投稿日 2010/04/06(火)
八月は晴天が続いていた。
シズカの憂鬱は月に一度巡ってくる。より正確に言えばふたたび巡ってくるようになった、と
いうべきなのだが、彼女が若返って損をした唯一の点であった。
「はい、どうぞ奥様。お水です」
シズカはマリアの差し出すコップをひったくると、鎮痛剤のタブレットを一息に流し込んで、
そして大きく溜め息を吐いた。
「はぁ、まっ……たくやんなっちゃうわねぇ」
声にもいつもの迫力がこもらない。彼女はかなり「あの日」が重い方なのだ。虫の息の態で、
マリアにぼそりとこぼす。
「この日だけはあんたに若さを返してやりたいくらいよ」
右手でお腹をさすりながら、左手で胸を弄び、ちらりと老メイドに流し目を送る。
その言葉にびくん、と反応するマリア。胸が高鳴り、喉がこくりと鳴る。
「あ、あのう……それは」
「冗談よ」
けだるさを転嫁するようなシズカの仕打ちであった。
それでも、数時間するうちにシズカの腹痛もおさまり、なんとか普通の意地悪ができるくらい
に回復すると、またいつもながらの良からぬことを言い出すのであった。
「ん、マリア、ちょっと来なさい」
「はい、ただいま」
つかつかと歩み寄るマリアをさらにくいくい、っと手招きするシズカ。
ふえっ、とばかりに怪訝な顔を寄せるマリアに、おもむろに。
「えいっ!」
「痛っ、いたたたっ、ふわわあっ、奥様いったい何をなさるんですかぁ」
おもむろに、わしっとマリアのお腹を掴んで、シズカは目を細めた。
「……見苦しいわね」
「はぐうっ!」
マリアの顔に無数の縦線が奔る。古典的少女漫画手法の体現であった。
「お腹だけじゃないわ。その垂れ尻も、大根足も、見苦しい上に暑苦しいのよ。むさ苦しいまで
含めて三重苦なのよ、おわかり?」
ずがーん、とマリアの背景に稲光が閃く。これも使い古された手法であった。
「いくら年増女とはいってもあんたは三田村の家の使用人なの。そんなに見苦しくいられては家
格にかかわるのよ。なんとかなさい」
「ううっ、分かりました。なんとかします。してみせます」
涙目を拭って、マリアは健気に応答していた。さすがはメイドの鑑である。余計な口はいっさ
い叩かずに、命令を遂行することに努めるのであった。
かくして、やや不毛ながらもマリアのダイエット作戦は決行されたのである。ちなみに必要経
費は持ってやるというところあたりがシズカの優しさというか、いちいち悪に徹しきれないとこ
ろであった。
狭い自室に姿映しの大鏡を持ち込んだマリアはその前でエプロンドレスをするりと脱いで、下
着姿になっていた。
「まずは、現状把握……からです」
ぎしっ、と音を立てて体重計に乗ってみる。老化後でははじめての試みであった。
「ええ、と……うぐぅっ」
針はゆるやかに左右しながら六十三キロのところで静止していた。
「ううっ、そんな馬鹿なことってないよぉ。きっと何かの間違いです」
ひょい、と飛び降りてみると、たしかに針がマイナス四キロのところにズレていた。
「そうよ、だからおかしかったのよ。これを直せばいいの……よ」
大事なことに気付いてしまったマリアは、針をしっかりとゼロに合わせてもう一度、静かに体
重計に乗ってみて、そして天を仰いで苦悶に表情を歪めていた。
六十七キロという体重は、百五十七センチの彼女の身長に照らし合わせて考慮すれば、立派な
肥満であった。
「うううっ、たしかに体が重いとは思ってたけど、まさか二十五キロも肥ってただなんてぇ」
じっ、と鏡を見る。そこに映っているのは、たしかに体重相応の崩れた体型の年増女であった。
ショーツの上にでん、とのっかった腹肉も、どでん、とはみ出した尻肉も、威風堂々と年齢を主
