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顔だけだってアイドル

39 「顔だけだってアイドル」 [sage] 2012/08/16(木) 14:14:04.45 ID:2XiP4gGK Be:

    一応芸能界に籍をおく加藤静香は、実力はあるが惜しい子だった。
    歌唱力もダンスも悪くない。スタイルもずば抜けて巨乳というわけでもないが体重には気をつけているし、全体的にみればバランスもいい。
    顔だって、それなりのメイクの後なら、テレビにでて問題ないレベル。
    しかし、それが逆に可もなく不可もなくという結果になってしまうのだろうか。
    過去、何度かチャンスがあったものの、後一歩のところでモノにできない結果に終わっている。
    四捨五入すると30になってしまう年齢と言うこともあって、彼女自身ある意味焦り、ある意味悩んでいた。
    この先の人生やり直すにしたら早い方がいい。少なくとも、本当に30になる前には。
    半ば家出同然に故郷を飛び出してきただけに、これといった実績もないままでは実家に戻りづらい。
    こうなると、一発屋が羨ましくなる。
    そんなある日、仕事の後、彼女はマネージャに呼び出された。
    「あ、加藤ちゃん、悪いね。お疲れのトコ呼び出しちゃって。」
    「いえ、そんなことありません。」
    「実はね、加藤ちゃんにいい…かどうかはまだ分からないけど、大きくなるかもしれない仕事の話があるのよ。」
    「え、それって。」
    思わず食いつく静香。
    この仕事を辞めようか悩んでいた矢先のこと、起死回生のチャンスでもあるし、失敗したらしたらで、潔く辞めるきっかけになってくるかもしれない。
    「まあ、ちょっと特殊な仕事でね。加藤ちゃんみたいに、そこそこ長くこの業界にいる子じゃないと頼みづらいの。それとね。」
    「それと?」
    聞き返しながら、静香は心の中で案の定かぁと呟かずにはいられなかった。
    ここまで、パッとしない自分に舞い降りてきた大きな仕事が芸能界ということを差し引いても真っ当であるとは初めから期待していない。
    「今回の仕事は、私生活にも絡んでくるから、それだけは十分承知しておいてね。多分…というかほぼこれまでのような暮らしはできなくなると思うから。」
    私生活に絡む?これまでのような暮らしはできない?
    その言葉に、静香の脳裏に浮かんだのは、一万円とか無人島とか農村とかの「1ヶ月○○生活」企画だった。
    この手の企画はお笑い芸人が当てられることが多いが、それだけにマンネリ気味になっていることも確か。
    新機軸として自分の様な人間にまわってくることも考えられないことではない。

    「あの…もう少し具体的な何をするかおしえてもらえませんか?ちょっとコマ切れすぎて話がみえないんですけど。」
    「…そうね。でも、加藤ちゃんなら分かると思うけど、この話、詳しく聞いたら、受ける受けないに関係なく、絶対他言無用だからね。まあ、いっちゃ悪いけど加藤ちゃんじゃ、人に話してもさほど問題はおきないかもしれないけど。」
    「そのことは気にしませんから、早く話してくださいよ。」
    静香もしびれをきらしはじめる。
    「話すより、ちょっとみせてみた方がわかりいいかもね。」
    そういいながら、マネージャーは部屋の鍵を閉めた。
    他言無用な内容だけに、偶然にも誰かに聞かれるわけにもいかないのは当然だ。
    「加藤ちゃんにみせたいのは、まずコレなんだけど。」
    マネージャーがバッグの中からとりだしたのは、肌色の…皮かビニールみたいな物体…そこには黒と茶色の入り交じった幾筋もの…毛がくっついていた。
    一瞬、考えた後、静香は、それが仮装とかに使うマスクであることに気づいた。
    TV局内ではそれほど珍しいモノでもない。特にバラエティでは何かにつけ使うことも多いだろう。
    「それが何か?マスクみたいですけど。」
    「マスクだと分かってもらえるなら話は早いね。論より証拠、ちょっと被ってみて。」
    そういいながら、マネージャーは静香にそのマスクを手渡した。
    手に取ってみると、それがバラエティなどに出てくるものとは、かなり違うものであることが分かった。
    まず髪の毛の質感…合成品ではなくそれどころか人毛である可能性が高い。
    それ以上に驚いたのが、肌の質感の方だ。
    一体、何でできているのか…ビニールやゴムの類ではないことだけは確かだ。
    支える骨格がないため、だらんと垂れ下がっているものの、それを除けば、まるで人間の肌そのもの。
    もっとも髪の毛と違い、皮膚は人間の身体から剥いでしまえば、あっという間にしなびてしまうから、本物ということはありえないだろうが。

