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よりしろめつとめ

投稿日:2010/03/02(火)


 夜更けに、山間に設えられた簡素な小屋の裏に、水ごりをする若い女がいた。
 水ごりとは水垢離と書き、寒中に冷水をその身に浴びることでその身や心に付着した汚れや
弱さを引きはがす行である。もちろん、それ単体が主眼ではなく、その後に待っている大事を
成さんがための準備にすぎないのではあるが。
 白い襦袢はしたたかに濡れて、女の均整のとれた裸身を露わにしていた。ほう、と息を一つ
吐けば、たちまちにしてそこには白い靄の固まりが生じてしまうほどの極寒の中であったが、
女は身震えすることもなく、強い意志をこめた視線をじっと夜空にこごらせていた。
 女は、齢のころは二十歳ばかり、清楚とも妖艶ともつかない神秘の美貌を湛えた女であり、
その肢体は重ねられてきた荒行を受けて引き締まり、かつ野趣を帯びた要所を張り出して、一
種神々しいとも言える豊穣さを醸していた。
 女は、着衣をはだけてあられもない裸身を暗中に晒して、そののちに、墨染の上下に身を包
み変えたのであった。ゆるやかに腹帯を巻き付けたその姿は夜闇に紛れるばかりであったが、
そのかたちは朱袴の巫女装束と何ら変わりもないものだということが見て取れる。しかし、神
仏を祭事する紅白ではなく、灰色に染まったそれを身につけているということは、彼女が今か
ら成そうとするものが神事などではなく、むしろその目をかいくぐって鬼霊との交信を行おう
とするあらわれであった。

「……お待たせしました」
 引き戸を開けて小屋の中に静かに歩み入る彼女を待っていたのは老年の男だった。ワイシャ
ツの上にいささかくたびれたジャンパーを羽織った男は眉間に深い皺を刻んでおり、目のふち
にも黒々としたくまが幾重にも張り出していた。それらはすべて、彼自身の苦悩がにじみ出し
た証しでもあった。
 視線はやや定まらない状態で、これから何が始まるのかという不安に落ち着かない様子の男
の手を、女は静かにつかんでいた。右手を、そして左手をゆっくりと掴んで口を開く。
「さあ、どうぞ念じてください」
 女は不動神妙の境地に立った者のみが放つ強い視線を男に向けて照射していた。
 男はその荘厳さに打たれて動揺から解き放たれて、そして彼のこころの深奥に棲んでいる、
ひとつの面影を強く念じ始めていた。




 変化は、ほんの数分とたたないうちに現れはじめていた。
 女の長くつややかな黒髪が、半ばから切れ落ち、そしてその密度を喪いはじめていたのであ
る。色素も半ばが白んで落ちて、まさに麻糸の乱れるがごとし、であった。
 男は驚いて握っていた手を放そうとする。
「いいえ、心を乱さないでください」
 女の声が凛と響き、そして再び動揺は収まり、男の思念は再び女へと注がれ始めていた。
 男の思念が届くたびに女の姿はゆっくりと歪んでいった。
 まず、引き締まっていた両頬に生じた弛みは、ゆっくりと広がっていき同時に発生したあご
や首の皺やゆるみとともに顔全体を押し包む。
「むっ、むむむ」
 続いて眼窩は落ちくぼみ、周りにはてらてらとしたてかりが生じて、そこからちりめんのよ
うに細かく無数の皺がはしり、すっかりと彼女を老年女性の顔へと変貌させてしまっていた。
 変化は首から下にも同時進行で起こっていた。修練により美しく引き締まっていたはずの腰
部や背中には蠕動とともにむっちりとした贅肉が生成されていく。逆に、胸元に形成されてい
た大きな隆起はその角度を鈍角に変えながら、萎えて下方に修正されていく。
「う……っく」
 女の顔は苦悶に引きつっていたが、それでも端坐した姿勢は崩すこともない。
 皮膚の張力はその発現を薄めていく。先ほどまで微光をも照り返していた素肌はあれよあれ
よと凋んでくすみ、老斑をところどころに生じさせていく。
 もしも、このような変化が一瞬に起こるとするならば、それは時間が数万倍の早送りをされ
ているとしか思えないのだが、そうではない。
 彼女は自ら志願して自らのかおかたちを、男の思念を受け取りながらこのように変貌させて
いるのである。それも、強い苦痛に耐えながら。



 変化はなおも続く。徐々に背丈が詰まっていくのである。伸びやかな手足は節くれだち、短
くなっていく。先ほどまで彼女が湛えていた神秘の美貌はもはや見る影もない。
 ゆるんで突き出した下腹は、緩められていたはずの帯に食いついてその上下にまで膨張を進
めていく。
「……もう、少しですね」
 たわんだ口元から凛と響く張りのある声だけが、先ほどまでの彼女の名残であった。
 一概に、日本古来の女性の衣服は、その年齢を隠すために有利とされている。それは、衣服
の流れる方向が、華美なドレスが上に上にと身体を引き上げるのに対して、着物は下へ下へと
流す一方で、その起伏さえも隠匿する意図が構造にあるからである。
 が、そんな補正などで隠せる次元はとうに超えていた。今の女の姿を見た者は、誰がどう言
い繕っても還暦過ぎの、凡庸な老人の姿だったのである。
「……さあ、いかがですか」  
 頬の皺を引き上げたり下ろしたりしながら表情を作り、女は眼前の男ににっこりとほほえみ
かけていた。
「……ええ、ままです。あいつの、女房の、そのまま……です」
 男の顔には先ほどまで消滅していた精気が復活していた。みひらいた目の光は驚愕と、そし
て押し込めないほどの期待を放射して輝いていた。
「それならば、結構ですね。『器』はかたどられました。それではいよいよ、魂の漂着を試み
たいと思います」
 男は無言で首を縦にゆっくりと揺すった。女の説明ではおよそ十分間だけ、十分間だけ彼は
死んだはずの妻と逢えるというのだった。
「私は今から死出の門の番人を欺いて、そして彼女の心をここに宿します。ですが、私の力量
ではそれはほんのひとときでしかありません。その時間を使って、あなたはどうぞ、もう一度
彼女とお別れをしてあげてください」
 女は、すう、と指を折って簡単な印を結ぶと、ふうっと前のめりに上半身を折り曲げて、男
にしなだれかかる格好になって、そして意識を失っていた。




