※規制中なので直接こちらに投稿します。(2013-08-15)
「はあ……」
沢村健太は暗い顔でため息をついた。自席に戻る彼の手には、返却されたばかりの期末試験の答案用紙が握られていた。
点数は悪くない。むしろ、今回はかなり健闘したと言える。机の中から答案用紙の束を取り出し、平均点を計算すると、前回の中間試験をやや上回っていた。
成績は決して悪くない。しかし、健太は唇を噛み締めて悔しさを表した。
「やっぱり駄目だったか……これじゃ足りねえ」
「健太君、いかがでした?」
背後から声をかけられ、健太は振り返る。
「八十六。麗華は?」
「私は満点でした」
「百点? マジかよ……これじゃ勝てねえとは思ったが」
健太は半ばうめきつつ、傍らに立つ少女を見上げた。確かに彼女が示した答案用紙には、無数の赤い丸と百の字が記されていた。
完敗だった。試験の前から半ばわかっていたこととはいえ、結果は無残としかいいようがない。全ての科目で健太は相手を上回ることができなかった。
自らの敗北を悟り、健太は力なく椅子にもたれかかった。窓から見える夏の青空には雲ひとつなかった。
「情けねえ……あれだけ勉強して、このざまかよ」
「いいえ、そんなことありません。健太君はとても頑張っていました。成績だって上がったでしょう?」
「お前に勝てなきゃ意味ねえだろうが……」
震える声で言いながら、目の前の少女と自分との、あまりにも大きな力量の差を自覚する。互いの答案用紙を眺めていると、いくら凡人が努力したところで天才には決して敵わないのだと思い知らされる。
「ねえ、聞いた? 嘉門院さん、百点だったんだって」
「どうせ、また学年トップでしょ。さすが、完璧お嬢様は私たちとは違うわねえ」
遠巻きに二人を見ていたクラスメイトたちが、そんな声を漏らした。それに引きかえ隣の男は情けない、と嘲笑されているような気がした。
「こら、静かにしろ! 答案を受け取ってない者はいないか? これから試験の解説を始めるから、黙って席につけ。特に点数が悪かったやつはよく聞いておけよ!」
厳しいことで評判の男性教師が、黒板を手のひらで叩いて怒鳴り散らした。それまで騒いでいた生徒たちが、しぶしぶ席に戻っていく。少女も「それじゃ健太君、またあとで」と言って健太から離れていった。
(俺、いつになったらあいつに勝てるようになるんだろう……)
じっとうつむき、試験問題と答案を見比べる。教師の話などまるで耳に入ってこなかった。どうしたらこの試験で満点が取れようになるだろうかと思案しながら、健太は重くのしかかるような敗北感にただ耐えるしかなかった。
嘉門院麗華は、ひとことで言って完璧だった。
高校での成績は不動の一位。全国模試でも上位成績者の常連である。趣味はピアノとテニスで、いずれも高校生とは思えない腕前だ。また大変な資産家の令嬢で、欧州の貴族の血を引いているという。そのためか髪は日本人離れした黄金色で、すらりとした長い脚と色白の肌、繊細な顔立ちも周囲の目を引く。細身でありながら豊かなバストを誇っているため、体操着やテニスウェアに着替えると、遠目からでも彼女を見ようと双眼鏡を取り出す生徒があとを絶たない。
そのうえ気性も穏やかだった。人当たりがよく、困っている者を見れば手を差し伸べずにはいられない性格である。それゆえ誰もが憧れ、嫉妬せずにはいられない存在だというのに、人望にさえ恵まれていた。
健太が交際している嘉門院麗華は、そんな女なのである。
「はあ……また負けちまったか」
帰り道、健太は麗華と肩を並べて歩きながら、何度も嘆息していた。
「元気を出して下さい。また次のテストを頑張ったらいいじゃありませんか」
「そうやって、いつもいつも同じことを言われてるんだが……」
追いつきたいと思っている相手に慰められるのは、健太でなくとも屈辱だろう。試験のたびに麗華に勝負を挑んでいるのだが、今まで勝ったためしがない。敗北してはこうして同じ会話を繰り返し、健太の面子は丸つぶれだった。
(俺も何か一つくらい、麗華と張り合えるものが欲しいんだけどな……)
家柄がいいわけでも、体格や容貌、才能に恵まれているわけでもない健太にとって、麗華と交際するのは大変な苦労を強いられることだった。麗華に見惚れた人間は、皆、彼女の交際相手である健太を見ると決まって失望、もしくは憤慨するのである。「なぜ、あんなやつが麗華の彼氏なんだ」と。
我がことながら、健太もしばしば疑問に思うことがある。なぜ自分のような平凡な男が、麗華の恋人でいられるのだろうかと。それも、交際を申し込んできたのは麗華の方である。
「私、健太君のことが好きです。小さい頃からずっと好きでした」
高校に入ったばかりの頃、麗華に校舎の裏に呼び出されてそう言われたとき、健太は思わず自分の頬をつねり、これは夢ではないかと疑ったものである。いくら幼馴染みで仲のいい友人とはいえ、麗華が自分に惚れているなどと、簡単に信じられることではなかった。
それからは努力の毎日だった。勉学もスポーツもそれまでとは比較にならないほど精を出し、麗華と釣り合う男になるために必死だった。少しでも自分を引き上げ、見劣りしない人間になりたかった。麗華は「無理なさらずとも、どうかそのままの健太君でいて下さい」と言ってくれるものの、その言葉に甘えていいとは思わなかった。
だが、現実は非情だった。いくら健太が努力したところで、勉強でもテニスでも芸術でも、何ひとつ麗華には敵わなかった。挑戦するたびに打ちのめされ、己の無力を痛感するだけだった。
「はあ……」
「健太君、今日はうちで一緒にお昼を召し上がりませんか? せっかくテストが終わったのですから、ぜひ」