    「これを…ですか?」
    「そうそう。被ってみれば、今回の仕事の話もなんとなく分かってくるよ。」
    そういわれては、静香にしても断る理由もない。
    何となく気持ち悪さを覚えていたが、意を決して、えいや!とばかりマスクを被る。
    当然のことながら、マスクには、目、鼻、口に当たる部分に穴が空いており、かぶっても、一応視界は確保できるし、呼吸も苦しくはない。
    「かぶりましたけど、これが何か?」
    マネージャーにそう問いかけた瞬間、何かが起きた。
    「!」
    何か分からないが何か起きたことに気づき、静香は思わず小さな悲鳴をあげた。
    数秒後、その何かがなんであるかに気づく。
    顔に何かが貼り付いてくる。
    そしてこの状況で顔に貼り付いてくるものといえば、あのマスク以外にありえない。
    鼻と口の部分の穴があるので、息はできるが、顔に異質な存在が貼り付いてくることへの恐怖感と嫌悪感はぬぐえるものではない。
    慌てて、マスクをはぎとろうとしたが…とれない?!
    マスクであれば存在するはずの、肌とマスクとの隙間が見つからない。
    と、不意に貼り付いてくる感触と圧迫感が消えた。
    「え?なに?」
    いつのまにか視界はマスクの穴の中からのものではなく、自分の視界に戻っている。
    マスクが貼り付いたのはほんの僅かな間だけに、マスクは自分の顔から勝手に抜け落ちたのだろうか?
    目の前のマネージャーは、満足そうな笑みを浮かべている。
    「な、何があったんです?それにあのマスクって一体?」
    マネージャーは無言のまま、部屋の隅におかれた、大きめの姿見を指してみせる。
    「鏡?それが何か…」
    鏡に移っている部屋の風景。
    そこはまずマネージャーの姿…そしてその横には自分…ではない。
    体型と服装から女性であることは間違いない。
    だが、彼女は静香ではない。
    顔だちがまるで違う。
    メイクすれば多少かわってくるとはいえ、多少きついめの顔だちである静香に対して、鏡に映っている女性の顔だちはかなり穏和。可愛いと言っても差し支えない…静香もこんな顔だったら、多少人生も変わっただろうと思える顔だち。
    だが、今は、彼女の顔だちより、本来鏡に映っていなければおかしい静香の姿が鏡の中にいないことの方が問題だった。

    「え?え!」
    慌てて姿見に駈け寄ると、あの女性の姿が鏡の中の占拠面積を増やしていく。
    というか、今鏡に映っている女性が、静香ということになるのか?
    「マネージャー!コレって一体?!」
    悲鳴同然にマネージャーに問いかける静香。
    「騒ぐ前に、ちょっと鏡の中をもう一度みてみて。その顔に見覚えない?」
    「鏡?顔?見覚え?」
    まだ落ち着いていないものの言われるがままに鏡を見つめる静香。
    可愛らしい顔だち、若干茶色のモノが混じった光沢のある黒髪。
    アイドルとしても通用しそうなその容姿…アイドル…アイドル?…!
    「え…コレって、大戸島愛美?!」
    大戸島愛美は、5年ほど前にアイドル歌手としてデビュー、1年後にそこそこのヒットして、その愛らしい容姿と、微妙なオバカキャラを立たせたことで、バラエティなどの起用されることも多い。
    とはいえ、顔の可愛さとオバカキャラだけでは後発の若いアイドルに追いつかれるのは当然のことで、ここ1年ほどは、めっきりテレビの登場回数も減っている。
    「そうそう、大戸島愛美。それぐらいは分かるか。」
    「それはいいですけど、なんであたしの顔が大戸島愛美に?!」
    「顔だけじゃないよ。ちょっと落ち着いて自分の声を聞いてごらん。」
    「声?…声…あー…あーあーあーあー…あー…あ!」
    ハスキーがかった自分の…加糖静香の声ではない。明らかにアイドル歌手で通用しそうな、どこか丸っこくて、滑舌が割るそうな可愛らしい声。
    「顔も声も…こんなことって…一体………あ!これってもしかしてさっきのマスクが!?」
    「そうそう、加藤ちゃんは察しがよくて助かるよ。あのマスクを被ったことで、加藤ちゃんの顔と声は大戸島愛美のモノになっているってわけ。」
    「マスク…まさか、本当にそんなこと…どうやって…」
    恐る恐る自分の…大戸島愛美になっているその顔に手を当ててみると、触られているという感覚が顔から伝わってくる。
    髪を引っ張ってみれば、頭皮からは引っ張られているというちょっと痛みの混じった感触が。
    どれだけ精巧な特殊メイクを用いても、顔の輪郭からしてまるで違う、自分と音島愛美をそっくりに仕上げることができるとは思えない。
    それにメイクをすれば、触感は大きく損なわれる。
    そもそもメイクでは声を変えることはできない。

