投稿日:2010/02/13(土)
「あの人のことをお願いね、ソフィア」
それは、昔から母に言い聞かされてきたことだった。
だから〝この夢〟が、自分が何歳の時の出来事なのか、ソフィアにはわからなかった。
だが、目の前にいる母を見れば、なんとなく予想はつく。自分がまだ幼児だった時の記憶だろう。
昔の母は、とても美しい人だった。それが、ソフィアの成長に合わせるかのように、
彼女に若さを吸い取られるかのように、みすぼらしく、やつれていった。
今の母は、目の前にいる追憶の母とは似ても似つかない――いや、ソフィアは否定した。
母の瞳は――強い意志がこもったその瞳だけは、変わらない。
あの人――ソフィアが父と、呼ばせられている男だけを見つめている、その瞳だけは。
◆◇◆◇◆
結婚式を明後日に控えた、ソフィア・メイスンの目下の悩み事は、
母――ヘレン・メイスンのことだった。
「じゃあ、おばさんはまだ反対してるの?」
親友のアニーには、度々そのことを話していた。そんな愚痴をこぼせるのは、
彼女くらい(夫になるアランを除けば)のものだったから。
「反対っていうか、ここまできたら、もうどうしようもないじゃない?だから、無視って感じね」
本当に頭が痛い。このままでは、式当日に参加してもらえるかどうか……
「大変ねぇ……なにがそんなにダメなのかしら?」
「それが分かれば苦労はないわよ……」
だから思わず、ため息が漏れ出るのも、仕方のないことではないか。今は幸せいっぱいで
あるはずなのだ。愛する人と結ばれる、娘の女の幸せを、母親が曇らせてどうする。
(こういうのもマリッジブルーに入るのかしら……)
「おばさん、昔からそういうのにお堅いって感じだったけど、まさか結婚式直前までとはねぇ」
「あたしも、どこかで折れるだろう、折れるだろうと期待――って言っちゃあなんだけど、
思ってたんだけどなぁ」
そう、昔からなのだ。ソフィアの結婚や男女交際はおろか、そもそも彼女が男の子と
親しくなることにさえ、ヘレンはヒステリックに反対していた。
なにが彼女をそこまでさせるのか――ソフィアも何度か問いただしたのだが、
母は結局口を割らず、頑として譲らなかった。
そのせいで、アランとの仲をここまで持ってくるまで、ソフィアは並々ならぬ
苦労と努力をかせられたのだった。
「普通、こういうのって父親が反対するもんなんじゃないの!?」
だから思わず、怒鳴ってしまうのも、また仕方のないことではないか。聞かされる
アニーには悪いが。
だが彼女は、賞賛すべき忍耐でそれを受け止めてくれた。多少、苦笑はしているが。
「じゃあ、おじさんは許してくれてるんだ?」
「うん……ただ、式には参加できないかもしれないって、残念がってたけど」
「昼間なら、多少は大丈夫なんじゃなかったっけ。おじさんの病気って」
「そうだけど、あんまり長い時間はって、母さんがね……」
また母だ。それはともかく、ソフィアの父――コーネリアスは、彼女が生まれる前から
ずっと重い病気を患っている。なんの病かは、ソフィアは知らなかったが。
医学の心得があるという母ヘレンは、村で診療所を構えつつ、常に父の面倒を見ている。
そもそもこの村に両親がやってきたのも、父の治療のためだと、ソフィアは聞かされていた。
それにしても、父に対する母の献身は、恐ろしいものがある。
身体に障るからと、娘のソフィアでさえ、昼間の決められた時間の中でしか、
父に会うことを許されないくらいだ。
「ま、なるようになるんじゃない?」
うつむいて、考え事に耽っていた自分を心配してくれたのか、声が聞こえて顔をあげると、
アニーがこちらを労るような顔で覗き込んできていた。
心の中で彼女に最大限の感謝を送りつつ、
「……だといいんだけどね」
ソフィアは不安感は拭いきれずにいた。
◆◇◆◇◆
薄暗い夜道を歩くのは、慣れ親しんだ道とはいえ、恐怖を喚起させる。
灯りもなく、大した舗装もされていない道を、つまずくことなく歩くことはできても。
(遅くなっちゃったなぁ)
あれからアニーとすっかり話し込んでしまった。
帰り際、扉の向こうにある暗闇を見つめ、アニーが泊まることをすすめてくれて、
本当はその申し出に飛びついてしまいたかった。
話し込んで遅くなったのは、正直に言って、雰囲気が悪い家に帰りたくなかった
という心理があったからだろう。でも、
(それじゃあダメだ。ちゃんと認めてもらって、祝福してもらわなきゃ)
胸の前で小さく手を握ると、やっと村はずれに位置する、我が家が見えてきた。
だが妙だ。灯りがまるでついていない。確かにもう暗いが、寝入るほどの時間ではないのに。
不思議に思いながら近づいていくと、ほのかな灯りが、カーテン越しに見えた――両親の寝室だ。
灯りが分かるのはそこだけだった。あとはすべて――玄関さえも――暗かった。
(なによ。帰ってくるなってこと?)
