投稿日 2010/03/13(土)
痛みはショックが引いた後にしばらくたってから訪れるものである。
七月に入って暑気が本格化した以上、どうしても薄着にならざるをえないマリアは、ようやく
自分の姿を直視しなければならないようになってきていたのである。
着替えのときやシズカにからかわれているときには感じなかった現実が、ここに至って彼女の
ちくちくとした疼痛となってきていたのであった。
晩御飯の片づけがすんで、ようやくシャワーを浴びてパジャマに着替えて人心地ついていたマ
リアであった。
「……はあ、なんだろうな、このお肉」
お腹に付いたのはつまめるのではなくつかめるほどのムダ肉だった。無論、若いとき、数か月
前には存在していなかったパーツである。
彼女は一応、メイド服ばかりを着用しているわけではない。外出時などには普段着に袖を通す
ことがほとんどなのだが、それらはいずれも、新たに買い直したものというわけではない。どう
してもサイズ的な適応がのぞめないものも出てしまうわけである。
胸やお腹、それから肥大化したお尻なんかはなんとか衣服のうちに押し込めることができるの
だが、それがあまりにもぱっつんぱっつんで不格好なので、サイズ的に余裕のあったものや、も
しくは彼女の母親が着ていたお下がりなどがメインになってくるわけなのである。
「えいしょっ、と」
マリアはお尻のお肉を両手で持ち上げてみる。ささやかすぎる抵抗であったがこれもむなしく
尻肉は手から離れた瞬間に地球の重力にひかれて下方へと推移してしまうのである。
ようやく最近、まじまじと覗きこむことができるようになってきた鏡の向こうにはずいぶんと
年季が入ってきた女がいた。残念ながらこれで十代と主張することは犯罪にも等しいことである。
「……はあ、たはははは」
思わず苦笑してしまうマリアの脇には小さな紙包みがひとつ。愛すべき彼女の暴君からの下賜
品である。
抜けるようなブルーの水着、競泳や水中運動などには適さない、あくまでも観賞されることを
主目的に据えた、生地の少ない究極のエコロジーセパレート、問答無用の破壊力をもって名付け
られたビキニタイプである。
今回哀れな子羊が命じられたのは、「浜辺でのペアルック」だった。
なまじ、それが悪趣味ならば笑えるところだった。いつものシズカ的思考ならば情熱の赤に銀
の縁取りってなところなのだが、今回は店員からずいぶんと入れ知恵をされたらしく、きちんと
時流にあわせたデザイン、色、柄を選択してきているのが悩ましいのであった。
「ううっ、どうしてこんな紐ばっかりで、キュートで、ちょっと着てみたいデザインなんてして
いるのよぉっ」
やるせなさにうがー、と拳をつきあげるマリア。若いころならともかくとして肉体年齢五十七
歳の現時点でこれを着用するのは大冒険である。
「……でも、もしかしたらけっこう似合うかも」
わりと未練がましいマリアだった。いそいそと着用。
そしてしばしの沈黙の後。
「……しくしくしくしく」
布団の中で真っ黒な波動を噴出する愚かなマリアであった。
天気は快晴。シズカの日頃の行いの悪さに対して意地悪な思念が打ち勝ったわけである。
「……と、いうわけで今日のお前の役どころは深窓の令嬢に付き従うばあやというわけよ」
ででん、ででん、と小気味よいリズムを刻む電車の中のボックスシートで、シズカはまた妙な
注文を付けていた。
「いえ、奥様。それよりなにより、まだその前段を何もお伺いしてはいないのですが……」
ほんのり桜色、夏向きのエプロンドレスを新調してもらったばかりの老メイドはご主人様に対
して、ひかえめにかつ、ごく真っ当な突っ込みを入れていた。
「違うでしょ、『お嬢様』でしょうが、『お嬢様』」
ちちち、と指を立てて口を尖らせるシズカ。夏に向けての準備は万端で、ワンピースは白を基