    「あのマスクで何でそんなことができるかは、ちょっと脇においとてい。ここからが本当に仕事の話だから。」
    「もしかして、大戸島愛美の代役ですか?」
    「うーん、ちょっと違うねえ。確かに加藤ちゃんには大戸島愛美になって欲しいけど、それは代役じゃないさ。ずばりいえば、大戸島愛美本人になって欲しいのさ。」
    「本人になる?まさか…大戸島愛美が亡くなった?」
    「大丈夫大丈夫、大戸島愛美はピンピンしてるよ。さて、どこから話そうか…大戸島愛美はアイドル歌手としてデビュー、ちょっとしたヒット曲があって、その後バラエティを中心に活躍。ここまでは知ってるよね。」
    「え、ええ。」
    「加藤ちゃんなら分かると思うけど、可愛いことが重要なアイドルってのはどうしても寿命が短い。1つや2つヒット曲があったってせいぜい3年寿命は延びればいい方。大戸島愛美も例外じゃない。」
    「ですよね。それでもヒット曲がある分羨ましいですけど。」
    「しかもアイドル歌手ってのは育成期間が短い。オバカキャラでバラドルになるぐらいならどうにかなるけど、本格的な歌手や女優になるための基礎が全くといっていいほど存在しない。
    路線変更やイメチェンしても大半が成功しないどころか、それがダメ押しになることからも分かると思うけどね。」
    「路線変更…それってもしかして!」
    「そう、加藤ちゃん分かったみたいだね。大戸島愛美はこのままでは後1年もつかどうか。それはそれで仕方ないことだけど、そこそこ知名度のある大戸島愛美をあっさり切り捨てるのは惜しい。
    しかし、路線変更するには、明らかに力不足でね。オバカキャラの大半はそんなもんだけど。」
    「つまり、あたしが大戸島愛美になって路線変更…」
    「そう、大戸島愛美がどっちに路線変更したら再興できるかは現時点では誰にも分からない。となれば、色んなコトが平均以上にできる人、それもできれば大戸島愛美と年格好の近い、それといきなりいなくなってもあまり問題にならない…まあ分かってもらえるね。」
    「ええ、まあ…つまり、この後、あたしは大戸島愛美としてこの業界で再出発というか路線変更を目指すってわけですよね。でも、外見は何とかなってるとしても、そんなに上手く入れ替われるものなんですか?
    業界の外の人間関係とかトラブルの元になりかねない気が。それに大戸島愛美本人はどうなるんです?彼女がいきなり芸能界に復帰してきたら大騒ぎになるはずですけど。」
    「入れ替わりに関しては問題ないよ。この後、大戸島愛美は、ある病気で一月ほど入院ということになってね。
    けど、退院後復帰するのは加藤ちゃん。多少おかしなことがあっても、病気とか入院生活の影響で誤魔化せる。それに、大戸島愛美本人が芸能界復帰はありえないよ。」
    マネージャーはやれやれといわんばかりの素振りをして見せた。
    「なにせ、大戸島愛美もこのマスクを被っていたんだからね。」