落ち込む健太を見かねたのか、麗華は彼の手を取り、学校からほど近い自宅へと誘う。高校に入ったのを機に、この近くの高級マンションに自分の住まいを用意してもらったのだ(無論、一人暮らしではなくお付きのメイドと一緒である)。名門の私立でなく健太と同じ公立高校に進学したり、健太と交際を宣言したりしても、麗華の両親は何も文句を言わなかった。娘を信頼しているということもあるだろうが、末っ子ということで、資産家の令嬢にしてはかなりの自由が許されているらしい。
「いや、悪いけどやめとくよ。今日は早く帰ってこいって親に言われてるんだ」
健太は嘘をついた。本当は、単に試験の成績で麗華に及ばず、悔しい思いをしたからだった。
「そうですか……残念です」
「ごめん、また今度お邪魔するから。メイドの秀美さんによろしく言っといてくれよ」
「はい、わかりました。それじゃ、また明日」
麗華は笑顔で手を振り、健太に別れを告げた。健太も恋人に手を振り返し、ひとり駅へと歩き出す。麗華の姿が見えなくなると、自分の器の小ささに、またしてもため息が漏れた。
「はあ……俺、情けねえ……」
「お困りですね、お兄さん」
「あん?」
不意にかけられた声に顔を上げると、通りの隅に男がひとり座っていた。夏の真っ昼間だというのに、暑苦しい黒のローブで全身を覆っている。男の前には四角いテーブルと椅子、「あなたの運勢、拝見します」と書かれた看板が置かれていた。どうやら占い師のようだ。
「僕は人の運命を見ることを生業にしていましてね。いかがです? あなたのお悩みを解決する方法を授けて差し上げますよ。なに、今ならお安くしておきますとも」
「何を言ってやがる。俺は占いなんて信じねえぞ、馬鹿馬鹿しい」
健太は吐き捨てた。怪しげな占い師にアドバイスされただけで、あの完璧超人の麗華に太刀打ちできるはずがない。「急いでるんだ。じゃあな」と、その場を離れようとした。
「恋人と釣り合う男になりたいんでしょう? だったら、ひとの話に耳を傾ける度量も必要じゃありませんか」
「何だって?」
健太は足を止めた。何もかもを知っているような男の言い回しが気になったのだ。占い師はそんな健太の内心を知ってか知らずか、ローブの袖から細い腕を出して手招きしてくる。
「さあ、こちらにお座り下さい。もし僕の言うことがお気に召さなかったら、料金はいただきませんよ」
「お前、いったい何なんだ。すっげえ胡散臭いんだが……まあ、話だけは聞いてやるか」
健太は荷物を脇に置いて、占い師の正面に腰を下ろす。とても信用できそうな風体ではないが、健太はなぜか男の言動を無視することができなかった。
「まずは自己紹介とまいりましょうか。僕はカトー、さすらいの占い師です」
「カトーか……それで、お前は俺にいったい何を教えてくれるんだ?」
「もちろん、あなたが嘉門院麗華にふさわしい男になる方法ですとも」
「お前……なんで麗華の名前を知ってるんだ。それも占いでわかったのか?」
「もちろん。僕は何でもお見通しなんですよ、沢村健太さん」
驚く健太に、カトーと名乗る占い師はくすくすと笑いかけた。黒いローブのフードに覆われているため顔の下半分しか見えないが、意外と若いのかもしれない。口調も声も、男というよりは健太とそう歳の変わらない少年のもののように思えた。
「なるほど。何でもお見通しってわけか……」
健太は内心の動揺を押し隠し、腕組みしてカトーをにらみつけた。「なら、率直に訊くぞ。いったい俺はどうしたらいいと思う? どうしたらあいつに釣り合うような男になれる……」
「お任せ下さい。僕は何でも存じております。この僕の力で、きっと彼女をあなたと釣り合うようにして差し上げますとも」
カトーはにんまりと笑みを浮かべた。占い師というよりは、詐欺師のようだと健太は思った。こんな胡散臭い相手の言うことを真に受けていいのだろうか。訝しがる健太に、カトーは軽薄な口調で話を続けた。
「もちろん、今すぐにというわけにはいきません。あなたの望みを実現するためには、あなたと麗華さんのご協力が必要ですからね」
「俺と、麗華の?」
「ええ、そうです。恋人のあなたが頼めば、彼女も協力して下さるでしょう。何しろ、あなたのためなんですから」
「いったい、俺たちに何をさせる気なんだ?」
健太の問いに、カトーはしばらく無言だった。不敵に笑う謎の占い師に疑念を抱きつつも、健太は席を蹴って立ち去ろうとはしない。日頃の彼ならばこんな怪人の言うことなど気にも留めないはずだが、今の健太は違った。まるで悪魔に魅入られたかのように、体が動こうとしない。自分でも不思議だった。
やがて、カトーが再び口を開き、話を始めた。健太はその話に大人しく耳を傾け、話の終わりに、深々とうなずいたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
麗華の細い指が鍵盤の上を躍る。それ自身が一つの美術品であるかのような形のいい少女の手が、勇壮で複雑なメロディを奏でていた。
何度か聴いたことのある曲だが、タイトルは覚えていない。ただ、それが極めて高度なテクニックを要求される曲だということは、健太もよく知っていた。
優雅に、かつ楽しそうにピアノを弾く恋人の横顔から、健太は目が離せない。
ほどなくして曲はクラスマックスを迎え、華やかに終わりを告げた。無事に演奏を終えた麗華は小さく息を吐くと、健太に視線を向けた。
「いかがでした? 健太君」
「ああ、とってもよかったよ。やっぱり麗華のピアノは最高だな」
「そ、そんなことありません。ところどころミスをしてしまいましたから……」
頬を赤くして、恥ずかしそうに微笑む女神のような美貌が、健太の心をかき乱す。思わず抱きしめてしまいそうになったが、ここは校内である。すんでのところで踏みとどまった。
「ところで……今日は、この教室は誰も使わないのですか?」
「ああ、吹奏楽部は今日は休みだからな。先生に頼んで鍵をもらってきた」
