうけどね」
     フミごときが、思いあがるのもいいかげんにしろ、と私は心中毒づいた
    が、それを表情に出すほどのこともあるまい。でも、まあ、そろそろ、彼
    女に引導を渡すべきときだろうか。
    「そう、それで、私を呼び出して自慢したかったのね。まあ、たしかに今
    のあなたなら、私以上に男受けはよさそうだものね」
     それほどでも、と恐縮するフミ。しかし、だ。
    「でも、それも、今だけなんだから、せいぜい思い残しの無いようにね」
     すると、フミはきろり、と視線に鋭いものを織り交ぜて、
    「……どういう意味かな、それって」
     私はソーダ水のストローを抜いて、グラスの縁から直にソーダを喉へと
    流し込むと、
    「わからないの、あなた。クロークへの忘れものは時期がくれば返却か処
    分されるものなのよ。あなたの住所や名前は予約やチャックインの際に調
    べがついているんでしょう? だったら、そう近くない将来に、ぜい肉は
    返却されてあなたはまた、元の姿に逆戻りよ」

     そう、どんなふざけた契約でも法案でも成立した後にはそれが正当に通
    用する。しかし、道理は無理によって破棄されるものではないのだ。
     フミは、ぐっと口ごもってしまった。昔の癖は、そうそう抜けるもので
    はない。
    「あなたに脂肪を押しつけられて、そのクロークの子がどんな思いをした
    か、想像したことがあるの? 人に犠牲を強いる事で美貌を得ようだなん
    て、ムシがいいのにも程があるんじゃないの?」
     私は、少し語気を強めてフミに詰め寄った。
    「わかってるわよ……ホテルの利用規約には、忘れ物は一か月後に返送す
    ることになっている、って書いてあったもの。たぶん、明日の今頃には、
    もう……ね」
     そして、フミは足元に置いてあった大型のバッグを私の側へと押し出し
    た。
     なんだろう、と思いながらも私はそのバッグのジッパーを開き、中を確
    認すると、そこにはフミの下着やスカート、上着に水着といったものが小
    さく折り畳んだ状態で詰め込まれていた。
    「……なんなの、これ」
     と、私は訊いてみた。漠然とした不安を喉元におぼえつつ。
    「これね、私からトウコちゃんへのプレゼントなの。17号のサイズの服
    ってね、なかなか可愛いのも少ないし、案外値段も高いし、これは私のお
    気に入りだったんだけど、これならトウコちゃんも気に入ってくれるかな
    って思ったんだ」
     にこにことした笑顔のフミ。いや、そうじゃないだろう。
    「いや、だから、なんで私がこんなもの欲しいなんて思うのよ。ちょっと
    あなたおかしいんじゃないの!」
     すると、フミはにこにことした表情を崩さず、ハンドバッグから一枚の
    カードを取り出すと、
    「そうそう、これも返しておかなくちゃ、だわよね」
     健康保険被保険者証、つまりは健康証だ。半年前、卒業間際に紛失した
    私の……どうして、これをフミが持っているのだ……いや、そんなことよ
    りも、これは。

    「ふふふ、青ざめちゃって、トウコちゃんらしくないわよ。そう、つまり
    私はこれを使って二階堂トウコの偽名と住所とでホテルの予約をしていた
    ってわけなのよ。別に、このために、ってわけじゃなかったんだけど、な
    んとなく防犯上、そっちのがいいのかな、と思って、保険証拾ってからず
    っとそれで通してきたんだけどね」
     私は、ショックに、凍った。
    「だから、明日の今頃には、トウコちゃんの元へと47キロのぜい肉が届
    けられることになるの。だから、この服は私からのせめてものプレゼント
    なのよ。ああ心配しないで、ちゃんと水着も入ってるし、これから海へ行
    きたいっていうことになっても間に合うわ。ああ、でも、少しダイエット
    しないと、たぶん、明日からのトウコちゃんだとこのサイズでもキツキツ
    だと思うから、ね」
     声が出せないのだ。あまりにショックが強くて。
    「うふふ、でもまだ救いはあるわよ。明日までの残り10時間ほどの間に
    私が泊ったホテルをつきとめて、そして私の本当の名前と住所とを示せば
    あるいは、なんとかなるかもしれないわ」
     笑みに歪んだものを孕ませて、フミは立ち上がる。
    「じゃあね、健闘を祈るわ。でも、もし駄目だったとしても絶望しないで
    ね。私だって今までずっと、絶望なんかしないで生きてきたんですもの。
    ……あなたに陰で馬鹿にされながらも、ずっとねえ、ああ、ここは私のオ
    ゴリだから、それじゃ、またねえ。次に会った時もし私がトウコちゃんだ
    って気が付かなかったら、教えてねえ」
     そして、ヒールの高く響く音だけを残して彼女は去ってしまった。 

     その後、私がどうなってしまったのか、それはあなた方の想像にお任せ
    する。
     ただ、その一件があってから、私は虐げられる側の人間の気持ちが良く
    わかるようになったということだ。人目を避けるように道の隅を歩いたり
    なるべく男を交えた飲み会などにも出ないようにしたり、と。
     私から言えることは以上だ。あとは、そうフミという女に会ったのなら
    彼女の口から聞いてくれればいいだろうか。
     あと、もしも彼女に会ったなら一つだけ伝えてもらいたいことがある。
    「今度、復讐に行ってやるから、首を洗ってパンツをゆるいのに替えて待
    っていろ」とね。

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最終更新:2011年10月09日 23:31