張しており、シズカの言葉があながち間違っていないことを示していた。
さらに、詳しく述べると非常に嗜虐的になるのだが、法令線とマリオネット線がつながって「介」
の字に張り出した頬はブルドッグなどの犬種のそれに近い形相になりかけていたし、顎の下にも
みっちりと贅肉が張り付いていて、二の腕あたりも若い娘のふくらはぎあたりの太さがあって、
わき腹には豊かな谷間が二段にわたって形成されていた。
「うふふっ、でもぉ、これくらい肥ってる方が男の人には受けがいいって言うもんねぇん」
にっこりと笑ってしなを作り、鏡の前で前屈みに胸を寄せるポーズをとってみる。
「あはぁん、どうかしらぁん」
谷間は胸と腋以外にも多数形成されており、まさに動く人間山脈である。
「……しくしくしく」
最近、とことん自虐癖のついてきたマリアだった。マリアのMはマゾヒストのMだった。
「そうよ、これはきっと『四十キロ証文』とやらを奥様が隠し持っていて、それで私の事をDE
BUなHIMANJIにしてしまったに違いありません、ええ、そうですとも」
「……なわけあるかっ!」
後ろからすぱん、とハリセンで突っ込むシズカであった。
「ひゃっはあっ、おっ奥様、いつからそこに?」
「って、そんなすっとんきょうな声張り上げてりゃ、いやでも気が付くわよ」
自分が期待していた以上に凄惨な状況を目の当たりにしたシズカは、逆にかなりヒイていた。
「現実を直視なさい、マリア。あんたは『これ』なのよ、ほら、ジャンプしてごらん? たぷた
ぷ音がするわよ、きっと」
「い、いや恥ずかしいです、やめてください」
六十にも手が届きそうな大年増は、シズカにお腹の肉を揉みしだかれて恥じらいの声を上げて
いた。光景的にはかなり特殊嗜好向きだったかもしれない。
「あんた……ねえ、いくら年くってても女やめちゃいけないわよ。何よ、これ、こ・れ・は!」
シズカは、部屋の隅のくずかごの中に山となっていたチョコビスケットの包み紙を指して声を
上げていた。
「はうっ、で、でもお菓子は別腹ですし、ストレスの緩和にも役立って……」
マリアの一言で焼けぼっくいに火が付いたシズカ。
「憤怒ぅっ!」
「きゃあっ、いたいいたい」
今度は背中の肉までつねっていた。まさに背脂ちゃっちゃ状態である。
「何が別腹よ、このブタバラ女がっ、その曲がった根性叩き直してくれるわっ!」
ごうっ、と勢いを付けてシズカはまくしたてる。どう、どう、となだめるマリアは冷や汗もの
である。
「わ、わかりました。じゃあ明日から鋭意、がんばりますから……」
なだめつつ、それでも小卓の上に放置されていたチップスの残りを見つけたマリアは、無意識
にぱりん、と一枚かじっていた。
「わかってないじゃないかいっ!」
ぶちっ、とキレるシズカ。
その夜は、すぱんすぱんとハリセンが炸裂する音が何度も邸内に響いたという。
翌日の朝。屋敷の一室に急造で設えられたトレーニングコーナーにマリアとシズカは集合して
いた。二人で集合といっていいものか、どうかわからないが、とにかく集合していた。
シズカとマリアはレオタード姿であった。腕組みをしてマリアの前に仁王立ちしている妙齢の
美女のシズカが弾けるばかりに匂うほどの華麗な肉体の線を誇示しているのに対し、マリアは残
念ながら、はちきれるばかりに加齢な肉体を惜しげもなくさらしていた。
「それでは、マリアさん。まずは私を見てどう思いますか」
「はい、奥様。私はとても奥様のお体が美しいと思います」
「それでは羨ましいと思いますか?」
「はい、とても妬ましいと思っています」
率直なその言葉に、シズカはうんうんと首を縦にする。
「そうでしょうそうでしょう、でも、ローマは一日に成るものではありません。たゆまぬ努力が