    「…ちょっと待ってください。ということは、今の大戸島愛美がマスクを被っているとしたら、本当の大戸島愛美…大戸島愛美の顔の持ち主ってのは、どうなっているんですか?」
    「さあてねえ。今時の可愛いコってのの大半は、どこかしらプチ整形ぐらいはしているもんだから気にするほどじゃないだろ。」
    マネージャーのいうこともある意味もっともだったが、静香の脳裏には、その年に受けそうな顔のマスクを制作中な光景が朧気ながら浮かんでいた。
    「けど、正直悪い話じゃないよ。確かに見た目は大戸島愛美だし、彼女のここまでの成功という助けはあるけど、ここから成功出来るかは加藤ちゃんの手腕次第。
    加藤ちゃんの実力なら、大戸島愛美をアイドルじゃなくて、本格的な歌手なり女優なりにすることだって夢じゃないと思うんだけどねえ。」
    自分ではなく、他人、大戸島愛美となって活動することに抵抗がないといえば嘘になる。
    そこには、あくまで自分の実力と努力だけで成功したい。成功してみせるという自負があった。
    しかし、一方で、30という年齢がゴールラインとして見えてきたことによる焦りによって、これを最後のチャンスだと捉えている自分がいるのも確か。
    既に落ち目になっている、このアイドルをどこまで持ち上げることができるのか。
    それは自分が成功できるかと同じくらいやりがいがありそうであることも確かだった。
    「まあ、いきなりこういうことになってすぐ答えをだすのも無理だろうから、数日考えてみてよ。」
    「そうですね。ちょっと時間をかけて考えてみたいです。」
    「けど、受けるにしろ断るにしろ、後からやっぱりはなしだからね。いっちゃ悪いけど、加藤ちゃんの他にも候補がいないわけじゃないし。」
    もっとも話だ。
    顔のつくりという問題がクリア出来る以上、ある分野だけなら静香より上の技術の持ち主はいくらでもいる。

    「ところで、このマスク、どうやってとるんです。」
    首から顎の辺りをかきながら、静香はマネージャーに問いかけた。
    「あ、悪い悪い。そのマスク、被るのは簡単だけどね。とるのは本人じゃできないんだよ。」
    「ちょっと、それってかなり不便じゃありません。」
    「ものがものだけに、簡単にとれるようじゃ困るんだよ。生放送中にポロリと落ちたんじゃシャレにならないし、楽屋に置き忘れとかあったら大騒ぎだしね。
    さて、そのままじゃ加藤ちゃんも困るだろうし…」
    マネージャーの手が、静香のうなじから後頭部にかけて、突き立てるようにかけられた。
    と、何か髪の毛というか首の辺りに空気が流れ込む様な感触。
    え?
    と思った瞬間、その空気の流れは顔へと広がり、いつのまにか、マネージャーの手にはあのマスク。
    慌てて姿見に視線を向ければ、そこに映っているのは見慣れた自分の顔。
    マネージャーの手に、あのマスクがつかまれていなければ、先ほどまでの変身は夢だと思ってしまいそうなところだ。
    「それじゃ加藤ちゃん、いい返事を待ってるよ。ああ念のため言っておくけど、このことを誰かにいおうなんて思わない方がいいよ。どうせ誰も信じないし、加藤ちゃんだってできればもう少しこの業界にいたいだろ。」
    マネージャーが言わんとしていることを理解出来ないほど、鈍い静香ではなかった。

    3日後、ある意味予想出来た結果だが、静香はこの件を引き受けた。
    既に二十代後半の彼女がこの業界で成功を収めるには、宝くじに当たるぐらいの幸運が必要だ。
    そして、今回の件は宝くじで一等とまでいかなくても二等かそれに近い幸運だと考えるしかない。
    「いや~良かったよ。加藤ちゃんが引き受けてくれて。他に候補がいるとはいったけど、加藤ちゃんほど条件がそろっているわけじゃなくてねえ。」
    その言葉がどの程度真実なのか、マネージャーの表情から読み取ることは難しかった。
    「それじゃ、まず私生活の方から処理していかないとね。今の部屋は引き払って、荷物とかはこっちの用意する倉庫にしまい込んで。大戸島愛美の部屋に、加藤静香の荷物とかがあると、どこでトラブルになるか分からないからね。
    しばらくは、こっちの用意したホテルで過ごしてもらって、もう少しすると今の大戸島愛美が入院するから、退院とあわせて、大戸島愛美の部屋に移ってもらうことになるから。
    他人の部屋は居心地が悪いだろうけど、少し落ち着いたら引っ越してもかまわないから、それまでのガマンだね。」
    実際、大戸島愛美が入院し退院するまで、静香はかなり慌ただしい時間を過ごすこととなった。
    部屋の整理は数日で済んだが、その後、「大戸島愛美」として活動する為の訓練が待っていた。
    入院の影響という理由で多少誤魔化せるとしても、大戸島愛美と加藤静香とでは性格はもちろん、素振りや話し方もまるで違う。
    瓜二つとまでは行かなくても、良く似ているといえるレベルにまで、自分を引き揚げる必要はあった。
    そして大戸島愛美退院の日。
    それまでの大戸島愛美は既にマスクをとって、前日に病院から出ていた。
    病院の玄関から外に出たのは、マスクをかぶり、見た目だけで言えば、大戸島愛美そのものの加糖静香。
    落ち目気味バラドルとはいえ、入院しかも、その時期、他に話題性の強い事件がなかったこともあって、玄関にはそれなりの報道陣が集まっていた。
    静香にしてみれば、今の自分が大戸島愛美だと分かっていても、これだけの人とマイクとカメラ、そしてフラッシュに囲まれるのは初めての体験だ。
    インタビューに対して応える内容もまた練習しているとはいえ、一瞬全てを忘れそうになる。