室内を見回す麗華に、健太はそう答えた。
二人が今いるのは高校の音楽室だ。試験が終わって部活動が活発になる中、健太はたまたま空いていた音楽室を確保し、放課後に麗華を呼び出したのだ。
その目的は、先日の一件に関わることである。
(あのカトーとかいう占い師、確かに来るって言ってたけど……でも、本当に学校までやってくるんだろうか。
そもそも部外者だから、校内に入れないんじゃないか)
健太の懸念をよそに、音をたてて音楽室のドアが開いた。
二人の前に現れたのは、漆黒のローブで全身を覆った、あの怪しげな占い師だった。
「やあ。お約束通り参上しましたよ、沢村健太さん」
「お前、その格好で来たのか? よくつまみ出されなかったな」
不審者もしくは変質者にしか見えないカトーの格好に、健太は呆れかえった。
「健太君、そちらはどなたですか?」
「ああ、俺の知り合いの占い師だよ。ちょっと用があるんで来てもらったんだ」
不思議がる麗華に、健太は簡単に紹介してやった。
すると麗華は身構えるでもなく、「そうなのですか、こんにちは」と彼に笑顔で挨拶した。
決して他人を疑おうとしない彼女らしい振る舞いだが、これほどまでに怪しい相手なのだから、少しは警戒してもいいのではないかと健太は思った。
「それでだ。お前、俺に協力してくれるって言ってたよな」
「ええ、確かに申しましたとも。そのために、彼女にここに来ていただいたんです」
「え? 健太君、何のお話ですか」
「何でもないんだ、麗華は気にしないでくれ。それで、具体的に俺たちは何をしたらいいんだ? お前の言うとおり、誰もいない部屋に二人だけで来てやったぞ」
「まあ、そう慌てずに。実は、今日は素敵なゲストをお呼びしてるんですよ。さあ、皆さん。入ってきて下さい」
カトーが手を叩くと、複数の生徒が室内へと入ってくる。意外な展開に健太は驚いた。こちらを向いて横一列に並んだ生徒たちは、いずれも彼の顔見知りだった。
「皆、うちのクラスの女子じゃないか。どうしてここに?」
「ええ、その通り。皆さん、健太さんを手伝って下さるそうです。今日はこの親切な方々の力を借りて、健太さんの願いを叶えて差し上げたいと思います」
「どういうつもりだよ? こんなの聞いてないぞ。よりによってこんなやつらを呼ぶなんて……」
健太は険しい顔でカトーを問いただした。彼が不機嫌になった理由は、入ってきた女生徒たちの顔ぶれにあった。
一番端に立っている、化粧の濃い茶髪の女子は、吉本エミリ。あまり学校に来ない素行不良の問題児で、たびたび校内での喫煙で停学処分を受けている。
その隣にいるショートカットの女子は田中ヨシ子。短足で背が低いわりに体重は男子を含めた学年一で、その体型から「ビア樽」という不名誉なあだ名で呼ばれている。
ヨシ子の隣は鈴木ノリ子。ヨシ子と大差ない肥満体で、呼び名は「米俵」。しかし、体型よりも印象的なのは、正面からでも中が見える大きな鼻の穴とぶ厚い唇である。その容姿から、クラスの男子たちからは「目を合わせたくない女子ナンバーワン」に位置づけられていた。
最後の一人は佐藤サダ子。長い前髪で青白い顔を覆った、陰気な女子生徒だ。よく、周りに誰もいないのにぶつぶつと独り言を口にしている。ヨシ子、ノリ子の友達で、三人で一緒に行動していることが多い。
「まあ、そう嫌そうな顔をなさらずに。皆、可愛くて気のいい女の子じゃありませんか。ふふふ……」
(気のいい? こいつら、いつも麗華の陰口を叩いてる連中じゃないか)
健太は渋面になった。この四人はいずれも麗華のクラスメイトでありながら、あまり彼女のことをよく思っていない。
エミリは日頃から麗華のことを「目障りな天才女」と呼んで敵意を向けていたし、他の三人も、あまりにも恵まれすぎている麗華への嫉妬からか、ことあるごとに嫌味やからかいの言葉を彼女に投げかけてくるのだ。先日の試験返却のときもそうだった。
幸い、麗華は気にしていない(というより、単に悪意に気づいていないのかもしれない)ようだが、自分の恋人に棘のような悪意が向けられているのに、健太が平然としていられるわけはない。
「なんだ……いい話があるっていうから来てみりゃ、天才女の演奏会かよ。つまんねーの」
いったい、カトーに何を聞かされたのだろうか。エミリは舌打ちして麗華をにらみつけた。
「吉本さん、こんにちは。別に演奏会というわけではありませんけど……」
「うるせえ、話しかけんな。あたしはてめーみたいに気取った女が大っ嫌いなんだ」
「まあまあ、エミリさん。まずは僕の話を聞いて下さい」と、占い師のカトー。彼は麗華の前までやってくると、まるでダンスに誘うかのように彼女に手を差し出した。
「僕たちがここへやってきたのは、健太さんの願いを叶えるためなんです。悩んでいる彼を救うため、どうかご協力をお願いします」
「まあ、そうだったのですか。健太君に悩みがおありだったなんて、ちっとも気づきませんでした。いったいどのような悩みなのですか?」
「それは、ずばりあなたですよ。嘉門院麗華さん」
「え、私?」
目を丸くする麗華の手を取ると、カトーは彼女を四人の前に立たせる。
「さあ、ショーの始まりだ。皆さん、どうぞ楽しんでいって下さいね」
「何だよ、ショーって? こんなわけわかんねえことにつき合ってらんねえ。あたしは帰る」
「まあ、そんなこと言わずに」
カトーはローブの袖から腕を出し、パチンと指を鳴らした。すると、その場を離れようとしたエミリが、驚いた表情で立ち止まった。
「な、なんだ? 足が勝手に……」
「皆さん、特にこれから予定はないんでしょう? せっかくですから、最後まで楽しんでいって下さいよ」
「ど、どうなってんだ! 体が動かねえ! おい、お前、何をしやがった !?」
(……あいつ、何をやってんだ?)