あってこそ、私のような美しさというものは築かれるものなのです」
生理三日目で、ちょっと頑張っているシズカはとつとつと言葉を紡いでいく。
「しかるに、あなたのように惰性で生活を送っていれば無駄肉は蓄積し、やがて人間を歪めてし
まいます。それは、心も体も、です」
自分も十分自堕落な生活を送っているのに、とは口が裂けても言えない従順なマリアであった。
「いいですか、あなたは心まで肥満なのです。はい、言ってごらんなさい」
「はい、私は自制心のないメタボな中年女です」
「……そこのところを十分に理解して、今日から自分を律してプロポーション作りに励んでくだ
さい。以上です」
と、講釈が終わったところでトレーニング開始であった。もちろん、するのはマリアだけ。
「……ふえ?」
「当然です、しなければならないのはあなただけなのよ」
あまり着替えた意味がないシズカではあった。
まずは、柔軟からだった。
「あいたったった、痛いです痛いです」
「何言ってるのよ、まるで膝が曲がってるじゃないの」
前屈しても、指先さえも爪先どころか足首にも触れることのないマリアの背中を、シズカはぎゅ
うぎゅうと押さえつけていた。
「痛いですぅ、もう、それ以上はお腹がつっかえて、無理なんです」
涙目のマリアにようやくシズカの責めも緩む。
「まあ、いいわ。それじゃあ無理のないように自分で工夫してやってなさいね、私は午睡でもして
くるから」
ふいっ、と興味を無くして自室に戻ってしまうシズカだった。そして、マリアはぽつん、と一人
取り残されてしまった。
「まあ、いいもん。ひとりでがんばるもん」
ルームランナーを低速に設定して、ゆっくりと速歩で汗を流し始めるマリア。ふうふうと、息を
切らせながらも、ゆっくりとペースを守りつつ脂肪を燃焼させるべく、運動をはじめていた。
ひとたび、運動に集中してしまえば、余計な考え事などは霧消してしまうかとも思われたが、逆
に思考は迷宮に入ってしまう。
「だって、奥様だって、もともとは、太ってらっしゃったじゃ、ないですかっ」
マリアは、もともとの還暦過ぎのシズカの姿を覚えている。背丈の大きなことはたしかだったが
今のマリアとどっこいどっこいの肉付きで、さほど美麗な容姿というわけではなかったのである。
それが、いざ若返ってみればモデルさえも色あせるほどの美女であり、おまけに巨乳である。ち
らりとブラジャーのカップのタグを覗いたところ、「G」のサイズが印字されていたのである。年
金を受給できるほどの実年齢にして反則もいいところであった。
「誰だって、齢取れば、お腹だって、お尻だって、ムネだってぇ、弛んじゃうもんなんですっ」
そして、何よりもマリアを責めているものは、シズカの興味がだんだん彼女から失せてきていた
ことなのであった。粘着質な責めが、最近はだんだん影を潜めてきているのである。
虐める。もしくは偽悪を働くということは、その人物に対しての興味をもっているということで
愛憎の両面をその対象に向けて示しているということである。
それが冷めてきたということは、つまりマリアの老いとシズカの若さとが結びつきを弱めてきた
ということなのである。
「えいっ、えいっ」
グローブをはめてサンドバッグを叩こうとするが、足が萎えて震えてうまく叩けない。当たって
もぱちん、とかぺちん、とか情けない音を立てるばかりである。
「えいっ、このぉ、このぉ!」
当然、縄跳びなんぞがうまく運ぶはずがない。弾力のない胸が、ぺたんぺたん、と起伏するのが
関の山である。
今までは、シズカがいたからこそマリアはただの大年増ではなかった。シズカの美しさは自分が