調としたシンプルな柄で、ミュールもライトブラウンの比較的おとなしい色にあわせている。こ
の前の飲み屋のスタイルに比較すれば格段の進歩であった。
「いいこと、私はひと夏のアバンチュールを求めて浜辺に降り立った天使なの、それをお前、奥
様なんてぬかされた日にゃ、せっかくのバカンスが台無しじゃないのっ」
外見はともかく、身ぶり手ぶりはどうも垢ぬけない芝居であった。どうやら彼女がわずか二作
品をもって銀幕の世界から去った選択は正しかったようである。
「そしてお前は私に張り合って年甲斐もなく派手な水着に身を包んで観衆に愛想を振りまく役ど
ころなんだから、しっかりしてもらわなくちゃ困るのよ」
やっぱりそんなものだったか、と苦笑いのマリアだった。
「すいません、それが私、自分の分の水着を部屋に忘れてきたみたいでして……」
蚊の囁きのような声でマリアが逃げを打つ。
「ああ、だったら私の予備のやつを貸してあげるわ。多分、エコポイントも申請できるくらいの
省エネ設計だけど」
どびらん、と取り出したのはルージュの紐のこんがらがったようなものに、申し訳程度の布が
張り付いた、夜道の自転車には携行が望ましいほどの派手な水着であった。
「……ええ、そういえば私の水着はリュックのポケットにしまっておいたんですよね」
力なくうなだれるマリアの様子に満足げに大きく頷くシズカであった。
「あうう」
逃れられない宿命に内心悶えるマリアであった。
がやがやと賑わしい浜辺に一瞬の静寂がはしったのは、更衣テントから登場した一人の女にタ
イミングをあわせてのことであった。
大輪の花が開いたような惜しげない美貌、そして野趣あふれる長身は、青い水着に一部を覆わ
れながらもその端正さを思う存分に誇示している。
唯一、身体全体のバランスを崩している豊かすぎる胸は青春の輝きに張りつめており、彼女の
仕草のつくりだすわずかな揺れ動きも余すところなく伝達し、しなやかな弾性を見つめる観衆に
対してアピールしていた。
三田村シズカ、肉体年齢二十五歳は女としての絶頂であった。
マリアはその彼女とまったく同じタイプのビキニを着けて三歩後ろに付き従っているわけなの
だから、否応なしにギャラリーたちの好奇の目に留まることになってしまう。
『……ううっ、穴を掘ったらもぐりたい気分ですよおっ』
手にしたパラソルをかかえたままに、顔を火のように赤らめてしまうマリアだった。残念なこ
とに現在の彼女の肉体年齢は五十七歳。問答無用で更年期の閉経を迎えてしまっていた彼女の肢
体には残念ながらメリとハリとが失せていた。胸部の頂部よりも腹部のそれは前方にせり出して
おり、臀部も腿肉の上に張り出して典型的な中年女性の体型になり果てていたのである。
『脱いだら凄い』の良い意味での見本がシズカであり、マリアは悪い意味でのそれであった。
そんな彼女の目に映る女ざかりのシズカのつややかな贅肉のついていない背中は、むしろ常識
外れな胸などよりも強くマリアの心に黒い情動を植え付けていた。
「さっ、それじゃあオイルをおねがいね、ば・あ・や」
浅黄色のレジャーシートの上にうつぶせに寝そべったシズカは水着のトップを解いて、輝く肌
をあらわにしていた。
「は、はい。かしこまりましたお嬢様」
言いつつマリアは両手に含ませたサンスクリーンオイルをゆっくりとシズカの背中に拡げてい
く。
きゅっ、きゅっ、と弾力のある肌はマリアのその手が動くたびに軋んで卑猥な音を立てる。
「あ……はあ、いいわ、上手じゃないばあや。……私、気持ちよくなってきちゃったかも」
さりげない風を装ったギャラリーの男たちは皆、露骨に前かがみのぎこちない様子で、顔を赤
らめていた。それでも視線は釘づけである。悲しい男の性であった。
「さ、前もおねがいね」
