448 名無しさん@ピンキー [sage] 2011/12/06(火) 00:16:08.05 ID:IJChac+N Be:
『形状記憶』
ある撮影所の倉庫に背を曲げた一人の清掃婦が入ってきた。
歳の頃ならば、もう60は過ぎているころだろうか、相応の皺と歪みとをその身に刻んだ
老年の女だった。
庫内の掃除と片付けを言いつかってやってきた彼女はモップとバケツを手に提げて、棚
の様子をぐるりと見渡していた。
薄暗く、埃っぽい倉庫内には、年季の入った大道具や照明、そして小道具をぎちぎちに
詰め込んだダンボールが所狭しと並んでいて、果たしてどこから手を付けようものか、と
女は白髪交じりの短髪を掻き掻き、思案を巡らせていた。
女一人の手には余る大仕事を押しつけられ、はあ、と溜め息を漏らす女は手近に置かれ
ていたディレクターチェアに腰を下ろし、しばしの間のサボタージュを決め込もうとして
上着のポケットから煙草を取り出し、ライターで火を着けると、頬杖をつきながら紫煙を
一つ、吐き出していた。
どうせ、少しくらい手を抜いたところで、誰に見られているわけでもない。誰かが見て
いてくれるわけでもないのだから。女は、ふふん、と少しだけ、寂しさを交えた笑みをこ
ぼした。
小窓から一条だけ、天界からの慈悲のように降り注ぐ光。それは、ピンスポットライト
のように細く、それでも確実に倉庫内の一点に照射されていた。女は、ふと、その光の先
に目を遣った。
そこにあったのは、やはり古ぼけた紙袋だった。しかし、女がそこに興味を覚えたのは
その紙袋が何十年も昔に無くなってしまったデパートのものだったからだった。
懐かしさについ、女が手を伸ばし、その内容物に触れたとき、彼女の眉がひくん、と動
いた。
紙袋に入っていたのは、何重ものビニールに包まれたステージ衣裳だった。ビニールに
は、大きく黒のマジックで、『1972.8.8』と記されていた。今から四十年ほども
昔の日付だということになる。
そして、彼女は、この衣裳を知っている。
なぜなら、これは、若き日の彼女の纏っていたものだったからである。
449 名無しさん@ピンキー [sage] 2011/12/06(火) 00:17:13.22 ID:IJChac+N Be:
時を隔てて数十年前、彼女はわりと知られた女優だった。
演技も上手く、熱心で、物覚えも良く、そしてなにより、彼女は鮮烈なまでに魅力的な
肢体を誇っていたのである。日本という枠の中では当時、彼女ほど美しい脚線を持ちえた
ものはいなかったし、彼女ほどに豊かで、深い谷間を形成する胸元を備えたものは、ごく
わずかでしかなかった。
しかし、時のうつろいの中で、彼女は自分の若さと情熱の限界を知り、銀幕の世界から
静かに姿を消した。そして、誰にも知られないようにひっそりと暮らしてきたのである。
偶然、昔の仕事場に仕事に入ることになったのも、単なる偶然の産物に過ぎなかった。
女は携帯灰皿に擦りつけて煙草の火を消し、かつての彼女の衣裳の状態を確かめようと
試みた。
劣化したビニールは、手で軽く引き裂くことができた。女はそこに内封されていた赤い
ドレスを広げると、小さく、深く息を吐いた。
ドレスは、襟元から大きく褪色し、かつての色彩を失ってしまっていた。のみならず、
ところどころは虫の餌食にもなっていたようで、穴をいくつも生じていた。
「……なんだぁ、歳を食ったのは、お互い様だったのかぁ」
女は愛おしそうにかつての相棒を手にとってじっと見つめると、その手触りを懐かしむ
ように、往時の流行り歌を口ずさみ、思い出に浸っていた。
楽しいことばかりではなかった。むしろ、苦しいことばかりが先に立つ世界であった。
何度も叩かれたし、理不尽に追い詰められたこともあった。身体を目当てに近寄る男に
は、強姦まがいの真似をされたこともあったし、嫉妬する女には給金を脅し取られたこと
もあった。
やめるときも、綺麗にはいかなかった。逃げるように出ていった彼女をあたたかく送り
出すものは誰もいなかった。そして、彼女が立っていた場所には、他の娘があてがわれて
それだけだった。
思い出せば、辛い事ばかりだったが、それが女の青春だった。その美貌を手練手管に添
えて用いれば、もっと楽に生きられたかもしれなかったが、それをしなかったことに、女
は少しも後悔はしていなかった。