あってこそのものだという自負もあったし、自分の衰えも、魔法による呪いなのだと、一種夢見心
地な客観視で乗り切ることができていたのである。むしろ、シズカに叱責されればされるほど、負
けまいとするエネルギーが湧いてきたのである。
ところが、そのシズカがマリアに対して興味を無くしてしまったのならば、どうだろう。いや、
実際に今までだったらこんなに面白いシチュエーションでシズカがマリアを虐めない道理はなかっ
たはずなのに。
「はあ、はあ、つ……っかれたあ」
エアロバイクに跨って、サドルに大きなお尻を食いこませたままで、シズカは突っ伏して鼻を鳴
らしていた。
「私……もう、頑張るの、疲れたよ」
じわっ、と涙に目を潤ませる。
「お母さん。ううっ、お母さん……お母さぁん」
今や、親子の繋がりは手紙によるところでしかなかった。シズカは、母親への配慮として、マリ
アの現状を伝えてはいなかった。ただ、彼女をこの屋敷の住み込みのメイドにしたことだけを事実
として伝えるにとどまっていたのである。また、医療費の補助に対しても、彼女が「特殊な症例」
であることから研究目的で病院側でその負担をしている、というように事実を曲げている。過ぎた
援助を匂わせることはしていなかったのである。
幸いにも、病状は予断を許さないまでも一応の安定をみている。これも、治療のレベルが引き上
げられたからであることに相違ないのだ。
負けまいという反発心は、敵があってこそのものである。その敵が憎むべきものでなかったなら
その敵が、愛するべきものであったのならば、どうだろうか。
責めるべきものが外になければ、次に責めるべきは自分自身であるということなのだ。ちょっと
だけ真面目な話をすると、他人をちゃんと攻撃できない人間は、自分からまず責めるようになるの
だ。正当な理由までもねじまげて、何もかも、自分で責任をひっかぶって。
心の中にあった堰を深い悲しみに決壊させてしまって、涙をこんこんと目から湧かせて。
とうとう、マリアは運命に完全に屈服してしまったのである。
と、その瞬間に、ごーん、と荘厳な和音を奏でて玄関の呼び出し鐘が鳴り響いていた。
はっ、と我に返ったマリアは袖で涙を拭うと玄関に駆け出して、
「ああ、こんなんじゃ駄目っ」
あわてて汗で張り付くレオタードを脱ぎ捨てて、いつものエプロンドレスに着替えると、転がる
ように玄関口へとつっかけていった。
「ふえっ、そんなお客さんだなんてこともないし、郵便屋さんかしら?」
急いだはずでも、二、三分は経っている。もしかしたらもう帰ってしまっているかも、漠然と考
えながら戸を開けた。ちなみに、三田村の旧邸にはドアホンは無い。
すると、そこに立っていたのは、
「ひっ、ひえええっ!」
雲を突くような大男だった。くたびれたジャケットを羽織った初老のその男の髪は雪のように白
く、酒気を帯びたように赤ら顔で、ひさしのように張り出した額の下の目は大きく四辺に分かたれ
て、ぎろり、と鋭い光を放っていた。
思わず、腰を抜かしてしまったマリアに向けて放たれたのは、男の低くくぐもった一言。
「……いや、物盗りじゃねえからよ」
別に怒っているわけでもないようだった。
きょろり、とマリアに目を凝らせてふん、と鼻を鳴らした。
「ど、ど、ど、どちら様でいらっしゃいますか?」
すると、鼻の頭をこりこりと掻きつつ、マリアの挙動を眺めながら、
「……ああ、まあ、なんだ、な。シズカの奴がいたのなら伝えてくれねえか」
そこで、いささかの溜めをみせて、
「お前のダンナが一年ぶりに会いに来たってな」
青く晴れ渡った空の彼方に、雷鳴の轟きが聞こえた、ような気がした。
最終更新:2010年04月13日 02:34