ごろりと起き上って、両手で胸の先端だけを隠したシズカは、さらにマリアに対して過激な要
求をつきつける。
『おやめください奥様、みんな見てますよ』
ひそりとした声で口を尖らせるマリアに、
「いいじゃない。減るものじゃなし、それにこの解放感は癖になるわよ」
陶酔にとろん、とした眼差しのシズカは観衆に対して微笑みを返していた。
「さ、お前もせいぜい手を振ってやるくらいのことはしなさいよ」
「……で、できませんよ。そんな私、恥ずかしい」
「バッカねえ、それくらいのことは今どき七十のばーさまだってすることよ。ほら、あそこの少
年、しきりにこっちを振り向いて鼻息を荒くして、ううん、可愛いもんじゃない」
ご機嫌な様子で優雅に手を振るシズカ。
「……って、うわぁ! 奥様、前、前」
ぽろりん、とこぼれたのは、完熟の真夏の亜熱帯果実二個詰め合わせであった。
「どうです、良かったら僕らとあちらでビーチボールで遊びませんか」
三人連れだって現れたのは、社会人になりたてぐらいの年代の、見苦しくない程度の風采は保
った男たちであった。
「よしっ、合格」
即答のシズカはマリアの腕をむんずと掴んで男たちの誘いに乗っていた。
「いえいえいえ、おく……じゃなかったお嬢様。私なんかがご一緒したらそれこそ足手まと……」
シズカの目に酷薄な光が生まれていた。
「ええ、もちろん。ばあやもご一緒させていただきますとも。ううん、若い男の子たちとご一緒
できるだなんて、マリア感激ぃっ」
半ば涙目のマリアの様子に、うんうん、と満足げなシズカ。とことん鬼である。
マリアにとっては、彼女の本来の年代の女子にとっては異性とのこういった軽いお遊びという
ものはむしろ望むところのはずなのだが、何しろ体のほうがそれについていかない。
「あわっ、たったっ」
膝まで押し寄せた高波に足を取られてマリアは思わず尻もちをついてしまう。
「はははっ、大丈夫ですか」
別に差別などない様子で男たちはマリアに接してくれる。もちろん、異性としての対象からは
全く視野の外にいるはずなのだが、それでも態度は友好的で、嫌みのないものだった。
「ええ、それでも少し年甲斐もなくはしゃぎすぎたようですね、すみませんが私はパラソルに戻
って一休みさせていただこうと思います」
シズカにそっと目配せをすると、彼女も別に渋る様子を見せなかった。
「それでは皆さん、お嬢様のことをよろしくお願いしますね」
手を振って見送ってくれる男たちを背に、マリアはとぼとぼと戻っていく。
疲れた、というのが彼女の本音であった。足場の悪い砂地では容赦なく体力を奪われるものな
のだと思い知らされた感がある。
そして、強い日差しに飛び込んでいったために、肌が少しひりひりするのだ。無論、キャップ
被って、も上からはパーカーを羽織って対策はとっていたものに、露出した手足の肌には痒みを
ともなった痛みが感じられていた。
『……はあ、たった一時間くらいしか、遊んでなかったはずなのになあ』
息が上がっているのだった。シズカや他の三人には何も疲れた様子など見られなかったはずな
のに。
彼女にとってショックだったのは他にもある。それは、シズカが男たちに対して自然な対応で
接していてまるで実年齢を感じさせなかったことである。むしろ、マリアの方こそ、会話に上手
く乗り切れずに男たちとの温度差を感じてしまうのだった。
『……これじゃあ、本当に私、心までおばあちゃんだよ』
こんな状態で、もしも誰かを好きになってしまったのなら、自分はいったいその気持ちをどう
押し込めたらいいのだろうか。
パラソルの下で膝を抱えたマリアは、ぐすん、と小さく鼻を鳴らしていた。
彼女は、シズカのことを怨んではいない。むしろ、高額な母親の月々の治療費を全て肩代わり
