2008年(1月-6月)
6月
~~
中島さんがオグシオにこの4年間で教えたもっとも重要なことは、どんなに窮地に追い込まれてもそこから這い上がってくる精神力の強さ、たくましさだといいます。
~~
オグシオが悩殺コスチュームで北京に乗り込む。女子ダブルスの小椋久美子(24)潮田玲子(24=ともに三洋電機)組ら、バドミントンの五輪代表が22日都内で、五輪用の新ユニホームを着て会見を行った。女子用は従来よりもスカート丈が2~3センチも短く、日本代表史上最短となる、ひざ上約20センチのワンピースタイプのもの。私生活を含めても最短のスカート丈とあって、2人は終始恥ずかしそうにモジモジしていた。
大胆に足を露出したオグシオのミニスカート姿に、まばゆいばかりのフラッシュが飛び交った。スカートの下には、ユニホームと同じネービーブルー(濃紺)の短いスパッツをはいていた。それでも着席時は、常に両手でスカートを押さえていないと落ち着かないほどの短さだ。潮田は「恥ずかしい…。高校の制服は校則が厳しかったし、私生活でも短いスカートをはかないので」と、会見後の激励会には小椋とともにジャージーに着替えて出席した。
今回のユニホームの特徴は、従来より20%もの軽量化と、衣服内温度を約3度も低く保つことができる点だ。双方を可能にするため研究を重ねた結果、女子はスカート丈を短くする結論に至った。製作したヨネックスの担当者は「スカートが短いと動きが良くなる」と説明。通常は1着1万円以下だが、新ユニホームは3万円もするという。
92年バルセロナ大会で五輪正式競技に採用されて以降、バドミントン女子日本代表は上がTシャツ、下がスカートというスタイルが続いた。昨年から袖のないノースリーブタイプが採用されるなど、オグシオの登場以来、肌の露出が増えた。当初は濃紺ではなく白を提案されたが、「白だと透けてしまう」(潮田)という乙女心を考慮し、オレンジとの2パターンになった。ワンピースは今回が初だが、ヨネックスの担当者は「ワンピースはスタイルの良い選手が着ると、きれいでかっこいい」と、暗にオグシオ向きと解説した。
日本協会関係者は「(06年の)アジア大会はスパッツタイプで出たが、選手からも不評だった」と説明する。照れながらも小椋は「抵抗はあったけど、着てみたら着心地がいい」、潮田も「(胸元の)桜の花柄がかわいい」と、ひそかに気に入っている様子。露出度アップで、さらに注目度も上がることは確実だ。【高田文太】
~~
オグシオが語った『テレビCM(撮影裏側)』
日本代表選手を応援するAIU保険会社のテレビCM「がんばれ!ニッポン!プロジェクト」に出演しているオグシオ。CMで登場する一部映像(彼女たちの接近画像)について、潮田は「足の爪先が内出血で黒くなっているのは私です。練習中の激しい動きによるものですね。あと、瞳のアップ映像はオグッチ(小椋)で、その瞳に私が映っています(笑い)」と二人の役どころを楽しそうに説明する場面もあった。
小椋の復帰初戦で変化を見せた潮田
2カ月半の休養を経て小椋が復帰し、ペア再結成後に初めて臨んだのが17日に開幕したインドネシアオープンだった。すでに五輪出場権を獲得し、北京五輪に向けた調整段階にある二人ではあるが、結果は初戦敗退。小椋は腰の不安こそ払拭(ふっしょく)できたものの、試合勘が戻らずに自信がないまま臨んでいたという。「自分が何をしたいのか、どうすればよいのかも分からなかった。ただ頑張らなくてはという思いだけ。自信を持てないと本当にダメなのだと感じた。五輪の前に試合を行うことができて良かった。こういう試合が五輪で出てしまったら、絶対に悔いが残る」と、築き上げた自信を失いかけた敗戦を振り返った。
試合に負けた後、二人は宿舎の部屋で1時間ほど反省点などを話した。復帰直後で本調子ではなかった小椋は、当然のように「自分が足を引っ張って、コンビネーションが合わなかった」と考えていたが、潮田は「二人でやっているんだから、一人の調子が悪くても、もう一人がカバーすることができたはず」と、自分自身が責任を持つという姿勢を強く示したという。
相手を思いやる気持ちは、それまでももちろんあった。リハビリ中の小椋は、遠征中の潮田から送られてきたメールに「頑張って」という言葉がないことに気付き、「頑張ってと言われたら、どうしても焦ってしまうのを知っているからだと思っていたけれど、話してみたらやっぱりそうだった」と、古くは小学校時代から知るパートナーの心配りに感謝した。しかし、五輪まで残り数十日という状況下、小椋が感じ取ったのは優しさだけではなかった。「玲ちゃん(潮田)が引っ張っていこうとしてくれているのをすごく感じた」と話した。
~
九州国際大付高は、スペースワールドに近い山の斜面に位置する。校舎の周囲を一回りする780メートルのインターバル走は起伏が激しく、潮田が「今やれと言われてもできない」と言うほどハードだった。
練習後電車で1時間かけて福岡県苅田町の自宅に帰っていたため、夕食はいつも午後10時をすぎた。これでは、また太ってしまう。試合前1週間ほどは、明神の自宅兼寮に寝泊まりした。