健太はまばたきしてエミリを見つめた。
口では帰ると言いながら、エミリはその場に突っ立ったまま動こうとしない。最初はふざけているのかと思ったが、その怒りの形相が決して演技ではないと告げている。
いったいどうしたのだろうか。なんとなく嫌な予感を抱きながら、健太はカトーと麗華に視線を戻した。
「では、まず僕の自己紹介から始めたいと思います。僕はさすらいの占い師にして稀代のマジシャン、カトーです。今日は健太君のために最高のマジックショーを披露し、彼の悩みを解消して差し上げるつもりです」
「マジックショーだって? お前、占い師じゃなかったのかよ。それに、俺に手品を見せて何の解決になるっていうんだ。さっぱりわかんねえ」
「それはこれからのお楽しみです。さて、それでは余興ということで……こんな趣向はいかがでしょうか。それっ」
黒衣の占い師は先ほどと同じように軽快に指を鳴らす。突然、爆竹のような音が鳴り響き、麗華の体が白い煙に包まれた。
「きゃあっ !?」
「麗華っ!」
慌てて麗華のもとに駆け寄る健太。だが、辺りは謎の煙に覆われて何も見えない。
「けほっ、けほっ!」と咳き込んでいると、ゆっくりと煙が晴れ、麗華が再び現れた。
「麗華、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です。大丈夫ですけど、これは一体……?」
「え? な、なんだ? どうしてこんな……」
健太は驚きに目を見開いた。麗華の服装が制服のブレザーからテニスウェアに変わっていたのだ。
短い丈のスコートからは長い脚が伸び、豊かなバストが白い布地を押し上げている。誰もが見とれるテニスコートの女神がそこにいた。
「お前、いつの間に着替えたんだ?」
「わ、わかりません。気がついたらこの格好になっていまして……」
「ふふふ……お気に召していただけましたか? でも、これはただの余興に過ぎません」
と、自慢げに語るカトー。どうやら、これは彼のしわざらしい。
先日、健太の悩みをずばりと言い当てたこともそうだが、やはりこの占い師は只者ではないようだ。もしかすると、本当の魔術師なのかもしれない。健太は彼に対して畏れを抱き始めていた。
「きゃあっ、すごい! お嬢様の服が一瞬で変わっちゃった!」
彼の手品を間近で見ていた三人娘が歓声をあげた。この三人はエミリと違い、今のところ部屋を出て行くつもりはないようで、手近な椅子に腰かけて高みの見物を決め込んでいる。
健太も座りこそしなかったが、とりあえず少し離れて事態を見守ることにした。
「それでは、いよいよ僕のマジックをご覧にいれましょう。こちらにいらっしゃるのは皆さんご存知の、学年一の天才少女、嘉門院麗華さん。そしてこちらは学年一の問題児、不良娘の吉本エミリさんです」
「何だと、てめえっ。あたしをバカにする気か?」
「まあまあ、お静かに。いいお話があるって言ったでしょう? これからあなたに、とってもいい思いをさせてあげようと思いましてね」
カトーは二人を左右に並ばせると、またも指を鳴らした。すると、またも驚くべき変化が起こる。二人がにわかに苦しみ始めたのだ。
「な、何ですか? 頭が、頭が痛いです……」
「ううっ、痛え……て、てめえ、またあたしに何かしやがったな……」
麗華とエミリは頭を押さえ、揃ってその場に膝をつく。二人とも病人のように青ざめていた。
「麗華、どうした? 何があった!」
健太は再び彼女に駆け寄ろうとした。
ところが、彼の身にも異変が襲いかかった。脚が動かないのだ。健太の足は、まるでその場に縫い止められてしまったかのように、床から離れようとしない。
「な、なんだ? 俺の脚、どうなっちまったんだ?」
「ショーの邪魔は無粋です。どうかしばらくそのままで、じっとしていて下さいね」
カトーの言葉に、健太はこれも彼のしわざだと気づく。奇術で健太の脚を束縛したのだろうか。
しかし、体の自由が利かなくなるマジックなど、今まで聞いたことがない。
本当にあの怪しげな占い師を信用してもいいのだろうか。健太の心に不安の影がよぎった。
「さあ、皆さん。お二人をよくご覧下さい」
いつの間にか、二人のうめき声が消えていた。気を失ってしまったのか、麗華もエミリも目を閉じて床に寝転がっていた。
見る間に新たな変化が起こる。半開きになった二人の少女の口から白い煙が出てきたのだ。
「な、なんだよ、あれは……」
煙草でも吸っているのだろうか。健太は一瞬そう疑ったが、どうやら違うようだった。
二人とも煙草などくわえていないし、火をつけるところも見ていない。それに不良のエミリならとにかく、麗華が煙草を吸うはずもない。
白い煙は拡散することなく、まるで生き物のように二人の顔にまとわりついた。
「この煙が何かわかりますか? これは、このお二人の記憶なんです。僕のマジックで、お二人の頭の中から記憶の一部を抜き取ったんですよ」
カトーは楽しげに笑った。健太には何が起きているのか理解できなかったが、その場の異様な雰囲気から、それがただの煙でないということだけはわかった。
「麗華さんの口から出てきたこれは、麗華さんの記憶です。そしてエミリさんの口から出てきたこっちは、エミリさんの記憶です。これをこうして……」
カトーは細い指を妖しく蠢かせ、麗華の煙に手招きする。
すると、どうしたことだろうか。彼の手に促されるようにして、麗華の煙が持ち主の顔を離れていくではないか。そして、その煙はエミリに近づくと、ぐったりしたエミリの顔に触れる。
その麗華の煙に追い払われるかのように、エミリの煙がエミリから離れていくのが見えた。
麗華の煙はしばらくエミリの顔の周りを漂っていたが、やがて、先ほどとは反対の現象が起こった。麗華の煙が、エミリの口の中へともぐり込んでいくのだ。
十秒ほどの時間をかけて、麗華の口から出てきた煙は、全てエミリの口の中へと納まってしまった。
その後、それと同じようにして、エミリの口から出た煙が意識のない麗華の顔に近づき、彼女の口の中にもぐり込んでいく。
麗華の口から出てきた煙が、エミリの体の中に。
そしてエミリの口から出てきた煙が、麗華の中に吸い込まれた。
(いったい、何が始まるんだ……?)