してもらった上にマリア自身の衣食住の面倒も見てもらい、そのうえに少なからぬお給金まで支
払ってくれているのだ。感謝さえしている。
お金の対価に時間を売ることは、労働に就く者がすべてしていることである。マリアはその時
間を一度に売ったのにすぎないのだ。
理屈では分かるのだ。しかし、心まではそうはいかない。
シズカの張りつめたあの美しい肌を輝く陽光の下で見てしまった時、自分の老いた素肌が好奇
の目にさらされているのを意識した時、マリアは息が詰まるほどの嫉妬心を覚えてしまったのだ
った。屈託なく、まっすぐに育ってた彼女にして、はじめて自分の内部に生じてしまった醜い感
情であった。
『ああ、自己嫌悪だ。ああ、いやだ、いやだ』
光あふれる世界を自分の視界から遮断したくて、マリアは目を閉じて、それからゆっくりとま
どろみの世界へと落ちていった。
マリアの目が再び開いたとき、世界はもう夕暮れに彩られていた。
「ようやく、お目覚めかい」
隣にはむっつりとした顔のシズカがいた。
「ふわぁ、申し訳ございません……お嬢様」
ゆっくりと首を横にするシズカ。
「いいのよ、もう。奥様で」
芝居が終わったことを告げつつ、シズカはマリアにビニールに包まれたままの小さな黄色い円
筒を差し出した。
「これ、あの子たちがくれたのよ。ま、私の美貌の戦利品ってとこよね」
それは、海の家で売っている焼トウモロコシだった。すっかり冷めてぺったりとビニールに張
り付いてしまっていた。
「一緒に食べましょ」
自分の分を取り出したシズカは、しょりぷち、と音を立ててモロコシにかじりついていた。
しばし、二人して無言の食事タイムであった。
「甘くって、おいしいですね」
いつのまにか、マリアの両腕には水でひんやりと湿らせたタオルがかけられていた。誰がやっ
たのかは言わずもがなであったが。
「……ううん、こんなもんじゃなかったと思うのよね」
シズカは首を傾ける。
「トウモロコシってさ、もっと瑞々しくって、歯応えがあって、味わいがあったって思うのよ」
記憶とのギャップを口にするシズカだった。
「ええ、でも屋台のトウモロコシって、こんなだったと思うんですけどね」
どうせ、茹でてから冷凍したものを軽くあぶって出すだけのものなのだから、とは口にしない
マリアであった。
「ううん、違うのよ。私の記憶が美化してるだけじゃない。きっと、あの時とは違うものなのよ」
シズカの目からは、過去に向けての視線が放たれていた。
「男の子たちだってそうよ、私が若かったころにはもっと強引で、付き合ってほしいっていう気
持ちをもっと直接相手に告げていたと思うのよ」
シズカと遊んだ三人の男たちが残していったものは、結局この二本のモロコシとメールアドレ
スの記された紙片だけだった。あとは、あっさりと引き下がっただけなのである。
「それは、そう、奥様が高嶺の花に思われたからではないのですか? それに人数だって」
シズカは首を横に振る。
「違う、違うのよ。そうじゃない。男でも女でも好きな相手にはもっと強引に好きだと迫るべき
なのよ。それは優しさなんかとは、もっと違う……」
シズカは口にしたモロコシにがじり、と歯を立てた。
「……こんな甘いばかりのものじゃなかったはずなのよ」
心に満ちた苦い潮に目を伏せるシズカだった。
帰りの電車はお互いに終始無言の二人だった。
行きは揚々、帰りは悲哀、楽しいはずのバカンスはなんとなく傷心の幕切れとなっていた。
夕映えの落日は海の向こうへと過ぎてゆく。
マリアは失ったものの本当の意味を再認識し、シズカは取り戻したと思っていたものに、実は
手が届いていなかったことを思い知らされた一日だった。
夏の夜の、ただじっとりとした不快な空気に包まれて、今夜は二人とも寝苦しい夜を越すこと
になるのであった。
最終更新:2010年04月13日 02:33