顔をしかめて、両親――特に母親がそばにいるであろう灯りをにらんでから、扉へ向かう。
鍵をことさらゆっくりと開けて、静かに扉を開く。
今日はもう寝てしまおう。こんなことで喧嘩して、結婚についてまで色々言われるなど、
まっぴらごめんだ。
室内に入り、両親の寝室へと続く扉をにらみつけると、わずかな隙間が見えた。
ドアに、鍵がかかっていない――中が、見れるかもしれない?
両親の寝室がどうなっているのか。それは、ソフィアには全くの未知だった。
その部屋に入った記憶はないし、実際入ったことはないのだろう。
部屋には常に鍵がかけられ、窓はない。見る機会は、一生ないものだと思っていた。
それが、見れるかもしれない?足は、自然とそちらに向かっていた。
早足にならないように気をつけて、音がしないように扉をかすかに開ける。
中を覗くと、そこには――
(なんだ……)
普通の部屋があり、ベッドには父が、その側には母が立っている。軽い落胆とともに、
ソフィアはため息を吐き出した。
中を覗いてしまった軽い罪悪感に押され、その場から離れようとしたが、空気が
漏れ出る音が聞こえて、ソフィアは足を止めた。
「……ソ……フィ……ァ…」
いや、違った。自分の名前を呼ぶ声だ。呼んだのは、父のようだ。
その声から、果てしない疲労を感じて、ぎょっとする。昼間見た父からは、そんなひどいものは
感じなかった。
「なあに、父さん」
ベッドで、息も絶え絶え寝転がる父の手を握り、返した母の言葉に、ソフィアはまた驚いた。
(父さん……ですって……?)
死にそうな父と、ソフィアの名を騙り、夫を父と呼ぶ母。わけもわからず、ソフィアは
事態を見守っていたが、やっと気づいた。
――ベッドに寝ているのが、父ではないことに。
その男は、父ではなかった。父によく似ているが、もっと老いている。死にそうなほどに。
見ているだけで、刻一刻と老いていくように。いや、
「ひっ――」
その男は、〝刻一刻と老いていた〟
見ている間に、皺がどんどん深くなり、頬がこけ、目がよどんでいく。
母が握る左腕は痩せこけ、皮と骨だけになっていった。
そして、かすかに聞こえていた、紙風船から空気が漏れ出るような音が――止まった。
「おやすみなさい……」
母は、握っていた男の手を置くと、彼にキスをして――逃げようとして、音を立てた
ソフィアに気づき、目を見開いて、視線だけをこちらに向けてきた。
「ぃっ、ひぃぃぃぃ――」
その、殺意すら感じられる視線から逃れるために、抜けそうな腰を抱えて、
ソフィアは家を飛び出した。
◆◇◆◇◆
ほの暗い、夜明け前。
ソフィアは自宅前に戻ってきていた。
森の中で見つけた、彼女でも振り回せる棒を杖のように抱え、震えて逃げ出したくなる身体を、
必死に地面につなぎ止めていた。
(確認……しなきゃ)
あれはなんだったのか。
すべて、自分の幻覚だったのではないか。見間違いだったのではないか。
森の中を走り回るうちに、そう思ったのだ――いや、そうであってほしかった。
家に帰れば、普段の父と母がいてほしかった。
もうすぐ、結婚して出て行く家だとしても。いや、だからこそ。
勇気を振り絞って、ソフィアは、扉を開いた。のぞき込むが、見える範囲には誰もいない。
恐る恐る、中を進む。家の中は、出た時同様、真っ暗だった。
少し歩き、ついに何もないまま、両親の寝室の前にたどり着いてしまった。
扉は、今度はちゃんと閉まっていた。ドアノブに触れて、回す――開いた。鍵はかかっていない!