健太が息を呑んで見守る中、ようやく麗華が目を覚ました。既に頭痛は治まっているようで、表情から苦悶の色が消えている。
「う、ここは……? 私、どうしたのかしら……」
「おはようございます、麗華さん。まずはじめに確認しておきますが、あなたは嘉門院麗華さんですね?」
カトーは麗華の手をとって、彼女を起き上がらせた。
「え? は、はい……そうですけど」
「わかりました。大丈夫みたいですね。どうもありがとうございます。それでですね、起きたばかりでちょっと申し訳ないんですが、この問題を解いてくれませんか。なに、とっても簡単な問題です。中学生でもできますよ」
カトーは白いチョークを手に取ると、音楽室の黒板に短い数式を書いた。彼の言うとおり、本当に簡単な因数分解の問題だった。
(なんだ、あんなの誰でもできるじゃないか。あんな問題を麗華に解かせるなんて、どういうつもりだ?)
健太は呆れ果てた。若い占い師は黒板の前に麗華を立たせ、チョークを手渡した。
わざわざ解かせる意味のない、ごくごく初歩の数学の問題。
しかし、麗華は数式をじっと見つめたまま、チョークを持つ手を動かそうとしなかった。珍しく顔をしかめ、何やら悩んでいるように見えた。
「麗華、どうした。そんなちょろい問題、答える気にもなれないのか?」
「い、いえ、それが……」
麗華は健太を振り返った。彼女の顔は、今にも泣きだしそうだった。
「わからないんです。私、この問題が解けません……」
「はあ? お前、何を言ってるんだ。そんな優しい問題、できないわけないだろう。寝ぼけてるんじゃないか」
「それが、本当にわからないんです……」
顔をくしゃくしゃにする麗華の肩を、カトーが慰めるように叩く。
「オーケイ、オーケイ。もういいですよ、ありがとう。それじゃ、交代です。ちょうどあちらがお目覚めになったようですから」
彼が指したのは、意識を取り戻したエミリだった。彼女は眠そうな顔で辺りを見回すと、大きな欠伸をひとつした。
「ふああ……あたし、寝てたのか? いったい何がどうしたってんだ」
「おはようございます、吉本エミリさん。ちょっとお願いがあるんですが」
「ああ? いきなりなんだよ。馴れ馴れしい」
「なに、大したことじゃありません。ちょっとこの問題を解いてもらえませんか」
カトーはそう言ってチョークを取り出し、黒板に新たな数式を書き加えた。今度は非常に複雑な積分の問題だった。
(おいおい、何を考えてるんだ? あいつにあんな難しい問題ができるわけないだろ)
麗華のときとは正反対の理由で、またも健太は呆れかえった。とてもエミリにできるはずのない、難解な積分の問題。
しかし、エミリは訝しげな視線を黒板に向けると、カトーから素直にチョークを受け取った。そして後頭部をポリポリ掻きながら、数式を次々に書き込んでいく。
その場の誰もが唖然とする中、エミリは立派な解答を完成させ「これでいい?」と黒衣の占い師に訊ねた。
「はい、正解です。これはとある難関大学の入試問題なんですが、よくできましたね」
「あれ? そういやあたし、なんでこれが解けたんだろう。数学なんて見るのも嫌だったのに、今はなんか答えが自然にわかるんだよな……」
「それはそうでしょうね。なぜなら、あなたは麗華さんの記憶をもらったんですから」
「天才女の記憶? どういうことだよ」
エミリの質問に、カトーはぴんと人差し指を立て、得意げに解説を始めた。
「先ほど、僕はあなたと麗華さんの脳から記憶の一部を抜き出し、取り替えました。国語、数学、英語、物理といった、主に勉強に関わる知識です。それをそっくりそのまま交換したので、今あなたの頭の中には、麗華さんが勉強して身に着けた知識がまるまる移しかえられているんですよ。だからこの問題が簡単に解けるようになったというわけです」
「天才女の知識があたしに? へえ……面白いじゃん。道理で、さっきから妙に頭が冴えてるはずだよ。すげえいい気分だ。なあ。それじゃ、そこの天才女の頭の中身はどうなったんだ?」
「もちろん、麗華さんの頭脳には、エミリさんの知識が移植されていますよ。数学も英語も、今の麗華さんの学力は以前のエミリさんとまったく同じです」
「あはははっ、それって最高じゃん! なあ、天才女。この問題の解き方わかるう?」
「わ、わかりません……どうしてかしら。全然わからないの」
「ぷっ、わかるわけないよな。あんたの知識は、あたしが全部もらっちゃったんだから。あんたの頭の中にあるのは、ろくに勉強したことのないあたしの知識だけ。わかる? 今のあんたは、学年で一番おバカな劣等生なんだよ」
「そ、そんな……そんなの、信じられません」
エミリに蔑まれ、麗華はぽろぽろと涙を流す。信じがたい異常事態に、美貌の才女は気の毒なほど動揺していた。
健太も、まるで白昼夢を見ている気分である。
エミリと麗華の学力が入れ替わってしまったなどと、にわかに信じられる話ではなかった。
これも、カトーのマジックなのだろうか。そうだとしても、やはり信じられない。
いったい彼は何者なのだろうか。子供だましの奇術の使い手ではなく、本物の魔術師なのか。
彼の誘いに乗ってしまったことを、健太は後悔しはじめていた。
「おい、お前! 麗華を元に戻せっ! 麗華のやつ、泣いてるじゃないか!」
「それはできません」
いまだ身動きのとれない健太の要求を、カトーはきっぱりと断った。
「これはまだ序の口です。これからもっと面白いものをご覧にいれますよ」
「序の口だって? お前、まだ麗華に何かするつもりか!」