 男の鼓動が、五つほど動いた。
 抱き抱える手の中に、ぴくん、と女の体が動いていた。
「かあちゃん……かい?」
 男の声に、伏し目がちに頷き返した女の表情の使い方は、まさしく彼の知る呼吸であった。
「あいよ……父ちゃん」
 声が変化していた。かすれてはいたけれども、間違えるはずもない、長年をずっと連れ添っ
た愛しい声だった。
 弾かれたように、男は妻の体を遠慮もはばかることもなく抱きしめて、そして激情に涙の堰
を切っていた。
「会いたかったよう、さびしかったよう、辛かったんだよう」
 分別を知らない嬰児のように涙を流す夫の頭をかいぐりながら、女はただひたすらに、ごめ
んよう、ごめんよう、と詫び続けていた。
「もう、嫌なんだよう。誰も待ってないがらんどうで暗くて、寒くて、そんな家になんか帰り
たくないんだよ、ああ……ああん」
 仮死していた男の心は復活とともに激しく動いていた。ぶるぶると身震えをしながら手にし
たぬくもりにすがりついて、そしてただ、泣いていた。
「ごめんよ、父ちゃん。本当ならずっとあたしが父ちゃんのこと見守ってやってなきゃなんな
かったのにさ、本当にごめん」
 半年にわたる病魔との闘いに彼女は果敢に挑んで、そしてその死力を尽くして彼女はこの世
を去っていったのである。ただ、その悔恨はただ一つだけ、今触れている男にだけ、あった。
「俺も行くよ、どうせお前のいない世界なんてひとつの未練も残っちゃいないんだ。だから、
な、今すぐにでもそっちに行くから……」
 男の口をふさいだのは熱い情熱の固まりだった。舌をねじこんで、冷え切った男の孤独をこ
じあける、魔法の口づけだった。
「駄目だよ、父ちゃん。そんなんじゃあたしのところにはこれないんだから」
 妻は笑って男の肩を叩いた。涙は流れるままだったけれども。

「あんたはね、辛くても生きなきゃならないんだ。そうしなきゃあたしもどこにもいけやしな
い。あたしをもう一度、抱き締めるためにも、あんたはまだまだ命を生きなきゃならないんだ
よ」
 そうして、妻が与えた指示は簡潔なものだった。家を引き払って娘の所帯においてもらえと
いうこと、身体が動くうちは精一杯働いて娘夫婦とも折り合いよく暮らしていくこと。孫の面
倒もしっかり見て、雨の日は幼稚園のお迎えなども買って出ろということなど。
「あと、どんなにあの子の料理が未熟だからって、台所に……みだりに入っちゃいけないよ、
それ、はあの子のために、なら……ないん……だからね」
 妻の言葉が急に緩慢になってきていた。
 お別れのときが迫っていたのだった。
「ねえ、お父ちゃん……」
「なんだい、母ちゃん」
 涙をこらえて、男は妻の最期を目を凝らして見ていた。今度こそ悲しみから目をそらさずに、
彼女の姿を見ていた。
「あのね……あのね」
 出会ったころの恥じらいを、ときめきを、その唇に湛えて。
「大好き……なんだよ、ずっと、ずっと、ね」
 男は、返答を二つの腕におきかえて、彼女が消え入るその際までを、強く抱きしめながら別
離のはなむけにしたのであった。
 啜り泣き、むせぶ声はとうに消え、静寂だけが闇に取り残されていた。



「ごめんなさい。これで、終わりなんですよ」
 女の声は再び張りのある若いものに戻っていた。
 あわてて男は無遠慮に伸ばされた腕をどけようとしたが、その手を再び押さえつけたのは女
の手のほうであった。
「いいんですよ、朝まではこのままにしておいてもらっても」
「しかし、あんたにはそんな姿になってまで……」
 その言葉を封じたのは二本の指先だった。
「そんな姿はご挨拶でしょう。あなたに寄り添って年月を重ねた奥さんなんでしょう」
 こくこく、と男は首をただ、縦にするばかりだった。
 よろしい、と女は告げて男にさらにすり寄っていった。
「大丈夫ですよ、心配しなくてもジムでたっぷり汗をかいて行きつけのサロンに通えば一週間
もしないうちに元通りに戻れますから、ね」
「はは、それは安心したよ」
「でも、あなたはその謝礼としてこのまま私を朝まで抱いて暖めてくださいね。ああ、でも、
そんな行為にまでは及んではいけませんからね、私、こう見えてもまだ男性経験はないんです
からね」
 ふいに発露した彼女の本当の年相応の感情は、男の心にまだ残っていた残雪を溶かして、そ
して笑顔を齎していた。
 秘密を隠した夜の帳が開けるのには、もう少しだけの時間が残されていた。

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最終更新:2010年03月06日 02:33