ゆっくりと――人生の中で一番ゆっくりと、扉を開く。部屋の中の灯りも、消えていた。
中に、何も見逃さないように頭を振りながら、入っていく。
身体が、いっそう震えて止まらない。気をつけているのに、足音が鳴る。それが、
やけに響いて聞こえる。
怖い。怖い怖い怖い怖い――
頭を文字が埋め尽くす頃、永い永い時を経て、先ほど男が寝ていたベッドにたどり着いた。
唾を飲み(その音もやけに大きかった)、目線だけを下に向ける。そこにいたのは、
「あか……ちゃん……?」
わけがわからない。なぜこんな所に――
「そうよ」
後ろから聞こえた声に、ソフィアはすぐ向き直り、身構えた。案の定、母がこちらを見ている。
首に刃物を当てて――
「わたしと――あなたの愛する人よ」
「っ!ダメぇぇえええええ」
叫び声をあげて、棒を捨て去り、母に駆け寄ろうとしたが――遅かった。
母は、何事か話してすぐ、刃物を引いた。
溢れ出る鮮血。母が倒れ、血だまりができる。ソフィアは、汚れるのもかまわずに、
母を抱き上げた。
うつろな目をした母の顔にしずくが落ちるのを見て、気がついた。泣いている。自分が。
なぜ。なぜこんなことを。
「なんで!母さんっ、どうして!?」
だが、疑問をぶつけても、母が答えられるとは思わなかった。首の傷は深い。
吐息に変な音が混じっている。
「あの人のことを、お願いね、ソフィア」
だから、はっきりと聞き取れる声で、母に告げられた時は、幻聴かと思った。
思ったが、幻では、なかった。
「母さん!今そんな――」
ことを。言葉は声にならなかった。
総毛立つとはこのことだと、全身に寒気を感じながら、ソフィアは思った。
「あっ……う……あ……?」
背筋が、自分の意志とは無関係に伸びる。口も勝手に開き、意味のない声が紡がれていく。
異変は身体だけではなかった。精神に、絵の具が垂らされていくように、何かが、
自分の心を染めていく。
(う、あ、あ、あ、あ、)
血塗られた手でもかまわず頭を抱えて、吐き気がする臭いの中にうずくまる。
今まで生きてきた二十数年の出来事。結婚して、これから送るはずだった半世紀の予想。
その価値。
すべてが塗り替えられていく。
身体が、今まで以上に大きく震えた。
大きく震えて――震えはやっと止まった。それまでに、長い時間が過ぎたわけではない。
だが、一生分とも思える時間を経て、彼女は立ち上がった。
部屋を少し見渡し、ベッドの位置を確認する。方向感覚が一度おかしくなったせいだ。
その確認した方向に歩みを進めながら、彼女は、自然と頬がほころぶのを感じた――当然のことだ。
すぐに到着し、布団を覗き込む――当然のことだ。愛しい人がそこにいるのだから。
気持ちよさそうに眠る彼を見つめて、彼女は微笑みかけた。
◆◇◆◇◆
背中に感じる重みが、いっそう増した上に動くのを感じて、彼女は背中に目をやった。
彼女に負ぶされた少年は、ちょうど目を開けたところだった。
「ま……ぶしぃ……なに……?」
「あれは日の光よ、コーネリアス」
「日の……光……久しぶり……見た……」
その言葉を聞いて、彼女はにやりと笑った。ほんとは笑い転げたかったが、
あやすように優しい声で少年に告げた。
「そうね。でも、もう一度寝たほうがいいわ、コーネリアス」
少年は、素直に目を閉じて、半ば寝息のような声を出した。
「はい……ママ……」
「おやすみ、愛しいコーネリアス」
しばらく、彼の寝顔を見ながら彼女は微笑んでいたが、身体を横に開き、遥か下にある、
家々を見つめた。
「さようなら、あたしの故郷」
その声は、駆け下りる風に紛れて消えていく。
再び前に――丘に向き直る。
それほど急なわけではない。若さ溢れるこの身体なら、次第に重くなる少年を
背負って行けるだろう。
それに、もし無理になったら、自分で歩いてもらえばいい。
今は、そんなことは苦にならない。むしろ、喜びが全身を満たしていた。
(今朝は……記憶がすべて失われなかった)
それは、彼にかけられた呪いが解けつつある証拠だ。
解けるのがいつかは分からない。彼女が彼女であるうちでは、ないかもしれない。
だが、解けつつある。だから、他のことなどどうでもいい。どうでも――
我知らず零れた一筋の涙は、風に吹き飛ばされ、村へと流されていった。
最終更新:2010年02月23日 22:51