    退院した「大戸島愛美」がまず向かったのは、緊急入院で迷惑をかけた関係各位へのお詫びまわりだった。
    「加藤静香」にしてみれば、自分がしでかしたことでもないだけに、釈然としないものがあったが、それを表面にだすような彼女でもない。
    もっとも、既に斜陽のアイドル大戸島愛美は、レギュラーの番組もなく、その他の仕事も、バラドルなら誰でもすむような内容ばかり。
    迷惑らしい迷惑など実質皆無といってもよく、今日の巡回もお詫びにかこつけた売り込みといった一面が強い。
    「あれ、まなみちゃん、ちょっと痩せた?というか、雰囲気変わったよね。」
    とある事務所でいきなりそう言われたことに、静香は思わず身をすくめる。
    「まあ入院したら、多少体重はおちるよね~。病院の飯ってマズイし。」
    業界のお約束、相手が勝手に自己完結してくれたお陰で静香はそれほど焦らずに済んだ。
    比較的体型が似ている、大戸島愛美と加藤静香だが、2人が別人である以上、完全に同じ体型というわけではない。
    慎重はほぼ同じだが、体重は静香の方が若干少なめで、体型もスマートだ。
    その分、バストとヒップの数値も低め。
    もっとも、この辺は入院生活の影響ということで誤魔化せる範囲。
    ダイエットすると、まず胸から痩せるというのはもはや常識であるし。
    お詫びまわりも順調にすすみ、最後にもう一度自分の所属事務所に顔をだした後、大戸島愛美は自分の部屋に戻った。

    何度か入っているが、やはりここは他人の部屋だった。
    装飾や置物の趣味の違いもあるが、既に生活感が染みこんでいる部屋では、どうしても自分がお客様になる。
    「1ヶ月ほどしたら引っ越してもいいってことだし、それまでホテルか下宿ぐらしだと思ってガマンするしかないか。」
    そう呟くと、大戸島愛美な静香は、ベッドに腰を下ろした。
    大戸島愛美の入院中に、下着や体型の影響が大きい衣服類の交換のため、この部屋には何度か足を踏み入れている。
    ベッドのシーツや枕なども一緒に交換しているのだが、部屋全体の匂いとでもいうものが、改めて染みつき直しているせいで、他人のベッドを使っているという感覚は拭いきれない。
    「あーあ、今日の所はなんとか上手くいったけど、この後、どうなるのかな?チャンスだと思ったけど、失敗すれば結局落ち目のバラドルなままなわけだし。」
    自分の実力に自信がまるでないわけでもないが、これまでチャンスをモノにできなかったことからのトラウマが彼女の思考を若干ネガティブにしていた。
    「ダメダメ!まだ始まったばかりなのに、こういう考えばかりだからいつも上手くいかないことになっちゃうんだから…よし、今夜は御飯食べて、お風呂入って寝ちゃおう!」
    当然のことだが、冷蔵庫はからっぽに近い。
    となれば、後は出前かあるいは買い物か。
    (でかけるのは面倒だけど、この辺で出前してくれる店よく知らないからなあ。いきなり初日から大ハズレ引いたらダメージ大きいし。
    ちょっと先にコンビニの看板みえたなあ。この辺の地理再確認のためにもちょっと足のばしてみようかな。)