二人のやり取りを、席に着いた三人娘がぽかんとした表情で聞いていた。いったい何が起きているのか、まるで理解できていないようだ。その隣に上機嫌のエミリが座っていた。
「それでは、ショーの第二幕に移りましょうか」
呆気に取られる皆を満足そうに見回し、カトーはまたも指を鳴らした。パーティー用のクラッカーのような破裂音と共に再び煙が湧き上がり、彼と麗華の姿を覆った。
「麗華っ!」健太は悲鳴をあげた。
煙はゆっくりと薄れ、少しずつ視界がはっきりしてくる。今度は何が起こるのか──恋人の身を案じる健太が見たものは、人の身長ほどの高さがある巨大な二つの箱だった。
そして、その片方の中に直立した麗華の姿があった。
「な、何だよ、あれは。いつの間にあんなものが現れたんだ……」
「さあ、マジックショーの第二幕は切断マジックです」
二つの箱の間に立ったカトーが、高らかに宣言した。相変わらず顔の大部分がローブに隠れ、口元しか見えない。
だが、あの黒衣の魔術師がとても楽しそうに笑っていることだけは、はっきりと確認できた。
「切断マジックというのを簡単に説明しますと、箱の中に人間を入れ、中の人間ごと箱を切断して観客をハラハラさせるマジックです。いちいちノコギリを持ち出して箱を切るのは面倒なので、最初から箱が手で分解できる構造になっている場合もありますが。これからお見せするマジックもそのタイプで、ノコギリは使いません」
誰も訊ねていないのに、カトーは懇切丁寧に解説してくれた。
細長い箱は彼の言う通り、人がひとり辛うじて入れる程度の大きさになっていた。全ての面が真っ赤に塗られ、蓋と思しき前面だけが扉のように開いている。
「では、蓋を閉めます。ちょっと狭いですが、辛抱して下さいね」
と言って、カトーは前面の蓋を閉じた。その前面の上部に、人間の顔と同程度の大きさの丸い穴が開いていた。おそらくは、顔を出すための穴なのだろう。ちょうどその穴から麗華の顔がのぞいていた。見えるのは顔だけで、それ以外の部分はまったく見えなかった。
「麗華、大丈夫か?」
「はい、健太君。大丈夫ですけど、ここから出られません。体が動かないんです……」
麗華は途方に暮れた様子で言った。箱に閉じ込められたまま、まったく動こうとしない。
おそらく、カトーの不思議な力によって体の動きを封じられているのだろう。狭い箱の中に囚われていて、とても窮屈そうだった。
(切断マジック……麗華が入ったあの箱を切断するっていうのか?)
健太の脳裏に、以前テレビで見たマジックショーの映像が浮かんでくる。そのときは、細長い箱に入った美女が、マジシャンのノコギリによって箱ごと切断されていた。
麗華も、あの美女のように身体を真っ二つにされてしまうのだろうか。
「さて、皆さん。麗華さんはこの通り、赤い箱の中に入っています。そして、ここにもう一つ、同じデザインの青い箱がありますね? 実は、皆さんの中からもうひとかた、協力して下さる方が必要なんです。どなたかお手伝いをお願いしたいのですが……うーん、そうですね、そちらにいらっしゃる田中ヨシ子さん。いかがです? ぜひ、僕のマジックを手伝って下さいませんか」
「え、私?」
カトーに名指しされたのは、「ビア樽」の異名を持つ肥満少女だった。ヨシ子は困惑した表情で青い箱の前にやってきた。
「私に、この中に入れっていうの? でも、ちょっと狭すぎるんじゃない」
「いえいえ。この箱は頑丈ですから、少々無理をすれば入りますよ。ほら」
言うなり、カトーはヨシ子の三段腹を正面から押して、ぐいぐいと箱の中に入れてしまう。ヨシ子が嫌がってもお構いなしだ。その光景は朝の通勤ラッシュ時に、駅員が満員電車の中に収まりきらない乗客を無理やり詰め込んでいる姿を連想させる。
最後に「ぶひい」と悲惨な声があがり、九十キロとも百キロとも噂される肉の塊が、狭い箱に詰められた。
そのあまりの滑稽さに健太はつい笑ってしまったが、同じ立場に置かれた麗華のことを考えると、笑ってばかりもいられない。
無理やり蓋を閉め、ヨシ子を箱詰めにしたカトーは、自分の左右に並んだ二つの箱を見比べ、満足げにうなずいた。
片方は細身で長身のテニスウェア姿の麗華が入った赤い箱。
もう一方は紺色のブレザーを着た、短足で肥満体のヨシ子が入った青い箱。
よく見ると、顔が見えるのぞき穴の高さが左右で違う。おそらく、二人の身長が異なるためだろう。まるで麗華とヨシ子のために開けられたかのように、穴の高さは二人の顔の位置とぴったりだった。
「さあ、いきますよ。今から中の二人ごと、この箱を切り離します」
カトーの手が麗華の入った赤い箱にかけられる。次の瞬間、異変が起きた。
「え? いったい何が……きゃあっ !?」
麗華の悲鳴があがった。赤い箱の上から五分の一ほどの部位だけが残りの部分から外れ、ゆっくりと横に移動し始めたのだ。
当初は一つの大きな箱に見えたが、おそらく、あらかじめその部分で外れるように細工してあったのだろう。それはカトーの説明からも明らかだった。
箱の一部だけが水平方向に動くのは何も不思議なことではない。問題は中の麗華にあった。
「お、おい、どうなってるんだ? 箱の中の麗華が……」
健太の声は震えていた。箱に開いた穴から見える麗華の顔は、箱の上部と共に動いていた。
箱が切断された位置は、おそらく麗華の首があるはずの高さだった。
だが、箱の下の部分に閉じ込められた麗華の身体は固定され、動けないはずだ。