1年夏のインターハイ。2連覇を目指した団体戦でチームは勝ち進むが、第1シングルスに抜てきされた潮田は負けてばかり。「迷惑をかけるから、私を使わないで」と訴えたが、明神は「お前は将来のエースなんだ」と起用し続け、決勝でようやく連覇に貢献してくれた。
努力が実を結んだのは1年後だった。2000年9月の全日本ジュニア選手権(愛知)シングルスで、2年の潮田は強豪を次々と破って初優勝。中学3年夏から2年ぶりの日本一に感極まり、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「あの優勝がなければ、オグッチと組むことはなかった。世界を目指すようになる転機だった」
当時、四天王寺高(大阪)2年だった小椋久美子(24)(三洋電機)とジュニアの国際大会でダブルスを組み始めたのも、この年から。のちに「オグシオ」の愛称で羽ばたく人気ペアの出発点だった。
5月
~
北京五輪に出場するバドミントン女子ダブルスの潮田玲子(三洋電機)と男子ダブルスの池田信太郎(日本ユニシス)が29日、北九州市民球場で行われた横浜―ソフトバンク戦で始球式を務めた。
2人の母校の九国大付高で開かれた五輪壮行会を終え、球場に駆けつけた。同校野球部のユニホーム姿の潮田が打席の池田に向けて投球すると、ボールはワンバウンドで捕手のもとへ。
潮田はバドミントンを始めた子供のころ、ラケットの振り方を「ボールを投げるように」と教わったという。「この球場には小さい時から来ていた。一生の思い出になります」と喜んでいた。
4月
~
五輪に向けて黄信号だ。小椋の腰は限界だった。「自分の中でも不安。今までのレベルに戻すには、リハビリを始めないと難しい」。腰椎(ようつい)ねんざは通称ぎっくり腰。今回、すでに3回目で、完全に癖になっている。
最初に起きたのは、2月の練習中だった。その時は、軽症で済んだが、3月のNTC合宿で再発。アジア選手権を欠場した。しかし、五輪レースのまっただ中で、完治にかける時間もなく、再発してしまった。
五輪本番まですでに100日を切っている。銭谷欽治強化本部長は「誤算です。これが五輪直前だったらやばかった。一時は自分で靴下さえ履けない状態だった」と明かした。ねんざから炎症を起こしており、痛みはまだ消えていない。
もともと腰痛持ちだった。アテネ五輪前に、左足の小指を疲労骨折しており、小指にはチタニウムのピンが入ったままだ。そのため、体のバランスが悪くなり、腰に負担がかかった。また、細かいことを気にしない小椋の性格もあだになった。少しのけがでも気にせず練習してしまう。その気力が、余計に悪化させた。
~
~
ポスターの標語は「安全へ確かなスマッシュ保守点検」で、小椋選手が試合中にスマッシュを打ち込む写真が使用されている。約14万枚を作製し、5月上旬に都道府県の消防本部や危険物を取り扱うガソリンスタンドや工場などの事業所に配布する。
~
3月
「オグッチは自分の意見をしっかりと持っていて、意志が強いが、視野が狭くなってしまう部分がある。私は視野が狭くならず、オグッチが考え込んでしまう時でも余裕が持てる。そこが性格の違いかな」
潮田はそう分析するが、時に小椋の「視野が狭くなる」のは、のめり込む情熱も人一倍だから。試合では潮田が前衛でゲームを作り、小椋はパワフルなスマッシュを打ち込む。小椋の熱さと潮田の冷静さ、その両面が必要なのだ。弱点を補い合い、2人が奏でる音色が美しいハーモニーとなれば、それだけ勝利は近づいてくる。
~
2月
~最後は1ポイント勝負で“オグ”対“シオ”のシングル対決が実現し、勝った小椋は「シングルスで小学生の時のリベンジができてよかった」と笑顔を振りまいていた。
1月
神のお告げはいかに? バドミントン女子ダブルスで07年世界選手権銅メダルの小椋久美子、潮田玲子組(ともに24=三洋電機)が6日、今年の初練習と初詣でを行った。東大阪市の石切神社で引いたおみくじでは、潮田が人生初の「凶」を引くアクシデント? もあったが、2人はめげない。DREAMS COME TRUEの楽曲「何度でも」を08年のテーマソングに決め、あきらめない心で北京へ向かう。
キョウ烈な「お告げ」に、潮田のほおが引きつった。毎年恒例となる約5キロのランニングの末、たどり着いた石切神社での初詣で。息を弾ませながら引いたおみくじには「凶」の1文字が…。「人生で初めて。びっくりした」。もしかして、メダルを目指す北京五輪の結果を暗示している? 小椋も「吉」を引き「中途半端…。反応しにくい」と絶句。2人は思わず顔を見合わせたが「悪いことは信じない」と、すぐに笑い飛ばした。
何があっても、くじけない。それが今年のモットーだ。五輪イヤーのテーマを聞かれた潮田は「何度でも」と答えた。ドリカムの歌からとったもので、歌詞にある「1万回だめで へとへとになっても 1万1回目は何か変わるかもしれない」というフレーズがお気に入りだ。
「中国勢に何回負けても『1回は勝てるかも』という気持ちでいく。勝てる時が五輪なら最高」。潮田の言葉に小椋もうなずいた。世界最強の中国勢はメダル獲得へ最大の壁になるが、めげない心で立ち向かう。
最終更新:2009年12月12日 23:28