    髪を大雑把にアップにまとめると、静香は部屋をでた。
    この程度のことで、誰も大戸島愛美だと気づかなくなるらしい。
    なんというか周囲の人間の認識が「大戸島愛美に似たところがある誰か」になってしまうようだ。
    まあ、既に落ち目の大戸島愛美がそれほど周囲の注目を集めるとも思えないが。
    (でも、今日の退院でそこそこカメラもきてたし、テレビで知った人がいるかも。)
    今の自分が、見た目だけなら、加藤静香ではなく大戸島愛美であることを再確認すると、ちょっとだけ自己顕示欲にも似た欲求が湧き上がってくる。
    (おっといけないいけない。今、変なタイミングで注目を集めるのは裂けないと。)
    大戸島愛美として振る舞う練習はしてきたといえ、実戦は今日から。
    ヘマをしでかすのは避けられないとしても、そのタイミングには気をつけないと。
    実際、道路ですれ違う人も、コンビニのレジの女性も、彼女が大戸島愛美だと気づいていないようだった。それとも気づいてはいるのだが、特に興味はないのか。
    コンビニのお弁当とサラダ、そしてペットボトルのお茶で夕食をとっていると、「大戸島愛美の方の携帯」が鳴った。
    電話の方だったらどう対応しようと身構えた静香だったが、幸いにもメールの方だった。
    差出人は彼女のメル友らしいアイドル。
    【まなみ~ん、退院おめでとー!けど復帰にはもう少し時間がかかるかな?今は無理せず身体をちゃんと治してね。】
    大戸島愛美は比較的すぐ返信するタイプということなので、静香は食事を中断して、早速返信の文章を打ち始める。彼女がよく使う文章や文体の見本はもらっているのでそれを参考にしつつ、短いながらも感謝する内容を送信した。
    とそれがきっかけになったかのように、あちこちのメル友から退院おめでとうメールがどっと押し寄せてきた。
    落ち目のアイドルにしては、意外な人望といえる。

    食事を早々に終わらせると、静香はメールの返信に追われることになった。
    普段、短時間のこれだけの数のメールを使うことがなかっただけに、指が疲れてきた頃、どうにか返信作業も終わる。
    「あ~、変なところで疲れちゃったな。もうお風呂入って寝ちゃお。」
    携帯をマナーモードの切り換えると、まず浴槽にお湯を貯め始める。
    「けど、このマスク本当凄い。つけたままお風呂入っても大丈夫というか、髪とかちゃんと洗わないといけないし。」
    このマスク、どうやら、つけた状態では、マスクというより、完全に着用者に一体化し、皮膚も髪も本人のものとなってしまうようだ。
    マスクというよりまるで第二の皮膚だ。
    ただし、迂闊なシャンプーや化粧品を使うと痛む可能性があるということで、メンテナンスという意味も兼ねて、専用のシャンプーとリンス、それに乳液などを渡されていた。
    もっとも、これは「旧」大戸島愛美も使っていたに違いないが。
    既に何度かこのマスクをつけたまま入浴したりシャワーを浴びたりしているが、まだ全裸の状態で、大戸島愛美になっている自分を直視することには慣れていない。
    脱衣場にも姿見があるし、浴室の壁にも大きめの鏡が据え付けられている。
    顔は大戸島愛美なのに、首から下は見慣れた自分の身体…黒子とか微妙な特徴を覚えているだけにそこに安っぽいアイコラをみるような違和感を覚えるのも尚更だ。
    イマイチ、リラックスしきれない入浴を終わらせ、浴室をでた静香は指示通り顔と首まわりに乳液を塗る。
    まあ、これはマスクを被る前から、美容のためにやっていたことの延長に過ぎないが。
    携帯をチェックすると更に3件の新着があった。
    (さて、明日はどうしようかなあ。当面の生活費はもらっているけど、念のため、節約した方がいいよね。数日は休暇ということだし、コンビニ弁当ばかりも味気ないから買い物にいこうかな。)
    返信メールを打ち込みながら、そんなことを考える静香。
    「さて、今日は慣れないことばかりで疲れちゃった。早起きする必要もないけど、もう寝ちゃおう。」
    他人の匂いが消えきっていないベッドではあるが、疲れていたのは本当だったらしく、落ちる様にして静香は眠りについた。