450 名無しさん@ピンキー [sage] 2011/12/06(火) 00:18:01.33 ID:IJChac+N Be:
にわかに立ちあがった女は、白く曇った鏡の前に立ち、上着を脱ぎ去り、上半身肌着一
枚の格好になると、かつての彼女の相棒であったドレスを着てみようと敢行したのだった。
むろん、往時とは比べ物にならないほどに肥え歪んだ彼女である。無理は承知での試み
ではあった。
頭から、ぐいぐいとねじ込むようにして着込んでいこうとする、が同時に通し入れよう
とした腕はきつきつだったし、第一、頬がつっかえてしまうのだ。
なんともみじめなことだな、と思いつつも、その哀れな姿を自覚することも一興かと女
は無理に首を突っ込んだ。ぶちっと首元のボタンが取れた音がして、お腹でもう一度つっ
かえたところを強引に下ろし入れようとした時に、生地が裂けるような、悲鳴にも似た音
がした。
女は、ははっ、と苦笑しながら目を開ける。当然、そこには老女が古びたボロをまとっ
た哀れな姿があるものだ、と自虐の念を心にしながら。
ところが、鏡の中には、老女の姿はどこにもなかった。
女は、驚きに声を失った。
鏡の中に、驚愕の表情を浮かべていたのは、驚愕の表情を浮かべる艶然とした若い娘の
姿だったのである。
燃えるように輝く赤いドレスを纏っていたのは、なまめかしく美しい首元と、しなやか
な腰つきの、娘盛りの女だった。
女は、もう一度、ゆっくりとまばたきをしてから鏡に映るわが身を見た。
やはり、そこにいたのは青春の輝きをその身に湛えた女優の姿であった。もっとも、ズ
ボンは清掃用のグレーの地味なもの、それに足元も黒ずんだスニーカーではあったが。
鏡に幻覚を見る事もあるのか、と女は頬を撫でてみた。そこにはつやつやとした張りが
あり、先ほどまでの彼女がしていたものではなかった。
胸に手を寄せれば、そこにはブドウの房のように発達した乳腺で張り詰めた美しい乳房
が二つの丘を形成していたし、腰に腕を回せば、そこにはとうの昔に喪失していたはずの
美しいくびれが存在していた。
唇は情熱に赤く燃えて、瞳は野心に輝き、そして肌からは熱気が放射される、まさしく
そこにいたのは娘時分の女のその姿であった。
451 名無しさん@ピンキー [sage] 2011/12/06(火) 00:18:30.42 ID:IJChac+N Be:
女は、戸惑い、かつ驚き、この悪戯の主に思いを馳せた。
時間が止まったような倉庫の中で、こんな真似ができるものがいるとするのならば、
「……そうか、あなただったのね」
女は、責めるような声を自らのドレスに向かって掛けた。
『へへへ、ごめんよう』
かつての彼女の相棒は、彼女だけに聞こえる声で詫びた。
すると、女はううん、と首を振って、
「いいえ、私が悪かったのよ。あなたとはきちんとお別れもできないままだったものね」
すると、ドレスは、困ったような、許しを請うような口調で、
『ううん、それはいいんだよ。今、君とはこうして会えたんだからね。それより、僕は随
分と君に残酷な仕打ちをしてしまったよね』
しおしおと悲しそうな声を出すドレスに、ふうん、と女は鼻を鳴らして、
「ううん、いいのよ、そんなこと。それよりも、私は、今、本当に幸せを感じているのよ、
それがあなたにはわかるかしら?」
返答に戸惑う赤いドレスに向かって、女は、
「ずっと、私のことを覚えてくれていたひとがいたっていうこと。それがわかったことが
なによりも私は幸せなのよ」
そして、にいっと笑って、
「花咲く季節は一度きりよ。何度もあっていいものでもないわ」
女の言葉に、かつての相棒はああ、と嘆息の声をあげる。
「さあ、わかったのなら、夢の時間は終わりよ。衰え果てた女優をいつまでも舞台に上げ
続けるような野暮な真似はやめたのがいいわ」
女の言葉に、魔法は解けて、一颯のつむじ風が空気の中に消えてゆくように、ゆっくり
と薄らいで、奇跡の時は霧消してしまった。
そして、なんの秘密もない、ただの清掃婦に戻った女は、少しだけ背筋を伸ばして、鼻
歌を交えながら、床の掃き掃除を始めたのだった。
歌は、昔流行った恋の歌。若い日の女が好きな歌だった。
いつの間にか斜陽は長い影を、白い壁面に幻燈のように描いていた。
おわり
最終更新:2012年04月18日 17:59