体は固定されているのに、顔だけが箱の上部と共に移動していく。それは非常に不可思議なことに思われた。
「ど、どうなってるの? 体の感覚が……な、何がどうなってしまったんですか?」
動揺した麗華の声が聞こえてきた。
カトーが箱を引くにつれ、麗華の頭部が入っている箱の上部と胴体が入っている下部が、どんどんずれていった。まるで、麗華の首がその位置で切断されてしまったかのようだ。
いったい、どんな仕掛けになっているのだろうか。あの箱の上部は狭く、とても人間の身体が入れるとは思えない。
では、本当に麗華の首は、箱と一緒に切断されてしまったというのか。健太の動悸が激しくなった。
やがて、ガタンと大きな音がして、箱の上部が完全に外れてしまった。箱はとうとう二つのパーツに分割されてしまった。中に閉じ込められた麗華ごと。
「ご覧下さい。この通り、麗華さんの首は胴体が入っている箱とおさらばしてしまいました。この穴の中には、確かに麗華さんの顔が見えますね? 麗華さん、今のご気分はいかがですか」
「ううっ、気持ち悪い。体の感覚が全然ないんです。助けて下さい……」
箱の中の麗華が答えた。カトーが抱えている箱の一部は、高さがおよそ三十センチ。とても人間の身体が入るはずはない。
だが、箱に開いた円形の穴からは、中にいる麗華の美貌をはっきりと見ることができた。
「いったいどうなってるんだ……麗華は大丈夫なのか?」
健太は麗華の身を案じたが、彼の脚は依然として床に張りついたまま動かず、ただ見ていることしかできない。
「それでは、この赤い箱はこちらに置いといて……次は、こちらの番です」
カトーは麗華の首が入った箱を手近な机の上に置くと、次にヨシ子が入っている青い箱に近寄った。
「それではもう一度。今度は田中ヨシ子さんの箱を使って同じことをしてみましょう。よく見ていて下さいね」
彼が青い箱の上部を引っ張ると、箱の上から四分の一ほどの部分がゆっくりと動き始めた。
やはり、麗華のときと同じだ。青い箱はヨシ子の首の部分で二つに分割され、顔の入った上部だけが残りの部分から切り離されてしまった。
ヨシ子の顔が入っている箱の一部は、とても人間の体が納まる大きさではない。
いったいどんな仕組みになっているのだろうか。健太は狐につままれている気分だった。
「きゃあああっ! 何なのこれは。こんなの変よ! 気持ち悪いわっ!」
青い箱に入ったヨシ子の顔は、赤くなったり青くなったり。
そしてその平たい箱の一部は、麗華と同様に机の上に置かれた。箱詰めにされた麗華とヨシ子の顔が並べられた。
「さあ、この通りヨシ子さんの首も、箱ごと切断されてしまいました。しかし、このマジックの見所はここからです」
にやにや笑って、カトーは麗華の顔が入った赤い箱を両手で持ち上げた。そして、それを元々あった場所とは反対の方向へと運んでいく。
そこには上部を切り離された青い箱があった。
「さて、皆さん。この青い箱の中には何が入っていましたか? そうです。この中には、ヨシ子さんの体が入っていたはずですよね。では、この青い箱の上に麗華さんの赤い箱を載せると、一体どうなるのでしょうか」
麗華の顔が入った赤い箱が、ヨシ子の体が入った青い箱の上に置かれる。ちょうど、互いの切断面がぴったり重なる位置だ。
青い箱の上に、その四分の一ほどの高さの赤い箱が載せられた状態になった。
皆が緊張して見守る中、カトーは重ねられた箱の前面を開く。中から麗華が現れた。
狭い箱からようやく解放されて、麗華は安堵の表情を浮かべた。
「ああ、やっと出られました。よかった……あら?」
しかし、ほっとしたのも一瞬のこと。すぐさま悲鳴があがった。
「きゃあああっ !? わ、私の体が……!」
「れ、麗華! お前、どうしちまったんだ !?」
健太は仰天した。麗華の服装が箱に入る前のテニスウェアではなく、学校指定のブレザーへと変化していたのだ。
しかし、ただ服装が変わっただけなら、先ほどと同じこと。こうも驚くことはない。健太が驚愕した理由は、今の麗華の体型にあった。
身長よりもウエストの方が長いのではないかと疑うほどに突き出した腹の肉。スカートの裾から伸びるのは、丸太ほどに太く短い大根足。そして、女子の基準からしても低い身長。逆に体重は平均的な女子の二倍はありそうだ。
麗華の体は本来の彼女のものとはまるで異なる、でっぷり太った肥満体になっていたのだ。
「こ、これは一体どうなっているの? ううっ、苦しい……体が重いです」
体重が急に二倍になった麗華は、息をするのも苦しそうに舌を出して喘いだ。
「はい、皆さん、ご覧になりましたか? これが僕の切断マジックです。ただ箱に入った人の頭と身体を切り離すだけではなく、このように別人の体のパーツと繋ぎ合わせることもできるんですよ」
「す、すごい……じゃあ、嘉門院さんの頭が、ヨシ子の体とくっついちゃったの?」
「ご明察のとおりです。この青い箱に入っていたのは、ヨシ子さんの胴体でした。その上に麗華さんの頭が入った箱を重ねて、箱ごと中身をくっつけてしまったのです。だから今の麗華さんの首から下は、ヨシ子さんの体になってるんですよ」
それは魔術と呼ぶにふさわしい、奇妙奇天烈な光景だった。麗華の美貌とヨシ子の肥満体。これ以上ない美醜のギャップが極めてグロテスクである。
変わり果てた恋人の姿に、健太は吐き気さえ催した。
「ううっ、気持ち悪い……もうやめろ、やめてくれ。麗華を元に戻してくれ……」
「何を言うんです。まだ終わっていませんよ。こちらが残っていますからね」