    不意に目覚めて、数秒後、静香はいつもと違う枕、マットレス、掛け布団、そして天井の光景に気づいた。
    誰かの部屋に泊まった?それともホテル?まさか、仕事の後の一杯でいきずりの?
    自分でも信じられないほど、目まぐるしく思考が動き回った後、ようやく彼女は思い出した。
    ここは、「大戸島愛美」の部屋なのだ。
    自分が置かれている状況をようやく思いだした後、静香はゆっくりと身体を起こした。
    ベッドの脇におかれた時計をみれば、まだ6時台。
    まだまだ、業界での仕事が少ない静香としては、バイトやら自主トレーニングでこの時間の起床は珍しくない。
    だが、大戸島愛美としてはまだ寝ていても問題ない時間だ。
    二度寝の誘惑が囁きかける中、静香はベッドから床に起き上がった。
    この後、落ち目になりつつある「大戸島愛美」として再興を目指すなら、出来る範囲での努力は何でもやっておくべきだろう。
    少なくとも、体型維持のためのトレーニングはやっておくべk。
    なにしろ、このマスク。顔こそは大戸島愛美そっくりに変えてくれるが、体型までは変えてくれないのだから。
    部屋のレイアウトこそ、静香の部屋とは違うものの、空間そのものなら充分広くなっている。
    しかも、安普請アパート違い、防音性などは向上しているだけに、静香はこれまで以上に心おきなくストレッチなどを行うことができた。
    この後のことを考えれば無意識のうちに力が入るのか、気づけば、時間は7時をまわり、8時近くになっていた。
    トレーニング量はともかく、健康と身体を考えれば、朝食をとるべきだろう。
    昨夜、夕食のお弁当と一緒に買ってきたサンドイッチと野菜ジュースの朝食をとる。
    顔こそ大戸島愛美になっているが、その身体はあくまで本来の自分…加藤静香であるだけに、アレルギー食材や太ったり吹き出物につながりそうな食材の危険に脅かされないのはある意味ありがたい。

    「さて、お昼はともかく夕ご飯もあるから、買い物にいこうかな。」
    昨日買ったのはお弁当とサンドイッチそしてジュースだけに、冷蔵庫の中身は相変わらずからっぽに近い。
    自分の手間と時間を差し引いて考えると、コンビニどころかスーパーでの買い物でさえ、材料を買ってきて自分で作った方が遙かに安いことになることはいうまでもない。
    薄給の身の静香としては文字通り自分の身をもって体験し理解してきたことだし、自分で料理した方が好みの味付けをできるというメリットも大きい。
    「えーと、近くにスーパーってあったかな?」
    大戸島愛美の食生活といえば、ロケ弁と外食に頼りっきりということで、食材を自分で調理するとは無縁だったらしく、少々不安が残るが、ネットで検索してみると、コンビニほどではないにしても、踏切向こうまでいけば、チェーン系列のスーパーがあることが確認出来た。
    「で、問題は、格好よね。」
    テレビとは衣装もメイクも照明も違い、そしてカメラワークもないこともあって、日常生活でアイドルやタレントと遭遇しても、周囲に取材陣でもいない限り、それと気づかない場合が多い…というのは昨日のコンビニでもある程度実感している。
    この辺りは、自分の行動範囲に有名人などいるはずもないだろうという一般人の先入観の影響が大きいだろうが。
    マネージャーからは、私生活での帽子、眼鏡、マスクの着用厳禁を言い渡されている。
    変装の三種の神器とでもいうべき、これらのアイテムを身につけていては、自分から変装してますよ。と看板立てているようなものだというのだ。
    確かに、この世界に入るまでは、芸能人というのは私生活では正体がばれないよう変装しているものだと思っていた時期があっただけに、それなりの説得力がある言葉だ。
    誰かに似ている程度の認識ですむところが、下手に変装すると、芸能人が変装している誰かとして捉えられてしまう危険性は確かにある。
    結局、昨夜同様、髪を面倒くさく大雑把な感じにアップでまとめ、服装も、センスより着やすさは動きやすさを優先した、如何にも以上にラフな格好…
    イメージとしては夜勤シフトの女性が帰宅後、寝る前に渋々買い物にでかけるといった感じだろうか…に着替えると、静香は部屋をでた。

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最終更新:2012年09月08日 00:42