と言って、カトーは机の上に置かれていたままの青い箱の一部を持ち上げた。
その箱の中央には肥え太ったヨシ子の顔があり、「な、何? 今から何をするの?」と不安そうにまばたきしていた。
皆が注目する中、その青い箱の一部は先ほどの麗華とは反対に、上部を切り離された赤い箱の上に置かれた。
カトーの言うことが正しければ、この赤い箱の中には頭部のない麗華の体が入っているはずだ。
そして、その上に置かれたヨシ子の顔が入った青い箱。二つの箱が重ねられ、一つになった。
(何をする気だ? まさか……)
健太の予感は的中した。箱が開き、中から白いテニスウェアを着たヨシ子が出てきたのだ。
「きゃあっ、何これ !? これが私の体なの?」
ヨシ子は己の姿を見下ろして驚愕し、続いて歓喜の声をあげた。鏡餅を連想させる下ぶくれの少女の顔の下に、均整のとれた美しい肢体があった。
すらりとした長い手足と色白の肌。細身でありながら豊かなバストを誇る、恵まれたスタイル。布地の少ないテニスウェアを身に着けているため、優美なボディラインがいっそう強調されている。
こちらも、誰もが思わず目を疑うほどの変わりようだ。
何が起こったのかは明らかだった。箱ごと首から切り離された麗華の胴体は、ヨシ子の頭と繋ぎ合わされたのだ。
「その通り。僕の切断マジックで、ヨシ子さんの体を麗華さんのものと取り替えたんですよ。ですから、今のヨシ子さんの首から下は麗華さんの体になっています。ふくよかなお顔はそのままでね」
「へえ……これ、嘉門院さんの体なんだ。やっぱり色白で綺麗ね。腕も脚もすらっとしてるし、それに腰だってこんなに細くて……ああ、なんて素晴らしいの。これが私の体だなんて信じられない」
ヨシ子は顔に恍惚の表情を浮かべ、新しい自分の肉体を下品な仕草でまさぐった。
その手、脚、肌、乳房。いずれも、嘉門院麗華の完璧な美を構成する要素の一つだった。
ところが今、麗華の体はもはや麗華のものではなかった。誰もが憧れ嫉妬する麗華の美しい肢体は全て、田中ヨシ子の所有物になってしまったのだ。
「や、やめろ田中っ! 麗華の体を返せっ!」
ヨシ子の頭が麗華の体を乗っ取り、我が物顔で動かしている。あまりに異常な事態に、健太はたまりかねて叫んだが、ヨシ子はにんまり笑って首を振った。
「イヤよ。こんなに綺麗な体を返すわけないじゃない。このスタイルなら、もう誰にもバカにされないわ。ビア樽なんて言わせない。ぷっ、逆に嘉門院さんの方は酷い格好ね。こうして見ると本当にデブだわ。デブだし、チビだし……とても見れたものじゃないわね。お気の毒」
己の細い腰に手を当てて、肥満児の麗華を見下すスタイル抜群のヨシ子。切断マジックによって身体を交換した二人の表情は対照的だった。
「た、田中さん、お願いです。私の体を返して下さい。体が入れ替わってしまうなんて、こんなのおかしいです……」
「だからイヤだって言ってるでしょ? これはもう私の体なの。あなたは今まで散々いい思いをしてきたんだから、別にいいじゃない。お高くとまったあなたには、そのデブの体がお似合いよ。うふふ……これからはあなたのこと、ビア樽って呼んであげる」
「そ、そんな……」
麗華は落胆して床にへたり込んでしまった。どすんと尻餅をつく音が聞こえてくる。
彼女の苦しみは想像するにあまりある。明晰な頭脳だけでなく、美麗な体までひとに奪われてしまったのだから。
めそめそ泣きはじめた彼女を置いて、ヨシ子は軽快な足取りで友人たちのもとへ戻っていった。
ヨシ子と仲がいい二人の女生徒は、見事に変貌を遂げた彼女を呆けた顔で迎えた。
「ヨシ子、その格好……本当にあなた、嘉門院さんの体になっちゃったの?」
「うん、そうよ。ほら、見てよ、私の体。背は高いし、スタイルも抜群でしょ。まるでモデルになった気分。うふふ……きっとどんな服を着ても似合うわよ」
ヨシ子は自分の長い手足を友人たちに自慢してみせた。「ビア樽」と呼ばれた肥満体から一転、細く健康的な麗華の肢体を得て舞い上がっていた。
「それに、見た目が綺麗なだけじゃないわ。この体、身軽ですっごく動きやすいの。今の私なら、スポーツだって色々できる気がするの。テニスとかさ。こんなにいい体が私のものだって思うと、本当に気分がいいわ。もう最高よ」
「羨ましいわ。私も嘉門院さんの体になりたい……」
「わ、私だってそうよ。ヨシ子だけずるい。私にもその体、使わせてよ」
「あら、私だけいい思いをしちゃって悪いわねえ。おほほほ……」
友人たちの嫉妬と羨望の視線を浴びて、ヨシ子は高笑いをあげた。
そんな彼女と一緒に笑い出したのは、吉本エミリだ。
「あははは……あんたの気持ち、あたしもよくわかるよ。あたしもあのお嬢と頭の中身を取替えっこしたからね。あのムカつく女から大事なものを奪ってやったって思うと、すっげー気持ちいいんだよなー」
「そうそう、そうなのよ。私たち、普段からあの子が目ざわりだったから、こうなると本当にスカっとするのよねー」
「わかるわかる。最高だよなー。あっははは……」
二人の下卑た笑い声が、健太の憎悪をかきたてる。
「ち、畜生。あいつら許さねえ。絶対に許さねえぞ……」
あまりにむごい麗華への仕打ちに、気が狂ってしまいそうだ。戸惑いと驚き、怒りと悲しみが彼の内部で渦巻いていた。
だが、いくら憤慨したところで、身動きのとれない健太にはどうすることもできない。これほど近くにいながら恋人を助けてやれない無力な自分が歯痒かった。
最終更新:2013年08月15日 13:46